改造社版『現代短歌全集』第十九卷「片山廣子集」版 日中 歌群
日中
はれやかに沓掛の町の屋根をみるこの川ほとり人なく明るし
しみじみとわれは見るなり朝の日の光さだまらぬ浮洲の夏ぐさ
風あらく大空のにごり澄みにけり山々にしろき卷雲をのこし
板屋根のふるび靜かなる町なかにただ一羽飛ぶつばめを見にけり
さびしさの大なる現はれの淺間山さやかなりけふの青ぞらのなかに
かげもなく白き路かな信濃なる追分のみちのわかれめに來つ
われら三人影もおとさぬ日中(につちう)に立つて清水のながれを見てをる
しづかにもまろ葉のみどり葉映るなり「これは山蕗」と同じことを言ふ
土橋を渡る土橋はゆらぐ草土手をおり來てみればのびろし畑は
さびしさに壓されて人は眼をあはすもろこしの葉のまひるのひかり
あかるすぎる野はらの空氣まなつ日の荒さをもちてせまりくるなり
日傘させどまはりに日あり足もとのほそながれを見つつ人の來るを待つ
日の照りのいちめんにおもし路のうへの馬糞にうごく青き蝶のむれ
四五本の樹のかげにある腰かけ場ことしも來たり腰かけてみる
しろじろとうら葉のひかる々ありて山すその風に吹かれたるかな
われわれも牧場のけものらとおあなじやうに靜かになりて風に吹かれつつ
おのおのは言ふことなくて眺めたり村のなかよりひるの鐘鳴る
友だちら別れむとして草なかのひるがほの花みつけたるかな
をとこたち煙草のけむりを吹きにけりいつの代とわかぬ山里のまひるま
[やぶちゃん注:以上は、初出である改造社版『現代短歌全集』第十九卷「片山廣子集」より、直接引用した。片山廣子の親友であり、故芥川龍之介の弟子であった堀辰雄は、大正14(1925)年の夏を輕井澤で過したが、その際、義父上條松吉に宛てた書簡類があり、それを後年、堀辰雄自身が整理して「父への手紙」として整理した際のメモが遺されている。そこにはこれらの歌群を指すと思われる『○片山廣子「日中」』という柱の下、『夏の末、片山夫人令孃、芥川さんと一緒にドライブした折の作』という記載がある。これは現在の芥川龍之介の年譜的知見によれば、同年八月下旬二三日~二七日頃の出來事である。廣子四七歳、芥川龍之介三三歳であった。「野に住みて」版の「日中」との比較は、私のこのブログ記載分を別ウィンドウで開いて見るのが手っ取り早いと思われる。先日来、感じていたことだが、この最後の一首、堀辰雄の「浄瑠璃寺の春」の、私の愛してやまない、あの名文、
その夕がたのことである。その日、浄瑠璃寺から奈良坂を越えて帰ってきた僕たちは、そのまま東大寺の裏手に出て、三月堂をおとずれたのち、さんざん歩き疲れた足をひきずりながら、それでもせっかく此処まで来ているのだからと、春日の森のなかを馬酔木の咲いているほうへほうへと歩いて往ってみた。夕じめりのした森のなかには、その花のかすかな香りがどことなく漂って、ふいにそれを嗅いだりすると、なんだか身のしまるような気のするほどだった。だが、もうすっかり疲れ切っていた僕たちはそれにもだんだん刺戟が感ぜられないようになりだしていた。そうして、こんな夕がた、その白い花のさいた間をなんということもなしにこうして歩いて見るのをこんどの旅の愉しみにして来たことさえ、すこしももう考えようともしなくなっているほど、――少くとも、僕の心は疲れた身体とともにぼおっとしてしまっていた。
突然、妻がいった。
「なんだか、ここの馬酔木と、浄瑠璃寺にあったのとは、すこしちがうんじゃない? ここのは、こんなに真っ白だけれど、あそこのはもっと房が大きくて、うっすらと紅味を帯びていたわ。……」
「そうかなあ。僕にはおんなじにしか見えないが……」僕はすこし面倒くさそうに、妻が手ぐりよせているその一枝へ目をやっていたが、「そういえば、すこうし……」
そう言いかけながら、僕はそのときふいと、ひどく疲れて何もかもが妙にぼおっとしている心のうちに、きょうの昼つかた、浄瑠璃寺の小さな門のそばでしばらく妻と二人でその白い小さな花を手にとりあって見ていた自分たちの旅すがたを、何んだかそれがずっと昔の日の自分たちのことででもあるかのような、妙ななつかしさでもって、鮮やかに、蘇らせ出していた。
にインスパイアされているような気がしてならないのである。]