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2009/05/18

上海游記 二 第一瞥(上)

       二 第一瞥(上)

 埠頭の外へ出たと思ふと、何十人とも知れない車屋が、いきなり我我を包圍した。我我とは社の村田君、友住(ともすみ)君、國際通信社のジヨオンズ君並に私の四人である。抑(そもそも)車屋なる言葉が、日本人に與へる映像は、決して薄ぎたないものぢやない。寧ろその勢の好い所は、何處か江戸前な心もちを起させる位なものである。處が支那の車屋となると、不潔それ自身と云つても誇張ぢやない。その上ざつと見渡した所、どれも皆怪しげな人相をしてゐる。それが前後左右べた一面に、いろいろな首をさし伸しては、大聲に何か喚き立てるのだから、上陸したての日本婦人なぞは、少からず不氣味に感ずるらしい。現に私なぞも彼等の一人に、外套の袖を引つ張られた時には、思はず背の高いジヨオンズ君の後へ、退却しかかつた位である。

 我我はこの車屋の包圍を切り拔けてから、やつと馬車の上の客になつた。が、その馬車も動き出したと思ふと、忽ち馬が無鐵砲に、町角の煉瓦塀と衝突してしまつた。若い支那人の駁者は腹立たしさうに、ぴしぴし馬を毆りつける。馬は煉瓦塀に鼻をつけた儘、無暗に尻ばかり躍らせてゐる。馬車は無論轉覆しさうになる。往來にはすぐに人だかりが出來る。どうも上海では死を決しないと、うつかり馬車へも乘れないらしい。

 その内に又馬車が動き出すと、鐵橋の架つた川の側へ出た。川には支那の達磨船が、水も見えない程群つてゐる。川の縁には緑色の電車が、滑らかに動いてゐる。建物(たてもの)はどちらを眺めても、赤煉瓦の三階(がい)か四階である。アスフアルトの大道(だいだう)には、西洋人や支那人が氣忙(きぜは)しさうに歩いてゐる。が、その世界的な群衆は、赤いタバアンをまきつけた印度人の巡査が相圖をすると、ちやんと馬車の路を讓つてくれる。交通整理の行き屆いてゐる事は、いくら贔屓眼に見た所が、到底東京や大阪なぞの日本の都合の及ぶ所ぢやない。車屋や馬車の勇猛なのに、聊(いささか)恐れをなしてゐた私は、かう云ふ晴れ晴れした景色を見てゐる内に、だんだん愉快な心もちになつた。

 やがて馬車が止まつたのは、昔金玉均が暗殺された、東亞洋行と云ふホテルの前である。さきに下りた村田君が、馭者に何文だか錢(ぜに)をやつた。が、馭者はそれでは不足だと見えて、容易に出した手を引つこめない。のみならず口角泡を飛ばして、頻(しきり)に何かまくし立ててゐる。しかし村田君は知らん顏をして、ずんずん玄關へ上つて行く。ジヨオンズ友住の兩君も、やはり馭者の雄辯なぞは、一向問題にもしてゐないらしい。私はちよいとこの支那人に、氣の毒なやうな心もちがした。が、多分これが上海では、流行なのだらうと思つたから、さつさと跡について戸の中へはいつた。その時もう一度振返つて見ると、馭者はもう何事なかつたやうに、恬然と馭者臺に坐つてゐる。その位なら、あんなに騷がなければ好(よ)いのに。

 我我はすぐに薄暗い、その癖裝飾はけばけばしい、妙な應接室へ案内された。成程これぢや金玉均でなくても、いつ何時どんな窓の外から、ビストルの丸(たま)位は食はされるかも知れない。――そんな事を内内考へてゐると、其處へ勇ましい洋服着の主人が、スリツパアを鳴らしながら、氣忙しさうにはいつて來た。何でも村田君の話によると、このホテルを私の宿にしたのは、大阪の社の澤村君の考案によつたものださうである。處がこの精悍な主人は、芥川龍之介には宿を貸しても、萬一暗殺された所が、得にはならないとでも思つたものか、玄關の前の部屋の外には、生憎明き間はごわせんと云ふ。それからその部屋へ行つて見ると、ベツドだけは何故か二つもあるが、壁が煤けてゐて、窓掛(まどかけ)が古びてゐて、椅子さへ滿足なのは一つもなくて、――要するに金玉均の幽靈でなければ、安住出來る樣な明き間ぢやない。そこで私はやむを得ず、澤村君の厚意は無になるが、外の三君とも相談の上、此處から餘り遠くない萬歳館へ移る事にした。

[やぶちゃん注:芥川は3月30日の午後、上海に到着している。以降、上海を拠点に、杭州(5月5日~5月8日)や、蘇州から鎮江・揚州を経て南京への旅(5月8日~5月14日)をし、5月16日に上海に別れを告げ、長江を遡り、漢口へと向かっている。上海は延べ一箇月強の滞在であるが、実は「五」で語るように、その殆んどが(4月1日~4月23日迄の約三週間)乾性肋膜炎による入院生活であった。但し、入院の後半にはカフェや本屋への外出は許されていたようである。

・「村田君」は村田孜郎(むらたしろう ?~昭和201945)年)。大阪毎日新聞社記者で、当時は上海支局長。中国滞在中の芥川の世話役であった。烏江と号し、演劇関係に造詣が深く、大正8(1919)年刊の「支那劇と梅蘭芳」や「宋美齢」などの著作がある。後に東京日日新聞東亜課長・読売新聞東亜部長を歴任、上海で客死した。

・「友住君」は、筑摩書房全集類聚版脚注によれば、村田孜郎と同じく大阪毎日新聞社記者。やはり中国在留社員である。次の「ジョオンズ」も含め、彼ら三名は皆、芥川龍之介を出迎えた人々であって、日本からの同行者ではない。

・「國際通信社のジヨオンズ」は、Thomas Jones18901923)。岩波版新全集書簡に附録する関口安義らによる人名解説索引等によれば、芥川龍之介の参加した第4次『新思潮』同人らと親密な関係にあったアイルランド人。1915年に来日し、大蔵商業(現・東京経済大)で英語を教えた。芥川との親密な交流は年譜等でも頻繁に記されている。後にロイター通信社社員となった彼は、当時、同通信社の上海特派員となっていた(芥川も並んだその折の大正8(1919)年9月24日に鶯谷の料亭伊香保で行われた送別会の写真はよく知られる)。この出逢いが最後となり、ジョーンズは天然痘に罹患、上海で客死した。芥川龍之介が『新潮』に昭和2(1927)年1月に発表した「彼 第二」はジョーンズへのオードである。

・「金玉均」はキム・オッキュン(18511894)。ウィキの「金玉均」の記載に依ると、朝鮮李朝時代後期の開明派の政治家。1882年に半年間日本に遊学、福澤諭吉の薫陶を受ける。朝鮮の清朝からの独立を目指し、18844月に帰国、12月に支配拡大を意図した日本の協力のもとに閔(ミン)氏政権打倒クーデターである甲申事変を起こすが失敗、日本に亡命後、上海に渡る。1894年3月、閔妃(ミンビ)の刺客洪鐘宇(ホン・ジョンウ)にピストルで銃撃され死去した。遺体は清政府により朝鮮に搬送、そこで身体を切り刻む凌遅刑に処された上、胴は川に捨てられ、寸断された首・片手及片足・手足がそれぞれ各地に見せしめとして晒されたという。

・「東亞洋行と云ふホテル」筑摩書房全集類聚版脚注によれば、『上海北四川路にあった日本人経営の旅館。』とある。

・「大阪の社の澤村君」は、澤村幸夫。大阪毎日新聞社本社社員。戦前の中国・上海関連の民俗学的な複数の著作に同名の作者が居り、同一人物と思われる。彼はまたゾルゲ事件の尾崎秀実とも親しかった。更に芥川龍之介の遺稿「人を殺したかしら?――或畫家の話――」のエピソード(左記の私の電子テクスト冒頭注参照)に現れる「沢村幸夫」なる大阪毎日新聞社記者とも同一人物と思われ、実は、なかなかに謎めいた人物ではある。

・「萬歳館」筑摩書房全集類聚版脚注によれば、『上海西華徳路にあった日本人むけの旅館。』とある。]

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