シャーマンと沈黙の行――卑弥呼とルブリョフ 廣子の歌
どちらも僕の片山廣子『野に住みて』の「琴線抄」には採っていないが、タイプするとまた、感じ方が違うものだ。どうもどちらも気になる歌である。
一族の年長者よとわれを思ひ眠りに入りしひとびとを呼ぶ
これは恐らく敗戦直前に病死した長男達吉の七回忌法要、昭和26(1951)年3月の歌と思われる。一種呪術的である。ここにいるのは、まさに古代の巫女である。族長としてのシャーマン、廣子は歌なるものの原初へと確かに回帰している。卑弥呼のように――
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としつきを默して過ぎしまづしさよなづみ果てては誇りともなる
「なづむ」は第一義的には「悩み苦しむ」の意味で用いられていようが、更に派生的な「執着する」「こだわる」「打ち込む」の意をも示していよう。廣子は戦前・戦中・戦後を通して自分が黙って過ぎてきたことを深く自省しつつ、そこにしかし「黙る」という覚悟の中で確かに廣子として生きてきたことの人生の矜持を示しているのだと私は読む。ルブリョフのように――
芸術家の戦争責任を追求することが偉大な文学研究だと思い込み、詩人の熱い魂だなんどと勘違いしている有象無象の馬鹿どもに、この歌の切れ端を額に貼り付けてやりたい気がする。