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2009/05/30

上海游記 八 城内(下)

       八 城内(下)

 今更云ふまでもない事だが、鬼狐の談に富んだ支那の小説では、城隍を始め下(した)廻りの判官や鬼隷(きれい)も暇ぢやない。城隍が廡下(ぶか)に一夜を明かした書生の運勢を開いてやると、判官は町中を荒し廻つた泥坊を驚死(きやうし)させてしまふ。――と云ふと好(よ)い事ばかりのやうだが、狗(いぬ)の肉さへ供物にすれば、惡人の味方もすると云ふ、賊城隍がある位だから、人間の女房を追ひ廻した報いに、肘を折られたり頭を落されたり、天下に赤恥を廣告する判官や鬼隷も少くない。それが本だけ讀んだのでは、何だか得心の出來ない所がある。つまり筋だけは呑みこめても、その割に感じがぴつたり來ない。其處が齒痒い氣がしたものだが、今この城隍廟を目のあたりに見ると、如何に支那の小説が、荒唐無稽に出來上がつてゐても、その想像の生れた因縁は、一一成程と頷かれる。いやあんな赤つ面の判官では、惡少(あくせう)の眞似位はするかも知れない。あんな美髯の城隍なら、堂堂たる儀衛(ぎゑい)に圍まれた儘、夜空に昇るのも似合ひさうである。

 こんな事を考へた後、私は又四十起氏と一しよに、廟の前へ店を出した、いろいろな露店を見物した。靴足袋、玩具(おもちや)、甘庶の莖(くき)、貝釦(かひボタン)、手巾(ハンカチ)、南京豆、――その外まだ薄穢い食物店が澤山ある。勿論此處の人の出は、日本の縁日と變りはない。向うには派手な縞の背廣に、紫水晶(むらさきすゐしやう)のネクタイ・ビンをした、支那人のハイカラが歩いてゐる。と思ふと又こちらには、手首に銀の環を嵌めた、纏足(てんそく)の靴が二三寸しかない、舊式なお上さんも歩いてゐる。金瓶梅の陳敬濟(ちんけいせい)、品花寶鑑(ひんくわはうかん)の谿十一(けいじふいち)、――これだけ人の多い中には、さう云ふ豪傑もゐさうである。しかし杜甫だとか、岳飛だとか、王陽明だとか、諸葛亮だとかは、藥にしたくもゐさうぢやない。言ひ換へれば現代の支那なるものは、詩文にあるやうな支那ぢやない。猥褻な、殘酷な、食意地の張つた、小説にあるやうな支那である。瀬戸物の亭(ちん)だの、睡蓮だの、刺繍の鳥だのを有難がつた、安物のモツク・オリエンタリズムは、西洋でも追ひ追ひ流行らなくなつた。文章軌範や唐詩選の外に、支那あるを知らない漢學趣味は、日本でも好い加減に消滅するが好い。

 それから我我は引き返して、さつきの池の側にある、大きな茶館を通り拔けた。伽藍のやうな茶館の中には、思ひの外客が立て込んでゐない。が、其處へはいるや否や、雲雀、目白、文鳥、鸚哥(いんこ)、――ありとあらゆる小鳥の聲が、目に見えない驟雨(しうう)か何かのやうに、一度に私の耳を襲つた。見れば薄暗い天井の梁には、一面に鳥籠がぶら下つてゐる。支那人が小鳥を愛する事は、今になつて知つた次第ぢやない。が、こんなに鳥籠を並べて、こんなに鳥の聲を鬪はせようとは、夢にも考へなかつた事實である。これでは鳥の聲を愛する所か、まづ鼓膜が破れないように、匆匆兩耳を塞がざるを得ない。私は殆(ほとんど)逃げるやうに、四十起氏を促し立てながら、この金切聲に充滿した、恐るべき茶館を飛び出した。

 しかし小鳥の啼き聲は、茶館の中にばかりある訣ぢやない。やつとその外へ脱出しても、狹い往來の右左に、ずらりと懸け並べた鳥籠からは、しつきりない囀りが降りかかつて來る。尤もこれは閑人(ひまじん)どもが、道樂に啼かせてゐるのぢやない。いづれも専門の小鳥屋が、(實を云ふと小鳥屋か、それとも又鳥籠屋だか、どちらだか未だに判然しない。)店を連ねてゐるのである。

 「少し待つて下さい。鳥を一つ買つて來ますから。」

 四十起氏は私にさう云つてから、その店の一つにはいつて行つた。其處をちよいと通りすぎた所に、ペンキ塗りの寫眞屋が一軒ある。私は四十起氏を待つ問、その飾り窓の正面にある、梅蘭芳(メイランフアン)の寫眞を眺めてゐた。四十起氏の歸りを待つてゐる子供たちの事なぞを考へながら。

[やぶちゃん注:

・「鬼隷」は、冥界に於ける下僕の鬼神の意。

・「廡下」の「廡」は家屋の庇・軒の意。軒下(のきした)。

・「惡少」不良少年。

・「儀衛」儀杖を持った近衛兵。

・「金瓶梅の陳敬濟」「金瓶梅」は中国四大奇書の一、明代万暦年間(15731620)に成立したと思われる長編ポルノ小説。著者は蘭陵笑笑生(生没年・人物徒ともに不詳)。芥川は一高時代から愛読した。「陳敬濟」は「金瓶梅」の主人公西門慶の娘婿(養子)。お坊ちゃんの道楽者で、ヒロイン潘金蓮の女中龐春梅(ほうしゅんばい)と不倫関係を持つが、最後には落魄れて殺されてしまう。

・「品花寶鑑の谿十一」「品花寶鑑」は清代の陳森の手になる男色小説。士大夫階級の青年怜旦(京劇の女形を演じる男優を言う語)や相公(男娼)の交流を描き、男色の哲学を讃美する体のもの。狭邪小説(妓楼・妓女・芸能者を主人公とするもの)のはしりとされる。「谿十一」はその京劇『俳優の裏面をモデルとして書いた』『そのモデルの一人』(以上両引用は筑摩版脚注)であり、『財力と権力によって少年役者を買いあさる遊蕩』(新全集注解)の少年、と記す。

・「瀬戸物の亭」陶器で出来た四阿(あずまや)のミニチュア。飾りにする。

・「モツク・オリエンタリズム」“mock”は模造品・まがいものの意(語源は中世フランス語の“mocquer”で原義は「鼻をかむ」、比喩化して「あざける」から「嘲笑」「笑いもの」へと発展)であるから、「まがいものの東洋主義」。

・「梅蘭芳(メイランフアン)」méi lánfāng(メイ・ランファン 本名梅瀾méi lán 18941961)は清末から中華民国・中華人民共和国を生きた著名な京劇の女形。名女形を言う「四大名旦」の一人(他は程硯秋・尚小雲・荀慧生)。ウィキの「梅蘭芳」によれば、『日本の歌舞伎に近代演劇の技法が導入されていることに触発され、京劇の近代化を推進。「梅派」を創始した。20世紀前半、京劇の海外公演(公演地は日本、アメリカ、ソ連)を相次いで成功させ、世界的な名声を博した(彼の名は日本人のあいだでも大正時代から「メイランファン」という中国語の原音で知られていた。大正・昭和期の中国の人名としては希有の例外である)。日中戦争の間は、一貫して抗日の立場を貫いたと言われ、日本軍の占領下では女形を演じない意思表示としてヒゲを生やしていた。戦後、舞台に復帰。東西冷戦時代の1956年、周恩来の指示により訪日京劇団の団長となり、まだ国交のなかった日本で京劇公演を成功させた。1959年、中国共産党に入党。1961年、心臓病で死去。』とある。最初の訪日は大正7(1918)年。芥川の「侏儒の言葉」には、

      「虹霓關」を見て

 男の女を獵するのではない。女の男を獵するのである。――シヨウは「人と超人と」の中にこの事實を戲曲化した。しかしこれを戲曲化したものは必しもシヨウにはじまるのではない。わたくしは梅蘭芳の「虹霓關」を見、支那にも既にこの事實に注目した戲曲家のあるのを知つた。のみならず「戲考」は「虹霓關」の外にも、女の男を捉へるのに孫呉の兵機と劍戟とを用ゐた幾多の物語を傳へてゐる。

 「董家山」の女主人公金蓮、「轅門斬子」の女主人公桂英、「雙鎖山」の女主人公金定等は悉かう言ふ女傑である。更に「馬上縁」の女主人公梨花を見れば彼女の愛する少年將軍を馬上に俘にするばかりではない。彼の妻にすまぬと言ふのを無理に結婚してしまふのである。胡適氏はわたしにかう言つた。――「わたしは『四進士』を除きさへすれば、全京劇の價値を否定したい。」しかし是等の京劇は少くとも甚だ哲學的である。哲學者胡適氏はこの價値の前に多少氏の雷霆の怒を和げる訣には行かないであらうか?

とある。ここで芥川が言う京劇の女傑は、一般には武旦若しくは刀馬旦と呼ばれる。これら二つは同じという記載もあるが、武旦の方が立ち回りが激しく、刀馬旦は馬上に刀を振るって戦う女性を演じるもので歌唱と踊りを主とするという中国国際放送局記載(邦文)を採る。そこでは以下に登場する穆桂英(ぼくけいえい)や樊梨花(はんりか)は刀馬旦の代表的な役としている。以下に簡単な語注を附す(なお京劇の梗概については思いの外、ネット上での記載が少なく、私の守備範囲外であるため、岩波版新全集の山田俊治氏の注解に多くを依った。その都度、明示はしたが、ここに謝す)。

○「人と超人と」は“Man and superman”「人と超人」で、バーナード・ショー(George Bernard Shaw 1856 1950)が1903年に書いた四幕の喜劇。モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」をモチーフとする。市川又彦訳の岩波書店目録に附されたコピーには『宇宙の生の力に駆られる女性アンは、許婚の詩人ロビンスンを捨て、『革命家必携』を書いた精力的な男タナーを追いつめ、ついに結婚することになる』と記す。岩波版新全集の山田俊治氏の注解では、『女を猟師、男を獲物として能動的な女を描いた』ともある。

○「虹霓關」「こうげいかん」と読む。隨末のこと、虹霓関の守備大将であった東方氏が反乱軍に殺される。東方夫人が夫の仇きとして探し当てた相手は、自分の幼馴染みで腕の立つ美男子王伯党であった。東方夫人は戦いながらも「私の夫になれば、あなたを殺さない」と誘惑する。伯党は断り続けるが、夫人は色仕掛けで無理矢理、自分の山荘の寝室に連れ込み、伯党と契りを結ぼうとする。観客にはうまくいったかに思わせておいて、最後に東方夫人は王伯党に殺されるというストーリーらしい(私は管見したことがないので、複数のネット記載を参考に纏めた)。岩波版新全集の山田俊治氏の注解によると、『一九二四年一〇月、梅蘭芳の第二回公演で演じられた。』とし、芥川が観劇したのが梅蘭芳の大正8(1919)年の初来日の折でないことは、『久米正雄「麗人梅蘭芳」(「東京日日」一九年五月一五日)によってわかる』とある。しかし、この注、久米正雄「麗人梅蘭芳」によって初来日では「虹霓関」が演目になかったから、という意味なのか、それともその記載の中に芥川が初来日を見損なったことが友人久米の手で書かれてでもいるという意味なのか、どうも私が馬鹿なのか、意味が分らない。

○「孫呉」孫武と呉起の併称。孫武は兵法書「孫子」の著者で、春秋時代の兵家、孫子のこと。呉起(?~B.C.381)は兵法書「呉子」の著者で、戦国時代の軍人・政治家。孫武とその子孫である孫臏と並んで兵家の祖とされ、兵法は別名孫呉の術とも呼ばれる。

○「兵機」は戦略・戦術の意。
 
○『「戲考」』「十 戲臺(下)」にも現れるこれは、王大錯の編になる全40冊からなる膨大な脚本集(19151925刊)で、梗概と論評を附して京劇を中心に凡そ六百本を収載する。

○「董家山」岩波版新全集の山田俊治氏の注解によると、『金蓮は、容姿、武勇ともに傑れた女傑。領主である父の死後、家臣と山に籠り山賊となり、一少年を捕虜とする。彼を愛して結婚を強要、その後旧知の間柄とわかり結ばれる』というストーリー。

○「轅門斬子」は「えんもんざんし」と読む。別名「白虎帳」。野村伸一氏の論文「四平戯――福建省政和県の張姓宗族と祭祀芸能――」(PDFファイルでダウンロード可能)によると、『宋と遼の争いのなか、楊延昭は息子の楊六郎(宗保)を出陣させる。ところが、敵の女将軍穆桂英により敗戦を強いられ、楊宗保は宋の陣営に戻る。しかし、父の楊延昭は息子六郎が敵将と通じるという軍律違反を犯したことを理由に、轅門(役所の門)において、息子を斬罪に処するように指示する。/そこに穆桂英が現れる。そして楊延昭の部下を力でねじ伏せ、楊六郎を救出する。こののち女将軍穆桂英と武将孟良の立ち回りが舞台一杯に演じられる。』(改行は「/」で示し、写真図版への注記を省略、読点を変更した)とあり、岩波版新全集の山田俊治氏の注解では、宋代の物語で、穆桂英は楊宗保を夫とし、楊延昭を『説得して、その軍勢に入って活躍する話』とする。題名からは、前段の轅門での息子楊宗保斬罪の場がないとおかしいので、野村氏の平戯の荒筋と京劇は同内容と思われる。

○「雙鎖山」岩波版新全集の山田俊治氏の注解によると、『宋代の物語。女賊劉金定は若い武将高俊保へ詩をもって求婚、拒絶されて彼と戦い、巫術を使って虜にし、山中で結婚する』とある。

○「馬上縁」明治大学法学部の加藤徹氏のHP「芥川龍之介が見た京劇」によれば、唐の太宗の側近であった武将薛仁貴(せつじんき)の息子薛丁山が父とともに戦さに赴くも、敵将の娘の女傑樊梨花に一目惚れされてしまい、無理矢理夫にされてしまう、とある。岩波版新全集の山田俊治氏の注解によると、二人は前世の因縁で結ばれており、梨花はやはり仙術を以って丁山と結婚を遂げるとある。

○「胡適」は「こせき」(又は「こてき」とも)Hú Shì18911962)。中華民国の学者・思想家・外交官。自ら改めた名は「適者生存」に由来するという。清末の1910年、アメリカのコーネル大学で農学を修め、次いでコロンビア大学で哲学者デューイに師事した。「六 域内(上)」の「白話詩の流行」の注でも記したが、1917年には民主主義革命をリードしていた陳独秀の依頼により、雑誌『新青年』に「文学改良芻議」をアメリカから寄稿、難解な文語文を廃し口語文にもとづく白話文学を提唱し、文学革命の口火を切った。その後、北京大学教授となるが、1919年に『新青年』の左傾化に伴い、社会主義を空論として批判、グループを離れた後は歴史・思想・文学の伝統に回帰した研究生活に入った。昭和6(1931)年の満州事変では翌年に日本の侵略を非難、蒋介石政権下の1938年には駐米大使となった。1942年に帰国して1946年には北京大学学長に就任したが、1949年の中国共産党国共内戦の勝利と共にアメリカに亡命した。後、1958年以降は台湾に移り住み、中華民国外交部顧問や最高学術機関である中央研究院院長を歴任した(以上の事蹟はウィキの「胡適」を参照した)。芥川龍之介はこの中国旅行の途次、北京滞在中に胡適と会談している(芥川龍之介「新芸術家の眼に映じた支那の印象」にその旨の記載がある)。

○「四進士」恐らく4人の登場人物の数奇な運命を描く京劇。岩波版新全集の山田俊治氏の注解によると、『明代の物語で、楊素貞が夫の死後身売りされ、商人と結ばれ、彼女を陥れた悪人を懲す話』で、外題にある四人の同期に科挙に登第した進士は、一人を除いて悪の道に入ってしまうといった『複雑な筋に比して、正邪が明確で、情節共に面白く、旧劇中の白眉と胡適が推称した』と記す。]

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