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2009/05/27

上海游記 六 城内(上)

      六 城内(上)

 上海の城内を一見したのは、俳人四十起氏の案内だつた。
 薄暗い雨もよひの午後である。二人を乘せた馬車は一散に、賑かな通りを走つて行つた。朱泥のやうな丸燒きの鷄が、べた一面に下つた店がある。種種雜多の吊洋燈(つりラムプ)が、無氣味な程並んだ店がある。精巧な銀器が鮮かに光つた、裕福さうな銀樓もあれば、太白の遺風の招牌(せうはい)が古びた、貧乏らしい酒樓もある。――そんな支那の店構へを面白がつて見てゐる内に、馬車は廣い往來へ出ると、急に速力を緩めながら、その向うに見える横町へはいつた。何でも四十起氏の話によると、以前はこの廣い往來に、城壁が聳えてゐたのださうである。
 馬車を下りた我我は、すぐに又細い横町へ曲つた。これは横町と云ふよりも、露路と云つた方が適當かも知れない。その狹い路の兩側には、麻雀の道具を賣る店だの、紫檀の道具を賣る店だのが、ぎつしり軒を並べてゐる。その又せせこましい軒先には、無暗に招牌がぶら下つてゐるから、空の色を見るのも困難である。其處へ人通りが非常に多い。うつかり店先に並べ立てた安物の印材でも覗いてゐると、忽ち誰かにぶつかつてしまふ。しかもその目まぐるしい通行人は、大抵支那の平民である。私は四十起氏の跡につきながら、滅多に側眼(わきめ)もふらない程、恐る恐る敷石を踏んで行つた。
 その露路を向うへつき當ると、時に聞き及んだ湖心亭が見えた。湖心亭と云へば立派らしいが、實は今にも壞れ兼ねない、荒廢を極めた茶館である。その上亭外の池を見ても、まつ蒼な水どろが浮んでゐるから、水の色などは殆見えない。池のまはりには石を疊んだ、これも怪しげな欄干がある。我我が丁度其虞へ來た時、淺葱木綿の服を着た、辮子(ベンツ)の長い支那人が一人、――ちよいとこの間に書き添へるが、菊池寛の説によると、私は度度小説の中に、後架とか何とか云ふやうな、下等な言葉を使ふさうである。さうしてこれは句作なぞするから、自然と蕪村の馬の糞や芭蕉の馬の尿(しと)の感化を受けてしまつたのださうである。私は勿論菊池の説に、耳を傾けない心算(つもり)ぢやない。しかし支那の紀行となると、場所その物が下等なのだから、時時は禮節も破らなければ、溌溂たる描写は不可能である。もし嘘だと思つたら、試みに誰でも書いて見るが好い。――そこで又元へ立ち戻ると、その一人の支那人は、悠悠と池へ小便をしてゐた。陳樹藩(ちんじゆはん)が叛旗を飜さうが、白話詩の流行が下火にならうが、日英同盟が持ち上らうが、そんな事は全然この男には、問題にならないのに相違ない。少くともこの男の態度や顏には、さうとしか思はれない長閑(のどか)さがあつた。曇天にそば立つた支那風の亭と、病的な緑色を擴げた池と、その池へ斜めに注がれた、隆隆たる一條の小便と、――これは憂鬱愛すべき風景畫たるばかりぢやない。同時に又わが老大國の、辛辣恐るべき象徴である。私はこの支那人の姿に、しみじみと少時(しばらく)眺め入つた。が、生恰四十起氏には、これも感慨に價する程、珍しい景色ぢやなかつたと見える。
 「御覽なさい。この敷石に流れてゐるのも、こいつはみんな小便ですぜ。」
 四十起氏は苦笑を洩した儘、さつさと池の縁を曲つて行つた。さう云へば成程客氣の中にも、重苦しい尿臭が漂つてゐる。この尿臭を感ずるが早いか、魔術は忽ちに破れてしまつた。湖心亭は畢に湖心亭であり、小便は畢(つひ)に小便である。私は靴を爪立(つまだ)てながら、匆匆(そうそう)四十起氏の跡を追つた。出たらめな詠歎なぞに耽るものぢやない。

[やぶちゃん注:現在の中華路と光啓南路の交差点から北が、旧上海城内に当たる。長い歴史の中で戦乱の多かった中国では城郭都市が多いが、特に海辺部にあった上海は倭寇の襲撃に悩まされた。1533年にこの現在の市街の東北部に周囲5㎞弱、高さ約8mの城壁が築かれた。城壁は1912年に取り壊され、その跡が今の人民路・中華路になっている。岩波版新全集注解によると、この地は上海に租界が置かれたその後の時代にあっても中国人だけの街であったとある。
・「銀樓」金銀のアクセサリーを扱う店舗。商店は一般に二・三階建てであったので「楼」がつく。
・「太白」李太白。詩仙李白の字。大の酒好きであった。
・「湖心亭」現在、上海随一の伝統的中国式庭園豫園(よえん)の荷花池の上、屈曲した九曲橋の中ほどに建つ、150年の歴史を持つ茶館。但し、明代をルーツとするその庭園と共に清末には荒廃甚だしく、芥川が訪れた際のその普請も本文に示される通りである。現在の豫園ものは新中国成立後に改修されたもので、芥川が見たものは、荒れ果てていながらも屋根の先が大きく反った江南風の特徴を持った清朝建築様式であったはずである。ちなみに、私は八年前の夏、夕暮れの人気のないそこを一度訪ねただけで、すっかり気に入ってしまったものである。
・「辮子(ベンツ)」“biàz”弁髪(辮髪)のこと。モンゴル・満州族等の北方アジア諸民族に特徴的な男子の髪形。清を建国した満州族の場合は、頭の周囲の髪をそり、中央に残した髪を編んで後ろへ長く垂らしたものを言う。清朝は1644年の北京入城翌日に薙髪令(ちはつれい)を施行して束髪の礼の異なる漢民族に弁髪を強制、違反者は死刑に処した。清末に至って漢民族の意識の高揚の中、辮髪を切ることは民族的抵抗運動の象徴となってゆき、中華民国の建国と同時に廃止された。即ち、この芥川の目の前で荷花池に尿(すばり)する中国人は、時空間を超越して現代から見放されている中国総体であると同時に、そうした旧時代の忌まわしい臭気を放つ、動きつつある中国の「今」に取り残されてゆくであろう人物(それに類した人々を芥川は悲観的にして差別的に数多多く数えてはいる)としても点描されていると見るべきであろう。そうして私は、実はここにこそ、芥川龍之介は当時の富国強兵から急速に近代化を叫び、アジアの宗主たらんとする帝国主義の「日本」を、その先にダブらせてもいるのだと思うのである。
・「蕪村の馬の糞」は与謝蕪村の「蕪村句集」春の部にある天明3(1783)年68歳の折の、
紅梅の落花燃ゆらむ馬の糞(ふん)
を指す。これは春の温もりを感じさせる陽光指す道、ひられたばかりの丸々とした湯気立つような馬糞に、鮮やかな紅梅を配して美事な句である。
・「芭蕉の馬の尿」は松雄芭蕉「奥の細道」は尿前(しとまえ)の関での、元禄2年5月17日、46歳の折の体験に基づく、
蚤虱馬の尿(しと)する枕もと
を指す(決定稿は3~4年後か)。辺鄙な山家に旅寝する芭蕉。曲屋の人馬一緒の宿り、一晩中、蚤・虱に責めたてられ、枕元では勢いよく馬が小便する音。その旅愁を、勿論、芭蕉は風流として侘ぶのである。尿を「ばり」と読むのが正当とするテクストが多いが、どうも私はこの濁音が気に入らぬ。その音は無論「ばり」であって、「しと」ではあるまい。しかし、それを確信犯として、尿前の関の鄙びた郷愁の音「しと」の向こうにリアルな「ばり」の音を聴くことが何故誤りなのか、私には実はよく分らないのである。
・「陳樹藩」清末民国の軍人・政治家(1885~1949)。袁世凱亡き後の軍閥の抗争では段祺瑞(だんきずい)を中心とする安徽派に属し、1916年には陝西督軍となり、実質的な陝西省の支配権を掌握した。しかし、北京政府の主導権を巡って華北地方で段祺瑞と直隷派の曹錕(そうこん)が1920年7月14日に会戦したが、わずか5日間で安徽派の敗北に終わり、段祺瑞は失脚した(安直戦争)。これによって陳樹藩軍は孤立、芥川の本節の体験の数十日後の1921年5月、直隷派によって陝西督軍の地位が剥奪され、陳の軍隊はただの流浪不逞集団とされてしまう。同年12月に四川軍により撃破されると、陳は天津へ逃亡、以後、表舞台を去った。筑摩版も岩波新全集版も、この「陳樹藩」を陳炯明(ちんけいめい 1878~1933)とする(筑摩版は推定、新全集版は断言)。炯明は中華民国広東派の指導者。1920年11月に軍閥を放逐して広東省を掌握、中華革命党には所属していないが、結果として孫文の広東での勢力基盤を軍事的に援助した。「叛旗を飜」すの意味を両注はこの広東軍政府の組織化を指すとするのであろうが(因みに両注が附す後の孫文へのクーデターによる裏切りは1922年6月のことで到底これはこの「叛旗」ではない)、どうもアップ・トゥ・デイトでない。そもそも、両注は何故、その冒頭で、これは芥川龍之介の人名の誤り、と明確に記さないのか? 私は陳樹藩その人の軍閥内抗争での「叛旗」で何ら問題ないと思うのであるが。中国近代史の御専門の方の御意見を乞う(本注は主にウィキのそれぞれの人物の該当記事を参考にした)。
・「白話詩の流行」の「白話詩」は中国の口語詩のこと。当時の民主主義革命をリードした胡適や陳独秀は、文学面にあっては難解な伝統的文語文を廃し、口語文による自由な表現と内実の吐露を可能とする白話文学を提唱する論文「文学改良芻議」(ぶんがくかいりょうすうぎ)を1917年に雑誌『新青年』に発表、同時に白話詩がもてはやされたが、芥川が訪れた1921年頃にはやや下火になっていたものらしい。
・「日英同盟が持ち上らうが」は、日英同盟の継続問題の議論を言う。日英同盟は、明治35(1902)年1月に締結された主にロシアの南進の防御とインド・中国での利権維持を主目的とした日本とイギリスとの軍事同盟。継続した明治38(1905)年の第二次日英同盟では、イギリスのインドに対する特権及び日本の朝鮮に対する支配権の相互承認に加えて、両国の清に対する機会均等(実際には利権を握っていたイギリスの思惑と日本側の大陸での覇権獲得への思惑の妥協的産物)等が盛り込まれている。第三次の期限が終了する前年の大正9(1920)年より、継続更新を望む日本政府の意向で外交交渉が行われたが、1921年のワシントン会議の席上、国際連盟規約への抵触、日本との利害の対立から廃止を望むアメリカの思惑(アメリカも中国進出を狙っていた)により、日本・イギリス・アメリカ・フランスによる四カ国条約が締結されて同盟の破棄が決定、1923年8月17日に日英同盟は失効した(本注は主にウィキの「日英同盟」の記載を参考にした)。]

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