馬鹿でない方の北川冬彦は「読め」 尾形亀之助
結局、くだらん男とくだらん男との言争ひでしかない。俺にしても君にしても、現在是非世の中にゐてもらはなければならない有用の人間ではない。多少は有用であるとしてもかけがひはいくらでもあるのだ。俺は、詩集「雨になる朝」が童心などと呼ばれるべきものでないと自分で言へば事足りてゐる。現在「詩」と称されてゐるもの(勿論「雨になる朝」もふくまれてゐる)などには論争の類をするまでの興奮も興味ももつてはゐない。このことに就てはこの後の俺の仕事に色々な意味と形で表れるだらう。以上。
次に「酔漢の愚痴」とはこんなもんだを聞かしてやる。――君が「新散文詩」などとこの頃言つてゐるやうだが、君がそれらの仕事の何をしたか。他の人々の仕事をヌスミ見ての 「知らぬ人にそのままをなるほどと思はせる」例のづるさはないか。「困つたこと云云」 は、勿論俺自身が困るの意味なのだ。君は俺の「童心とはひどい」を呂律の廻らぬ云云と言つてゐるが、「困つたことには彼は私のそれらの作品を或程度否定しなけれはならない立場にゐるのだ」とは、俺の作品をけなすことによつて君自身を他の人々に偉く思はせなければならない――といふ意味なのだ。詩、はつきりさうと言はぬまでのことであつたのだ。又、君の言ふ、暮鳥のものを君が童心と思つてゐるのだからしかたがないとは何のことかわからぬ。君がさう思つてゐないとも思つてゐられては困るとも俺は言つてほゐない。殊に俺に何か言ふならもつと用心することだ。その方が君の得ばかりではない。もーつ注意するが、あまり自分を偉く思ひこんでしまはぬ方がいゝ。君が左傾しやうがしまいが、さうしたことを一つの見えなどにしては今どき甚だ滑稽なことでもある。俺がたまたま酒を飲むといふので「酔漢」などの文字を使つてゐるのだらうが、俺が酒飲みであれは尚のことこんな文字を使ふには用心をしなければならぬのだ。又酒を飲まぬことを自慢にするものもそれが君であつてはどうかと思ふ。さういつまでも俺を相手にしてゐる余裕を持ち合してゐる僕ぢやない。――の余裕とはおそらく時間のことではなく、も一つの方のことなのだらうが、それこそまどはしい文章だ。「詩と詩論」に及んだことが、君がこの頃せつかく「俺は超現実主義ではない、俺は左傾といふことをするのだ」――と言つてゐるそれの邪魔をしてわるかつたわけだ。兎に角君は君の望んでゐるだけ早く偉くなることだ。君は偉いといふことをつまらぬことだなどと思ふやうになつてはいけない。北川よ、反省などをしてはいけない。それこそ出世のさまたげだ。
(詩神第六巻第二号 昭和5(1930)年2月発行)
[やぶちゃん注:傍点「ヽ」は下線に代えた。「童心とはひどい」に続く、第二詩集『雨になる朝』に対する北川冬彦の評に対する反駁文である。北川の批評については、そちらの私の注を参照されたい。こちらではもっと明白にその『政治的季節』が見て取れる。「俺は超現実主義ではない、俺は左傾といふことをするのだ」とは何と哀しい台詞であろう。少なくとも私にとっては救いようのない台詞である。若い読者のために、一点だけ歴史的仮名遣の誤りを指摘しておく。冒頭の段落中に現れる「かけがひ」は「掛け甲斐・懸け甲斐」(期待できるだけの値うち)であり、意味が通らない(「掛買」でも不通である)。「かけがへ」=「掛替え」(用意のために備えておく同種のもの)である(恐らく動詞「掛け替ふ」からの誤用か誤植であろう)。現代仮名遣でも「かけがい」と「かけがえ」とを誤るととんでもないことになるので敢えて言っておく。私は、二十代の初め、女生徒の年賀状の返事にうっかり「残る三ヶ月、懸け甲斐のない高校時代を有意義に!」と書いて、学校で、「先生らしい素敵な皮肉ですね!」と言われて冷や汗を笑って誤魔化したのを思い出したのである。]