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2009/06/29

江南游記  四 杭州の一夜(中)

       四 杭州の一夜(中)

 この往來の兩側には、明るい店店が並んでいるが、人通りは疎らだから。少しも陽氣な心もちがしない。寧ろ町幅が廣いだけに、如何にも支那の新開地らしい。妙な寂しさを與へるだけである。

 「これが城外の町、――この突き當りが西湖(せいこ)ですよ。」

 後(うしろ)の車に乘つた村田君は、かう私に聲をかけた。西湖! 私は往來の外れを眺めた。しかしいくら西湖でも闇夜に鎖されてゐては仕方がない。湖でも、唯車上の私の顔には、その遙な闇の中から、涼しい風が流れて來る。私は何だか月島あたりへ、十三夜を見にでも來たやうな氣がした。

 車は少時(しばらく)走つた後、とうとう西湖のほとりへ出た。其處には電燈をつけ並べた、大きい旅館が二三軒ある。が、それもさつきの店店のやうに、明るい寂しさを加へるに過ぎない。西湖は薄白い往來の左に、暗い水面を廣げたなり、ひつそりと靜まり返つてゐる。そのだだつ廣い往來にも、我我二人の車の外は、犬の子一つ歩いてゐない。私は晝のやうな旅館の二階に、去來する人影を眺めながら、晩飯だのベツドだの新聞だの、――要するに「文明」が戀しくなり出した。しかし車屋は不相變、默默と走り續けてゐる。路も行人を絶つた儘、何處まで行つても盡きさうぢやない。旅館も、――旅館はもうずつと後(うしろ)になつた。今では唯湖の縁に、柳らしい樹ばかり並んでゐる。

 「おい、君、新新旅館はまだ遠いのかね?」

 私は村田君を振り返つた。すると村田君の車屋が、咄嗟にその意味を想像したのか、君よりも先に返事をした。

 「十里! 十里!」

 私は急に悲しい氣がし出した。この上まだ十里も先だとすると、新新旅館に着かない内に、夜(よ)が明けてしまふに相違ない。して見れば今夜は斷食である。私はもう一度村田君へ、我ながら情無い聲をかけた。

 「十里とは驚いたな。僕は腹が減つて來たがね。」

 「わしも減つた。」

 村田君は車上に腕組をした儘、恬然と支那煙草を啣へてゐた。

 「十里位何でもないですよ。支那里數の十里だから、――」

 私はやつと安心した。が、忽ち又がつかりした。如何に六町一里だと云つても、十里となれば六十町ある。この空腹を抱へながら、まだ日本の一里以上、闇夜の車に搖られるのは、何人にも嬉しい行程ぢやない。私は失望を紛らせる爲に、昔習つた獨逸文法の規則を、一一口の中に繰り返し始めた。

 それが名詞から始まつて、強變化動詞に辿りついた時、ふとあたりを透かして見ると、何時か道が狹くなつた上に、樹木なぞも左右に茂つてゐる。殊に不思議に思はれたのは、その樹の間に飛んでゐる、大きい螢の光だつた。螢と云へば俳諧でも、夏の季題ときまつてゐる。が、今はまだ四月だから、それだけでも妙としか思はれない。おまけにその光の輪は、ぽつと明るくなる度に、あたりの闇が深いせいか、鬼灯(ほほづき)程もありさうな氣がする。私はこの青い光に、燐火を見たやうな無氣味さを感じた。と同時にもう一度、ロマンテイツクな氣もちに涵(ひた)るやうになつた。しかし肝腎の西湖の夜色は、家の蔭か何かに隠れたらしい。路の左の樹木の向うは、ずつと土塀に變つてゐる。

 「ここが日本領事館ですよ。」

 村田君の聲が聞えた時、車は急に樹樹の中から、なだらかに坂を下り出した。すると、見る見る我我の目の前へ、薄明るい水面が現れて來た。西湖! 私は實際この瞬間、如何にも西湖らしい心もちになつた。茫茫と煙つた水の上には、雲の裂けた中空から、幅の狹い月光が流れてゐる。その水を斜に横ぎつたのは、蘇堤か白堤に違ひない。堤(つつみ)の一箇所には三角形に、例の眼鏡橋が盛り上つてゐる。この美しい銀と黑とは、到底日本では見る事が出來ない。私は車の搖れる上に、思はず體(からだ)をまつ直にした儘、何時までも西湖に見入つてゐた。

[やぶちゃん注:以下、語りの中心となる浙江省杭州市西郊にある淡水湖西湖について、主にウィキの「西湖」の記載を参照にして概略を述べておく。別名、銭唐・銭源・銭唐湖(唐代以降は「唐」は「塘」に用字を変更され、「西湖」の呼称の定着は宋代以降とする)と呼ぶ。司馬遷の「史記」に、始皇帝が銭唐に至り浙江を臨むとの記述が見え、これが史書に現れる西湖の初出とされる。当時は、まだ淡水湖化しておらず、湖というよりも、銭塘江下流三角州の干潟であったと考えられている。芥川も記述している通り、それがかつて干潟であったことを示す如く、水深は平均1.8mで最深部でも2.8mである。南北3.3㎞・東西2.8㎞・外周15㎞。芥川も言及する「西湖十景」を掲げておくと「断橋残雪・平湖秋月・曲院風荷・蘇堤春暁・三潭印月・花港観魚・南屏晩鐘・雷峰夕照・柳浪聞鶯(ぶんおう)・双峰挿雲」である。京劇「白蛇伝」の白素貞が入水したとされる白堤、蘇軾の造営になるとされる蘇堤等名所旧跡が豊富にあり、また、西湖の名称の由来とされる美姫西施の入水に纏わる伝承が語られる。但し、ウィキでは『呉越の時代にはまだ西湖は淡水化しておらず、漢代でもなお西湖とは呼ばれていなかったことから、この伝承は後代のものであろう』と考証している。

・「支那里數の十里」この中国の「里」は、清代の旧制であるから、1里=人の歩数の360歩=576mである。「十里」は5,760mとなり、凡そ6㎞である。現代の中文の旅行会社のサイトを見ると、杭州駅から新新旅館までは約7㎞とある。

・「如何に六町一里だと云つても、十里となれば六十町ある」この「町」は本邦の単位で1町は約109m。6町では654m、その10倍は6,540m。前注で示した通り、計らずも実際の杭州~新新旅館の距離には、芥川の危惧した心内での計算距離の方がずっと近い。

・「強變化動詞」ドイツ語では動詞の時制は不定形(現在)・過去基本形(過去)・過去分詞(現在完了)が基本となり、これらを纏めて三要形と言う。その三要形から動詞は規則動詞と不規則動詞に分けられ、規則動詞を弱変化動詞とも言い、三要形すべてを通して語幹に変化が起こらず、“(語幹)+te”によって過去基本形を、“ge+(語幹)+t”によって過去分詞を作る。対する不規則動詞は、過去基本形や過去分詞を作る際に語幹の母音(幹母音という)の交換・変化が起こる動詞で、その変化の仕方から更に強変化動詞と混合変化動詞に分かれる。強変化動詞は、過去基本形に語尾が付かず、過去分詞の語尾が“-en”となるもの、混合変化動詞は、語幹は不規則に変化するものの、語尾は規則動詞と同じになるものである(私はドイツ語に暗いので、サイト「自由学芸堂ドイツ語」の「動詞の役割」を参照させて頂いた)。

・「大きい螢の光」勿論、これは大きさも成虫になる時期からも本邦の鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目ホタル上科ホタル科Lampyridaeホタル亜科 Luciolinaeの代表種ゲンジボタルLuciola cruciataやヘイケボタル Luciola lateralis等とは異なった種である。中文のウィキの「螢科」(元は簡体字)のページを見るとホタル科Lampyridae以下に、下記9属が示されている。

   脈翅螢屬 Curtos

   雙櫛角螢屬 Cyphonocerus

   弩螢屬 Drilaster

      Ellychnia

   Hotaria

   螢屬 Lampyris

   鋸角螢屬 Lucidina

   熠螢屬 Luciola

   Photinus

   Photuris

   黑脈螢屬 Pristolycus

   Pyractomena

   窗螢屬 Pyrocoelia

   垂鬚螢屬 Stenocladius

リストの内、「熠螢屬」が本邦のホタル属と同属であるが、掲げられた種名は異なっている(本邦産Luciola属のルーツは中国でないかと推定され、現在、その検証プロジェクトが進行している模様である)。また、この中の中文属名「螢屬」に、中文名で雌大火虫Lampyris noctilucaというのがおり、中文ウィキにはその画像もある。これは相当にデカいが、芥川が見たものがこれであるかどうかは不明。昆虫にお詳しい識者の御教授を乞うものである。

・「日本領事館」田中貢太郎の「断橋異聞」冒頭に「杭州の西湖へ往って宝叔塔(ほうしゅくとう)の在る宝石山の麓、日本領事館の下の方から湖の中に通じた一条の長隄を通って孤山に遊んだ者は、その長隄の中にある二つの石橋を渡って往く。石橋の一つは断橋で、一つは錦帯橋(きんたいきょう)であるが、この物語に関係のあるのは、その第一橋で、そこには聖祖帝の筆になった有名な断橋残雪の碑がある。」(引用は河出書房新社1987年刊の田中貢太郎「中国の怪談(一)」を用いた)とある。引用文中の「長隄」(ちょうてい)が白堤である。

・「蘇堤」西湖の西部をほぼ南北に貫く堤で、総延長約2.8㎞の直線道路、6基の石橋がある。北宋の蘇軾(10371101)が杭州の知事となった後、荒廃していた西湖全体の浚渫を敢行し、その浚渫で出た土を盛ってこの堤を作ったことからこの名がある(蘇軾がこの銭塘湖を西施湖と名付け、それが西湖となったとも言われる)。西湖の内、蘇堤の西は西里湖という。

・「白堤」西湖の北部を東北から西南方向に走る約1㎞の堤。東北の断橋と西南端の孤山を結ぶ。白居易(772846)が杭州刺史であったときに造営したとされることからこの名があるが、古くは白沙堤と言った。西湖の内、白堤の北側は北里湖という。]

2009/06/28

江南游記 三 杭州の一夜(上)

       三 杭州の一夜(上)

 杭州の停車場へ着いたのは、彼是午後の七時だつた。停車場の柵の外には、薄暗い電燈のともつた下に、税關の役人が控へてゐる。私はその役人の前へ、赤革(あかがは)の鞄を持つて行つた。鞄の中には手當り次第に、書物だのシヤツだのボンボンの袋だの、いろいろな物が詰めこんである。役人はさも悲しさうに、一一シャツを畳み直したり、ボンボンのこぼれたのを拾つたり、鞄の中の整理に着手してくれた。いや、少くともさう見えた程、一通り檢査をすませた後は、ちやんと鞄の中が片附いたのである。私は彼が鞄の上へ、白墨の圓を描いてくれた時、「多謝(トオシエ)」と支那語の御禮(おれい)を云つた。が、彼はやはり悲しさうに、又外の鞄を整理しながら、私には眼さへ注がなかつた。

 其處にはまだ役人の外にも、宿引きが大勢集まつてゐる。彼等は我我の姿を見ると、口口に何か喚きながら、小さい旗を振り廻したり、色紙の引き札をつきつけたりした。が、我我が泊まる筈の、新新旅館の旗なるものは、何處を搜しても見當らない。すると圖圖しい宿引きどもっは、滔滔と何か饒舌(しやべ)り立てては、我我の鞄へ手をかけようとする。如何に村田君に怒鳴られた所が、少しも辟易する樣子がない。私は勿論この場合も、雀が丘のナポレオンのやうに、悠然と彼等を睥睨(へいげい)してゐた。しかし何分か待たされた後、怪しげな背廣を一着した新新旅館の宿引きが、やつと我我の前に現れた時には、やはり正直な所は嬉しかつた。

 我我は宿引きの命令通り、停車場前の人力車に乘つた。車は梶棒を上げたと思ふと、いきなり狹い路(みち)へ飛びこんだ。路は殆どまつ暗である。敷石は凸凹を極めてゐるから、車の搖れるのも一通りではない。その中に一度芝居小屋があるのか、騒騒しい銅鑼(どら)の音を聞いた事がある。が、其處を通り過ぎた後(のち)は、人聲一つ聞えて來ない。唯生暖い夜(よる)の町に、我我の車の音ばかりがする。私は葉卷を啣(くは)へながら、何時(いつ)か亜刺此亞夜話(アラビヤやわ)じみた、ロマンテイツクな氣もちを弄び始めた。

 その内に路が廣くなると、時時戸口に電燈をともした、大きい白壁の邸宅が見える。――と云つたのでは意を盡さない。始は唯(ただ)闇の中から、朦朧と白い物が浮き上つて來る。その次にそれが星のない夜空(よそら)に、はつきり聳え立つた白壁になる。それから壁を切り拔いた、細長い戸口が現れて來る。戸口には赤い標札の上に、電燈の光が當つてゐる。――と思ふと戸口の奥にも、電燈のともつた部屋部屋(へやへや)が見える。聯(れん)、瑠璃燈(るりとう)、鉢植ゑの薔薇、どうかすると人の姿も見える。このちらりと眼にはいる、明るい邸宅の内部程、不思議に美しい物は見た事がない。其處には何か私の知らない、秘密な幸福があるやうな氣がする。スマトラの忘れな草、鴉片(あへん)の夢に見る白孔雀、――何かそんな物があるやうな氣がする。古來支那の小説には、深夜路に迷つた孤客(こきやく)が、堂堂たる邸宅に泊めて貰ふ。處が翌朝になつて見ると、大廈高樓(たいかかうろう)と思つたのは、草の茂つた古塚(ふるつか)だつたり、山蔭の狐(きつね)の穴だつたりする、――さう云ふ種類の話が多い。私は日本にゐる間、この種類の鬼狐(きこ)の譚(だん)も、机上の空想だと思つてゐた。處が今になつて見ると、それはたとひ空想にしても、支那の都市や田園の夜景に、然るべき根ざしを持つてゐる。夜の底から現れて來る、燈火(ともしび)に滿ちた白壁の邸宅、――その夢のやうな美しさには、古今の小説家も私と同樣、超自然を感じたのに相違ない。さう云へば今見た邸宅の戸口には、隴西(ろうせい)の李庽(ぐう)と云ふ標札があつた。事によるとあの家の中には、昔の儘の李太白が、幻の牡丹を眺めながら、玉盞(ぎよくさん)を傾けてゐるかも知れない。私はもし彼に合つたら、話して見たい事が澤山ある。彼は一體太白集中、どの刊本を正しいとするか? ジユデイト・ゴオテイエが飜譯した、佛蘭西語の彼の采蓮の曲には、吹き出してしまふか腹を立てるか? 胡適(こてき)氏だとか康白情氏だとか、現代の詩人の白話詩には、どう云ふ見解を持つてゐるか? そんな出たらめを考へてゐる内に、車は忽ち横町を曲ると、無暗に幅の廣い往來へ出た。

[やぶちゃん注:

・「多謝(トオシエ)」“duōxiè”。感謝する。

・「新新旅館」西湖湖畔を望む現・杭州新新飯店“HANGZHOU THE NEW HOTEL”。洋風建築のホテル。蒋介石・宋美齢・魯迅といった著名人ゆかりのホテルで、孤雲草舎(1913年に建てられた西楼)、新新旅館(1922年に建てられた中楼。現在、省級文物保護建築群に指定されている)、秋水山荘(1932年に建てられた東楼)から成る、と中国旅行会社サイトなどにある。この記載から見ると、芥川が泊まったのは孤雲草舎である(写真で見る限り、これも西洋建築)。

・「雀が丘のナポレオン」「雀が丘」は、現在モスクワ大学があるモスクワ川南岸に広がる丘陵地帯(ソヴィエト時代は「レーニン丘」と呼ばれたが、現在は旧名 “ВОРОБЬЁВЫ ГОРЫ”(ヴァラビョーヴィ・ゴールイ)「雀が丘」に復している)。古くからモスクワの町全体を見渡せる名所として知られる。Napoléon Bonaparteナポレオン(17691821)は大陸封鎖令を破ってロシアがイギリスとの貿易を再開したことに端を発し、1812年にロシアに60万の軍で侵攻するが、冬将軍の寒冷に加え、フランス軍の兵站の甘さとロシア軍の焦土戦術により、駐屯や食料調達もままならず、極寒と飢餓の中、遂に総退却を余儀なくされた。帰還した兵は僅かに5000人であったとされる。そのロシア軍の焦土作戦によるモスクワの大火を、ナポレオンはこの丘の近くから眺めたとされる(このシーンはトルストイ「戦争と平和」にも描かれている)。この失敗がナポレオンを直接滅亡へと導いた。

・「亜刺此亞夜話」アラビア語で書かれた説話集「アラビアン・ナイト(千一夜物語)」のこと。原題は「千夜と一夜」であるが、初めて英訳された際に“The Arabian Nights Entertainments”とされ、明治期の邦訳でもアラビア物語等と訳された。

・「聯」は対聯のことで、書画や彫り物を柱や壁などに左右に相い対して掛け、飾りとした細長い縦長の板状のものを合わせて言う語。ここでは招福や厄払のために入り口の左右に掲げたものを言っている。

・「瑠璃燈」ガラスの油皿を中に入れた六角形の吊り灯籠。

・「スマトラの忘れな草」現在のインドネシア共和国Pulau Sumateraスマトラ島に咲いているとされる伝説の花。その匂いをかいだ者は、すべての記憶を消失すると言われる。芥川の好きなフレーズで、大正9(1920)年作の「沼」にも、

(前略)

 おれは沼のほとりを歩いてゐる。

 沼にはおれの丈よりも高い蘆が、ひつそりと水面をとざしてゐる。おれは遠い昔から、その蘆の茂つた向ふに、不思議な世界のある事を知つてゐた。いや、今でもおれの耳には、 Invitation au voyage の曲が、絶え絶えに其處から漂って來る。さう云へば水の匀や蘆の匀と一しよに、あの「スマトラの忘れな草の花」も、蜜のやうな甘い匀を送って來はしないであらうか。

 晝か、夜か、それもおれにはわからない。おれはこの五六日、その不思議な世界に憧がれて、蔦葛に掩はれた木々の間を、夢現のやうに歩いてゐた。が、此處に待つてゐても、唯蘆と水ばかりがひつそりと擴がつてゐる以上、おれは進んで沼の中へ、あの「スマトラの忘れな草の花」を探しに行かねばならぬ。見れば幸、蘆の中から、半ば沼へさし出てゐる、年經た柳が一株ある。あすこから沼へ飛びこみさへすれば、造作なく水の底にある世界へ行かれるのに違ひない。

 おれはとうとうその柳の上から、思ひ切つて沼へ身を投げた。(以下略)

と印象的に現れている。文中の「Invitation au voyage の曲」とは、ボードレールの有名な詩“Invitation au voyage”(旅への誘い)に、フランスの作曲家Eugène Marie Henri Fouques Duparcアンリ・デュパルク(18481933)が曲をつけた歌曲。You Tube“Duparc - L'invitation au voyage Kiri Te Kanawaで聴くことが出来る。因みにKiri Te Kanawaキリ・テ・カナワ(1944~)は、ニュージーランド出身の私の愛するソプラノ歌手である。因みに私のブログの芥川龍之介の次男芥川多加志についての「蒼白 芥川多加志/附 芥川多加志略年譜」の中に、小沢章友氏の小説「龍之介地獄変」(2001年新潮社刊)を引用・略述させて頂いた(私はこの小説がある個人的体験と共振して大変好きなのである)が、そこで小沢氏もこの「スマトラの忘れな草」を印象的に用いられている。また、そこに私は書いたのだが――ビルマで戦死したまま、その遺骨さえ失われたこの多加志が、この最も父芥川龍之介に容貌が似ていたとされる作家志望だった多加志が――その多加志が――蝶々のかたちをした魂となって、ビルマの地からスマトラの忘れな草の島へ飛んでいった……そうして白い香り高い花に変わり……それから……時が来て、また蝶となって飛びたつであろう――と夢想するのである……

・「大廈」は豪邸。「廈」自体が大きな家の意である。
・「隴西の李庽」の「隴西」は地名で、河西回廊とシルクロードの通過点(現在の甘粛省天水に位置した。現在の甘粛省定西市隴西県はややずれる)。「隴西出身の李姓の家」の意。本名を神聖視し、多様な別名呼称を有する昔の中国では、出身地や長く住み慣れた地を持ってその人の呼称とするのは極めて一般的。
・「李太白」旧来、李白の出身地は隴西郡成紀県(現・甘粛省天水市秦安県)とされた。現代中国での通説は、西域に移住した漢民族の商人の家に生まれ、幼少時に父とともに西域から蜀の綿州昌隆県青蓮郷(現・四川省江油市青蓮鎮)に移住したものとされる(以上はウィキの「李白」を参照した)。
・「幻の牡丹」私はこの「幻の」という形容は、その芥川の、盛唐へのタイム・スリップの幻視の一齣であることを示すと同時に、李白が楊貴妃の美しさを歌った「清平調詞 三首」、それに纏わる李白の狼藉、それを恨んだ宦官高力士の楊貴妃への讒訴、それによる長安追放、放浪流謫の一齣といったイメージが重層化されているに違いない。更に、直前の「スマトラの忘れな草」をも縁語的に受け、幻の花、花の王、妖花、凋落、有為転変そして無常といった、こもごもの感懐を引き起こすようにセットされていると読む。
・「玉盞」玉石を加工した盃。
・「太白集中、どの刊本を正しいとするか?」李白の詩集には、北宋期の刊本をもととする最古の「李太白集」(宋蜀本)・宋蜀本を清の繆曰芑(ぼくえつき)が校正重刊したもの(繆本)・南宋の刊本をもとに清代に影印刊行された「景宋咸淳本李翰林集」(咸淳(かんじゅん)本又は当塗(とうと)本)・注釈書としては最古である南宋の楊斉賢集注本に元の蕭士贇(しょうしいん)が補注した「分類補注李太白詩」(楊蕭本)・清の王琦(おうき)による注釈書「李太白文集輯註」(王琦本)等、刊本が多く、またその内容にも、著名な詩も含めて、かなりの異同が見られる。
・「ジユデイト・ゴオテイエ」Judith Gautierジュディット・ゴーティエ(18451917)はフランスの作家。「死霊の恋」「ポンペイ夜話」等で知られる文豪Pierre Jules Théophile Gautierテオフィル・ゴーティエ(18111872)の娘。日本と中国を中心とした東洋文化に造詣が深く、小説の他、李白や杜甫の翻訳や日本美術の解説書などをものしている。ここで言う詩ではないが、芥川は本「江南游記」発表開始の同日大正111922)年1月1日発行の『人間』に発表した「パステルの龍」の中に、彼女の詩の翻訳「月光」「陶器(すゑもの)の亭(ちん)」二篇を訳出している。
・「胡適」(Hú Shì ホゥ シ こせき又はこてき 18911962)は中華民国の学者・思想家・外交官。自ら改めた名は「適者生存」に由来するという。清末の1910年、アメリカのコーネル大学で農学を修め、次いでコロンビア大学で哲学者デューイに師事した。1917年には民主主義革命をリードしていた陳独秀の依頼により、雑誌『新青年』に「文学改良芻議」(ぶんがくかいりょうすうぎ)をアメリカから寄稿、難解な文語文を廃し口語文にもとづく白話文学を提唱し、文学革命の口火を切った。その後、北京大学教授となるが、1919年に『新青年』の左傾化に伴い、社会主義を空論として批判、グループを離れた後は歴史・思想・文学の伝統に回帰した研究生活に入った。昭和6(1931)年の満州事変では翌年に日本の侵略を非難、蒋介石政権下の1938年には駐米大使となった。1942年に帰国して1946年には北京大学学長に就任したが、1949年の中国共産党国共内戦の勝利と共にアメリカに亡命した。後、1958年以降は台湾に移り住み、中華民国外交部顧問や最高学術機関である中央研究院院長を歴任した(以上の事蹟はウィキの「胡適」を参照した)。芥川龍之介は北京滞在中に胡適と会談している(芥川龍之介談「新藝術家の眼に映じた支那の印象」参照)。
・「康白情」(kāng báiqíng カン パイチン 18951959)本名康鴻章。詩人。胡適・陳独秀らの影響を受け、1919年の五四運動に参加、散文形式の白話詩人として好評を博した。アメリカ留学を経て、解放後まで華南大学文学部教授等を歴任した。詩集「草児」「河上集」等。
・「白話詩」中国の口語詩のこと。胡適の注で記した通り、当時の民主主義革命をリードした胡適や陳独秀は、文学面にあっては難解な伝統的文語文を廃し、口語文による自由な表現と内実の吐露を可能とする白話文学を提唱する論文「文学改良芻議」を1917年に雑誌『新青年』に発表、同時に白話詩がもてはやされた。但し、芥川龍之介「上海游記」の「六 城内(上)」の記載を見ると、芥川が訪れた1921年頃にはやや下火になっていたようである。
 最後に。芥川は「さう云へば今見た邸宅の戸口には、隴西の李庽と云ふ標札があつた。」として、以下、そこに詩仙李白の幻影を見るのだが、これがもし私なら「隴西」ときた以上、……

……事によるとあの家の中には、昔の儘の李徴が、幻の月を眺めながら、玉盞を傾けてゐるかも知れない。私はもし彼に合つたら、話して見たい事が澤山ある。彼は一體何故(なにゆゑ)に袁傪(ゑんさん)に虎になんどに變身したと云ふ見え透いた作り譚(ばなし)をさせておいて、斯の如き田舎に今も獨り住まふてゐるのか? 将来、我國の中島敦氏が飜案することとなる、日本語の貴君の絶對の孤獨を描いた悲劇の一篇には、吹き出してしまふか腹を立てるか? 谷川俊太郎氏だとか荒川洋治氏だとか、今の日本で詩人面(づら)をしてゐる輩(やから)の詩には、どう云ふ見解を持つてゐるか? そんな出たらめを考へてゐる内に、車は忽ち横町を曲ると、無暗に幅の廣い往來へ出た。……

というお遊びで締め括ることと致そう……]

2009/06/27

前田青邨「洞窟の頼朝」

「美の巨人」を今、見た。

大事な一点を致命的に洩らしている。

あれは平家の梶原景時一行が、洞窟を見つけた、その一瞬をスカルプティング・イン・タイムした、その瞬間の切り出しである――

彼らの視線こそが、あの絵の眼目であろうが!

江南游記 二 車中(承前)

       二 車中(承前)

 その中(うち)に汽車は嘉興(かこう)を過ぎた。ふと窓の外を覗いて見ると、水に臨んだ家家の間に、高高と反つた石橋がある。水には兩岸のの白壁も、はつきり映つてゐるらしい。その上南畫に出て來る船も、二三艘水際に繋いである。私は芽を吹いた柳の向うに、こんな景色を眺めた時、急に支那らしい心持になつた。

 「君、橋がある。」

 私は大威張りにかう云つた。橋ならばまさか水牛のやうに、輕蔑されまいと思つたからである。

 「うん、橋がある。ああ云ふ橋は好かもんなあ。」

 村田君もすぐに賛成した。

 しかしその橋が隠れたと思ふと、今度は一面の桑畑の彼方に、廣告だらけの城壁が見えた。古色蒼然たる城壁に、生生しいペンキの廣告をするのは、現代支那の流行である。無敵牌牙粉(むてきはいがふん)、雙嬰孩香姻(さうえいがいかうえん)、――さう云ふ齒磨や煙草の廣告は、沿線到る所の停車場に、殆(ほとんど)見えなかつたと云ふ事はない。支那は抑(そもそも)如何なる國から、かう云ふ廣告術を學んで來たか? その答を與へるものは、此處にも諸方に並び立つた、ライオン齒磨だの仁丹だのの、俗惡を極めた廣告である。日本は實にこの點でも、隣邦(りんぽう)の厚誼を盡したものらしい。

 汽車の外は不相變、菜畑か桑畑かげんげ野である。どうかすると松柏の間に、古塚(ふるつか)のあるのが見える事もある。

 「君、墓があるぜ。」

 村田君は今度は橋の時程、私の興味に應じなかつた。

 「我我は同文書院にゐた時分、ああ云ふ墓の崩れたやつから、度度頭蓋骨を盗んで來たですよ。」

 「盗んで來て何にするのですか?」

 「おもちやにし居つたですよ。」

 我我は茶を啜りながら、腦味噌の焦げたのは肺病の薬だとか、人肉の味は羊肉のやうだとか、野蠻な事を話し合つた。汽車の外には何時の間にか、莢になつた油菜(あぶらな)の上に、赤赤と西日が流れてゐる。

[やぶちゃん注:

・「嘉興」現在の嘉興市は浙江省東北部に位置し、西を杭州市と、東北を上海市と、北を江蘇省蘇州市と接し、南は銭塘江(せんとうこう)と杭州湾に面する。上海と杭州のほぼ中間点に当たる。古くから陸稲の産地であり、現在も江南最大の米の産地として知られる。南湖菱でも有名。

・「好かもんなあ」村田孜郎は佐賀県出身であるため、会話の中にその方言がしばしば現れる。

・「無敵牌牙粉」歯磨き粉の商標。「無敵印歯磨き粉」。

・「雙嬰孩香姻」「嬰孩」は嬰児・乳児・赤ん坊のことであるから、「ツイン・キューピー煙草」「双天使煙草」といった感じの煙草の銘柄である。

・「同文書院」東亜同文書院のこと。日本の東亜同文会が創建した私立学校。東亜同文会は日清戦争後の明治311898)年に組織された日中文化交流事業団体(実際には中国進出の尖兵組織)で、日中相互の交換留学生事業等を行い、明治331900)年には南京に南京同文書院を設立、1900年の義和団の乱後はそれを上海に移して東亜同文書院と改称した。後の1939年には大学昇格に昇格、新中国の政治経済を中心とした日中の実務家を育成したが、1946年、日本の敗戦とともに消滅した。村田孜郎はこの東亜同文書院出身であった。

・「腦味噌の焦げたのは肺病の薬だ」以下、第二次世界大戦で中国を侵略した日本兵の異常なる蛮行を綴った以下のページ(タイトル「脳を食った話」)

http://www.geocities.jp/yu77799/nicchuusensou/nou.html

に「歩一〇四物語」より以下の記事を引用する(本ページは冒頭左に「非公開」とあるため、リンクを貼らず、トップ・ページやHP及びHP製作者の名も伏せることとする)、

 Aの妹は肺病(結核と思うが)である。Aは両親がなく妹と二人だけであった。不治の病と宣告されていた。妹の病気には脳の黒焼がいいということを聞いていた。彼は敵兵の脳をひそかにとって、おぼろげな話をたよりに黒焼を作って凱旋の日を待った。

HPの製作者の別ページによれば「歩一〇四物語」は昭和441969)年発行。主に歩一〇四物語刊行会事務長門馬桂氏が執筆。当時の愛知揆一外務大臣・山本壮一郎宮城県知事や同連隊の実質的な指揮者であった山田栴二元旅団長らが揮毫や推薦の言葉を寄せている、とある。上記該当ページには他にも詳細な日本兵による中国人の脳の喫食事件が他の証言者の記録から引用されている。但し、相当に凄惨な内容である。お読みになる場合は、相応な覚悟が必要であることを申し添えておく。しかし、このおぞましさも村田が髑髏を弄んだことといささかの径庭もないと、私は感ずるものである。

・「人肉の味は羊肉のやうだ」人肉は古く仏教では鬼子母神説話から柘榴の味が挙げられ、また枇杷の味とも聞いたことがある。一般には豚肉や鶏肉に近い味であるなどと言われるが(最も近年に食した佐川一政は鶏と言っていたように記憶する)、中国語で人肉を「二脚羊」「双脚羊」と言う話はよく聴く。但し、これだけの雑食と合成物質を食している現代人の人肉は、極めて高い確率で、まずい、と思われる。]

2009/06/26

HP鬼火開設4周年

本日、HP鬼火開設4周年。多忙繁忙疲労困憊金平糖に附、記念テクストはブログ170000アクセス記念に譲りたい。予定では芥川龍之介の『支那游記』群の最後、「雜信一束」を考えている。

2009/06/25

江南游記 一 車中

       一 車中

 杭州行きの汽車へ乘つてゐたら、車掌が切符を檢(しら)べに來た。この車掌はオリヴ色の洋服に、金筋(きんすぢ)入りの大黑帽をかぶつてゐる。日本の車掌に比べると、何だか敏活な感じがしない。が、勿論さう考へるのは、我我の僻見(へきけん)である。我我は車掌の風采にさへ、我我の定木(ぢやうぎ)を振り回しやすい。ジヨン・ブルは乙に澄まさなければ、紳士でないと思つてゐる。アンクル・サムは金がなければ、紳士でないと思つてゐる。ジャップは、――少くとも紀行文を草する以上、旅愁の涙を落したり、風景の美に見惚れたり、游子(いうし)のポオズをつくらなければ、紳士でないと思つてゐる。我我は如何なる場合でも、かう云ふ僻見に捉はれてはならん。――私はこの悠悠とした車掌が、切符を檢べてゐる間に、かう云ふ僻見論を發表した。尤も支那人の車掌を相手に、気焰を揚げた訣ではない。案内役に同行した、村田烏江君に吹きかけたのである。

 汽車の外は何時まで行つても、菜畑かげんげ野(の)ばかりである。その中に時時羊がゐたり、臼挽き小屋があつたりする。と思ふと大きい水牛も、のそのそ田の畔(くろ)を歩いてゐた。五六日前やはり村田君と、上海の郊外を歩いてゐたら、突然一頭の水牛に路を塞がれた事がある。私は動物園の柵内(さくない)は知らず、目(ま)のあたりこんな怪物に遭遇した事は始めてだから、つい感心した拍子に、ほんの半歩ばかり退却した。すると忽ち村田君に、「臆病だなあ。」と輕蔑された。今日は勿論驚嘆はしない。が、ちよいと珍しかつたから、「君、水牛がゐるぜ。」と云はうとしたが、まあ、泰然と默つてゐる事にした。村田君もきつとあの瞬間は、私も中中支那通になつたと、敬服してゐたに相違ない。

 汽車は一室八人の、小さい部屋に分かれてゐる。尤もこの客室には、我我二人の外誰もゐない。室(しつ)のまん中の卓子(テエブル)の上には、土瓶や茶碗が並べてある。其處へ時時青服の給仕が熱いタオルを持つて來てくれる。乘り心は餘り惡い方ぢやない。但し我我が乘つてゐても、この客車は正に一等である。一等と云へば何時か鎌倉から、ちよいと一等へ乘つた所が、勿體なくも或宮樣と、たつた二人ぎりになつたのには、恐懼の至りに堪へなかつたけ。しかもあの時持つてゐたのは、白切符だつたか赤切符だつたか、其邊も實は確(たしか)ぢやない。………

[やぶちゃん注:芥川が上海を発って西湖に向かったのは大正101921)年5月2日のことである。上海上陸直後に即入院(乾性肋膜炎による。「上海游記」の「五 病院」を参照)した彼が、やっと退院出来たのが4月23日であったから、その9日後の未だ病み上がりであった。その後、5月4日の夕刻には上海に戻っているので、2泊3日の小旅行であった。

・「杭州」浙江省の省都。中国八大古都(2004年現在、中国古都学会によって公認された歴史的に重要な首都であった8つの古都。北京・南京・洛陽・西安・開封・杭州・安陽・鄭州)の一つ。古くから江南運河の終着点として発達、「天に天堂あり、地に蘇杭あり」と謳われた。五代十国の時代には呉越国の首都、南宋時代には事実上の首都であった臨安府が置かれた。市中心部の西に観光の目玉である西湖がある(ウィキの「杭州市」の記載を参照した)。

・「大黑帽」は大黒帽子のこと。七福神の大黒が被っている頭巾に似た、上が平らな丸形で縁のない帽子。明治中期には男性がよく被った。

・「僻見」偏見。「僻」=「辟」=「偏」で、偏(かたよ)るの意。

・「ジヨン・ブル」“John Bull”英国政府又は典型的な英国人を示す架空の人名。また、英国人を揶揄した渾名。イギリスの作家John R. Arbuthnotアーバスノット(1667-1735)の書いた寓話小説“Law Is a Bottomless Pit”(1712)等の一連のジョン・ブルの物語から出た語。これらは、スィフトらと共にイギリスのスペイン継承戦争(17011714)に反対していた彼が、スペイン継承戦争を近所の訴訟合戦に置き換えて揶揄したパンフレット群である。従って“John Bull”はこの話の中では本当にイギリス王国の名前なのである。英語塾の経営者の方のサイトにある「人名を使う慣用句(8)」によれば、ジョン・ブルは当初、『善意と常識に満ちながら不満を抱える、ファッション・センスがないフツーの田舎者。ちょっとビールを一杯やる家庭的な平和を好み、風格があるわけでも英雄的な反骨精神もない男』(コンマを読点に変更した。以下同じ)として描かれたが、『のちにイメージとして描かれるときは、第1次世界大戦の新兵募集のポスターで見られるように、ボタンを外したタキシードと,ユニオンジャックの模様のベストが見えるビール腹。ひざまである半ズボンを履き、low topper と呼ばれる山高帽を被る姿をして』おり、『このイメージは19世紀から20世紀初めの新聞漫画によく登場した』と記されている。

・「アンクル・サム」“Uncle Sam”アメリカ合衆国政府又は典型的なアメリカ人を示す架空の人名。またアメリカ人を揶揄した渾名。United Statesの頭文字をもじったものとされる。前注の「人名を使う慣用句(8)」の、末尾に“John Bull”との対比で掲げられているのを引くと、『米英戦争最中の1813年に John Bull に対抗して作られたキャラクタ』とある。

・「ジャップ」“Jap”日本国又は日本人を軽蔑的に表現する渾名。現在は「日本製の」という意味で必ずしも差別語としては意識されずに使われているらしいが、「支那」と同様、言われる身になれば、使うべき語ではあるまい。

・「村田烏江」村田孜郎(むらたしろう ?~昭和201945)年)。大阪毎日新聞社記者で、当時は上海支局長。中国滞在中の芥川の世話役であった。烏江と号し、演劇関係に造詣が深く、大正8(1919)年刊の「支那劇と梅蘭芳」や「宋美齢」などの著作がある。後に東京日日新聞東亜課長・読売新聞東亜部長を歴任、上海で客死した。

・「げんげ」マメ目マメ科ゲンゲAstragalus sinicus。緑肥(りょくひ)=草肥(くさごえ)及び牛等の飼料とするため、種を蒔まいて栽培した。根粒菌の働きにより、多量の窒素を根の根粒に固定するため、緑肥として翌春にゲンゲを田畑にそのまま鋤き込んで肥料とした(以上はウィキの「ゲンゲ」を参照した)。

・「水牛」哺乳綱ウシ(偶蹄)目ウシ(反芻)亜目ウシ科スイギュウBubalus arnee。中国はスイギュウの原産地であるアジア(世界のスイギュウの95%が生息)の主要な一国。現在の中国では凡そ2300万頭程度がいるとされる。中国南部では重要な役畜であり、また、その乳加工して用いる順徳料理(広東省仏山市順徳区の地方料理を言う。広東料理の一つ)があり、広く広東料理ではその肉を煮込み料理とする。怒らせるとその巨大な角が凶器となるが、私もベトナムで水牛そのものに乗ったが、極めて温和な性格である(以上は主に複数のウィキの記載を参考にした)。

・「白切符だつたか赤切符だつたか」鳩サブレーでお馴染みの豊島屋のHPのまさにズバリ「鎌倉のなかの大正 その2(白切符 赤切符)」という本注のためにあるようなページから引用させて頂く。『大正の初め、鎌倉には別荘が約四百あり、そのうちの六十が皇族、華族の別邸だった。御用邸のほかに、皇族が三、華族が五十六、――その内訳は公爵七、候爵七、伯爵七、子爵八、男爵二十七だった。これがそのまま反映していたと思えるものに、鎌倉駅の一、二等の乗客数がある。なにしろ鎌倉に自動車が一台しかなかった時代だから、どんな「おえらがた」でも出かけるとなれば、汽車だった。大正五年の統計によれば、鎌倉駅の一等車乗客、いわゆる「白切符」は一万二千八百人、二等の「青切符」が十三万二千九百人である。なお三等の「赤切符」客は五十七万五千四百人だった。いずれも湘南別荘地の各駅よりは格段に多い数字である。当時の駅は現在よりも南にあり、後ろは田と畑ばかりの標準的な田舎の小駅で、上りホームには、下りホームからブリッジを渡らなければならなかった』(ダッシュの長さを変更、一部の誤植を訂正した)。運賃は2等は3等の3倍、1等の運賃は更にその2等運賃の2倍程度あったと考えてよい。等級別に客車の帯の色が異なり、それが切符の色となっていた(但し、1等車両の帯の色は実際には黄色であった)。]

2009/06/23

江南游記 前置き

江南游記   芥川龍之介   附やぶちゃん注釈

 

[やぶちゃん注:「江南游記」(こうなんいうき/こうなんゆうき)は大正111922)年1月1日~2月13日の期間の中で、28回に亙って『大阪毎日新聞』朝刊に連載され、後に『支那游記』( 「上海游記」を筆頭に「江南游記」「長江游記」「北京日記抄」「雜信一束」の順で構成)に所収された。「江南游記」底本は岩波版旧全集を用いたが、底本は総ルビ(但し、引用漢詩などの一部はルビなし)であるため、訓読に迷うもののみのパラルビとした。また、一度、読みを提示したものは、原則(幾つかの宛て読みや誤読し易いものは除外)、省略してある。傍点「ヽ」は下線に代えた。各回毎に、その後ろに私のオリジナルな注を附した。

 私の注は実利的核心と同時に智的な外延への脱線を特徴とする。私の乏しい知識(勿論それは一部の好みの分野を除いて標準的庶民のレベルと同じい)で十分に読解出来る場合は注を附していない(例・「卒然」「谷崎潤一郎」「ボンボン」等)。逆に、当たり前の語・表現であっても『私の』知的好奇心を誘惑するものに対しては身を捧げてマニアックに注してしまう。そのようなものと覚悟して注釈をお読み頂きたい。なお、注に際しては、一部、筑摩書房全集類聚版脚注や岩波版新全集の神田由美子氏の注解を参考にさせて頂いた部分があり、その都度、それは明示してある。また逆に、一部にそれらの注に対して辛辣にして批判的な記載もしてあるのであるが、現時点での「江南游記」の最善の注をオリジナルに目指すことを目的としたためのものであり、何卒御容赦頂きたい。私にはアカデミズムへの遠慮も追従もない。反論のある場合は、何時でも相手になる。

 本紀行群に見られる多くの差別的言辞や視点についての私の見解は、既に「上海游記」の冒頭の注記に示しているので、必ず、そちらを御覧頂いた上で本篇をお読み頂きたい。

 

 

 

       前置き

 

 私はつい昨日の朝、本郷臺から藍染橋(あゐそめばし)へ、ぶらぶら坂を下つて行つた。すると二人の青年紳士が、反對にその坂を登つて來た。私も男の淺間しさに、すれ違ふ相手が女性でないと、滅多に行人には注意しない。が、この時はどう云ふ訣か、まだ五六間距離のある内から、相手の風采に氣をつけてゐた。殊にその一人が薄青い背廣に、雨外套をひつかけたのには、血色の好い瓜實顏や、細い銀の柄の杖と共に、瀟洒たる趣を感じてゐた。二人は何か話しながら、ゆつくり足を運んで來る。――それが愈(いよいよ)すれ違つた時、私の耳は意外にも、卒然噯喲(アイヨオ)と云ふ間投詞を捉へた。噯喲! 私は心の躍るのを感じた。それは何も彼等二人が、支那人だつたのに驚いたのではない。この偶然耳にした噯喲と云ふ言葉の爲に、いろいろな記憶がよみがへつたのである。

 私は北京の紫禁城を思つた。洞庭湖に浮んだ君山(くんざん)を思つた。南國の美人の耳を思つた。雲崗(うんかう)や龍門の石佛を思つた。京漢(けいかん)鐵道の南京蟲を思つた。廬山の避暑地、金山寺(きんざんじ)の塔、蘇小小の墓、秦淮(しんわい)の料理屋、胡適(こてき)氏、黄鶴樓、前門牌(チエンメンはい)の煙草、梅蘭芳(メイランフアン)の嫦蛾(じやうが)を思つた。同時に又腸胃の病の爲に、三月ばかり中絶してゐた、私の紀行の事をも思つた。

 私は彼等を振り返つた。彼等は勿論悠悠と不相變何か話しながら、霜晴(しもば)れの坂を登つて行つた。しかし私の耳の中には、未に噯喲の聲が殘つてゐる。彼等は何處(どこ)の下宿から、何處へ出かける途中であらう? 事によると彼等の一人は、「留東外史」の張全(ちやうぜん)のやうに、戸山(とやま)ケ原の雜木林へ、女學生をつれ出す所かも知れない。さう云へばもう一人の留學生も、同じ小説の王甫察(わうほさつ)のやうに、馴染の藝者位はありさうである。私はこんな彼等にとつては失禮な想像を逞しくしながら、藍染橋の停留場へ出ると、田端の家へ歸る爲に、動坂(どうざか)行きの電車に乘つた。

 處が家へ歸つて見ると、大阪の社から電報が來てゐた。文句は「ゲンコウヲタノミマス」である。私は度度薄田氏に、迷惑をかけるのに恐縮した。しかし正直に白状すれば、重重恐れ入りながらも、腹の工合が惡かつたり、寢不足が何日も續いたり、感興がなかつたりする所から、ペンを執らない事もないではない。それがこの電報を見た時は、明日にも早速「上海游記(シヤンハイいうき)」の續篇を書き出さうと云ふ氣になつた。噯喲! さう云ふ聲が私の耳に、忘れない響を残したのは、薄田氏の爲にも私の爲にも、意外な仕合せになつた訣である。私の知つてゐる支那語の數は、やつと二十六しかない。その中の一つが偶然にも、私の耳に止まつたばかりか、兎に角何かを目ざめさせた事は、大袈裟に言へば天惠である。尤も私の惡文の爲に惱まされる讀者の身になれば、天惠より寧ろ天災かも知れない。しかし天災と考へれば讀者も諦め易さうである。かたがた噯喲の聲を耳にしたのは、御互に感謝して然るべきであらう。これが本文にとりかかる前に、かう云ふ前置きを加へる所以である。

 

[やぶちゃん注:新全集版年譜(宮坂覺)によれば、大正101921)年9月7日、『体調不良のため、薄田泣菫に「上海游記」終了後、次の「江南游記」までに一週間の猶予を申し入れ』たまま、その後、同月中は本文でも言訳しているように、『胃腸の調子が優れない上、痔疾も併発して苦し』み、『体重も減り、寝たり起きたりの生活が続いた』。10月にはやや回復はしたものの、『神経衰弱のせいで、熟睡』出来ず、不眠症状がしつこく付き纏い、新年号の各社原稿依頼の多忙の中、1124日には再度、そうした『新年号の原稿が片付くまで「江南游記」の執筆を延期することを薄田泣菫に申し入れ』ている。

・「藍染橋」東京都文京区千駄木2丁目にあった橋。現在の文京区と台東区の区境に当たる道路は美事に蛇行しているが、これが今は暗渠となっている藍染川で、そこに架橋していた一本が合染橋(藍染・琵琶・枇杷とも表記)である。西の東京大学を中心とした山の手の文教地区本郷台からということであれば、通常ならば団子坂を下ってここに至る。

・「噯喲(アイヨオ)!」“aiyo!”=“aiya!”。「ひえっ!」「やあっ!」といった間投詞。突発的な事態に対して驚いたり、嘆いたり、素晴らしい対象に対して感動した際に発する。

・「紫禁城」明及び清朝の宮殿。明初(1373)に元の宮殿を改築して初代皇帝太祖(洪武帝)が南京に造営したものが最初。後、明の第3代皇帝太宗・成祖(永楽帝)が1406年に改築、1421年には南京から北京への遷都に伴い、移築した。1644年の李自成の乱により焼失したが、清により再建されて1912年の清滅亡までやはり皇宮として用いられた。芥川訪問時は、未だ中華民国臨時政府は居住権の許可を与えていた溥儀一族が内廷内に住んでいた(後、奉直戦争の中で起こった1924年の馮玉祥(ふうぎょくしょう)の内乱(北京政変)により強制退去させられた)。芥川龍之介は北京到着の6月11日以降、恐らく6月25日から7月9日の間に見学しているが、唯一「北京日記抄」の掉尾に(引用は岩波版旧全集から)、

 

 紫禁城。こは夢魔のみ。夜天よりも厖大(ぼうだい)なる夢魔のみ。

 

とあるのみである。この一行は芥川にとって紫禁城がある衝撃的感覚を呼び起こしたことには相違ない。私自身もまた、紫禁城を見た経験から、この芥川の投げつけるような一行が、実は大いに共感出来るのである。しかし、私は中国の思い出にあのスクブス・インクブスの空気に満ち満ちた膨大な虚を最初に想起はしない。即ち実は芥川もそうであったと私は確信する。如何にもな中国的シンボルとして「江南游記」という中国紀行文の枕に附した芥川龍之介の粉飾的虚構であると私は思うのである。

・「洞庭湖に浮んだ君山」本来は洞庭湖の中に浮かぶ島であるが、現在は渇水期の方が長い様子で、陸繋島(湖底に舗装道路が敷設されている)と記されているものが多い(島自体の広さは約1㎢)。島名の由来は、伝説の君主舜の愛妃であった蛾皇と女英(ともに尭の娘とも)がここに旅した折り、舜帝の崩御を知り入水したから(現在も二妃の墓と伝えるものがある)、秦の始皇帝が南方巡幸の際の行宮であったからなどとする。その島の美しさは『銀盆の中の青い巻貝』と称された。他にも始皇帝の「封山印」(南巡中ここで暴風波浪に見舞われた彼がそれを占い、ここに封じられた蛾皇と女英の魂の仕業と知り、それを鎮魂するために岩壁に「永封」「封山」と陰刻したとされるもの)、唐代伝奇で柳毅が龍宮へ下って行ったという「柳毅井」、有名な仙人呂洞賓(りょどうひん)のゆかりの「郎吟亭」等の旧跡が多くある。君山銀針茶という銘茶の産地としてもよく知られる。芥川龍之介は5月29日に訪れている。しかし乍ら、芥川は洞庭湖については、唯一「雜信一束」の中で(引用は岩波版旧全集から)、

 

       五 洞庭湖

 

 洞庭湖は湖(みづうみ)とは言ふものの、いつも水のある次第ではない。夏以外は唯泥田の中に川が一すぢあるだけである。――と言ふことを立證するやうに三尺ばかり水面を拔いた、枯枝の多い黑松。

 

とあるだけでそっけなく、5月30日附與謝野寛・晶子宛旧全集九〇四書簡(絵葉書)では、自作の定型歌を掲げ『長江洞庭ノ船ノ中ハコンナモノヲ作ラシメル程ソレホド退屈ダトオ思ひ下サイ』とし、同じく同日附松岡譲宛旧全集九〇五書簡(絵葉書)では、『揚子江、洞庭湖悉濁水のみもう澤國にもあきあきした』とさえ記している。芥川は君山には例外的に心惹かれ印象として残ったのか?――いや、芥川は実際には洞庭湖に失望したのである。これは「紫禁城」同様、「江南游記」の枕としての粉飾的虚構であろうと私は思う。

 

・「南國の美人の耳」これは先行発表した「上海游記」「十七 南國の美人(下)」の冒頭の以下の部分に拠る。招待された上海の茶屋で、案内してくれた余洵氏(この人については同「十五 南國の美人(上)」の「余洵」以下の諸注を参照)の中国女性の何処がよいと思うか、という問いに芥川は「さうですね。一番美しいのは耳かと思ひます。」と答えた後、以下のように綴っている。

 

 實際私は支那人の耳に、少からず敬意を拂つてゐた。日本の女は其處に來ると、到底支那人の敵ではない。日本人の耳には平(たひら)すぎる上に、肉の厚いのが澤山ある。中には耳と呼ぶよりも、如何なる因果か顏に生えた、木の子のやうなのも少くない。按ずるにこれは、深海の魚が、盲目(めくら)になつたのと同じ事である。日本人の耳は昔から、油を塗つた鬢(びん)の後(うしろ)に、ずつと姿を隱して來た。が、支那の女の耳は、何時も春風に吹かれて來たばかりか、御丁寧にも寶石を嵌めた耳環なぞさへぶら下げてゐる。その爲に日本の女の耳は、今日のやうに墮落したが、支那のは自然と手入れの屆いた、美しい耳になつたらしい。現にこの花寶玉(くわはうぎよく)を見ても、丁度小さい貝殼のやうな、世にも愛すべき耳をしてゐる。西廂記(せいさうき)の中の鶯鶯(あうあう)が、「他釵軃玉斜横。髻偏雲亂挽。日高猶自不明眸。暢好是懶懶。半晌擡身。幾囘掻耳。一聲長歎。」と云ふのも、きつとかう云ふ耳だつたのに相違ない。笠翁(りつおう)は昔詳細に、支那の女の美を説いたが、(偶集(ぐうしふ)卷之三、聲容部)未嘗この耳には、一言(ごん)も述べる所がなかつた。この點では偉大な十種曲の作者も、當に芥川龍之介に、發見の功を讓るべきである。

 

幾つかの語句については、リンク先の私の該当部分の注を参照されたい。

 

・「雲崗や龍門の石佛」「雲崗」は山西省大同市西方20㎞の武周山南側にある東西約1㎞、約40窟を有する石窟寺院。本来は霊巌寺と呼んだが、現在は雲崗石窟又は石仏寺と呼称する。南北朝時の460年頃、北魏の僧曇曜(どんよう)が第5代皇帝文成帝(440465)に上奏し開いた通称「曇曜五窟」(第1620窟)に始まり、その後も造窟造仏が行われた。493年に北魏は平城から洛陽へ遷都、これ以降、北魏は凋落、534年に東魏・西魏に分かれてしまうが、中国仏教彫刻史ではこの460年から494年頃まで期間を本窟を代表させて雲崗期と呼ぶ。日本人建築学者伊東忠太が発見した。芥川は「雜信一束」の中で(引用は岩波版旧全集から)、

 

       十七 石彿寺

 

 藝術的エネルギイの洪水の中から石の蓮華が何本も歡喜の聲を放つてゐる。その聲を聞いてゐるだけでも、――どうもこれは命がけだ。ちよつと一息つかせてくれ給へ。

 

と述べている。また「龍門」は河南省洛陽市南方13㎞の伊河の両岸に形成された石窟寺院。中国仏教彫刻史の雲崗期の後を受けた龍門期(494520)と呼ばれる時期を代表するが、その後も造営維持管理は継続し、龍門石窟自体は唐代の第3代皇帝高宗(628683)の頃に最盛期を迎える。それを代表するものが高宗の発願になる龍門最大の石窟である675年造営になる奉先寺洞である。芥川は「雜信一束」の中で(引用は岩波版旧全集から)、

 

       十一 龍門

 

 黑光りに光つた壁の上に未に佛を恭敬(くぎやう)してゐる唐朝の男女の端麗さ!

 

と述べている。彼は洛陽滞在中の6月10日に龍門石窟を、北京滞在中の6月25日から7月9日の間に雲崗石窟をそれぞれ見学している(雲崗石窟は6月24日に訪問する予定であったが、列車のストライキにより行けなかったことが分かっている。なお、以上の両石窟の記載は主に「雲崗石窟」及び「龍門石窟」を中心に複数の頁を参照にした)。

・「京漢鐵道」現在、北京と広州を結んでいる南北縦貫鉄道(京広鉄道)2,324kmの北半分、北京から漢口(現・武漢市)間の全長約1,220kmの鉄道路線の名称。1897年に清がベルギーに借款を受けて着工、1906年、全線開通した。正式には平漢線と言ったようである(ネット上には京漢線に改称したのは1949年とする記載があり、分かりやすい通称として「京漢鉄道」は用いられていたか)。清朝政府はベルギー・ロシア・フランスが所有していた経営権を回収、1909年に国有化した。これに対する反対運動と暴動が、辛亥革命の大きな火種の一つとなった。芥川は「雜信一束」の中で(引用は岩波版旧全集から)次のように記している。

 

       八 京漢鐵道

 

 どうもこの寢臺車の戸に鍵をかけただけでは不安心だな。トランクも次手に凭せかけて置かう。さあ、これで土匪(どひ)に遇つても、――待てよ。土匪に過つた時にはテイツプをやらなくつても好いものかしら?

 

「土匪」土着民で生活の困窮から、武装して略奪や暴行殺人を日常的に行うようになった盗賊集団を言う。

 

・「南京蟲」昆虫綱半翅(カメムシ)目異翅亜目トコジラミ科トコジラミCimex lectulariusの別名。「トコジラミ」は、本種が咀顎目シラミ亜目Anopluraとは全く異なる以上、不適切な和名であると思う。私は木下順二のゾルゲ事件を題材とした『オットーと呼ばれる日本人』冒頭で、上海の共同租界でこれに刺される登場人物が。「あちっ!」と言うのが、ずっと記憶に残っている。それは灼熱のような刺しでもあるのかも知れぬ。

・「廬山」江西省九江市南部の名山。海抜1,474m。古くは陶淵明・李白・白居易ら文人墨客が訪れ、神聖な山として知られたが、また後には毛沢東ら中国共産党高官も避暑地としてここに山荘を構えた。1959年には毛沢東の右腕であった国防部長彭徳懐がここで開催された中国共産党政治局拡大会議(廬山会議)で追放された。因みに私はその彭徳懐最後の映像が、何故かひどく印象に残っているのである。芥川の「長江游記」では二章に渡って失望に満ちた皮肉な実見記を綴っている。

・「金山寺」江蘇省鎮江北西の金山にある寺。本篇の「二十六 金山寺」本文及び注に譲る。

・「蘇小小」5世紀末の南斉の銭塘(せんとう:現・浙江省杭州市の古名)にいたという名妓。現在の彼女の墓は西湖の北西、西泠(せいれい)橋畔にある。本篇の「七 西湖(二)」本文及び注に譲る。

・「秦淮」東晋及び南朝たる四王朝(宋・斉・梁・陳)の都となった健康(南京)の運河の名。両岸は遊郭であった。本篇の「二十八 南京(中)」本文及び注に譲る。

・「胡適」(Hú Shì ホゥ シ こせき又はこてき 18911962)は中華民国の学者・思想家・外交官。自ら改めた名は「適者生存」に由来するという。清末の1910年、アメリカのコーネル大学で農学を修め、次いでコロンビア大学で哲学者デューイに師事した1917年には民主主義革命をリードしていた陳独秀の依頼により、雑誌『新青年』に「文学改良芻議」をアメリカから寄稿、難解な文語文を廃し口語文にもとづく白話文学を提唱し、文学革命の口火を切った。その後、北京大学教授となるが、1919年に『新青年』の左傾化に伴い、社会主義を空論として批判、グループを離れた後は歴史・思想・文学の伝統に回帰した研究生活に入った。昭和6(1931)年の満州事変では翌年に日本の侵略を非難、蒋介石政権下の1938年には駐米大使となった。1942年に帰国して1946年には北京大学学長に就任したが、1949年の中国共産党国共内戦の勝利と共にアメリカに亡命した。後、1958年以降は台湾に移り住み、中華民国外交部顧問や最高学術機関である中央研究院院長を歴任した(以上の事蹟はウィキの「胡適」を参照した)。芥川龍之介は北京滞在中に胡適と会談している(芥川龍之介談「新藝術家の眼に映じた支那の印象」参照)。

・「黄鶴樓」湖北省武昌の西南の隅、長江を見下ろす高台ににある楼閣で、江南三大名楼の一として、李白や崔顥(さいこう)の詩で頓に知られる。芥川は「雜信一束」の中で(引用は岩波版旧全集から)、やはり感興を殺いだ如く、

 

      三 黄鶴樓

 

 甘棠酒茶樓(かんたうしゆちやろう)と赤煉瓦の茶館(ちやかん)、惟精顕眞樓(いせいけんしんろう)と言ふやははり赤煉瓦の写真館、――尤も代赭色の揚子江は目の下に並んだ瓦屋根の向うに浪だけ白じらと閃かせてゐる。長江の向うには大別山、山の頂には樹が二三本、それから小さい白壁の禹廟(うべう)………、

 僕――鸚鵡洲は?

 宇都宮さん――あの左手に見えるのがさうです。尤も今は殺風景な材木置場になつてゐますが。

 

と述べている。

 

・「前門牌(チエンメンはい)の煙草」“qiánmén”「牌」は「~印」の意。中国製シガレットの銘柄。

・「梅蘭芳(メイランフアン)」(méi lánfāng メイ ランファン 18941961)は、本名梅瀾(méi lán メイ ラン)、清末から中華民国・中華人民共和国を生きた著名な京劇の女形。名女形を言う「四大名旦」の一人(他は程硯秋、尚小雲、そして「白牡丹」こと荀慧生)。ウィキの「梅蘭芳」によれば、『日本の歌舞伎に近代演劇の技法が導入されていることに触発され、京劇の近代化を推進。「梅派」を創始した。20世紀前半、京劇の海外公演(公演地は日本、アメリカ、ソ連)を相次いで成功させ、世界的な名声を博した(彼の名は日本人のあいだでも大正時代から「メイランファン」という中国語の原音で知られていた。大正・昭和期の中国の人名としては希有の例外である)。日中戦争の間は、一貫して抗日の立場を貫いたと言われ、日本軍の占領下では女形を演じない意思表示としてヒゲを生やしていた。戦後、舞台に復帰。東西冷戦時代の1956年、周恩来の指示により訪日京劇団の団長となり、まだ国交のなかった日本で京劇公演を成功させた。1959年、中国共産党に入党。1961年、心臓病で死去。』とある。最初の訪日は大正7(1918)年である。芥川の「侏儒の言葉」には、 

 

      「虹霓關」を見て 

 

 男の女を獵するのではない。女の男を獵するのである。――シヨウは「人と超人と」の中にこの事實を戲曲化した。しかしこれを戲曲化したものは必しもシヨウにはじまるのではない。わたくしは梅蘭芳の「虹霓關」を見、支那にも既にこの事實に注目した戲曲家のあるのを知つた。のみならず「戲考」は「虹霓關」の外にも、女の男を捉へるのに孫呉の兵機と劍戟とを用ゐた幾多の物語を傳へてゐる。

 「董家山」の女主人公金蓮、「轅門斬子」の女主人公桂英、「雙鎖山」の女主人公金定等は悉かう言ふ女傑である。更に「馬上縁」の女主人公梨花を見れば彼女の愛する少年將軍を馬上に俘にするばかりではない。彼の妻にすまぬと言ふのを無理に結婚してしまふのである。胡適氏はわたしにかう言つた。――「わたしは『四進士』を除きさへすれば、全京劇の價値を否定したい。」しかし是等の京劇は少くとも甚だ哲學的である。哲學者胡適氏はこの價値の前に多少氏の雷霆の怒を和げる訣には行かないであらうか? 

 

とある。ここで芥川が言う京劇の女傑は、一般には武旦若しくは刀馬旦と呼ばれる。これら二つは同じという記載もあるが、武旦の方が立ち回りが激しく、刀馬旦は馬上に刀を振るって戦う女性を演じるもので歌唱と踊りを主とするという中国国際放送局の「旦」の記載(邦文)を採る。そこでは以下に登場する穆桂英(ぼくけいえい)や樊梨花(はんりか)は刀馬旦の代表的な役としている。以下に簡単な語注を附す(なお京劇の梗概については思いの外、ネット上での記載が少なく、私の守備範囲外であるため、岩波版新全集の山田俊治氏の注解に多くを依った。その都度、明示はしたが、ここに謝す)。

○「人と超人と」は“Man and superman”「人と超人」で、バーナード・ショー(George Bernard Shaw 1856 1950)が1903年に書いた四幕の喜劇。モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」をモチーフとする。市川又彦訳の岩波書店目録に附されたコピーには『宇宙の生の力に駆られる女性アンは、許婚の詩人ロビンスンを捨て、『革命家必携』を書いた精力的な男タナーを追いつめ、ついに結婚することになる』と記す。山田俊治氏の注では、『女を猟師、男を獲物として能動的な女を描いた』ともある。

○「虹霓關」は「こうげいかん」と読む。隨末のこと、虹霓関の守備大将であった東方氏が反乱軍に殺される。東方夫人が夫の仇きとして探し当てた相手は、自分の幼馴染みで腕の立つ美男子王伯党であった。東方夫人は戦いながらも「私の夫になれば、あなたを殺さない」と誘惑する。伯党は断り続けるが、夫人は色仕掛けで無理矢理、自分の山荘の寝室に連れ込み、伯党と契りを結ぼうとする。観客にはうまくいったかに思わせておいて、最後に東方夫人は王伯党に殺されるという悲惨なストーリーらしい(私は管見したことがないので、以上は複数のネット記載を参考に纏めてみたもの)。山田俊治氏の注によると、『一九二四年一〇月、梅蘭芳の第二回公演で演じられた。』とし、芥川が観劇したのが梅蘭芳の大正8(1919)年の初来日の折でないことは、『久米正雄「麗人梅蘭芳」(「東京日日」一九年五月一五日)によってわかる』とある。しかし、この注、久米正雄「麗人梅蘭芳」によって初来日では「虹霓関」が演目になかったから、という意味なのか、それともその記載の中に芥川が初来日を見損なったことが友人久米の手で書かれてでもいるという意味なのか、どうも私が馬鹿なのか、今一つ『わかる』の意味が分らない。どなたか分かる方は御教授を乞う。

○「孫呉」孫武と呉起の併称。孫武(生没年未詳)は兵法書「孫子」の著者で、紀元前5世紀頃、春秋時代に活躍した兵家。呉起(?~B.C.381)は兵法書「呉子」の著者で、戦国時代の軍人・政治家。孫武とその子孫である孫臏と並んで兵家の祖とされ、兵法は別名孫呉の術とも呼ばれる。

○『「戲考」』「十 戲臺(下)」にも現れるこれは、王大錯(おうだいさく)の編になる全40冊からなる膨大な脚本集(1915年から1925年の長期に亙る刊行)で、梗概と論評を附して京劇を中心に凡そ六百本を収載する。

○「兵機」は戦略・戦術の意。

○「董家山」山田俊治氏の注によると、『金蓮は、容姿、武勇ともに傑れた女傑。領主である父の死後、家臣と山に籠り山賊となり、一少年を捕虜とする。彼を愛して結婚を強要、その後旧知の間柄とわかり結ばれる』というストーリーである。

○「轅門斬子」は「えんもんざんし」と読む。別名「白虎帳」。野村伸一氏の論文「四平戯――福建省政和県の張姓宗族と祭祀芸能――」(PDFファイルでダウンロード可能)によると、『宋と遼の争いのなか、楊延昭は息子の楊六郎(宗保)を出陣させる。ところが、敵の女将軍穆桂英により敗戦を強いられ、楊宗保は宋の陣営に戻る。しかし、父の楊延昭は息子六郎が敵将と通じるという軍律違反を犯したことを理由に、轅門(役所の門)において、息子を斬罪に処するように指示する。/そこに穆桂英が現れる。そして楊延昭の部下を力でねじ伏せ、楊六郎を救出する。こののち女将軍穆桂英と武将孟良の立ち回りが舞台一杯に演じられる。』(改行は「/」で示し、写真図版への注記を省略、読点を変更した)とあり、山田俊治氏の注では、宋代の物語で、穆桂英は楊宗保を夫とし、楊延昭を『説得して、その軍勢に入って活躍する話』とする。題名からは、前段の轅門での息子楊宗保斬罪の場がないとおかしいので、野村氏の記す平戯の荒筋と京劇は同内容と思われる。

○「雙鎖山」山田俊治氏の注によると、『宋代の物語。女賊劉金定は若い武将高俊保へ詩をもって求婚、拒絶されて彼と戦い、巫術を使って虜にし、山中で結婚する』とある。

○「馬上縁」明治大学法学部の加藤徹氏のHP「芥川龍之介が見た京劇」によれば、唐の太宗の側近であった武将薛仁貴(せつじんき)の息子薛丁山が父とともに戦さに赴くも、敵将の娘の女傑樊梨花に一目惚れされてしまい、無理矢理夫にされてしまう、とある。山田俊治氏の注によると、二人は前世の因縁で結ばれており、梨花はやはり仙術を以って丁山と結婚を遂げるとある。

○「四進士」恐らく4人の登場人物の数奇な運命を描く京劇。山田俊治氏の注によると、『明代の物語で、楊素貞が夫の死後身売りされ、商人と結ばれ、彼女を陥れた悪人を懲す話』で、外題にある四人の同期に科挙に登第した進士は、一人を除いて悪の道に入ってしまうといった『複雑な筋に比して、正邪が明確で、情節共に面白く、旧劇中の白眉と胡適が推称した』と記す。

・「嫦蛾」は、「竹取物語」の原典とも言われる晋代の干宝の撰になる「捜神記」をもとにした京劇「嫦娥奔月」のヒロイン、月の天女。191521歳の時に初演して以来、梅蘭芳の当り役であった。

・「腸胃の病の爲に、三月ばかり中絶してゐた、私の紀行の事」本注冒頭注参照。

・『「留東外史」』民国平江不肖生著上海民権出版部1916年刊行の中国人によって書かれた中国人留学生の赤裸々な私生活を活写した通俗小説。東京都立図書館HPの特別コレクションのページ中の「留東外史」に筆者の本名・正体他、詳細な記載がある。岩波新全集の神田由美子氏の注解では『大胆な性欲描写のため、周作人によって淫書だと評されている』とある。

・「戸山ケ原」は、岩波新全集の神田由美子氏の注解によると、1874年から『第二次世界大戦中まで陸軍用地だった東京と新宿区の原野(現、大久保三丁目辺)。陸軍戸山学校(現、新宿区戸山町)の西北にあたり、射撃場、陸軍科学研究所、陸軍技術本部もあった。演習のための広大な原っぱだったので、民間人の格好の行楽の地であったとともに、多くの犯罪もおこった』とある。

・「大阪の社」芥川龍之介が社員であった大阪毎日新聞社。芥川が中国へ行った肩書きも同社の中国特派員による。「上海游記」の私の諸注を参照。

・「薄田」大阪毎日新聞社学芸部部長の薄田淳介(じゅんすけ)、詩人薄田泣菫(すすきだきゅうきん 明治101877)年~昭和201945)年)の本名である。明治後期の詩壇に蒲原有明とともに燦然たる輝きを放つ詩人であるが、明治末には詩作を離れ、大阪毎日新聞社に勤めつつ、専ら随筆を書いたり、新進作家の発表の場を作ったりした。この大正8(1919)年には学芸部部長に就任、芥川龍之介の社友としての招聘も彼の企画である。但し、大正6(1917)年に発病したパーキンソン病が徐々に悪化、大正121923)年末には新聞社を休職している。「度度薄田氏に、迷惑をかける」というのは、この芥川の中国特派に際し、しょっぱなからの病気による遅延による躓きに始まり、上海での入院、現地からするはずであった特派員報告の完全不履行等、社交辞令でなく、芥川には、尊敬する詩人でもあった薄田に対し、内心忸怩たるものがあったと言ってよい。具体的には本注の冒頭注及び「上海游記」の私の諸注を参照されたい。

・「かたがた」は、人称代名詞や名詞ではない。「以上のいろいろなことを考え合わせると」、「いずれにしても」の意の副詞である。

・「御互に」の部分は授業であれば高校生に質問してみたいところである。老婆心乍ら言っておくと、芥川龍之介と「天災と諦め」ねばならない「讀者」では意味が通じない。芥川龍之介と「薄田氏」にとって、の意である。]

2009/06/19

最後の山

相応の感慨をもって明朝より西丹沢へ向かう――悲しいかな、これが最後の山行となる――1・2年のいない我が部は、これをもって休眠することと相成る――過去三年の山の友よ、ありがとう――いつかまた、どこかで!

2009/06/18

梅蘭芳

この「彼女」は誰(たれ)よりも美しい!

芥川龍之介「江南游記」電子テクスト化作業開始

今朝、芥川龍之介「江南游記」電子テクスト化作業を始動した。ついてはブログ・カテゴリに『芥川龍之介「江南游記」』を創始した。勿論、今回も「上海游記」と同様、詳細な僕の注記を附す予定である(但し、山岳部最後の山行等、仕事が詰んでおり、義母の具合も思わしくないので、公開はゆっくりとなろう)。

2009/06/17

芥川龍之介 上海游記 やぶちゃん注釈附き完全版

芥川龍之介「上海游記」やぶちゃん注釈附き完全版を正字正仮名で「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」に公開した。

完全版でしたかった一番のこと――

知人が教えてくれた「北京大学京劇昆曲愛好者協会」の「旦角老照片(一)」の頁へのリンク――

至宝梅蘭芳! 白牡丹荀慧生!

本テクストは白牡丹荀慧生に捧げようと思う――

2009/06/16

霊現象

貴様らの「お分かりいただけるだろうか」というナレーションには飽き飽きしてるんだ! 貴様ら! もっとしっかりした役者の卵を「しっか」と使え! 大馬鹿者どもが!

予告

明日、芥川龍之介の「上海游記」全篇をアップする。今日一日かけて、注のブラッシュ・アップを行った。

少なくとも、今年の元旦の祈願を、一つ、遂げることが出来る――

無題

どうもいけない

何かが一つ終わるつど

僕は死を望む

上海游記 二十一 最後の一瞥 / 芥川龍之介「上海游記」全篇掲載終了

       二十一 最後の一瞥

 村田君や波多君が去つた後、私は卷煙草を啣へた儘、鳳陽丸の甲板へ出て見た。電燈の明い波止場には、もう殆人影も見えない。その向うの往來には、三階か四階の煉瓦建(れんがだて)が、ずつと夜空に聳えてゐる。と思ふと苦力(クウリイ)が一人、鮮かな影を落しながら、目の下の波止場を歩いて行つた。あの苦力と一しよに行けば、何時か護照(ごせう)を貰ひに行つた日本領事館の門の前へ、自然と出てしまふのに相違ない。

 私は靜かな甲板を、船尾の方へ歩いて行つた。此處から川下を眺めると、バンドに沿うた往來に、點點と燈が燦(きらめ)いてゐる。蘇州河の口に渡された、晝は車馬の絶えた事のないガアドン・ブリツヂは見えないかしら。その橋の袂の公園は、若葉の色こそ見えないが、あすこに群つた木立ちらしい。この間あすこに行つた時には、白白と噴水が上つた芝生に、SMCの赤半被(あかはつぴ)を着た、背むしのやうな支那人が一人、卷煙草の殼を拾つてゐた。あの公園の花壇には、今でも鬱金香(チユリツプ)や黄水仙(きすいせん)が、電燈の光に咲いてゐるであらうか? 向うへあすこを通り拔けると、庭の廣い英吉利領事館や、正金銀行(しやうきんぎんかう)が見える筈である。その横を川傳ひにまつ直行(ゆ)けば、左へ曲る横町に、ライシアム・シアタアも見えるであらう。あの入り口の石段の上には、コミツク・オペラの畫看板(ゑかんばん)はあつても、もう人出入は途絶えたかも知れない。其處へ一臺の自動車が、まつ直ぐに河岸(かし)を走つて來る。薔薇の花、絹、頸飾りの琥珀、――それらがちらりと見えたと思ふと、すぐに眼の前から消えてしまふ。あれはきつとカルトン・カツフエヘ、舞蹈に行つてゐたのに違ひない。その跡は森(しん)とした往來に、誰か小唄をうたひながら、靴音をさせて行くものがある。Chin chin Chinaman――私は暗い黄浦江の水に、煙草の吸ひさしを抛りこむと、ゆつくりサロンヘ引き返した。

 サロンにもやはり人影はない。唯絨氈(じうたん)を敷いた床に、鉢物の蘭の葉が光つてゐる。私は長椅子によりかかりながら、漫然と囘想に耽り出した。呉景濂(ごけいれん)氏に合つた時、氏は大きな一分刈の頭に、紫の膏藥を貼りつけてゐた。さうして其處を氣にしながら、「腫物が出來ましてね。」とこぼしてゐた。あの腫物は直つたかしら?――醉歩蹣跚(まんさん)たる四十起氏と、暗い往來を歩いてゐたら、丁度我我の頭の上に、眞四角の小窓が一つあつた。窓は雨雲の垂れた空へ、斜に光を射上(いあ)げてゐた。さうして其處から小鳥のやうに、若い支那の女が一人、目の下の我我を見下してゐる。四十起氏はそれを指さしながら、「あれです、廣東※(カントンピー)は。」と教へてくれた。あすこには今夜も不相變、あの女が顏を出してゐるかも知れない。[やぶちゃん字注:「※」=「女」+「非」。]――樹木の多い佛蘭西租界に、輕快な馬車を走らせてゐると、ずつと前方に支那の馬丁が、白馬二頭を引つ張つて行く。その馬の一頭がどう云ふ訣か、突然地面へころがつてしまつた。すると同乘の村田君が、「あれは背中が掻いんだよ。」と、私の疑念を晴らしてくれた。――そんな事を思ひ續けながら、私は煙草の箱を出しに、間着(あひぎ)のポケツトヘ手を入れた。が、つかみ出したものは、黄色い埃及(エジプト)の箱ではない、先夜其處に入れ忘れた、支那の芝居の戲單(シイタン)である。と同時に戲單の中から、何かがほろりと床へ落ちた。何かが、――一瞬間の後、私は素枯れた白蘭花(パレエホオ)を拾ひ上げてゐた。白蘭花(パレエホオ)はちよいと嗅いで見たが、もう匂さへ殘つてゐない。花びらも褐色に變つてゐる。「白蘭花(パレエホオ)、白蘭花(パレエホオ)」さう云ふ花賣りの聲を聞いたのも、何時か追憶に過ぎなくなつた。この花が南國の美人の胸に、匂つてゐるのを眺めたのも、今では夢と同樣である。私は手輕な感傷癖に、墮し兼ねない危險を感じながら、素枯れた白蘭花(パレエホオ)を床へ投げた。さうして卷煙草へ火をつけると、立つ前に小島氏が贈つてくれた、メリイ・ストオプスの本を讀み始めた。

[やぶちゃん注:本篇は後の芥川龍之介の「玄鶴山房」に実に巧妙にインスパイアされているように私には思われるのである。どこがどうそうであるかは、御自身でご判断頂きたい。もしかすると「玄鶴山房」はとんでもない寓話小説であるのかも知れないという気が、今の私にはしさえするのである――。

・「鳳陽丸」同名の船が長澤文雄氏のHP「なつかしい日本の汽船」の「明治後期-大正期」のページに、日清汽船所有船舶として写真付きで掲載されている(通し番号15)。その資料によれば、大正4(1915)年に貨物船「鳳陽丸」“ FENG YANG MARU”として進水、船客 は特1等16名・1等18名・特2等10名・2等60名・3200名。昭141939)年に東亞海運(東京)の設立に伴って移籍した。そして『1944.8.31(昭19)揚子江の石灰密(30.10N,115.10E)で空爆により沈没』とあるので、この船に間違いないと思われる。

・「苦力(クウリイ)」“ kǔ”は本来は肉体労働者の意であるが、筑摩版脚注では、中国語で『港湾の荷積労務者』とする。何故か知らないが、私の意識の中にもそのような限定したものがあったので、この注はしっくりきた。

・「護照」これは現代中国語ではパスポートの意であるが、これは当時、中国国内を旅行する外国人に対して中国政府が発行した旅行許可証である。現在の査証に相当するものか。

・「バンド」この“bund”は固有名詞である。黄浦江と蘇州河の合流点から南の金陵路までの中山東一路沿いの黄浦江西岸を言う。中国名で「外灘」“wàitān”(ワイタン)は、英語名で“Bund”(海岸通り)とも呼ばれ、租界時代の上海のシンボルであった。

・「蘇州河」上海市街を東西に蛇行しながら黄浦江に流れ込む川。黄浦江とともに上海では「母なる川」と呼ばれる。

・「ガアドン・ブリツヂ」“Garden Bridge”は中国名「外白渡橋」。1906年に竣工した蘇州河に架かる橋(竣工年はネット上では1907年ともあり、岩波新全集注解では1909年とある)。イギリスのクリープランド橋梁社設計の鉄骨製ワーレン・トラス(平行弦の中に二等辺三角形が上向き・下向きになって並ぶ形)橋。船舶の航行を考え、中央を少し高くしてある。ここから南の外灘(ワイタン)は黄浦江岸の中山路(中山東路)に沿ってあるが、その東側に“Public Garden”パブリック・ガーデンが広がっていた。その端に位置することから、こう呼ばれた。なお、中国名について、中国人は通行禁止、白人(外国人)は無料で渡れるという意味であるという記載をよく見かけるが、CAMEL STUDIO LTD. Isao FUKUI氏の「尋夢老上海「ガーデン・ブリッジ」に『本来「外側にある渡し場」という意味の「外罷渡口」という場所であったところに架かったために、それが訛ったのだ、というのが正しい由来』と説明されている。この方のHP、本作の頃の時代の上海を見るに相応しい美事なサイトである。

・「その橋の袂の公園」“Public Garden”パブリック・ガーデンのこと。前注参照。

・「S・M・C」は“Shanghai Municipal Council Public Works Department”の略称(正確には“SMC PWD”)。上海工部局と訳される。「工部局」は上海・天津などの租界に設置された自治行政機関。1854年に成立した直後は土木建設事業権のみであったが、後に行政権や警察権をも司る機関となった。太平天国の乱を契機に上海に英米仏三国によって組織されたこれが最初のもので、租界の最高行政管理機構である。外灘(ワイタン)の二本裏側の通りの「裏バンド」と呼ばれる江西中路にあった。

・「鬱金香(チユリツプ)」ユリ目ユリ科チューリップ属Tulipaの植物の総称。和名は鬱金香(うこんこう・うっこんこう)、中文名も同じく鬱金香である。 

・「正金銀行」は株式会社横浜正金銀行(英名“Yokohama Specie Bank, Ltd.”)と言った日本の特殊な銀行。経済系は私の最も苦手とする分野なので、以下、ウィキの「横浜正金銀行」からまるまる引用する。『神奈川県横浜市中区に本店を置いた。東京銀行(現在の三菱東京UFJ銀行)の前身とされる。貿易金融・外国為替に特化した銀行であり、明治維新後急速に成長し、やがて列強の仲間に加わっていく日本を国際金融面で支え、香港上海銀行(HSBC)、チャータード・マーカンタイル銀行(1959HSBC傘下に入り、1982HSBCに吸収)と並ぶ外国為替銀行へと発展していった。だが、関東大震災と昭和恐慌で大きな打撃を受け、更に15年戦争・第二次世界大戦においては日本の軍需に必要な外国通貨収集の為の機関と看做されたために、敗戦後の1946年にGHQの指令によって解体・清算され、外国為替銀行としての役割は新たに設立された東京銀行に引き継がれる事になった。』

・「ライシアム・シアタア」“Lyceum Theater”。現在、上海の茂名南路と長楽路との交差点にある劇場「蘭心大戯院」は英名“Lyceum Theater”である。ここについて、ネット上の情報ではガイド・マップ等に、イギリス人のアマチュア劇団のために造られた劇場で、この建物は3代目であるとし、1931年、現在地に鉄筋コンクリート製の劇場を新築したと書かれてあるらしい(ガイド・マップの書誌が不明に付、該当ブログ記事のリンクは張らないが、新築ということはそれ以前に2代を経ているということを示すか? だとすれば恐らく同一物であろうと思われる)。その後、知人から1886年に中国初の西洋式舞台として建てられたというメールと中文サイト「文明中華」の同建物についてのリンク(写真あり)を貰って、同一建物であることが判明した。

・「コミツク・オペラ」“comic opera”滑稽味をねらった軽い内容のオペラ。喜歌劇。

・「カルトン・カツフエ」“Calton Café”は中国名「寧波路飯店」と言い、ダンス・ホールとして有名で、店名はフランス語だが、アメリカ資本であった(1920年時点。「「早稻田政治經濟學雜誌」No.357,2004.140-158 本野英一氏の論文「在華イギリス籍会社登記制度と英中・英米経済関係,1916 1926」の「注(38)」による。同論文はPDFファイルでネット閲覧が可能)。

・「Chin chin Chinaman」英語の“chin-chin”は通常は間投詞で「乾杯!」「ごきげんよう!」「やあ!」、グラスをぶつけ合う音としての「チン! チン!」は乾杯の挨拶としては汎世界的であるが、ここでは後の中国人の蔑称である“Chinaman”の更なる短縮蔑称である。差別語としての“Chinaman”については英語辞書によれば、例えば“Chinaman's chance”はわずかな可能性という意味、尚且つ、無きに等しいような否定的構文で用いられるとある。筑摩注は『シッシッ支那人』、岩波注では『チャンチャンシナ人』と訳している。私は“chin chin”が中国人にどう聞えるか定かでないのだが、拼音(ピンイン)で「チチ」と聴こえると思われる“chichi”(拼音では“chin”の綴りはない)若しくは「チンチン」聴こえると思われる“jinjin”“qingqing”の語を中国語辞典で引いてみると、“chíchí”が副詞で「痴痴」(ぼんやりと)、形容詞で「遅遅」(遅々としている、ゆっくりだ)と鈍間(のろま)のニュアンスがあり、“jĭinjĭin”が副詞で「僅僅」(僅かに)、「緊緊」(きつく、ひっきりなしに)の欠乏や慌しいマイナーな意味を示し、“qīngqīng”には形容詞で「青青」(髪や髭を剃った後に青青している)、副詞で「輕輕」(軽く、軽々しく、軽い気持ちで)というようなどちらかと言えばいいとは言えないイメージが付随する(但し“qīngqing”だと「清清」で澄んだの強調形としてのよいニュアンスもあるようではある)。

・「呉景濂」(wú jĭnglián ウ チンリェン ごけいれん 18751944)中華民国の国民党の政治家。日本の留学経験あり。衆議院議長。1920年前後に従弟で軍人の王承斌(Wáng Chéngbīn ワン チョンビン おうしょうひん 18741936)らと共に直隷派として北京政府で勢力を振るったが、安徽派の段棋瑞の復活によって1925年には政界から追われた。

・「廣東※(カントンピー)」[「※」=「女」+「非」。]“guăngdōngfēi”中国語で「広東の売春婦」の意。「※」は容貌が醜いことを言うが、もう一つの意、行っては戻ること、という動作を、街娼の行動に当て嵌めたのではないかとも思う。

・「間着」は「合い服」のこと。

・「黄色い埃及の箱」この煙草は“CAMEL”「キャメル」であろう。パッケージ・デザインは砂漠とピラミッドの黄色と佇むラクダである。当時は米国のR.J.レイノルズ社の銘柄で、芥川の盟友菊池寛の愛飲煙草でもあったらしい。

・「戲單(シイタン)」“xìdān”芝居のチケット。この描写によって芥川龍之介が前日5月16日の夜に芝居を見ていることが判明する。これは「上海游記 九 戲臺(上)」で推測したある事実が確定的な真実であったことを感じさせるのである! 該当篇の「緑牡丹」のスリリングな注を是非、参照されたい。

・「白蘭花(パレエホオ)」“báilánhuā”はモクレン目モクレン科ミケレア属Michelia albaで、和名はギンコウボク(銀厚朴)又はハクギョクラン(白玉蘭)という。常緑高木樹。インドネシア・フイリピン原産。花は腋生し、強い芳香を持っており、肉厚で白色、少し経つと黄色を帯びるようになる。中国ではこの花を胸に挿したりレイにしたりたりして女性のアクセサリーや香水の代用にしたり、また漢方薬として慢性気管支炎に用いたりする。

・「この花が南國の美人の胸に、匂つてゐるのを眺めたのも」これは「十六 南國の美人(中)」に登場する妓女洛娥の面影であろう。該当箇所には「洛娥と云ふのは、貴州の省長王文華と結婚するばかりになつてゐた所、王が暗殺された爲に、今でも藝者をしてゐると云ふ、甚薄命な美人だつた。これは黒い紋緞子に、匂の好い白蘭花(パレエホア)を插んだきり、全然何も着飾つてゐない。その年よりも地味ななりが、涼しい瞳の持ち主だけに、如何にも清楚な感じを與へた。」とある。

・「メリイ・ストオプス」Marie Charlotte Carmichael Stopes マリー・ストープス(1880-1958)はイギリスの生物学者・性科学者。植物学者・地質学者としてスタートするが、1921年、新全集の神田由美子氏の注によれば『女性は社会的活動と母性の両方を追求すべきだと説き、ロンドンに労働者階級の診療所を開き、産児制限運動に尽力』するようになったとある。彼女はそう呼ばれることを嫌うかも知れないが、優生学者への転身と言うべきであろう。著書に「結婚愛」(邦訳副題「男女の性問題へのみちびき」)や避妊をテーマとした「賢明なる親」(1918)、「避妊――理論・歴史・実践」(1923)等がある。1907年、当時イギリスに留学していた植物学者藤井健次郎(慶応2(1866)年~昭和271952)年 後、明治441911)年に東京帝国大学教授となり、1918年には日本初の遺伝学講座を開講している)の後を追って来日したが、失意のうちに1909年にイギリスに帰国している。日本の産児制限運動や初期の女性運動にも大きな影響を与えたとされる。最後に、英文学者村山敏勝氏のブログ「読んだから書いた」の「性の革命―マリー・ストープス伝」の読後記事をも読まれんことをお薦めしておく。]

上海游記 二十 徐家匯

      二十 徐家※

[やぶちゃん字注:「※」は「匯」の「氵」を(くがまえ)の左に(さんずい)として出す字体。]

 

 明の萬暦(まんれき)年間。墻外(せうぐわい)。處處に柳の立木あり。墻の彼方に天主堂の屋根見ゆ。その頂の黄金の十字架、落日の光に輝けり。雲水の僧一人、村の童と共に出で來(きた)る。

 雲水。徐公(ぢよこう)の御屋敷はあすこかい?

 童。あすこだよ。あすこだけれど――叔父さんはあすこへ行つたつて、御齋(おとき)の御馳走にはなれないぜ、殿樣は坊さんが大嫌ひだから。

 雲水。よし。よし。そんな事はわかつてゐる。

 童。わかつてゐるのなら、行かなければ好(よ)いのに。

 雲水。(苦笑) お前は中中口が惡いな。私は掛錫(くわいしやく)を願ひに行くのぢやない。天主教の坊さんと問答をしにやつて來たのだ。

 童。さうかい。ぢや勝手におし。御家來たちに打たれても知らないから。

 童走り去る。

 雲水。(獨白)あすこに堂の屋根が見えるやうだが、門は何處にあるのかしら。

 紅毛の宣教師一人、驢馬に跨りつつ通りかかる。後に僕(しもべ)一人從ひたり。

 雲水。もし、もし。

 宣教師驢馬を止む。

 雲水。(勇猛に)什麼(いづれ)の處より來(きた)る?

 宣教師。(不審さうに)信者の家に行つたのです。

 雲水。黄巣過ぎて後、還つて劍を收得するや否や? 

 宣教師呆然たり。

 雲水。還つて劍を收得するや否や? 道(い)へ。道へ。道はなければ、――

 雲水如意を揮ひ、將に宣教師を打たんとす。僕雲水を突き倒す。

 僕。氣違ひです。かまはずに御出なさいまし。

 宣教師。可哀さうに。どうも眼の色が妙だと思つた。

 宣教師等去る。雲水起き上る。

 雲水。忌忌しい外道だな。如意まで折つてしまひ居つた。鉢は何處へ行つたかしら。

 墻内よりかすかに讚頌(さんせう)の聲起る。

 

         *   *   *   *   *

 

 清の雍正(えうせい)年間。草原。盛虞に柳の立木あり。その間に荒廢せる禮拜堂見ゆ。村の娘三人、いづれも籃(かご)を腕にかけつつ、蓬なぞを摘みつつあり。

 甲。雲雀の聲がうるさい位だわね。

 乙。ええ。あら、いやな蜥蜴だ事。

 甲。姉さんの御嫁入りはまだ?

 乙。多分來月になりさうだわ。

 丙。あら、何でせう、これは? (土にまみれたる十字架を拾ふ。丙は三人中、最も年少なり。)人の形が彫つてあるわ。

 乙。どれ? ちょいと見せて頂戴。これは十字架と云ふものだわ。

 丙。十字架つて何の事?

 乙。天主教の人の持つものだわ。これは金ぢやないかしら?

 甲。およしなさいよ。そんな物を持つてゐたり何かすると、又張さんのやうに首を斬られるわ。

 丙。ぢや元の通り埋て置きませうか?

 甲。ねえ、その方が好くはなくつて?

 乙。さうねえ。その方が間違ひがなささうだわね。

 娘等去る。數時間の後、暮色次第に草原に迫る。丙、盲目(まうもく)の老人と共に出で來る。

 丙。この邊だつたわ。お祖父さん。

 老人。ぢや早く搜しておくれ。邪魔がはいるといけないから。

 丙。ほら、此處にあつたわ、これでせう?

 新月の光。老人は十字架を手にせる儘、徐(おもむろ)に默禱の頭(かしら)を垂る。

 

         *   *   *   *   *

 

 中華民國十年。麥畑の中に花崗石の十字架あり。柳の立木の上に、天主堂の尖塔、吃然(きつぜん)と雲端(うんたん)を摩(ま)せるを見る。日本人五人、麥畑を縫ひつつ出で來(きた)る。その一人は同文書院の學生なり。

 甲。あの天主堂は何時頃出來たものでせう?

 乙。道光の末(すゑ)ださうですよ。(案内記を開きつつ)奥行二百五十呎(フイイト)、幅百二十七呎(フイイト)、あの塔の高さは百六十九呎(フイイト)ださうです。

 學生。あれが墓です。あの十字架が、――

 甲。成程、石柱や石獸が殘つてゐるのを見ると、以前はもつと立派だつたのでせうね。

 丁。さうでせう。何しろ大臣の墓ですから。

 學生。この煉瓦の臺座に、石が嵌めこんであるでせう。これが徐氏の墓誌銘です。

 丁。明故少保加贈大保禮部尚書兼文淵閣大學士徐文定公墓前十字記とありますね。

 甲。墓は別にあつたのでせうか?

 乙。さあ、さうかと思ひますが、――

 甲。十字架にも銘がありますね。十字聖架萬世瞻依か。

 丙。(遠方より聲をかける。)ちょいと動かずにゐてくれ給へ。寫眞を一枚とらせて貰ふから。

 四人十字架の前に立つ。不自然なる數秒の沈默。

 

[やぶちゃん注:標題の「徐家※」[「※」は「匯」の「氵」を(くがまえ)の左に(さんずい)として出す字体。]は、「徐家匯」でよいと思われる。現・上海市の西部にある徐匯区のこと。その主な部分は旧徐光啓(後掲「徐公」注参照)邸宅跡である。19世紀にはフランスのイエズス会の天主堂が置かれ、中国でのカトリック教会布教本部となった。日本が設置した私立学校同文書院もここにあった。現在は市区と郊外とを結ぶ交通の中心で、上海を代表する商業エリアでもある。 

・「明の萬暦年間」明の第14代皇帝神宗(一世一元制であったので日本ではその在位の間の元号を用いて万暦帝と呼ぶのが一般的)の治世、1573年から1620年の47年間。

・「墻外」垣根や塀の外。

・「徐公」徐光啓(じょこうけい 15621633)のこと。明代末の暦数学者。1599年、イタリア人イエズス会司祭マテオ・リッチ(Matteo Ricci 中国名 利瑪竇 りまとう Lì Mǎdòu 15521610)の名声を聞き、南京に行って教えを受け、1603年に受洗した。その後、進士に登第して翰林院庶吉士となったが、リッチとの交流の中で、天文学・地理・物理・数学等についてのリッチの知見をもとに西洋の自然科学書等を翻訳、多くの書籍として公刊した。特に最初の刊行になるユークリッド幾何学の翻訳「幾何原本」が知られる。その博識は当時の崇禎帝からも尊敬され、枢機・太子太保を歴任した。「農政全書」「崇禎暦書」等、著書多数。以上の徐光啓の事蹟はウィキの「徐光啓」の記載を参照したが、その最後には彼は『カトリックの教えは儒教を補うものと考えており、そのため迫害を蒙らずに、高位に昇ることができた』と説明されている。

・「御齋」本来は仏家の午前中にする食事(朝粥と早い昼食)。通常、仏者は午前中のみで、午後は食事をしないのを原則とするが、それでは参ってしまうので「おとき」→「御時」→「時」に対して、夕食等は「非時」(ひじ)と言う。ここはしかし、街の童の言葉であるから、ただお寺で出す食事のことを言っている。

・「掛錫」読みは「かしゃく」が正しい。行脚の雲水が旅先の僧堂に入ることを許され、錫杖を壁の鉤に掛けること。そこから、雲水が僧堂に入門することをも言うようになった。ここでは本来の意。

・「什麼の處より來る?」「什麼」は通常は「いかん」と読み(音は「じゅま」であるが、まず「じゅま」とは読まない)、「如何に?」・「何?」・「どんな?」といった疑問の意を示す宋代の俗語で、禅の公案に特徴的な常套句。同じく頻繁に見るものは「什麼生」(そもさん)で、やはり「どうだ?!」「いかに?!」の意である。これは「碧巌録」の第六十六則(次注参照)の最初の公案である。

・「黄巣過ぎて後、還つて劍を收得するや否や?」これは「碧巖録」の第六十六則等に示される巌頭・雪峰両和尚に纏わる公案である。著語(じゃくご:下語(あぎょ)とも言い、禅宗にあって語録の語句に評言を付すこと及びその評言。)を除いた本則のみの原文を岩波文庫版より引用する。但し、私のポリシーから漢字を正字に直した。淵藪野狐禅師による書き下し文と現代語訳・語注も附した。

 

擧。巖頭問僧、什麼處來。僧云、西京來。頭云、黄巣過後、還收得劍麼。僧云、收得。巖頭、引頸近前云、※。云、師頭落。巖頭、呵呵大笑。、僧、後到雪峰。峰問、什麼處來。僧云、巖頭來。峰云、何有言句。僧、擧前話。雪峰、打三十棒趕出。[やぶちゃん字注:「※」=(くにがまえ)の中に「力」。]

 

○淵藪野狐禅師書き下し文

 擧(こ)す、巖頭、僧に問ふ。

「什麼(いづれ)の處より來(きた)る。」

僧云く、

「西京より來る。」

と。

 頭云ふ。

「黄巣過ぎて後、還つて劒を收得せしや。」

僧云く、

「收得す。」

と。

 巖頭、頸を引(の)べて近前して云ふ。

「※(くわ)。」

僧云く、

「師の頭、落ちぬ。」

と。

 巖頭、呵呵大笑す。

 僧、後に雪峰に到る。峰問ふ。

「什麼の處より來る。」

僧云く、

「巖頭より來る。」

と。峯云ふ。

「何の言句(ごんく)か有る。」

僧、前話を擧す。

 雪峯、打つこと三十棒して趕(お)ひ出だす。

 

○淵藪野狐禅師訳

 さても公案を挙げよう!――

 

 ある時、巖頭和尚は、彼の元にその日、外から参禅して来た、ある僧に最初に訊ねた。

「お主は一体、何処(どこ)から来た?」

僧は応えて言った。

「長安から参りました。」

 巖頭は、顔を顰めながらも、次の問いを発した。

「黄巣の乱が過ぎて後、お主は天から落ちた剣を拾ったか?」

僧は力んで答えた。

「拾いました!」

 巖頭は、すうっと頸を伸ばして僧の近くに寄ると、

「クヮッ!」

と発した。僧はしかし、食い下がって答えた。

「師よ! 今、師の頭(かしら)が、落ちました!」

 巖頭は、呵呵と大笑した。

 

 後に僧は、この問答に納得出来ず、今度は雪峰和尚の元へと参禅した。すると雪峰は、やはり僧に次のように訊ねた。

「お主は一体、何処(どこ)から来た?」

僧は応えて言った。

「巖頭和尚の元から参りました。」

それを聞いた雪峰は、やはり顔を顰めながらも、我慢して重ねて訊ねた。

「そこではどのような問答が発せられたか?」

僧は、前(さき)の話を一言一句漏らさず話した。――

――すると即座に雪峯は、この僧をしたたかに六十回、拄杖(しゅじょう)で打(ぶ)った上、最後によれよれになった僧の尻をぱーんと叩くと、庵室から追い出してしまった。

 

以下に簡単な補注を附す。この設定は「黄巣過後」という巖頭の公案から見て、885887年頃に設定されている。因みに、この巖頭と雪峰に纏わる別な素晴らしい公案、私のテクスト「無門関 全 淵藪野狐禅師訳注版の「十三 徳山托鉢」を、是非お読み頂きたい。

○「巖頭」は巖頭全豁(がんとうぜんかつ 828887)。唐末の禅僧。名僧徳山宣鑑の法を継ぐ。以下、その凄絶な最期について記す。徳山の元を辞した後、洞庭湖畔の臥竜山(別名を巖頭と言う)を拠点に宗風をふるったが、黄巣の乱後の荒廃の中、887年に中原(ちゅうげん)に盗賊が起こり、庶民はおろか、会衆もみな恐れて逃げ出してしまった。ところが巖頭禅師だけは、ただ一人『平然と端坐していた。四月八日、盗賊たちがやってきて大いに責めたてたが、彼は何も贈り物を出さなかったので、ついに刀で』首を切られて殺されてしまった。しかし、その際にも巖頭禅師は『神色自若として、一声大きく叫んで終わった。その声は数十里先まで聞こえた』と伝えられる。(この注は、主に、福井県小浜市の臨済宗南禅寺派瑞雲院のHP中の、「景徳伝灯録巻十六 鄂(がく)州巖頭全豁禅師」を参考にして書かれたとする「岩頭全豁禅師の話」を参照にさせて頂いている)。――きっと、その時の声は、この「クヮッ!」であったに違いない――

○「黄巣」は唐末期の反乱指導者(?~884)。唐に対して反乱を起こし、878年に広州、880年に洛陽・長安を陥落させ、第21代皇帝僖宗(きそう)は蜀へ蒙塵、長安に入城した黄巣は国号を斉として皇帝を名乗ったが、配下の兵は粗暴、黄巣も暴政を敷き、見切りをつけた部下の朱温に裏切られ、最後は自害して果てた。この朱温は後、907年に唐王朝を滅ぼすこととなる。「碧巖録」底本の注によれば、この黄巣の乱(875884:実は最初の反乱は王仙芝によるものであった)に関わって名剣莫邪(ばくや)が天から落ちて来、それに「天賜黄巣」の銘があったという伝説があったらしく、巖頭の二つ目の公案はそれに由来するものである。

○「※」[「※」=(くにがまえ)の中に「力」。]は、音「クヮ(カ)」又は「ワ」で、気力を漲らせて出す掛け声を意味するが、ここでは巖頭の仕草によって明白な通り、首が切り落とされて落ちる音の真似である。劇画風に言えば「スパッ! コロン!」といった感じである。

○「雪峰」は雪峰義存(せっぽうぎぞん 822908)。唐末から五代の禅僧。実際には巖頭全豁と一緒に徳山宣鑑の法を嗣いでいる。巖頭とは兄弟弟子で、仲が良かった。雪峰の方が年上であったが、明悟した早さやこの雪峰自身を鰲山(ごうざん)で大悟させた点から見ても、巖頭の方が上である。実際の雪峰義存はその後、出身地であった福建に戻り、雪峰山に住して、四十有年余の間、教導と説法に励んだ。その結果、多くの政治的有力者の帰依を受けることとなり、結果的に各地に広がる五代最大の仏教教団を形成することとなった。雪峰寺には常時1,500人からの修行僧が住み、首座であった玄沙師備(げんしゃしび:先のリンク先「無門關」の後序に登場している。)を始めとして、「無門關」の第十五則・第二十一則に登場する雲門文偃(ぶんえん)・長慶慧稜(えりょう)・鼓山神晏(くざんしんあん)・保福従展(ほふくじゅうてん)等の禅語や公案で知られる第一級の優れた禅師を輩出している(この注は、主に、ウィキの「雪峰義存」を参照にさせて頂いている)。

○「三十棒」は恐らく「三十頓」の「棒」を食らった、という謂いである。一頓は警策・拄杖で二十回叩かれることを言う。

○「趕」は音「カン」で、追う、追いかける、の意。

――淵藪野狐禅師云く、さても何故、巖頭は笑ったか? 何故、僧は雪峰から三十棒を喰らわねばならなかったのか?「道(い)へ! 道へ!」

 

・「讚頌」歌に作り、言葉を尽して褒め称えること、の意であるが、ここはカトリック教会の聖歌(典礼歌)である。

・「清の雍正年間」清の第5代皇帝世宗(一世一元制であったので日本ではその在位の間の元号を用いて雍正帝と呼ぶのが一般的)の治世、1723年から1735年の12年間。岩波版新全集の神田由美子氏の注解によれば、『キリスト教は一七二〇年頃から中国で禁じられ西洋宣教師はマカオに追放された』とある。

・「中華民國十年」西暦1921年。芥川の渡中・執筆時と同じ、大正10年である。

・「雲端を摩せる」雲の端を擦(こす)る。空高く聳える。

・「同文書院」東亜同文書院のこと。日本の東亜同文会が創建した私立学校。東亜同文会は日清戦争後の明治311898)年に組織された日中文化交流事業団体(実際には中国進出の尖兵組織)で、日中相互の交換留学生事業等を行い、明治331900)年には南京に南京同文書院を設立、1900年の義和団の乱後はそれを上海に移して東亜同文書院と改称した。後の1939年には大学昇格に昇格、新中国の政治経済を中心とした日中の実務家を育成したが、1946年、日本の敗戦とともに消滅した。

・「道光の末」清の第8代皇帝宣宗(一世一元制であったので日本ではその在位の間の元号を用いて道光帝と呼ぶのが一般的)の治世は1820年から1850年までである。イギリスは1840年に清に対してアヘン戦争を起こし、清は敗北、不平等な南京条約を締結(1842)せざるを得なかった。開港と租界の形成により、1840 年代末には、それまで禁教であったキリスト教会もキリスト教徒であった徐光啓を記念して立てられ得たのであろう。現在も徐家匯天主堂としてある(ネット検索をかけ、「What's New in 上海 ~街角エクスプローラー」に現在の写真入りで推測通りの事蹟(1842年の南京条約で布教承認)が記されて、『1847年に信者が徐家匯に土地を取得、今の教会の前身となる教会が建設され』たという記載を発見した)。1911年に再建されているので、芥川が見たものは、かなり新しいものである。

・「呎(フイイト)」“1feet”=30.48㎝。この天主堂のデータをメートルに換算すると奥行約76m・幅約38m・高さ約51mとなる。

・「明故少保加贈大保禮部尚書兼文淵閣大學士徐文定公墓前十字記」は

「明(みん)の故(こ)少保 加贈 大保(たいほ) 禮部尚書 兼 文淵閣 大學士 徐文定(じょぶんてい)公墓前十字の記」

と読むか。これは徐光啓の墓、「文定」は彼の諡(おくりな)である。恐らく「少保」は皇太子の教授職で「大保」は皇帝の教授職(但しどちらも名誉職)を示す官名、彼の死後にその業績を称えて「大保」が加増されたということであろう。東京大学名誉教授に相当。「禮部尚書」は六部の一である礼部の長官。正二品。総ての公的な礼式・儀式・祭祀・宴饗・貢挙(科挙試関連業務一切)総てを司る。文部科学大臣に相当。「文淵閣」は紫禁城内にあった書庫のことであるから、国立国会図書館館長に相当。日本に擬えれば言わば

「皇太子御進講の職にあって死後に天皇御進講の職を加増された東京大学名誉教授兼文部科学大臣兼国立国会図書館館長であらせられた大学者」

といった凄い肩書を持った「徐文定公の墓前の十字架の記」という、墓誌銘の標題である。

・「十字聖架萬世瞻依」は

「十字の聖架、萬世(ばんせい)瞻依(せんい)す」

と読んで

「この聖なる十字架を永遠に仰ぎ尊ぶものなり」

の意味であろう。私は、この「依」は「仰」の誤植か芥川の見誤りではあるまいかと感じている。「瞻仰」(せんぎよう)なら「仰ぎ見る・仰ぎ慕う」という熟語として一般的であるし、「仰」の字と「依」の字はよく似ているからである。この十字架は未だにあるのだろうか? 実見されたことのある方の御教授を乞うものである。」

【以下2010年2月7日新注】数日前、私の本テクスト注をお読みになられた上海在住の未知の方(以降F様と呼称させて頂く)から、以下のようなメールを頂戴した(御本人の許諾を得て、以下に一部を引用させて頂く。一部改行を省略させて戴いた)。

≪引用開始≫

偶然貴方の文章に接する機会があり、その中で下記の文章への疑問を述べられておられましたので散歩がてら調べて参りました。

十字聖架萬世瞻依

の『依』が『仰』ではないかの疑問ですが正しくは以下の通りです。

十字聖架百世瞻依

です。違っていたのは『依』ではなく、『萬』が『百』でした。『瞻依』は『敬い慕う』の意味で使われたと思われます。この公園は、周囲を散歩する人や、お年寄りの朝夕の太極拳や中国将棋などに利用されております。マテオ・リッチの銅像などもありますがそれらに興味を惹かれる人は少ないようです。以前は徐光啓記念館は入場が有料でしたが今年から万博に併せてか無料になりました。休日の閑消には最適です。

≪引用終了≫

まず私は先の注では、迂闊にも辞書を引かずに思い付きで書いていた。確かに、「瞻依」(せんい)という「仰ぎ見て、尊び頼る」の意の、即ち「瞻仰」とほぼ同義の熟語があった。而して瓢箪からコマで、芥川龍之介が「百」を「萬」と誤っていた事実が判明した。私が誤った誤字推測をしたことから、F様が逆に別な誤字を発見されるに到り、結果としてこの注をより正確なものに止揚することが出来た。加えて、F様は更に、徐光啓記念館に出向かれ、現在の様子を撮影して下さり、写真を送って下さった。そこには芥川龍之介が眺めた、この「天主堂の尖塔」「十字架」もある。御好意でその5葉総てを本ページの方に掲載させて戴いた。是非、御覧あれ。]

太宰治御年十六歳御真影

左胸には「優等生バッジ」、太宰治16歳頃写真見つかる

2009年6月15日(月)22時34分配信 読売新聞

 19日に生誕100年を迎える作家・太宰治(1909~48年)が写った旧制青森中学(現・県立青森高校)の集合写真が見つかった。

 3年生の16歳頃とみられ、あどけない表情で腕組みする姿が収められている。

 青森市の主婦田村則子さん(66)が父親の遺品の中から見つけ、青森県五所川原市教委が15日、公表した。

 木下巽教育長によると、1925年春頃の撮影で、左胸には「優等生バッジ」が、左腕には級長の腕章が見える。(以下略。リンク先にはその写真あり)

「人間失格」がダサい優等生だったったあ、噴飯モノよ――まあ――

「太陽の季節」死んだろうが都知事になるより、逆回転だから許せるわな――

2009/06/15

花屋の墓場

僕はずっと紅茶を飲んでいるしかないと思っていた――

無題

世界は何だろう

僕も君も

それを考える

僕は誰かを驚かせるのは飽きた

僕は自分を驚かせたいだけだ

では

上海游記 十九 日本人

       十九 日本人

 上海紡績(シヤンハイぼうせき)の小島氏の所へ、晩飯に呼ばれて行つた時、氏の社宅の前の庭に、小さな櫻が植わつてゐた。すると同行の四十起氏が、「御覽なさい。櫻が咲いてゐます。」と云つた。その又言ひ方には不思議な程、嬉しさうな調子がこもつてゐた。玄關に出てゐた小島氏も、もし大袈裟に形容すれば、亞米利加歸りのコロムブスが、土産でも見せるやうな顏色だつた。その癖櫻は痩せ枯れた枝に、乏しい花しかつけてゐなかつた。私はこの時兩先生が、何故こんなに大喜びをするのか、内心妙に思つてゐた。しかし上海に一月程ゐると、これは兩氏ばかりぢやない、誰でもさうだと云ふ事を知つた。日本人はどう云ふ人種か、それは私の知る所ぢやない。が、兎に角海外に出ると、その八重たると一重たるとを問はず、櫻の花さへ見る事が出來れば、忽幸福になる人種である。

         *

 同文書院を見に行つた時、寄宿舍の二階を歩いてゐると、廊下のつき當りの窓の外に、青い穗麥の海が見えた。その麥畑の處處に、平凡な菜の花の群つたのが見えた。最後にそれ等のずつと向うに、低い屋根が續いた上に、大きな鯉幟(こひのぼり)のあるのが見えた。鯉は風に吹かれながら、鮮かに空へ飜つてゐた。この一本の鯉幟は、忽風景を變化させた。私は支那にゐるのぢやない。日本にゐるのだと云ふ氣になつた。しかしその窓の側へ行つたら、すぐ目の下の麥畑に、支那の百姓が働いてゐた。それが何だか私には、怪しからんやうな氣を起させた。私も遠い上海の空に、日本の鯉幟を眺めたのは、やはり多少愉快だつたのである。櫻の事なぞは笑へないかも知れない。

         *

 上海の日本婦人倶樂部(クラブ)に、招待を受けた事がある。場所は確か佛蘭西租界の、松本夫人の邸宅だつた。白い布をかけた圓卓子(まるテエブル)。その上のシネラリアの鉢、紅茶と菓子とサンドウイツチと。卓子(テエブル)を圍んだ奧さん達は、私が豫想してゐたよりも、皆温良貞淑さうだつた。私はさう云ふ奧さん達と、小説や戲曲の話をした。すると或奧さんが、かう私に話しかけた。

 「今月中央公論に御出しになつた「鴉」と云ふ小説は、大へん面白うございました。」

 「いえ、あれは惡作です。」

 私は謙遜な返事をしながら、「鴉」の作者宇野浩二に、この問答を聞かせてやりたいと思つた。

        *

 南陽丸の船長竹内氏の話に、漢口(ハンカオ)のバンドを歩いてゐたら、篠懸の並木の下のベンチに、英吉利だか亞米利加だかの船乘が、日本の女と坐つてゐた。その女は一と目見ても、職業がすぐにわかるものだつた。竹内氏はそれを見た時に、不快な氣もちがしたさうである。私はその話を聞いた後、北(きた)四川路(せんろ)を歩いてゐると、向うへ來かかつた自動車の中に、三人か四人の日本の藝者が、一人の西洋人を擁しながら、頻にはしやいでゐるのを見た。が、別段竹内氏のやうに、不快な氣もちにはならなかつた。が、不快な氣もちになるのも、まんざら理解に苦しむ訣ぢやない。いや、寧ろさう云ふ心理に、興味を持たずにはゐられないのである。この場合は不快な氣持だけだが、もしこれを大にすれば、愛國的義憤に違ひないぢやないか?

         *

 何でもⅩと云ふ日本人があつた。Ⅹは上海に二十年住んでゐた。結婚したのも上海である。子が出來たのも上海である。金がたまつたのも上海である。その爲かⅩは上海に熱烈な愛着を持つてゐた。たまに日本から客が來ると、何時も上海の自慢をした。建築、道路、料理、娯樂、――いづれも日本は上海に若かない。上海は西洋も同然である。日本なぞに齷齪してゐるより、一日も早く上海に來給へ。――さう客を促しさへした。そのⅩが死んだ時、遺言状を出して見ると、意外な事が書いてあつた。――「骨は如何なる事情ありとも、必日本に埋むべし。……」

 私は或日ホテルの窓に、火のついたハヴアナを啣へながら、こんな話を想像した。Ⅹの矛盾は笑ふべきものぢやない。我我はかう云ふ點になると、大抵Ⅹの仲間なのである。

[やぶちゃん注:

・「上海紡績」正しくは上海紡織会社。株式会社トーメン社史制作委員会著「翔け世界に トーメン70年のあゆみ」(1991年凸版印刷㈱年史センター刊)より参照抜粋したとするネット上の記載によれば(該当ページは引用を拒否しているのでこう書くに留める。孫引きである以上、ネット・マナーを侵害しているとは思わない)、三井物産が明治351902)年に中国人経営の興泰紗廠を買収、上海紡績有限公司(三井家が株式の半分を所有)とし、三井物産上海支店が総代理店となったものを前身とする。大正9(1920)年に日本の法律による「上海紡織株式会社」として改めて設立登記されている(岩波新全集の神田由美子氏の注解では1908年に上海紡績と三泰紡績が1908年に合併成立したもの、とあり、『日本資本による中国木綿紡績業への直接投資としては最初の会社』とする)。大正131924)年に權野健三が会長に就任するや、技術者増強・原料綿花の厳選・製品販売の中国全土への拡大等の営業努力により業績を伸ばし、終戦時まで順調に発展して、中国紡績業の向上と隆盛に貢献した、とする。

・「小島氏」本文以外のことは不詳。芥川龍之介書簡宛名には「小島姓」で該当人物と思しい人は見えない。

・「同文書院」東亜同文書院のこと。日本の東亜同文会が創建した私立学校。東亜同文会は日清戦争後の明治311898)年に組織された日中文化交流事業団体(実際には中国進出の尖兵組織)で、日中相互の交換留学生事業等を行い、明治331900)年には南京に南京同文書院を設立、1900年の義和団の乱後はそれを上海に移して東亜同文書院と改称した。後の1939年には大学昇格に昇格、新中国の政治経済を中心とした日中の実務家を育成したが、1946年、日本の敗戦とともに消滅した。

・「松本夫人」本文以外のことは不詳。芥川龍之介書簡宛名には「松本」姓で該当人物と思しい人は見えない。

・「シネラリア」キク目キク科ペリカリス属シネラリアPericallis cruenta。北アフリカ・カナリヤ諸島原産。冬から早春にかけて開花、品種が多く、花の色も白・青・ピンクなど多彩。別名フウキギク(富貴菊)・フキザクラ(富貴桜)。英名を“Florist's Cineraria”と言い、現在、園芸店などでサイネリアと表示されるのは英語の原音シネラリアが「死ね」に通じることからとされる。――しかし乍ら、試みに調べてみたら、余りに美しすぎて他の花が売れなくなるからか――“Cineraria”という語は“cinerarium”――「納骨所」の複数形である――“Florist's Cineraria”「花屋の墓場」という意味なのであった――

・『「鴉」』本文からお分かりの通り、これは芥川龍之介の作品ではなく、芥川の親友である作家宇野浩二(18911962)の小説。私は未読なので作品内容は不明。松本夫人が誤ったのは大正101921)年4月1日発行の「中央公論」で、この宇野浩二の「鴉」の後ろに芥川龍之介の「奇遇」が掲載されているためである(両注による)。

・「南陽丸」同名の船が長澤文雄氏のHP「なつかしい日本の汽船」の「明治後期」のページに、日本郵船所有船舶として写真付きで掲載されている(通し番号155)。その資料によれば、明治401907)年に「南陽丸」“NANYO MARU”として進水、船客は特1等が16室・1等20室・2等46室・3等252室、明治401907)年に日清汽船(東京)に移籍後に南陽丸“NAN YANG MARU”と改名している。昭和121937)年に『上海の浦東水道(Putong Channel)で中国軍の攻撃を受けて沈没』とあるので、この船に間違いないと思われる。

・「漢口(ハンカオ)」“Hànkǒu ”は中国湖北省にあった都市で、現在の武漢市の一部に当たる。明末以降、長江中流域の物流の中心として栄えた商業都市。1858年、天津条約により開港後、イギリス・ドイツ・フランス・ロシア・日本の5ヶ国の租界が置かれ、「東方のシカゴ」の異名を持った。

・「バンド」“bund”は英語で海岸通り・堤防・築堤・埠頭の意(語源はヒンディ語)。上海の場合は、バンド自体が地名の固有名詞として現地で普通に使われるが、ここでは特に特定地区を指すのではなく、普通名詞としての「海岸通り」であろう。

・「北四川路」現在の四川北路。蘇州河から四川中路を経て北東に延びる日本租界の目抜き通りであった。第二次世界大戦ではここに海軍特別陸戦隊本部が置かれた。中国に於ける実質的な日本軍最高指揮機関であった。]

2009/06/14

上海游記 十八 李人傑氏

 

 

       十八 李人傑氏

 

 「村田君と共に李人傑氏を訪(と)ふ。李氏は年未(いまだ)二十八歲、信條よりすれば社會主義者、上海に於ける「若き支那」を代表すべき一人なり。途上電車の窓より、靑靑たる街路の樹(じゆ)、既に夏を迎へたるを見る。天陰、稀に日色(につしよく)あり。風吹けども塵(ぢん)を揚げず。」

 

 これは李氏を訪ねた後、書き留めて置いた手控(てひか)へである。今手帳をあけて見ると、筆の字が、消えかかつたのも少くない。文章は勿論蕪雜(ぶざつ)である。が、當時の心もちは、或はその蕪雜な所に、反つてはつきり出てゐるかも知れない。

 

 「僮(どう)あり、直に予等を引いて應接室に到る。長方形の卓(たく)一、洋風の椅子二三、卓上に盤あり。陶製の果物を盛る。この梨、この葡萄、この林檎、――この拙(つたな)き自然の摸倣以外に、一も目を慰むべき裝飾なし。然れども室に塵埃(ぢんあい)を見ず。簡素の氣に滿てるは愉快なり。」

 

 「數分の後、李人傑氏來る。氏は小づくりの靑年なり。やや長き髮。細面。血色は餘り宜しからず。才氣ある眼。小さき手。態度は頗る眞摯なり。その眞摯は同時に又、鋭敏なる神經を想察せしむ。刹那の印象は惡しからず。恰も細(さい)且(かつ)强靭なる時計の彈機(せんまい)に觸れしが如し。卓を隔てて予と相封(あひたい)す。氏は鼠色の大掛兄(タアクワル)を着たり。」

 

 李氏は東京の大學にゐたから、日本語は流暢を極めてゐる。殊に面倒な理窟なども、はつきり相手に會得(ゑとく)させる事は、私の日本語より上かも知れない。それから手控へには書いてないが、我我の通つた應接室は、二階の梯子が部屋の隅へ、ぢかに根を下した構造だつた。その爲に梯子を下つて來ると、まづ御客には足が見える。李人傑氏の姿にしても、まつさきに見たのは支那靴だつた。私はまだ李氏以外に、如何なる天下の名士と雖も、足からさきへ相見(しようけん)した事はない。

 

 「李氏云ふ。現代の支那を如何にすべきか? この問題を解決するものは、共和にあらず復辟(ふくへき)にあらず。這般(しやはん)の政治革命が、支那の改造に無力なるは、過去既に之を證し、現在亦之を證す。然らば吾人の努力すべきは、社會革命の一途あるのみと。こは文化運動を宣傳する「若き支那」の思想家が、いづれも呼號する主張なり。李氏又云ふ。社會革命を齎(もたら)さんとせば、プロパガンダに依らざるべからず。この故に吾人(ごじん)は著述するなり。且(かつ)覺醒せる支那の士人は、新しき智識に冷淡ならず。否、智識に餓ゑつつあり。然れどもこの餓を充(みた)すべき書籍雜誌に乏しきを如何。予は君に斷言す。刻下の急務は著述にありと。或は李氏の言の如くならん。現代の支那には民意なし。民意なくんば革命生ぜず。況んやその成功をや。李氏又云ふ。種子は手にあり。唯萬里(ばんり)の荒蕪(くわうぶ)、或は力の及ばざらんを憤る。吾人の肉體、この努に堪ふるや否や、憂ひなきを得ざる所以なりと。言ひ畢つて眉を顰(ひそ)む。予は李氏に同情したり。李氏又云ふ。近時注目すべきものは、支那銀行團の勢力なり。その背後の勢力は問はず、北京政府が支那銀行團に、左右せられんとする傾向あるは、打消し難き事案なるべし。こは必しも悲しむべきにあらず。何となれば吾人の敵は――吾人の砲火を集中すべき的(まと)は、一銀行團に定まればなりと。予云ふ。予は支那の藝術に失望したり。予が眼に入れる小說繪畫、共に未だ談ずるに足らず。然れども支那の現狀を見れば、この土に藝術の興隆を期する、期するの寧ろ誤れるに似たり。君に問ふ、プロパガンダの手段以外に、藝術を顧慮する餘裕ありやと。李氏云ふ。無きに近しと。」

 

 私の手控へはこれだけである。が、李氏の話しぶりは、如何にもきびきびしたものだつた。一しよ行つた村田君が、「あの男は頭が好かもんなあ。」と感歎したのも不思議ぢやない。のみならず李氏は留學中、一二私の小說を讀んだとか何とか云ふ事だつた。これも確に李氏に對する好意を增したのに相違ない。私のやうな君子人でも、小說家などと云ふものは、この位虛榮を求める心が、旺盛に出來上つてゐるものである。

 

[やぶちゃん注:李人傑は李漢俊(1890-1927)の別名。日本に留学、1918年東京帝国大学卒業後、上海で翻訳著述に携わりながら、革命を鼓吹。1920年8月に陳独秀らと上海で共産主義グループを組織、週間雑誌『労働界』を創刊した。1921年7月には中国共産党第1次全国代表大会に参加、創立メンバーの一人となった(後に党は離脱している)。その後、上海大学・武昌中山大学等の教授をし、国民党支配の時代には湖北省政府教育庁長となるが、国民党右派の反共活動には終始抵抗し続けた。辛亥革命失敗後に逮捕・殺害された。享年37歳。解放後、中央人民政府は彼を烈士の列に加えている。芥川は28歳とするが、この時人傑は、31歳である(中文「紅色旅游」以下のページを自己流に読み、参考にした)。

 

・『「若き支那」』ここで芥川は「少年中国学会」を意識して括弧書きしていると思われる。「少年中国学会」は1918630日に主に日本留学生によって企図された(正式成立は連動した五四運動直後の191971日)、軍閥の専制や日本帝国主義の侵略に反対することを目的として結成された学生組織の名称。当然のことながら、有意に共産主義を志向する学生が占めていた。但し、李人傑は少年中国学会の会員ではない。芥川は新生中国の胎動の中にある青年の理想――共産主義の機運――を包括的に、このように呼んでいると考えてよいが、そこには当然、日本での本篇の検閲を見越しての巧妙なぼかしの意味もある。その証拠に「共産主義」「共産党」の一語だに芥川は本篇に用いていない。また、芥川は「侏儒の言葉」の「支那」の項で、同じ「若き支那」という語句を印象的に用いている(二項あるので、一緒に示す)。

 

       支  那

 

 螢の幼蟲は蝸牛を食ふ時に全然蝸牛を殺してはしまはぬ。いつも新らしい肉を食ふ爲に蝸牛を麻痺させてしまふだけである。我日本帝國を始め、列强の支那に對する態度は畢竟この蝸牛に對する螢の態度と選ぶ所はない。

 

       

 

 今日の支那の最大の悲劇は無數の國家的羅曼主義者卽ち「若き支那」の爲に鐵の如き訓練を與へるに足る一人のムツソリニもゐないことである。

 

なお以上の内、「少年中国学会」については中文事典サイト「百度百科」「少年中国学会」の記載を自己流に読み、参考にしたものである。

 

・「蕪雜」物事がが乱れて順序立っていないこと。

 

・「僮」下男。下僕。

 

・「大掛兄(タアクワル)」“tàiguàér”男物の単衣(ひとえ)の裾が足首まである長い中国服のこと。筑摩版脚注では「掛」は「褂」が正しいとある。

 

・「支那靴」これは恐らく現在、老北京靴(“lăoběijīngxié”ラオペイジンシエ)と呼ばれている伝統的な布製の中国靴を指している。靴底には麻糸を縫いこんで補強してある。現物は商業サイト「中国専門店 チャイナ・ウォッチング」「中国靴(カンフーシューズ・ストラップシューズ)中国古典靴(老北京靴・布刺繍靴)」を参照されたい。ここの記載によれば、我々がすぐにイメージするカンフー・シューズは、実は1960年以降の新しいものであることが分かる。

 

・「復辟」「辟」は君主の意で、通常の用語としては一度退位した君主が再度、位に就くことを言う。復位や重祚と同義であるが、ここでは既に清朝は亡んでおり、李人傑は清の遺臣でも何でもない、それどころか共産主義者であるから、単純に、王政に戻すこと、という意味で用いている。

 

・「這般」「這」は宋代の俗言で「此」と同義で、これら・この辺・この度・今般の意。芥川は擬古文にあっては好んで用いる語である。

 

・「支那銀行團の勢力」筑摩版脚注と岩波版注解等を総合すると、中華民国では1906年頃から近代的民間銀行が創設され始めたが、特に1912年以降、諸外国からの借款等により財閥をバックにした銀行が主に首都北京を中心にして多数出現した。しかし、第一次世界大戦から戦後にかけて、これら銀行団は民間の産業支援よりも、専ら政府公債の引き受けや北京政府の軍閥官僚の私的預金に経営の重点を置いていたとする。] 

上海游記 十七 南國の美人(下)

       十七 南國の美人(下)

 

 「どうです、林黛玉は?」

 彼女が席を去つた後、余氏は私にかう尋ねた。

 「女傑ですね。第一若いのに驚きました。」

 「あの人は何でも若い時分に眞珠の粉末を呑んでゐたさうです。眞珠は不老の藥ですからね。あの人は鴉片を呑まないと、もつと若くも見える人ですよ。」

 その時はもう林黛玉の跡に、新に來た藝者が坐つてゐた。これは色の白い、小造りな、御孃樣じみた美人である。寶盡(たからづく)しの模樣を織つた、薄紫の緞子の衣裳に、水晶の耳項を下げてゐるのも、一層この妓の品の好さを助けてゐるのに違ひない。早速名前を尋ねて見たら、花寶玉(ホアポオイユ)と云ふ返事であつた。花寶玉(ホアポオイユ)――この美人がこの名を發音するのは宛然たる鳩の啼き聲である。私は卷煙草をとつてやりながら、「布穀催春種」と云ふ杜少陵の詩を忍び出した。

 「芥川さん。」

 余洵氏は老酒(ラオチユ)を勸めながら、言ひ憎さうに私の名を呼んだ。

 「どうです、支那の女は? 好きですか?」

 「何處の女も好きですが、――支那の女も綺麗ですね。」

 「何處が好(よ)いと思ひますか?」

 「さうですね。一番美しいのは耳かと思ひます。」

 實際私は支那人の耳に、少からず敬意を拂つてゐた。日本の女は其處に來ると、到底支那人の敵ではない。日本人の耳には平(たひら)すぎる上に、肉の厚いのが澤山ある。中には耳と呼ぶよりも、如何なる因果か顏に生えた、木の子のやうなのも少くない。按ずるにこれは、深海の魚が、盲目(めくら)になつたのと同じ事である。日本人の耳は昔から、油を塗つた鬢(びん)の後(うしろ)に、ずつと姿を隱して來た。が、支那の女の耳は、何時も春風に吹かれて來たばかりか、御丁寧にも寶石を嵌めた耳環なぞさへぶら下げてゐる。その爲に日本の女の耳は、今日のやうに墮落したが、支那のは自然と手入れの屆いた、美しい耳になつたらしい。現にこの花寶玉(くわはうぎよく)を見ても、丁度小さい貝殼のやうな、世にも愛すべき耳をしてゐる。西廂記(せいさうき)の中の鶯鶯(あうあう)が、「他釵軃玉斜横。髻偏雲亂挽。日高猶自不明眸。暢好是懶懶。半晌擡身。幾囘掻耳。一聲長歎。」と云ふのも、きつとかう云ふ耳だつたのに相違ない。笠翁(りつおう)は昔詳細に、支那の女の美を説いたが、(偶集(ぐうしふ)卷之三、聲容部)未嘗この耳には、一言(ごん)も述べる所がなかつた。この點では偉大な十種曲の作者も、當に芥川龍之介に、發見の功を讓るべきである。

 耳の説を辯じた後、私は他の三君と一しよに、砂糖のはいつた粥を食つた。其から妓館を見物しに、賑かな三馬路の往來へ出た。

 妓館は大抵横へ切れた、石疊みの露路の兩側にある。余氏は我我を案内しながら、軒燈の名前を讀んで行つたが、やがて或家の前へ來ると、さつさと中へはいつて行つた。はいつた所には不景氣な土間に、身なりの惡さうな支那人どもが、飯を食つたり何かしてゐる。これが藝者のゐる家とは、前以て聞いてゐない限り、誰でも譃としか思はれまい。しかしすぐに階段を上ると、小ぢんまりした支那のサロンに、明るい電燈が輝いてゐる。紫檀(したん)の椅子を並べたり、大きな鏡を立てたりした所は、さすがに一流の妓館らしい。青い紙を貼つた壁にも、硝子(がらす)を入れた南畫の額が、何枚もずらりと懸つてゐる。

 「支那の藝者の檀那になるのも、容易な事ぢやありませんね。何しろこんな家具類さへ、みんな買つてやるのですから。」

 余氏は我我と茶を飮みながら、いろいろ嫖界(へうかい)の説明をした。

 「まあ今夜來た藝者なぞだと、どうしても檀那になるまでに、五百圓位は入るでせう。」

その間にさつきの花賓玉が、ちよいと次の間から顏を出した。支那の藝者は座敷へ出ても、五分ばかりすると歸つてしまふ。小有天にゐた花寶玉(くわはうぎよく)が、もう此處にゐるのも不思議はない。のみならず支那では檀那なるものが、――後は井上紅梅氏著「支那風俗卷之上(まきのじやう)、花柳語彙」を參照するが好(よ)い。

 我我は二三人の藝者と一しよに、西瓜の種を撮(つま)んだり、御先(おさき)煙草をふかしたりしながら、少時の間無駄話をした。尤も無駄話をしたと云つても、私は啞(をし)に變りはない。波多君が私を指さしながら、惡戲(いたづら)さうな子供の藝者に、「あれは東洋人(トンヤンレン)ぢやないぜ。廣東人(カントンレン)だぜ。」とか何とか云ふ。藝者が村田君に、本當かと云ふ。村田君も「さうだ。さうだ。」と云ふ。そんな話を聞きながら、私は濁り漫然とくだらない事を考へてゐた。――日本にトコトンヤレナと云ふ唄がある。あのトンヤレナは事によると、東洋人の變化かも知れない。………

 二十分の後、やや退屈を覺えた私は、部屋の中をあちこち歩いた次手に、そつと次の間を覗いて見た。すると其處の電燈の下には、あの優しい花寶玉(くわはうぎよく)が、でつぷり肥つた阿姨(アイ)と一しよに、晩餐の食卓を圍んでゐた。食卓には皿が一枚しかない。その又一つは菜ばかりである。花寶玉はそれでも熱心に、茶碗と箸とを使つてゐるらしい。私は思はず微笑した。小有天に來てゐた花寶玉は、成程南國の美人かも知れない。しかしこの花寶玉は、――菜根を嚙んでゐる花寶玉は、蕩兄の玩弄に任すべき美人以上の何物かである。私はこの時支那の女に、初めて女らしい親しみを感じた。

 

[やぶちゃん注:

・「あの人は鴉片を呑まないと」梅逢春は、この翌年にアヘン中毒の中、急逝している。「十五 南國の美人(上)」の「「梅逢春」/「林黛玉」の注参照。

・「寶盡しの模樣」中国古来の八宝思想に由来する伝統的紋様。一般には法輪・法螺貝・宝傘・宝蓋・蓮華・鑵(かま=釜)・魚・盤長(中国の紐の結び方の一つ)の八つ。吉祥のシンボルで、「八室」とも言う。また、他に「暗八仙文」というのもあり、そこでは八仙人の持物である宝物によって八仙を表わし、吉祥招来を願う。瓢箪(李鉄拐の持物。以下該当の仙人名)・宝剣(呂洞賓)・扇子(漢鐘離)・魚鼓(張果老)・笛(韓湘子)・陰陽板(曹国舅)・花籠(藍朱和)・蓮華(何仙姑)が宝尽しとなる。他に吉祥来福としては蝙蝠・桃・如意(「福寿如意」を示す)や本邦でもお馴染みの打ち出の小槌・亀・竹なども人気のアイテムである。

・「花寶玉(ホアポオイユ)」“hoābăoyù”。

・『「布穀催春種」と云ふ杜少陵の詩』杜甫の七言古詩「洗兵馬」の後半に「布穀處處催春種」(布穀 處處 春種くことを催す)と現れる一句。『啄木鳥があちらこちらで春の種を播きなさいと告げている』の意。「布穀」はカッコウCuculus canorusを指す。また、本邦ではこう書いて「ふふどり」と訓読する。

・「老酒(ラオチユ)」“lăojiŭ”。

・「西廂記」14世紀初頭元代の王実甫の作になるとされる戯曲で、中国戯曲史上最高傑作とも呼ばれる。唐中唐の詩人元稹(げんしん 779831)が書いた小説「会真記」(別名「鶯鶯伝」)を脚色したもので、故宰相の娘崔鶯鶯(さいおうおう)と科挙登第を志す学生張君瑞が様々な障害を乗り越えた末に結ばれるハッピー・エンドの物語。

・『「他釵軃玉斜横。警偏雲亂挽。日高猶自不明眸。暢好是傾懶懶。半晌擡身。幾囘掻耳。一聲長歎。」』以下に私の書き下し文と現代語訳を附す。

 

○やぶちゃんの書き下し文

……他(かれ)の釵(さ)は軃(かく)れて、玉、斜めに横はる。髻(もとどり)偏(かたよ)りて、雲、亂れ挽(ひ)く。日高して猶ほ自から明眸ならざるがごとくして、暢好(ちやうかう)是れ懶懶(らんらん)。半晌(はんしやう)身を擡(もた)げて、幾囘(いくたび)か耳を掻き、一聲長歎す。……

 

○やぶちゃんの現代語訳

……彼女の釵(かんざし)は疲れたかのように垂れ下がって、繋がれた飾りの玉は、たおたおと斜めに横たわっている。豊かな髪も全体が傾きゆがみ、あたかも雲が乱れてさーっと流れているかのよう。日が高くなっても、いっこうに目を開ける様子も泣くなく、ああ、いかにもいかにも、ものうい姿。暫くしてやっと身を起すと、幾度か耳を掻くと、一声、長い溜息をつく。……

 

・「笠翁」は李漁(16111680)、明末清初の劇作家にして小説家。笠翁は字(読みは「りゅうおう」とも)。多様な戯曲の他、小説「無声銭」「連城壁」「覚世名言」や戯曲論を含む随筆類を残した。それらの作品は江戸時代の戯作者にも大きな影響を与えている。ポルノ小説「肉蒲団」の作者にも比定されている。

・「偶集」は李漁の随筆「閑情偶寄」のこと。

・「十種曲」李漁の代表的戯曲集「笠翁十種曲」のこと。「憫香伴伝奇」・「風筝誤伝奇」・「蜃中楼」・「意中縁伝奇」・「「鳳求凰」・「奈何天伝奇」・「比目魚」・「玉掻頭」・「巧団円」・「慎鸞交伝奇」の十篇からなる。

・「嫖界」「嫖」は軽い、みだら、の意で、花柳界のことを言う。

・「五百圓位」大正時代の五百円は畑一反弱、発明されたばかりの新車のオートバイが一台買えた値段である。

・『井上紅梅氏著「支那風俗卷」』井上紅梅(明治141881)年~昭和241949)年)本名、進。個人頁「Brilliant Room 麻雀の殿堂」「井上紅梅」によれば、『父は中国との武器関係の貿易商であったという。幼少にして父と死に別れ、後に銀座尾張町の井上商店の井上安兵衛の養子となる。大正2年、井上商店と袂を分かち、上海に渡る。』『大正7年から大正10年にわたり、雑誌「支那風俗」を刊行(大正10年、3巻本として出版される)。文中、麻雀の遊び方を詳しく紹介。麻雀の遊び方を本格的に日本語で紹介した初の本として有名。』『大正11年(AD1822)、南京に移り、中国女性、碧梅(へきばい=青い梅、の意)と結婚』した。彼の『号である紅梅は碧梅との対応』であるとする。『以後も酒・阿片・麻雀(萬里閣書房・昭5)など、支那風俗に関する著作を著している』とある。上記リンク先には、正にこの「支那風俗」の単行本の現物写真がある。ご覧あれ。

・「御先煙草」一般家庭や料亭・茶屋等の客間・客室に置かれた接待用の煙草。

・「東洋人(トンヤンレン)」“dōngyángrén”清代から中華民国初期の中国語で日本は「東洋」で、これは日本人の意である。

・「廣東人(カントンレン)」“guăngdōngrén”。ここには上海人が認識する広東人とはどのようなものかを注する必要があろう。中国では一般に広東人・上海人・北京人・東北人に分けて考えるようである。李娜氏のブログ「中国人の価値観(広東人)(以下4回連続)によると、広東人は商売上手と言われ(これは日本的な感覚から言うと通常は必ずしも褒め言葉とは限らない)、首都北京から遠いことが独立心を育み(逆に言えばコンプレックスを持っているということか)、政治に比較的無関心で、血縁関係を最も重視し、迷信深い。中国一の食文化を誇ることから、人生は食べるためにある、と言った具合である。対する「上海人」は、やはり古くからの国際都市として、進取の気風を特徴とするようである。ファッショナブルな都会人としてのプライドを持つが、政治より生活や経済、面子より実利を取るのが賢いと心得る。但し、上海人以外の人々からは上海人は小心者で、石橋を叩いて渡る中国一の小市民と呼ばれているともある。一般に中国とのビジネスで日本人が最も苦労するのは、取引相手が本当に約束を守ってくれるかどうかという点であるが、上海ではそうした心配はないとあり、その理由を彼等は国際人としてのルール重視の気風があるためであるとする(上海人の項も李娜氏のブログ「中国人の価値観(上海人)」から)。ここでは、村田や子供の芸者は明らかに都会人上海人(村田は日本人ではあるが、同時に上海人であるという認識を持っていると思われる)として「廣東人(カントンレン)」を田舎者として馬鹿にしている。

・「日本にトコトンヤレナと云ふ唄がある」戊辰戦争の時に歌われた進軍歌「都風流トンヤレ節」通称「宮さん宮さん」。我が国の近代軍歌第一号でもある。作詞は長州藩士にして後の内務大臣品川彌二郎(天保141843)年~明治331900)年)、作曲は幕末の長州藩士大村益次郎(文政7(1824)年~明治2(1869))である。ウィキの「大村益次郎」によれば、有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王が『東征大総督に就任して京都を発った慶応4年2月頃から一斉に歌われるようになったものといわれ、歌詞を刷った刷り物も頒布されて、東征軍将兵のみならず一般民衆にも広められた』とする。以下に、全詞を示す(以下の頁よりコピー・ペーストした。該当頁はトップ・ページへのリンクが切れているため、HP名を示せない)。

 

   都風流トンヤレ節(宮さん宮さん)

 

宮さん宮さん 御馬(おんま)の前に

ひらひらするのは 何ぢやいな

トコトンヤレトンヤレナ

あれは朝敵 征伐せよとの

錦の御旗ぢや 知らないか

トコトンヤレトンヤレナ

 

一天萬乘の 帝王(みかど)に手向かひ

帝王に手向かひ する奴を

トコトンヤレトンヤレナ

狙ひ外さず どんどん打ち出す

どんどん打ち出す 薩長土

トコトンヤレトンヤレナ

 

伏見鳥羽淀 はし本くずはの

はし本くずはの 戰ひは

トコトンヤレトンヤレナ

薩土長士の おほたる手際ぢや

おほたる手際ぢや ないかいな

トコトンヤレトンヤレナ

 

音に聞こえし 關(関)東侍

どつちへ逃げたと 問ふたれば

トコトンヤレトンヤレナ

城も氣概も 捨てて東(あづま)へ

捨てて東へ 逃げたげな

トコトンヤレトンヤレナ

 

國をとるのも 人を殺すも

たれも本氣ぢや ないけれど

トコトンヤレトンヤレナ

わしらがところの お國へ手向かひ

お國へ手向かひ する故に

トコトンヤレトンヤレナ

 

雨の降るよな 鐵(鉄)砲玉の

鐵砲玉の 來る中に

トコトンヤレトンヤレナ

命惜しまず 先がけするのも

みんなお主(しゆ)の 爲故ぢや

トコトンヤレトンヤレナ

 

・「阿姨(アイ)」“āyí”にはまず、成人の女性、日本語で普通に中年の女性言う時に用いる「おばさん」と同じ意味があり、現代中国語ではお手伝いさんや家政婦の意味でも用いられる。ここは花寶玉と比して明らかに中年の、即ち、妓ではないおばさんの女中さん、という感じで芥川は用いていると思われる。

・「菜根を嚙んでゐる」私は、ここで芥川は「菜根譚」を意識しているように思う。「菜根譚」は明末に成立した処世修養を説く随筆である。作者は儒教仏道を兼修した洪自誠(こうじせい 15731619 洪応明とも)。但し、本邦ではよく知られているが、当の中国ではそれほど人気のある書物ではない。ウィキの「菜根譚」によれば、『菜根譚という書名は、朱熹の撰した「小学」の善行第六の末尾に、「汪信民、嘗って人は常に菜根を咬み得ば、則ち百事做()すべし、と言う。胡康侯はこれを聞き、節を撃ちて嘆賞せり」という汪信民の語に基づくとされる。(菜根は堅くて筋が多い。これをかみしめてこそものの真の味わいがわかる。)』と由来を説き、また『「恩裡には、由来害を生ず。故に快意の時は、須らく早く頭を回らすべし。敗後には、或いは反りて功を成す。故に払心の処は、便(たやす)くは手を放つこと莫れ。(前集10)」(失敗や逆境は順境のときにこそ芽生え始める。物事がうまくいっているときこそ、先々の災難や失敗に注意することだ。成功、勝利は逆境から始まるものだ。物事が思い通りにいかないときも決して自分から投げやりになってはならない。)』(二箇所の引用は一部のルビを省略した)と、言う部分を引用するが、この内容は如何にもここの「花寶玉」のシーンに注にするに相応しいと思うものである。]

2009/06/13

上海游記 十六 南國の美人(中)

       十六 南國の美人(中)

 私は大いに敬服したから、長い象牙箸(ぞうげばし)を使ふ間も、つらつらこの美人を眺めてゐた。しかし料理がそれからそれへと、食卓の上へ運ばれるやうに、美人も續續とはいつて來る。到底一愛春ばかりに、感歎してゐるべき場合ぢやない。私はその次にはいつて來た、時鴻(じこう)と云ふ藝者を眺め出した。

 この時鴻と云ふ藝者は、愛春より美人ぢやない。が、全體に調子の強い、何處か田園の匂を帶びた、特色のある顏をしてゐる。髮を御下げに括つた紐が、これは桃色をしてゐる外に、全然愛春と變りはない。着物には濃い紫緞子(むらさきどんす)に、銀と藍と織りまぜた、五分(ぶ)程の縁(へり)がついてゐる。余君穀民の説明によると、この妓は江西の生まれだから、なりも特に時流を追はず、古風を存してゐるのだと云ふ。さう云へば紅や白粉も、素顏自慢の愛春よりも、遙に濃艶を極めてゐる。私はその腕時計だの、(左の胸の)金剛石(ダイヤモンド)の蝶だの、大粒の眞珠の首飾りだの、右の手だけに二つ嵌めた寶石入りの指環だのを見ながら、いくら新橋の藝者でも、これ程燦然と着飾つたのは、一人もあるまいと感心した。

 時鴻の次にはいつて來たのは、――さう一一書き立ててゐては、如何に私でもくたびれるから、跡(あと)は唯その中の二人だけをちよいと紹介しよう。その一人の洛娥(らくが)と云ふのは、貴州の省長(しやうちやう)王文華と結婚するばかりになつてゐた所、王が暗殺された爲に、今でも藝者をしてゐると云ふ、甚薄命な美人だつた。これは黒い紋緞子(もんどんす)に、匂の好(よ)い白蘭花(パレエホア)を插(はさ)んだきり、全然何も着飾つてゐない。その年よりも地味ななりが、涼しい瞳の持ち主だけに、如何にも清楚な感じを與へた。もう一人はまだ十二三のおとなしさうな少女である。金の腕環や眞珠の首飾りも、この藝者がしてゐるのを見ると、玩具のやうにしか思はれない。しかも何とかからかはれると、世間一般の處子(しよし)のやうに、恥しさうな表情を見せる。それが又不思議な事には、日本人だと失笑に堪へない、天竺(てんぢく)と云ふ名の主人公だつた。

 これらの美人は順順に、局票へ書いた客の名通り、我我の間に席を占める。が、私が呼んだ筈の、嬌名(けうめい)一代を壓した林黛玉は、容易に姿を現さない。その内に秦樓(しんろう)と云ふ藝者が、のみかけた紙卷(かみまき)を持つたなり、西皮調(せいひてう)の扮河灣(ふんかわん)とか云ふ、宛轉(ゑんてん)たる唄をうたひ出した。藝者が唄をうたふ時には、胡弓に合はせるのが普通らしい。胡弓彈きの男はどう云ふ訣か、大抵胡弓を彈きながらも、殺風景を極めた鳥打帽や中折帽をかぶつてゐる。胡弓は竹のずんど切りの胴に、蛇皮(だひ)を張つたのが多かつた。秦樓が一曲うたひやむと、今度は時鴻の番である。これは胡弓を使はずに自ら琵琶を彈じながら、何だか寂しい唄をうたつた。江西と云へば彼女の産地は、潯陽江上(じんやうかうじやう)の平野である。中學生じみた感慨に耽ければ、楓葉荻花瑟瑟(ふうえふてきかしつしつ)の秋に、江州(かうしう)の司馬白樂天が、青袗(せいさん)を沾(うるほ)した琵琶の曲は、斯(かく)の如きものがあつたかも知れない時鴻がすむと萍郷(ひやうきやう)がうたふ。萍郷がすむと、村田君が突然立ち上りながら「八月十五、月光(げつこう)明(めい)」と、西皮調の武家坡(ぶかは)の唄をうたひ始めたのには一驚した。尤もこの位器用でなければ、君(きみ)程複雜な支那生活の表裏に通曉する事は出來ないかも知れない。

 林黛玉の梅逢春がやつと一座に加はつたのは、もう食卓の鱶(ふか)の鰭の湯(タン)が、荒らされてしまつた後だつた。彼女は私の想像よりも、餘程娼婦の型(タイプ)に近い、まるまると肥つた女である。顏も今では格段に、美しい器量とは思はれない。頰紅や黛(まゆずみ)を粧つてゐても、往年の麗色を思はせるのは、細い眼の中に漂つた、さすがにあでやかな光だけである。しかし彼女の年齡を思ふと、――これが行年五十八歳とは、どう考へても譃のやうな氣がする。まづ一見した所は、精精四十としか思はれない。殊に手なぞは子供のやうに、指のつけ板の關節が、ふつくりした甲にくぼんでゐる。なりは銀の縁(ふち)をとつた、蘭花(らんくわ)の黒緞子の衣裳(イイシヤン)に、同じ鞘形(さやがた)の褲子(クウヅ)だつた。それが耳環にも腕環にも、胸に下げた牌(メダル)にも、べた一面に金銀の臺へ、翡翠と金剛石(ダイヤモンド)とを嵌めこんでゐる。中でも指環の金剛石(ダイヤモンド)なぞは、雀の卵程の大きさがあつた。これはこんな大通りの料理屋に見るべき姿ぢやない。罪惡と豪奢とが入り交つた、たとへば「天鵞絨(びろうど)の夢」のやうな、谷崎潤一郎氏の小説中に、髣髴さるべき姿である。

 しかしいくら年はとつても、林黛玉は畢(つひ)に林黛玉である。彼女が如何に才氣があるか、それは彼女の話振りでも、すぐに想像が出來さうだつた。のみならず彼女が何分かの後、胡弓と笛とに合はせながら、秦腔(しんかう)の唄をうたひ出した時には、その聲と共に迸(ほとばし)る力も、確に群妓(ぐんぎ)を壓してゐた。

[やぶちゃん注:

・「緞子」織り方に変化をつけたり、組み合わせたりして紋様や模様を織り出す紋織物の一種。生糸の経(たて)糸・緯(よこ)糸に異色の練糸を用いた繻子(しゅす:絹を繻子織り――縦糸と横糸とが交差する部分が連続せず一般には縦糸だけが表に現れる織り方――にしたもの)の表裏の組織りを用いて文様を織り出した。「どんす」という読みは唐音で、室町時代に中国から輸入された織物技術とされる。

・「五分」約1㎝5㎜。

・「江西」長江中流の南の地方を指す。

・「貴州の省長王文華」「貴州」は現・貴州省一帯。中国西南の内陸に位置し、ほとんどが雲貴高原からなり、カルスト地形が占める。王文華(Wáng Wénhuà ワン ウェンホア 18871921)は貴州省興義県出身の中華民国軍人。孫文支持派で中華革命党にも加入している。辛亥革命後、貴州省警察庁庁長・貴州省最高軍政副官長を兼任。貴州省内では北京政府支持派の劉顕世と対立、暫く上海を拠点に孫文の支援する活動をしながら、貴州に戻る時期を見計らっていたが(この時期に、この洛娥という妓とのラブ・ロマンスがあったか)、1921年3月16日、部下である袁祖銘に裏切られて彼が放った刺客により、上海で暗殺された。享年35歳であった。芥川が渡中のために東京を出立したのは同年の3月19日のことである。洛娥は愛人を失って二月も経っていない(以上の王文華の政治的な事蹟は、ウィキの「王文華」に依った)。

・「白蘭花(パレエホア)」“báilánhuā”はモクレン目モクレン科ミケレア属Michelia albaで、和名はギンコウボク(銀厚朴)又はハクギョクラン(白玉蘭)という。常緑高木樹。インドネシア・フイリピン原産。花は腋生し、強い芳香を持っており、肉厚で白色、少し経つと黄色を帯びるようになる。中国ではこの花を胸に挿したりレイにしたりたりして女性のアクセサリーや香水の代用にしたり、また漢方薬として慢性気管支炎に用いたりする。

・「處子」まだ嫁に行かないで家にいる乙女。処女。

・「嬌名」名芸妓としての評判。

・「紙卷」紙巻煙草、シガレットのこと。

・「西皮調」京劇のルーツは多くの地方劇の習合したものであるが、その中の一つがこれ。陜西にあった「秦腔」という劇が湖北に取り入れられ、まず「襄陽腔」という劇になり、それが1828年前後にが北京に進出し「西皮調」(漢調・楚調とも又西皮腔とも言う)となった。笛の伴奏を伴う(諸注は「胡弓の伴奏を伴う」としているが、それでは芥川が「藝者が唄をうたふ時には、胡弓に合はせるのが普通らしい」と言った意味が死んでしまう)。また現在、京劇自体をその曲調から二つに分類する際にも、西皮調と二黄調に分ける。西皮調は以上のようなものをルーツとして全体に優雅な曲調の劇を言い、二黄調の方は湖北の民謡をルーツとし、のどかな牧歌性を特徴とする。ここでは直後に京劇の「扮河灣」を出している以上、このように(諸注のような本来のルーツとしての「西皮調」ではなく)京劇分類の際の「西皮調」の方を説明すべきではないかと思う。

・「扮河灣」は当時の西皮調京劇の人気演目の一つ。加藤徹氏の「芥川龍之介が見た京劇」の中の「京劇の歌を唱う芸者たち――林黛玉(二)」によれば『薛仁貴は若いころは貧乏な雇われ人で、主家の娘・柳迎春と駆け落ちする。やがて大きな戦争が始まり、薛仁貴は出征。柳迎春は男子を生み、「丁山」と名づける。年月がたち、丁山は少年となり、弓で雁を射落として母を養う。いっぽう、薛仁貴は東の外国との戦争で大手柄を立て、出世を遂げ、妻を探しに故郷にもどり、汾河湾の地まで来る。突然、虎があらわれ、薛仁貴はあわてて矢を射て、誤って丁山を射殺する。その後、薛仁貴は妻を探しあて、感激の再会を果たす。息子が生まれていたことを知って彼が喜んだのも束の間。彼は妻の話を聞くうちに、さきほど矢で射殺した少年が自分の息子であることを悟り、夫婦は悲嘆にくれる。』というストーリーで、『かの梅蘭芳も柳迎春を演じて好評を博した。この芸者さんが唄った「汾河湾」のさわりの部分は「梅派」の唄いかただったかもしれない』と推測なさっている。

・「宛轉たる」やわらかくゆるやかに舞うかのように美しい、の意。

・「ずんど切り」寸胴切り。すっぱりと綺麗に横に切ること。

・「潯陽江上」現在の江西省揚子江岸九江市付近には、古代に置かれた潯陽郡潯陽県が置かれたことから、この付近を流れる揚子江のことを特に潯陽江と呼んだ。白居易の「琵琶行」の冒頭は以下のように始まる。

潯陽江頭夜送客

楓葉荻花秋瑟瑟

○やぶちゃん書き下し文

潯陽江頭 夜 客を送る

楓葉荻花 秋 瑟瑟

○やぶちゃん現代語訳

潯陽江のほとりで

旅立つ人を送る宴を張った――

紅葉した楓の葉――白い荻(おぎ)の穂――

そこを吹き抜けるのは

ただ淋しい風の音(ね)――

「瑟瑟」を「索索」とするもの一本がある。「瑟瑟」は“sèsè”(セセ)、「索索」“suŏsuŏ”(シュオシュオ)で、本来ならここは、逐語訳すれば「ヒューヒュー」に相当する「楓葉荻花」を吹き抜ける風の音そのものの擬音語である。

・「楓葉荻花瑟瑟の秋」前注参照。

・「江州」先の「潯陽江上」、現在の江西省揚子江岸九江市付近の呼称。

・「司馬白樂天」白居易(772846)は翰林学士・左拾遺を歴任したが、43歳の時、要人暗殺事件処理の越権行為を咎められ、一時、江州司馬(地方の軍事長官)に左遷されている。

・「青袗沾した」以前は長安の名妓として嬌名高かったが、今は落魄れた薄幸の女琵琶弾き(実際には芸人ではなく商人の妻で、夫は商売で家=船を空けているのである)に自身の流謫の不幸を重ねた白居易の「琵琶行 終尾」の掉尾、全26句の内の最後の10句を示す。

今夜聞君琵琶語

如聽仙樂耳暫明

莫辭更坐彈一曲

爲君翻作琵琶行

感我此言良久立

卻坐促絃絃轉急

淒淒不似向前聲

滿座重聞皆掩泣

座中泣下誰最多

江州司馬青衫濕

○やぶちゃん書き下し文

今夜聞く 君が琵琶の語

仙樂を聽くが如く 耳 暫く明たり

辭する莫れ 更に坐して一曲を彈け

君が爲に翻(ほん)して琵琶行を作らん

我が此の言に感じ 良(やや)久しく立つも

座に卻(かへ)りて絃を促(うなが)せば  絃 轉(うたた)急なり

淒淒として似ず 向前(きやうぜん)の聲

滿座重ねて聞くに 皆 掩ひて泣く

座中 泣(なみだ)下ること 誰か最も多き

江州の司馬 青衫 濕ふ

○やぶちゃん現代語訳

……今宵

聞く

そなたの琵琶の音(ね)

それはまた

仙楽を聴くが如きもの――

私の耳は

暫くの間

すっきりと澄み渡っていた――

「そなた!

辞するなかれ!

更に一曲を弾け!」

「……そうだ!

私は君のために

その哀しくも美しき

琵琶の音(ね)を

言葉に写して

『琵琶の唄』

を創るぞ!」

――女は

私の言葉に感じ入った風に

暫くの間

凝っと

佇んでいた

再び座に就くと

きゅっと弦を絞め

忽ち

急に――

――ジャジャンジャン! ジャジャンジャン! ジャジャンジャン!――

今までのそれとは

まるで違った

凄絶にして荒涼――絶対の悲哀の音(ね)が

曠野に響き渡った――

……その時

そこにいた

全ての者が

何度も何度も繰り返される

その悲曲を聞いた――

そうして

皆が

顔を覆って

涙を流して

忍び泣いた――

……ああ! その座の中に……

……最も涙したのは誰であったか?……

……江州司馬……

……見よ……その男の青衫は……

しとど……しとど濡れそぼっているではないか……

「青衫」は八品・九品の下級官吏の着用した青い単(ひとえ)の上着。白居易の地位の司馬はもっと高位であると思われる(従四位下か)ので、これは自身の謙遜と共に左遷により押し付けられた地位への憤懣の表現ともとれる。

・「琵琶の曲」前注参照。

・「武家坡」加藤徹氏の「芥川龍之介が見た京劇」の中の「京劇の歌を唱う芸者たち――林黛玉(二)」によれば『この『武家坡』も、前出の『汾河湾』と同趣向の京劇で、外国との戦争で行方不明になっていた薛平貴(前出の薛仁貴と名前がそっくりだが、赤の他人)が、突然、妻・王宝釧のもとに帰ってきて、自分の正体をかくして妻の貞操を試したあと、感激の再開を果たす、という演目』である。続けて加藤氏は『近代中国は、内憂外患の戦火が絶えず、社会も保守的だった。『汾河湾』も『武家坡』も、ヒロインは親でなく自分の意思で結婚相手を選び、外国との戦争に行き帰ってこない夫を何年でも待ち続け、最後には夫と再会する。』『人々は、現実の世界では得られぬものを、京劇のなかに見いだしていた』と目から鱗の解説を附しておられる。これこそ、真に注と呼ぶに相応しい。なお、「日本京劇振興協会」の作成した以下の「武家坡」の頁(先の加藤氏が関係されている)には日本語訳の詳細な梗概がある。

・「湯(タン)」“tāng”。本来は煎じ薬の名に添えて言う語であるが、中華料理ではご承知の通り、温めたスープのこと。

・「衣裳(イイシヤン)」“yīshāng”。

・「牌(メダル)」「牌」は、古くは功績のあった者にその内容や褒賞の文言を書いて与える札を言った。正しく現在の“medal”と同じである。但し、これは特に何かの記念のメダルというよりも、大きなブローチと考えてよいであろう。

・「天鵞絨(びろうど)の夢」大正8(1919)年11月~12月に『大阪朝日新聞』に連載された。西湖湖畔の白壁を廻らした別荘。池の底には阿片窟、水中には美少女の舞――ここで淫楽の道具となっていた美しき奴隷達が語り織りなす、その主人の絢爛奇態な生活の謎解きの物語。

・「秦腔の唄」「秦腔」は現在の陝西省・甘粛省・青海省・寧夏回族自治区・新疆ウイグル族自治区等の西北地区で行われている最大最古の伝統劇の名。京劇を中心としたあらゆる戯形態に影響を与えたことから「百種劇曲の祖」と呼ばれる。ナツメの木で作った梆子(ばんし:拍子木。)を用いることから「梆子腔」という呼び方もある。その歌曲は喜怒哀楽の激しい強調表現を特徴とする(以上は「東来宝信息諮詢(西安)有限公司」の公式HPの「西安・陝西情報」→「民間藝術」にある「秦腔」の記載を参照した)。]

2009/06/12

谷川俊太郎「部屋」公演

明日公演 11:00 1-2で一度きり――椅子を愛撫する女――必見!

明日の芝居 谷川俊太郎「部屋」への尻まくり

俺の嫌いな谷川よ、よく覚えとけ! 最後の演出家の演出は、演出家の役者の彼と俺の――「勝ち」だゼ! デウス・エクス・マキーナのパロディなんて、見え透いた「陳腐な」劇作はしないがイイゼ! みんな、笑ってる! そうだ、お前を笑ってる!

――因みに聞いてみたいもんだ――鎌倉の「シーキャッスル」に乗り付けた、あの時の飽きた外車の後は、今度は、どんな新しい車に乗ったんだい? お前さんの詩に感動した凡夫どもから、巻き上げた大枚で?!

――俺は16年前の春のこと、「シーキャッスル」でお前が食事をする横の座席にいたんだ。そうしてそん時の俺はそういうお前が嫌いだったってことさ!

詩人として生きることの覚悟の中にお前がいない以上、俺はお前を詩人として認めない。世の中にお前を「エセ詩人」だと思っている、少なくとも、「俺」という凡夫一人がいることを――忘れるな――

O君へ

君が相手の女優をうまく抱けないこと……

それでいいのだ……

女は抱くもんじゃない

男は女に 無条件に 抱かれるもんなんだ――

明日の芝居 谷川俊太郎「部屋」へのオード

僕は一人のイヴを愛していたかったが

やっぱり愚劣極まりない

愚かしい凡夫に過ぎなかったのだ、僕は――

そうして……彼女はいつまでも――

そこに――居る――「あの時」の「僕」を待ちながら――

「誰でもない女」として……「誰でもない女」で……在り続ける――

男はただ闇へ死にに行ったのにも拘らず、それさえ分からずに 万才! を叫ぶのだ――

抱きしめた、あのぬくもりをも忘れて……

芝居を見ながら

明日の演劇部の芝居の演出をしながら――

つくづく羨ましく思う――

僕もあんな時があったし――

僕だったらこうも演じるだろう――

だが……

僕は確かにもう若くないのだ――

君達の若さが僕の演技よりも羨ましいのだ……

芸術は実は年季じゃあ――ない――

千両役者たちよ! 頑張れ!!!

上海游記 十五 南國の美人(上)

       十五 南國の美人(上)

 上海では美人を大勢見た。見たのは如何なる因縁か、何時も小有天と云ふ酒樓だつた。此處は近年物故した清道人(せいだうじん)李瑞清が、贔屓にしてゐた家ださうである。「道道非常道、天天小有天」さう云ふ洒落さへあると云ふ事だから、その贔屓も一方ならず、御念が入つてゐるのに違ひない。尤もこの有名な文人は、一度に蟹を七十匹、ぺろりと平げてしまふ位、非凡な胃袋を持つてゐたさうである。

 一體上海の料理屋は、餘り居心(ゐごころ)の好(よ)いものぢやない。部屋毎の境は小有天でも無風流を極めた板壁である。その上卓子(テエブル)に並ぶ器物は、綺麗事が看板の一品香(ピンシヤン)でも、日本の洋食屋と選ぶ所はない。その外雅叙園(がじよゑん)でも、杏花樓(きようくわろう)でも、乃至(ないし)興華川菜館(こうくわせんさいくわん)でも、味覺以外の感覺は、まあ滿足させられるよりも、シヨツクを受けるやうな所ばかりである。殊に一度波多君が、雅叙園を御馳走してくれた時には、給仕に便所は何處だと訊いたら、料理場の流しへしろと云ふ。實際又其處には私よりも先に、油じみた庖丁(コツク)が一人、ちやんと先例を示してゐる。あれには少からず辟易した。

 その代り料理は日本よりも旨い。聊か通らしい顏をすれば、私の行つた上海の御茶屋は、たとへば瑞記(ずゐき)とか厚德福(こうとくふく)とか云ふ、北京の御茶屋より劣つてゐる。が、それにも關らず、東京の支那料理に此べれば、小有天なぞでも確に旨い。しかも値段の安い事は、ざつと日本の五分の一である。

 大分話が横道に外れたが、私が大勢美人を見たのは神州日報の社長余洵(よじゆん)氏と、食事を共にした時に勝るものはない。此も前に云つた通り、小有天の樓上にゐた時である。小有天は何しろ上海でも、夜は殊に賑やかな三馬路の往來に面しているから、欄干の外の車馬の響は、殆一分(ぷん)も止む事はない。樓上では勿論談笑の聲や、唄に合せる胡弓の音(おと)が、しつきりなしに湧き返つてゐる。私はさう云ふ騒ぎの中に玫瑰(まいくわい)の茶を啜りながら、余君穀民が局票(きよくへう)の上へ健筆を振ふのを眺めた時は、何だ御茶屋に來てゐると云ふより、郵便局の腰掛に上にでも、待たされてゐるやうな忙(いそがは)しさを感じた。

 局票は洋紙にうねうねと、「叫―速至三馬路大舞臺東首小有天閩菜館―座侍酒勿延」と赤刷の文字をうねらせてゐる。確か雅叙園の局票には隅に毋忘國恥と、排日の氣焰(きえん)を擧げてゐたが、此處のには幸ひそんな句は見えない。(局票とは大阪の逢ひ状のやうに、校書を呼びにやる用箋である。)余氏はその一枚の上に、私の姓を書いてから、梅逢春(ばいほうしゆん)と云ふ三字を加へた。

「これがあの林黛玉(りんたいぎよく)です。もう行年(ぎやうねん)五十八ですがね。最近二十年間の政局の祕密を知つてゐるのは、大總統の徐世昌(じよせいしよう)を除けば、この人一人とか云ふ事です。あなたが呼ぶ事にして置きますから、參考の爲に御覺なさい。」

 余氏はにやにや笑ひながら、次の局票を書き始めた。氏の日本語の達者な事は、嘗て日支兩國語の卓上演説か何かやつて、お客がの徳富蘇峰氏を感激させたとか云ふ位である。

 その内に我々――余氏と波多君と村田君と私とが食卓のまはりへ坐ると、まつさきに愛春と云ふ美人が來た。これは如何にも利巧さうな、多少日本の女學生めいた、品の好(よ)い丸顏の藝者である。なりは白い織紋(おりもん)のある、薄紫の衣裳(イイシヤン)に、やはり何か模樣の出た、青磁色(いろ)の褲子(クウヅ)だつた。髮は日本の御下げのやうに、根もとを青い紐に括つたきり、長長と後に垂らしてゐる。額に劉海(リウヘイ)(前髮(まへがみ))が下つてゐる所も、日本の少女と違はないらしい。その外(ほか)胸には翡翠(ひすゐ)の蝶、が、いづれもきらきら光つてゐる。耳には金と眞珠との耳環、手頸には金の腕時計が、いづれもきらきら光つてゐる。

[やぶちゃん注:

・「小有天」漢口路にあった料理店の名。同名の施設が複数、現在の漢口路にあるが、残念ながら、この料亭と直接関係があるかどうかは確認出来なかった。

・「清道人李瑞清」(18671920)は名書家。号して梅菴、他に黄龍硯齋、清道人(民国後の署名)。江西省臨川の出身、28歳で進士に登第し、南京両江優級師範監督及び江寧提学使の教育職を兼職、芸術教育を提唱し、多くの人材を育成した。行・草書では黄山谷の風を能くし、金石文から木簡に至るまであらゆる文字・書、更に詩画にも秀でた。辛亥革命後は上海を中心として書で生計を立てて、当代の大書家と称せられた(以上の事蹟は主に好古齋氏のHP「李瑞清」を参照した)。筑摩版脚注は未詳とし、岩波版新全集は注にさえ挙げていない。

・『「道道非常道、天天小有天」』は、「道の道、常の道に非ず、天の天、小有天」で、『人が歩むべき道の中でもまことの仁の道というものは、普通の道ではない!――天国の中のまことの天国というものは、酒楼「小有天」!』といった感じか。試みに、単純に辞書を引き引き中国音に直して見ると、“dàodào fēichángdào, tiāntiān xiăoyŏtiān”(タオタオ フェイチォアンタオ、ティエンティエン シィアオヨティエン)中国語の分からぬ私でも発音してみたくなる小気味良い響きではないか。

・「一品香(イイピンシヤン)」“yīpĭnxiāng”。これは恐らく福州路にあった料理店であろう。ここは清末に出来た中国初の西洋料理レストランであった。

・「波多君」は「五 病院」に登場する「上海東方通信社の波多博」のこと。同注参照。

・「雅叙園」上海にあった料理店の名。少なくとも後の日本の雅叙園とは全く関係がない。ある中文記載から1909年には既にあったと思われる。

・「杏花樓」現在も上海市黄浦区福州路(旧四馬路)にある1851年創業の上海・広東料理の老舗。

・「興華川菜館」現存しない料理店と思われる。

・「瑞記」これは北京であるが、現存しない料理店と思われる。

・「厚德福」現在も北京市西城区徳勝門内大街、所謂、かつての遊廓域であった大柵欄の西側に「厚德福酒樓」として現存する、清末の1902年開店になる河南料理の老舗である。

・「神州日報」1907年に上海で于右任(次注参照)が創設した日刊新聞社。間違ってはいけないのはこの「神州」で、これは中国の別称なのである。

・「余洵」は「右任」(ゆうじん)の誤りではなかろうか。于右任(Yú Yòurèn ユー ヨウレン 18791964 和訓では「うゆうじん」又は「うゆうにん」)は清末から中華民国にかけての文士・書家にして政治家・軍人・実業家。中国同盟会以来の古参の革命派であり、国民政府の監察院院長として知られる。「神州日報」を創刊し社長となった。若き日には日本に留学しており、後述される「徳富蘇峰氏を感激させた」話とも合致する。「穀民」という号など一致する資料を見出せないが、「右任」の音「ゆうじん」は「ゆじゅん」と極めて発音が近くはないか? 但し、ウィキの「于右任」の記載には、『1912年(民国元年)1月、南京で中華民国臨時政府が設立されると、交通部次長に任命された。翌年3月に、宋教仁が暗殺されると、袁世凱打倒のために、二次革命(第二革命)などに参与した。護法運動開始後の1918年(民国7年)、故郷に戻り、胡景翼と共に陝西靖国軍を組織して、于右任が総司令となった』とし、直後に『1922年(民国11年)5月、上海に遷り、葉楚傖と共に国立上海大学を創設し、于右任が校長となった』という記載がある。この文脈から言うと、1921年当時、于右任は上海ではなく、出身地の陝西省三原県にいたことになる。しかし、「神州日報」の社長で在り続けたとすれば、芥川の上海滞在時に、彼と上海で逢ったとしても、決して不自然ではない。識者の御教授を乞う。

・「玫瑰」諸注は本邦にも分布するバラ科バラ属ハマナス(浜梨)Rosa rugosaとするが誤りである。Rosa rugosaは北方種で中国では北部にしか分布しない。ハマナスの変種という記載もあるが、芥川が中国語としてこの語を用いていると考えれば(実際に「江南游記」の「五 杭州の一夜(下)」では、「玫瑰(メイクイ)」とルビを振る)、これは一般的な中国語としてバラを総称する語である。従って、ここに注するとすれば「ハマナス」ではなく「バラ」とすべきである。

・「余君穀民」「余洵」なる人物の号である(前注参照)。于右任の号、神州旧主・騒心・大風・剥果・太平老人などには近似したものがない。

・「局票」当時の中国で、妓を呼び出すために妓楼に差し出す名札。

・『「叫―速至三馬路大舞臺東首小有天閩菜館―座侍酒勿延」』は「○○○(:ここに妓の名を記す。)を叫(よ)ぶ。速やかに三馬路大舞臺東首小有天閩菜館(びんさいくわん)××(:ここに茶屋の室名・番号を記す。)座に至り、酒に侍せ。延すること勿かれ」。訳せば「妓「○○○」を呼ぶ。直ちに三馬路・大舞臺の東端の「小有天閩菜館」(「閩」は福建地方の古称であるから、福建料理の意。)の「××」座に参り、酒席に侍せ。遅れるな」で、これが局票の規定様式なのであろう。

・「毋忘國恥」は、「國恥忘るること毋(なか)れ」。

・「大阪の逢ひ状」「差し紙」とも言う。京阪の遊郭で、他の客席に出ている芸妓に対して馴染み客が「その席をはずして自分の方へ来い」招くための札。一般には半紙の四つ切りにしたものの上部を紅く染め(「天紅」と言う)、「誰々様ゆへ千代(ちよい)とにてもおこしの程待入り参らせ候かしく」等と記し、差出人の客の居る茶屋と妓の名を記したもの。以下の辞典頁の「逢い状」の項の記載を参照したが、そこには『これはわが国だけでなく、大正年間に上海でも見たことがある』とある。現在でも、芸者衆が見番から受ける「お出先」へのシフトを記した伝票を「逢い状」と呼んでいるらしい(「花柳界豆事典」の「逢い状」の項による)。

・「校書」 芸妓のこと。本来は典籍の蒐集や校勘を行うこと、その役職(校書郎)を指す語であるが、中唐の詩人元稹(げんしん 779831)が、蜀に使者として赴いた際に接待をした妓女薛濤(せっとう 768831)の文才を認めて校書郎に任じたとする「唐才子伝」に載るの故事から、芸妓の呼称となった。この薛濤は中国・唐代の伎女・詩人。晩唐の魚玄機(843868 生没年異説多し)とともに名妓・女流詩人の双璧とされる。

・「梅逢春」/「林黛玉」は本名「梅逢春」芸名を「林黛玉」と言った清末の女優。この当時は、以下の本文意にある通り、別格の芸妓として生計を立てていたらしい。筑摩版全集類聚脚注によれば、『清末、女性だけの一座が上海群仙茶園によった時の名優』とあり、新全集の神田由美子氏の注解では、更に補足して『「拾玉鐲」「紡棉花」「遺翠花」等の演目を得意とし、長江一帯に名声が高かった』と記す。「茶園」とは茶畑ではない。客同士が会話や軽食も可能なテーブルや椅子を配置した中国様式の劇場のことである。因みにこの「林黛玉」という芸名は、本来は清朝中期に書かれた女性を中心に据えた恋愛白話小説である曹雪芹の「紅楼夢」の登場人物の名で、主人公賈宝玉に次ぐヒロインでもある。作品中の十二人美少女、金陵十二釵の一人で、感受性豊かな薄幸の才女として描かれる細腰の美人である。加藤徹氏の「芥川龍之介が見た京劇」の中の「芥川を驚嘆させた京劇女優――林黛玉(三)」では、この後、彼女は『積年のアヘン吸引がたたり、翌二二年冬、寝たきりの状態となった。そして二四年五月、苦痛にのたうちまわりながら死んだ。』と記し、『清末民初の京劇女優については、その「妓戯兼営」という性格上、京劇史研究における扱いも冷淡である』という一代の名女優の悲劇を語っておられる。

・「大總統の徐世昌」徐世昌(Xú Shìchāng ション シーリン 18551939)は清末から中華民国初期の政治家・学者・実業家で、中華民国第4代総統。清朝では1911年内閣協理大臣に任命されており、古くから親しかった袁世凱が実権を握って慫慂した際にも、清の遺臣を理由に要職就任を辞退した。袁世凱死去後、直隷派の馮国璋の要請(対立する安徽派・奉天派の賛同もあった)を受けて1918年、第4代中華民国大総統に就任、直隷派・安徽派の調和、和平統一を目指したが不調に終わり、1922年にはやはり直隷派の手で辞任させられている。

・「徳富蘇峰氏を感激させた」岩波版新全集の神田氏の注解によると、芥川は旅行の前に徳富蘇峰(文久3(1863)年~昭和321957)年)の「支那漫遊記」(1918年)『を読んでいる。同書で蘇峰は、日本人倶楽部に於ける日支記者の晩餐会に出席し、「滔々支那語の演説を始め、一節了る毎に又た滔々と日本語にて、自から通訳」する余洵に感服したことを書い』ているとする。私はこの徳富蘇峰の「支那漫遊記」を所持しないが、そこには「余洵」という名が記されているのだろうか? だとすれば、蘇峰が誤り、龍之介が同じく記憶を違えるのは考えにくいから、「余洵」が于右任である可能性は低くなるようにも思われる。識者の御教授を乞う。

・「衣裳(イイシヤン)」“yīshāng”。

・「褲子(クウヅ)」“kùz”で、ズボンのような下袴のこと。

・「劉海(リウヘイ)」“Liú Hăi”は元来は神仙の名前である。額の前に垂れ下がった髪を短く切り揃えた童子の姿で描かれた、人気の仙童(実は南京大学で一年間日本語教師をした妻の私への土産物がこの劉海の絵であった)で、そこから前髪をこう言うようになった。別に、男の子の額の左右の両角の産毛と女の子の額の中央の産毛を合わせて「留孩髪」と呼んだが、その「留孩」の中国音“liúhái”が、劉海“Liú Hăi”と似ており、野暮ったい「留孩」を伝承が知れていた「劉海」に換えたという話や、則天武后の婉児の額の梅の刺青にまつわるエピソードなどは、面白さ満載の以下をお読みあれ。個人のブログ「中縁ネット」「916中国の三面記事を読む(314)前髪をなぜ“劉海”というのか?」という中国の新聞記事の素晴らしい日本語訳である。]

2009/06/10

芥川龍之介談 新藝術家の眼に映じた支那の印象

芥川龍之介談「新藝術家の眼に映じた支那の印象」を、正字正仮名でやぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」に公開した。

2009/06/09

上海游記 十四 罪

       十四 罪

 拜啓。上海は支那第一の「惡の都會」だとか云ふ事です。何しろ各國の人間が、寄り集まつてゐる所ですから、自然さうもなり易いのでせう。私が見聞しただけでも、風儀は確かに惡いやうです。たとへば支那の人力車夫が、追剥ぎに早變りをする事なぞは、始終新聞に載つてゐます。又人の話によれば、人力車を走らせてゐる間に、後から帽子を盜まれる事も、此處では家常(かじよう)茶飯事ださうです。その最もひどいのになると、女の耳環を盜む爲に、耳を切るのさへあると云ひます。これは或は泥坊と云ふより、Psychopathia sexualisの一種が手傳ふのかも知れません。さう云ふ罪惡では數月前から、蓮英(れんえい)殺しと云ふ事件が、芝居にも小説にも仕組まれてゐます。これは此處では拆白黨(せきはくたう)と云ふ、つまり無賴の少年團の一人が、金剛石(ダイヤモンド)の指環を奪ふ爲に、蓮英と云ふ藝者を殺したのです。その又殺し方が、自動車へ乘せて徐家※(じよかわい)近傍へ連れ出した擧句、絞(くび)り殺したと云ふのですから、支那では兎に角前例のない、新機軸を出した犯罪なのでせう。何でも世間の評判では、日本でも度度耳にする通り、探偵物なぞの活動寫眞が、惡影響を與へたのだと云ふ事でした。尤も蓮英と云ふ藝者は、私の見た寫眞によると、義理にも美人とは評されません。

[やぶちゃん字注:「※」は「匯」の「氵」を(くがまえ)の左に(さんずい)として出す字体。]

 勿論賣婬(ばいいん)も盛です。青蓮閣なぞと云ふ茶館へ行けば、彼是薄暮に近い頃から、無數の賣笑婦が集まつてゐます。これを野雉(イエチイ)と號しますが、ざつとどれも見た所は、二十歳以上とは思はれません。それが日本人なぞの姿を見ると、「アナタ、アナタ」と云ひながら、一度に周圍へ集まつて來ます。「アナタ」の外にもかう云ふ連中は、「サイゴ、サイゴ」と云ふ事を云ひます。「サイゴ」とは何の意味かと思ふと、これは日本の軍人たちが、日露戰爭に出征中、支那の女をつかまへては、近所の高梁(カオリヤン)の畑か何かへ、「さあ行かう」と云つたのが、濫觴だらうと云ふ事です。語原を聞けば落語のやうですが、何にせよ我我日本人には、餘り名著譽のある話ではなささうです。それから夜は四馬路あたりに、人力車へ乘つた野雉(イエチイ)たちが、必何人もうろついてゐます。この連中は客があると、その客は自分の車に乘せ、自分は歩いて彼等の家へつれこむと云ふのが習慣ださうです。彼等はどう云ふ料簡か、大抵眼鏡をかけてゐます。事によると今の支那では、女が眼鏡をかける事は、新流行の一つかも知れません。

 鴉片(アヘン)も半ばは公然と、何處でも吸つてゐるやうです。私の見に行つた鴉片窟なぞでは、かすかな豆ラムプを中にしながら、賣笑婦も一人、客と一しよに、柄の長い煙管を啣へてゐました。その外(ほか)人の話では、磨鏡黨(まきやうたう)とか男堂子(だんだうし)とか云ふ、大へんな物もあるやうです。男堂子とは女の爲に、男が媚を要るのであり、磨鏡黨とは客の爲に、女が婬戲(いんぎ)を見せるのださうです。そんな事を聞かされると、往來を通る支那人の中にも、辮髮(べんぱつ)を下げたMarquis de Sadeなぞは何人もゐさうな氣がして來ます。又實際ゐるのでせう。或(ある)丁抹人(デンマアクじん)が話したのでは、四川や廣東には六年ゐても、屍姦の噂は聞かなかつたのが、上海では近近(きんきん)三週間の内に、二つも實例が見當つたさうです。

 その上この頃ではシベリア邊から、男女とも怪しい西洋人が、大勢此處へ來てゐるやうです。私もー度友だちと一しよに、パブリツク・ガアドンを歩いてゐた時、身なりの惡い露西亞人に、しつこく金をねだられました。あれなぞは唯の乞食でせうが、餘り氣味の好いものぢやありません。尤も工部局がやかましい爲、上海もまづ大體としては、おひおひ風紀が改まるやうです。現に西洋人の方面でも、エル・ドラドオとかパレルモとか云ふ、如何はしいカツフエはなくなりました。しかしずつと郊外に近い、デル・モンテと云ふ所には、まだ商賣人が大勢來ます。

 “Green satin, a dance, white wine and gleaming laughter, with two nodding ear-rings――these are Lotus.

 これはユニイス・テイツチエンズが、上海の妓ロオタスを歌つた詩の一節です。「白葡萄酒と輝かしい笑ひと」――それは一ロオタスばかりぢやない、デル・モンテの卓に倚りながら、印度人(インドじん)を交へたオオケストラの音(ね)に、耳を貸してゐる女たちは、畢竟この外(ほか)に出ないのです。以上。

[やぶちゃん注:冒頭から芥川は上海の当時の風聞的通称を「惡の都會」とする。租界が出来て以降、いつからか魔都上海という語を耳にするようになるのだが、芥川が好みそうな「魔都」という語を使っていないところを見ると、この頃、未だ「魔都」は市民権を得ていなかったと見える。

・「女の耳環を盜む爲に、耳を切るのさへある」これは如何にもな都市伝説(アーバン・レジェンド)で、芥川がこれを信じていたとすれば、少々微笑ましい。そういう事実があったかどうかは問題ではない。そのようなものとして上海が恣意的にイメージされてゆくこと自体が最早古い「上海」でなく、都市伝説を生み出す新しい「上海」であることを、意味していたのだと、私は思うのである。

・「Psychopathia sexualis」芥川はこのラテン語を「変態性欲」という意味で用いている。芥川は恐らく「サディズム」という用語を知らしめたオーストリアの精神医学者であるRichard Freiherr von Krafft-Ebingリヒャルト・フォン・クラフト=エビング(18401902)の1886年刊行になる性的倒錯研究の嚆矢たる“Psychopathia Sexualis”「性的精神病理」が念頭にあったものと思われる。

・「蓮英殺しと云ふ事件が、芝居にも小説にも仕組まれてゐます」とあるが、私の乏しい力では、そのような芝居や小説は調べ得なかった。識者の御教授を乞うものである。

・「拆白黨」“chāibáidǎng”(チァンパイタン)。19201940年代の上海に於いて暗躍したアンダー・ラウンドな犯罪組織、又はその主な構成員であった不良青少年、そのグループを指す語。主に裕福な女性をターゲットとし、時間をかけて巧妙にその家庭に入り込み信頼を得、時期を得て誘い出して強迫或いは殺害し、金品を奪い取るという手法を用いた。「拆」を芥川は「せき」と訓じているが、「拆」には「セキ」の音はない。「たくはくたう」又は「ちやくぱくたう」等と読むのが正しいと思う。「拆白」という語は上海方言で、よく分からないが、悪巧みや穢れた正体を隠す、と言った意味か?

・「徐家※」[「※」は「匯」の「氵」を(くがまえ)の左に(さんずい)として出す字体。]これは「徐家匯」でよいであろう。現・上海市徐匯区のこと。その主な部分は旧徐光啓(後述○)邸宅跡である。19世紀にはフランスのイエズス会の天主堂が置かれ(1911年再建)、中国でのカトリック教会布教本部となった。日本が設置した私立学校同文書院もここにあった。現在は市区と郊外とを結ぶ交通の中心で、上海を代表する商業エリアでもある。 

○徐光啓(じょこうけい 15621633)は明代末の暦数学者。1599年、イタリア人イエズス会司祭マテオ・リッチ(Matteo Ricci 中国名 利瑪竇 りまとう Lì Mǎdòu 15521610)の名声を聞き、南京に行って教えを受け、1603年に受洗した。その後、進士に登第して翰林院庶吉士となったが、リッチとの交流の中で、天文学・地理・物理・数学等についてのリッチの知見をもとに西洋の自然科学書等を翻訳、多くの書籍として公刊した。特に最初の刊行になるユークリッド幾何学の翻訳「幾何原本」が知られる。その博識は当時の崇禎帝からも尊敬され、枢機・太子太保を歴任した。「農政全書」「崇禎暦書」等、著書多数。以上の徐光啓の事蹟はウィキの「徐光啓」の記載を参照したが、その最後には彼は『カトリックの教えは儒教を補うものと考えており、そのため迫害を蒙らずに、高位に昇ることができた』と説明されている。

・「日本でも度度耳にする通り、探偵物なぞの活動寫眞が、惡影響を與へたのだ」これは明治末年の映画“Zigomar”「ジゴマ」の上映に端を発する出来事を念頭に置いて書いている。「ジゴマ」はフランス人作家Leon Sazieレオン・サージイ(18621939)が書いた“Zigomar, roi des voleurs”(「ジゴマ、怪盗の王」)(1909)に始まるピカレスク・ロマン・シリーズ。1911年にVictorin Jassetヴィクトラン・ジャッセ(18821913)監督・脚色で映画化され、日本でも「探偵奇譚ジゴマ」の題名で、その年明治441911)年11月に封切られたが、当初から大評判となる。劇場には観衆が殺到し、客を舞台に上げる程であったといい、日本最初の洋画のヒット作と言える。以上、主にウィキの「ジゴマ」を参照したが、肝心の上映禁止の美事な解説はそのまま引用させて頂く。『ジゴマブームの中、少年層に犯罪を誘発するという説や、ジゴマの影響を受けたという犯罪の報道、泥棒を真似たジゴマごっこの流行などがあり、東京朝日新聞では191210月4-14日にブームの分析や影響が8回の連載で取り上げられた。こういった世論の高まりの中、10月9日に警視庁により、犯罪を誘致助成する、公安風俗を害するとして、ジゴマ映画及び類似映画の上映禁止処分がなされた。これは内務省警保局も決定に関わっており、続いて各府県に対しても警保局から同様の通牒が送られ、上映禁止は次第に全国に広まっていった。この件を機に、それまで各警察署が行っていた映画等の興行の検閲が、制度的に整えられていくこととなった。』『しかしジゴマブームによって、1912年の映画を含めた東京市内の観物場入場者数は前年の3倍の1200万人に達し(そのうち映画は851万人)、活動写真界の大きな成長をもたらした。また探偵小説についても禁止処分を訴える論調が新聞などに出たが、これには処分は下されなかった。』『その後は、ジゴマの名を隠したジゴマ映画が散発的に上映されることはあったが、ブームは下火になり、1913年にはジゴマ探偵小説の出版も無くなる。類似書としては、ジゴマの残党が登場する、1914年押川春浪「恐怖塔」、江見水蔭「三怪人」などがあった。また当時出版された探偵小説は、貸本屋、古本屋などを通じて読まれ続けた。上映禁止は1924年に解禁となったと、吉山旭光「日本映画史年表」には記載されている。』『江戸川乱歩の怪人二十面相シリーズにも、ジゴマの影響があると言われている』(記号の一部を変更した)。

・「青蓮閣」四馬路にあった上海有数の茶館兼遊芸場。現在、外文書店。

・「野雉(イエチイ)」“yĕzhì”は街娼のこと。路をうろついて客をひくさまを野の雉に喩えた。

・「高梁(カオリヤン)」“gāo liáng”はイネ目イネ科モロコシ属モロコシSorghum bicolor。穀類として食すほか、強い蒸留酒である白酒(パイチュウ)の原料とされる。

・「語原」ママ。

・「磨鏡黨」“mójngdǎng”(モチンタン)。これについて芥川は、客の男に、女が猥褻な行為を見せる若しくは施すようなことを書いており、そうした特殊風俗店かSMクラブのようなものを推測させるのであるが、中文のサイトを分からぬ乍らに眺めてみると、これはどうやら女性の同性愛者組織の名であるらしい。知人の中文サイトの読解によれば、この「魔鏡」という語には、女が美しい同性の容姿を撫でてみることで性的欲求を満足させるところを、鏡に映った姿と見立てて、この文字を当てたのではないかと教えてくれた。どうも宮中に仕える女性達が同性を相手に寂しさを埋めるものとして始まったように解説されているという。内容なだけに容易に人に聞けぬ。識者の御教授を願う。

・「男堂子」“nántángzĭ”(ナンタンツ)。「堂子」は「相公」とも言い、京劇等の少年俳優や花旦(女形)の男優が、生計やパトロンを得るために行った男色行為のことを指すようである。知人の中文サイトの読解によれば、「相公」には「指男技」という指を使った男色行為という意味深長な意味もあるとし、また男娼が集まっている巣窟を「相公堂子」とも言うらしい。しかし、そこから考えるとわざわざ「男」を冠する以上、芥川が言うような有閑マダムへの男の売春行為を指すものとも思われる。内容が内容なだけに容易に人に聞けぬ。識者の御教授を願う。

・「Marquis de Sade」フランス革命期の侯爵にして作家のマルキ・ド・サド(17401814)。本名はDonatien Alphonse Francois de Sadeドナスィヤン・アルフォーンス・フランスワ・ド・サド。“Marquis”は「侯爵」の意。プロシア語“marques”が中世にフランス語化した。原義は「辺境地をまもる人」。現在は英語としても通用し、“duke”の下、“earl”の上に位置する。

・「丁抹人(デンマアクじん)」このデンマーク人は、「長江游記」の「二 溯江」に登場する、二十数年中国に居るというRoose「ルウズ」なる人物であろう。彼は日本への理解を示すところなど、芥川が親しんだかのトーマス・ジョーンズに相通ずる雰囲気を持った人物として描かれている。

・「工部局」上海・天津などの租界の自治行政機関。1854年に成立した直後は土木建設事業権のみであったが、後に行政権や警察権をも司る機関となった。

・「エル・ドラドオ」“El Dorado”(スペイン語。本来は16世紀頃まで南米アンデス地方の原住民の言葉で「黄金の人」を意味するという)は16世紀の探検家達がアマゾン上流の奥地にあると想像した黄金郷。転じて理想郷の意にも用いる。筑摩書房版脚注は『アメリカのアーカンソー州の街の名。映画の題名でもあった』とするのだが、如何? アメリカの「エル・ドラド」は確かに西部劇にはよく登場するし、また、確かに1921年公開のフランス映画には“Sibilla the Dancer El Dorado”(Marcel L'Herbier マルセル・レルビエ監督)がある。しかし、この「エル・ドラド」は、アメリカの「エル・ドラド」とは無縁で、スペインはグラナダにある舞踏を見せる小屋の名である。ここは素直にアブナい特殊飲食店の中国語名としても「黄金郷」でいいんでないの? この筑摩の注釈者は、実はかなりの洋画ファンだったことが伺われて面白い!

・「パレルモ」“Palermo”は、イタリアの南部シチリア島北西部に位置する都市。シチリア州の州都で、中世シチリア王国の都でもあった。19世紀から20世紀にかけて、ここはヨーロッパの王侯貴族・大富豪・芸術家が集まる国際的保養地であったから、特飲店の名としてはお洒落な部類であろう。

・「デル・モンテ」は恐らく“Castel del monte”であろう。カステル・デル・モンテはイタリア南部プーリア州アンドリアのサンタ・マリア・デル・モンテの近くに立つ城状の建造物。“Castel ”はイタリア語の城、“monte”は山であるから「山の城」。ウィキの「カステル・デル・モンテ」によれば、『この城は軍事上でも居城でもなく別荘または客をもてなすために使用されたと考えられている』とある。1996年にユネスコ世界遺産に指定され、また1ユーロセントの硬貨の裏面のデザインともなっている。中国名なら「山城」「山砦」「山塞」「山寨」等が考えられるが、日本語ならもう「山城」なんだろうが、中国の特飲店の中国名としての字面の印象は、梁山泊みたようで、「山寨」がいいな!

・「商賣人」この場合の商売とは、売春斡旋の意。

・「“Green satin, a dance, white wine and gleaming laughter, with two nodding ear-rings――these are Lotus.”」訳すならば、

緑のサテン――舞い――白酒(パイチュウ)、そして輝ける笑(え)みと――揺れ揺れる耳飾り――これぞ! 名にし負はばの「蓮の花」!

satin”はオランダ語の“satijn”由来で、繻子(しゅす。「朱子」とも)のこと。絹を繻子織り(縦糸と横糸とが交差する部分が連続せず一般には縦糸だけが表に現れる織り方)にした豪華な生地で、強い光沢がある。高級チャイナドレスの素材として有名。最後の“Lotus”は、「白蓮」「金蓮」「紅蓮」等、中国人女性の名によくある「蓮」であるから、実際に「○蓮」といったその名妓の名を意識したであろう。固有名詞にありがちな字体の変更からもそう考えてよい。私はそのように「ハスの花のように美麗な、文字通り、蓮という名を持った娘」という意味で訳したつもりである。

・「ユニイス・テイツチエンズ」Eunice Tietjensユニス・テッチエンズ(18841944)はアメリカの女流詩人。1916年に渡中、漢詩に強い影響を受けたとされる。芥川龍之介の「パステルの龍」の中に芥川による訳詩が所収する。そちらは「五 病院」注に既出済み。

・「妓ロオタス」前々注参照。]

2009/06/08

ナナの夢(友情出演 アリス)

白光土か ハレーションのように飛んだ白い風景の中に

微かに見える海を見ながら

伏せをして尻尾をふっている柴犬のナナ そのお尻

左手から同じ大きさのビーグルがやってきて

寄り添って伏せをし 先っぽの白いその尻尾を 同じように振り始めた

あのお尻美人は 僕の先代のアリス

二人のメトロノームのデュオ

二人は「永遠の時神」(クロノス・エテルヌス)と一緒に 原初の海を見つめている――

2009/06/07

ナナ

このブログの初日に私が勝手に殺してしまったナナ

実はずっと生きていたのだ

すっかり毛が抜けて盲目となったナナ

それが

本当に死んでしまったのだった――

もうじきだ 僕は お前を撫でに行くよ――

貴女が生きたこの世は

僕にとっても4年前と少しも変わらずに窮屈だし

下らない憂鬱に満ち満ちているから――

ナナよ――

4年前に殺して僕のものにしたナナよ

僕はお前を愛している 永遠に――

2009/06/06

上海游記 十三 鄭孝胥氏

       十三 鄭孝胥氏

 坊間(ぼうかん)に傳ふる所によれば、鄭孝胥(ていかうしよ)氏は悠悠と、清貧に處してゐるさうである。處が或曇天の午前、村田君や波多君と一しよに、門前へ自動車を乘りつけて見ると、その清貧に處してゐる家は、私の豫想よりもずつと立派な、鼠色に塗つた三階建だつた。門の内には庭續きらしい、やや黄ばんだ竹むらの前に、雪毬(せつきう)の花なぞが匂つてゐる。私もかう云ふ清貧ならば、何時身を處しても差支へない。

 五分の後我我三人は、應接室に通されてゐた。此處は壁に懸けた軸の外に殆何も裝飾はない。が、マントル・ピイスの上には、左右一對の燒き物の花瓶に、小さな黄龍旗が尾を垂れてゐる。鄭蘇戡(ていそかん)先生は中華民國の政治家ぢやない、大清帝國の遺臣である。私はこの旗を眺めながら、誰かが氏を批評した「他人之退而不隱者殆不可同日論」とか云ふ、うろ覺えの一句を思ひ出した。

 其處へ小肥りの青年が一人、足音もさせずにはいつて來た。これが日本に留學してゐた、氏の令息鄭垂(ていすゐ)氏である。氏と懇意な波多君は、すぐに私を紹介した。鄭垂氏は日本語に堪能だから、氏と話をする場合は、波多村田兩先生の通辭を煩はす必要はない。

 鄭孝胥氏が我我の前に、背の高い姿を現はしたのは、それから間もなくの事だつた。氏は一見した所、老人に似合はず血色が好い。眼も殆青年のやうに、朗(ほがらか)な光を帶びてゐる。殊に胸を反らせた態度や、盛な手眞似(ジエスチユア)を交へる工合は、鄭垂氏よりも反つて若若しい。それが黑い馬掛兒(マアクワル)に、心もち藍の調子が勝つた、薄鼠(うすねずみ)の大掛兄(タアクワル)を着てゐる所は、さすがは昔年の才人だけに、如何にも氣が利いた風采である。いや、閑日月(かんじつげつ)に富んだ今さへ、かう潑溂としてゐるやうぢや、康有爲(かういうゐ)氏を中心とした、芝居のやうな戊戌(ぼじゆつ)の變に、花花しい役割を演じた頃には、どの位才氣煥發だつたか、想像する事も難くはない。

 氏を加へた我我は、少時(しばらく)支那問題を談じ合つた。勿論私も臆面なしに、新借款團の成立以後、日本に對する支那の輿論はとか何とか、柄にもない事を辯じ立てた。――と云ふと甚不眞面目らしいが、その時は何も出たらめに、そんな事を饒舌(しやべ)つてゐたのではない。私自身では大眞面目に、自説を披露しゐゐたのである。が、今になつて考へて見ると、どうもその當時の私は、多少正氣ではなかつたらしい。尤もこの逆上の原因は、私の輕薄な根性の外にも、確に現代の支那その物が、一半の責を負ふべきものである。もし譃だと思つたら、誰でも支那へ行つて見るが好い。必一月とゐる内には、妙に政治を論じたい氣がして來る。あれは現代の支那の空氣が、二十年來の政治問題を孕んでゐるからに相違ない。私の如きは御丁寧にも、江南一帶を經めぐる間、容易にこの熱がさめなかつた。さうして誰も賴まないのに、藝術なぞよりは數段下等な政治の事ばかり考へてゐた。

 鄭孝胥氏は政治的には、現代の支那に絶望してゐた。支那は共和に執(しふ)する限り、永久に混亂は免れ得ない。が、王政を行ふとしても、當面の難局を切り拔けるには、英雄の出現を待つばかりである。その英雄も現代では、同時に又利害の錯綜した國際關係に處さなければならぬ。して見れば英雄の出現を待つのは、奇跡の出現を待つものである。

 そんな話をしてゐる内に、私が卷煙草を啣(くは)へると、氏はすぐに立上つて、燐寸(マツチ)の火をそれへ移してくれた。私は大いに恐縮しながら、どうも客を遇する事は、隣國の君子に比べると、日本人が一番拙(せつ)らしいと思つた。

 紅茶の御馳走になつた後、我我は氏に案内されて、家の後にある廣庭(ひろには)へ出て見た。庭は綺麗な芝原のまはりに、氏が日本から取り寄せた櫻や、幹の白い松が植わつてゐる。その向うにもう一つ、同じやうな鼠色の三階建があると思つたら、それは近頃建てたとか云ふ、鄭垂氏一家の住居だつた。私はこの庭を歩きながら、一むらの竹の秋の上に、やつと雲切れのした青空を眺めた。さうしてもう一度、これならば私も清貧に處したいと思つた。

 此原稿を書いて居る時、丁度表具屋から私の所へ、一本の軸が屆いて來た。軸は二度目に訪問した時、氏が私に書いてくれた七言絶句を仕立てたのである。「夢奠何如史事強。呉興題識遜元章。延平劒合誇神異。合浦珠還好祕藏」さう云ふ字が飛舞(ひぶ)するやうに墨痕を走らせてゐるのを見ると、氏と相對(あひたい)してゐた何分かは、やはり未に懷しい氣がする。私はその何分かの間(あひだ)、獨り前朝(ぜんてう)の遺臣たる名士と相對してゐたのみではない。又實に支那近代の詩宗(しそう)、海藏樓(かいざうろう)詩集の著者の謦咳に接してゐたのである。

[やぶちゃん注:鄭孝胥(Zhèng Xiàoxū ヂョン シアオシュー 18601938)は清末の1924年総理内務府大臣就任(最早、清滅亡を眼前にして有名無実の職であったが、失意の溥儀によく尽くし、後、満州国にあってもその誠心を貫いた)、後、満州国国務院総理(首相)となった。詩人・書家としても知られる。ウィキの「鄭孝胥」によれば、1932年の『満州国建国に際しても溥儀と一緒に満州入りし』、1934年、初代国務院総理となったが、『「我が国はいつまでも子供ではない」と実権を握る関東軍を批判する発言を行ったことから』1935年辞任に追い込まれた。

・「坊間」巷間。世間。ちまた。

・「雪毬」バラ目バラ科シモツケ亜科シモツケ属コデマリSpiraea cantoniensisのこと。本邦の北国では「雪毬花」と呼称する。

・「黄龍旗」清朝の国旗。黄色の地に竜を描いたもので、中国史にあって最初の「国旗」である。

・「鄭蘇戡」鄭孝胥の号。

・『「他人之退而不隱者殆不可同日論」』書き下すと、「他人の退きて隱れざる者、殆ど同日に論ずべからず」で、意味は、「清帝国の遺臣でありながら、中華民国の時代になっても、隠棲もせず、政治の表舞台に厚顔無恥に残っている輩は、清貧の鄭孝胥氏と同列に論ずること自体が不可能である」の意。

・「鄭垂」満州国へと向かった溥儀に従ったのは、鄭孝胥とその長男であった彼だけであったと伝える。後、1932年、初の日満合弁事業として計画された満洲航空会社の社長となった。彼は当時の岡本天津総領事に最初に満蒙独立の構想を持ち掛けた人物ともされる。

・「波多君」は「五 病院」に登場する「上海東方通信社の波多博」のこと。同注参照。

・「馬掛兒(マアクワル)」“măguàér”日本の羽織に相当する上衣で対襟。筑摩版脚注では「掛」は「褂」が正しいとある。

・「大掛兒(タアクワル)」“tàiguàér”男物の単衣(ひとえ)の裾が足首まである長い中国服のこと。前注参照。

・「閑日月」ひまな時、用事のない月日の意であるが、それに、あくせくしない心、余裕に満ちた心の意も利かせている。

・「康有爲」(Kāng Yŏuwéi カン ヨウウェイ  18581927)は清末から中華民国初期の思想家・政治家・書家。イギリス・フランス・日本の列強に敗れた清の再建に向けて、西洋的な政治機構への改革と経済の近代資本主義化を目指した変法自強運動を梁啓超(りょうけいちょう)や譚嗣同(たんしどう)らと共に急速に推し進めたが、西太后を中心とする保守派によるクーデター「戊戌(ぼじゅつ)の政変」が起き、光緒帝は紫禁城内に幽閉され、彼と梁啓超は日本へ亡命、譚嗣同らは処刑されてしまう。1911年の辛亥革命により帰国して立憲君主制による清朝再興を訴えたが、既に時代遅れのその発想は急速に支持を失い、既にこの芥川の鄭孝胥との会見時には過去の人となっていた。

・「戊戌の變」は「戊戌の政変」又は「百日維新」とも。1898年の新暦611日からの凡そ100日間、西太后が栄禄・袁世凱らとともに起した反変法クーデタ。前注参照。

・「花花しい役割を演じた」1898年、変法自強運動を鼓吹した「時務報」主筆を梁啓超が辞任した後、鄭孝胥が引き受けており、中国人に近代知識と日本語を教授する目的で創立された私立学校東文学社等との関係もその日記から伺える(樽本照雄「鄭孝胥日記に見る長尾雨山と商務印書館(3)」等による)。

・「新借款團の成立」日本は1915年の対華二十一箇条要求や1億7700万円に登った西原借款等で中国への経済進出を図ったが、これを阻止しようとアメリカはイギリス・フランス・日本の四国の銀行による新借款団の設置を訴え、1920年に新四国借款団が成立した(1910年に組織された英米仏独の四国借款団に対する呼称)。因みにこれによって日本は独占的な利益獲得の好機を逸したものの、逆に欧米との良好な経済関係を作り、結果として外国資本の対日投資を促進させることに成功した。

・「二十年來の政治問題」清末から中華民国初期にかけての政変が齎した混乱と思潮の分立を言う。中国の近代化と立憲君主制を目指した変法自強運動の急激な変革、戊戌のクーデタによる反動、そこに端を発した辛亥革命と清の滅亡、三民主義を掲げた孫文の民主主義革命と袁世凱の北洋軍閥によるその挫折、1913年の宋教仁暗殺に始まる第二革命の鎮圧を経て、1917年から1918年にかけての孫文・広東軍政府による北京政府への護法運動の内戦(一連の事件を含めて第三革命とも)といった有為転変激しい政治シーンを指す。

・「幹の白い松」恐らく裸子植物門マツ亜門マツ綱マツ亜綱マツ目マツ科マツ属シロマツPinus bungeanaと思われる。「白松(はくしょう)」「白皮松」とも言い、中国中部から北西部原産。針葉が三本で一組。成長が遅く、現在は希少種。

・『「夢奠何如史事強。呉興題識遜元章。延平劒合誇神異。合浦珠還好祕藏」』句点を省いて書き下せば、

○やぶちゃんの書き下し文

夢奠(むてん) 何如(いかん)ぞ史事の強

呉興の題識 元章に遜(ゆづ)らん

延平の劒(けん) 合して神異を誇らんとし

合浦(がつぽ)の珠(しゆ) 還りて祕藏するに好からん

非力ながらオリジナルに訳して見ると、

○やぶちゃんの現代語訳

私が夢のように思い描いている理想――清朝の再興――それは、歴史の上の事実とは容易には成り得ないものであろうか……

宋の世、呉に住んだかの大家米元章は、古き栄誉に満ちた呉の復興を願う書を記している――勿論、小生は元章の足もとにも及ぶものではないが……

福建延平に纏わるエピソード、二つで一つの干将と莫邪の名剣は必ず一緒になってその計り知れぬ神異を誇るもの――皇帝と家臣とは、遂に正しくそのようなものであるはずである……

名立たる広東合浦産の上品な真珠、それはそれは美しい宝、それはまた大事に大事に秘かに暖めておくのがいい――その真珠のような私の内なる清朝復興の秘かな思い、それもまた胸の内にそっと大切にしまっておくのがいい……

といった感じか。訳に誤りがあるとなれば、御教授を乞う。「呉」は現在の上海を含む江南地方。「米元章」(本名 米芾(べいふつ 10511107年 生没年異説あり)は、北宋末の文人。蔡襄・蘇軾・黄庭堅とともに「宋四大家」の一人。名書家で、骨董・奇岩怪石蒐集でも有名であったから、書画を愛した鄭孝胥は同様な趣味人・文士としてもここに彼の名を挙げたものであろう。さて、「延平の劒」の延平は福建省南市延平であるが、ここは「晉書」の「巻三十六 列傳第六」の張華の伝に載る以下の話を元としていると思われる。非常に長くなるが、この注の後に原文・書き下し文・現代語訳を附した(★以下★迄)。因みに福建省は古来から現在に至るまで、優れた思想家を輩出した地であった。この芥川の記した後のことながら、中華人民共和国以降の著名人もまた、多い地である。なお筑摩版全集類聚の訳は明らかに「延平の劒」の部分を誤訳している。更に――神田由美子氏の岩波新全集注解では一言、『未詳。』とあるだけ――一体、こんな注解なら、「注」の項目として挙げぬがよかろう。そうは思わぬか?

★では、満を持して、「延平の劒」に因む「晉書」に現れる干将と莫邪の名剣のエピソードの原典を読もう。原文は中文の歴史傳記 「中華文化網」[繁體中文版] 呉恆昇編校「晉書 卷三一至四十 列傳第一至十のテクストを使用したが、意味をとりやすいように一部の漢字及び記号を変更・削除した。

之未滅也、斗牛之間常有紫氣、道術者皆以方強盛、未可圖也。惟華以爲不然。及呉平之後、紫氣愈明。華聞豫章人雷煥妙達緯象、乃要煥宿、屏人曰「可共尋天文、知將來吉凶。」因登樓仰觀。煥曰、「僕察之久矣。惟斗牛之間頗有異氣。」華曰、「是何祥也。」煥曰、「寶劍之精、上徹於天耳。」華曰、「君言得之。吾少時有相者言、吾年出六十、位登三事、當得寶劍佩之。斯言豈效與。」因問曰、「在何郡。」煥曰、「在豫章豐城。」華曰、「欲掘君爲宰、密共尋之。可乎。」煥許之。華大喜、即補煥爲豐城令。煥到縣、掘獄屋基、入地四丈餘、得一石函。光氣非常、中有雙劍、並刻題、一曰龍泉、一曰太阿。其夕、斗牛間氣不復見焉。煥以南昌西山北巖下土以拭劍、光芒艷發。大盆盛水、置劍其上、視之者精芒炫目。遣使送一劍并土與華、留一自佩。或謂煥曰、「得兩送一、張公豈可欺乎。」煥曰、「本朝將亂、張公當受其禍。此劍當繫徐君墓樹耳。靈異之物、終當化去、不永爲人服也。」華得劍、寶愛之、常置坐側。華以南昌土不如華陰赤土、報煥書曰、「詳觀劍文、乃干將也、莫邪何復不至。雖然、天生神物、終當合耳。」因以華陰土一斤致煥。煥更以拭劍、倍益精明。華誅、失劍所在。煥卒、子華爲州從事、持劍行經延平津、劍忽於腰間躍出墮水。使人沒水取之、不見劍、但見兩龍各長數丈、蟠縈有文章、沒者懼而反。須臾光彩照水、波浪驚沸、於是失劍。華歎曰、「先君化去之言、張公終合之論、此其驗乎。」華之博物多此類、不可詳載焉。

○やぶちゃんの書き下し文

 の未だ滅びざるや、斗牛の間、常に紫氣有りて、道術者、皆、呉を以て方に強盛とし、未だ圖るべからざるなり、と。惟だ華のみ以爲らく、然らず、と。呉、平げられし後に及ぶも、紫氣、愈々明なり。華、豫章人雷煥、緯象に妙達せるを聞き、乃ち煥を要(もと)めて宿せしめ、人を屏(しりぞ)けて曰く、「共に天文を尋ぬべし、吉凶の將來を知らん。」と。因りて樓に登り仰ぎ觀る。煥曰く、「僕、之の久しきを察す。惟だ斗牛の間、頗る異氣有るのみ。」と。華曰く、「是れ何の祥や。」と。煥曰く、「寶劍の精、上りて天に徹すのみ。」と。華曰く、「君の言、之を得たり。吾少(わか)き時、相者の言有り、吾、年六十出づれば、位、三事に登り、當に寶劍を得て之を佩くべし、と。斯(か)の言、豈に效(いた)すや。」と。因りて問ひて曰く、「何くの郡にか在る。」と。煥曰く、「豫章の豐城に在り。」と。華曰く、「君、宰の爲に、密かに共(むか)ひて之を尋ね掘せんことを欲す。可ならんか。」と。煥、之を許す。華、大いに喜び、即ち煥を補して豐城の令と爲す。煥、縣に到り、獄屋の基を掘るに、地に入ること四丈餘、一石函を得。光氣、常に非ずして、中に雙劍有り、並びに題を刻むに、一に曰く「龍泉」、一に曰く「太阿」たり。其の夕べ、斗牛の間、氣、復た見ず。煥、南昌の西山が北巖の下の土を以て劍を拭ふを以ってせば、光芒艷發たり。大盆の水を盛りたるに、其の上に劍を置けば、之を視る者、精芒、目を炫(くら)ませり。使を遣はして一劍并にび土與(とも)に華に送りて、一を留めて自ら佩く。或ひと煥に謂ひて曰く、「兩を得て一を送る、張公豈に欺くべけんや。」と。煥曰く、「本朝將に亂れ、張公當に其の禍を受くべし。此の劍、當に徐君が墓の樹に繫がんとするのみ。靈異の物、終に當に化して去るべし、人の、爲に服すること、永からざるなり。」と。華、劍を得、寶として之を愛し、常に坐の側に置けり。華、南昌の土を以て華陰の赤土に如かずとし、煥に報じて書して曰く、『詳しく劍文を觀るに、乃ち「干將」なり、「莫邪(ばくや)」何ぞ復た至らざる。然ると雖も、天生の神物、終に當に合すべきのみなるに。』と。因りて華は陰土一斤を以て煥に致す。煥、更に劍を拭ふに以てせば、精明、倍益す。華、誅せられて、劍が所在を失す。煥、卒して、子、華、州從事と爲り、劍を持して行き、延平の津を經るに、劍忽ち腰間より躍り出でて水に墮つ。人をして水に沒せしめて之を取らしむるに、劍見えず、但だ、兩龍の各々長さ數丈なる、蟠縈(ばんえい)して有る文章(もんしやう)を見れば、沒せる者、懼れて反(かへ)る。須臾(しゆゆ)にして、光彩、水を照らし、波浪、驚沸して、是に於いて劍を失せり。華、歎じて曰く、「先君の『化して去る』の言、張公が終合の論、此れ其の驗なるか。」と。華の博物に多なること此の類なるも、詳載すべからざるなり。

○やぶちゃんの現代語訳(推測して大きく補った部分を丸括弧で示し、一部の間接話法を直接話法に翻案してある)

未だ呉が滅亡する前の話である。夜、空を見上げると、南斗と牽牛の星の間に、常に紫の雲気が漂っている。晉の道士達はこれを占うに皆、呉は正に強く盛んな運気の中にあり、攻略するには相応しくないでしょうと武帝司馬炎に進言した。ところが(博物学者であり司空であった)張華だけは、(星間の異常現象は呉の運勢とは無関係であるとして)そうではない、ときっぱりと述べた。

 (時に晋の武帝は呉を攻め、見事、三国は統一されたが、)その呉が平定されてから後に至っても、張華の言った通り、星間の紫の雲気は愈々明るくなるばかりであった。そこで、この現象に興味を持った張華は、予章の人であった雷煥が天体現象とその意味に精通していると聞いて、雷煥を自分の屋敷に招待し、一夜泊まらせると、人払いをした後、

「これから共に天文現象を観察して、未来のあらゆる吉凶を知ろうではないか。」

と持ち掛けて、楼台に登って夜空を仰ぎ見た。(張華は黙っていたが、その真意を察した)雷煥は、

「私めは、この現象は以前からずっと存じておりました。これはただ南斗と牽牛の星間に極めて特異的な雲気があるという事実に過ぎません。」

と言う。張華はすかさず、

「(私は、この現象は呉の運勢とは無縁であると推察出来はしたものの、その実、真意が分らぬのだ。)これは如何なる兆しであろうか?」

と訊ねた。しかし雷煥は、あっさりと述べた。

「(未来の吉凶とは無縁なのです。)ただ名宝たる剣の精気がこの地上から立ち上って天空に到達しているというだけのことなのです。」

それを聞いた張華は、

「君の今の言葉で、私は大いに納得した。実は、私が幼少の折、ある人相見が占うに、私が六十歳を越えれば、その地位は三公に登り、世にも稀な名剣を手に入れて、腰に佩くに違いない、といわれたのだ。(私は既に三公の司空となっている。)これこそ、あの予言が正しかったことの現われだ!」

と喜んだ。そして、即座に雷煥に訊ねた。

「その剣は一体、どこの地にあるのか?」

「予章郡の豊城県に存在します。」

張華は間髪を入れず、雷煥に言った。

「君、私のために、どうか秘かにその宝剣を探し、恐らく何処かの地に埋もれているそれを発掘して来て欲しいのだ、よろしいか?」

雷煥はこれを請け合った。張華は大層喜び、(司空の地位を利用して)直ちに雷煥を豊城の県令に任命した。

 雷煥は豊城県に到着すると、(そこで実測を始め、そこで得られた事実から遂に埋蔵箇所を同定した。そこは実に県令所有の獄舎の下であった。そこでその)獄舎をすべて取り壊し、その基礎部分を掘ってみたところ、地下四丈(:当時の度量衡で約9.6m。)程のところで、一基の石棺を得た。その石棺自体が光を放っており、その光も尋常のものではない。恐る恐る蓋を開けてみると、中には二振りの剣があって、双方にはそれぞれ銘が刻まれており、一つには「龍泉」、一には「太阿」とあった。

 その出土した日の暮れ方、雷煥が空を見上げると、既に南斗と牽牛の星の間の紫の雲気はもう見えなくなくなっていたのであった。

 雷煥が、(事前に取り寄せていた)湖南の南昌にある西山北麓の岩盤の下から産した土で剣を拭ってみたところが、触れずとも切れんばかりの鋭い光芒を発するようになった。(真っ暗にした部屋で)大きな盆に水を張り、その盆の上に静かに抜き身の剣を置くと、その輝きたるや、見る者の眼を一瞬にして眩ませてしまう。

 雷煥は使者を送って、一振りを南昌の土と一緒に張華に送り、一振りは自分で佩いた。ある人が、

「二振りを得たのに一振りだけを送ったのでは、張華様を欺いたことになりませぬか?」

と進言した。ところが雷煥は、

「――晋朝は今にも乱れんとしている。――思うに張華様は、残念ながら、その禍いを受けぬわけには行かぬであろう。――この剣を私が持つ所以は、丁度、あの呉の季札(きさつ)が、後に徐君(じょくん)の墓の樹に自分の剣を結びつけた故事に擬えんとするためだけのものである。――霊異なる存在というものは、畢竟、姿を化して去ってしまうものであり、永く人の手に従うものでは、ないのじゃ――」

と答えたのであった。

 さて、張華は一振りの剣を得、名宝としてこれを愛し、常に傍らに置いていた。張華は、剣を磨くには、雷煥が添えた南昌の土では華陰の赤土の良さに及ばぬことを経験から知っており、そのことを雷煥に手紙で知らせたが、その書信の中には、

『詳らかに剣に刻印された銘を調べてみると、これは正にかの伝説で名刀「干将」と呼ばれる剣そのものである。だとすれば妻の化身たるもう一振りの名刀「莫邪」に相当するものは、どうしてまた、私の元へとやって来ないのであろう? この二物は一時的に分かれていたとしても、天が生み出した神聖なる存在は、究極に於いては必ずや合体する以外にはないはずであるのに――』
という疑義を記していた。――
 その後すぐに張華は華陰の土一斤(:当時の度量衡で約200g強。)を雷煥に送って寄越したのであった。――(即ち、張華は雷煥が二振りの剣を発掘し、一方の剣を所持していることを見抜いていたのであった。そうしてそれが決して雷煥のさもしい物欲に発したものでないことも恐らく見抜いていたのであった。――)
 雷煥がその張華の送ってくれた華陰の土をもって「莫邪」の剣を拭ってみたところ、剣の輝きはそれこそ、増して倍以上になったのであった。――
 (後、張華は八王の乱(:西暦300年の晋滅亡の端緒となった皇族間の内乱。)に巻き込まれて捕らえられて一族皆殺しにされてしまった。一説には、司馬倫の起こした謀反に加わることを拒んだためとも言われる。)
 張華が誅殺されると同時に、名剣「干将」の所在は不明となった。
 後、雷煥が亡くなったが、その子の雷華は更に州従事に任命されて、父の遺品である剣を佩き、州府へと向かっていた。丁度、延平の渡しを渡っている時であった。剣が生き物のように忽然と抜き身となって腰から躍り出てかと思うと、水中に落ちた。慌てた雷華は人を水中に潜らせて取り戻そうとしたのであるが、(すっかり疲れ切って戻ったその者は、荒い息の中で)次のように雷華に告げた。

「剣は遂に見つかりませなんだ――ただ――川底に――各々、長さ凡そ数丈(:当時の度量衡から推測して十数メートルから二十メートル。)に亙る二匹の龍、その龍が互いに絡まりあっている紋様が――その川底に、あったので御座います!――それを見て儂は、すっかり恐くなって慌てた拍子に息も呑んでしまい、命からがら引き返して参りました!……」

――やがてすぐに、水面の下からまばゆい色とりどりの光彩が目くるめく照射され出し、あたかも水が沸騰するかのように激しい波浪が沸き起こった――こうして剣は失われたのであった――雷華は深く感じて言った。

「聞いていた二本の剣に纏わる話――昔、父上がいつかこの剣は『化して去ってしまう』であろうとおっしゃったという話、また、張華様がこの二本の剣が、畢竟、合体しないではおらぬと書信で論ぜられたという、あの話、ああ! それこそがこのことの予言であったのか!」

 張華の博物について図抜けた智を持っていたことは、例えばこのような話からもその一端は分かるであろうが、その広大無辺な知識について総てを詳述することは不可能と言うべきである。

 こちらも訳に誤りがあるとなれば、御教授を乞う。ここに登場する張華は「博物志」の著者として知られる晉の武帝司馬炎に仕えた政治家にして学者である。また「干将」は呉の伝説的刀匠の名で、「莫邪」の方はその妻の名である。「捜神記」によれば、干将は楚王の命で二振りの剣を鍛え上げるが、完成が遅かったことを理由に二人は楚王に殺されてしまう。その遺児の赤(通称眉間尺)は父母の復讐のために姦計を巡らして、自らの首を断つ。最後にはその首が楚王の首と一緒になって、煮えたぎる鍋の中でグツグツと煮える――という、なかなかクる話、私の大好きな話しなのであるが、これ以上やると「上海游記」の注が大脱線しまくりの飴のように延びたものになってしまうので、涙を呑んで読者の御探求の宿題と致そう。また、雷煥の話に出てくる季札挂剣の話は、「史記」等に載る話である。呉王の子季札が父親の命により、有力な他国へと使者として赴く途中、北の地で同年輩の徐君(徐国の王)に逢った。親しくなった二人であったが、徐君は李札の佩く剣が殊の外気に入った。しかし、それを口にすることはなく、また李札もその意を汲みながらも、使者としての公務に佩刀は必須、公務の終えた帰路徐君に譲らんとして、その折がやってきた。ところが訪ねた時、徐君は既に帰らぬ人なっていた。――季札乃ち其の宝剣を解き、徐君の冢(つか)の樹に懸けて去る。従者曰く、「徐君已に死す、尚ほ誰(たれ)にか予(あた)ふるや。」と。季子曰く、「然らず。始め吾、心に已に之を許す。豈に死を以て吾が心に倍(そむ)かんや」と。――従者に向かって季子は答えて言った。「そうではない。よいか? 人と人との『信』というものは、そういうものではないのだ。最初から私は心のなかで、任務さえ終えたなら、この宝剣を徐君に差し上げようと決めていた。どうして死如きを以って、私のこの『信』の心に背くことが出来ようか、いや出来ぬ。」――★

・「詩宗」すぐれた詩人の敬称。

・「海藏樓詩集」鄭孝胥の詩集。131043首。「海藏樓」は彼の室名。]

2009/06/05

上海游記 十二 西洋

       十二 西洋

 

 問(とひ)。上海は單なる支那ぢやない。同時に又一面では西洋なのだから、その邊も十分見て行つてくれ給へ。公園だけでも日本よりは、餘程進歩してゐると思ふが、――

 答。公園も一通りは見物したよ。佛蘭西公園やジエスフイルド公園は、散歩するに、持つて來いだ。殊に佛蘭西公園では、若葉を出した篠懸(すゞかけ)の間に、西洋人のお袋だの乳母だのが子供を遊ばせてゐる、それが大變綺麗だつたつけ。――だが格別日本よりも、進歩してゐるとは思はないね。唯此處の公園は、西洋式だと云ふだけぢやないか? 何も西洋式になりさへすれば、進歩したと云ふ訣でもあるまいし。

 問。新公園にも待つたかい?

 答。行つたとも。しかしあれは運動場だらう。僕は公園だとは思はなかつた。

 問。パブリツク・ガアドンは?

 答。あの公園は面白かつた。外國人ははいつても好いが、支那人は一人もはいる事が出來ない。しかもパブリツクと號するのだから、命名の妙を極めてゐるよ。

 問。しかし往來を歩いてゐても、西洋人の多い所なぞは、何だか感じが好いぢやないか? 此も日本ぢや見られない事だが、――

 答。さう云へば僕はこの間、鼻のない異人を見かけたつけ。あんな異人に遇ふ事は、ちよいと日本ぢやむづかしいかも知れない。

 問。あれか? あれは流感の時、まつさきにマスクをかけた男だ。――しかし往來を歩いてゐても、やはり異人に比べると、日本人は皆貧弱だね。

 答。洋服を着た日本人はね。

 問。和服を着たのは猶困るぢやないか? 何しろ日本人と云ふやつは、肌が人に見える事は、何とも思つてゐないんだから、――

 答。もし何とか思ふとすれば、それは思ふものが猥褻なのさ。久米の仙人と云ふ人は、その爲に雲から落ちたぢやないか? 

 問。ぢや西洋人は猥褻かい? 

 答。勿論その點では猥褻だね。唯風俗と云ふやつは、殘念ながら多數決のものだ。だから今に日本人も、素足で外へ出かけるのは、卑しい事のやうに思ふだらう。つまりだんだん以前よりも、猥褻になつて行くのだね。

 問。しかし日本の藝者なぞが、白晝往來を歩いてゐるのは、西洋人の手前も恥入るからね。

 答。何、そんな事は安心し給へ。西洋人の藝者も歩いてゐるのだから、――唯君には見分けられないのさ。

 問。これはちと手嚴しいな。佛蘭西租界なぞへも行つたかい?

 答。あの住宅地は愉快だつた。柳がもう煙つてゐたり、鳩がかすかに啼いてゐたり、桃がまだ咲いてゐたり、支那の民家が殘つてゐたり、――

 問。あの邊は殆西洋だね。赤瓦だの、白煉瓦だの、西洋人の家も好いぢやないか?

 答。西洋人の家は大抵駄目だね。少くとも僕の見た家は、悉下等なものばかりだつた。

 問。君がそんな西洋嫌ひとは、夢にも僕は思はなかつたが、――

 答。僕は西洋が嫌ひなのぢやない。俗惡なものが嫌ひなのだ。

 問。それは僕も勿論さうさ。

 答。譃をつき給へ。君は和服を着るよりも、洋服を着たいと思つてゐる。門構への家に住むよりバンガロオに住みたいと思つてゐる。釜揚うどんを食ふよりも、マカロニを食ひたいと思つてゐる。山本山を飮むよりも、ブラジル伽排を飮み――

 問。もうわかつたよ。しかし墓地は惡くはあるまい、あの靜安寺路の西洋人の墓地は?

 答。墓地とは亦窮(きう)したね。成程あの墓地は氣が利いてゐた。しかし僕はどちらかと云へば、大理石の十字架の下より、土饅頭の下に横になつてゐたい。況や怪しげな天使なぞの彫刻の下は眞平御免だ。

 問。すると君は上海の西洋には、全然興味を感じないのかい?

 答。いや、大いに感じてゐるのだ。上海は君の云ふ通り、兎に角一面では西洋だからね。善かれ惡かれ西洋を見るのは、面白い事に違ひないぢやないか? 唯此處の西洋は本場を見ない僕の眼にも、やはり場違ひのやうな氣がするのだ。

 

[やぶちゃん注:十数年後の嘱目であるが、豊島与志雄の「上海の渋面」の中に以下の記載がある。芥川の感懐と合わせて読むと興味深い。『上海ほど自然の美に恵まれない都会も少い。また上海ほど、事変による廃墟や戦場を除いて、名所古跡に乏しい都会も少い。僅か百年ばかりの間に急激に発展した海港だけに、人口が増すにつれて必要な、建築物だけが立ち並んだに過ぎない。街路が狭くて並木を植える余地もなく、並木らしい並木はジョッフル街に見られるくらいなものである。支那家屋にしても、街路からはただ、薄暗い室房の重畳が見られるだけで、その白壁や屋根の景観を得ようとすれば、百貨店などの屋上に登らなければならない。』『古い歴史と伝説とを持ってるものとしては、呉の時代からのものとされてる静安寺があるきりで、支那第六泉の称があったと伝えられてるその井戸も、今では、街路の中央に跡形だけを止めてるに過ぎないし、他に旧跡の見るべきものも殆んどない。北部の新公園は極東オリンピックの跡とて、運動競技場にふさわしいだけであり、西部のジェスフィールド公園はただ老人の散歩場所にふさわしく、学生などがここを歩いてるのも他に逍遙の場所がないからのことである。』(河出書房昭和141939)年刊「文学母胎」初出。引用は青空文庫の豊島与志雄「上海の渋面」より)。「静安寺」は後の注を参照。ここで豊島が言う「極東オリンピック」とは「極東選手権競技大会」のことと思われる。1913年以降、フィリピン・中国・日本を主な参加国として、1934年まで10回開催された。豊島の言いのもとは第1回の「東洋オリンピック」という名称からであろう(第2回以降上記に変更)。第2回(1915年)と第5回(1921年)の2回、上海で開催されている。豊島が言うのは第5回のことであろうが、「新公園は極東オリンピックの跡とて、運動競技場にふさわしいだけであり」という認識は事実誤認である(もっと古い。後の「新公園」注参照)。

・「佛蘭西公園」現在の復興公園。上海西方のフランス租界内にあった。霞飛路(現・淮海中路)と環龍路“Route Vallon”(現・南昌路)及び辣斐徳路“Route Lafayette”(現・復興中路)の間、南北高架路の西に位置する。解放前は、もとあった顧家宅花園が1900年の義和団事件の際にフランス軍の駐屯地に使われたため、1909年に回顧家宅公園、別称で“Jardin de France”フランス公園と呼ばれた。南京国民政府の国民革命軍が北伐を開始し、全国を統一した1928年まで、中国人は立入禁止であった。

・「ジエスフイルド公園」現在の中山公園。上海の西の郊外にある。当時の上海地図を見ると「堪旬非而公園」と表記されている。1914年に外国人にのみ開放され、広大な敷地内には欧風・中国風・日本風庭園を備えていた。以下は18年後の記事であるが、注の冒頭に示した豊島与志雄の「上海の渋面」の時代の雰囲気を伝え、管理システムも分かる内容である。『工部局に対する報告によれば、ジェスフィールド公園の入場者は一九三八年以来二倍以上となり、その結果公園は非常に損傷されたとのことである。一日の入園者数四〇〇〇〇人に及び、非常に混み合うために窃盗者の発見が困難となり、樹木等の損傷が増加した。』『臨時入園料二十仙は変わらないが、各園共通のシーズン・チケットは三元に、ジェスフィールド公園以外の各園のシーズン・チケットは一元に値上げされた。各園共通のシーズン・チケットは一九三九年六月一日より値上げされ、同時に園内の取締を強化し、入園者が自発的に公園の規則を守るような教化運動が行なわれた。工部局の要求によって膠州公園への交通が改善された。その楽園により多くの入園者が惹かんがためである。』(以上は個人の頁箱庭的アジア植民地資料中心南満州鉄道株式会社調査部上海事務所調査室訳「上海共同租界工部局年報(1939年版)」「一九三九年の概観」の頁の中の「入場料」の項から引用させて頂いた)。

・「新公園」現在の上海市北方の虹口区東江湾道にある魯迅公園とほぼ同位置にあった公園。今は専ら魯迅の墓とその記念館によって知られる。清代の1896年に上海共同租界工部局(現在の市役所に相当する機関)が租界の外にあった農地を取得して造営され、当初は「虹口娯楽場」と呼ばれた。イギリス人の園芸家によって設計されたために様式は西洋式で、中に賭博場も設置されていた。1922年に「虹口公園」と改名。後の1932429日、この公園で上海天長節爆弾事件(朝鮮人尹奉吉を実行犯とする中朝政府共同による抗日テロ)が起こっている(以上の事蹟は主にウィキの「魯迅公園」及び「上海天長節爆弾事件」等を参照した)。

・「パブリツク・ガアドン」現在、上海随一の観光スポットである外灘(“Wàitān”ワイタン『外国人の河岸』の意 英語名“The Bund”バンド)にある黄浦公園が相当するが、大きさは往時とは全く異なる。外灘は黄浦江岸の中山路(中山東路)に沿ってあるが、その東側にこの“Public Garden”パブリック・ガーデンが広がっていた。1868年にイギリスが領事館前の浅瀬を埋め立てて造成した公園。現在は中山路の拡張に伴い、細い帯のようにしか公園は残っていない。

・「支那人は一人もはいる事が出來ない」“Public Garden”には入口に「華人與狗不得入内」という看板が立っていたことで有名であるが、フランス公園の注で示したように、租界内の公園はどこも同様で、1928年までこの立入禁止は続いた。

・「鼻のない異人」梅毒の感染後2年以降の第3期になると、堅いしこりやゴム腫が出現する。このゴム腫が鼻骨に生じると、最後には鼻全体が腐り落ちる。そうした患者のことを指していよう。芥川は晩年、友人宇野浩ニが梅毒による麻痺性痴呆によって発狂するに至るを含め、梅毒への感染恐怖を持ち続けた。この中国旅行で女を買った芥川が、それで梅毒に感染したのではないかという強迫神経症を持つに至った可能性も否定は出来ないと私は考えている。

・「佛蘭西租界」「租界」とは中国の開港都市部に於いて居留する外国人がその居留地区の警察権や行政権を掌握した治外法権の組織及び地域を呼ぶ。1842年にアヘン戦争で清が敗れるとイギリスは江寧(南京)条約によって上海を租界として借り上げたアロー号事件に端を発するアロー戦争(18571860)での英仏連合軍の勝利とその後の北京条約によって清の半植民地化は決定的となったが、その象徴が上海租界である。当初は南京条約により開港した上海に1845年、イギリスが置いたのが始まりで、その後、上海にはアメリカ合衆国・フランスが各租界を定めた。後に英米列強の租界を合わせた共同租界とフランス租界の二つに再編された。最多時は8ヶ国27ヶ所に及んだ。

・「靜安寺路の西洋人の墓地」の「靜安寺」は静安区南京西路に現存するする仏教寺院。呉の孫権の247年の建立と伝える、江南の真言密教の名刹の一つ。1862年、租界の競馬場から静安寺に通じる静安寺路(現・南京西路)が造られて、静安寺は上海西地区の交通の中心となり、1899年には租界全体が西に拡張され、静安寺もその範囲内に組み入れられた。「西洋人の墓地」というのは南京西路を挟んで静安寺と反対の南側にあった。現在は静安寺公園となっている。1898年に租界工部局衛生処が開設した外人墓地(現在、墓群は虹橋の万国公墓に移されているらしい)。因みに「二 第一瞥(上)」に登場し、芥川が「彼 第二」で印象的なオードを書いたトーマス・ジョーンズは、1923年天然痘に罹患し、上海で客死、ここに葬られた。]

2009/06/04

確信的断定! 芥川龍之介聴劇於五月十六日!

出勤までの時間がない。手短に言う。

私は「九 戲臺(上)」の注で以下のように書いた。

本篇や以下の「十 戲臺(下)」の記述から、秦氏は芥川龍之介はこの天蟾舞台で、
小翠花が演じた「梅龍鎭」
及び
蓋叫天が演じた「武松」
(やぶちゃん補注:正しくは武松の登場する「水滸伝」を素材とした
「全本武十回」
の内の
「醉奪快活林」
(写真版の広告を見ると「林」を「嶺」とある。ネットで調べると一般には「林」のようだが、「嶺」とするものもある。因みにこの演目については「十 戲臺(下)」の注で詳述するが、この「快活林」は宿屋に酒家を兼ねた店の名前である)
「血濺鴛鴦樓(けっせんえんおうろう)」
「大閙蜈蚣嶺(だいどうごしょうれい)」
の三場)
を観劇したと推定するのである。私もそれを肯んずる。
 そこで秦氏はこの両演目を当時の新聞広告に依って再び調べるのである。すると1921年5月16日の「申報」の天蟾舞台の広告の当日番付に両演目が載っているのが見出されるのだ。芥川龍之介は本篇の冒頭で『上海では僅に二三度しか、芝居を見物する機會がなかつた』と言っている以上、本演目が組み合わされている日を秦氏が選ぶのは極めて至当と言える。そうでなくても入院と途中の杭州・蘇州・南京行と、上海での実動時間は限られていたのである。
 更に、現在の知見によれば、芥川は5月14日には蘇州・南京への小旅行から上海に戻っている。そうして翌15日、この小旅行中に体調の不良を覚え、肋膜炎の再発を危ぶんだ彼は里見病院を受診しているのだが、そこでは全く問題ないと里美医師から太鼓判を押されて、大いにほっとしているのである。そうして5月17日の夜には漢口・北京に向けて芥川は上海を去っているのである。即ちこの5月16日の一日は、芥川龍之介最後の上海という特別な日であったのである。私が劇通の村田烏江であったなら、この別れに際して、芥川にとびっきりの京劇の名演鑑賞をセットしない方がおかしいというものではなかろうか!?

気がついたのだ!――

昨夜打ち込みを終えた「上海游記」掉尾の「二十一 最後の一瞥」の掉尾――

私は煙草の箱を出しに、間着(あひぎ)のポケツトヘ手を入れた。が、つかみ出したものは、黄色い埃及(エジプト)の箱ではない、先夜其處に入れ忘れた、支那の芝居の戲單(シイタン)である。と同時に戲單の中から、何かがほろりと床へ落ちた。何かが、――一瞬間の後、私は素枯れた白蘭花(パレエホオ)を拾ひ上げてゐた。白蘭花(パレエホオ)はちよいと嗅いで見たが、もう匂さへ殘つてゐない。花びらも褐色に變つてゐる。「白蘭花(パレエホオ)、白蘭花(パレエホオ)」さう云ふ花賣りの聲を聞いたのも、何時か追憶に過ぎなくなつた。この花が南國の美人の胸に、匂つてゐるのを眺めたのも、今では夢と同樣である。私は手輕な感傷癖に、墮し兼ねない危險を感じながら、素枯れた白蘭花(パレエホオ)を床へ投げた。さうして卷煙草へ火をつけると、立つ前に小島氏が贈つてくれた、メリイ・ストオプスの本を讀み始めた。

これは芥川が上海に永遠に別れを告げる、

5月17日の夜

の記載である――僕はもう、これで充分だと思うのだ!――

芥川龍之介「上海游記」全文テクスト化作業は終ったが……

とりあえず、今、芥川龍之介「上海游記」の全本文をテクスト化終了した。

しかし、本作品の注釈作業はなかなか一筋縄ではいかない。――それは、今までの公開分を見て戴ければ、納得して頂けるであろう。

現在、公開分は「十一」章まで。「上海游記」は総章数二十一、折り返し点は通過したか――しかし、これだけここまで入れ込んで注を附してしまうと、ここから先もおろそかにする訳には行かぬ。

お待ち頂く分、相応の注をも心懸けよう。――さればこそ、気長にお付き合い頂くよう、お願い申し上げる。

――只管、等一等!――

2009/06/03

上海游記 十一 章炳麟氏



       十一 章炳麟氏


 章炳麟氏の書齋には、如何なる趣味か知らないが、大きな鰐の剝製が一匹、腹這ひに壁に引つ付いてゐる。が、この書物に埋まつた書齋は、その鰐が皮肉に感じられる程、言葉通り肌に沁みるやうに寒い。尤も當日の天候は、發句の季題を借用すると、正に冴え返る雨天だつた。其處へ瓦を張つた部屋には、敷物もなければ、ストオヴもない。坐るのは勿論蒲團のない、角張つた紫檀の肘掛椅子である。おまけに私の着てゐたのは、薄いセルの間着(あひぎ)だつた。私は今でもあの書齋に、坐つてゐた事を考へると、幸にも風を引かなかつたのは、全然奇跡としか思はれない。

 しかし章太炎先生は、鼠色の大掛兒(タアクワル)に、厚い毛皮の裏のついた、黑い馬掛兒(マアクワル)を一着してゐる。だから無論寒くはない。その上氏の坐つてゐるのは、毛皮を掛けた籐椅子である。私は氏の雄辯に、煙草を吸ふ事も忘れながら、しかも氏が暖さうに、悠然と足を伸ばしてゐるのには、大いに健羨(けんせん)に堪へなかつた。

 風説によれば章炳麟氏は、自ら王者の師を以て任じてゐると云ふことである。さうして一時(じ)その弟子に、黎元洪(れいげんかう)を選んだと云ふ事である。さう云へば机の横手の壁には、あの鰐の剝製の下に、「東南撲學、章太炎先生、元洪」と書いた、横卷(よこまき)の軸が懸つてゐる。しかし遠慮のない所を云ふと、氏の顏は決して立派ぢやない。皮膚の色は殆黄色である。口髭や顋髯は氣の毒な程薄い。突兀(とつこつ)と聳えた額なども、瘤ではないかと思ふ位である。が、その絲のやうに細い眼だけは、――上品な縁無しの眼鏡の後(うしろ)に、何時も冷然と微笑した眼だけは、確に出來合ひの代物ぢやない。この眼の爲に袁世凱は、先生を囹圄(れいご)に苦しませたのである。同時に又この眼の爲に、一旦は先生を監禁しても、とうとう殺害(せつがい)は出來なかつたのである。

 氏の話題は徹頭徹尾、現代の支那を中心とした政治や社會の問題だつた。勿論不要(プヤオ)とか「等(タン)一等(タン)」とか、車屋相手の熟語以外は、一言(ごん)も支那語を知らない私に議論なぞのわかる理由はない。それが氏の論旨を知つたり、時時は氏に生意氣な質問なぞも發したりしたのは、悉週報「上海」の主筆西本省三氏のおかげである。西本氏は私の隣りの椅子に、ちやんと胸を反らせた儘、どんな面倒な議論になつても、親切に通辭を勤めてくれた。(殊に當時は週報「上海」の締切り日が迫つてゐたのだから、私は愈氏の御苦勞に感謝せざるを得ないのである。)

 「現代の支那は遺憾ながら、政治的には墮落してゐる。不正が公行(こうかう)してゐる事も、或は清朝の末年よりも、一層夥しいと云へるかも知れない。學問藝術の方面になれば、猶更沈滯は甚しいやうである。しかし支那の國民は、元來極端に趨(はし)る事をしない。この特性が存する限り、支那の赤化は不可能である。成程一部の學生は、勞農主義を歡迎した。が、學生は即ち國民ではない。彼等さへ一度は赤化しても必ず何時かはその主張を抛つ時が來るであらう。何故と云へば國民性は、――中庸を愛する國民性は、一感激よりも強いからである。」

 章柄麟氏はしつきりなしに、爪の長い手を振りながら、滔滔と獨得な説を述べた。私は――唯寒かつた。

 「では支那を復興するには、どう云ふ手段に出るが好いか? この間題の解決は、具體的にはどうするにもせよ、机上の學説からは生まれる筈がない。古人も時務(じむ)を知るものは俊傑(しゆんけつ)なりと道破した。一つの主張から演繹せずに、無數の事實から歸納する、それが時務を知るのである。時務を知つた後に、計畫を定める、――時に循(しかが)つて、宜しきを制すとは、結局この意味に外ならない。……」

 私は耳を傾けながら、時時壁上(へきじやう)の鰐を眺めた。さうして支那問題とは歿交渉に、こんな事をふと考へたりした。――あの鰐はきつと睡蓮の匂と太陽の光と暖な水とを承知してゐるのに相藩ない。して見れば現在の私の寒さは、あの鰐に一番通じる筈である。鰐よ、剝製のお前は仕合せだつた。どうか私を憐んでくれ。まだこの通り生きてゐる私を。……
 

[やぶちゃん注:章炳麟(Zhāng Bĭnglín ヂャン ビンリン 18691936)は清末から中華民国初期にかけて活躍した学者・革命家。民族主義的革命家としてはその情宣活動に大きな功績を持っており、その活動の前後には二度に亙って日本に亡命、辛亥革命によって帰国している。一般に彼は孫文・黄興と共に辛亥革命の三尊とされるが、既にこの時には孫文らと袂を分かっており、袁世凱の北洋軍閥に接近、その高等顧問に任ぜられたりした。しかし、1913年4月に国民党を組織して采配を振るった宋教仁が袁世凱の命によって暗殺されると、再び孫文らと合流、袁世凱打倒に参画することとなる。その後、芥川の言葉にある通り、北京に戻ったところを逮捕され、3年間軟禁されるも遂に屈せず(その間に長女の自殺という悲劇も体験している)、1916年、中華民国北京政府打倒を目指す護法運動が起こると孫文の軍政府秘書長として各地を転戦した。しかし、この芥川との会見の直前には1919年の五・四運動に反対して、保守反動という批判を受けてもいる。これは本文で本人が直接話法で語るように、彼が中国共産党を忌避していたためと考えられる。奇行多く、かなり偏頗な性格の持ち主であったらしいが、多くの思想家・学者の門人を育てた。特に魯迅は生涯に渡って一貫して章炳麟に対し、師としての深い敬愛の情を示している(以上はウィキや百科事典等の複数のソースを参照に私が構成した)。

・「セルの間着」「セル」はオランダ語“serge”の略で、布地のセルジのこと(「セル地」という発音の偶然から「セル」と短縮された)。梳毛糸(そもうし:ウールをくしけずって長い繊維にし、それを綺麗に平行にそろえた糸)を使った、和服用の薄手の毛織物。サージ。「間着」は「合い服」のこと。

・「大掛兒(タアクワル)」“tàiguàér”男物の単衣(ひとえ)の裾が足首まである長い中国服のこと。筑摩版脚注では「掛」は「褂」が正しいとある。

・「馬掛兒(マアクワル)」“măguàér”日本の羽織に相当する上衣で対襟。前注参照。

・「健羨」非常に羨ましく思うこと。

・「黎元洪」(Lí Yuánhúng リン ユエンホン 18641928)は清末から中華民国初期の軍人・政治家。第2代(19161917)及び第4代(19221923)中華民国大総統を勤めた。清の軍人であったが、辛亥革命時の際には高度な政治的判断の中で反乱軍の大将に推挙され、自身も革命に積極的になり、また、その後の袁世凱死後の北洋軍閥混乱期にあっては対立した安徽派・直隷派双方から、今度は傀儡として大総統に推されることとなったが、最後は政界から追われた。章炳麟とは中華民国初期の統一党が発展した1912年5月の共和党結党辺りで大きな接点がある。

・「東南撲學」この場合の「撲」は、尽す、悉く、総てといった意味合いであろう。従って、中国の東南(上海)にあって、学問を学び尽した、尽さんとする人、の意であろう。

・「章太炎」章炳麟の号。

・「袁世凱」(Yuán Shìkǎi ユアン シーカイ 18591916)中華民国大総統。ここでの章炳麟の逮捕・軟禁は注の冒頭章炳麟の事蹟を参照。

・「囹圄」「れいぎょ」とも。「囹」「圄」共に牢屋・牢獄の意。

・『「等(タン)一等(タン)」』底本は総ルビであるが大正期の総ルビでは数字にルビを振らないのが一般的で、ここでも「一」にルビがないのであるが、ここは読みとしては中国語“děng yī děng”なので「タンイタン」と読むべきである。中国語で、「ちょっとちょっと」「ちょっと待って」の意。

・『週報「上海」』神戸大学大学院人文学研究科海港都市圏旧センター資料情報に『雑誌『上海』は、1913年から1945年まで、上海で発行された日本語雑誌である。1928年から1933年の時期は『上海週報』と誌名が変更された』とあり、更にこの頃の「上海」の論調について『中国進出をめぐる列強間の競争が激しかった時代を背景に、日本以外の列強諸国が、経済面や文化面、政治面で中国へのさらなる進出を図る事への警戒心が垣間見える』とし、対中国社会については『軍閥間の争いに失望し、辛亥革命以前の王朝統治に理想を求める復古的な論調を打ち出していた』と記し、その後に本雑誌の『こうした論調の背景には、雑誌の主催者であった西本省三が、日本のアジア主義団体「東亜同文会」と密接な関係を持っていた事がある』という目が醒めるような解説が載る。ここに現れた「東亜同文会」とは日清戦争後の明治311898)年に組織された日中文化交流事業団体(後に教育機関ともなる)のこと。日中相互の交換留学生事業等を行い、明治331900)年には南京に南京同文書院を設立、1900年の義和団の乱後はそれを上海に移して東亜同文書院と改称した。後の1939年には大学昇格に昇格したが、1946年、日本の敗戦とともに消滅した。なお、岩波版新全集注解では本雑誌について、『中国政治文化評論誌という副題された総合誌』で、西本白川(次注の西川の号)主筆の『春申社から「週報上海」として創刊、後に「上海通報」「上海」となり、上海雑誌社刊となる。山田純三郎編』とある。

・「西本省三」(明治111878)年~昭和31928)年)号は白川。中国研究家。日露戦争に通訳として従軍、後に母校であった東亜同文書院(前注参照)の教員となった。辛亥革命に反発、春申社を創立して週刊「上海」(前注参照)を刊行、孫文とその新体制を批判した。著作に「支那思想と現代」(1921)・「康煕大帝」(1925)など(「デジタル版 日本人名大辞典+Plus等を参照した)。

・「公行」公に行われること。

・「勞農主義」社会主義革命の達成のために、労働者階級が農民層と協同して権力に対して組織的に闘争すること。1920年にペトログラード及びモスクワで開かれた第2回コミンテルン大会に於いて、ロシアに革命以前からあった「労農同盟」を、植民地化された国々のプロレタリアートと農民の間で形成されるべき統一戦線として発展的に提示したもので、汎世界的な革命闘争として決議されたもの。

・「時務」その時代に応じた務めのこと。この今の時代のなすべき務め。「蜀書五 三国志三十五 諸葛亮傳第五」に「襄陽記」から引いて、

劉備訪世事於司馬德操.德操曰:「儒生俗士,豈識時務?識時務者在乎俊傑.此閒自有伏龍・鳳雛.」備問為誰,曰:「諸葛孔明・龐士元也.」

とある(以上の引用は原著作者【むじん書院】の「蜀書五 三国志三十五 諸葛亮傳第五」のページから改変せずコピー・ペーストした)。以下、私の書き下しと訳を示す。

○やぶちゃんの書き下し文

 劉備、司馬德操に世事につきて訪ふ。德操曰く、「儒生・俗士、豈に時務を識らんや。時務を識る者は俊傑に在り。此の閒、自ら伏龍と鳳雛(ほうすう)有り。」と。備、問ひて、「誰とか為す。」と。曰く、「諸葛孔明・龐士元なり。」と。

○やぶちゃんの現代語訳

 ある時、劉備は時世の要所について徳操にたずねた。徳操は答えて言った。

「私のような学生の俗物に、どうして時務――この今の時代のなすべき務めが分かりましょうや? いえ、とても分かったものではありませぬ。時務を知るということは、人よりも遙かに抜きん出た人物の才能の中にこそ在るのです。この辺りでは、自然、『伏龍』と『鳳雛』とが居りまする。」

そこで、劉備は問い質した。

「それは一体誰のことじゃ?」

徳操が答える。

「諸葛孔明と龐士元です。」

「德操」は司馬徽(しばき 生没年不詳)。字は徳操、中国後漢末期の人物鑑定家として、特に上記のエピソードで知られる人物。「龐士元」は龐統(ほうとう 178213 生没年は異説あり)士元は字。有名な軍略家諸葛亮(181234 孔明は字)共に賢臣として劉備を助け、蜀漢を揺ぎないものとした。諸葛孔明の「臥龍」「伏龍」に対して、龐士元は「鳳雛(ほうすう)」(鳳(おおとり)のひな)と呼ばれた。]

2009/06/02

緑牡丹は白牡丹なり!――芥川龍之介「上海游記」の芸名の誤り

以上、二回のブログで公開したテクスト及びその注で示した通り、芥川龍之介『支那游記』の「上海游記」中に出現する京劇俳優「緑牡丹」は、別人の「白牡丹」であることが判明した。「上海游記」初出には正しく「白牡丹」となっているのである。

芥川龍之介が『支那游記』に「上海游記」を所収するに当り、何故、名花旦「白牡丹」荀慧生の名が別な花旦「緑牡丹」黄玉麟となってしまったのか――分らない。ただ、奇妙な附合がある。――単行本『支那游記』の刊行は大正14(1925)年の11月3日であり(その校正は9月下旬から始まっている)、「緑牡丹」黄玉麟の来日公演が同年の7月であることである。――だから、何だ、と言われそうである。偶然ではある。偶然ではあるが、何だか気になる。しかし、よく分らない。――ただ言えることがある。芥川はこの「緑牡丹」の来日公演を見ていないものと思われること。見ていれば、失礼ながら恐らくはその「緑牡丹」の「白牡丹」に及ばない姿に失望し、その印象の中で、このような「校正」の誤りが生じようはずはなかったこと。――だから何だ。いや、よく分らない。――しかし、校正が始まったすぐ後の10月15日頃には三男の也寸志が発熱し、月末まで癒えず、看病やら心配やらで芥川は落ち着かない。同じ頃、敬愛する滝田樗陰の病篤くなり、10月27日に逝去、弔問に出掛けている。この頃には、また翌年新年号の原稿依頼が舞い込み始め、その構想にもかからねばならなかった。――よく分らない。が、年譜に拠れば芥川がこの前後に、多忙を極めていたことだけは伺える(彼はあんまり暇なときがないのだが)。――さて、これは脱線である。僕は、昔、ある学校新聞の顧問を引き受けていた。社会科の教師が当時の中国問題について寄稿した記事を生徒と校正に行ったら、印刷所の担当者が「首相」を「主席」に勝手に書き換えていた(当時、事実、その直前に主席の地位は空白になっていた)。指摘すると、中国は主席だ、首相じゃない、とその担当者に一蹴された。執筆した教師とその担当者(その頃は活版印刷でその人はその学校新聞の総ての植字も担当していた)との間に挟まれ、すったもんだの末、「首相」で落ち着いたが、その印刷所の担当者は、「こんな間違い、笑われるよ」と如何にも不満げに譲らなかったのが、思い出される。――話を戻す。以上の話はあくまで脱線である。脱線であるが、もしかすると引込み線で繋がっていないとは言えないかも知れぬ。よく分らない。――作家の書いたものを、そうおいそれと書き換えるなんてことがあり得たのかとお思いになる向きもあろう。――さあ、よく分らない。――しかし、「蜘蛛の糸」の初出が、鈴木三重吉によって表現や句読点に至る細部まで改変されて「赤い鳥」に載ったことは、僕の「蜘蛛の糸」のテクスト注でも述べた。――今や、藪の中――ではある。

しかし、これだけははっきりと言っておかなくてはならぬ。

向後、「上海游記」のテクストの該当部分は総て初出通り、「白牡丹」に訂正されるべきである。芥川と麗人「白牡丹」荀慧生の名誉にかけて――

上海游記 十 戲臺(下)

       十 戲臺(下)

 その代り支那の芝居にゐれば、客席では話をしてゐようが、子供がわあわあ泣いてゐようが、格別苦にも何にもならない。これだけは至極便利である。或は支那の事だから、たとひ見物が靜かでなくとも、聽戲(ちやうぎ)には差支へが起らないやうに、こんな鳴物が出來たのかも知れない。現に私なぞは一幕中、筋だの役者の名だの歌の意味だの、いろいろ村田君に教はつてゐたが、向う三軒南隣りの君子は、一度もうるささうな顏をしなかつた。

 支那の芝居の第二の特色は、極端に道具を使はない事である。背景の如きも此處にはあるが、これは近頃の發明に過ぎない。支那本來の舞臺の道具は、椅子と机と幕とだけである。山嶽、海洋、宮殿、道途(だうと)――如何なる光景を現すのでも、結局これらを配置する外は、一本の立木も便つたことはない。役者がさも重さうに、閂(かんぬき)を外すらしい眞似をしたら、見物はいやでもその空間に、扉の存在を認めなければならぬ。又役者が意氣揚揚と、房のついた撻(むち)を振りまはしてゐたら、その役者の股ぐらの下には、驕つて行かざる紫騮(しりう)か何かが、嘶いてゐるなと思ふべきである。しかしこれは日本人だと、能と云ふ物を知つてゐるから、すぐにそのこつを呑みこんでしまふ。椅子や机を積上げたのも、山だと思へと云はれれば、咄嗟によろしいと引き受けられる。役者がちよいと片足上げたら、其處に内外を分つべき閾(しきゐ)があるのだと云はれても、これ亦想像に難くはない。のみならずその寫實主義から、一歩を隔てた約束の世界に、意外な美しささへ見る事がある。さう云へば今でも忘れないが、小翠花(せうすゐくわ)が梅龍鎭(ばいりゆうちん)を演じた時、旗亭(きてい)の娘に扮した彼はこの閾を越える度に、必ず鶸色(ひわいろ)の褲子(クウヅ)の下から、ちらりと小さな靴の底を見せた。あの小さな靴の底の如きは、架空の閾でなかつたとしたら、あんなに可憐な心もちは起させなかつたに相違ない。

 この道具を使はない所は、上(かみ)に述べたやうな次第だから、一向我我には苦にならない。寧ろ私が辟易したのは、盆とか皿とか手燭とか、普通に使はれる小道具類が如何にも出たらめなことである。たとへば今の梅龍鎭にしても、つらつら戲考を按ずると、當世に起つた出來事ぢやない。明の武宗が微行の途次、梅龍鎭の旗亭の娘、鳳姐(ほうそ)を見染めると云ふ筋である。處がその娘の持つてゐる盆は、薔薇の花を描(か)いた陶器の底に、銀鍍金(めっき)の線なぞがついてゐる。あれは何處かのデイパアトメント・ストアに、並んでゐたものに違ひない。もし梅若萬三郎が、大口(おほくち)にサアベルをぶら下げて出たら、――そんな事の莫迦莫迦しいのはの細い多言を要せずとも明かである。

 支那の芝居の第三の特色は、隈取りの變化が多い事である。何でも辻聽花翁(つじちやうくわをう)によると、曹操一人の隈取りが、六十何種もあるさうだから、到底市川流(いちかはりう)所の騷ぎぢやない。その又隈取りも甚しいのは、赤だの藍だの代赭だのが、一面に皮膚を蔽つてゐる。まづ最初の感じから云ふと、どうしても化粧とは思はれない。私なぞは武松(ぶしよう)の芝居へ、蔣門神(しやうもんじん)がのそのそ出て來た時には、いくら村田君の説明を聽いても、やはり假面だとしか思はれなかつた。一見あの所謂花瞼(ホアレン)も、假面ではない事が看破出來れば、その人は確かに幾分かは千里眼に近いのに相違ない。

 支那の芝居の第四の特色は、立廻りが猛烈を極める事である。殊に下廻りの活動になると、これを役者と称するのは、輕業師とするの称するの當れるに若かない。彼等は舞臺の端から端へ、續けさまに二度宙返りを打つたり、正面に積上げた机の上から、眞つ倒(さかさま)に跳ね下りたりする。それが大抵は赤いズボンに、半身は裸の役者だから、愈曲馬か玉乘りの親類らしい氣がしてしまふ。勿論上等な武劇の役者も、言葉通り風を生ずる程、青龍刀や何かを振り廻して見せる。武劇の役者は昔から、腕力が強いと云ふ事だが、これでは腕力がなかつた日には、肝腎の商賣が勤まりつこはない。しかし武劇の名人となると、やはりかう云ふ離れ業以外に、何處か獨得な氣品がある。その證據には蓋叫天が、宛然(さながら)日本の車屋のやうな、パツチばきの武松に扮するのを見ても、無暗に刀を揮ふ時より、何かの拍子に無言の儘、じろりと相手を見る時の方が、どの位行者(ぎやうじや)武松らしい、凄味に富んでゐるかわからない。

 勿論かう云ふ特色は、支那の舊劇の特色である。新劇では隈取りもしなければ、とんぼ返りもやらないらしい。では何處までも新しいかと云ふと、亦舞臺(えきぶだい)とかに上演してゐた、賣身投靠(ばいしんたうかう)と云ふのなぞは、火のない蠟燭を持つて出てもやはり見物はその蠟燭が、ともつてゐる事と想像する。――つまり舊劇の象徴主義は依然として舞臺に殘つてゐた。新劇は上海以外でも、その後二三度見物したが、此點ではどれも遺憾ながら、五十歩百歩だつたと云ふ外はない。少くとも雨とか妻とか夜になつたとか云ふ事は、全然見物の想像に依賴するものばかりだつた。

 最後に役者の事を述べると、――蓋叫天だの小翠花だのは、もう引き合ひに出して置いたから、今更別に述べる事はない。が、唯一つ書いて置きたいのは、樂屋にゐる時の緑牡丹(りよくぼたん)[やぶちゃん注:「白牡丹」の誤り。以下総て「緑牡丹」は「白牡丹」と読み替える。「九 戲臺(上)」の「緑牡丹」の注を参照。]である。私が彼を訪問したのは、亦舞臺の樂屋だつた。いや、樂屋と云ふよりも、舞臺裏と云つた方が、或は實際に近いかも知れない。兎に角其處は舞臺の後の、壁が剥げた、蒜(にんにく)臭い、如何にも慘澹たる處だつた。何でも村田君の話によると、梅蘭芳(メイランフアン)が日本へ來た時、最も彼を驚かしたものは、樂屋の綺麗な事だつたと云ふが、かう云ふ樂屋に比べると、成程帝劇の樂屋なぞは、驚くべく綺麗なのに相違ない。おまけに支那の舞臺裏には、なりの薄ぎたない役者たちが、顏だけは例の隈取りをした儘、何人もうろうろ歩いてゐる。それが電燈の光の中に、恐るべき埃を浴びながら、往つたり來たりしてゐる容子は殆百鬼夜行(きやかう)の圖だつた。さう云ふ連中の通り路から、ちよいと陰になつた所に、支那鞄や何かが抛り出してある。緑牡丹はその支那鞄の一つに、鬘(かづら)だけは脱いでゐたが、妓女蘇三(そさん)に扮した儘、丁度茶を飮んで居る所だつた。舞臺では細面(ほそおもて)に見えた顏も、今見れば存外華奢ではない。寧ろセンシユアルな感じの強い、立派に發育した青年である。背も私に此べると、確に五分は高いらしい。その夜も一しよだつた村田君は、私を彼に紹介しながら、この利巧さうな女形と、互に久潤を敍し合つたりした。聞けば君は緑牡丹が、まだ無名の子役だつた頃から、彼でなければ夜も日も明けない、熱心な贔屓の一人なのださうである。私は彼に、玉堂春は面白かつたと云ふ意味を傳へた。すると彼は意外にも、「アリガト」と云ふ日本語を使つた。さうして――さうして彼が何をしたか。私は彼れ自身の爲にも又わが村田烏江君の爲にも、こんな事は公然書きたくない。が、これを書かなければ、折角彼を紹介した所が、むざむざ眞を逸してしまふ。それでは讀者に對しても、甚濟まない次第である。その爲に敢然正筆を使ふと、彼は横を向くが早いか、眞紅に銀輪の繍(ぬひ)をした、美しい袖を飜して、見事に床の上へ手洟(てばな)をかんだ。

[やぶちゃん注:本文中にも注を置いたが、「緑牡丹」は「白牡丹」の誤りである。以下総て「緑牡丹」は「白牡丹」と読み替える必要がある。その論証については「九 戲臺(上)」の「緑牡丹」の注を必ず参照のこと。

・「聽戲」は、中国語で観劇の意。

・「道途」は、道。

・「紫騮」は、黒栗毛(暗褐色)の馬。

・「小翠花」は「九 戲臺(上)」同注参照。

・「梅龍鎭」は、明代の物語。芥川が梗概する通り、色好みの第14代正徳帝(せいとくてい)が自ら軍人に変相、上海の梅龍鎮の街にある梅龍鎮酒家に泊り、そこの娘鳳姐を見初めて、皇后にするまでの恋愛譚。芥川龍之介は1921年5月16日に天蟾舞台で小翠花が演じた「梅龍鎭」を観劇したと推定される。その根拠は「九 戲臺(上)」の「緑牡丹」の考証注を参照されたい。

・「旗亭」は、料理屋や酒楼。

・「鶸色」黄緑色。スズメ目アトリ科カワラヒワ属マヒワ(真鶸)Carduelis spinusの羽の色の連想から名づけられた色名。

・「褲子(クウヅ)」“kùz”で、ズボンのような下袴のこと。

・「戲考」書名。王大錯の編になる全40冊からなる膨大な脚本集(19151925刊)で、梗概と論評を附して京劇を中心に凡そ六百本を収載する。

・「明の武宗」明の第11代皇帝正徳帝(14911521)。本名、朱厚照。武宗は廟号で、中国ではこちらで呼称するが、本邦では使用された元号によって呼ぶことが多い。ラマ教に傾倒したが、実生活では酒色に耽り、好きだった軍事演習に飽きると遠征を行い、行軍先で美女を誘拐しては陣中で淫楽に耽った。明滅亡の主因となったとされる。ちなみに彼の実際の皇后は孝静毅皇后夏(?~1535)と称し、上元の出身(これが現在の上元県とすれば江蘇省南京近辺)、1506年に皇后となっている。少なくとも上海の娘では、ない。

・「微行」お忍びの意。

・「梅若萬三郎」初世梅若万三郎(明治2(1869)年~昭和21(1946)年)のこと。観世流の能楽師。明治の三名人といわれた初世梅若実の長男で、梅若一門を開いた。

・「大口」能で用いる衣装である大口袴(おおくちばかま)の略。衣服としては裾の口が大きい下袴で、平安以降、公家の束帯で表袴(うえのはかま)の下に用いられ、鎌倉以降は武士が直垂(ひたたれ)・狩衣等の下に穿いた。能では特に限定された役の衣装ではないが、賤しい役所は穿かない。

・「辻聽花翁」中国文学者の辻武雄(慶応4・明治元(1868)年~昭和6(1931)年)の号。上海や南京師範学校で教鞭を採り、京劇通として知られ、現地の俳優達の指導も行なった。ネット検索でも中文サイトでの記載の方がすこぶる多い。

・「市川流」江戸歌舞伎の荒事とその隈取りは主に初代市川團十郎を中心とした市川家によって完成されたため、このように言った。そのような流派が存在する謂いではない。

・「蔣門神がのそのそ出て來た時」芥川が見たと思しい京劇「醉奪快活林」のクライマックスである。西門慶と潘金蓮を仇討ちした武松は孟州に流罪となるが、そこでは典獄(刑務官)とその息子の金眼彪施恩(ひょうしおん)に、その魁偉を気に入られて囚人ながら厚遇される。折しも施恩はごろつきの蒋門神に快活林という交易所(酒店を兼ねる)を奪われ怪我を負わされていた。施恩が武松に仇討ちを頼み込むと、武松はさんざんに酒をあおり、所謂、酔拳で蒋門神と戦ってこれを懲らしめる、という痛快大立ち回りのストーリー(以上は「水滸聚義」というHPの「天傷星 行者 武松」の頁を主に参考にした)。

・「花瞼(ホアレン)」“huāliăn”で、隈取りの意。

・「行者」武芸の修行者。

・「舊劇」中国の伝統演劇京劇の呼称。元曲・南曲・昆劇・越劇・川劇等の地方演劇の発展の中で京劇が旧劇の頂点となった。

・「新劇」話劇とも言う。20世紀の初頭に国外の現代演劇の思潮を取り入れた中国の演劇を指す。特に1919年の五・四運動以降のリアリズムと表現主義を主張とする戯曲群を指す。

・「亦舞臺」上海にあった劇場の名。

・「賣身投靠」は話劇「雙珠鳳」の別名(新劇化された話劇「雙珠鳳」の外題というべきか)。そのストーリーはhungmei さんのブログの「越劇・黄梅戯・紅楼夢」によれば、洛陽の秀才文必正は南陽に向かう途次、法華庵という寺院の庭で焼香に来ていた才女の霍定金(かくていきん)を見初め、彼女の落としていった珠鳳(髪飾りか耳飾りであろう。当時の女性が耳飾りをしていたかどうかは不学にして知らない。識者の御教授を乞う)を拾う。文は自ら奴隷に身をやつして霍家へ入り込む。二人っきりになるチャンスを伺い、機を得て珠鳳を蓮の花に入れて定金に差し出しながら、自分があの時の文必正であることを告白、二人は将来を誓い合うというハッピー・エンドである。この「賣身投靠」というのは、ある目的のために自分自身を売り渡すという意味で、文が定金を得んがために奴隷に身を売って霍家へ入り込んだことを指すのであろう。

・「帝劇」東京都千代田区丸の内三丁目にある東宝直営の帝国劇場のこと。明治441911)年渋沢栄一を発起人として本邦初の西洋式演劇劇場として設立された。

・「妓女蘇三」後述する京劇「玉堂春」の主人公玉堂春の妓名。

・「センシユアル」は“sensual”で、肉体的な・官能的な・肉欲をそそる、という意。

・「玉堂春」は明代の物語で、「警世通言」の「玉堂春落難逢夫」を元にした京劇の主人公。名妓蘇三(玉堂春)は公子で吏部尚書の王金龍と誓い合った仲であったが、金龍は金銭を使い果たして、妓楼を追い出されてしまう。それを聞いた蘇三は金龍に銀を送って故郷南京へと帰郷させる。残った蘇三は以後、客を取るのを拒んだため、山西の豪商沈燕林に妾として売られてしまう。ところが沈の妻には間男がおり、邪魔な夫を毒殺した上、妾の蘇三を夫殺しの犯人として告発、沈の妻から賄賂を受けていた県令は蘇三を死罪に処して太原に護送する。一方、金龍は科挙に登第、山西巡按史となって折りしも蘇三の一件を審議する立場となるが、変わらぬ信愛によって二人は再会、冤罪を雪ぎ、晴れて結ばれるというストーリー(以上の梗概は千田大介氏のWebサーバ「電脳瓦崗寨」にある「中国伝統劇解説/京劇『玉堂春』」の記載を参照した)。但し、芥川が観劇した白牡丹のものは前篇の注での秦剛氏の考証により「新玉堂春」とあり、これも新劇化された「玉堂春」と言うべきものなのかも知れない。

・「正筆」は、ぼかすことなくはっきりと正しいことを書くこと、の意。]

2009/06/01

上海游記 九 戲臺(上)

       九 戲臺(上)

 上海では僅に二三度しか、芝居を見物する機會がなかつた。私が速成の劇通になつたのは、北京へ行つた後の事である。しかし上海で見た役者の中にも、武生(ウウシヨン)では名高い蓋叫天(がいきうてん)とか、花旦(ホアタン)では緑牡丹(りよくぼたん)[やぶちゃん注:「白牡丹」の誤り。注参照。]とか小翠花(せうすいくわ)とか、兎に角當代の名伶(めいれい)があつた。が、役者を談ずる前に、芝居小屋の光景を紹介しないと、支那の芝居とはどんなものだか、はつきり讀者には通じないかも知れない。

 私の行つた劇場の一つは、天蟾舞臺(てんせんぶたい)と號するものだつた。此處は白い漆喰塗りの、まだ眞新らしい三階建である。その又二階だの三階だのが、ぐるりと眞鍮の欄干をつけた、半圓形になつてゐるのは、勿論當世流行の西洋の眞似に違ひない。天井には大きな電燈が、煌煌と三つぶら下つてゐる。客席には煉瓦の床の上に、ずつと籐椅子が並べてある。が、苛(いやしく)も支那たる以上、籐椅子と雖も油斷は出來ない。何時か私は村田君と、この籐椅子に坐つてゐたら、兼ね兼ね恐れてゐた南京蟲に、手頸を二三箇所やられた事がある。しかしまづ芝居の中は、大體不快を感じない程度に、綺麗だと云つて差支ない。

 舞臺の兩側には大きな時計が一つづつちやんと懸けてある。(尤も一つは止まつてゐた。)その下には煙草の廣告が、あくどい色彩を並べてゐる。舞臺の上の欄間には、漆喰の薔薇やアツカンサスの中に、天聲人語と云ふ大文字(だいもんじ)がある。舞臺は有樂座より廣いかも知れない。此處にももう西洋式に、フツト・ライトの裝置がある。幕は、――さあ、その幕だが、一場一場を區別する爲には、全然幕を使用しない。が、背景を換へる爲には――と云ふよりも背景それ自身としては、蘇州銀行と三砲臺香烟(ほうだいかうえん)即ちスリイ・キヤツスルズの下等な廣告幕を引く事がある。幕は何處でもまん中から、兩方へ引く事になつてゐるらしい。その幕を引かない時には、背景が後を塞いでゐる。背景はまづ油繪風に、室内や室外の景色を描(か)いた、新舊いろいろの幕である。それも種類は二三種しかないから、姜維(きやうゐ)が馬を走らせるのも、武松(ぶしやう)が人殺しを演ずるのも、背景には一向變化がない。その舞臺の左の端に、胡弓、月琴、銅鑼などを持つた、支那の御囃しが控へてゐる。この連中の中には一人二人、鳥打帽をかぶつた先生も見える。

 序に芝居を見る順序を云へば、一等だらうが二等だらうが、ずんずん何處へでもはいつてしまへば好い。支那では席を取つた後、場代を拂ふのが慣例だから、その邊は甚輕便(けいべん)である。さて席が定まると、熱湯を通したタオルが來る。活版刷りの番附が來る。茶は勿論大(おほ)土瓶が來る。その外西瓜の種だとか一文菓子だとか云ふ物は、不要不要(プヤオプヤオ)をきめてしまへば好い。タオルも一度隣にゐた、風貌堂堂たる支那人が、さんざん顏を拭いた擧句鼻をかんだのを目撃して以來、當分不要(プヤオ)をきめた事がある。勘定は出方(でかた)の祝儀とも、一等では大抵二圓から一圓五十錢の間かと思ふ。かと思ふと云ふ理由は、何時でも私に拂はせずに、村田君が拂つてしまつたからである。

 支那の芝居の特色は、まづ鳴物の騷騷しさが想像以上な所にある。殊に武劇――になると、何しろ何人かの大の男が、眞劍勝負でもしてゐるやうに舞臺の一角を睨んだなり、必死に銅鑼を叩き立てるのだから、到底天聲人語所ぢやない。實際私も慣れない内は、兩手に耳を押へない限り、とても坐つてはゐられなかつた。が、わが村田烏江君などになると、この鳴物が穩かな時は物足りない氣持がするさうである。のみならず芝居の外にゐても、この鳴物の音さへ聞けば、何の芝居をやつてゐるか、大抵見當がつくさうである。「あの騷騷しい所がよかもんなあ。」――私は君(きみ)がさう云ふ度に、一體君は正氣かどうか、それさへ怪しいやうな心もちがした。

[やぶちゃん注:本篇の注では、この注作業中に出逢えた「2008年上海外国語大学日本学研究国際フォーラム」(PDFファイルでダウンロード可能)の北京日本学研究センターの秦剛氏の論文「一九二一年・芥川龍之介の上海観劇」(p.134-135)に有益な新知見を得たことを、ここに謝す。表題の「戲臺」は中国語で舞台のこと。

・「武生(ウウシヨン)」“wŭshēng”京劇で立ち回りの多い荒事に相当する武人や英雄を演じる俳優を言う。一般に台詞は少ない。

・「蓋叫天」(gài jiàotiān ガイチャオティエン 本名張英傑 18881971)「江南第一武生」と呼ばれる名優にして京劇の至宝。清末に10歳でデビュー、上海で活躍した。

・「花旦(ホアタン)」“huādàn”若く瑞々しい溌溂とした女性を演じる俳優。

・「緑牡丹」本注は特に長くなるので改行を施してある。次の「十 戲臺(下)」にも及ぶ内容であるが、底本の誤りに関わる重大な事柄なので、ここで纏めて語っておく。

「緑牡丹」この役者については、京劇の花旦(女形)で、大正141925)年7月に来日、帝劇と宝塚劇場で公演を行った記録が日本の複数のサイトに記されている。それらの記事を見ると、前年に再来日して熱狂的に迎えられた梅蘭芳の二匹目の泥鰌を狙ったものであったが、興行的には不入りで失敗であったらしい。

 しかし、この芸名、極めて類似した芸名に「白牡丹」があり、これは正に芥川が当代の名女形と呼ぶに相応しい、四大名旦の一人である荀慧生(xún huìshēng シュンフイシャン 19001968)その人のものなのである。

 そして、資料を調べる内に、私は興味深いある事実に遭遇することとなった。底本とした岩波旧全集の後記にはその記載がないのだが、岩波版新全集第八巻の後記(旧全集と同じく底本には『支那游記』所収のものを用い、初出と校合した旨が記されている)の初出との校異の中に、この「緑牡丹」について、

二五14  緑牡丹  [初]白牡丹  三一4以下も同じ。

とあるのである(数字は新全集頁と行)。初出では以下総ての「緑牡丹」は「白牡丹」であったというのである。これによって私は当初から感じていた「緑牡丹」は「白牡丹」荀慧生の別芸名であろうかとも思ったのである。

 しかし、緑と白じゃあ大違いだし、芸人としては普通はこんな別名のつけ方はしないだろうし、逆に「緑牡丹」は、地方周りのやくざな旅芸人が素朴な人々を騙す際の「白牡丹」の似非(えせ)芸名にこそ相応しい気もしていた。

 そのような意地悪い想像を重ねるうちに、不審が膨らんでゆく。冒頭に記した来日時の「緑牡丹」の不評の事実である。如何に梅蘭芳が素晴らしかったからといって、四大名旦に並ぶ「白牡丹」荀慧生が不評というのは、また如何にも解せないのだ(写真を見る限り、梅蘭芳よりもっと華奢な感じさえする、私さえ「そそられる」スタイルと面貌である)。芥川が次の「十 戲臺(下)」で直接、「白牡丹」にその演技を褒めたのだって、同行した「白牡丹」贔屓の村田烏江の手前とは思えない。そもそも、芥川が魅了された妖艶な演技で美しい女形だったからこそ、「十 戲臺(下)」のコーダの部分は無類に面白いのである。

 ――そんな袋小路の中、ネット検索で偶々巡り逢ったのが、最初に示した秦剛氏の論文「一九二一年・芥川龍之介の上海観劇」(「2008年上海外国語大学日本学研究国際フォーラム」収載)なのであった。

 そこには

『緑牡丹(19071968)本名黄玉麟、字瑞生。貴州生まれ。南方俳優として上海で活躍する。』『村松梢風の斡旋で、1925年6月から8月にかけて帝国劇場の招聘を受け、東京帝国劇場、宝塚大劇場などで33回も公演した(村松梢風『上海』)。』

という「緑牡丹」の詳細なプロフィルが掲げられており(たまたま没年は一緒だが、生年に注意。荀慧生は1900年である。「白牡丹」の方が色彩的には劣る「緑」よりも7歳年上である)、更に、芥川が上海を訪問した際には、この「緑牡丹」は、

『上海の大世界内乾坤大劇場で公演していた』

という事実が提示されていた(劇場名に注意。天蟾舞台では、ない)。

 ここで秦氏は私が「五 病院」の「波多野博君」の注で少し出した「波多野乾一」の記載を資料提示している。この人物は岩波版新全集書簡に附録する関口安義らによる人名解説索引は『波多野乾一(18901963) 新聞記者。大分県生まれ。東亜同文書院政治学科卒。1913年大阪毎日新聞社に入社。その後、大阪毎日新聞社北京特派員、北京新聞主幹、時事新報特派員など一貫して中国専門記者として活躍した』(句読点を変更した)である。ネット検索でも中国の芸能関連著作が挙がってくる人物である。さて、その引用は新作社1925年3月刊行の波多野乾一「支那劇と其名優」の白牡丹荀慧生についての下りで、『後援者は白社を作つて彼(白牡丹)と提携したが、村田孜郎、古澤憲介はその中堅であつた』というものである。すると「十 戲臺(下)」の『その夜も一しよだつた村田君は、私を彼に紹介しながら、この利巧さうな女形と、互に久潤を敍し合つたりした。聞けば君は緑牡丹が、まだ無名の子役だつた頃から、彼でなければ夜も日も明けない、熱心な贔屓の一人なのださうである』という記載も「白牡丹」に換えれば、至極しっくりくる。ここで秦氏は村田孜郎(烏江)は「緑牡丹」ではなく、白牡丹荀慧生のタニマチであったことを立証しているのである。

 以上の事実から、秦剛氏は『【結論】全集底本における「緑牡丹」は「白牡丹」の間違い』(下線部はやぶちゃん)であるとする。――目から鱗、緑のぼんやりしていた牡丹が純な白に変わった。これで、次の「十 戲臺(下)」の最後に登場する「緑牡丹」改め「白牡丹」の映像も鮮烈になってくるのである。私は文句なしにこれに賛成する。今後の芥川龍之介全集では本作の「緑牡丹」は「白牡丹」と訂正されなければならない

 しかし、まだまだ。秦氏の検証はここで終わらない。

 芥川龍之介は「十 戲臺(下)」の「緑牡丹」改め「白牡丹」の楽屋話に持ち込む直前で「亦舞臺とかに上演してゐた、賣身投靠」ここで示された天蟾舞台とは違う亦舞台(えきぶたい)という劇場の話をしている。秦氏は鋭くここに白牡丹荀慧生とこの演目の連関を嗅ぎ出すのである。

 ここにこの論文の真骨頂が現れる。即ち、実際の当時の上演広告の写真版による芥川の観劇の日時の特定と、本文の検証という作業である。

 秦氏は1921年4月26日の「申報」(上海の日刊新聞であろう)の亦舞台の広告の当日番付に着目した。その広告番付表には、

出演俳優として中央に大きく

白牡丹

(勿論、荀慧生のこと)の文字が記され、演目の中には

雙珠鳳

新玉堂春

という外題が見出せるのである。「白牡丹」の名は、この「新玉堂春」の直上にある(もう一本の別な芝居にも出演欄に名前がある)。「十 戲臺(下)」で芥川は『私は彼に、玉堂春は面白かつたと云ふ意味を傳へた』とある。「彼」とは「緑牡丹」改め「白牡丹」である。そうして、これは京劇に詳しくなければ分らないことなのであるが、この「雙珠鳳」なる作品は「賣身投靠」の別名であると、秦氏は記すのである。

 芥川が1921年4月26日の亦舞台でこの二つの芝居を観劇したかどうかは分らない。当時の京劇の上演がどのように組まれていたかまでは(日替わりであるとか数日数週に渡って公演されたのか、更に言えば上演の時間帯・上演時間等について)、秦氏は記しておられないからである。しかし、この4月26日という特定日は、それなりの説得力を持つように思われる。芥川は既に注したように4月23日に里見病院を退院している。該当の26日の年譜的知見によれば、芥川は、後述される学者にして革命派に属した章柄麟(しょうへいりん)、更には詩人・政治家であった後の満州国総理となる鄭孝胥(ていこうしょ)とダブルで会談している(天候の描写から章柄麟に先に逢い、次に鄭孝胥であろう)。「十三 鄭孝胥」の会談後、庭での描写は晴れた青空を覗かせている。時刻は午後もそう遅くはあるまい。碩学の二人に会見した芥川が、どこがで肩の力を抜いてほっと一息つきながら、夕刻からの亦舞台の客席で、華奢愛嬌に満ちた美しい白牡丹荀慧生演ずる玉堂春に笑みを洩らす――。如何にもあるべき映像ではあるまいか!?

 実は、この検証はここに留まらない。本篇や以下の「十 戲臺(下)」の記述から、秦氏は芥川龍之介はこの天蟾舞台で、

小翠花が演じた「梅龍鎭」

及び

蓋叫天が演じた「武松」

(やぶちゃん補注:正しくは武松の登場する「水滸伝」を素材とした

「全本武十回」

の内の

「醉奪快活林」

(写真版の広告を見ると「林」を「嶺」とある。ネットで調べると一般には「林」のようだが、「嶺」とするものもある。因みにこの演目については「十 戲臺(下)」の注で詳述するが、この「快活林」は宿屋に酒家を兼ねた店の名前である)

「血濺鴛鴦樓(けっせんえんおうろう)」

「大閙蜈蚣嶺(だいどうごしょうれい)」

の三場)

を観劇したと推定するのである。私もそれを肯んずる。

 そこで秦氏はこの両演目を当時の新聞広告に依って再び調べるのである。すると1921年5月16日の「申報」の天蟾舞台の広告の当日番付に両演目が載っているのが見出されるのだ。芥川龍之介は本篇の冒頭で『上海では僅に二三度しか、芝居を見物する機會がなかつた』と言っている以上、本演目が組み合わされている日を秦氏が選ぶのは極めて至当と言える。そうでなくても入院と途中の杭州・蘇州・南京行と、上海での実動時間は限られていたのである。

 更に、現在の知見によれば、芥川は5月14日には蘇州・南京への小旅行から上海に戻っている。そうして翌15日、この小旅行中に体調の不良を覚え、肋膜炎の再発を危ぶんだ彼は里見病院を受診しているのだが、そこでは全く問題ないと里美医師から太鼓判を押されて、大いにほっとしているのである。そうして5月17日の夜には漢口・北京に向けて芥川は上海を去っているのである。即ちこの5月16日の一日は、芥川龍之介最後の上海という特別な日であったのである。私が劇通の村田烏江であったなら、この別れに際して、芥川にとびっきりの京劇の名演鑑賞をセットしない方がおかしいというものではなかろうか!?

 私はこの秦剛氏をシャーロック・ホームズに擬えたい気がするほど、この論文とのこの数日の付き合いが楽しいものとなった。謝謝、秦剛先生!

・「小翠花」は名花旦として知られた于連泉(本名桂森19001967)を指す。但し、正しい芸名は筱翠花(しょうすいか)である。幼い時に郭際湘(芸名水仙花)に師事し、芸名を「小牡丹花」と名乗った。特に花旦の蹻功(きょうこう:爪先立った歩き方の演技を言うと思われる)に優れていた。北京市戯曲研究所研究員を務め、晩年は中国戯曲学校で人材の育成に力を尽くした(以上の事蹟はこちらの個人の京劇サイト「歴代の主な京劇俳優一覧」を参照させてもらった。筑摩版脚注は「于連泉」を「干」と誤記し、岩波版新全集注は筑摩版を踏襲して生年を1901年、没年不詳としている)。

・「名伶」中国語で名優の意。

・「天蟾舞臺」現在も京劇が上演される上海人民広場近くにある逸夫舞台の旧名。1912 年に建てられた歴史ある劇場。中国京劇界の名優の多くが、この舞台を踏んでおり、「天蟾の舞台を踏まなければ、有名にはなれぬ」といわれている名門劇場である。天蟾とは月光のこと。

・「村田君」既に「二 第一瞥(上)」で注したが、再掲しておくと、村田孜郎(むらたしろう ?~昭和201945)年)。大阪毎日新聞社記者で、当時は上海支局長。中国滞在中の芥川の世話役であった。烏江と号し、演劇関係に造詣が深く、大正8(1919)年刊の「支那劇と梅蘭芳」や「宋美齢」などの著作がある。後に東京日日新聞東亜課長・読売新聞東亜部長を歴任、上海で客死した。

・「アツカンサス」本来は双子葉植物綱ゴマノハグサ目キツネノマゴ科Acanthaceaeハアザミ属 Acanthusに属する植物の総称であるが、通常は観賞用に栽培されたAcanthus mollisを指す。ここは勿論、装飾文様とされたそれで、アザミに似た独特の葉形が古くギリシア以来、建築物や内装の装飾モチーフとされてきた。

・「天聲人語」これは、「天の声と人の言葉」という意味である。一般に、朝日新聞の有名なコラム「天声人語」は「天に声あり、人をして語らしむ」(命名者は東京朝日新聞の記者杉村楚人冠又は大阪朝日新聞記者西村天囚とする)と読み下され、中国の古典に由来する「民の声、庶民の声こそ天の声」の意であるとする。但し、ここで言う中国古典の典拠は不明とあるとされている。思うにこの語が劇場に貼られるのは、恐らく古代の芸能が祭祀であったからであろう。演じるということは神憑りすることであり、そこで発せられる俳優の人語は、同時に神の託宣であった。そのような芸能本来の神聖さを示すためのもの、芝居と観客の神人共感を招来するための護符と言ってもよいと思われる。

・「有樂座」明治41(1908)年に、現在の東京数寄屋橋付近にあった西洋風(初の全席椅子席)の高等演芸場有楽座のことで、当時の日本の新劇運動のメッカであった。因みにここは旧南町奉行所跡で、明治になって裁判所、次に陸軍練兵場となった、その跡地でもある。大正9(1920)年に帝劇に合併されたが、大正12年の関東大震災で焼失するまで、この地にあった。


・「蘇州銀行」岩波版新全集注解によると、芥川が来中する前年の1920年蘇州で創設された蘇州儲蓄銀行のことで、同年九月には上海支店が置かれたとする。しかしその後、1924年には『資本金が軍閥に流用されたため倒産』したとある。

・「三砲臺香烟即ちスリイ・キヤツスルズ」ヴァージニア種を代表する英国製煙草“Three Castles”の中国語の商標名。「香烟」は中国語で巻き煙草のこと。上海では高級煙草はこれと英国王室御用達の“Westminster”に占められていた。

・「姜維」(きょうい 202264)は漢末から三国時代の武将。魏の出身であるが、後に蜀漢の軍師となった。「三国志演義」では馬遵(ばじゅん)配下の将として登場し、蜀漢の名軍師諸葛亮と丁々発止の戦略を交わし、勇猛な敵将趙雲と一騎打ちをして互角に戦う智将にして猛将、その美男から「天水の美将」と呼ばれた。その軍才を見込んだ諸葛亮は自身の後継者とするために、第一次北伐の際、奇計を用いて姜維を投降させた。諸葛亮の死後は蜀の最高軍事責任者に登りつめた。「三国志演義」では諸葛亮の後継者という印象を強く押し出しおり、仁義に厚い智将として描かれ、京劇でも一番人気のキャラクターの一人である。

・「武松」「水滸伝」や「金瓶梅」に登場する一種の侠客。「金瓶梅」では人食い虎を退治し都督となり、最後のシーンでは兄を殺した主人公ら西門慶・潘金蓮を小気味よく惨殺する。「水滸伝」では、その後に自首した彼が、巡り巡って憤怒から再び大量殺人を犯して逃亡する内に、魯智深ら梁山泊の仲間となっている。京劇では豪傑にして義人として描かれ、その立ち回りが人気のキャラクターである。

・「出方」芝居茶屋・相撲茶屋・劇場に所属して、客を座席に案内したり、飲食の世話や雑用をする人を言う。

・「武劇」京劇の二分類で、大立ち回りを見せ場とするものを言う。一般に歌と台詞は少ない。歌・しなやかな舞いや台詞を中心としたものを文劇と言う。]

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