上海游記 二十一 最後の一瞥 / 芥川龍之介「上海游記」全篇掲載終了
二十一 最後の一瞥
村田君や波多君が去つた後、私は卷煙草を啣へた儘、鳳陽丸の甲板へ出て見た。電燈の明い波止場には、もう殆人影も見えない。その向うの往來には、三階か四階の煉瓦建(れんがだて)が、ずつと夜空に聳えてゐる。と思ふと苦力(クウリイ)が一人、鮮かな影を落しながら、目の下の波止場を歩いて行つた。あの苦力と一しよに行けば、何時か護照(ごせう)を貰ひに行つた日本領事館の門の前へ、自然と出てしまふのに相違ない。
私は靜かな甲板を、船尾の方へ歩いて行つた。此處から川下を眺めると、バンドに沿うた往來に、點點と燈が燦(きらめ)いてゐる。蘇州河の口に渡された、晝は車馬の絶えた事のないガアドン・ブリツヂは見えないかしら。その橋の袂の公園は、若葉の色こそ見えないが、あすこに群つた木立ちらしい。この間あすこに行つた時には、白白と噴水が上つた芝生に、S・M・Cの赤半被(あかはつぴ)を着た、背むしのやうな支那人が一人、卷煙草の殼を拾つてゐた。あの公園の花壇には、今でも鬱金香(チユリツプ)や黄水仙(きすいせん)が、電燈の光に咲いてゐるであらうか? 向うへあすこを通り拔けると、庭の廣い英吉利領事館や、正金銀行(しやうきんぎんかう)が見える筈である。その横を川傳ひにまつ直行(ゆ)けば、左へ曲る横町に、ライシアム・シアタアも見えるであらう。あの入り口の石段の上には、コミツク・オペラの畫看板(ゑかんばん)はあつても、もう人出入は途絶えたかも知れない。其處へ一臺の自動車が、まつ直ぐに河岸(かし)を走つて來る。薔薇の花、絹、頸飾りの琥珀、――それらがちらりと見えたと思ふと、すぐに眼の前から消えてしまふ。あれはきつとカルトン・カツフエヘ、舞蹈に行つてゐたのに違ひない。その跡は森(しん)とした往來に、誰か小唄をうたひながら、靴音をさせて行くものがある。Chin chin Chinaman――私は暗い黄浦江の水に、煙草の吸ひさしを抛りこむと、ゆつくりサロンヘ引き返した。
サロンにもやはり人影はない。唯絨氈(じうたん)を敷いた床に、鉢物の蘭の葉が光つてゐる。私は長椅子によりかかりながら、漫然と囘想に耽り出した。呉景濂(ごけいれん)氏に合つた時、氏は大きな一分刈の頭に、紫の膏藥を貼りつけてゐた。さうして其處を氣にしながら、「腫物が出來ましてね。」とこぼしてゐた。あの腫物は直つたかしら?――醉歩蹣跚(まんさん)たる四十起氏と、暗い往來を歩いてゐたら、丁度我我の頭の上に、眞四角の小窓が一つあつた。窓は雨雲の垂れた空へ、斜に光を射上(いあ)げてゐた。さうして其處から小鳥のやうに、若い支那の女が一人、目の下の我我を見下してゐる。四十起氏はそれを指さしながら、「あれです、廣東※(カントンピー)は。」と教へてくれた。あすこには今夜も不相變、あの女が顏を出してゐるかも知れない。[やぶちゃん字注:「※」=「女」+「非」。]――樹木の多い佛蘭西租界に、輕快な馬車を走らせてゐると、ずつと前方に支那の馬丁が、白馬二頭を引つ張つて行く。その馬の一頭がどう云ふ訣か、突然地面へころがつてしまつた。すると同乘の村田君が、「あれは背中が掻いんだよ。」と、私の疑念を晴らしてくれた。――そんな事を思ひ續けながら、私は煙草の箱を出しに、間着(あひぎ)のポケツトヘ手を入れた。が、つかみ出したものは、黄色い埃及(エジプト)の箱ではない、先夜其處に入れ忘れた、支那の芝居の戲單(シイタン)である。と同時に戲單の中から、何かがほろりと床へ落ちた。何かが、――一瞬間の後、私は素枯れた白蘭花(パレエホオ)を拾ひ上げてゐた。白蘭花(パレエホオ)はちよいと嗅いで見たが、もう匂さへ殘つてゐない。花びらも褐色に變つてゐる。「白蘭花(パレエホオ)、白蘭花(パレエホオ)」さう云ふ花賣りの聲を聞いたのも、何時か追憶に過ぎなくなつた。この花が南國の美人の胸に、匂つてゐるのを眺めたのも、今では夢と同樣である。私は手輕な感傷癖に、墮し兼ねない危險を感じながら、素枯れた白蘭花(パレエホオ)を床へ投げた。さうして卷煙草へ火をつけると、立つ前に小島氏が贈つてくれた、メリイ・ストオプスの本を讀み始めた。
[やぶちゃん注:本篇は後の芥川龍之介の「玄鶴山房」に実に巧妙にインスパイアされているように私には思われるのである。どこがどうそうであるかは、御自身でご判断頂きたい。もしかすると「玄鶴山房」はとんでもない寓話小説であるのかも知れないという気が、今の私にはしさえするのである――。
・「鳳陽丸」同名の船が長澤文雄氏のHP「なつかしい日本の汽船」の「明治後期-大正期」のページに、日清汽船所有船舶として写真付きで掲載されている(通し番号15)。その資料によれば、大正4(1915)年に貨物船「鳳陽丸」“ FENG YANG MARU”として進水、船客 は特1等16名・1等18名・特2等10名・2等60名・3等200名。昭14(1939)年に東亞海運(東京)の設立に伴って移籍した。そして『1944.8.31(昭19)揚子江の石灰密(30.10N,115.10E)で空爆により沈没』とあるので、この船に間違いないと思われる。
・「苦力(クウリイ)」“ kǔlì”は本来は肉体労働者の意であるが、筑摩版脚注では、中国語で『港湾の荷積労務者』とする。何故か知らないが、私の意識の中にもそのような限定したものがあったので、この注はしっくりきた。
・「護照」これは現代中国語ではパスポートの意であるが、これは当時、中国国内を旅行する外国人に対して中国政府が発行した旅行許可証である。現在の査証に相当するものか。
・「バンド」この“bund”は固有名詞である。黄浦江と蘇州河の合流点から南の金陵路までの中山東一路沿いの黄浦江西岸を言う。中国名で「外灘」“wàitān”(ワイタン)は、英語名で“Bund”(海岸通り)とも呼ばれ、租界時代の上海のシンボルであった。
・「蘇州河」上海市街を東西に蛇行しながら黄浦江に流れ込む川。黄浦江とともに上海では「母なる川」と呼ばれる。
・「ガアドン・ブリツヂ」“Garden Bridge”は中国名「外白渡橋」。1906年に竣工した蘇州河に架かる橋(竣工年はネット上では1907年ともあり、岩波新全集注解では1909年とある)。イギリスのクリープランド橋梁社設計の鉄骨製ワーレン・トラス(平行弦の中に二等辺三角形が上向き・下向きになって並ぶ形)橋。船舶の航行を考え、中央を少し高くしてある。ここから南の外灘(ワイタン)は黄浦江岸の中山路(中山東路)に沿ってあるが、その東側に“Public Garden”パブリック・ガーデンが広がっていた。その端に位置することから、こう呼ばれた。なお、中国名について、中国人は通行禁止、白人(外国人)は無料で渡れるという意味であるという記載をよく見かけるが、CAMEL STUDIO LTD. Isao FUKUI氏の「尋夢老上海」の「ガーデン・ブリッジ」に『本来「外側にある渡し場」という意味の「外罷渡口」という場所であったところに架かったために、それが訛ったのだ、というのが正しい由来』と説明されている。この方のHP、本作の頃の時代の上海を見るに相応しい美事なサイトである。
・「その橋の袂の公園」“Public Garden”パブリック・ガーデンのこと。前注参照。
・「S・M・C」は“Shanghai Municipal Council Public Works Department”の略称(正確には“SMC PWD”)。上海工部局と訳される。「工部局」は上海・天津などの租界に設置された自治行政機関。1854年に成立した直後は土木建設事業権のみであったが、後に行政権や警察権をも司る機関となった。太平天国の乱を契機に上海に英米仏三国によって組織されたこれが最初のもので、租界の最高行政管理機構である。外灘(ワイタン)の二本裏側の通りの「裏バンド」と呼ばれる江西中路にあった。
・「鬱金香(チユリツプ)」ユリ目ユリ科チューリップ属Tulipaの植物の総称。和名は鬱金香(うこんこう・うっこんこう)、中文名も同じく鬱金香である。
・「正金銀行」は株式会社横浜正金銀行(英名“Yokohama Specie Bank, Ltd.”)と言った日本の特殊な銀行。経済系は私の最も苦手とする分野なので、以下、ウィキの「横浜正金銀行」からまるまる引用する。『神奈川県横浜市中区に本店を置いた。東京銀行(現在の三菱東京UFJ銀行)の前身とされる。貿易金融・外国為替に特化した銀行であり、明治維新後急速に成長し、やがて列強の仲間に加わっていく日本を国際金融面で支え、香港上海銀行(HSBC)、チャータード・マーカンタイル銀行(1959年HSBC傘下に入り、1982年HSBCに吸収)と並ぶ外国為替銀行へと発展していった。だが、関東大震災と昭和恐慌で大きな打撃を受け、更に15年戦争・第二次世界大戦においては日本の軍需に必要な外国通貨収集の為の機関と看做されたために、敗戦後の1946年にGHQの指令によって解体・清算され、外国為替銀行としての役割は新たに設立された東京銀行に引き継がれる事になった。』
・「ライシアム・シアタア」“Lyceum Theater”。現在、上海の茂名南路と長楽路との交差点にある劇場「蘭心大戯院」は英名“Lyceum Theater”である。ここについて、ネット上の情報ではガイド・マップ等に、イギリス人のアマチュア劇団のために造られた劇場で、この建物は3代目であるとし、1931年、現在地に鉄筋コンクリート製の劇場を新築したと書かれてあるらしい(ガイド・マップの書誌が不明に付、該当ブログ記事のリンクは張らないが、新築ということはそれ以前に2代を経ているということを示すか? だとすれば恐らく同一物であろうと思われる)。その後、知人から1886年に中国初の西洋式舞台として建てられたというメールと中文サイト「文明中華」の同建物についてのリンク(写真あり)を貰って、同一建物であることが判明した。
・「コミツク・オペラ」“comic opera”滑稽味をねらった軽い内容のオペラ。喜歌劇。
・「カルトン・カツフエ」“Calton Café”は中国名「寧波路飯店」と言い、ダンス・ホールとして有名で、店名はフランス語だが、アメリカ資本であった(1920年時点。「「早稻田政治經濟學雜誌」No.357,2004.140-158 本野英一氏の論文「在華イギリス籍会社登記制度と英中・英米経済関係,1916 ~1926」の「注(38)」による。同論文はPDFファイルでネット閲覧が可能)。
・「Chin chin Chinaman」英語の“chin-chin”は通常は間投詞で「乾杯!」「ごきげんよう!」「やあ!」、グラスをぶつけ合う音としての「チン! チン!」は乾杯の挨拶としては汎世界的であるが、ここでは後の中国人の蔑称である“Chinaman”の更なる短縮蔑称である。差別語としての“Chinaman”については英語辞書によれば、例えば“Chinaman's chance”はわずかな可能性という意味、尚且つ、無きに等しいような否定的構文で用いられるとある。筑摩注は『シッシッ支那人』、岩波注では『チャンチャンシナ人』と訳している。私は“chin chin”が中国人にどう聞えるか定かでないのだが、拼音(ピンイン)で「チチ」と聴こえると思われる“chichi”(拼音では“chin”の綴りはない)若しくは「チンチン」聴こえると思われる“jinjin”“qingqing”の語を中国語辞典で引いてみると、“chíchí”が副詞で「痴痴」(ぼんやりと)、形容詞で「遅遅」(遅々としている、ゆっくりだ)と鈍間(のろま)のニュアンスがあり、“jĭinjĭin”が副詞で「僅僅」(僅かに)、「緊緊」(きつく、ひっきりなしに)の欠乏や慌しいマイナーな意味を示し、“qīngqīng”には形容詞で「青青」(髪や髭を剃った後に青青している)、副詞で「輕輕」(軽く、軽々しく、軽い気持ちで)というようなどちらかと言えばいいとは言えないイメージが付随する(但し“qīngqing”だと「清清」で澄んだの強調形としてのよいニュアンスもあるようではある)。
・「呉景濂」(wú jĭnglián ウ チンリェン ごけいれん 1875~1944)中華民国の国民党の政治家。日本の留学経験あり。衆議院議長。1920年前後に従弟で軍人の王承斌(Wáng Chéngbīn ワン チョンビン おうしょうひん 1874~1936)らと共に直隷派として北京政府で勢力を振るったが、安徽派の段棋瑞の復活によって1925年には政界から追われた。
・「廣東※(カントンピー)」[「※」=「女」+「非」。]“guăngdōngfēi”中国語で「広東の売春婦」の意。「※」は容貌が醜いことを言うが、もう一つの意、行っては戻ること、という動作を、街娼の行動に当て嵌めたのではないかとも思う。
・「間着」は「合い服」のこと。
・「黄色い埃及の箱」この煙草は“CAMEL”「キャメル」であろう。パッケージ・デザインは砂漠とピラミッドの黄色と佇むラクダである。当時は米国のR.J.レイノルズ社の銘柄で、芥川の盟友菊池寛の愛飲煙草でもあったらしい。
・「戲單(シイタン)」“xìdān”芝居のチケット。この描写によって芥川龍之介が前日5月16日の夜に芝居を見ていることが判明する。これは「上海游記 九 戲臺(上)」で推測したある事実が確定的な真実であったことを感じさせるのである! 該当篇の「緑牡丹」のスリリングな注を是非、参照されたい。
・「白蘭花(パレエホオ)」“báilánhuā”はモクレン目モクレン科ミケレア属Michelia albaで、和名はギンコウボク(銀厚朴)又はハクギョクラン(白玉蘭)という。常緑高木樹。インドネシア・フイリピン原産。花は腋生し、強い芳香を持っており、肉厚で白色、少し経つと黄色を帯びるようになる。中国ではこの花を胸に挿したりレイにしたりたりして女性のアクセサリーや香水の代用にしたり、また漢方薬として慢性気管支炎に用いたりする。
・「この花が南國の美人の胸に、匂つてゐるのを眺めたのも」これは「十六 南國の美人(中)」に登場する妓女洛娥の面影であろう。該当箇所には「洛娥と云ふのは、貴州の省長王文華と結婚するばかりになつてゐた所、王が暗殺された爲に、今でも藝者をしてゐると云ふ、甚薄命な美人だつた。これは黒い紋緞子に、匂の好い白蘭花(パレエホア)を插んだきり、全然何も着飾つてゐない。その年よりも地味ななりが、涼しい瞳の持ち主だけに、如何にも清楚な感じを與へた。」とある。
・「メリイ・ストオプス」Marie Charlotte Carmichael Stopes マリー・ストープス(1880-1958)はイギリスの生物学者・性科学者。植物学者・地質学者としてスタートするが、1921年、新全集の神田由美子氏の注によれば『女性は社会的活動と母性の両方を追求すべきだと説き、ロンドンに労働者階級の診療所を開き、産児制限運動に尽力』するようになったとある。彼女はそう呼ばれることを嫌うかも知れないが、優生学者への転身と言うべきであろう。著書に「結婚愛」(邦訳副題「男女の性問題へのみちびき」)や避妊をテーマとした「賢明なる親」(1918)、「避妊――理論・歴史・実践」(1923)等がある。1907年、当時イギリスに留学していた植物学者藤井健次郎(慶応2(1866)年~昭和27(1952)年 後、明治44(1911)年に東京帝国大学教授となり、1918年には日本初の遺伝学講座を開講している)の後を追って来日したが、失意のうちに1909年にイギリスに帰国している。日本の産児制限運動や初期の女性運動にも大きな影響を与えたとされる。最後に、英文学者村山敏勝氏のブログ「読んだから書いた」の「性の革命―マリー・ストープス伝」の読後記事をも読まれんことをお薦めしておく。]
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