緑牡丹は白牡丹なり!――芥川龍之介「上海游記」の芸名の誤り
以上、二回のブログで公開したテクスト及びその注で示した通り、芥川龍之介『支那游記』の「上海游記」中に出現する京劇俳優「緑牡丹」は、別人の「白牡丹」であることが判明した。「上海游記」初出には正しく「白牡丹」となっているのである。
芥川龍之介が『支那游記』に「上海游記」を所収するに当り、何故、名花旦「白牡丹」荀慧生の名が別な花旦「緑牡丹」黄玉麟となってしまったのか――分らない。ただ、奇妙な附合がある。――単行本『支那游記』の刊行は大正14(1925)年の11月3日であり(その校正は9月下旬から始まっている)、「緑牡丹」黄玉麟の来日公演が同年の7月であることである。――だから、何だ、と言われそうである。偶然ではある。偶然ではあるが、何だか気になる。しかし、よく分らない。――ただ言えることがある。芥川はこの「緑牡丹」の来日公演を見ていないものと思われること。見ていれば、失礼ながら恐らくはその「緑牡丹」の「白牡丹」に及ばない姿に失望し、その印象の中で、このような「校正」の誤りが生じようはずはなかったこと。――だから何だ。いや、よく分らない。――しかし、校正が始まったすぐ後の10月15日頃には三男の也寸志が発熱し、月末まで癒えず、看病やら心配やらで芥川は落ち着かない。同じ頃、敬愛する滝田樗陰の病篤くなり、10月27日に逝去、弔問に出掛けている。この頃には、また翌年新年号の原稿依頼が舞い込み始め、その構想にもかからねばならなかった。――よく分らない。が、年譜に拠れば芥川がこの前後に、多忙を極めていたことだけは伺える(彼はあんまり暇なときがないのだが)。――さて、これは脱線である。僕は、昔、ある学校新聞の顧問を引き受けていた。社会科の教師が当時の中国問題について寄稿した記事を生徒と校正に行ったら、印刷所の担当者が「首相」を「主席」に勝手に書き換えていた(当時、事実、その直前に主席の地位は空白になっていた)。指摘すると、中国は主席だ、首相じゃない、とその担当者に一蹴された。執筆した教師とその担当者(その頃は活版印刷でその人はその学校新聞の総ての植字も担当していた)との間に挟まれ、すったもんだの末、「首相」で落ち着いたが、その印刷所の担当者は、「こんな間違い、笑われるよ」と如何にも不満げに譲らなかったのが、思い出される。――話を戻す。以上の話はあくまで脱線である。脱線であるが、もしかすると引込み線で繋がっていないとは言えないかも知れぬ。よく分らない。――作家の書いたものを、そうおいそれと書き換えるなんてことがあり得たのかとお思いになる向きもあろう。――さあ、よく分らない。――しかし、「蜘蛛の糸」の初出が、鈴木三重吉によって表現や句読点に至る細部まで改変されて「赤い鳥」に載ったことは、僕の「蜘蛛の糸」のテクスト注でも述べた。――今や、藪の中――ではある。
しかし、これだけははっきりと言っておかなくてはならぬ。
向後、「上海游記」のテクストの該当部分は総て初出通り、「白牡丹」に訂正されるべきである。芥川と麗人「白牡丹」荀慧生の名誉にかけて――