江南游記 四 杭州の一夜(中)
四 杭州の一夜(中)
この往來の兩側には、明るい店店が並んでいるが、人通りは疎らだから。少しも陽氣な心もちがしない。寧ろ町幅が廣いだけに、如何にも支那の新開地らしい。妙な寂しさを與へるだけである。
「これが城外の町、――この突き當りが西湖(せいこ)ですよ。」
後(うしろ)の車に乘つた村田君は、かう私に聲をかけた。西湖! 私は往來の外れを眺めた。しかしいくら西湖でも闇夜に鎖されてゐては仕方がない。湖でも、唯車上の私の顔には、その遙な闇の中から、涼しい風が流れて來る。私は何だか月島あたりへ、十三夜を見にでも來たやうな氣がした。
車は少時(しばらく)走つた後、とうとう西湖のほとりへ出た。其處には電燈をつけ並べた、大きい旅館が二三軒ある。が、それもさつきの店店のやうに、明るい寂しさを加へるに過ぎない。西湖は薄白い往來の左に、暗い水面を廣げたなり、ひつそりと靜まり返つてゐる。そのだだつ廣い往來にも、我我二人の車の外は、犬の子一つ歩いてゐない。私は晝のやうな旅館の二階に、去來する人影を眺めながら、晩飯だのベツドだの新聞だの、――要するに「文明」が戀しくなり出した。しかし車屋は不相變、默默と走り續けてゐる。路も行人を絶つた儘、何處まで行つても盡きさうぢやない。旅館も、――旅館はもうずつと後(うしろ)になつた。今では唯湖の縁に、柳らしい樹ばかり並んでゐる。
「おい、君、新新旅館はまだ遠いのかね?」
私は村田君を振り返つた。すると村田君の車屋が、咄嗟にその意味を想像したのか、君よりも先に返事をした。
「十里! 十里!」
私は急に悲しい氣がし出した。この上まだ十里も先だとすると、新新旅館に着かない内に、夜(よ)が明けてしまふに相違ない。して見れば今夜は斷食である。私はもう一度村田君へ、我ながら情無い聲をかけた。
「十里とは驚いたな。僕は腹が減つて來たがね。」
「わしも減つた。」
村田君は車上に腕組をした儘、恬然と支那煙草を啣へてゐた。
「十里位何でもないですよ。支那里數の十里だから、――」
私はやつと安心した。が、忽ち又がつかりした。如何に六町一里だと云つても、十里となれば六十町ある。この空腹を抱へながら、まだ日本の一里以上、闇夜の車に搖られるのは、何人にも嬉しい行程ぢやない。私は失望を紛らせる爲に、昔習つた獨逸文法の規則を、一一口の中に繰り返し始めた。
それが名詞から始まつて、強變化動詞に辿りついた時、ふとあたりを透かして見ると、何時か道が狹くなつた上に、樹木なぞも左右に茂つてゐる。殊に不思議に思はれたのは、その樹の間に飛んでゐる、大きい螢の光だつた。螢と云へば俳諧でも、夏の季題ときまつてゐる。が、今はまだ四月だから、それだけでも妙としか思はれない。おまけにその光の輪は、ぽつと明るくなる度に、あたりの闇が深いせいか、鬼灯(ほほづき)程もありさうな氣がする。私はこの青い光に、燐火を見たやうな無氣味さを感じた。と同時にもう一度、ロマンテイツクな氣もちに涵(ひた)るやうになつた。しかし肝腎の西湖の夜色は、家の蔭か何かに隠れたらしい。路の左の樹木の向うは、ずつと土塀に變つてゐる。
「ここが日本領事館ですよ。」
村田君の聲が聞えた時、車は急に樹樹の中から、なだらかに坂を下り出した。すると、見る見る我我の目の前へ、薄明るい水面が現れて來た。西湖! 私は實際この瞬間、如何にも西湖らしい心もちになつた。茫茫と煙つた水の上には、雲の裂けた中空から、幅の狹い月光が流れてゐる。その水を斜に横ぎつたのは、蘇堤か白堤に違ひない。堤(つつみ)の一箇所には三角形に、例の眼鏡橋が盛り上つてゐる。この美しい銀と黑とは、到底日本では見る事が出來ない。私は車の搖れる上に、思はず體(からだ)をまつ直にした儘、何時までも西湖に見入つてゐた。
[やぶちゃん注:以下、語りの中心となる浙江省杭州市西郊にある淡水湖西湖について、主にウィキの「西湖」の記載を参照にして概略を述べておく。別名、銭唐・銭源・銭唐湖(唐代以降は「唐」は「塘」に用字を変更され、「西湖」の呼称の定着は宋代以降とする)と呼ぶ。司馬遷の「史記」に、始皇帝が銭唐に至り浙江を臨むとの記述が見え、これが史書に現れる西湖の初出とされる。当時は、まだ淡水湖化しておらず、湖というよりも、銭塘江下流三角州の干潟であったと考えられている。芥川も記述している通り、それがかつて干潟であったことを示す如く、水深は平均1.8mで最深部でも2.8mである。南北3.3㎞・東西2.8㎞・外周15㎞。芥川も言及する「西湖十景」を掲げておくと「断橋残雪・平湖秋月・曲院風荷・蘇堤春暁・三潭印月・花港観魚・南屏晩鐘・雷峰夕照・柳浪聞鶯(ぶんおう)・双峰挿雲」である。京劇「白蛇伝」の白素貞が入水したとされる白堤、蘇軾の造営になるとされる蘇堤等名所旧跡が豊富にあり、また、西湖の名称の由来とされる美姫西施の入水に纏わる伝承が語られる。但し、ウィキでは『呉越の時代にはまだ西湖は淡水化しておらず、漢代でもなお西湖とは呼ばれていなかったことから、この伝承は後代のものであろう』と考証している。
・「支那里數の十里」この中国の「里」は、清代の旧制であるから、1里=人の歩数の360歩=576mである。「十里」は5,760mとなり、凡そ6㎞である。現代の中文の旅行会社のサイトを見ると、杭州駅から新新旅館までは約7㎞とある。
・「如何に六町一里だと云つても、十里となれば六十町ある」この「町」は本邦の単位で1町は約109m。6町では654m、その10倍は6,540m。前注で示した通り、計らずも実際の杭州~新新旅館の距離には、芥川の危惧した心内での計算距離の方がずっと近い。
・「強變化動詞」ドイツ語では動詞の時制は不定形(現在)・過去基本形(過去)・過去分詞(現在完了)が基本となり、これらを纏めて三要形と言う。その三要形から動詞は規則動詞と不規則動詞に分けられ、規則動詞を弱変化動詞とも言い、三要形すべてを通して語幹に変化が起こらず、“(語幹)+te”によって過去基本形を、“ge+(語幹)+t”によって過去分詞を作る。対する不規則動詞は、過去基本形や過去分詞を作る際に語幹の母音(幹母音という)の交換・変化が起こる動詞で、その変化の仕方から更に強変化動詞と混合変化動詞に分かれる。強変化動詞は、過去基本形に語尾が付かず、過去分詞の語尾が“-en”となるもの、混合変化動詞は、語幹は不規則に変化するものの、語尾は規則動詞と同じになるものである(私はドイツ語に暗いので、サイト「自由学芸堂ドイツ語」の「動詞の役割」を参照させて頂いた)。
・「大きい螢の光」勿論、これは大きさも成虫になる時期からも本邦の鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目ホタル上科ホタル科Lampyridaeホタル亜科 Luciolinaeの代表種ゲンジボタルLuciola cruciataやヘイケボタル Luciola lateralis等とは異なった種である。中文のウィキの「螢科」(元は簡体字)のページを見るとホタル科Lampyridae以下に、下記9属が示されている。
脈翅螢屬 Curtos
雙櫛角螢屬 Cyphonocerus
弩螢屬 Drilaster
Ellychnia
Hotaria
螢屬 Lampyris
鋸角螢屬 Lucidina
熠螢屬 Luciola
Photinus
Photuris
黑脈螢屬 Pristolycus
Pyractomena
窗螢屬 Pyrocoelia
垂鬚螢屬 Stenocladius
リストの内、「熠螢屬」が本邦のホタル属と同属であるが、掲げられた種名は異なっている(本邦産Luciola属のルーツは中国でないかと推定され、現在、その検証プロジェクトが進行している模様である)。また、この中の中文属名「螢屬」に、中文名で雌大螢火虫Lampyris noctilucaというのがおり、中文ウィキにはその画像もある。これは相当にデカいが、芥川が見たものがこれであるかどうかは不明。昆虫にお詳しい識者の御教授を乞うものである。
・「日本領事館」田中貢太郎の「断橋異聞」冒頭に「杭州の西湖へ往って宝叔塔(ほうしゅくとう)の在る宝石山の麓、日本領事館の下の方から湖の中に通じた一条の長隄を通って孤山に遊んだ者は、その長隄の中にある二つの石橋を渡って往く。石橋の一つは断橋で、一つは錦帯橋(きんたいきょう)であるが、この物語に関係のあるのは、その第一橋で、そこには聖祖帝の筆になった有名な断橋残雪の碑がある。」(引用は河出書房新社1987年刊の田中貢太郎「中国の怪談(一)」を用いた)とある。引用文中の「長隄」(ちょうてい)が白堤である。
・「蘇堤」西湖の西部をほぼ南北に貫く堤で、総延長約2.8㎞の直線道路、6基の石橋がある。北宋の蘇軾(1037~1101)が杭州の知事となった後、荒廃していた西湖全体の浚渫を敢行し、その浚渫で出た土を盛ってこの堤を作ったことからこの名がある(蘇軾がこの銭塘湖を西施湖と名付け、それが西湖となったとも言われる)。西湖の内、蘇堤の西は西里湖という。
・「白堤」西湖の北部を東北から西南方向に走る約1㎞の堤。東北の断橋と西南端の孤山を結ぶ。白居易(772~846)が杭州刺史であったときに造営したとされることからこの名があるが、古くは白沙堤と言った。西湖の内、白堤の北側は北里湖という。]