上海游記 十六 南國の美人(中)
十六 南國の美人(中)
私は大いに敬服したから、長い象牙箸(ぞうげばし)を使ふ間も、つらつらこの美人を眺めてゐた。しかし料理がそれからそれへと、食卓の上へ運ばれるやうに、美人も續續とはいつて來る。到底一愛春ばかりに、感歎してゐるべき場合ぢやない。私はその次にはいつて來た、時鴻(じこう)と云ふ藝者を眺め出した。
この時鴻と云ふ藝者は、愛春より美人ぢやない。が、全體に調子の強い、何處か田園の匂を帶びた、特色のある顏をしてゐる。髮を御下げに括つた紐が、これは桃色をしてゐる外に、全然愛春と變りはない。着物には濃い紫緞子(むらさきどんす)に、銀と藍と織りまぜた、五分(ぶ)程の縁(へり)がついてゐる。余君穀民の説明によると、この妓は江西の生まれだから、なりも特に時流を追はず、古風を存してゐるのだと云ふ。さう云へば紅や白粉も、素顏自慢の愛春よりも、遙に濃艶を極めてゐる。私はその腕時計だの、(左の胸の)金剛石(ダイヤモンド)の蝶だの、大粒の眞珠の首飾りだの、右の手だけに二つ嵌めた寶石入りの指環だのを見ながら、いくら新橋の藝者でも、これ程燦然と着飾つたのは、一人もあるまいと感心した。
時鴻の次にはいつて來たのは、――さう一一書き立ててゐては、如何に私でもくたびれるから、跡(あと)は唯その中の二人だけをちよいと紹介しよう。その一人の洛娥(らくが)と云ふのは、貴州の省長(しやうちやう)王文華と結婚するばかりになつてゐた所、王が暗殺された爲に、今でも藝者をしてゐると云ふ、甚薄命な美人だつた。これは黒い紋緞子(もんどんす)に、匂の好(よ)い白蘭花(パレエホア)を插(はさ)んだきり、全然何も着飾つてゐない。その年よりも地味ななりが、涼しい瞳の持ち主だけに、如何にも清楚な感じを與へた。もう一人はまだ十二三のおとなしさうな少女である。金の腕環や眞珠の首飾りも、この藝者がしてゐるのを見ると、玩具のやうにしか思はれない。しかも何とかからかはれると、世間一般の處子(しよし)のやうに、恥しさうな表情を見せる。それが又不思議な事には、日本人だと失笑に堪へない、天竺(てんぢく)と云ふ名の主人公だつた。
これらの美人は順順に、局票へ書いた客の名通り、我我の間に席を占める。が、私が呼んだ筈の、嬌名(けうめい)一代を壓した林黛玉は、容易に姿を現さない。その内に秦樓(しんろう)と云ふ藝者が、のみかけた紙卷(かみまき)を持つたなり、西皮調(せいひてう)の扮河灣(ふんかわん)とか云ふ、宛轉(ゑんてん)たる唄をうたひ出した。藝者が唄をうたふ時には、胡弓に合はせるのが普通らしい。胡弓彈きの男はどう云ふ訣か、大抵胡弓を彈きながらも、殺風景を極めた鳥打帽や中折帽をかぶつてゐる。胡弓は竹のずんど切りの胴に、蛇皮(だひ)を張つたのが多かつた。秦樓が一曲うたひやむと、今度は時鴻の番である。これは胡弓を使はずに自ら琵琶を彈じながら、何だか寂しい唄をうたつた。江西と云へば彼女の産地は、潯陽江上(じんやうかうじやう)の平野である。中學生じみた感慨に耽ければ、楓葉荻花瑟瑟(ふうえふてきかしつしつ)の秋に、江州(かうしう)の司馬白樂天が、青袗(せいさん)を沾(うるほ)した琵琶の曲は、斯(かく)の如きものがあつたかも知れない時鴻がすむと萍郷(ひやうきやう)がうたふ。萍郷がすむと、村田君が突然立ち上りながら「八月十五、月光(げつこう)明(めい)」と、西皮調の武家坡(ぶかは)の唄をうたひ始めたのには一驚した。尤もこの位器用でなければ、君(きみ)程複雜な支那生活の表裏に通曉する事は出來ないかも知れない。
林黛玉の梅逢春がやつと一座に加はつたのは、もう食卓の鱶(ふか)の鰭の湯(タン)が、荒らされてしまつた後だつた。彼女は私の想像よりも、餘程娼婦の型(タイプ)に近い、まるまると肥つた女である。顏も今では格段に、美しい器量とは思はれない。頰紅や黛(まゆずみ)を粧つてゐても、往年の麗色を思はせるのは、細い眼の中に漂つた、さすがにあでやかな光だけである。しかし彼女の年齡を思ふと、――これが行年五十八歳とは、どう考へても譃のやうな氣がする。まづ一見した所は、精精四十としか思はれない。殊に手なぞは子供のやうに、指のつけ板の關節が、ふつくりした甲にくぼんでゐる。なりは銀の縁(ふち)をとつた、蘭花(らんくわ)の黒緞子の衣裳(イイシヤン)に、同じ鞘形(さやがた)の褲子(クウヅ)だつた。それが耳環にも腕環にも、胸に下げた牌(メダル)にも、べた一面に金銀の臺へ、翡翠と金剛石(ダイヤモンド)とを嵌めこんでゐる。中でも指環の金剛石(ダイヤモンド)なぞは、雀の卵程の大きさがあつた。これはこんな大通りの料理屋に見るべき姿ぢやない。罪惡と豪奢とが入り交つた、たとへば「天鵞絨(びろうど)の夢」のやうな、谷崎潤一郎氏の小説中に、髣髴さるべき姿である。
しかしいくら年はとつても、林黛玉は畢(つひ)に林黛玉である。彼女が如何に才氣があるか、それは彼女の話振りでも、すぐに想像が出來さうだつた。のみならず彼女が何分かの後、胡弓と笛とに合はせながら、秦腔(しんかう)の唄をうたひ出した時には、その聲と共に迸(ほとばし)る力も、確に群妓(ぐんぎ)を壓してゐた。
[やぶちゃん注:
・「緞子」織り方に変化をつけたり、組み合わせたりして紋様や模様を織り出す紋織物の一種。生糸の経(たて)糸・緯(よこ)糸に異色の練糸を用いた繻子(しゅす:絹を繻子織り――縦糸と横糸とが交差する部分が連続せず一般には縦糸だけが表に現れる織り方――にしたもの)の表裏の組織りを用いて文様を織り出した。「どんす」という読みは唐音で、室町時代に中国から輸入された織物技術とされる。
・「五分」約1㎝5㎜。
・「江西」長江中流の南の地方を指す。
・「貴州の省長王文華」「貴州」は現・貴州省一帯。中国西南の内陸に位置し、ほとんどが雲貴高原からなり、カルスト地形が占める。王文華(Wáng Wénhuà ワン ウェンホア 1887~1921)は貴州省興義県出身の中華民国軍人。孫文支持派で中華革命党にも加入している。辛亥革命後、貴州省警察庁庁長・貴州省最高軍政副官長を兼任。貴州省内では北京政府支持派の劉顕世と対立、暫く上海を拠点に孫文の支援する活動をしながら、貴州に戻る時期を見計らっていたが(この時期に、この洛娥という妓とのラブ・ロマンスがあったか)、1921年3月16日、部下である袁祖銘に裏切られて彼が放った刺客により、上海で暗殺された。享年35歳であった。芥川が渡中のために東京を出立したのは同年の3月19日のことである。洛娥は愛人を失って二月も経っていない(以上の王文華の政治的な事蹟は、ウィキの「王文華」に依った)。
・「白蘭花(パレエホア)」“báilánhuā”はモクレン目モクレン科ミケレア属Michelia albaで、和名はギンコウボク(銀厚朴)又はハクギョクラン(白玉蘭)という。常緑高木樹。インドネシア・フイリピン原産。花は腋生し、強い芳香を持っており、肉厚で白色、少し経つと黄色を帯びるようになる。中国ではこの花を胸に挿したりレイにしたりたりして女性のアクセサリーや香水の代用にしたり、また漢方薬として慢性気管支炎に用いたりする。
・「處子」まだ嫁に行かないで家にいる乙女。処女。
・「嬌名」名芸妓としての評判。
・「紙卷」紙巻煙草、シガレットのこと。
・「西皮調」京劇のルーツは多くの地方劇の習合したものであるが、その中の一つがこれ。陜西にあった「秦腔」という劇が湖北に取り入れられ、まず「襄陽腔」という劇になり、それが1828年前後にが北京に進出し「西皮調」(漢調・楚調とも又西皮腔とも言う)となった。笛の伴奏を伴う(諸注は「胡弓の伴奏を伴う」としているが、それでは芥川が「藝者が唄をうたふ時には、胡弓に合はせるのが普通らしい」と言った意味が死んでしまう)。また現在、京劇自体をその曲調から二つに分類する際にも、西皮調と二黄調に分ける。西皮調は以上のようなものをルーツとして全体に優雅な曲調の劇を言い、二黄調の方は湖北の民謡をルーツとし、のどかな牧歌性を特徴とする。ここでは直後に京劇の「扮河灣」を出している以上、このように(諸注のような本来のルーツとしての「西皮調」ではなく)京劇分類の際の「西皮調」の方を説明すべきではないかと思う。
・「扮河灣」は当時の西皮調京劇の人気演目の一つ。加藤徹氏の「芥川龍之介が見た京劇」の中の「京劇の歌を唱う芸者たち――林黛玉(二)」によれば『薛仁貴は若いころは貧乏な雇われ人で、主家の娘・柳迎春と駆け落ちする。やがて大きな戦争が始まり、薛仁貴は出征。柳迎春は男子を生み、「丁山」と名づける。年月がたち、丁山は少年となり、弓で雁を射落として母を養う。いっぽう、薛仁貴は東の外国との戦争で大手柄を立て、出世を遂げ、妻を探しに故郷にもどり、汾河湾の地まで来る。突然、虎があらわれ、薛仁貴はあわてて矢を射て、誤って丁山を射殺する。その後、薛仁貴は妻を探しあて、感激の再会を果たす。息子が生まれていたことを知って彼が喜んだのも束の間。彼は妻の話を聞くうちに、さきほど矢で射殺した少年が自分の息子であることを悟り、夫婦は悲嘆にくれる。』というストーリーで、『かの梅蘭芳も柳迎春を演じて好評を博した。この芸者さんが唄った「汾河湾」のさわりの部分は「梅派」の唄いかただったかもしれない』と推測なさっている。
・「宛轉たる」やわらかくゆるやかに舞うかのように美しい、の意。
・「ずんど切り」寸胴切り。すっぱりと綺麗に横に切ること。
・「潯陽江上」現在の江西省揚子江岸九江市付近には、古代に置かれた潯陽郡潯陽県が置かれたことから、この付近を流れる揚子江のことを特に潯陽江と呼んだ。白居易の「琵琶行」の冒頭は以下のように始まる。
潯陽江頭夜送客
楓葉荻花秋瑟瑟
○やぶちゃん書き下し文
潯陽江頭 夜 客を送る
楓葉荻花 秋 瑟瑟
○やぶちゃん現代語訳
潯陽江のほとりで
夜
旅立つ人を送る宴を張った――
秋
紅葉した楓の葉――白い荻(おぎ)の穂――
秋
そこを吹き抜けるのは
ただ淋しい風の音(ね)――
「瑟瑟」を「索索」とするもの一本がある。「瑟瑟」は“sèsè”(セセ)、「索索」“suŏsuŏ”(シュオシュオ)で、本来ならここは、逐語訳すれば「ヒューヒュー」に相当する「楓葉荻花」を吹き抜ける風の音そのものの擬音語である。
・「楓葉荻花瑟瑟の秋」前注参照。
・「江州」先の「潯陽江上」、現在の江西省揚子江岸九江市付近の呼称。
・「司馬白樂天」白居易(772~846)は翰林学士・左拾遺を歴任したが、43歳の時、要人暗殺事件処理の越権行為を咎められ、一時、江州司馬(地方の軍事長官)に左遷されている。
・「青袗沾した」以前は長安の名妓として嬌名高かったが、今は落魄れた薄幸の女琵琶弾き(実際には芸人ではなく商人の妻で、夫は商売で家=船を空けているのである)に自身の流謫の不幸を重ねた白居易の「琵琶行 終尾」の掉尾、全26句の内の最後の10句を示す。
今夜聞君琵琶語
如聽仙樂耳暫明
莫辭更坐彈一曲
爲君翻作琵琶行
感我此言良久立
卻坐促絃絃轉急
淒淒不似向前聲
滿座重聞皆掩泣
座中泣下誰最多
江州司馬青衫濕
○やぶちゃん書き下し文
今夜聞く 君が琵琶の語
仙樂を聽くが如く 耳 暫く明たり
辭する莫れ 更に坐して一曲を彈け
君が爲に翻(ほん)して琵琶行を作らん
我が此の言に感じ 良(やや)久しく立つも
座に卻(かへ)りて絃を促(うなが)せば 絃 轉(うたた)急なり
淒淒として似ず 向前(きやうぜん)の聲
滿座重ねて聞くに 皆 掩ひて泣く
座中 泣(なみだ)下ること 誰か最も多き
江州の司馬 青衫 濕ふ
○やぶちゃん現代語訳
……今宵
聞く
そなたの琵琶の音(ね)
それはまた
仙楽を聴くが如きもの――
私の耳は
暫くの間
すっきりと澄み渡っていた――
「そなた!
辞するなかれ!
更に一曲を弾け!」
「……そうだ!
私は君のために
その哀しくも美しき
琵琶の音(ね)を
言葉に写して
『琵琶の唄』
を創るぞ!」
――女は
私の言葉に感じ入った風に
暫くの間
凝っと
佇んでいた
が
再び座に就くと
きゅっと弦を絞め
忽ち
急に――
――ジャジャンジャン! ジャジャンジャン! ジャジャンジャン!――
今までのそれとは
まるで違った
凄絶にして荒涼――絶対の悲哀の音(ね)が
曠野に響き渡った――
……その時
そこにいた
全ての者が
何度も何度も繰り返される
その悲曲を聞いた――
そうして
皆が
顔を覆って
涙を流して
忍び泣いた――
……ああ! その座の中に……
……最も涙したのは誰であったか?……
……江州司馬……
……見よ……その男の青衫は……
しとど……しとど濡れそぼっているではないか……
「青衫」は八品・九品の下級官吏の着用した青い単(ひとえ)の上着。白居易の地位の司馬はもっと高位であると思われる(従四位下か)ので、これは自身の謙遜と共に左遷により押し付けられた地位への憤懣の表現ともとれる。
・「琵琶の曲」前注参照。
・「武家坡」加藤徹氏の「芥川龍之介が見た京劇」の中の「京劇の歌を唱う芸者たち――林黛玉(二)」によれば『この『武家坡』も、前出の『汾河湾』と同趣向の京劇で、外国との戦争で行方不明になっていた薛平貴(前出の薛仁貴と名前がそっくりだが、赤の他人)が、突然、妻・王宝釧のもとに帰ってきて、自分の正体をかくして妻の貞操を試したあと、感激の再開を果たす、という演目』である。続けて加藤氏は『近代中国は、内憂外患の戦火が絶えず、社会も保守的だった。『汾河湾』も『武家坡』も、ヒロインは親でなく自分の意思で結婚相手を選び、外国との戦争に行き帰ってこない夫を何年でも待ち続け、最後には夫と再会する。』『人々は、現実の世界では得られぬものを、京劇のなかに見いだしていた』と目から鱗の解説を附しておられる。これこそ、真に注と呼ぶに相応しい。なお、「日本京劇振興協会」の作成した以下の「武家坡」の頁(先の加藤氏が関係されている)には日本語訳の詳細な梗概がある。
・「湯(タン)」“tāng”。本来は煎じ薬の名に添えて言う語であるが、中華料理ではご承知の通り、温めたスープのこと。
・「衣裳(イイシヤン)」“yīshāng”。
・「牌(メダル)」「牌」は、古くは功績のあった者にその内容や褒賞の文言を書いて与える札を言った。正しく現在の“medal”と同じである。但し、これは特に何かの記念のメダルというよりも、大きなブローチと考えてよいであろう。
・「天鵞絨(びろうど)の夢」大正8(1919)年11月~12月に『大阪朝日新聞』に連載された。西湖湖畔の白壁を廻らした別荘。池の底には阿片窟、水中には美少女の舞――ここで淫楽の道具となっていた美しき奴隷達が語り織りなす、その主人の絢爛奇態な生活の謎解きの物語。
・「秦腔の唄」「秦腔」は現在の陝西省・甘粛省・青海省・寧夏回族自治区・新疆ウイグル族自治区等の西北地区で行われている最大最古の伝統劇の名。京劇を中心としたあらゆる戯形態に影響を与えたことから「百種劇曲の祖」と呼ばれる。ナツメの木で作った梆子(ばんし:拍子木。)を用いることから「梆子腔」という呼び方もある。その歌曲は喜怒哀楽の激しい強調表現を特徴とする(以上は「東来宝信息諮詢(西安)有限公司」の公式HPの「西安・陝西情報」→「民間藝術」にある「秦腔」の記載を参照した)。]