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« 上海游記 九 戲臺(上) | トップページ | 緑牡丹は白牡丹なり!――芥川龍之介「上海游記」の芸名の誤り »

2009/06/02

上海游記 十 戲臺(下)

       十 戲臺(下)

 その代り支那の芝居にゐれば、客席では話をしてゐようが、子供がわあわあ泣いてゐようが、格別苦にも何にもならない。これだけは至極便利である。或は支那の事だから、たとひ見物が靜かでなくとも、聽戲(ちやうぎ)には差支へが起らないやうに、こんな鳴物が出來たのかも知れない。現に私なぞは一幕中、筋だの役者の名だの歌の意味だの、いろいろ村田君に教はつてゐたが、向う三軒南隣りの君子は、一度もうるささうな顏をしなかつた。

 支那の芝居の第二の特色は、極端に道具を使はない事である。背景の如きも此處にはあるが、これは近頃の發明に過ぎない。支那本來の舞臺の道具は、椅子と机と幕とだけである。山嶽、海洋、宮殿、道途(だうと)――如何なる光景を現すのでも、結局これらを配置する外は、一本の立木も便つたことはない。役者がさも重さうに、閂(かんぬき)を外すらしい眞似をしたら、見物はいやでもその空間に、扉の存在を認めなければならぬ。又役者が意氣揚揚と、房のついた撻(むち)を振りまはしてゐたら、その役者の股ぐらの下には、驕つて行かざる紫騮(しりう)か何かが、嘶いてゐるなと思ふべきである。しかしこれは日本人だと、能と云ふ物を知つてゐるから、すぐにそのこつを呑みこんでしまふ。椅子や机を積上げたのも、山だと思へと云はれれば、咄嗟によろしいと引き受けられる。役者がちよいと片足上げたら、其處に内外を分つべき閾(しきゐ)があるのだと云はれても、これ亦想像に難くはない。のみならずその寫實主義から、一歩を隔てた約束の世界に、意外な美しささへ見る事がある。さう云へば今でも忘れないが、小翠花(せうすゐくわ)が梅龍鎭(ばいりゆうちん)を演じた時、旗亭(きてい)の娘に扮した彼はこの閾を越える度に、必ず鶸色(ひわいろ)の褲子(クウヅ)の下から、ちらりと小さな靴の底を見せた。あの小さな靴の底の如きは、架空の閾でなかつたとしたら、あんなに可憐な心もちは起させなかつたに相違ない。

 この道具を使はない所は、上(かみ)に述べたやうな次第だから、一向我我には苦にならない。寧ろ私が辟易したのは、盆とか皿とか手燭とか、普通に使はれる小道具類が如何にも出たらめなことである。たとへば今の梅龍鎭にしても、つらつら戲考を按ずると、當世に起つた出來事ぢやない。明の武宗が微行の途次、梅龍鎭の旗亭の娘、鳳姐(ほうそ)を見染めると云ふ筋である。處がその娘の持つてゐる盆は、薔薇の花を描(か)いた陶器の底に、銀鍍金(めっき)の線なぞがついてゐる。あれは何處かのデイパアトメント・ストアに、並んでゐたものに違ひない。もし梅若萬三郎が、大口(おほくち)にサアベルをぶら下げて出たら、――そんな事の莫迦莫迦しいのはの細い多言を要せずとも明かである。

 支那の芝居の第三の特色は、隈取りの變化が多い事である。何でも辻聽花翁(つじちやうくわをう)によると、曹操一人の隈取りが、六十何種もあるさうだから、到底市川流(いちかはりう)所の騷ぎぢやない。その又隈取りも甚しいのは、赤だの藍だの代赭だのが、一面に皮膚を蔽つてゐる。まづ最初の感じから云ふと、どうしても化粧とは思はれない。私なぞは武松(ぶしよう)の芝居へ、蔣門神(しやうもんじん)がのそのそ出て來た時には、いくら村田君の説明を聽いても、やはり假面だとしか思はれなかつた。一見あの所謂花瞼(ホアレン)も、假面ではない事が看破出來れば、その人は確かに幾分かは千里眼に近いのに相違ない。

 支那の芝居の第四の特色は、立廻りが猛烈を極める事である。殊に下廻りの活動になると、これを役者と称するのは、輕業師とするの称するの當れるに若かない。彼等は舞臺の端から端へ、續けさまに二度宙返りを打つたり、正面に積上げた机の上から、眞つ倒(さかさま)に跳ね下りたりする。それが大抵は赤いズボンに、半身は裸の役者だから、愈曲馬か玉乘りの親類らしい氣がしてしまふ。勿論上等な武劇の役者も、言葉通り風を生ずる程、青龍刀や何かを振り廻して見せる。武劇の役者は昔から、腕力が強いと云ふ事だが、これでは腕力がなかつた日には、肝腎の商賣が勤まりつこはない。しかし武劇の名人となると、やはりかう云ふ離れ業以外に、何處か獨得な氣品がある。その證據には蓋叫天が、宛然(さながら)日本の車屋のやうな、パツチばきの武松に扮するのを見ても、無暗に刀を揮ふ時より、何かの拍子に無言の儘、じろりと相手を見る時の方が、どの位行者(ぎやうじや)武松らしい、凄味に富んでゐるかわからない。

 勿論かう云ふ特色は、支那の舊劇の特色である。新劇では隈取りもしなければ、とんぼ返りもやらないらしい。では何處までも新しいかと云ふと、亦舞臺(えきぶだい)とかに上演してゐた、賣身投靠(ばいしんたうかう)と云ふのなぞは、火のない蠟燭を持つて出てもやはり見物はその蠟燭が、ともつてゐる事と想像する。――つまり舊劇の象徴主義は依然として舞臺に殘つてゐた。新劇は上海以外でも、その後二三度見物したが、此點ではどれも遺憾ながら、五十歩百歩だつたと云ふ外はない。少くとも雨とか妻とか夜になつたとか云ふ事は、全然見物の想像に依賴するものばかりだつた。

 最後に役者の事を述べると、――蓋叫天だの小翠花だのは、もう引き合ひに出して置いたから、今更別に述べる事はない。が、唯一つ書いて置きたいのは、樂屋にゐる時の緑牡丹(りよくぼたん)[やぶちゃん注:「白牡丹」の誤り。以下総て「緑牡丹」は「白牡丹」と読み替える。「九 戲臺(上)」の「緑牡丹」の注を参照。]である。私が彼を訪問したのは、亦舞臺の樂屋だつた。いや、樂屋と云ふよりも、舞臺裏と云つた方が、或は實際に近いかも知れない。兎に角其處は舞臺の後の、壁が剥げた、蒜(にんにく)臭い、如何にも慘澹たる處だつた。何でも村田君の話によると、梅蘭芳(メイランフアン)が日本へ來た時、最も彼を驚かしたものは、樂屋の綺麗な事だつたと云ふが、かう云ふ樂屋に比べると、成程帝劇の樂屋なぞは、驚くべく綺麗なのに相違ない。おまけに支那の舞臺裏には、なりの薄ぎたない役者たちが、顏だけは例の隈取りをした儘、何人もうろうろ歩いてゐる。それが電燈の光の中に、恐るべき埃を浴びながら、往つたり來たりしてゐる容子は殆百鬼夜行(きやかう)の圖だつた。さう云ふ連中の通り路から、ちよいと陰になつた所に、支那鞄や何かが抛り出してある。緑牡丹はその支那鞄の一つに、鬘(かづら)だけは脱いでゐたが、妓女蘇三(そさん)に扮した儘、丁度茶を飮んで居る所だつた。舞臺では細面(ほそおもて)に見えた顏も、今見れば存外華奢ではない。寧ろセンシユアルな感じの強い、立派に發育した青年である。背も私に此べると、確に五分は高いらしい。その夜も一しよだつた村田君は、私を彼に紹介しながら、この利巧さうな女形と、互に久潤を敍し合つたりした。聞けば君は緑牡丹が、まだ無名の子役だつた頃から、彼でなければ夜も日も明けない、熱心な贔屓の一人なのださうである。私は彼に、玉堂春は面白かつたと云ふ意味を傳へた。すると彼は意外にも、「アリガト」と云ふ日本語を使つた。さうして――さうして彼が何をしたか。私は彼れ自身の爲にも又わが村田烏江君の爲にも、こんな事は公然書きたくない。が、これを書かなければ、折角彼を紹介した所が、むざむざ眞を逸してしまふ。それでは讀者に對しても、甚濟まない次第である。その爲に敢然正筆を使ふと、彼は横を向くが早いか、眞紅に銀輪の繍(ぬひ)をした、美しい袖を飜して、見事に床の上へ手洟(てばな)をかんだ。

[やぶちゃん注:本文中にも注を置いたが、「緑牡丹」は「白牡丹」の誤りである。以下総て「緑牡丹」は「白牡丹」と読み替える必要がある。その論証については「九 戲臺(上)」の「緑牡丹」の注を必ず参照のこと。

・「聽戲」は、中国語で観劇の意。

・「道途」は、道。

・「紫騮」は、黒栗毛(暗褐色)の馬。

・「小翠花」は「九 戲臺(上)」同注参照。

・「梅龍鎭」は、明代の物語。芥川が梗概する通り、色好みの第14代正徳帝(せいとくてい)が自ら軍人に変相、上海の梅龍鎮の街にある梅龍鎮酒家に泊り、そこの娘鳳姐を見初めて、皇后にするまでの恋愛譚。芥川龍之介は1921年5月16日に天蟾舞台で小翠花が演じた「梅龍鎭」を観劇したと推定される。その根拠は「九 戲臺(上)」の「緑牡丹」の考証注を参照されたい。

・「旗亭」は、料理屋や酒楼。

・「鶸色」黄緑色。スズメ目アトリ科カワラヒワ属マヒワ(真鶸)Carduelis spinusの羽の色の連想から名づけられた色名。

・「褲子(クウヅ)」“kùz”で、ズボンのような下袴のこと。

・「戲考」書名。王大錯の編になる全40冊からなる膨大な脚本集(19151925刊)で、梗概と論評を附して京劇を中心に凡そ六百本を収載する。

・「明の武宗」明の第11代皇帝正徳帝(14911521)。本名、朱厚照。武宗は廟号で、中国ではこちらで呼称するが、本邦では使用された元号によって呼ぶことが多い。ラマ教に傾倒したが、実生活では酒色に耽り、好きだった軍事演習に飽きると遠征を行い、行軍先で美女を誘拐しては陣中で淫楽に耽った。明滅亡の主因となったとされる。ちなみに彼の実際の皇后は孝静毅皇后夏(?~1535)と称し、上元の出身(これが現在の上元県とすれば江蘇省南京近辺)、1506年に皇后となっている。少なくとも上海の娘では、ない。

・「微行」お忍びの意。

・「梅若萬三郎」初世梅若万三郎(明治2(1869)年~昭和21(1946)年)のこと。観世流の能楽師。明治の三名人といわれた初世梅若実の長男で、梅若一門を開いた。

・「大口」能で用いる衣装である大口袴(おおくちばかま)の略。衣服としては裾の口が大きい下袴で、平安以降、公家の束帯で表袴(うえのはかま)の下に用いられ、鎌倉以降は武士が直垂(ひたたれ)・狩衣等の下に穿いた。能では特に限定された役の衣装ではないが、賤しい役所は穿かない。

・「辻聽花翁」中国文学者の辻武雄(慶応4・明治元(1868)年~昭和6(1931)年)の号。上海や南京師範学校で教鞭を採り、京劇通として知られ、現地の俳優達の指導も行なった。ネット検索でも中文サイトでの記載の方がすこぶる多い。

・「市川流」江戸歌舞伎の荒事とその隈取りは主に初代市川團十郎を中心とした市川家によって完成されたため、このように言った。そのような流派が存在する謂いではない。

・「蔣門神がのそのそ出て來た時」芥川が見たと思しい京劇「醉奪快活林」のクライマックスである。西門慶と潘金蓮を仇討ちした武松は孟州に流罪となるが、そこでは典獄(刑務官)とその息子の金眼彪施恩(ひょうしおん)に、その魁偉を気に入られて囚人ながら厚遇される。折しも施恩はごろつきの蒋門神に快活林という交易所(酒店を兼ねる)を奪われ怪我を負わされていた。施恩が武松に仇討ちを頼み込むと、武松はさんざんに酒をあおり、所謂、酔拳で蒋門神と戦ってこれを懲らしめる、という痛快大立ち回りのストーリー(以上は「水滸聚義」というHPの「天傷星 行者 武松」の頁を主に参考にした)。

・「花瞼(ホアレン)」“huāliăn”で、隈取りの意。

・「行者」武芸の修行者。

・「舊劇」中国の伝統演劇京劇の呼称。元曲・南曲・昆劇・越劇・川劇等の地方演劇の発展の中で京劇が旧劇の頂点となった。

・「新劇」話劇とも言う。20世紀の初頭に国外の現代演劇の思潮を取り入れた中国の演劇を指す。特に1919年の五・四運動以降のリアリズムと表現主義を主張とする戯曲群を指す。

・「亦舞臺」上海にあった劇場の名。

・「賣身投靠」は話劇「雙珠鳳」の別名(新劇化された話劇「雙珠鳳」の外題というべきか)。そのストーリーはhungmei さんのブログの「越劇・黄梅戯・紅楼夢」によれば、洛陽の秀才文必正は南陽に向かう途次、法華庵という寺院の庭で焼香に来ていた才女の霍定金(かくていきん)を見初め、彼女の落としていった珠鳳(髪飾りか耳飾りであろう。当時の女性が耳飾りをしていたかどうかは不学にして知らない。識者の御教授を乞う)を拾う。文は自ら奴隷に身をやつして霍家へ入り込む。二人っきりになるチャンスを伺い、機を得て珠鳳を蓮の花に入れて定金に差し出しながら、自分があの時の文必正であることを告白、二人は将来を誓い合うというハッピー・エンドである。この「賣身投靠」というのは、ある目的のために自分自身を売り渡すという意味で、文が定金を得んがために奴隷に身を売って霍家へ入り込んだことを指すのであろう。

・「帝劇」東京都千代田区丸の内三丁目にある東宝直営の帝国劇場のこと。明治441911)年渋沢栄一を発起人として本邦初の西洋式演劇劇場として設立された。

・「妓女蘇三」後述する京劇「玉堂春」の主人公玉堂春の妓名。

・「センシユアル」は“sensual”で、肉体的な・官能的な・肉欲をそそる、という意。

・「玉堂春」は明代の物語で、「警世通言」の「玉堂春落難逢夫」を元にした京劇の主人公。名妓蘇三(玉堂春)は公子で吏部尚書の王金龍と誓い合った仲であったが、金龍は金銭を使い果たして、妓楼を追い出されてしまう。それを聞いた蘇三は金龍に銀を送って故郷南京へと帰郷させる。残った蘇三は以後、客を取るのを拒んだため、山西の豪商沈燕林に妾として売られてしまう。ところが沈の妻には間男がおり、邪魔な夫を毒殺した上、妾の蘇三を夫殺しの犯人として告発、沈の妻から賄賂を受けていた県令は蘇三を死罪に処して太原に護送する。一方、金龍は科挙に登第、山西巡按史となって折りしも蘇三の一件を審議する立場となるが、変わらぬ信愛によって二人は再会、冤罪を雪ぎ、晴れて結ばれるというストーリー(以上の梗概は千田大介氏のWebサーバ「電脳瓦崗寨」にある「中国伝統劇解説/京劇『玉堂春』」の記載を参照した)。但し、芥川が観劇した白牡丹のものは前篇の注での秦剛氏の考証により「新玉堂春」とあり、これも新劇化された「玉堂春」と言うべきものなのかも知れない。

・「正筆」は、ぼかすことなくはっきりと正しいことを書くこと、の意。]

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