上海游記 九 戲臺(上)
九 戲臺(上)
上海では僅に二三度しか、芝居を見物する機會がなかつた。私が速成の劇通になつたのは、北京へ行つた後の事である。しかし上海で見た役者の中にも、武生(ウウシヨン)では名高い蓋叫天(がいきうてん)とか、花旦(ホアタン)では緑牡丹(りよくぼたん)[やぶちゃん注:「白牡丹」の誤り。注参照。]とか小翠花(せうすいくわ)とか、兎に角當代の名伶(めいれい)があつた。が、役者を談ずる前に、芝居小屋の光景を紹介しないと、支那の芝居とはどんなものだか、はつきり讀者には通じないかも知れない。
私の行つた劇場の一つは、天蟾舞臺(てんせんぶたい)と號するものだつた。此處は白い漆喰塗りの、まだ眞新らしい三階建である。その又二階だの三階だのが、ぐるりと眞鍮の欄干をつけた、半圓形になつてゐるのは、勿論當世流行の西洋の眞似に違ひない。天井には大きな電燈が、煌煌と三つぶら下つてゐる。客席には煉瓦の床の上に、ずつと籐椅子が並べてある。が、苛(いやしく)も支那たる以上、籐椅子と雖も油斷は出來ない。何時か私は村田君と、この籐椅子に坐つてゐたら、兼ね兼ね恐れてゐた南京蟲に、手頸を二三箇所やられた事がある。しかしまづ芝居の中は、大體不快を感じない程度に、綺麗だと云つて差支ない。
舞臺の兩側には大きな時計が一つづつちやんと懸けてある。(尤も一つは止まつてゐた。)その下には煙草の廣告が、あくどい色彩を並べてゐる。舞臺の上の欄間には、漆喰の薔薇やアツカンサスの中に、天聲人語と云ふ大文字(だいもんじ)がある。舞臺は有樂座より廣いかも知れない。此處にももう西洋式に、フツト・ライトの裝置がある。幕は、――さあ、その幕だが、一場一場を區別する爲には、全然幕を使用しない。が、背景を換へる爲には――と云ふよりも背景それ自身としては、蘇州銀行と三砲臺香烟(ほうだいかうえん)即ちスリイ・キヤツスルズの下等な廣告幕を引く事がある。幕は何處でもまん中から、兩方へ引く事になつてゐるらしい。その幕を引かない時には、背景が後を塞いでゐる。背景はまづ油繪風に、室内や室外の景色を描(か)いた、新舊いろいろの幕である。それも種類は二三種しかないから、姜維(きやうゐ)が馬を走らせるのも、武松(ぶしやう)が人殺しを演ずるのも、背景には一向變化がない。その舞臺の左の端に、胡弓、月琴、銅鑼などを持つた、支那の御囃しが控へてゐる。この連中の中には一人二人、鳥打帽をかぶつた先生も見える。
序に芝居を見る順序を云へば、一等だらうが二等だらうが、ずんずん何處へでもはいつてしまへば好い。支那では席を取つた後、場代を拂ふのが慣例だから、その邊は甚輕便(けいべん)である。さて席が定まると、熱湯を通したタオルが來る。活版刷りの番附が來る。茶は勿論大(おほ)土瓶が來る。その外西瓜の種だとか一文菓子だとか云ふ物は、不要不要(プヤオプヤオ)をきめてしまへば好い。タオルも一度隣にゐた、風貌堂堂たる支那人が、さんざん顏を拭いた擧句鼻をかんだのを目撃して以來、當分不要(プヤオ)をきめた事がある。勘定は出方(でかた)の祝儀とも、一等では大抵二圓から一圓五十錢の間かと思ふ。かと思ふと云ふ理由は、何時でも私に拂はせずに、村田君が拂つてしまつたからである。
支那の芝居の特色は、まづ鳴物の騷騷しさが想像以上な所にある。殊に武劇――になると、何しろ何人かの大の男が、眞劍勝負でもしてゐるやうに舞臺の一角を睨んだなり、必死に銅鑼を叩き立てるのだから、到底天聲人語所ぢやない。實際私も慣れない内は、兩手に耳を押へない限り、とても坐つてはゐられなかつた。が、わが村田烏江君などになると、この鳴物が穩かな時は物足りない氣持がするさうである。のみならず芝居の外にゐても、この鳴物の音さへ聞けば、何の芝居をやつてゐるか、大抵見當がつくさうである。「あの騷騷しい所がよかもんなあ。」――私は君(きみ)がさう云ふ度に、一體君は正氣かどうか、それさへ怪しいやうな心もちがした。
[やぶちゃん注:本篇の注では、この注作業中に出逢えた「2008年上海外国語大学日本学研究国際フォーラム」(PDFファイルでダウンロード可能)の北京日本学研究センターの秦剛氏の論文「一九二一年・芥川龍之介の上海観劇」(p.134-135)に有益な新知見を得たことを、ここに謝す。表題の「戲臺」は中国語で舞台のこと。
・「武生(ウウシヨン)」“wŭshēng”京劇で立ち回りの多い荒事に相当する武人や英雄を演じる俳優を言う。一般に台詞は少ない。
・「蓋叫天」(gài jiàotiān ガイチャオティエン 本名張英傑 1888~1971)「江南第一武生」と呼ばれる名優にして京劇の至宝。清末に10歳でデビュー、上海で活躍した。
・「花旦(ホアタン)」“huādàn”若く瑞々しい溌溂とした女性を演じる俳優。
・「緑牡丹」本注は特に長くなるので改行を施してある。次の「十 戲臺(下)」にも及ぶ内容であるが、底本の誤りに関わる重大な事柄なので、ここで纏めて語っておく。
「緑牡丹」この役者については、京劇の花旦(女形)で、大正14(1925)年7月に来日、帝劇と宝塚劇場で公演を行った記録が日本の複数のサイトに記されている。それらの記事を見ると、前年に再来日して熱狂的に迎えられた梅蘭芳の二匹目の泥鰌を狙ったものであったが、興行的には不入りで失敗であったらしい。
しかし、この芸名、極めて類似した芸名に「白牡丹」があり、これは正に芥川が当代の名女形と呼ぶに相応しい、四大名旦の一人である荀慧生(xún huìshēng シュンフイシャン 1900~1968)その人のものなのである。
そして、資料を調べる内に、私は興味深いある事実に遭遇することとなった。底本とした岩波旧全集の後記にはその記載がないのだが、岩波版新全集第八巻の後記(旧全集と同じく底本には『支那游記』所収のものを用い、初出と校合した旨が記されている)の初出との校異の中に、この「緑牡丹」について、
二五14 緑牡丹 [初]白牡丹 三一4以下も同じ。
とあるのである(数字は新全集頁と行)。初出では以下総ての「緑牡丹」は「白牡丹」であったというのである。これによって私は当初から感じていた「緑牡丹」は「白牡丹」荀慧生の別芸名であろうかとも思ったのである。
しかし、緑と白じゃあ大違いだし、芸人としては普通はこんな別名のつけ方はしないだろうし、逆に「緑牡丹」は、地方周りのやくざな旅芸人が素朴な人々を騙す際の「白牡丹」の似非(えせ)芸名にこそ相応しい気もしていた。
そのような意地悪い想像を重ねるうちに、不審が膨らんでゆく。冒頭に記した来日時の「緑牡丹」の不評の事実である。如何に梅蘭芳が素晴らしかったからといって、四大名旦に並ぶ「白牡丹」荀慧生が不評というのは、また如何にも解せないのだ(写真を見る限り、梅蘭芳よりもっと華奢な感じさえする、私さえ「そそられる」スタイルと面貌である)。芥川が次の「十 戲臺(下)」で直接、「白牡丹」にその演技を褒めたのだって、同行した「白牡丹」贔屓の村田烏江の手前とは思えない。そもそも、芥川が魅了された妖艶な演技で美しい女形だったからこそ、「十 戲臺(下)」のコーダの部分は無類に面白いのである。
――そんな袋小路の中、ネット検索で偶々巡り逢ったのが、最初に示した秦剛氏の論文「一九二一年・芥川龍之介の上海観劇」(「2008年上海外国語大学日本学研究国際フォーラム」収載)なのであった。
そこには
『緑牡丹(1907-1968)本名黄玉麟、字瑞生。貴州生まれ。南方俳優として上海で活躍する。』『村松梢風の斡旋で、1925年6月から8月にかけて帝国劇場の招聘を受け、東京帝国劇場、宝塚大劇場などで33回も公演した(村松梢風『上海』)。』
という「緑牡丹」の詳細なプロフィルが掲げられており(たまたま没年は一緒だが、生年に注意。荀慧生は1900年である。「白牡丹」の方が色彩的には劣る「緑」よりも7歳年上である)、更に、芥川が上海を訪問した際には、この「緑牡丹」は、
『上海の大世界内乾坤大劇場で公演していた』
という事実が提示されていた(劇場名に注意。天蟾舞台では、ない)。
ここで秦氏は私が「五 病院」の「波多野博君」の注で少し出した「波多野乾一」の記載を資料提示している。この人物は岩波版新全集書簡に附録する関口安義らによる人名解説索引は『波多野乾一(1890-1963) 新聞記者。大分県生まれ。東亜同文書院政治学科卒。1913年大阪毎日新聞社に入社。その後、大阪毎日新聞社北京特派員、北京新聞主幹、時事新報特派員など一貫して中国専門記者として活躍した』(句読点を変更した)である。ネット検索でも中国の芸能関連著作が挙がってくる人物である。さて、その引用は新作社1925年3月刊行の波多野乾一「支那劇と其名優」の白牡丹荀慧生についての下りで、『後援者は白社を作つて彼(白牡丹)と提携したが、村田孜郎、古澤憲介はその中堅であつた』というものである。すると「十 戲臺(下)」の『その夜も一しよだつた村田君は、私を彼に紹介しながら、この利巧さうな女形と、互に久潤を敍し合つたりした。聞けば君は緑牡丹が、まだ無名の子役だつた頃から、彼でなければ夜も日も明けない、熱心な贔屓の一人なのださうである』という記載も「白牡丹」に換えれば、至極しっくりくる。ここで秦氏は村田孜郎(烏江)は「緑牡丹」ではなく、白牡丹荀慧生のタニマチであったことを立証しているのである。
以上の事実から、秦剛氏は『【結論】全集底本における「緑牡丹」は「白牡丹」の間違い』(下線部はやぶちゃん)であるとする。――目から鱗、緑のぼんやりしていた牡丹が純な白に変わった。これで、次の「十 戲臺(下)」の最後に登場する「緑牡丹」改め「白牡丹」の映像も鮮烈になってくるのである。私は文句なしにこれに賛成する。今後の芥川龍之介全集では本作の「緑牡丹」は「白牡丹」と訂正されなければならない。
しかし、まだまだ。秦氏の検証はここで終わらない。
芥川龍之介は「十 戲臺(下)」の「緑牡丹」改め「白牡丹」の楽屋話に持ち込む直前で「亦舞臺とかに上演してゐた、賣身投靠」ここで示された天蟾舞台とは違う亦舞台(えきぶたい)という劇場の話をしている。秦氏は鋭くここに白牡丹荀慧生とこの演目の連関を嗅ぎ出すのである。
ここにこの論文の真骨頂が現れる。即ち、実際の当時の上演広告の写真版による芥川の観劇の日時の特定と、本文の検証という作業である。
秦氏は1921年4月26日の「申報」(上海の日刊新聞であろう)の亦舞台の広告の当日番付に着目した。その広告番付表には、
出演俳優として中央に大きく
白牡丹
(勿論、荀慧生のこと)の文字が記され、演目の中には
雙珠鳳
と
新玉堂春
という外題が見出せるのである。「白牡丹」の名は、この「新玉堂春」の直上にある(もう一本の別な芝居にも出演欄に名前がある)。「十 戲臺(下)」で芥川は『私は彼に、玉堂春は面白かつたと云ふ意味を傳へた』とある。「彼」とは「緑牡丹」改め「白牡丹」である。そうして、これは京劇に詳しくなければ分らないことなのであるが、この「雙珠鳳」なる作品は「賣身投靠」の別名であると、秦氏は記すのである。
芥川が1921年4月26日の亦舞台でこの二つの芝居を観劇したかどうかは分らない。当時の京劇の上演がどのように組まれていたかまでは(日替わりであるとか数日数週に渡って公演されたのか、更に言えば上演の時間帯・上演時間等について)、秦氏は記しておられないからである。しかし、この4月26日という特定日は、それなりの説得力を持つように思われる。芥川は既に注したように4月23日に里見病院を退院している。該当の26日の年譜的知見によれば、芥川は、後述される学者にして革命派に属した章柄麟(しょうへいりん)、更には詩人・政治家であった後の満州国総理となる鄭孝胥(ていこうしょ)とダブルで会談している(天候の描写から章柄麟に先に逢い、次に鄭孝胥であろう)。「十三 鄭孝胥」の会談後、庭での描写は晴れた青空を覗かせている。時刻は午後もそう遅くはあるまい。碩学の二人に会見した芥川が、どこがで肩の力を抜いてほっと一息つきながら、夕刻からの亦舞台の客席で、華奢愛嬌に満ちた美しい白牡丹荀慧生演ずる玉堂春に笑みを洩らす――。如何にもあるべき映像ではあるまいか!?
実は、この検証はここに留まらない。本篇や以下の「十 戲臺(下)」の記述から、秦氏は芥川龍之介はこの天蟾舞台で、
小翠花が演じた「梅龍鎭」
及び
蓋叫天が演じた「武松」
(やぶちゃん補注:正しくは武松の登場する「水滸伝」を素材とした
「全本武十回」
の内の
「醉奪快活林」
(写真版の広告を見ると「林」を「嶺」とある。ネットで調べると一般には「林」のようだが、「嶺」とするものもある。因みにこの演目については「十 戲臺(下)」の注で詳述するが、この「快活林」は宿屋に酒家を兼ねた店の名前である)
「血濺鴛鴦樓(けっせんえんおうろう)」
「大閙蜈蚣嶺(だいどうごしょうれい)」
の三場)
を観劇したと推定するのである。私もそれを肯んずる。
そこで秦氏はこの両演目を当時の新聞広告に依って再び調べるのである。すると1921年5月16日の「申報」の天蟾舞台の広告の当日番付に両演目が載っているのが見出されるのだ。芥川龍之介は本篇の冒頭で『上海では僅に二三度しか、芝居を見物する機會がなかつた』と言っている以上、本演目が組み合わされている日を秦氏が選ぶのは極めて至当と言える。そうでなくても入院と途中の杭州・蘇州・南京行と、上海での実動時間は限られていたのである。
更に、現在の知見によれば、芥川は5月14日には蘇州・南京への小旅行から上海に戻っている。そうして翌15日、この小旅行中に体調の不良を覚え、肋膜炎の再発を危ぶんだ彼は里見病院を受診しているのだが、そこでは全く問題ないと里美医師から太鼓判を押されて、大いにほっとしているのである。そうして5月17日の夜には漢口・北京に向けて芥川は上海を去っているのである。即ちこの5月16日の一日は、芥川龍之介最後の上海という特別な日であったのである。私が劇通の村田烏江であったなら、この別れに際して、芥川にとびっきりの京劇の名演鑑賞をセットしない方がおかしいというものではなかろうか!?
私はこの秦剛氏をシャーロック・ホームズに擬えたい気がするほど、この論文とのこの数日の付き合いが楽しいものとなった。謝謝、秦剛先生!
・「小翠花」は名花旦として知られた于連泉(本名桂森1900~1967)を指す。但し、正しい芸名は筱翠花(しょうすいか)である。幼い時に郭際湘(芸名水仙花)に師事し、芸名を「小牡丹花」と名乗った。特に花旦の蹻功(きょうこう:爪先立った歩き方の演技を言うと思われる)に優れていた。北京市戯曲研究所研究員を務め、晩年は中国戯曲学校で人材の育成に力を尽くした(以上の事蹟はこちらの個人の京劇サイトの「歴代の主な京劇俳優一覧」を参照させてもらった。筑摩版脚注は「于連泉」を「干」と誤記し、岩波版新全集注は筑摩版を踏襲して生年を1901年、没年不詳としている)。
・「名伶」中国語で名優の意。
・「天蟾舞臺」現在も京劇が上演される上海人民広場近くにある逸夫舞台の旧名。1912 年に建てられた歴史ある劇場。中国京劇界の名優の多くが、この舞台を踏んでおり、「天蟾の舞台を踏まなければ、有名にはなれぬ」といわれている名門劇場である。天蟾とは月光のこと。
・「村田君」既に「二 第一瞥(上)」で注したが、再掲しておくと、村田孜郎(むらたしろう ?~昭和20(1945)年)。大阪毎日新聞社記者で、当時は上海支局長。中国滞在中の芥川の世話役であった。烏江と号し、演劇関係に造詣が深く、大正8(1919)年刊の「支那劇と梅蘭芳」や「宋美齢」などの著作がある。後に東京日日新聞東亜課長・読売新聞東亜部長を歴任、上海で客死した。
・「アツカンサス」本来は双子葉植物綱ゴマノハグサ目キツネノマゴ科Acanthaceaeハアザミ属 Acanthusに属する植物の総称であるが、通常は観賞用に栽培されたAcanthus mollisを指す。ここは勿論、装飾文様とされたそれで、アザミに似た独特の葉形が古くギリシア以来、建築物や内装の装飾モチーフとされてきた。
・「天聲人語」これは、「天の声と人の言葉」という意味である。一般に、朝日新聞の有名なコラム「天声人語」は「天に声あり、人をして語らしむ」(命名者は東京朝日新聞の記者杉村楚人冠又は大阪朝日新聞記者西村天囚とする)と読み下され、中国の古典に由来する「民の声、庶民の声こそ天の声」の意であるとする。但し、ここで言う中国古典の典拠は不明とあるとされている。思うにこの語が劇場に貼られるのは、恐らく古代の芸能が祭祀であったからであろう。演じるということは神憑りすることであり、そこで発せられる俳優の人語は、同時に神の託宣であった。そのような芸能本来の神聖さを示すためのもの、芝居と観客の神人共感を招来するための護符と言ってもよいと思われる。
・「有樂座」明治41(1908)年に、現在の東京数寄屋橋付近にあった西洋風(初の全席椅子席)の高等演芸場有楽座のことで、当時の日本の新劇運動のメッカであった。因みにここは旧南町奉行所跡で、明治になって裁判所、次に陸軍練兵場となった、その跡地でもある。大正9(1920)年に帝劇に合併されたが、大正12年の関東大震災で焼失するまで、この地にあった。
・「蘇州銀行」岩波版新全集注解によると、芥川が来中する前年の1920年蘇州で創設された蘇州儲蓄銀行のことで、同年九月には上海支店が置かれたとする。しかしその後、1924年には『資本金が軍閥に流用されたため倒産』したとある。
・「三砲臺香烟即ちスリイ・キヤツスルズ」ヴァージニア種を代表する英国製煙草“Three Castles”の中国語の商標名。「香烟」は中国語で巻き煙草のこと。上海では高級煙草はこれと英国王室御用達の“Westminster”に占められていた。
・「姜維」(きょうい 202~264)は漢末から三国時代の武将。魏の出身であるが、後に蜀漢の軍師となった。「三国志演義」では馬遵(ばじゅん)配下の将として登場し、蜀漢の名軍師諸葛亮と丁々発止の戦略を交わし、勇猛な敵将趙雲と一騎打ちをして互角に戦う智将にして猛将、その美男から「天水の美将」と呼ばれた。その軍才を見込んだ諸葛亮は自身の後継者とするために、第一次北伐の際、奇計を用いて姜維を投降させた。諸葛亮の死後は蜀の最高軍事責任者に登りつめた。「三国志演義」では諸葛亮の後継者という印象を強く押し出しおり、仁義に厚い智将として描かれ、京劇でも一番人気のキャラクターの一人である。
・「武松」「水滸伝」や「金瓶梅」に登場する一種の侠客。「金瓶梅」では人食い虎を退治し都督となり、最後のシーンでは兄を殺した主人公ら西門慶・潘金蓮を小気味よく惨殺する。「水滸伝」では、その後に自首した彼が、巡り巡って憤怒から再び大量殺人を犯して逃亡する内に、魯智深ら梁山泊の仲間となっている。京劇では豪傑にして義人として描かれ、その立ち回りが人気のキャラクターである。
・「出方」芝居茶屋・相撲茶屋・劇場に所属して、客を座席に案内したり、飲食の世話や雑用をする人を言う。
・「武劇」京劇の二分類で、大立ち回りを見せ場とするものを言う。一般に歌と台詞は少ない。歌・しなやかな舞いや台詞を中心としたものを文劇と言う。]