確信的断定! 芥川龍之介聴劇於五月十六日!
出勤までの時間がない。手短に言う。
私は「九 戲臺(上)」の注で以下のように書いた。
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本篇や以下の「十 戲臺(下)」の記述から、秦氏は芥川龍之介はこの天蟾舞台で、
小翠花が演じた「梅龍鎭」
及び
蓋叫天が演じた「武松」
(やぶちゃん補注:正しくは武松の登場する「水滸伝」を素材とした
「全本武十回」
の内の
「醉奪快活林」
(写真版の広告を見ると「林」を「嶺」とある。ネットで調べると一般には「林」のようだが、「嶺」とするものもある。因みにこの演目については「十 戲臺(下)」の注で詳述するが、この「快活林」は宿屋に酒家を兼ねた店の名前である)
「血濺鴛鴦樓(けっせんえんおうろう)」
「大閙蜈蚣嶺(だいどうごしょうれい)」
の三場)
を観劇したと推定するのである。私もそれを肯んずる。
そこで秦氏はこの両演目を当時の新聞広告に依って再び調べるのである。すると1921年5月16日の「申報」の天蟾舞台の広告の当日番付に両演目が載っているのが見出されるのだ。芥川龍之介は本篇の冒頭で『上海では僅に二三度しか、芝居を見物する機會がなかつた』と言っている以上、本演目が組み合わされている日を秦氏が選ぶのは極めて至当と言える。そうでなくても入院と途中の杭州・蘇州・南京行と、上海での実動時間は限られていたのである。
更に、現在の知見によれば、芥川は5月14日には蘇州・南京への小旅行から上海に戻っている。そうして翌15日、この小旅行中に体調の不良を覚え、肋膜炎の再発を危ぶんだ彼は里見病院を受診しているのだが、そこでは全く問題ないと里美医師から太鼓判を押されて、大いにほっとしているのである。そうして5月17日の夜には漢口・北京に向けて芥川は上海を去っているのである。即ちこの5月16日の一日は、芥川龍之介最後の上海という特別な日であったのである。私が劇通の村田烏江であったなら、この別れに際して、芥川にとびっきりの京劇の名演鑑賞をセットしない方がおかしいというものではなかろうか!?
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気がついたのだ!――
昨夜打ち込みを終えた「上海游記」掉尾の「二十一 最後の一瞥」の掉尾――
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私は煙草の箱を出しに、間着(あひぎ)のポケツトヘ手を入れた。が、つかみ出したものは、黄色い埃及(エジプト)の箱ではない、先夜其處に入れ忘れた、支那の芝居の戲單(シイタン)である。と同時に戲單の中から、何かがほろりと床へ落ちた。何かが、――一瞬間の後、私は素枯れた白蘭花(パレエホオ)を拾ひ上げてゐた。白蘭花(パレエホオ)はちよいと嗅いで見たが、もう匂さへ殘つてゐない。花びらも褐色に變つてゐる。「白蘭花(パレエホオ)、白蘭花(パレエホオ)」さう云ふ花賣りの聲を聞いたのも、何時か追憶に過ぎなくなつた。この花が南國の美人の胸に、匂つてゐるのを眺めたのも、今では夢と同樣である。私は手輕な感傷癖に、墮し兼ねない危險を感じながら、素枯れた白蘭花(パレエホオ)を床へ投げた。さうして卷煙草へ火をつけると、立つ前に小島氏が贈つてくれた、メリイ・ストオプスの本を讀み始めた。
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これは芥川が上海に永遠に別れを告げる、
5月17日の夜
の記載である――僕はもう、これで充分だと思うのだ!――