上海游記 十三 鄭孝胥氏
十三 鄭孝胥氏
坊間(ぼうかん)に傳ふる所によれば、鄭孝胥(ていかうしよ)氏は悠悠と、清貧に處してゐるさうである。處が或曇天の午前、村田君や波多君と一しよに、門前へ自動車を乘りつけて見ると、その清貧に處してゐる家は、私の豫想よりもずつと立派な、鼠色に塗つた三階建だつた。門の内には庭續きらしい、やや黄ばんだ竹むらの前に、雪毬(せつきう)の花なぞが匂つてゐる。私もかう云ふ清貧ならば、何時身を處しても差支へない。
五分の後我我三人は、應接室に通されてゐた。此處は壁に懸けた軸の外に殆何も裝飾はない。が、マントル・ピイスの上には、左右一對の燒き物の花瓶に、小さな黄龍旗が尾を垂れてゐる。鄭蘇戡(ていそかん)先生は中華民國の政治家ぢやない、大清帝國の遺臣である。私はこの旗を眺めながら、誰かが氏を批評した「他人之退而不隱者殆不可同日論」とか云ふ、うろ覺えの一句を思ひ出した。
其處へ小肥りの青年が一人、足音もさせずにはいつて來た。これが日本に留學してゐた、氏の令息鄭垂(ていすゐ)氏である。氏と懇意な波多君は、すぐに私を紹介した。鄭垂氏は日本語に堪能だから、氏と話をする場合は、波多村田兩先生の通辭を煩はす必要はない。
鄭孝胥氏が我我の前に、背の高い姿を現はしたのは、それから間もなくの事だつた。氏は一見した所、老人に似合はず血色が好い。眼も殆青年のやうに、朗(ほがらか)な光を帶びてゐる。殊に胸を反らせた態度や、盛な手眞似(ジエスチユア)を交へる工合は、鄭垂氏よりも反つて若若しい。それが黑い馬掛兒(マアクワル)に、心もち藍の調子が勝つた、薄鼠(うすねずみ)の大掛兄(タアクワル)を着てゐる所は、さすがは昔年の才人だけに、如何にも氣が利いた風采である。いや、閑日月(かんじつげつ)に富んだ今さへ、かう潑溂としてゐるやうぢや、康有爲(かういうゐ)氏を中心とした、芝居のやうな戊戌(ぼじゆつ)の變に、花花しい役割を演じた頃には、どの位才氣煥發だつたか、想像する事も難くはない。
氏を加へた我我は、少時(しばらく)支那問題を談じ合つた。勿論私も臆面なしに、新借款團の成立以後、日本に對する支那の輿論はとか何とか、柄にもない事を辯じ立てた。――と云ふと甚不眞面目らしいが、その時は何も出たらめに、そんな事を饒舌(しやべ)つてゐたのではない。私自身では大眞面目に、自説を披露しゐゐたのである。が、今になつて考へて見ると、どうもその當時の私は、多少正氣ではなかつたらしい。尤もこの逆上の原因は、私の輕薄な根性の外にも、確に現代の支那その物が、一半の責を負ふべきものである。もし譃だと思つたら、誰でも支那へ行つて見るが好い。必一月とゐる内には、妙に政治を論じたい氣がして來る。あれは現代の支那の空氣が、二十年來の政治問題を孕んでゐるからに相違ない。私の如きは御丁寧にも、江南一帶を經めぐる間、容易にこの熱がさめなかつた。さうして誰も賴まないのに、藝術なぞよりは數段下等な政治の事ばかり考へてゐた。
鄭孝胥氏は政治的には、現代の支那に絶望してゐた。支那は共和に執(しふ)する限り、永久に混亂は免れ得ない。が、王政を行ふとしても、當面の難局を切り拔けるには、英雄の出現を待つばかりである。その英雄も現代では、同時に又利害の錯綜した國際關係に處さなければならぬ。して見れば英雄の出現を待つのは、奇跡の出現を待つものである。
そんな話をしてゐる内に、私が卷煙草を啣(くは)へると、氏はすぐに立上つて、燐寸(マツチ)の火をそれへ移してくれた。私は大いに恐縮しながら、どうも客を遇する事は、隣國の君子に比べると、日本人が一番拙(せつ)らしいと思つた。
紅茶の御馳走になつた後、我我は氏に案内されて、家の後にある廣庭(ひろには)へ出て見た。庭は綺麗な芝原のまはりに、氏が日本から取り寄せた櫻や、幹の白い松が植わつてゐる。その向うにもう一つ、同じやうな鼠色の三階建があると思つたら、それは近頃建てたとか云ふ、鄭垂氏一家の住居だつた。私はこの庭を歩きながら、一むらの竹の秋の上に、やつと雲切れのした青空を眺めた。さうしてもう一度、これならば私も清貧に處したいと思つた。
此原稿を書いて居る時、丁度表具屋から私の所へ、一本の軸が屆いて來た。軸は二度目に訪問した時、氏が私に書いてくれた七言絶句を仕立てたのである。「夢奠何如史事強。呉興題識遜元章。延平劒合誇神異。合浦珠還好祕藏」さう云ふ字が飛舞(ひぶ)するやうに墨痕を走らせてゐるのを見ると、氏と相對(あひたい)してゐた何分かは、やはり未に懷しい氣がする。私はその何分かの間(あひだ)、獨り前朝(ぜんてう)の遺臣たる名士と相對してゐたのみではない。又實に支那近代の詩宗(しそう)、海藏樓(かいざうろう)詩集の著者の謦咳に接してゐたのである。
[やぶちゃん注:鄭孝胥(Zhèng Xiàoxū ヂョン シアオシュー 1860~1938)は清末の1924年総理内務府大臣就任(最早、清滅亡を眼前にして有名無実の職であったが、失意の溥儀によく尽くし、後、満州国にあってもその誠心を貫いた)、後、満州国国務院総理(首相)となった。詩人・書家としても知られる。ウィキの「鄭孝胥」によれば、1932年の『満州国建国に際しても溥儀と一緒に満州入りし』、1934年、初代国務院総理となったが、『「我が国はいつまでも子供ではない」と実権を握る関東軍を批判する発言を行ったことから』1935年辞任に追い込まれた。
・「坊間」巷間。世間。ちまた。
・「雪毬」バラ目バラ科シモツケ亜科シモツケ属コデマリSpiraea cantoniensisのこと。本邦の北国では「雪毬花」と呼称する。
・「黄龍旗」清朝の国旗。黄色の地に竜を描いたもので、中国史にあって最初の「国旗」である。
・「鄭蘇戡」鄭孝胥の号。
・『「他人之退而不隱者殆不可同日論」』書き下すと、「他人の退きて隱れざる者、殆ど同日に論ずべからず」で、意味は、「清帝国の遺臣でありながら、中華民国の時代になっても、隠棲もせず、政治の表舞台に厚顔無恥に残っている輩は、清貧の鄭孝胥氏と同列に論ずること自体が不可能である」の意。
・「鄭垂」満州国へと向かった溥儀に従ったのは、鄭孝胥とその長男であった彼だけであったと伝える。後、1932年、初の日満合弁事業として計画された満洲航空会社の社長となった。彼は当時の岡本天津総領事に最初に満蒙独立の構想を持ち掛けた人物ともされる。
・「波多君」は「五 病院」に登場する「上海東方通信社の波多博」のこと。同注参照。
・「馬掛兒(マアクワル)」“măguàér”日本の羽織に相当する上衣で対襟。筑摩版脚注では「掛」は「褂」が正しいとある。
・「大掛兒(タアクワル)」“tàiguàér”男物の単衣(ひとえ)の裾が足首まである長い中国服のこと。前注参照。
・「閑日月」ひまな時、用事のない月日の意であるが、それに、あくせくしない心、余裕に満ちた心の意も利かせている。
・「康有爲」(Kāng Yŏuwéi カン ヨウウェイ 1858~1927)は清末から中華民国初期の思想家・政治家・書家。イギリス・フランス・日本の列強に敗れた清の再建に向けて、西洋的な政治機構への改革と経済の近代資本主義化を目指した変法自強運動を梁啓超(りょうけいちょう)や譚嗣同(たんしどう)らと共に急速に推し進めたが、西太后を中心とする保守派によるクーデター「戊戌(ぼじゅつ)の政変」が起き、光緒帝は紫禁城内に幽閉され、彼と梁啓超は日本へ亡命、譚嗣同らは処刑されてしまう。1911年の辛亥革命により帰国して立憲君主制による清朝再興を訴えたが、既に時代遅れのその発想は急速に支持を失い、既にこの芥川の鄭孝胥との会見時には過去の人となっていた。
・「戊戌の變」は「戊戌の政変」又は「百日維新」とも。1898年の新暦6月11日からの凡そ100日間、西太后が栄禄・袁世凱らとともに起した反変法クーデタ。前注参照。
・「花花しい役割を演じた」1898年、変法自強運動を鼓吹した「時務報」主筆を梁啓超が辞任した後、鄭孝胥が引き受けており、中国人に近代知識と日本語を教授する目的で創立された私立学校東文学社等との関係もその日記から伺える(樽本照雄「鄭孝胥日記に見る長尾雨山と商務印書館(3)」等による)。
・「新借款團の成立」日本は1915年の対華二十一箇条要求や1億7700万円に登った西原借款等で中国への経済進出を図ったが、これを阻止しようとアメリカはイギリス・フランス・日本の四国の銀行による新借款団の設置を訴え、1920年に新四国借款団が成立した(1910年に組織された英米仏独の四国借款団に対する呼称)。因みにこれによって日本は独占的な利益獲得の好機を逸したものの、逆に欧米との良好な経済関係を作り、結果として外国資本の対日投資を促進させることに成功した。
・「二十年來の政治問題」清末から中華民国初期にかけての政変が齎した混乱と思潮の分立を言う。中国の近代化と立憲君主制を目指した変法自強運動の急激な変革、戊戌のクーデタによる反動、そこに端を発した辛亥革命と清の滅亡、三民主義を掲げた孫文の民主主義革命と袁世凱の北洋軍閥によるその挫折、1913年の宋教仁暗殺に始まる第二革命の鎮圧を経て、1917年から1918年にかけての孫文・広東軍政府による北京政府への護法運動の内戦(一連の事件を含めて第三革命とも)といった有為転変激しい政治シーンを指す。
・「幹の白い松」恐らく裸子植物門マツ亜門マツ綱マツ亜綱マツ目マツ科マツ属シロマツPinus bungeanaと思われる。「白松(はくしょう)」「白皮松」とも言い、中国中部から北西部原産。針葉が三本で一組。成長が遅く、現在は希少種。
・『「夢奠何如史事強。呉興題識遜元章。延平劒合誇神異。合浦珠還好祕藏」』句点を省いて書き下せば、
○やぶちゃんの書き下し文
夢奠(むてん) 何如(いかん)ぞ史事の強
呉興の題識 元章に遜(ゆづ)らん
延平の劒(けん) 合して神異を誇らんとし
合浦(がつぽ)の珠(しゆ) 還りて祕藏するに好からん
非力ながらオリジナルに訳して見ると、
○やぶちゃんの現代語訳
私が夢のように思い描いている理想――清朝の再興――それは、歴史の上の事実とは容易には成り得ないものであろうか……
宋の世、呉に住んだかの大家米元章は、古き栄誉に満ちた呉の復興を願う書を記している――勿論、小生は元章の足もとにも及ぶものではないが……
福建延平に纏わるエピソード、二つで一つの干将と莫邪の名剣は必ず一緒になってその計り知れぬ神異を誇るもの――皇帝と家臣とは、遂に正しくそのようなものであるはずである……
名立たる広東合浦産の上品な真珠、それはそれは美しい宝、それはまた大事に大事に秘かに暖めておくのがいい――その真珠のような私の内なる清朝復興の秘かな思い、それもまた胸の内にそっと大切にしまっておくのがいい……
といった感じか。訳に誤りがあるとなれば、御教授を乞う。「呉」は現在の上海を含む江南地方。「米元章」(本名 米芾(べいふつ 1051~1107年 生没年異説あり)は、北宋末の文人。蔡襄・蘇軾・黄庭堅とともに「宋四大家」の一人。名書家で、骨董・奇岩怪石蒐集でも有名であったから、書画を愛した鄭孝胥は同様な趣味人・文士としてもここに彼の名を挙げたものであろう。さて、「延平の劒」の延平は福建省南市延平であるが、ここは「晉書」の「巻三十六 列傳第六」の張華の伝に載る以下の話を元としていると思われる。非常に長くなるが、この注の後に原文・書き下し文・現代語訳を附した(★以下★迄)。因みに福建省は古来から現在に至るまで、優れた思想家を輩出した地であった。この芥川の記した後のことながら、中華人民共和国以降の著名人もまた、多い地である。なお筑摩版全集類聚の訳は明らかに「延平の劒」の部分を誤訳している。更に――神田由美子氏の岩波新全集注解では一言、『未詳。』とあるだけ――一体、こんな注解なら、「注」の項目として挙げぬがよかろう。そうは思わぬか?
★では、満を持して、「延平の劒」に因む「晉書」に現れる干将と莫邪の名剣のエピソードの原典を読もう。原文は中文の歴史傳記 「中華文化網」[繁體中文版] 呉恆昇編校の「晉書 卷三一至四十 列傳第一至十」のテクストを使用したが、意味をとりやすいように一部の漢字及び記号を変更・削除した。
呉之未滅也、斗牛之間常有紫氣、道術者皆以呉方強盛、未可圖也。惟華以爲不然。及呉平之後、紫氣愈明。華聞豫章人雷煥妙達緯象、乃要煥宿、屏人曰「可共尋天文、知將來吉凶。」因登樓仰觀。煥曰、「僕察之久矣。惟斗牛之間頗有異氣。」華曰、「是何祥也。」煥曰、「寶劍之精、上徹於天耳。」華曰、「君言得之。吾少時有相者言、吾年出六十、位登三事、當得寶劍佩之。斯言豈效與。」因問曰、「在何郡。」煥曰、「在豫章豐城。」華曰、「欲掘君爲宰、密共尋之。可乎。」煥許之。華大喜、即補煥爲豐城令。煥到縣、掘獄屋基、入地四丈餘、得一石函。光氣非常、中有雙劍、並刻題、一曰龍泉、一曰太阿。其夕、斗牛間氣不復見焉。煥以南昌西山北巖下土以拭劍、光芒艷發。大盆盛水、置劍其上、視之者精芒炫目。遣使送一劍并土與華、留一自佩。或謂煥曰、「得兩送一、張公豈可欺乎。」煥曰、「本朝將亂、張公當受其禍。此劍當繫徐君墓樹耳。靈異之物、終當化去、不永爲人服也。」華得劍、寶愛之、常置坐側。華以南昌土不如華陰赤土、報煥書曰、「詳觀劍文、乃干將也、莫邪何復不至。雖然、天生神物、終當合耳。」因以華陰土一斤致煥。煥更以拭劍、倍益精明。華誅、失劍所在。煥卒、子華爲州從事、持劍行經延平津、劍忽於腰間躍出墮水。使人沒水取之、不見劍、但見兩龍各長數丈、蟠縈有文章、沒者懼而反。須臾光彩照水、波浪驚沸、於是失劍。華歎曰、「先君化去之言、張公終合之論、此其驗乎。」華之博物多此類、不可詳載焉。
○やぶちゃんの書き下し文
呉の未だ滅びざるや、斗牛の間、常に紫氣有りて、道術者、皆、呉を以て方に強盛とし、未だ圖るべからざるなり、と。惟だ華のみ以爲らく、然らず、と。呉、平げられし後に及ぶも、紫氣、愈々明なり。華、豫章人雷煥、緯象に妙達せるを聞き、乃ち煥を要(もと)めて宿せしめ、人を屏(しりぞ)けて曰く、「共に天文を尋ぬべし、吉凶の將來を知らん。」と。因りて樓に登り仰ぎ觀る。煥曰く、「僕、之の久しきを察す。惟だ斗牛の間、頗る異氣有るのみ。」と。華曰く、「是れ何の祥や。」と。煥曰く、「寶劍の精、上りて天に徹すのみ。」と。華曰く、「君の言、之を得たり。吾少(わか)き時、相者の言有り、吾、年六十出づれば、位、三事に登り、當に寶劍を得て之を佩くべし、と。斯(か)の言、豈に效(いた)すや。」と。因りて問ひて曰く、「何くの郡にか在る。」と。煥曰く、「豫章の豐城に在り。」と。華曰く、「君、宰の爲に、密かに共(むか)ひて之を尋ね掘せんことを欲す。可ならんか。」と。煥、之を許す。華、大いに喜び、即ち煥を補して豐城の令と爲す。煥、縣に到り、獄屋の基を掘るに、地に入ること四丈餘、一石函を得。光氣、常に非ずして、中に雙劍有り、並びに題を刻むに、一に曰く「龍泉」、一に曰く「太阿」たり。其の夕べ、斗牛の間、氣、復た見ず。煥、南昌の西山が北巖の下の土を以て劍を拭ふを以ってせば、光芒艷發たり。大盆の水を盛りたるに、其の上に劍を置けば、之を視る者、精芒、目を炫(くら)ませり。使を遣はして一劍并にび土與(とも)に華に送りて、一を留めて自ら佩く。或ひと煥に謂ひて曰く、「兩を得て一を送る、張公豈に欺くべけんや。」と。煥曰く、「本朝將に亂れ、張公當に其の禍を受くべし。此の劍、當に徐君が墓の樹に繫がんとするのみ。靈異の物、終に當に化して去るべし、人の、爲に服すること、永からざるなり。」と。華、劍を得、寶として之を愛し、常に坐の側に置けり。華、南昌の土を以て華陰の赤土に如かずとし、煥に報じて書して曰く、『詳しく劍文を觀るに、乃ち「干將」なり、「莫邪(ばくや)」何ぞ復た至らざる。然ると雖も、天生の神物、終に當に合すべきのみなるに。』と。因りて華は陰土一斤を以て煥に致す。煥、更に劍を拭ふに以てせば、精明、倍益す。華、誅せられて、劍が所在を失す。煥、卒して、子、華、州從事と爲り、劍を持して行き、延平の津を經るに、劍忽ち腰間より躍り出でて水に墮つ。人をして水に沒せしめて之を取らしむるに、劍見えず、但だ、兩龍の各々長さ數丈なる、蟠縈(ばんえい)して有る文章(もんしやう)を見れば、沒せる者、懼れて反(かへ)る。須臾(しゆゆ)にして、光彩、水を照らし、波浪、驚沸して、是に於いて劍を失せり。華、歎じて曰く、「先君の『化して去る』の言、張公が終合の論、此れ其の驗なるか。」と。華の博物に多なること此の類なるも、詳載すべからざるなり。
○やぶちゃんの現代語訳(推測して大きく補った部分を丸括弧で示し、一部の間接話法を直接話法に翻案してある)
未だ呉が滅亡する前の話である。夜、空を見上げると、南斗と牽牛の星の間に、常に紫の雲気が漂っている。晉の道士達はこれを占うに皆、呉は正に強く盛んな運気の中にあり、攻略するには相応しくないでしょうと武帝司馬炎に進言した。ところが(博物学者であり司空であった)張華だけは、(星間の異常現象は呉の運勢とは無関係であるとして)そうではない、ときっぱりと述べた。
(時に晋の武帝は呉を攻め、見事、三国は統一されたが、)その呉が平定されてから後に至っても、張華の言った通り、星間の紫の雲気は愈々明るくなるばかりであった。そこで、この現象に興味を持った張華は、予章の人であった雷煥が天体現象とその意味に精通していると聞いて、雷煥を自分の屋敷に招待し、一夜泊まらせると、人払いをした後、
「これから共に天文現象を観察して、未来のあらゆる吉凶を知ろうではないか。」
と持ち掛けて、楼台に登って夜空を仰ぎ見た。(張華は黙っていたが、その真意を察した)雷煥は、
「私めは、この現象は以前からずっと存じておりました。これはただ南斗と牽牛の星間に極めて特異的な雲気があるという事実に過ぎません。」
と言う。張華はすかさず、
「(私は、この現象は呉の運勢とは無縁であると推察出来はしたものの、その実、真意が分らぬのだ。)これは如何なる兆しであろうか?」
と訊ねた。しかし雷煥は、あっさりと述べた。
「(未来の吉凶とは無縁なのです。)ただ名宝たる剣の精気がこの地上から立ち上って天空に到達しているというだけのことなのです。」
それを聞いた張華は、
「君の今の言葉で、私は大いに納得した。実は、私が幼少の折、ある人相見が占うに、私が六十歳を越えれば、その地位は三公に登り、世にも稀な名剣を手に入れて、腰に佩くに違いない、といわれたのだ。(私は既に三公の司空となっている。)これこそ、あの予言が正しかったことの現われだ!」
と喜んだ。そして、即座に雷煥に訊ねた。
「その剣は一体、どこの地にあるのか?」
「予章郡の豊城県に存在します。」
張華は間髪を入れず、雷煥に言った。
「君、私のために、どうか秘かにその宝剣を探し、恐らく何処かの地に埋もれているそれを発掘して来て欲しいのだ、よろしいか?」
雷煥はこれを請け合った。張華は大層喜び、(司空の地位を利用して)直ちに雷煥を豊城の県令に任命した。
雷煥は豊城県に到着すると、(そこで実測を始め、そこで得られた事実から遂に埋蔵箇所を同定した。そこは実に県令所有の獄舎の下であった。そこでその)獄舎をすべて取り壊し、その基礎部分を掘ってみたところ、地下四丈(:当時の度量衡で約9.6m。)程のところで、一基の石棺を得た。その石棺自体が光を放っており、その光も尋常のものではない。恐る恐る蓋を開けてみると、中には二振りの剣があって、双方にはそれぞれ銘が刻まれており、一つには「龍泉」、一には「太阿」とあった。
その出土した日の暮れ方、雷煥が空を見上げると、既に南斗と牽牛の星の間の紫の雲気はもう見えなくなくなっていたのであった。
雷煥が、(事前に取り寄せていた)湖南の南昌にある西山北麓の岩盤の下から産した土で剣を拭ってみたところが、触れずとも切れんばかりの鋭い光芒を発するようになった。(真っ暗にした部屋で)大きな盆に水を張り、その盆の上に静かに抜き身の剣を置くと、その輝きたるや、見る者の眼を一瞬にして眩ませてしまう。
雷煥は使者を送って、一振りを南昌の土と一緒に張華に送り、一振りは自分で佩いた。ある人が、
「二振りを得たのに一振りだけを送ったのでは、張華様を欺いたことになりませぬか?」
と進言した。ところが雷煥は、
「――晋朝は今にも乱れんとしている。――思うに張華様は、残念ながら、その禍いを受けぬわけには行かぬであろう。――この剣を私が持つ所以は、丁度、あの呉の季札(きさつ)が、後に徐君(じょくん)の墓の樹に自分の剣を結びつけた故事に擬えんとするためだけのものである。――霊異なる存在というものは、畢竟、姿を化して去ってしまうものであり、永く人の手に従うものでは、ないのじゃ――」
と答えたのであった。
さて、張華は一振りの剣を得、名宝としてこれを愛し、常に傍らに置いていた。張華は、剣を磨くには、雷煥が添えた南昌の土では華陰の赤土の良さに及ばぬことを経験から知っており、そのことを雷煥に手紙で知らせたが、その書信の中には、
『詳らかに剣に刻印された銘を調べてみると、これは正にかの伝説で名刀「干将」と呼ばれる剣そのものである。だとすれば妻の化身たるもう一振りの名刀「莫邪」に相当するものは、どうしてまた、私の元へとやって来ないのであろう? この二物は一時的に分かれていたとしても、天が生み出した神聖なる存在は、究極に於いては必ずや合体する以外にはないはずであるのに――』
という疑義を記していた。――
その後すぐに張華は華陰の土一斤(:当時の度量衡で約200g強。)を雷煥に送って寄越したのであった。――(即ち、張華は雷煥が二振りの剣を発掘し、一方の剣を所持していることを見抜いていたのであった。そうしてそれが決して雷煥のさもしい物欲に発したものでないことも恐らく見抜いていたのであった。――)
雷煥がその張華の送ってくれた華陰の土をもって「莫邪」の剣を拭ってみたところ、剣の輝きはそれこそ、増して倍以上になったのであった。――
(後、張華は八王の乱(:西暦300年の晋滅亡の端緒となった皇族間の内乱。)に巻き込まれて捕らえられて一族皆殺しにされてしまった。一説には、司馬倫の起こした謀反に加わることを拒んだためとも言われる。)
張華が誅殺されると同時に、名剣「干将」の所在は不明となった。
後、雷煥が亡くなったが、その子の雷華は更に州従事に任命されて、父の遺品である剣を佩き、州府へと向かっていた。丁度、延平の渡しを渡っている時であった。剣が生き物のように忽然と抜き身となって腰から躍り出てかと思うと、水中に落ちた。慌てた雷華は人を水中に潜らせて取り戻そうとしたのであるが、(すっかり疲れ切って戻ったその者は、荒い息の中で)次のように雷華に告げた。
「剣は遂に見つかりませなんだ――ただ――川底に――各々、長さ凡そ数丈(:当時の度量衡から推測して十数メートルから二十メートル。)に亙る二匹の龍、その龍が互いに絡まりあっている紋様が――その川底に、あったので御座います!――それを見て儂は、すっかり恐くなって慌てた拍子に息も呑んでしまい、命からがら引き返して参りました!……」
――やがてすぐに、水面の下からまばゆい色とりどりの光彩が目くるめく照射され出し、あたかも水が沸騰するかのように激しい波浪が沸き起こった――こうして剣は失われたのであった――雷華は深く感じて言った。
「聞いていた二本の剣に纏わる話――昔、父上がいつかこの剣は『化して去ってしまう』であろうとおっしゃったという話、また、張華様がこの二本の剣が、畢竟、合体しないではおらぬと書信で論ぜられたという、あの話、ああ! それこそがこのことの予言であったのか!」
張華の博物について図抜けた智を持っていたことは、例えばこのような話からもその一端は分かるであろうが、その広大無辺な知識について総てを詳述することは不可能と言うべきである。
こちらも訳に誤りがあるとなれば、御教授を乞う。ここに登場する張華は「博物志」の著者として知られる晉の武帝司馬炎に仕えた政治家にして学者である。また「干将」は呉の伝説的刀匠の名で、「莫邪」の方はその妻の名である。「捜神記」によれば、干将は楚王の命で二振りの剣を鍛え上げるが、完成が遅かったことを理由に二人は楚王に殺されてしまう。その遺児の赤(通称眉間尺)は父母の復讐のために姦計を巡らして、自らの首を断つ。最後にはその首が楚王の首と一緒になって、煮えたぎる鍋の中でグツグツと煮える――という、なかなかクる話、私の大好きな話しなのであるが、これ以上やると「上海游記」の注が大脱線しまくりの飴のように延びたものになってしまうので、涙を呑んで読者の御探求の宿題と致そう。また、雷煥の話に出てくる季札挂剣の話は、「史記」等に載る話である。呉王の子季札が父親の命により、有力な他国へと使者として赴く途中、北の地で同年輩の徐君(徐国の王)に逢った。親しくなった二人であったが、徐君は李札の佩く剣が殊の外気に入った。しかし、それを口にすることはなく、また李札もその意を汲みながらも、使者としての公務に佩刀は必須、公務の終えた帰路徐君に譲らんとして、その折がやってきた。ところが訪ねた時、徐君は既に帰らぬ人なっていた。――季札乃ち其の宝剣を解き、徐君の冢(つか)の樹に懸けて去る。従者曰く、「徐君已に死す、尚ほ誰(たれ)にか予(あた)ふるや。」と。季子曰く、「然らず。始め吾、心に已に之を許す。豈に死を以て吾が心に倍(そむ)かんや」と。――従者に向かって季子は答えて言った。「そうではない。よいか? 人と人との『信』というものは、そういうものではないのだ。最初から私は心のなかで、任務さえ終えたなら、この宝剣を徐君に差し上げようと決めていた。どうして死如きを以って、私のこの『信』の心に背くことが出来ようか、いや出来ぬ。」――★
・「詩宗」すぐれた詩人の敬称。
・「海藏樓詩集」鄭孝胥の詩集。13巻1043首。「海藏樓」は彼の室名。]
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