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2009/07/31

遂にきました後遺症

軟骨部の術後関節症という医者の見立てである。――フン! そうかい――

残る二章が手強い

「北京日記抄」の残りは2章、これを以って芥川龍之介の『支那游記』全巻を完了出来るのであるが、実は、残りの2章分がなかなか手強(ごわ)いのである。

「四 胡蝶夢」は戯聴の段、まず以って注が京劇役者の名鑑になる。現在、注項目として抽出した数58項目。朝の6時から始めて未だ20項目しか完成していない。

「五 名勝」は芥川の中国旅行尻(ケツ)捲くりの名所捲くりで、注項目として抽出しただけで57項目に及んでいる。

今日まで順調に公開してきたが、この最後の二歩前進が牛歩となりそうな予感である。

(更に、実はこの一週間程、この4年間感じたことのなかった違和感を右腕首から先に感じている。どうも具合が悪いのである。)

どうか、気長にお待ちあれ。

北京日記抄 三 十刹海

       三 十刹海

 

 中野好漢君の私を案内してくれたるものは北海の如き、萬壽山(まんじゆざん)の如き、或は又天壇(てんだん)の如き、誰も見物するもののみにあらず。文天祥祠(ぶんてんしやうし)も、楊椒山(さうせうざん)の故宅も、白雲觀も、永樂大鐘(えいらくだいしよう)(この大鐘は半ば土中に埋まり、事實上の共同便所に用ゐられつゝあり。)悉(ことごとく)中野君の案内を待つて一見するを得しものなり。されど最も面白かりしは今日中野君と行つて見たる十刹海(じつさつかい)の遊園なるべし。

 尤も遊園とは言ふものの、庭の出來てゐる次第にはあらず。只大きい蓮池のまはりに葭簾張(よしずば)りの掛茶屋(かけぢやや)のあるだけなり。茶屋の外(ほか)には針鼠だの大蝙蝠だのの看板を出した見世物小屋も一軒ありしやうに記憶す。僕等はかう言ふ掛茶屋にはいり、中野君は玫瑰露(まいくわいろ)の杯(さかづき)を嘗め、僕は支那茶を啜りつつ、二時間ばかり坐つてゐたり。何がそんなに面白かりしと言へば、別に何事もあつた訣にはあらず、只人を見るのが面白かりしだけなり。

 蓮花は未だ開かざれど、岸をめぐれる槐柳(くわいりう)のかげや前後の掛茶屋ゐる人を見れば、水煙管(みづぎせる)を啣へたる老爺あり、雙孖髻(さうじけつ)に結へる少女あり、兵卒と話してゐる道士あり、杏賣りを値切つてゐる婆さんあり、人丹(仁丹にあらず)賣りあり、巡査あり、背廣を着た年少の紳士あり、滿洲旗人(まんしうきじん)の細君あり、――と數へ上げれば際限なけれど、兎に角支那の浮世繪の中にゐる心ちありと思ふべし。殊に旗人の細君は黑い布か紙にて造りたる髷とも冠ともつかぬものを頂き、頰にまるまると紅をさしたるさま、古風なること言ふべからず。その互にお時儀をするや、膝をかがめて腰をかがめず、右手をまつ直に地へ下げるは奇體にも優雅の趣ありと言ふべし。成程これでは觀菊の御宴(ぎよえん)に日本の官女を見たるロテイも不思議の魅力を感ぜしならん。僕は實際旗人の細君にちよつと滿洲流のお時儀をし、「今日は」と言ひたき誘惑を受けたり。但しこの誘惑に從はざりしは少くとも中野君の幸福なりしならん。僕等のはひりし掛茶屋を見るも、まん中に一本の丸太を渡し、男女は斷じて同席することを許さず。女の子をつれたる親父などは女の子だけを向う側に置き、自分はこちら側に坐りながら、丸太越しに菓子などを食はせてゐたり。この分にては僕も敬服の餘り、旗人の細君にお時儀をしたとすれば、忽ち風俗壞亂罪に問はれ、警察か何かへ送られしならん。まことに支那人の形式主義も徹底したものと稱すべし。

 僕、この事を中野君に話せば、中野君、一息に玫瑰露を飮み干し、扨(さて)徐に語つて曰、「そりや驚くべきものですよ。環城鐵道と言ふのがあるでせう。ええ、城壁のまはりを通つてゐる汽車です。あの鐵道を拵へる時などには線路の一部が城内を通る、それでは環城にならんと言つて、わざわざ其處だけは城壁の中へもう一つ城壁を築いたですからですね。兎に角大した形式主義ですよ。」

 

[やぶちゃん注:十刹海は「什刹海」「河沿」とも言い、北海公園の北、地安門外の西側に広がる湖。蓮の名所として知られる。周囲には古刹が点在する。

・「北海」清代に作られた北海公園にある湖。現在は北海・西海に先の十刹海(前海)と積水潭(後海)を加えて北海公園と呼称している。総面積約400,000㎡(水面面積340,000㎡)。北京の有数の景勝地で、有名人の故宅等の旧跡が多い。なお、後掲「五 名勝」参照。芥川のここへの言及がある。

・「萬壽山」北京の西北西郊外にある山。標高約60m。麓の昆明池の湖畔に沿って、1750年に乾隆帝が母の万寿を祝って築造した離宮があったが、アロー戦争末の1860年に英仏連合軍によって焼き払われた。後に西太后が改修、頤和園(いわえん)と名付けた。なお、後掲「五 名勝」参照。同前。

・「天壇」現在の北京市崇文区にある史跡。明・清代の皇帝が、冬至の時に豊穣を天帝に祈念した祭壇。敷地面積約2,730,000m²。祭祀を行った圜丘壇(かんきゅうだん)は大理石で出来た円檀で、天安門や紫禁城とともに北京のシンボル的存在である。ここにあった祈年殿は、1889年に落雷により一度消失したが、1906年に再建されている(以上はウィキの「天壇」を参照した)。なお、後掲「五 名勝」参照。同前。

・「文天祥祠」現在の北京市東城区府学胡同にある文天祥を祀った社。以下に示すように元代の刑場であった。文天祥(12361283)は南宋末期の文官。弱冠にして科挙に首席で登第して後に丞相となったが、元(モンゴル)の侵攻に対して激しく抵抗した。以下、ウィキの「文天祥」から引用する。『各地でゲリラ活動を行い2年以上抵抗を続けたが、1278年に遂に捕らえられ、大都(北京)へと連行され』た。獄中にあって『宋の残党軍への降伏文書を書くことを求められるが『過零丁洋』の詩を送って断った。この詩は「死なない人間はいない。忠誠を尽くして歴史を光照らしているのだ。」と言うような内容である。宋が完全に滅んだ後もその才能を惜しんでクビライより何度も勧誘を受け』たが、そこで彼は有名な「正気の歌(せいきのうた)」(リンクはウィキソースの現代語訳附きの「正気の歌」)を詠んで、宋への断固たる忠節を示した。『何度も断られたクビライだが、文天祥を殺すことには踏み切れなかった。朝廷でも文天祥の人気は高く、隠遁することを条件に釈放してはとの意見も出され、クビライもその気になりかけた。しかし文天祥が生きていることで各地の元に対する反乱が活発化していることが判り、やむなく文天祥の死刑を決めた。文天祥は捕らえられた直後から一貫して死を望んでおり、1282年、南(南宋の方角)に向かって拝して刑を受けた。享年47。クビライは文天祥のことを「真の男子なり」と評したという。刑場跡には後に「文丞相祠」と言う祠が建てられた。』『文天祥は忠臣の鑑として後世に称えられ』、本邦でも『幕末の志士たちに愛謡され、藤田東湖・吉田松陰、日露戦争時の広瀬武夫などはそれぞれ自作の『正気の歌』を作っている。』。なお、後掲「五 名勝」参照。同前。

・「楊椒山の故宅」現在の北京市宣武区達智橋胡同にある楊椒山の旧居。松筠庵(しょういんあん)とも言う。本名は楊継盛(15161555)で、椒山は号。明代の忠臣。現地の解説プレートには『権臣の厳嵩が人民を苦しめていたことに対し、「請誅賊臣書」を上書し厳嵩の「五奸十大罪」を指摘したため嘉靖34年に厳嵩により処刑された。年わずか40歳。その後1787年にここは楊椒山祠と改められる。1895年清政府が屈辱的な下関条約を締結した時、康有為ら200人余りが松筠庵に集まり、国土割譲と賠償に反対し変法維新を求めた。すなわち中国近代史上有名な「公車上書」である。』という記載があると、個人ブログ「北京で勇気十足」氏の「北京 散歩 長椿街、宣武門外大街 后孫公園胡同の安徽会館」にある。なお、後掲「五 名勝」参照。同前。

・「白雲觀」現在の北京西城区白雲路にある道教の総本山。739年の創建で原名は天長観と言ったが、1203年に大極宮と改名。1220年代に元の太祖チンギス・ハンが道士丘処机(11481227)に全土の道教の総括を命じ、彼は大極宮住持に任命され、長春子と号した。1227年、死去した丘を記念して長春宮と改名されている。以後、戦火によって損壊するが、15世紀初頭、明によって重修され、現在の規模となって名も白雲観と改められた。総面積は10,000m²を越える(以上は真下亨氏の「白雲観」のページを参照した)。なお、後掲「五 名勝」参照。同前。

・「永樂大鐘」「中国百科」の「永楽大鐘は45キロ先まで響き渡る」によれば、『北京にある大鐘寺には、永楽大鐘と名づけられた大きな鐘がある。この鐘は、重さ46.5トン、高さ6.75メートル、直径3.3メートルある。永楽大鐘には、すでに500年あまりの歴史がある。永楽大鐘は、地面に穴を掘って造型し、表面は陶製の鋳型を使って鋳造されたものである。鋳造の時数十の溶鉱炉が同時に稼働し、溶けた銅を溝にそって陶製の鋳型に注いで作るというもので、とても巧妙な作り方である。』『永楽大鐘の音は耳に快いものである。専門家の実験で、鐘の音が振動する頻度は音楽での標準頻度と同じか近いことが判明した。軽くたたくと、滑らかに響き、力を入れてたたくと、大きく優雅に響く、もっとも遠くまで響く場合は45キロも離れたところに伝わり、2分間以上も続く。』『毎年新年になると、永楽大鐘が鳴らされる。この鐘は、もう500年以上の歴史があり、今なおすばらしい音を響かせる。中国の科学専門家が、鐘の合金について研究した結果、永楽大鐘には銅、錫、鉛、鉄、マグネシウムのほか、金と銀の含有量も高くて、それぞれ金が18.6キロで、銀が38キロあった。専門家の分析では、銅器に金が入れると、さびどめになり、銀を入れると流し込み液の流動性が高くなるとのことである。これが、永楽大鐘が500年以上も良好なまま、美しい音色を響かせる原因である。』『外国の専門家は、「永楽大鐘の鋳造のすばらしさは、世界鋳造史上の奇跡である。科学が発達している現在でも、永楽大鐘のような鐘はなかなか作ることはできない」と話してい』る記す。現在、ここまで評価される重宝の名鐘が『半ば土中に埋まり、事實上の共同便所に用ゐられつゝあ』ったというのである――これは芥川の嘘なのか? と思うのは私だけか?

・「玫瑰露」恐らくバラから抽出した精油を含んだ酒のことと思われる。

・「支那茶」厳密な意味では違うようだが、ここで彼が言うのは烏龍茶のことであろう。

・「槐柳」槐(えんじゅ)と柳。槐はバラ亜綱マメ目マメ科エンジュStyphonolobium japonicum。落葉高木。中国原産で、街路樹によく用いられる。志怪小説等を読むと中国では霊の宿る木と考えられていたらしい。

・「水煙管」喫煙具の一。煙を一度水中を通らせて吸う。ニコチンが水に吸収され味が穏やかになる。17世紀初頭にペルシアで発明され、アジア各地に広まり、特に中国で発達した。 

・「雙孖髻」「孖」は双子のこと。二つに分けて頭の上部左右に丸い団子のようにして結った髪型か。

・「人丹(仁丹にあらず)」筑摩書房全集類聚版脚注はこの人丹を仁丹のこととし、岩波版新全集の細川正義氏は注そのものを附していない。しかし、芥川はわざわざ「仁丹にあらず」と注しているのであって、これは、物は本邦の「仁丹」だが表記が「仁丹」ではなく「人丹」である、という意味では、よもや、あるまい。そもそも中国では既に本邦の「仁丹」は著名であった(それは江南游記 二 車中(承前)で『しかしその橋が隠れたと思ふと、今度は一面の桑畑の彼方に、廣告だらけの城壁が見えた。古色蒼然たる城壁に、生生しいペンキの廣告をするのは、現代支那の流行である。無敵牌牙粉(むてきはいがふん)、雙嬰孩香姻(さうえいがいかうえん)、――さう云ふ齒磨や煙草の廣告は、沿線到る所の停車場に、殆(ほとんど)見えなかつたと云ふ事はない。支那は抑(そもそも)如何なる國から、かう云ふ廣告術を學んで來たか? その答を與へるものは、此處にも諸方に並び立つた、ライオン齒磨だの仁丹だのの、俗惡を極めた廣告である。』という叙述からも明白である)。そこで調べてみると、中国に「仁丹」でない「人丹」があったのである。個人のブログ「星期六的愉快研究」の「統制陶器 その5.仁丹・TOTO・INAXに以下のように記されている(改行は「/」で示した)。『戦前から仁丹(森下仁丹)は広告、看板、販売促進のノベルティなどを使い広域的な宣伝活動を展開しており、中国も例外ではなかった。大々的な広告活動の効果があってか中国でもかなりの売れ行きがあり、仁丹は非常に知名度の高い商標であった。/中国における仁丹の歴史を語る上で、ふれるべきエピソードがある。/仁丹が市場を席巻するなか、民族ブランドの衰退を危惧した上海で薬局を経営する黄楚九が「仁丹」に対抗して「人丹」なる商標の薬を発売した。仁丹も人丹も中国の発音では共にレンダンである。人丹も広告活動に力を入れ知名度が上がってくると、仁丹はついに人丹を商標権の侵害で訴えを起こした。ところが法廷は仁丹の主張を認めず仁丹敗訴の結果に終わる。このことに加え反日団体の働きかけもあって、仁丹の広告掲載を中止した新聞もあったようだ。1920年代のことである。第一次世界大戦後、1919年山東省のドイツの権益を日本が引き継いだことに端を発したいわゆる五四運動に象徴される反日・愛国運動の社会情勢の影響を少なからず受けたに違いない。』――芥川のこの旅行は正に1921年、「仁丹」――基!――「人丹」飲めば、ほうれ! 斯くの如く、ぴたりすっきり、じゃが!――そもそも考えてみれば神仙の練「丹」術は中国の御家芸である。登録商標は早い者勝ちとは言え、さすれば「丹」の象徴する薬物的印象を持つ商標は中国に分があるように私は思う。因みに星期六氏の言うように「人」と「仁」は共に“rén”で、完全な音通である。

・「滿洲旗人」清代、その支配層は8つの「旗」と呼ばれる社会・軍事組織によって編成されており、全国の要衝に八旗駐防という駐在地を置いて支配した。すべての満州人は8つの旗に配属され、後にはモンゴル人や漢人によって編成された八旗も創設された。この場合は、恐らく「北京八旗」で、旧清朝皇帝の近衛兵であろう(以上は主にウィキの「八旗」を参考にした)。

・「黑い布か紙にて造りたる髷とも冠ともつかぬもの」満州の婦人の独特の髪飾りの一種で、黒い布製、写真や絵を見ると頭頂上部に横長に突き出ており、更にその左右に髷のように下がって張り出した形をしている。恐らくはこれが満州旗人の婦人たるステイタス・シンボルであった。

・「觀菊の御宴」以前毎年11月(日は不定)に新宿御苑で天皇皇后臨席のもとに催された観菊会。昭和121937)年の廃止されたが、昭和281953)年に秋の園遊会が行われるようになり、本来の観菊会の方は内閣総理大臣主催「菊を見る会」となって復活している。

・「ロテイ」Pierre Lotiピエール・ロティはフランスの海軍士官にして作家であったLouis Marie-Julien Viaudルイ・マリー=ジュリアン・ヴィオー(18501923)のペンネーム。艦隊勤務の中、彼は明治181885)年と明治331900)年、二度の来日をしているが、その一度目の1110日、赤坂御所で催された観菊会に出席し、皇后陛下等に拝謁していることが、明治181885)年の体験を元にした1889年刊の“Japoneries d'automne”「秋の日本的なるもの」の「観菊御宴」に記載されている。

・「環城鐵道」須藤康夫氏の素晴らしいHP「百年の鉄道旅行」の現在の写真入り・当時の地図背景(だと思うでしょ? ところがクリックするとjpg画像でしっかり見れるのが何とも嬉しい!)の「北京環城鉄路」を見ざるべからず! 全文引用せざるべからず!『京張鉄路は、もともと基点を豊台駅としていたが、1916年北京城の城壁の外側を回り込むように、環城鉄路が建設された。これにより、列車は北京正陽門に直接乗り入れが可能となった。京張鉄路の直通列車は初め豊台駅を始発駅としていたが、このルートを使用して1 934年から北京正陽門駅を始発駅とするようになった。環城鉄路は1954年に廃止され、1959年には新しい北京駅が完成し、1965年には城壁のほとんどが崩され道路となっている。ただ現在も東南角楼付近は城壁が残っており、「火車券洞」と呼ばれる環城鉄路の城壁アーチが残っている。また、近くには、京奉鉄路信号所とポイントの一部が保存されている。』(以下は写真のキャプション)『西直門付近でも、環城鉄路の一部が残っており、レールが道路に吸い込まれて消えて行く光景が見られる。』ここで言っているのはどこかな~って考えながら、地図を見ていたら何だか仕合せな気分になって来た(恐らく東南と東北の角の部分なんだろうな~)。

・「わざわざ其處だけは城壁の中へもう一つ城壁を築いたですからですね。」は口語的にはやはり「わざわざ其處だけは城壁の中へもう一つ城壁を築いたんですからですね。」「わざわざ其處だけは城壁の中へもう一つ城壁を築いたぐらいですからですね。」でないと私は朗読をしても落ち着かない。]

2009/07/30

北京日記抄 二 辜鴻銘先生

 

       二 辜鴻銘先生

 

 辜鴻銘(ここうめい)先生を訪ふ。ボイに案内されて通りしは素壁(そへき)に石刷(いしずり)の掛物をぶら下げ、床(ゆか)にアンペラを敷ける庁堂なり。ちよつと南京蟲はゐさうなれど、蕭散(せうさん)愛すべき庁堂と言ふべし。

 

 待つこと一分ならざるに眼光炯炯(けいけい)たる老人あり。闥(たつ)を排して入り來り、英語にて「よく來た、まあ坐れ」と言ふ。勿論辜鴻銘先生なり。胡麻鹽の辮髮、白の大掛兒(タアクワル)、顏は鼻の寸法短かければ、何處か大いなる蝙蝠(かうもり)に似たり。先生の僕と談ずるや、テエブルの上に數枚の藁半紙を置き、手は鉛筆を動かしてさつさと漢字を書きながら、口はのべつ幕なしに英吉利語をしやべる。僕の如く耳の怪しきものにはまことに便利なる會話法なり。

 

 先生、南は福建に生れ、西は蘇格蘭(スコツトランド)のエデインバラに學び、東は日本の婦人を娶(めと)り、北は北京に住するを以て東西南北の人と號す。英語は勿論、獨逸語も佛蘭西語も出來るよし。されどヤング・チヤイニイイズと異り、西洋の文明を買ひ冠らず。基督教、共和政體、機械萬能などを罵る次手(ついで)に、僕の支那服を着たるを見て、「洋服を着ないのは感心だ。只憾むらくは辮髮がない。」と言ふ。先生と談ずること三十分、忽ち八九歳の少女あり。羞かしさうに庁堂へ入り來る。蓋し先生のお孃さんなり。(夫人は既に鬼籍に入る。)先生、お孃さんの肩に手をかけ、支那語にて何とか囁けば、お孃さんは小さい口を開き、「いろはにほへとちりぬるをわか……」云々と言ふ。夫人の生前教へたるなるべし。先生は滿足さうに微笑してゐれど、僕は聊(いささか)センテイメンタルになり、お孃さんの顏を眺むるのみ。

 

 お孃さんの去りたる後(のち)、先生、又僕の爲に段を論じ、呉を論じ、併せて又トルストイを論ず。(トルストイは先生へ手紙をよこしたよし。)論じ來り、論じ去つて、先生の意氣大いに昂る(あが)や、眼は愈(いよいよ)炬(きよ)の如く、顏は益(ますます)蝙蝠に似たり。僕の上海を去らんとするに當り、ジヨオンズ、僕の手を握つて曰、「紫禁城は見ざるも可なり、辜鴻銘を見るを忘るること勿れ。」と。ジヨオンズの言、僕を欺かざるなり。僕、亦先生の論ずる所に感じ、何ぞ先生の時事に慨して時事に關せんとせざるかを問ふ。先生、何か早口に答ふれど、生憎僕に聞きとること能はず、「もう一度どうか」と繰り返せば、先生さも忌忌(いまいま)しさうに藁半紙の上に大書して曰、「老(らう)、老、老、老、老、……」と。

 

 一時間の後、先生の邸を辭し、歩して東單牌樓(とうたんぱいらう)のホテルに向へば、微風、並木の合歡花(がふくわんくわ)を吹き、斜陽、僕の支那服を照す。しかもなほ蝙蝠に似たる先生の顏、僕の眼前を去らざるが如し。僕は大通りへ出づるに當り、先生の門を囘看(くわいかん)して、――先生、幸(さいはひ)に咎むること勿れ、先生の老を歎ずるよりも先に、未だ年少有爲(いうゐ)なる僕自身の幸福を讚美したり。

 

[やぶちゃん注:辜鴻銘(Gū Hóngmíng グー ホンミン 18571928)清末から中華民国初期の学者。中国の伝統文化と合わせて西洋の言語及び文化に精通し、同時に東洋文化とその精神を西洋人知識人に称揚した。イギリス海峡植民地(現マレーシア)のペナンに生まれた(父は福建省出身のゴム農園管理人、母はポルトガル人)。1867年にゴム農園のオーナーと共に渡英、1870年にはドイツに留学、1877年に英国に戻ってエジンバラ大学で西洋文学を専攻する。1877年の卒業後、再びドイツのライプチヒ大学で土木工学、次いでフランスのパリ大学で法学を学ぶ。1880年にペナンに帰郷するが、ここで学識の外交官馬建忠に感化を受け、中国文化に目覚めた。1885年には清に赴き、秘書や上海黄浦江浚渫局局長を経て、1908年の宣統帝の即位後、外交部侍郎に任命された。1910年には上海南洋公学(現・上海交通大学)の監督となったが、1911年の辛亥革命により公職を去った。その後、1915年に北京大学教授に任命されてイギリス文学を講義した(1923年の蔡元培学長の免職に抗議して辞任。大正13(1924)年と、翌14(1925)年の二度、来日して講演活動を行い、帰国した翌年に北京で死去した。英語以外にもドイツ語・フランス語・イタリア語・ギリシア語・ラテン語・日本語・マレー語を話すことが出来、芥川の他にも、モームやタゴールといった高名な文人達が、彼を訪問している。「只憾むらくは辮髮がない」のウィットでお分かりの通り、「生在南洋、学在西洋、婚在東洋、仕在北洋」や「気平一生楽」、「男の心に通ずる道は食道、女の心に通ずる道は陰道」等、名言迷言の多い人物でもある(以上は主にウィキの「辜鴻銘」を参照した)。

 

・「素壁」色を塗っていない白壁。芥川は古跡や寺院が黄や紅にどぎつく塗られているのを見てきたせいで、このすっきりとした白壁に恐らく好印象を持っている。

 

・「石刷」拓本。

 

・「アンペラ」中国南部原産の単子葉植物綱イネ目カヤツリグサ科Cyperaceaeの仲間の湿地性多年草の茎の繊維を用いて編んだ筵。日覆いを意味するポルトガル語の“ampero”又はマレー語の“ampela”語源説や、茎を平らに伸ばして敷物や帽子などを編むことを意味する「編平」(あみへら)転訛説等がある。

 

・「庁堂」表座敷。大広間。

 

・「南京蟲」昆虫綱半翅(カメムシ)目異翅亜目トコジラミ科トコジラミ Cimex lectularius の別名。「トコジラミ」は、本種が咀顎目シラミ亜目Anopluraとは全く異なる以上、不適切な和名であると思う。私は木下順二のゾルゲ事件を題材とした『オットーと呼ばれる日本人』冒頭で、上海の共同租界でこれに刺される登場人物が「あちっ!」と言うのが、ずっと記憶に残っている。それは灼熱のような刺しでもあるのかも知れぬ。

 

・「蕭散」もの静かで、さびしいこと。落ち着いて心静かなこと。また、そのさま。

 

・「闥を排し」扉を勢いよく開いて、の意。これは「蒙求」の「樊噲排闥」(「史記」の「鴻門之会」で知られる樊噲登場のシーン)の語。「眼光炯炯」たる忠義の犬殺し樊噲が「時事に慨して」「闥を排し」て登場する様に擬えた。

 

・「大掛兒(タアクワル)」“tàiguàér”。男物の単衣(ひとえ)の裾が足首まである長い中国服のこと。「上海游記」に附された筑摩版脚注では「掛」は「褂」が正しいとある。

 

・「福建」福建省。台湾の対岸に位置する。古くは閩(びん)と呼ばれた。古くから多くの文人を輩出した一方、「客家(はっか)」として海外移住者も多い地方で、日本やシンガポール在住の華僑の多くは福建出身である。

 

・「エデインバラ」University of Edinburgh 王立エディンバラ大学。1582年創立のイギリスの名門。

 

・「ヤング・チヤイニイイズ」“Young Chineise「上海游記」「十八 李人傑氏」で用いた『「若き支那」』と同義。ここで芥川は「少年中国学会」を意識して英語表記していると思われる。「少年中国学会」は1918630日に主に日本留学生によって企図された(正式成立は連動した五四運動直後の191971日)、軍閥の専制や日本帝国主義の侵略に反対することを目的として結成された学生組織の名称。当然のことながら、有意に共産主義を志向する学生が占めていた。但し、李人傑は少年中国学会の会員ではない。芥川は新生中国の胎動の中にある青年の理想、共産主義の機運を包括的に、このように呼んでいると考えてよいが、そこには当然、日本での本篇の検閲を見越しての巧妙なぼかしの意味もあると思われる。その証拠に「共産主義」「共産党」の一語だに芥川は本篇に用いていない。また、芥川は「侏儒の言葉」の「支那」の項で、同じ「若き支那」という語句を印象的に用いている(二項あるので、一緒に示す)。

 

       支  那

 

 螢の幼蟲は蝸牛を食ふ時に全然蝸牛を殺してはしまはぬ。いつも新らしい肉を食ふ爲に蝸牛を麻痺させてしまふだけである。我日本帝國を始め、列強の支那に對する態度は畢竟この蝸牛に對する螢の態度と選ぶ所はない。

 

       又

 

 今日の支那の最大の悲劇は無數の國家的羅曼主義者即ち「若き支那」の爲に鐵の如き訓練を與へるに足る一人のムツソリニもゐないことである。

 

なお以上の内、「少年中国学会」については中文事典サイト「百度百科」「少年中国学会」の記載を自己流に読み、参考にしたものである。

 

・「共和政體」辜鴻銘は辮髪姿からもお分かりの通り、保皇派で、清朝に貞節を尽くした。

 

・「辮髮」弁髪。モンゴル・満州族等の北方アジア諸民族に特徴的な男子の髪形。清を建国した満州族の場合は、頭の周囲の髪をそり、中央に残した髪を編んで後ろへ長く垂らしたものを言う。清朝は1644年の北京入城翌日に薙髪令(ちはつれい)を施行して束髪の礼の異なる漢民族に弁髪を強制、違反者は死刑に処した。清末に至って漢民族の意識の高揚の中、辮髪を切ることは民族的抵抗運動の象徴となってゆき、中華民国の建国と同時に廃止された。

 

・「八九歳の少女」因みに、やや感興を殺ぐことを言わせて貰えば、辜鴻銘は「急須一つに茶碗複数はあっても、茶碗一つに急須複数は無い」と言ったという一夫多妻論者であった。

 

・「段」段祺瑞 (Duàn Qíruì ドゥアン リールイ だんきずい 18651936)のこと。清末から中華民国初期の軍人・政治家。以下、ウィキの「段祺瑞」から部分引用する。『1895年、清末期に実力者となった袁世凱の新建陸軍に入り、軍の近代化を担った。1901年、袁世凱が直隷総督兼北洋大臣となって北洋軍を編成すると続けてその幕下に入』る。『1911年の辛亥革命のときには、第二軍軍統兼湖広総督に任命されて武漢三鎮で革命軍と戦ったが、理由をつけて退き、その後は袁世凱の内意を受けて多くの将校とともに清朝最後の皇帝・宣統帝に退位と共和制の実行を迫っ』た。『その後、袁世凱が中華民国の大総統になると、陸軍総長となって袁世凱を助けた』。次第に彼の『軍事力は北洋軍の中でも絶大なものとな』り、『1916年、袁世凱が死去すると、国務総理に就任して北京政府の事実上の指導者となった』が、『1920年、安直戦争に敗れて下野』した。しかし、『1924年、張作霖の支持を受けて北京における臨時政府の執政に就任。以後は反日運動を行なう学生らを弾圧するなど(三・一八虐殺事件)したが、これが原因で1926年、政府内から反発を受けて再び下野を余儀なくされた。その後、蒋介石に招聘されて上海に移』り、『同地で72歳の生涯を終えた。』。

 

・「呉」呉佩孚(Wú Pèifú  ウーペイフー ごはいふ 18741939)清末から中華民国初期の軍人・政治家。北洋軍閥直隷派の領袖。陸軍軍官学校出身。以下、ウィキの「呉佩孚」から部分引用する。『護国戦争や護法軍の鎮圧にも参加。1920年の安直戦争で段祺瑞率いる安徽派を北京政府から追い、直隷省・山東省・河南省3省の巡閲副使となる。ところが政府の主導権をめぐって同盟を結んでいた張作霖らの奉天派と対立。1922年に第一次奉直戦争に勝利して、陸軍参謀総長を経て直隷省・山東省・河南省3省の巡閲使・航空監督となる。1924年には第二次奉直戦争で再び奉天派と戦うものの、部下の馮玉祥の裏切りにあい敗北。湖北省へと逃れて孫伝芳らと、奉天派および奉天派と組んだ安徽派・馮らの国民軍に対し再度攻撃を仕掛ける。しかし1926年に北伐に来ていた国民政府軍に敗れて、四川省へと逃れる。』『盧溝橋事件以降は日本軍から協力を求められるが態度を鮮明とせず、1939年に死去。歯科医の抜歯直後に急死したため日本軍による暗殺説が囁かれ、国民政府からは陸軍一級上将を追贈された。』。

 

・「炬」篝火のような眼。物事を明らかに見分ける才能を陰喩する。

 

・「ジヨオンズ」Thomas Jones18901923)。岩波版新全集書簡に附録する関口安義らによる人名解説索引等によれば、芥川龍之介の参加した第4次『新思潮』同人らと親密な関係にあったアイルランド人。大正4(1915)年に来日し、大蔵商業(現・東京経済大)で英語を教えた。芥川との親密な交流は年譜等でも頻繁に記されている。後にロイター通信社社員となった彼は、当時、同通信社の上海特派員となっていた(芥川も並んだその折の大正8(1919)年9月24日に鶯谷の料亭伊香保で行われた送別会の写真はよく知られる)。この中国行での上海での出逢いが最後となり、ジョーンズは天然痘に罹患、上海で客死した。芥川龍之介が『新潮』に昭和2(1927)年1月に発表した「彼 第二」はジョーンズへのオードである。ジョーンズの詳細な事蹟は、「上海游記」「三 第一瞥(中)」の冒頭注及び「彼 第二」の私の後注を参照されたい。

 

・「紫禁城」後掲「五 名勝」の注を参照。

 

・「東單牌樓」の「牌樓」は「牌坊」と同義で、中国の伝統的建築様式の門の一種。単に坊とも呼ばれる(坊は本来は区画を言う)。所謂、中華街の東西南北の門を想起してもらえればよい。ウィキの「牌坊」によれば、『一般的に牌坊と牌楼は同じ意味で使われるが、屋根や斗拱(ときょう:斗組・軒などを支える木の組み物のこと)のないものが牌坊と呼ばれ、あるものが牌楼と呼ばれる』とある。実際には北京には方位に限らず沢山の「牌樓」があるが、その中でも著名な一つが「東單牌樓」で、紫禁城の東、天安門前にある長安街の東側に設けられている門を言う。

 

・「合歡花」バラ亜綱マメ目ネムノキ科ネムノキ Albizia julibrissin。落葉高木。ネムノキ属 Albizia は熱帯原産であるが、本種は耐寒性が強く高緯度まで分布する。悪環境にも強く、荒地にも一早く植生する植物としても知られる。擬古文に合わせて音読みしているが、必ずしもネムの異例な呼称ではない。

 

・「一時間の後、先生の邸を辭し、歩して東單牌樓(とうたんぱいろう)のホテルに向へば、微風、並木の合歡花(がふくわんくわ)を吹き、斜陽、僕の支那服を照す。しかもなほ蝙蝠に似たる先生の顏、僕の眼前を去らざるが如し。僕は大通りへ出づるに當り、先生の門を囘看(くわいかん)して、――先生、幸(さいはひ)に咎むること勿れ、先生の老を歎ずるよりも先に、未だ年少有爲(いうゐ)なる僕自身の幸福を讚美したり。」私はこの最後のシーン、これは夏目漱石の「こゝろ」上三十五を下敷きにしているように思えてならない。学生と先生の邂逅の最後の、あの印象的な最後である。

 

   *

 

 「また九月に」と先生がいつた。

 

 私は挨拶をして格子の外へ足を踏み出した。玄關と門の間にあるこんもりした木犀の一株が、私の行手を塞ぐやうに、夜陰のうちに枝を張つてゐた。私は二三歩動き出しながら、黑ずんだ葉に被はれてゐる其梢を見て、來るべき秋の花と香を想ひ浮べた。私は先生の宅と此木犀とを、以前から心のうちで、離す事の出來ないものゝやうに、一所に記憶してゐた。私が偶然其樹の前に立つて、再びこの宅の玄關を跨ぐべき次の秋に思を馳せた時、今迄格子の間から射してゐた玄關の電燈がふつと消えた。先生夫婦はそれぎり奥へ這入たらしかつた。私は一人暗い表へ出た。

 

   *

 

ここで芥川は、さわやかにして艶なる合歓の花に心躍らせている。そうして先生の家の門を振り返って、思う。――先生、どうかお咎めになられないように……私は、実はこの時、掛け替えのない師が老を嘆かれたこの世の不幸より、それよりもまず先に、未だに年若い前途有望何でも来いといった意気揚々たる僕自身の幸福を心の内に讚美していたのでした――と。

 

その不遜は恰もあの「枯野抄」の丈草のようではないか?

 

――しかし――しかし、である。――この「北京日記抄」を執筆した当時、大正141925)年当時の芥川龍之介は――そうではなかった――私は次の引用でこの篇の注を締め括るとこととする。「こゝろ」上三十六の掉尾である。

 

   *

 

 「何つちが先へ死ぬだらう」

 

 私は其晩先生と奥さんの間に起つた疑問をひとり口の内で繰り返して見た。さうして此疑問には誰も自信をもつて答へる事が出來ないのだと思つた。然し何方が先へ死ぬと判然分つてゐたならば、先生は何うするだらう。奥さんは何うするだらう。先生も奥さんも、今のやうな態度でゐるより外に仕方がないだらうと思つた。(死に近づきつゝある父を國元に控えながら、此私が何うする事も出來ないやうに)。私は人間を果敢ないものに觀じた。人間の何うする事も出來ない持つて生れた輕薄を、果敢ないものに觀じた。

 

   *

 

――辜鴻銘が亡くなったのは、芥川龍之介自裁の翌年であった。――]

4:25以前に鳴動する蜩は戦略家か?

今日は4:14から1分間に亙って鳴く一匹の蜩を聴く。

はたと考えた。これはフライングをして、逸早く♀を獲得しようとする、それこそ植木等の無責任男のようなちゃっかり者ではないか?

鳴きやんだ暗い木蔭で、奴はちゃっかり「旨い汁」を吸っているのではないか?

僕にそんな妄想を掻き立てさせた4:14の蜩であった――

2009/07/29

北京日記抄 一 雍和宮

北京日記抄   芥川龍之介   附やぶちゃん注釈

[やぶちゃん注:「北京日記抄」(ペキンにつきせう/ペキンにっきしょう)は大正141925)年6月『改造』に掲載され、後に『支那游記』(「江南游記」「長江游記」「北京日記抄」「雜信一束」の順で構成)に所収された。底本は岩波版旧全集を用いたが、底本は総ルビであるため、訓読に迷うもののみのパラルビとした。また、一度、読みを提示したものは、原則(幾つかの宛て読みや誤読し易いものは除外)、省略してある。各回の後ろに私のオリジナルな注を附した。私の注は実利的核心と同時に智的な外延への脱線を特徴とする。私の乏しい知識(勿論それは一部の好みの分野を除いて標準的庶民のレベルと同じい)で十分に読解出来る場合は注を附していない(例・「ワンタン」「チヤルメラ」「トルストイ」等)。逆に、当たり前の語・表現であっても『私の』知的好奇心を誘惑するものに対しては身を捧げてマニアックに注してしまう。そのようなものと覚悟して注釈をお読み頂きたい。なお、注に際しては、一部、筑摩書房全集類聚版脚注や岩波版新全集の細川正義氏の注解を参考にさせて頂いた部分があり、その都度、それは明示してある。また逆に、一部にそれらの注に対して辛辣にして批判的な記載もしてあるのであるが、現時点での「北京日記抄」の最善の注をオリジナルに目指すことを目的としたためのものであり、何卒御容赦頂きたい。私にはアカデミズムへの遠慮も追従もない。反論のある場合は、何時でも相手になる。その部分を読解するに必要と思われる一部の注は繰り返したが、頻繁に登場する人物や語は初出の篇のみに附した。通してお読みでない場合に、不明な語句で注がないものは、まずは全体検索をお掛けになってみることをお勧めする。

 本紀行群に見られる多くの差別的言辞や視点についての私の見解は、既に「上海游記」の冒頭の注記に示しているので、必ず、そちらを御覧頂いた上で本篇をお読み頂きたい。

北京日記抄

       一 雍和宮

 今日も亦中野江漢(なかのかうかん)君につれられ、午頃より雍和宮一見に出かける。喇嘛寺(らまでら)などに興味も何もなけれど、否、寧ろ喇嘛寺などは大嫌ひなれど、北京名物の一つと言へば、紀行を書かされる必要上、義理にも一見せざる可らず。我ながら御苦勞千萬なり。

 薄汚い人力車に乘り、やつと門前に辿りついて見れば、成程大伽藍には違ひなし。尤も大伽藍などと言へば、大きいお堂が一つあるやうなれど、この喇嘛寺は中中そんなものにあらず。永祐殿、綏成殿(すゐせいでん)、天王殿(てんわうでん)、法輪殿などと云ふ幾つものお堂の寄り合ひ世帶なり。それも日本のお寺とは違ひ、屋根は黄色く、壁は赤く、階段は大理石を用ゐたる上、石の獅子だの、青銅の惜字塔(せきじたふ)だの(支那人は文字を尊ぶ故、文字を書きたる紙を拾へば、この塔の中へ入れるよし、中野君の説明なり。つまり多少藝術的なる青銅製の紙屑籠を思へば好し。)乾隆帝の「御碑(ぎよひ)」だのも立つてゐれば、兎に角莊嚴(しやうごん)なるに近かるべし。

 第六所東配殿に木彫りの歡喜佛四體あり。堂守に銀貨を一枚やると、繡幔(しうまん)をとつて見せてくれる。佛は皆藍面赤髮(らんめんせきはつ)、背中に何本も手を生やし、無數の人頭を頸飾にしたる醜惡無雙の怪物なり。歡喜佛第一號は人間の皮をかけたる馬に跨り、炎口(えんく)に小人(せうじん)を啣(くは)ふるもの、第二號は象頭人身の女を足の下に踏まへたるもの、第三號は立つて女を婬するもの。第四號は――最も敬服したるは第四號なり。第四號は牛の背上に立ち、その又牛は僭越にも仰臥せる女を婬しつつあり。されど是等の歡喜佛は少しもエロテイツクな感じを與へず。只何か殘酷なる好奇心の滿足を與ふるのみ。歡喜佛第四號の隣には半ば口を開きたるやはり木彫りの大熊あり。この熊も因縁を聞いて見れば、定めし何かの象徴ならん。熊は前に武人二人(藍面にして黑毛をつけたる槍を持てり)、後(うしろ)に二匹の小熊を伴ふ。

 それから寧阿殿なりしと覺ゆ。ワンタン屋のチヤルメラに似たる音せしかば、ちよつと中を覗きて見しに、喇嘛僧二人、怪しげなる喇叭(らつぱ)を吹奏しゐたり。喇嘛僧と言ふもの、或は黄、或は赤、或は紫などの毛のつきたる三角帽を頂けるは多少の畫趣あるに違ひなけれど、どうも皆惡黨に思はれてならず。幾分にても好意を感じたるはこの二人の喇叭吹きだけなり。

 それから又中野君と石疊の上を歩いてゐたるに、萬福殿(ばんぷくでん)の手前の樓の上より堂守一人顏を出し、上つて來いと手招きをしたり。狹い梯子を上つて見れば、此處にも亦幕に蔽はれたる佛あれど、堂守容易に幕をとりてくれず。二十錢出せなどと手を出すのみ。やつと十錢に妥協し、幕をとつて拜し奉れば、藍面(らんめん)、白面(はくめん)、黄面(くわうめん)、馬面(ばめん)等(とう)を生やしたる怪物なり。おまけに又何本も腕を生やしたる上、(腕は斧や弓の外にも、人間の首や腕をふりかざしゐたり)右の脚(あし)は鳥の脚にして左の脚は獸(けもの)の脚なれば、頗る狂人の畫(ゑ)に類したりと言ふべし。されど豫期したる歡喜佛にはあらず。(尤もこの怪物は脚下に二人の人間を踏まへゐたり。)中野君即ち目を嗔(いか)らせて、「貴樣は譃をついたな。」と言へば、堂守大いに狼狽し、頻に「これがある、これがある」と言ふ。「これ」とは藍色(あいいろ)の男根なり。隆隆たる一具、子を作ることを爲さず、空しく堂守をして煙草錢(たばこせん)を儲けしむ。悲しいかな、喇嘛寺の男根や。喇嘛寺の前に喇嘛畫師(ゑし)の店七軒あり。畫師の總數三十餘人。皆西藏(チベツト)より來れるよし。恆豐號(こうほうがう)と言ふ店に入り、喇嘛佛の畫數枚を購(あがな)ふ。この畫、一年に一萬二三千元賣れると言へば、

喇嘛畫師の收入も莫迦にならず。

[やぶちゃん注:雍和宮は、名が示す通り、本来は清の第4代皇帝聖祖(康煕帝 16541722)が、1694年に第四子であった愛新覚羅胤禛(あいしんかくらいんしん 16781735:後の第5代皇帝世宗・雍正帝)のために建てた広大な御所。1722年の即位後、紫禁城移った雍正帝は、対外政策としてチベット・モンゴルへの介入を進めたが、その懐柔策の一つとして1744年に自身の雍和宮をラマ教(チベット仏教)ゲルク派の寺院として正式に喇嘛寺となった(1725年に半分を既に喜捨していた)。南北400m(中央部480m)・東西120m、総面積約66,400㎡、現存する北京最大の寺院建築。「ラマ教」とは、チベットを中心に発展した仏教の一派を言うが、現在は「チベット仏教」と呼ぶのが正しい。以下、ウィキの「チベット仏教」から呼称の誤り部分も含めて引用しておく。『大乗仏教の系統を汲み、特に密教を大きな柱とすることから「チベット密教」と呼んでイコール的に見なされがちであるが、実際は顕教の諸哲学や上座部仏教的な出家戒律制度も広く包含する総合仏教である。独自のチベット語訳の大蔵経を所依とする教義体系を持ち、漢訳経典に準拠する北伝仏教と並んで、現存する大乗仏教の二大系統をなす。ラマと呼ばれる高僧、特に化身ラマ(転生活仏)を尊崇することから、かつては一般に「ラマ教」(喇嘛教、Lamaism)と呼び、ややもすると異質な宗教と見なす向きがあったが、歴然とした正統仏教の一派であると自任するチベット仏教の本質が理解されるにつれて、偏見を助長する不適当な呼称とされ、現在では推奨されなくなっている。』。

・「中野江漢」中国民俗研究家。本名は中野吉三郎(明治221889)年~昭和251950)年)。福岡生。大正31914)年26歳で北京に渡り、約30年間在中した。「四 胡蝶夢」で芥川も語っている支那風物研究会を主宰し、『支那風物叢書』を刊行、同叢書の一つとして民俗学的にも考現学的にも優れた191020年代の卓抜な北京案内記「北京繁昌記」全3巻(大正111922)~大正141925)年刊)や、古書店の梗概に、合理的性交の秘法や支那に於ける不老回春術及び秘薬を解説、とある発禁本「回春秘話」(昭和6(1931)年萬里閣書房刊)等、誠に興味をそそる著作が多数ある。昭和141929)年には玄洋社(明治141881)年に総帥頭山満ら旧福岡藩士を中心によって結成された大アジア主義を標榜する右翼団体)の一員として支那満蒙研究会機関誌『江漢雑誌』も創刊している。

・「永祐殿」建築群(内裏相当の旧御所)のほぼ中央にあり、雍正帝が皇子であった時の居宅であった。雍正帝の死後、一時遺体が安置された。

・「綏成殿」建築群の最も北にある。現在の観光用地図には「綏成楼」とある。これは門を付随した建造物であろう。

・「天王殿」内部の正門昭泰門を入って最初に正面にある、雍和宮時代の主殿の一。通常のラマ教寺院と同じくここには未来仏たる弥勒及び韋駄天が祀られている。そのすぐ北に狭義の雍和宮があり、そこには過去仏(燃灯仏=定光仏:「阿含経」に現れる釈迦に将来成仏することを予言したとされる仏。)・現在仏(釈迦)・未来仏(弥勒)を表わす3世仏及び十八羅漢像を安置する。

・「法輪殿」永祐殿の背後にあり、法要・読経を行う祭殿。本来の御所の一部をチベット仏教形式に改築しているため、建物は十字型をし、屋上にはラマ教独特の小型の仏塔が立ち、殿内にはチベット仏教ゲルク派開祖ツォンカパの銅像が安置されている。建築群中、最も大きい。

・「惜字塔」こうしたものが、雍和宮の各所に設けられていたものか。神戸大学附属図書館の「新聞記事文庫 都市(3-043)」の中に、台湾での記事であるが、興味深いものを見つけたので引用する。『台湾日日新報』大正71918)年5月6日の記事で、「台北市街の今昔(1) 二十年の変遷」という中で、中国の伝統的な道徳的風俗が近代化の波の中で失われてゆくのを惜しむ記者の記載である。

[引用開始]

最も惜しむべきは惜字塔の如きものである、即ち文字を惜んで苟くも字の書いてある紙は粗末にせぬと言う所から、この文字ある紙片を道路に求めて拾い歩く篤志家のあった事である、半白の疎髯を風に弄らせ日を遮るべく渋扇を開いて眉上に置き、辮髪を以て之を挟みて頗る風流なる日覆を作り、細き竹棒に細長き竹籠を一荷に担ぎ、手に長き竹箸を携えて悠然として大路小路を打廻る其雅趣ある姿は全く画題の人である、別に之が為に給料を貰って居る訳では無く、唯だ道徳観念からして之を行う篤志に過ぎない、斯くして拾い集めた文字ある紙は之を集めて焼くのである、其れが惜字塔である、台北の市内では旧淡水館の門前に建てられてあったのが未だに眼に残って居る、夕刻には必ずこの塔の中から淡い煙りが昇って居た全く詩的であった、この惜字塔の如きものは漸次破壊されて今日では田舎へ行かぬと余り見られぬが、廟の前などにはよく見受けるのだが、其の惜字籠を担いだ何となく崇高な聖人らしい風格の老爺の姿を見る事は殆んど無いのである、之等の風俗は今日尚大に保存したいものである

[引用終了]

芥川は「多少藝術的なる青銅製の紙屑籠を思へば好し」とおちゃらけているが、ジャーナリストたらんとせば、芥川君よ、この記者を見習うべし! 

・「乾隆帝」清第6代皇帝高宗(17111799)。

・「御碑」雍和門の左手前にある東八角碑亭と西八角碑亭のことか。1744年(乾隆8年)建立になる、雍和宮を喇嘛寺として喜捨した由来が白玉の石碑に、東に漢語と満州語、西に蒙古語とチベット語で記されているらしい。

・「第六所東配殿に木彫りの歡喜佛四體あり」東配殿は永祐殿の東背後に延びる建物。ここの歓喜仏、さぞや文化大革命で消失したであろうなあと思っていたのだが、「マディとワタシ」という個人の方の2007年8月17日のブログ「北京游記 4日目」に、東配殿で不自然に布をかけた4体の仏像を現認したという記載があり、芥川の見た四体は健在であることが分かる(但し、布は取って貰えず、写真も禁止とのこと)。ちなみにこの方の同じ記事に、何故、チベット仏教寺院に歓喜仏があるのかについて、竹中憲一著「北京歴史散歩」(竹内書店2002p.290)からの引用が載る。孫引きをお許し頂き、コピー・ペーストする(「ラマ教」表記はママ)。

[引用開始]

 ラマ教の歴史は七世紀ごろまでさかのぼる。インドよりチベットに伝わった仏教の一派シバ密教とチベット在来の鬼神崇拝のボン教が相互に影響しあって生まれたのがラマ教といわれている。ラマ教は守護神として鬼神羅漢(きしんらかん)と歓喜仏を祭るのは、その起源に由来するものである。

[引用終了]

恐らくは世界最古の宗教とされるインドの性愛信仰であったタントラ教の性交を通して宇宙的絶対原理と一体化するという考え方が、ヒンドゥー教に取り入れられたもので、竹中氏の謂いは、鬼神は御霊の絶大なパワーを意味し、歓喜仏は「性」のパワーは「生」のパワーと同義ということであろう。芥川の言う「第二號」が我々にはお馴染みの仏教の護法善神たる歓喜天の形象である。なお、この寺の宗派であるゲルク派によって、古くに存在したらしい実際の性行為による修行法の名残りは禁じられ、消滅した。

・「繡幔」刺繍を施したベール。「幔」は幕の意味であるが、縫い取りを施した綺麗な布・シーツであろうから、ベールとしておく。

・「炎口」口から火を噴いているということであろう。この芥川が言う「第一號」は、所謂、インド神話に登場する怪鳥ガルーダ、仏教に取り入れられて八部衆の一神となった迦楼羅(かるら)の形象に近いものではなかろうか。

・「小人」これは小さく見えるだけで、人間(罪人)であろう。

・「寧阿殿」これは、中央の狭義の雍和宮を囲むように東西の南北に建てられた4つの楼の内、西の北側に位置する扎寧阿殿(さつねいあでん)の誤りである。

・「怪しげなる喇叭」“dung chen”トゥンチェン。チベット仏教で用いられる民族楽器でアルペン・ホルンのような長さ5mにも及ぶ角笛形の金管楽器。チベット・ホルンとも呼ぶが、ここで芥川が見たものはもっと短いもののようである。

・「或は黄、或は赤、或は紫などの毛のつきたる三角帽」チベット仏教では地位や修行の階梯の中で帽子による識別が極めて重要な意味を持っているらしい。また、松枝到氏の「草原の中の象徴図像 ウランバートル」に以下の記載もある。

[引用開始]

チベットはこの時点で大きく宗教改革というものをねらっています。とくに黄帽派との闘争がありました。紅い帽子は、僧侶がかぶる決まりの帽子です。これは古いチベット仏教のグループがかぶっていたものです。ところが、長い間一定の宗派が生きていると、当然堕落であるとか教条主義であるとか、そういうものがはびこってきます。それを打開するために、ツォンカパという人が新たな宗派を起こそうとしたわけです。そして紅い帽子をわざと裏返して、裏の黄色い地を出してみんなの前で説教した。そしてそれに賛同した者は、自分たちも帽子をひっくり返して黄色い帽子をかぶり、古い宗派から新しい宗派へと、新たなチベット仏教の展開ということを決意として示しました。これがチベット密教の宗教改革だったわけです。

[引用終了]

ここで松枝氏が挙げているチベット仏教改革者こそ、この「喇嘛寺」の宗派ゲルク派の開祖である。

・「萬福殿」萬福閣が正しい。法輪殿と綏成殿(楼)の間中央にある。

・「喇嘛畫師」以下、ウイキの「チベット仏教」によれば、『文化面では、タンカと呼ばれる曼荼羅(仏画)や砂曼荼羅』が有名である、とある。

・「恆豐號」筑摩全集類聚版脚注に「喇嘛寺」の『前にあった古道具屋。宗徳泉の経営。』とある。何故か、この注、屋号に店主と異様に詳しい。宗徳泉なる人物は不詳。もしかすると、この注釈者は洋画ファンである(「上海游記」の「十四 罪」参照 )と同時に骨董好きで、実はこの宗徳泉なる人物、その方面の世界では有名な鑑定家なのかも?]

芥川龍之介 長江游記 やぶちゃん注釈附き完全版

芥川龍之介「長江游記」やぶちゃん注釈附き完全版を正字正仮名で「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」に公開した。

芥川龍之介『支那游記』自序 附やぶちゃん注釈

芥川龍之介の単行本『支那游記』自序(附やぶちゃん注釈)を正字正仮名で「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」に公開。これはさすがに尋常な注ではない。――だからこそ、僕の注釈ではある――

2009/07/28

4:08の蜩の植木等

4:08に一匹高らかに鳴いたが、「お呼び出ない?」といった感じで、4:09には退場、今日は4:24:30で蜩時雨が始まった。

長江游記 四 廬山(下)

これを以って芥川龍之介「長江游記」の全篇の公開を終わった。既に次の「北京日記抄」の原文打ち込みは終了、これより注釈作業に着手する。

       四 廬山(下)

 飯を食つてしまつたら、急に冷氣を感じ出したのはさすがに海拔三千尺である。成程廬山はつまらないにもしろ、この五月の寒さだけは珍重に値するのに違ひない。私は窓側の長椅子に岩山(いはやま)の松を眺めながら、兎に角廬山の避暑地的價値には敬意を表したいと考へた。

 其へ姿を現したのは大元洋行の主人である。主人はもう五十を越してゐるのであらう。しかし赤みのさした顏はまだエネルギイに充ち滿ちた、逞しい活動家を示してゐる。我我はこの主人を相手にいろいろ廬山の話をした。主人は頗る雄辯である。或は雄辯過ぎるのかも知れない。何しろ一たび興(きよう)到(いた)ると、白樂天と云ふ名前をハクラクと縮めてしまふのだから、それだけでも豪快や思ふべしである。

 「香爐峰と云ふのは二つありますがね。こつちのは李白の香爐峰、あつちのは白樂天の香爐峰――このハクラクの香爐峰つてやつは松一本ない禿山でがす。………」

 大體かう云ふ調子である。が、それはまだしも好(よ)い。いや、香爐峰の二つあるのなどは寧ろ我我には便利である。一つしかないものを二つにするのは特許權を無視した罪惡かも知れない。しかし既に二つあるものは、たとひ三つにしたにもせよ、不法行爲にはならない筈である。だから私は向うに見える山を忽(たちまち)「私の香爐峰」にした。けれども主人は雄辯以外に、廬山を見ること戀人の如き、熱烈なる愛着を蓄へてゐる。

 「この廬山つて山はですね。五老峰とか、三疊泉とか、古來名所の多い山でがす。まあ、御見物なさるんなら、いくら短くつても一週間、それから十日つて所でがせう。その先は一月でも半年でも、尤も冬は虎も出ますが………」

 かう云ふ「第二の愛郷心」はこの主人に限つたことぢやない。支那に在留する日本人は悉(ことごとく)ふんだんに持ち合はせてゐる。苛(いやしく)も支那を旅行するのに愉快ならんことを期する士人は土匪(どひ)に遇ふ危險は犯すにしても、彼等の「第二の愛郷心」だけは尊重するやうに努めなければならぬ。上海(シヤンハイ)の大馬路(ダマロ)はパリのやうである。北京の文華殿にもルウブルのやうに、贋物(がんぶつ)の畫(ゑ)などは一枚もない。――と云ふやうに感服してゐなければならぬ。しかし廬山に一週間ゐるのは單に感服してゐるのよりも、遙に骨の折れる仕事である。私はまづ恐る恐る、主人に私の病弱を訴へ、相成るべくは明日(あした)の朝下山したいと云ふ希望を述べた。

 「明日もうお歸りですか? ぢや何處も見られませんぜ。」

 主人は半ば憐むやうに、又半ば嘲るやうにかう私の言葉に答へた。が、それきりあきらめるかと思ふと、今度はもう一層熱心に、「ぢや今の内にこの近所を御見物なさい。」と勸め出した。これも斷つてしまふのは虎退治に出かけるよりも危險である。私はやむを得ず竹内氏の一行と、見たくもない風景を見物に出かけた。

 主人の言葉に從へば、クウリンの町は此處を距(さ)ること、ほんの一跨(また(ぎだと云ふことである。しかし實際歩いて見ると、一跨ぎや二跨ぎどころの騷ぎではない。路は山笹(やまざさ)の茂つた中に何處までもうねうね登つてゐる。私はいつかヘルメットの下に汗の滴るのを感じながら、愈(いよいよ)天下の名山に對する憤慨の念を新にし出した。名山、名畫、名人、名文――あらゆる「名」の字のついたものは、自我を重んずる我我を、傳統の奴隸にするものである。未来派の畫家は大體にも、古典的作品を破壞せよと云つた。古典的作品を破壞する次手に、廬山もダイナマイトの火に吹き飛ばすが好(い)い。………

 しかしやつと辿り着いて見ると、山風に鳴つてゐる松の間、岩山を綴らせた目の下の谷に、赤い屋根だの黒い屋根だの、無數の屋根が並んでゐるのは、思つたよりも快い眺めである。私は道ばたに腰を下し、大事にポケツトに蓄へて來た日本の「敷島」へ火を移した。レエスを下げた窓も見える。草花の鉢を置いたバルコンも見える。青芝を劃(かぎ)つたテニス・コオトも見える。ハクラクの香爐峰は姑(しばら)く問はず、兎に角避暑地たるクウリンは一夏を消(せう)するのに足る處らしい。私は竹内氏の一行のずんずん先へ行つた後も、ぼんやり卷煙草を啣へた儘、かすかに人影の透いて見える家家の窓を見下してゐた、いつか東京に殘して來た子供の事などを思ひ出しながら。

[やぶちゃん注:5月23日。

・「海拔三千尺」1尺=30.3㎝であるから、凡そ909m。廬山は最高峰である漢陽峰が海抜1,474mであるから(ウィキの「廬山」の記載)、565mも足りない。「四千尺」でもまだ262m足りない。いっそ実測の近似値「五千尺」でなんら問題はない。もう実見から三年も経った芥川には、中国の誇張表現癖が抜けてしまいのであろうか。いやいや、これは確信犯、李白の「望廬山瀑布」の転句「飛流直下三千尺」をもとにした表現だからである。

 望廬山瀑布

日照香爐生紫煙

遙看瀑布挂前川

飛流直下三千尺

疑是銀河落九天

○やぶちゃんの書き下し文

 廬山瀑布を望む

日 香爐を照らし 紫煙生ず

遙かに看る 瀑布の前川(ぜんせん)に挂(か)くるを

飛流直下三千尺

疑ふらくは是れ 銀河の九天より落つるかと

○やぶちゃんの現代語訳

 廬山の大瀧を眺める

陽が香爐峰を照らす――すると立ち上るは紫がかった香煙のような雲

遙かに見渡す――目前の川に掛かるかのような大瀧

飛流直下三千尺!

あたかもそれは 銀河が天空の頂点から落ちたのではないか?! と思わせる――

・「李白の香爐峰、あつちのは白樂天の香爐峰」余りにも有名な「香爐峰」は、その峰の形状とそこから雲気が立ち上る様が香炉に似ることからの命名。ここで大元洋行の主人が言う話は眉唾ではなく、事実、廬山の北西部分にある香爐峰は南北の二峰が存在する。この言に従えば前掲の李白の七絶「望廬山瀑布」の起句「日照香爐生紫煙」等は南の香炉峰で、白居易が「香爐峰雪撥簾看」と詠じたのは北の香炉峰ということになる。

・「五老峰」海抜1,378m1,358 mとも)にある廬山の中で最も険しい峰(ここを最高峰とする記載が多いが、先のウィキの漢陽峰を最高峰とする記載を採る)。山麓から見上げると五人の老人が座って仰ぎみるような形に見える。牯嶺(クウリン)からは約9㎞も離れている。

・「三疊泉」は三段の瀧の名。五老峰近くにあり、廬山第一、廬山に来てここを見なければ来た意味がない、とまで呼ばれる名所である。落差約155m

・「虎」「二 溯江」でも示した通り、この「虎」はネコ目ネコ科ヒョウ亜科ヒョウ属トラPanthera tigrisの亜種で、中華人民共和国南部及び西部に生息するアモイトラPanthera tigris amoyensisを指していると考えてよい。全長は♂230265㎝・♀220240㎝。体重♂130175㎏、♀100115㎏。腹面には狭い白色の体毛があり、縞は太く短く、縞の本数は少ない。既に絶滅が疑われている。

・「土匪」土着民で生活の困窮から、武装して略奪や暴行殺人を日常的に行うようになった盗賊集団を言う。

・「大馬路(ダマロ)」“dàmălù”。上海市内を東西に走る繁華街。現・南京路。「馬路」とは中国語で都市の大通りのことを言う。

・「文華殿」北京紫禁城の外朝(内廷の外側)にある建物。明代には東宮として皇太子の居住区であるとともに、明・清を通じて内閣大学士を構成員とする「内閣」(実質上政治最高機関で日本の内閣という呼称の由来)が置かれた。ここの北側にある文淵閣は、清代に複数浄書(正本7部・副本1部)された四庫全書(中国史上最大の漢籍叢書。完成は乾隆461781)年で、9年を要した。経・史・子・集の4部に分類され、総冊数は36000冊に及ぶ)の所蔵で知られた(現在は台湾故宮博物院に所蔵)。現在、故宮博物院となっているが、芥川が訪問した当時、既に、明・清代の御物が展示されて一般に公開されていたものと見える。因みに、芥川訪問時は、未だ中華民国臨時政府が居住権の許可を与えていた溥儀一族が内廷内に住んでいた(後、奉直戦争の中で起こった1924年の馮玉祥(ふうぎょくしょう)の内乱(北京政変)により強制退去させられた)。芥川龍之介は北京到着の6月11日以降、恐らく6月25日から7月9日の間に見学しているが、唯一「北京日記抄」の掉尾に(引用は岩波版旧全集から)、

 紫禁城。こは夢魔のみ。夜天よりも厖大(ぼうだい)なる夢魔のみ。

とあるのみである。

・『日本の「敷島」』「敷島」は国産の吸口付き煙草の銘柄。明治・大正・昭和初期迄の小説に頻繁に登場する、言わば文士のアイテムである。明治371904)年に発売され、昭和181943)年販売終了。口付とは、紙巻き煙草に付属した同等かやや短い口紙と呼ばれるやや厚手の紙で出来た円筒形の吸い口のことで、喫煙時に十字や一文字に潰して吸う。確か私の大学時分まで「朝日」が生き残っていて、吸った覚えがある。ここで芥川は「日本の」と振り、更に「敷島」を鍵括弧で括ることで(これは煙草の銘柄であることを示すための鍵括弧では、断じてない。芥川の他の作品や他作家の小説でも煙草の敷島を「 」で括ったりはしない)、ダブルの枕詞として、読者に効果的な「愛郷心」としての「大和」=「日本」のイメージを引き出しているのである。「敷島」という語は奈良県磯城(しき)郡の地を示す語で、崇神・欽明両天皇の都が置かれた場所であることから、大和国の、更に日本国の別称となった。そこから「敷島の」は「やまと」に掛かる枕詞になったのである。

・「東京に殘して來た子供の事」芥川比呂志のこと。中国旅行当時、長男の比呂志は、満一歳であった(旅行前年の大正9(1920)年4月10日生)。先立つ5月12日頃、南京にいた芥川は、体調の不調を訴えながらも比呂志の初節句の祝に着物を買っている。『支那の子供がお節句の時に着る虎のやうな着物ですあまり大きくないから比呂志の體ははひらないかもしれません尤もたつた一圓三十錢です』(517日上海から芥川道章宛岩波旧全集書簡番号九〇〇)。因みに、本「長江游記」発表時には、既に次男多加志も誕生しており(大正11192211月8日生)、やはり執筆時には満一歳であった。芥川が子煩悩であったことは、その遺書を見ても分かる。そうして、そうして実は計算された印象的な孤独な一人の、高みからのシーン(過去の「江南游記」の中でしばしば試みられた「第三の男」的手法である)に“Fin”が入るという憎い演出なのである――大事大事に抱えてきた湿ったまずい日本煙草を燻らせて――一人尾根に取り残されて――山上から下界を見下ろしながらノスタルジックに日本を思う堀川保吉――風の音が聞こえる――]

2009/07/27

長江游記 三 廬山(上)

       三 廬山(上)

 

 若葉を吐いた立ち木の枝に豚の死骸がぶら下つてゐる。それも皮を剥いだ儘、後足(あとあし)を上にぶら下つてゐる。脂肪に蔽はれた豚の體は氣味の惡い程まつ白である。私はそれを眺めながら、一體豚を逆吊(さかつ)りにして、何が面白いのだらうと考へた。吊下げる支那人も惡趣味なら、吊下げられる豚も間が拔けてゐる。所詮支那程下らない國は何處にもあるまいと考へた。

 その間に大勢の苦力(クウリイ)どもは我我の駕籠の支度をするのに、腹の立つ程騷いでゐる。勿論苦力に碌な人相はない。しかし殊に獰猛なのは苦力の大將の顏である。この大將の麦藁帽は Kuling Estate Head Coolie No* とか横文字を拔いた、黒いリボンを卷きつけてゐる。昔 Marius the Epicurean は、蛇使ひが使ふ蛇の顏に、人間じみた何かを感じたと云ふ。私は又この苦力の顏に蛇らしい何かを感じたのである。愈(いよいよ)支那は氣に食はない。十分の後(のち)、我我一行八人は籐椅子の駕籠に搖られながら、石だらけの路を登り出した。一行とは竹内栖鳳氏の一族郎黨、並に大元洋行(たいげんやうかう)のお上さんである。駕籠の乘り心地は思つたよりも好(よ)い。私はその駕籠の棒に長長と兩足を伸ばしながら、廬山の風光を樂んで行つた。と云ふと如何にも體裁が好いが、風光は奇絶でも何でもない。唯(ただ)雜木(ざふき)の茂つた間(あひだ)に、山空木(やまうつぎ)が咲いてゐるだけである。廬山らしい氣などは少しもしない。これならば、支那へ渡らずとも、箱根の舊道を登れば澤山である。

 前の晩私は九江にとまつた。ホテルは即ち大元洋行である。その二階に寢ころびながら、康白情氏の詩を讀んでゐると、潯陽江(じんやうかう)に泊した支那の船から、蛇皮(じやびせん)線だか何だかの音がして來る。それは兎に角風流な氣がした。が、翌朝になつて見ると、潯陽江に候(さふらふ)と威張つてゐても、やはり赤濁りの溝川(どぶかは)だつた。楓葉荻花秋瑟瑟(ふうえふてきくわあきしつしつ)などと云ふ、洒落れた趣は何處にもない。川には木造の軍艦が一艘、西郷征伐に用ゐたかの如き、怪しげな大砲の口を出しながら、琵琶亭のほとりに繋つてゐる。では猩猩は少時(しばらく)措き、浪裡白跳(らうりはくてう)張順か黒旋風李逵(りき)でもゐるかと思へば、眼前の船の篷(とま)の中からは、醜惡恐るべき尻が出てゐる。その尻が又大體にも、――甚(はなはだ)尾籠な申し條ながら、悠悠と川に糞をしてゐる。

 私はそんな事を考へながら、何時かうとうと眠つてしまつた。何十分か過ぎた後、駕籠の止まつたのに眼をさますと、我我のつい鼻の先には、出たらめに石段を積み上げた、嶮(けは)しい坂が突き立つてゐる。大元洋行のお上さんは、此處は駕籠が上らないから、歩いて頂きたいと説明した。私はやむを得ず竹内逸氏と、胸突き八町を登り出した。風景は不相變平凡である。唯(ただ)坂の右や左に、炎天の埃を浴びながら、野薔薇の花が見えるのに過ぎない。

 駕籠に乘つたり、歩かせられたり、いづれにもせよ骨の折れる、忌忌(いまいま)しい目を繰返した後、やつとクウリンの避暑地へ來たのは彼是午後の一時頃だつた。この又避暑地の一角なるものが輕井澤の場末と選ぶ所はない。いや、赤禿(あかはげ)の山の裾に支那のラムプ屋だの酒棧(チユザン)だのがごみごみ店を出した景色は輕井澤よりも一層下等である。西洋人の別莊も見渡した所、氣の利いた構へは一軒も見えない。皆烈しい日の光に、赤や青のペンキを塗つた、卑しい亞鉛(トタン)屋根を火照らせてゐる。私は汗を拭ひながら、このクウリンの租界を拓いた牧師エドワアド・リットル先生も永年支那にゐたものだから、とんと美醜の判斷がつかなくなつたのだらうと想像した。

 しかし其處を通り拔けると、薊や除蟲菊の咲いた中に、うつ木(ぎ)も水水しい花をつけた、廣い草原が展開した。その草原が盡きるあたりに、石の垣をめぐらせた、小さい赤塗りの家が一軒、岩だらけの山を後(うしろ)にしながら、翩翩(へんへん)と日章旗を飜してゐる。私はこの旗を見た時に、租國を思つた、と云ふよりは、祖國の米の飯を思つた。なぜと云へばその家こそ、我我の空腹を滿たすべき大元洋行の支店だつたからである。

 

[やぶちゃん注:5月23日。

・「一體豚を逆吊りにして、何が面白いのだらうと考へた」――芥川さん、あなたは考えてない。面白くてやってるのじゃない。頚動脈を切って、速やかに血抜きをする方法として、これは至極論理的な当たり前の処理方法なのですよ。中華料理を至極に旨いと連発するあなたにして、如何にも思慮なく、幼稚な感想、失望しました。――

・「苦力(クウリイ)」)」“ kǔ”は本来は肉体労働者の意であるが、ここでは所謂、荷揚げ人夫。芥川一行が乗っている「駕籠」というのは「轎子(きょうし)」で、お神輿のような形をした乗物。お神輿の部分に椅子がありそこに深く坐り、前後を4~2人で担いで客を運ぶ。これは日本由来の人力車と違って、中国や朝鮮の古来からある上流階級の乗物である。現在も廬山には4人持ちのものがあるらしい。

・「Kuling Estate Head Coolie No*」は「牯嶺苦力頭*番」の英訳。「牯嶺」は後掲する別荘地「クウリン」のこと。“*”は任意の数字。

・「Marius the Epicurean」初出はカタカナ表記で「マリアス・ズイ・エピキユリアン」。これはイギリスのヴィクトリア朝時代の評論家・作家であるWalter Horatio Pater(ウォルター・ホレイシオ・ペイター 18391894)の1885年のアウレリウス帝時代のローマを舞台にした小説“Marius the Epicurean: His Sensations and Ideas”「享楽主義者マリウス、その感覚と観念」の主人公。岩波版新全集の篠崎美生子氏の注解によれば、芥川が大正8(1919)年に漱石の「三四郎」に似た構想のもとに執筆しながら未完で投げ出してしまった「路上」の主人公(明らかに芥川自身を思わせる)安田俊助を『マリウスになぞらえているほか、一九一七年八月29日付井川(恒藤)恭宛書簡では自分を「東洋的エピキュリアン」だと語っている』とある。「エピキュリアン」は快楽主義者。享楽主義者の意。古代ギリシアのヘレニズム期のエピクロス派の始祖であった哲学者Epikūrosエピクロス(B.C.341B.C.270)の教義に基づくが、本来の彼の人生の「快」は精神的なものであって、肉体的快楽はそれを「苦」と捉えていた。

・「大元洋行」筑摩全集類聚版脚注に『九江最大の日本人旅館。後、増田旅館と改名。』とあり、本文で見るように、廬山に支店を持っており、当時、日本人の廬山観光はこの旅館が一手に担っていたらしい。

・「山空木」和名のヤマウツギは、まず、バラ亜綱ムクロジ目ミカン科コクサギOrixa japonicaの別名(「和名抄」)として用いられるが、分布や花の開花期は本記載と一致するものの、花自体が目立たないものなので、同定から除外する。次にキク亜綱マツムシソウ目スイカズラ科タニウツギ属ハコネウツギ(ベニウツギ)Weigela coraeensisの別名(「大和本草」)として用いられるが、本種が中国に分布するかどうかは確認出来ないし、本邦の海岸近くに植生するという点からも除外される(因みに「箱根」が本文に出るのでこれを同定したいところであるが、このハコネウツギ、箱根とは無関係で、箱根には植生しない)。そうなると、広範な意味でのウツギ、バラ亜綱バラ目アジサイ科ウツギ属Deutziaに属するもので、大陸性のものを選ぶしかないが、ウィキの「ウツギ」によると、マルバウツギDeutzia scabra・ヒメウツギDeutzia gracilis等の『同属の類似種多く、東アジアとアメリカに60種ほど分布する』とあるのみで、しかも中文ウィキ「ウツギ」の相当するページには、本邦のウツギ属ウツギ Deutzia crenata をごく短く載せるにとどまるばかりである。ところが同種は所謂、「卯の花」で原種の花は白い。これまでである。識者の御教授を乞う。

・「康白情」kāng báiqíng(カン パイチン 18951959or1954)は、本名康鴻章、詩人。胡適・陳独秀らの影響を受け、1919年の五四運動に参加、散文形式の白話詩人として好評を博した。アメリカ留学を経て、解放後まで華南大学文学部教授等を歴任した。詩集「草児」「河上集」等。

・「潯陽江」現在の江西省揚子江岸九江市付近には、古代に置かれた潯陽郡潯陽県が置かれたことから、この九江の北を流れる揚子江のことを特に潯陽江と呼んだ。以下の白居易の詩「琵琶行」巻頭を意識した表現。

・「蛇皮線」中国伝統の弦楽器、三弦(弦子)のこと。沖繩の三線(さんしん)や三味線のルーツ。

 

・「楓葉荻花秋瑟瑟」白居易の「琵琶行」の冒頭は以下のように始まる。

 

潯陽江頭夜送客

楓葉荻花秋瑟瑟

 

○やぶちゃん書き下し文

潯陽江頭 夜 客を送る

楓葉荻花 秋 瑟瑟

 

○やぶちゃん現代語訳

潯陽江のほとりで

旅立つ人を送る宴を張った――

紅葉した楓の葉――白い荻(おぎ)の穂――

そこを吹き抜けるのは

ただ淋しい風の音(ね)――

 

「瑟瑟」を「索索」とするもの一本がある。「瑟瑟」は“sèsè”(セセ)、「索索」“suŏsuŏ”(シュオシュオ)で、本来ならここは、逐語訳すれば「ヒューヒュー」に相当する「楓葉荻花」を吹き抜ける風の音そのものの擬音語である。その他、この「琵琶行」については、「上海游記 十六 南國の美人(中)」の私の注を参照されたい。

 

・「西郷征伐」西南の役。

・「琵琶亭」現在の九江にある長江大橋の東側にある、白居易が「琵琶行」を詠んだとされる場所に、後世建てられた亭。

・「猩猩は少時措き」の「猩猩」は中国の伝説上の動物で、延びた体毛に覆われた少年のようななりをしており、人語を解し、赤い顔をしていて酒を好むとされる。筑摩全集類聚版脚注は同内容を記して終わる。岩波版新全集の篠崎美生子氏は注を附していない。それで読者は分かるのか? では諸注が読者の誰にも分かっているとして書かない言わずもがなの注を記すとしよう。これは「猩猩」で「酔っ払い」を指している。「猩猩」はその性質から大酒家の渾名に用いられる。これは白居易「琵琶行」の主人公が、友の送別を河畔にした白居易は友と酒杯を挙げ、琵琶引きを呼び、その哀しい音色に心打たれ、酔った勢いでこの長詩を詠んだという設定である。そこに感涙極まった赤ら顔の白居易の姿を芥川はまず浮かべたのである。しかし、時刻はもとより、見える景色も如何にもそぐわないから、それはまあ、仕方がなく想像をやめて、の意である。ここは「琵琶行」を知らなくては、全く意味が分からない部分である。筑摩脚注者や篠崎美生子氏は当然御存知であった。そうして日本国民の一般人はここを読んで即座に白居易「琵琶行」を想起し、その内容から類推して「猩猩」を「酔っ払い」、酔っ払い即ち白居易とコンピュータ並みに迅速に理解出来るらしい。僕は確認のために「琵琶行」を再読しつつ、「猩猩」を調べてみて、はたと気づいた大馬鹿者であった。本篇冒頭注に掲げた『私の乏しい知識(勿論それは一部の好みの分野を除いて標準的庶民のレベルと同じい)で十分に読解出来る場合』の丸括弧注は降ろした方が良いらしい。

・「浪裡白跳張順」は「水滸伝」中の梁山泊の豪傑の一人。ウィキの「張順によれば、渾名は浪くぐりのハヤを意味する。登場の始めは兄の張横と『揚子江で闇渡し舟をして旅人の金銭を巻き上げていたが』、宋江と知り合い梁山泊入りを果たす。『大変な泳ぎの達人で、四、五十里(約20km)を泳ぎ、数日間を水中で過ごすことができるという、水泳の達人が多い水軍頭領の中でもずば抜けた水泳技能を持っていた。梁山泊では水軍頭領のひとりとして活躍した。』梁山泊が官軍となった後、反乱賊軍の首魁方臘(ほうろ)『討伐の中盤、敵軍が杭州城に篭城すると川を泳いで城内に忍び込むことを進言。単独城門前まで忍び寄るが、備えがあったために敵兵に発見される。あわてて水中に逃げ込もうとするが、一瞬遅く矢や投げ槍、岩で攻撃されて戦死した。その夜、宋江の夢に現れて別れを告げた。杭州城が陥落すると、張横の体に乗り移って敵指揮官の方天定を殺害、宋江の前に首を捧げる。張順は竜王によって神に封じられ、魂魄となって方天定についていたところ張横を見かけたので、体を借りて成敗したと告げて去った。』とある。如何にも芥川好みの暴虎馮河ではないか。

・「黒旋風李逵」は「水滸伝」中の梁山泊の豪傑の一人。ウィキの「李逵」によれば、『二挺の板斧(手斧)を得意と』し、そのすばしっこさと荒々しい強さに加えて、『色の黒さからよく「鉄牛」とも呼ば』れた。『怪力で武芸に優れた豪傑であるが、性格は幼児がそのまま大きくなったように純粋であり、物事を深く考えることは無く我慢もきかないため失敗も多い。』『一方で幼児独特の残虐性や善悪の区別の曖昧さもそのまま引き継いだために、人を殺すことをなんとも思っておらず、無関係の人間を巻き添えにしたり女子供を手にかけることも厭わない』ため、なついて尊崇する宋江等からも『叱責を買うことも多い』。ある意味、『破茶滅茶で失敗も多いが憎めない部分もあるトリックスター的存在で、この手の破壊的快男子が喝采を浴びる中国では群を抜く人気を誇っている。しかし日本ではあまりに行動が短絡的で、無節操に人を殺すせいか辟易する読者も多く、好き嫌いがはっきり分かれる人物のようである』とある。その宋江との意外な別れは魅力的であり、『死後も徽宗の夢の中に現れ奸臣にいいように騙された事を罵って斬りかかったり』するなど、如何にも芥川好みのプエル・エテルヌス・ピカレスクではある。

・「篷」「苫(とま)」に同じ。菅(すげ)や茅(かや)等で編んで作った莚(むしろ)。雨露を凌ぐために小船等をこれで覆った。

・「クウリン」“Gǔlĭng”漢字表記は「牯嶺(これい/くれい)」。牯嶺鎮。「北京太極拳気功養生会」「廬山」のページによれば、廬山の北方の峰にあり、三方を山に囲まれ、一方は谷に面しており、その鎮(村)全体の形が牝牛のような形をであることから、この名が付いたとある。現在も別荘が集中する地域で、『ホテルやレストランがこの小さな町の街道に沿って両側に並び、観光客がにぎわっている』とある。

・「この又避暑地の一角なるものが輕井澤の場末と選ぶ所はない。……輕井澤よりも一層下等である。」ここで芥川が軽井沢と廬山を対比している点に注意されたい。これは、廬山でのアップ・トゥ・デイトな感懐ではないということである。何故なら、廬山を訪れた際の芥川は軽井沢に行ったこともなかったからである。彼が始めて軽井沢に避暑に赴いたのは、まさにこの「長江游記」が公開される直前、大正131924)年の7月22日のことであった。彼はこの初めての軽井沢が大変気に入って、8月23日の田端帰還まで、都合、一ヶ月を過している。そして、冒頭注でも述べた通り、ここで越し人、片山廣子と運命の出逢いをしたのであった。本「長江游記」はそのような特殊な雰囲気の中で書かれたものでことを知って読んでみると、何気ない感懐や言葉尻りが、不思議に意味深長なものに見えてくるのである。この大正101921)年の廬山の芥川は、同時に大正131924)年8月の軽井沢の芥川として読めるということである。

・「酒棧(チユザン)」“jiŭzhàn”。居酒屋。

・「亞鉛(トタン)」トタン板。薄い鋼板に亜鉛メッキをしたもの。かつてはよく屋根板に用いられた。この呼称はポルトガルで亜鉛を意味する“tutanaga”に由来するとも言われる。

・「クウリンの租界」こんな山ん中に租界があるんかい、と思って検索すると、「廬山避暑紀行ダイジェストのページに、パール・バックや蒋介石の別荘等の写真入りで、清末に牯嶺の『東谷と称される一帯の租借権が英国人宣教師に与えられ、外国人避暑地として開発された、軽井沢のような地でもある。』という記載(これはその入り口の「廬山避暑紀行」のページのキャプション)を発見、眼から鱗、廬から牯牛!

・「エドワアド・リットル」Edward Selby little(エドワード・セルビー・リットル 18641939)、中国名李徳立は、イギリス人宣教師として清後期(光緒年間:18751908)に来中(在中は18901910)し、この牯嶺東谷を租借地として借り受け、避暑用別荘地として開拓をした。その際、「廬山避暑紀行ダイジェスト」のページによれば、このリットル氏が『英語の「cooling」にも通ずる名称として、同地の「牯牛嶺」という地名をもとに、別荘地一帯を「牯嶺」と命名し、ウェード式ローマ字では「Kuling」と表記した。』とある。またまた、眼から鱗、牯(めうし)から涼!

・「翩翩」翩翻(へんぽん)に同じ。]

2009/07/26

長江游記 二 溯江

       二 溯江

 私は溯江の汽船へ三艘乘つた。上海(シヤンハイ)から蕪湖(ウウフウ)までは鳳陽丸、蕪湖から九江(キウキヤン)までは南陽丸、九江から漢口(ハンカオ)までは大安丸である。

 鳳陽丸に乘つた時は、偉い丁抹人(デンマアクじん)と一しよになつた。客の名は盧糸(ろし)、横文字に書けばRooseである。何でも支那を縱横する事、二十何年と云ふのだから、嘗世のマルコ・ポオロと思へば間違ひない。この豪傑が暇さへあると、私だの同船の田中君だのを捉(つかま)へては、三十何呎(フイイト)の蟒蛇(うわばみ)を退治した話や、廣東(カントン)の盜俠(たうけふ)ランクワイセン(漢字ではどんな字に當るのだか、ルウズ氏自身も知らなかつた。)の話や、河南直隷(ちよくれい)の飢饉の話や、虎狩豹狩の話なぞを滔滔と辯じ來り辯じ去つてくれた。その中でも面白かつたのは、食卓(テエブル)を共にした亞米利加人の夫婦と、東西兩洋の愛を論じた時である。この亞米利加人の夫婦、――殊に細君に至つては、東洋に對する西洋の侮蔑に踵(かかと)の高い靴をはかせた如き、甚(はなはだ)横柄な女人(によにん)だつた。彼女の見る所に從へば、支那人は勿論日本人も、ラヴと云ふ事を知つてゐない。彼等の蒙昧は憐むべしである。これを聞いたルウズ氏は、カリイの皿に向ひながら、忽(たちまち)異議を唱へ出した。いや、愛の何たるかは東洋人と雖も心得てゐる。たとへば或(ある)四川の少女は、――と得意の見聞を吹聽すると、細君はバナナの皮を剥きかけた儘、いや、それは愛ではない、單なる憐憫に過ぎぬと云ふ。するとルウズ氏は頑強に、では或日本東京の少女は、――と又實例をつきつけ始める。とうとうしまひには相手の細君も、怒火心頭に發したのであらう、突然食卓を離れると、御亭主と一しょに出て行つてしまつた。私はその時のルウズ氏の顏を未にはつきり覺えてゐる。先生は我我黄色い仲間へ、人の惡い微笑を送るが早いか人さし指に額を叩きながら、「ナロウ・マインデット」とか何とか云つた。生憎この夫婦の亞米利加人は、南京で舶を下りてしまつたが、ずつと溯江を續けたとすれば、もつといろいろ面白い波瀾を卷き起してゐたのに相違ない。

 蕪湖から乘つた南陽丸では、竹内栖鳳氏の一行と一しよだつた。栖鳳氏も九江に下船の上、廬山に登る事になつてゐたから、私は令息、――どうも可笑しい。令息には正に違ひないが、餘り懇意に話をしたせゐか、令息と呼ぶのは空空しい氣がする。が、兎に角その令息の逸(いつ)氏なぞと愉快に溯江を續ける事が出來た。何しろ長江は大きいと云つても、結局海ではないのだから、ロオリングも來なければピッチングも來ない。船は唯機械のベルトのやうにひた流れに流れる水を裂きながら、悠悠と西へ進むのである。この點だけでも長江の旅は船に弱い私には愉快だつた。

 水は前にも云つた通り、金鏽(かなさび)に近い代赭である。が、遠い川の涯は青空の反射も加はるから、大體刃金(はがね)色に見えぬ事はない。其處を名高い大筏(おほいかだ)が二艘も三艘も下つて來る。現に私の實見した中にも、豚を飼つてゐる筏があつたから、成程飛び切りの大筏になると、一村落を載せたものもあるかも知れない。又筏とは云ふものの、屋根もあるし壁もあるし、實は水に浮んだ家屋である。南陽丸の船長竹下氏の話では、これらの筏に乘つてゐるのは雲南貴州等の土人だと云ふ。彼等はさう云ふ山の中から、萬里の濁流の押し流す儘に、悠悠と江(かう)を下つて來る。さうして浙江安徽等(とう)の町町へ無事に流れついた時、筏に組んで來た木材を金に換へる。その道中短きものは五六箇月、長きものは殆(ほとんど)一箇年、家を出る時は妻だつた女も、家へ歸る時は母になるさうである。しかし長江を去來するのは、勿論この筏のやうに、原始時代の遺物に限つた訣ぢやない。ー度は亞米利加の砲艦が一艘、小蒸氣(こじようき)に標的を牽かせながら、實彈射撃なぞをしてゐた事もある。

 江の廣い事も前に書いた。が、これも三角洲(デルタ)があるから、一方の岸には遠い時でも、必(かならず)一方には草色(さうしよく)が見える。いや、草色ばかりぢやない。水田の稻の戰ぎも見える。楊柳の水に生え入つたのも見える。水牛がぼんやり立つたのも見える。青い山は勿論幾つも見える。私は支那へ出かける前、小杉未醒氏と話してゐたら、氏は旅先の注意の中にかう云ふ事をつけ加へた。

 「長江は水が低くつてね、兩岸がずつと高いから、船の高い所へ上(あが)るんですね。船長のゐる、何と云ふかな、あの高い所があるでせう。あすこへ上らねえと、眺望が利きませんよ。あすこは普通の客はのせねえから、何とか船長を護摩かすんですね。………」

 私は先輩の云ふ事だから、鳳陽丸でも南陽丸でも、江上の眺望を恣(ほしいまゝ)にする爲に、始終船長を護摩かさうとしてゐた。處が南陽丸の竹下船長はまだ護摩かしにかからない内からサロンの屋根にある船長室へ、深切にも私を招待してくれた。しかし此處へ上つて見ても、格別風景には變りもない。實際又甲板にゐても、ちやんと陸地は見渡せたのである。私は妙に思つたから、護摩かさうとした意志を白状した上、船長にその訣を尋ねて見た。すると船長は笑ひ出した。

 「それは小杉さんの來られた時はまだ水が少かつたのでせう。漢口あたりの水面の高低は、夏冬に四十五六呎(フイイト)も違ひますよ。」

[やぶちゃん注:芥川龍之介の長江溯江は、上海から蕪湖は5月16日夜出航で19日夜着(前章参照)、蕪湖から九江は5月22日で、翌23日に後掲の廬山へ行き、翌日24日には廬山を発って九江へ向かい、そこから漢口に向かった。漢口着は5月26日頃である(これ以降、北京迄の旅程は、書簡から探るのみで一部は現在でも定かでない)。

・「鳳陽丸」同名の船が長澤文雄氏のHP「なつかしい日本の汽船」の「明治後期-大正期」のページに、日清汽船所有船舶として写真付きで掲載されている(通し番号15)。その資料によれば、大正4(1915)年に貨物船「鳳陽丸」“ FENG YANG MARU”として進水、船客は特1等16名・1等18名・特2等10名・2等60名・3200名。昭141939)年に東亞海運(東京)の設立に伴って移籍した。そして『1944.8.31(昭19)揚子江の石灰密(30.10N,115.10E)で空爆により沈没』とあるので、この船に間違いないと思われる。

・「九江(キウキヤン)」“Jiŭjiāng”(チィォウチォイアン)は江西省北部、長江の南岸に位置する港湾都市。南に廬山を臨む。地名は多くの河川がこの地で合流し、長江の水勢を増すことから。

・「南陽丸」同名の船が長澤文雄氏のHP「なつかしい日本の汽船」の「明治後期」のページに、日本郵船所有船舶として写真付きで掲載されている(通し番号155)。その資料によれば、明治401907)年に「南陽丸」“NANYO MARU”として進水、船客は特1等が16室・1等20室・2等46室・3等252室、明治401907)年に日清汽船(東京)に移籍後に南陽丸“NAN YANG MARU”と改名している。昭和121937)年に『上海の浦東水道(Putong Channel)で中国軍の攻撃を受けて沈没』とあるので、この船に間違いないと思われる。

・「大安丸」同名の船は長澤文雄氏のHP「なつかしい日本の汽船」の「太平洋戦争の残存船舶」のページに、Canadian Vickers Ld.造船になる5,412tの東洋海運所有船舶として掲載されている(通し番号71)。が、この「大安丸」“Taian Maru”は中国で就航していた事実も確認出来ず、更にその進水年が大101921)年で、芥川が渡中したその年でもあるため、この船とは同定し難い気がする。またウィキのアメリカ海軍潜水艦ガーナード (USS Gurnard, SS-254) の記載の中に昭和171942)年『9月6日、ガーナードは3回目の哨戒で東シナ海に向かった。10月7日深夜、ガーナードはルソン島ボヘヤドール岬西北西120キロの地点で5隻からなる772船団を発見。翌10月8日1時39分に攻撃し、大日丸(板谷商船、5,813トン)と大安丸(太洋海運、5,655トン)の2隻を撃沈した。』という記載が現れる。「大安丸」という名は複数あってもおかしくない名である。

・「偉い」この「えらい」は程度が常識を外れている、とんでもなく変わった、という意味である。

・「盧糸、横文字に書けばRoose」不詳。芥川は明らかに、このとんでもないデンマーク人に親しみを覚えているのが分かる。私はこれがあの芥川の親友トーマス・ジョーンズに相似た面影を感じさせたからではないかと推測している(ジョーンズについては「上海游記 三 第一瞥(中)」の注を参照されたい)。「上海游記 十四 罪」の中に『或丁抹人が話したのでは、四川や廣東には六年ゐても、屍姦の噂は聞かなかつたのが、上海では近近三週間の内に、二つも實例が見當つたさうです。』という話のネタ元はこのRooseであろう。

・「同船の田中君」不詳。芥川龍之介の中紀行の中に「田中」姓の人物は他には見当たらない。毎日新聞社の社員が同船した可能性はないではないが、北京までは基本的に芥川龍之介の一人旅である。恐らく、「上海游記 一 海上」の「馬杉君」同様、「同じ船室に當つた」に過ぎない日本人旅行者かビジネスマンであろう。

・「三十何呎の蟒蛇」1feet30.48㎝であるから、10mを悠に越える大蛇、ということになる。初出は「二十何呎の蟒蛇」で、これだと6m強で、如何にもいそうな大きさである。アジアの最大種としてはヘビ亜目ニシキヘビ科ニシキヘビ属アミメニシキヘビPython reticulatusで、ウィキの「アミメニシキヘビ」には最大全長9m90㎝とある。しかし中国版のアミメニシキヘビ当該項「網紋蟒」には、ズバリ最大長14m86㎝という記載があるから、Roose氏の言、必ずしも法螺ならずか。

・「廣東(カントン)」“guǎngdōng”。中国大陸の南、南シナ海に面した広州を州都とする現在の広東省を中心とした地方。海南島や旧租借地であった香港・マカオを含む。

・「盜俠」義賊。

・「ランクワイセン」不詳。漢字の一字でも分かれば糸口となりそうだが。識者の御助言を乞う。

・「河南直隷の飢饉」「河南」地方は黄河中流域の現在の河南省。現在、中国最大の人口(約1億)を抱える。中国7大古都の内、殷周の安陽・漢以降の洛陽・宋の開封の3大古都を有する。黄河を挟んで北に位置する「直隷」地方は現在の河北省とほぼ同域。明代以降、大韓民国前期まで黄河下流の北部地域を指した行政区画。「直隷」は「皇帝のお膝元」の意。1928年(民国17年)に北京から南京に遷都した際、河北省と改名した(以上は「河南省」「直隷」それぞれのウィキを参照した)。黄河の氾濫等により、しばしば飢饉に見舞われた。公開が女性誌であるからか、芥川は書いていないが、恐らく人肉食の話に及んだものと思われる。

・「虎」/「豹」この「虎」はネコ目ネコ科ヒョウ亜科ヒョウ属トラPanthera tigrisの亜種で、中華人民共和国南部及び西部に生息するアモイトラPanthera tigris amoyensisを指していると考えてよい。全長は♂230265㎝・♀220240㎝。体重♂130175㎏、♀100115㎏。腹面には狭い白色の体毛があり、縞は太く短く、縞の本数は少ない。既に絶滅が疑われている。「豹」は北方種ならばネコ亜目ネコ科ヒョウ亜科ヒョウPanthera pardusの亜種で、中国東北部に分布するキタシナヒョウPanthera pardus japonensis又はアムールトラPanthera pardus orientalis(前者は自然界では絶滅危惧種。後者は絶滅が疑われている)、南方種ならばインドとの国境付近に生息するインドヒョウPanthera pardus fuscaの何れかと考えられる(主にウィキの複数の記載を参照した)。

・「四川」中国大陸の西南部に位置する、成都を州都とする現在の四川省とほぼ同域を指す地方名。旧来の「巴蜀」と考えた方がよい。峻険な山岳地帯。岩波版新全集の篠崎美生子氏の注解には『西安を含む黄河上流域の省』とあるが、これは陝西省と取り違えている、とんでもない誤りである。

・『「ナロウ・マインデット」』“narrow minded”「何て心の狭い!」若しくは「酷い偏見だね!」の意。

・「竹内栖鳳」(元治元(1864)年~昭和171942)年)は日本画家。最初は棲鳳と号した。近代日本画の先駆者にして京都画壇の大家。大正2(1913)年、帝室技芸員。この時、57歳。

・「その令息の逸氏」竹内逸三(たけうちいつぞう 明治241891)年~昭和551980)年)美術評論家。逸はペン・ネーム。竹内栖鳳の長男。美術評論家・随筆家。国画創作協会の機関誌「制作」の編集に携わる一方、「文藝春秋」等に評論を発表、小説も手掛けた。芥川とは一つ年上の同世代で話も合ったのであろう、彼とは特に懇意になったことが伺われる。

・「南陽丸の船長竹下氏」芥川は、この船長とは懇意にしたらしく、「上海游記 十九 日本人」にも竹下氏の話が引用されている。

・「雲南貴州」「雲南」は現在の中華人民共和国最西南端に位置する雲南省と同域(州都は昆明)。ベトナム・ラオス・ミャンマーと国境を接し、亜熱帯樹林及び北部高原域では亜寒帯樹林もある生物多様性には富んだ地域である。「貴州」は雲南省北東部に接する地域で、現在の貴陽を州都とする貴州省。ここは貴州高原と呼ばれ、その80%がカルスト地形からなる。両省は中国の省の中では人口の少数民族の占める割合が比較的高く、民族数も多い。共に経済的には現在も貧しい地方である。

・「浙江安徽」「浙江」は上海の南、長江河口域に位置する、杭州を州都とする浙江省、「安徽」は浙江省の北西部に接する長江中下流域に位置する、合肥(がっぴ/ごうひ)を州都とする安徽省に相当。現在、浙江省は経済発展著しい省である。

・「ロオリング」“rolling”船の横揺れ。

・「ピッチング」“pitching”船の縦揺れ。

・「小杉未醒」小杉放庵(こすぎほうあん、明治141881)年~昭和391964)年)のこと。洋画家。本名国太郎、未醒は別号。「帰去来」等の随筆や唐詩人についての著作もあり、漢詩などもよくした。『芥川の中国旅行に際し、自身の中国旅行の画文集「支那画観」(一九一八)を贈った。芥川は中国旅行出発前には、小杉未醒論(「外観と肚の底」中央美術)を発表』している(以上の引用は神田由美子氏の岩波版新全集注解から)。その「外観と肚の底」の中で芥川は彼の風貌を、『小杉氏は一見した所、如何にも』『勇壯な面目を具へてゐる。僕も實際初對面の時には、突兀(とつこつ)たる氏の風采の中に、未醒山人と名乘るよりも寧ろ未醒蛮民と号しそうな辺方瘴煙の氣を感じたものである。が、その後(ご)氏に接して見ると』『肚(はら)の底は見かけよりも、遙に細い神經のある、優しい人のやうな氣がして來た』と記している。五百羅漢を髣髴とさせる描写ではある。芥川より11歳年上。同じ田端に住んでいた。

・「四十五六呎」1feet30.48㎝であるから、13mから14m。ほんまかいな?! と疑って検索してみると、2003年7月17日の武漢で、長江の水位が27.3メートルに迫り、展望台に水が迫り、漢口龍王廟付近で 水遊びをしている子供の画像があるかと思うと、2008年1月8日の長江の漢口水文観測所での水位が13.98mと記録的な最低位を示したという記事もあった。27.313.9813.32m(!)、船長、嘘つかない!]

2009/07/25

長江游記 一 蕪湖

       一 蕪湖

 

 私は西村貞吉(にしむらていきち)と一しよに蕪湖(ウウフウ)の往來を歩いてゐた。往來は此處も例の通り、日さへ當らない敷石道である。兩側には銀樓だの酒棧(チユザン)だの、見慣れた看板がぶら下つてゐるが、一月半も支那にゐた今では、勿論珍しくも何ともない。おまけに一輪車の通る度に、きいきい心棒を軋ませるのは、頭痛さへしかねない騷騷しさである。私は暗澹たる顏をしながら、何と西村に話しかけられても、好い加減な返事をするばかりだつた。

 西村は私を招く爲に、何度も上海へ手紙を出してゐる。殊に蕪湖へ着いた夜なぞはわざわざ迎への小蒸氣(こじようき)を出したり、歡迎の宴(えん)を催したり、いろいろ深切を盡してくれた。(しかもわたしの乘つた鳳陽丸は浦口(プウカオ)を發するのが遲かつた爲に、かう云ふ彼の心盡しも悉(ことごとく)水泡に歸したのである。)のみならず彼の社宅たる唐家花園(たうかくわゑん)に落ち着いた後(のち)も、食事とか着物とか寢具とか、萬事に氣を配つてくれるのには、實際恐れ入るより外はなかつた。して見ればこの東道(とうだう)の主人の前へも、二日間の蕪湖滯在は愉快に過さねばならぬ筈である。しかし私の紳士的禮讓も、蝉に似た西村の顏を見ると、忽(たちまち)何處かに消滅してしまふ。これは西村の罪ではない。君僕の代りにお前おれを使ふ、我我の親みの罪である。さもなければ往來の眞ん中に、尿(いばり)をする豚と向ひ合つた時も、あんなに不快を公表する事は、當分差控へる氣になつたかも知れない。

 「つまらない所だな、蕪湖と云ふのは。――いや一蕪湖ばかりぢやないね。おれはもう支那には飽き厭きしてしまつた。」

 「お前は一體コシヤマクレテゐるからな。支那は性に合はないのかも知れない。」

 西村は横文字は知つてゐても、日本語は甚(はなはだ)未熟である。「こましやくれる」を「コシヤマクレル」、鷄冠を「トカサ」、懷を「フトロコ」、「がむしやら」を「ガラムシヤ」――その外日本語を間違へる事は殆(ほとんど)擧げて數へるのに堪へない。私は西村に日本語を教へにわざわざ渡來した次第でもないから、佛頂面をして見せたぎり、何とも答ヘず歩き續けた。

 すると稍(やや)幅の廣い往來に、女の寫眞を並べた家があつた。その前に閑人(ひまじん)が五六人、つらつら寫眞の顏を見ては、何か靜に話してゐる。これは何だと聞いて見たら、濟良所だと云ふ答があつた。濟良所と云ふのは養育院ぢやない。自由廢業の女を保護する所である。

 一通り町を遍歴した後、西村は私を倚陶軒(いとうけん)、一名大花園と云ふ料理屋へつれて打つた。此處は何でも李鴻章の別莊だつたとか云ふ事である。が、園へはひつた時の感じは、洪水後の向島あたりと違ひはない。花木は少いし、土は荒れてゐるし、「陶塘」(たうたう)の水も濁つてゐるし、家の中はがらんとしてゐるし、殆(ほとんど)御茶屋と云ふ物とは、最も縁の遠い光景である。我我は軒(のき)の鸚鵡の籠を見ながら、さすがに味だけはうまい支那料理を食つた。が、この御馳走になつてゐる頃から、支那に對する私の嫌惡はだんだん逆上の氣味を帶び始めた。

 その夜唐家花園のバルコンに、西村と籐椅子を並べてゐた時、私は莫迦莫迦しい程熱心に現代の支那の惡口を云つた。現代の支那に何があるか? 政治、學問、經濟、藝術、悉(ことごとく)墮落してゐるではないか? 殊に藝術となつた日には、嘉慶道光の間(かん)以來、一つでも自慢になる作品があるか? しかも國民は老若を問はず、太平樂ばかり唱へてゐる。成程若い國民の中には、多少の活力も見えるかも知れない。しかし彼等の聲と雖も、全國民の胸に響くべき、大いなる情熱のないのは事實である。私は支那を愛さない。愛したいにしても愛し得ない。この國民的腐敗を目撃した後も、なほ且支那を愛し得るものは、頽唐を極めたセンジュアリストか、淺薄なる支那趣味の惝怳者(しやうけいしや)であらう。いや、支那人自身にしても、心さへ昏(くら)んでゐないとすれば、我我一介の旅客(りよかく)よりも、もつと嫌惡に堪へない筈である。………

 私は盛に辯じ立てた。バルコンの外の槐(ゑんじゆ)の梢は、ひつそりと月光に涵(ひた)されてゐる。この槐の梢の向う、――幾つかの古池を抱へこんだ、白壁の市街の盡きる所は揚子江の水に違ひない。その水の汪汪(わうわう)と流れる涯には、ヘルンの夢みた蓬莱のやうに懷しい日本の島山(しまやま)がある。ああ、日本へ歸りたい。

 「お前なんぞは何時でも歸れるぢやないか?」

 ノスタルジアに感染した西村は月明りの中に去來する、大きい蛾の姿を眺めながら、殆(ほとんど)獨語(ひとりごと)のやうにかう云つた。私の滯在はどう考へても、西村には爲にならなかつたらしい。

 

[やぶちゃん注:現在安徽省第二の大都市となった蕪湖“Wúhú”(ウホウ)は上海から約390km・南京から約90kmの長江中流に位置する。昔から四大穀倉地帯の一つとして、また長江中流の物産の集積する港町として栄えてきた。街中には水路・運河・湖や池が多く、河岸には問屋街が並ぶ。由緒ある古寺や中国四大仏教聖地の一つである九華山、名山と知られる黄山等がある景勝地である。

・「西村貞吉」芥川の府立三中時代の同級生で、東京外国語学校(現・東外語大学)卒業後、各地を放浪の後、中国安徽省蕪湖唐家花園に居を定めていた。芥川が中国から帰還した直後の大正101921)年9月に『中央公論』に発表した「母」は、蕪湖に住む野村敏子とその夫の物語であるが、この夫は明らかに彼をモデルとしている。

・「銀樓」貴金属店。金銀を用いた細工店。

・「酒棧(チユザン)」“jiŭzhàn”。居酒屋。

・「一輪車」所謂、木製で出来た一輪車を向きを逆にして、牛や驢馬の後方に連結したものを言うのであろう。

・「小蒸氣」は「小蒸気船」の略。港湾にあって大型船舶の旅客の送迎や通船等に当たる小型の動力船のこと。

・「鳳陽丸」同名の船が長澤文雄氏のHP「なつかしい日本の汽船」の「明治後期-大正期」のページに、日清汽船所有船舶として写真付きで掲載されている(通し番号15)。その資料によれば、大正4(1915)年に貨物船「鳳陽丸」“ FENG YANG MARU”として進水、船客 は特1等16名・1等18名・特2等10名・2等60名・3200名。昭141939)年に東亞海運(東京)の設立に伴って移籍した。そして『1944.8.31(昭19)揚子江の石灰密(30.10N,115.10E)で空爆により沈没』とあるので、この船に間違いないと思われる。

・「浦口(プウカオ)」“pŭkŏu”は現在の江蘇省南京市浦口区。南京市街とは長江を挟んで反対側にあり、1968に竣工した南京長江大橋が出来るまでは、南京への渡し場・長江の港町として栄えた。

・「唐家花園」ネット検索では掛からない。現在はこの地名(宅地名)は現存しないか。先に示した西村をモデルとした「母」には、その夫の台詞の中に蕪湖の「雍家花園(ようかかえん)」という地名が現れる。しかし、これもネット検索では掛からない。識者の御教授を乞う。

・「東道」は「東道の主」若しくは「東道の主人」の略。「春秋左伝」僖公(きこう)三十年の記載を故事とする語。本来は、東方へ赴く旅人をもてなす主人の意である。そこからホストとしてゲストの世話をする者を言う。

・「禮讓」相手に対して、礼儀正しく、へりくだった態度をとること。

・「濟良所」筑摩全集類聚版脚注等によれば、中華民国時代に置かれた官営機関。官妓や公娼の中で、誰かに引かされたのではなく、自分の意思でやめた者(「自由廢業」)は一般の仕事に就き難くかった。そこでここで手仕事や新時代の一般教養を習得させて、正業に就かせようとした。

・「倚陶軒、一名大花園と云ふ料理屋」未詳。現存しない模様。

・「李鴻章」Lĭ Hóngzhāng(りこうしょう、リ・ホゥォンチャン 18231901)は清代の政治家。1850年に翰林院翰編集(皇帝直属官で詔勅の作成等を行う)となる。1853年には軍を率いて太平天国の軍と戦い、上海をよく防御して江蘇巡撫となり、その後も昇進を重ねて北洋大臣を兼ねた直隷総督(官職名。直隷省・河南省・山東省の地方長官。長官クラスの筆頭)の地位に登り、以後、25年間その地位にあって清の外交・軍事・経済に権力を振るった。洋務派(ヨーロッパ近代文明の科学技術を積極的に取り入れて中国の近代化と国力強化を図ろうとしたグループ。中国で十九世紀後半におこった上からの近代化運動の一翼を担った)の首魁として近代化にも貢献したが、日清戦争(明治271894)年~明治281895)年)の敗北による日本進出や義和団事件(19001901)での露清密約によるロシアの満州進出等を許した結果、中国国外にあっては傑出した政治家「プレジデント・リー」として尊敬されたが、国内では生前から売国奴・漢奸と分が悪い(以上はウィキの「李鴻章」及び中国国際放送局の「李鴻清の末期の政治家」の記載を主に参照した)。

・「洪水後の向島」現在の墨田区向島は、近代史上最大の明治431910)年8月11日の大洪水。向島は巨大な湖のようになったと当時の新聞は報じている。芥川は当時18歳で、第一高等学校に無試験合格した直後で、卒業したばかりの府立第三中学校が避難所となったため、慰問品を持って三中で救護に当たった。その際の救護活動を綴ったものが同年11月発行の『東京府立第三中学校学友会雑誌』に「水の三日」という標題で載っており、芥川は具にその惨状を見ている(「水の三日」は、但し、極めて面白可笑しい体験をお洒落に配した綴り方で、「惨状」の描写等は微塵もなく、そのようなシリアスなものを期待すると完璧に失望するものである)。

・「陶塘」筑摩全集類聚版は『「塘」はつつみ、陶堤というに同じ。』とあるが、では「陶堤」とは何か、記していない。わざわざ芥川が鍵括弧を附した意味が分からぬ。岩波版新全集の篠崎美生子氏の注解は「未詳。」とする。彼女は鍵括弧を附した特別な意味を感じ取って、敢えて注釈者としてはやりたくない「未詳」を附したのであろう。これは、蕪湖市内にある鏡湖の古名である。中国旅行社の「黄山旅遊網」の日本語版の「蕪湖」のページによれば、南宋期の詩人の詩に「田百畝を献し、合流して湖に成り」、その豊かなる田園の様は陶淵明を慕うかのようであるから、「陶塘」と名付けるというようなことが記されており(やや日本語と構文がうまくない)、『歴代の拡張工事によって、今の鏡湖は面積が15万平方メートルもあり、へ平均水深が2メートル、水面が鏡のように透き徹ってい』るとあり、『湖堤には柳が揺らぎ、蕪湖八景の一つ「鏡湖細柳」はここで』あると記す。芥川はかの有名な陶淵明所縁の「陶塘」と風雅に呼ばれた鏡湖、の意味(その清らかな靖節先生、「鏡」の湖が、「濁つてゐる」という皮肉)を込めて鍵括弧を附したのである。

・「嘉慶道光の間」1796年から1850年の凡そ半世紀の間。「嘉慶」は清第7代皇帝仁宗の治世の年号(17961820)、「道光」はその息子である第7代皇帝清の宣宗の治世の元号(18211850)。

・「太平樂」雅楽の一曲である「太平楽」が如何にも悠長な曲想であることから、人が勝手気儘なことを言い放題で暢気に暮らすこと、勝手気儘な振舞いを言う語。

・「頽唐」退廃。反道徳的で不健全なさま。この場合の「唐」は、とりとめがない、虚しいの意。

・「センジュアリスト」“sensualist”は、「官能主義者」「肉欲(酒色)に耽る人」、美術上の「肉感主義者」や哲学上の「感覚論者」の意味もあるが、ここではもう「官能主義者」「肉感的耽美主義者」の謂いである。

・「惝怳者」底本「しやうけい(しょうけい)」とルビを振っているが、正しくは「しやうくわう(しょうこう)」と読む。意味は、がっかりするさま、驚きぼんやりするさま、であるがそれでは意味が通じない。ぼんやりと判然としない憧憬、というような意味で芥川は用いているようである。実は、この語は芥川が好きな語であったらしく、「點心」の「長井大助」、「西方の人」の「18 キリスト教」でも用いている。なお且つ、「18 キリスト教」でもルビが「しやうきやう(しょうきょう)」と誤った、こことはまた異なったルビが振られており、おまけに意味もここでの誤った用法と同じである。博覧強記の芥川龍之介にして、「惝怳」の読み・意味共に、全く誤った思い込みのまま使い続けたというケースは珍しい。

・「槐」バラ亜綱マメ目マメ科エンジュStyphonolobium japonicum。落葉高木。中国原産で、街路樹によく用いられる。志怪小説等を読むと中国では霊の宿る木と考えられていたらしい。

・「汪汪」水が豊かに湛えられているさま。

・「ヘルンの夢みた蓬莱のやうに懷しい日本の島山」この部分は、小泉八雲の「怪談」の掉尾をなす「蓬莱」の記述に基づく。まずLafcadio HearnHôrai”の、その冒頭原文を掲げる(引用は“K.Inadomi's Private Library”所収のものを用いた)。

   *

Blue vision of depth lost in height, — sea and sky interblending through luminous haze. The day is of spring, and the hour morning.

Only sky and sea, — one azure enormity. . . . In the fore, ripples are catching a silvery light, and threads of foam are swirling. But a little further off no motion is visible, nor anything save color: dim warm blue of water widening away to melt into blue of air. Horizon there is none: only distance soaring into space, — infinite concavity hollowing before you, and hugely arching above you, — the color deepening with the height. But far in the midway-blue there hangs a faint, faint vision of palace towers, with high roofs horned and curved like moons, — some shadowing of splendor strange and old, illumined by a sunshine soft as memory.

 

. . . What I have thus been trying to describe is a kakémono, — that is to say, a Japanese painting on silk, suspended to the wall of my alcove; — and the name of it is SHINKIRÔ, which signifies "Mirage." But the shapes of the mirage are unmistakable. Those are the glimmering portals of Hôrai the blest; and those are the moony roofs of the Palace of the Dragon-King; — and the fashion of them (though limned by a Japanese brush of to-day) is the fashion of things Chinese, twenty-one hundred years ago. . . .

   *

この作品の訳を示すに、平井呈一先生の訳以外に名訳を私は知らない。特に先生は、この冒頭に二段落分を擬古文に訳されており、それがこの芥川のそれと美事に照応するかのように美しい。ここにそれを引用せずにはおられない(1975年恒文社刊「怪談 骨董他」所収の「蓬莱(ほうらい)」を用いたため、恐らく初訳の際はそうであったであろう歴史仮名遣は残念ながら現代仮名遣に改められている。もとに戻した願望に駆られるが、著作権存続中の作品の引用であるので、そのままとする。読者は是非、歴史的仮名遣且つ正字に直して鑑賞・対比されると、芥川龍之介――小泉八雲――平井呈一という稀有の美しいラインが見えてくる)。

   *

 水や空なるわだの原。霞にけぶる空と水。時は春なり、日は朝(あした)。

 見わたせば、ただ渺々の海と空(そら)。見る目くまなき群青(ぐんじょう)の、こなたに寄する岸の波。ただよう五百(いお)の水泡(みな)くずは、銀の光をとらうらん。その岸べより沖かけて、目路(まじ)には動くものもなく、ただ一刷毛の藍の色、日に蒸れけむる碧水の、蒼茫として碧天に、つらなるきわを眺むれば底(そこひ)も知らぬ穹窿(きゅうりゅう)の、帰墟(ききょ)の壑(たに)にも似たるかや。高きとともにその色の、ひときわ深き中空に、反りたる屋根の新月に、まがうと見ゆる高楼(たかどの)の、ほのかに遠くかかれるは、げにそこはかとなき思い出の、姿もかくやほのぼのと、朝日に映(は)ゆるとつ国の、古き栄華のまぼろしぞこれ。

 

 上に試みに訳したのは、一幅の掛物である。素絹に描いて、わが家の床の間にかけてある、日本の絵だ。題を「蜃気楼」という「蜃気楼」とは「まぼろし」の意である。しかし、この蜃気楼は形がさだかである。これに見えるのは、仙境蓬莱に輝く光りの門、あれに見ゆるは、竜宮の月の屋根である。その様式は、(現代の日本の画家が描いたものだが)二千年前の中国の様式だ。[やぶちゃん注:以上、平井呈一訳引用終わり。]

 

   *

 

小泉八雲は以下、常世としての蓬莱の不老不死等について語りながら、悲しみや死が犯さない世界などあるはずがない、と否定はする。しかし、すぐに蓬莱の語りの魅力に負けて、その大気が空気ではなく、幾千万億という太古の霊魂の精気によって構成されており、それを摂取することよって蓬莱に生きるものの感覚は我々とは異なったものになると語り出す。蓬莱では正邪の観念がない。故に老若もない。不死ではないが、その死の瞬間以外は、常ににこやかに微笑んでいる。蓬莱では全ての人々が家族のように愛と信頼の絆によって結ばれている。そうして蓬莱の「女」の人の心やその語りかける言葉は、小鳥の魂のように軽やかである。蓬莱では死の瞬間の別れの悲しみ以外には、何一つ、人に隠すことがない(神は死の瞬間の悲しみがその当人の表情から消え去るまで、その顔を蔽うのである)から、もとより恥を感ずるいわれもない。他者から何かを盗む必要も、盗まれるという恐れの感情も不要だから、戸閉まりをする必要もない。そこに住む人々は皆、神仙である。だから、その世界のものは殆んどが極めて小さくて奇妙に見える。彼らは極めて小さな茶碗で飯を食い、極めて小さな杯で酒を飲む……。八雲はここでこれらの霊妙なるものの核心を総括する。それは、理想、即ち古き世の希望の光、に対する憧憬であるとする。その希望の『無私の生涯の朴直な美しさ』(平井氏訳)が蓬莱の「女」の人の誠実な優しさに現われている……と。もう、この八雲が語る「蓬莱」なるものが何辺にあるか、何処であるか、お分かり頂けたものと思う。

 

 最終段落は象徴的である。そうしてこれが芥川の最後の一文に直に繋がる(引用は原文・訳文共に前記引用に同じ)。

 

   *

 

Evil winds from the West are blowing over Hôrai; and the magical atmosphere, alas! is shrinking away before them. It lingers now in patches only, and bands, — like those long bright bands of cloud that trail across the landscapes of Japanese painters. Under these shreds of the elfish vapor you still can find Hôrai — but not elsewhere. . . . Remember that Hôrai is also called Shinkirô, which signifies Mirage, — the Vision of the Intangible. And the Vision is fading, — never again to appear save in pictures and poems and dreams. . . .

 

   *

 

 ――西の国からくる邪悪の陰風が、蓬莱の島の上を吹きすさんでいる。霊妙なる大気は、かなしいかな、しだいに薄らいで行きつつある。いまは、わずかに、日本の山水画家の描いた風景のなかにたなびく、長い光りの雲の帯のように、片(きれ)となり、帯となって、漂うているばかりである。その一衣帯の雲の下、蓬莱は、その雲の下にのみ、今は存しているのである。それ以外のところには、もはやどこにも存在していない。蓬莱は、又の名を蜃気楼という。蜃気楼とは手に触れることのできない、まぼろしの意である。そうして、そのまぼろしは、今やすでに消えかかりなんとしつつある。――絵と、歌と、夢とのなかにあらざれば、もはやふたたびあらわれぬかのように。[やぶちゃん注:以上、平井呈一訳引用終わり。]

因みに、この注は芥川龍之介「骨董羹―壽陵余子の假名のもとに筆を執れる戲文―」に私は注したものを援用している。お読みでない方は、お読みあれ。そうしてまた、私の文章の愛讀者諸君は、この「長江」の一篇に對するやうに、出来れば、その擬古文を暴虎馮河で私が現代語訳した『芥川龍之介「骨董羹―寿陵余子の仮名のもとに筆を執れる戯文―」に基づくやぶちゃんという仮名のもとに勝手自在に現代語に翻案した「骨董羹(中華風ごった煮)―寿陵余子という仮名のもと筆を執った戯れごと―」という無謀不遜な試み 』〔やぶちゃん(copyright 2009 Yabtyan)〕にもちらりと目をやつてはくれないであらうか?]

「長江游記 前置き」注補綴

河童忌に合わせて始めることに拘り、酒に酔って眠くなり、注で言い足りない部分を残していたことが気になり、またしても今朝は4時前に目覚めた。お蔭で、相応に納得の行く注の補綴が出来た。↓「長江游記 一 前置き」↓――再度、ご覧あれかし。

アクセス特異点 附蜩

昨日のアクセス・訪問者数

412:アクセス数
298:訪問者数

理由:不明。河童忌絡みかと思ったが、検索ワード/フレーズは72で、ページアクセスも多岐に亙る。特に午後三時に151回アクセスしたフリーク、君の瞳に乾杯!

4:21 今朝の蜩の第一声。但し、その後、3分間の沈黙の後

4:15 やはり持続的に複数鳴きだしたのはこの時間

4:29 前の山全体に波状的にそれが広がる。

4:35 それが安定した鈴の音のようになる時間

2009/07/24

長江游記 前置き

長江游記   芥川龍之介   附やぶちゃん注釈

[やぶちゃん注:「長江游記」(ちやうかういうき/ちょうこうゆうき)は大正131924)年9月1日発行の雑誌『女性』に「長江」の題で掲載され、後に『支那游記』(「上海游記」を筆頭に「江南游記」「長江游記」「北京日記抄」「雜信一束」の順で構成)に表記の題で所収された。『支那游記』の自序に『「長江游記」も「江南游記」の後にやはり一日に一 囘づつ執筆しかけた未完成品である。』とある。実際に、「前置き」にあるように廬山以降、長江を溯って「漢口」「洞庭湖」「長沙」への旅があったが、それは記されておらず、あたかも途中で放り出されたかのように、中断して見える。しかし、私は本作が「江南游記」の直後に書かれたものではない、正に、大正131924)年の8月に新たに書きおろされたものに違いないと感じている。それは本文注で明らかにしたい。「長江游記」底本は岩波版旧全集を用いたが、底本は総ルビであるため、訓読に迷うもののみのパラルビとした。また、一度、読みを提示したものは、原則(幾つかの宛て読みや誤読し易いものは除外)、省略してある。傍点「ヽ」は下線に代えた。各回の後ろに私のオリジナルな注を附した。

 私の注は実利的核心と同時に智的な外延への脱線を特徴とする。私の乏しい知識(勿論それは一部の好みの分野を除いて標準的庶民のレベルと同じい)で十分に読解出来る場合は注を附していない(例・「ノスタルジア」「カリイ」「怒火心頭に發した」等)。逆に、当たり前の語・表現であっても『私の』知的好奇心を誘惑するものに対しては身を捧げてマニアックに注してしまう。そのようなものと覚悟して注釈をお読み頂きたい。

 その部分を読解するに必要と思われる一部の注は繰り返したが、頻繁に登場する人物や語は初出の篇のみに附した。通してお読みでない場合に、不明な語句で注がないものは、まずは全体検索をお掛けになってみることをお勧めする。

 本紀行群に見られる多くの差別的言辞や視点についての私の見解は、既に「上海游記」の冒頭の注記に示しているので、必ず、そちらを御覧頂いた上で本篇をお読み頂きたい。なお、それに関わって私が本紀行群を初めて読んだ21歳の時の稚拙な感想をブログにアップしてある。参考までにお読み頂ければ幸いである。]

長江游記

       前置き

 これは三年前支那に遊び、長江を溯つた時の紀行である。かう云ふ目まぐるしい世の中に、三年前の紀行なぞは誰にも興味を與へないかも知れない。が、人生を行旅とすれば、畢竟あらゆる追憶は數年前の紀行である。私の文章の愛讀者諸君は「堀川保吉(ほりかわやすきち)」に對するやうに、この「長江」の一篇にもちらりと目をやつてはくれないであらうか?

 私は長江を溯つた時、絶えず日本を懐しがつてゐた。しかし今は日本に、――炎暑の甚しい東京に汪洋(わうやう)たる長江を懐しがつてゐる。長江を?――いや、長江ばかりではない、蕪湖(ウウフウ)を、漢口(ハンカオ)を、廬山(ろざん)の松を、洞庭の波を懐しがつてゐる。私の文章の愛讀者諸君は「堀川保吉」に對するやうに、この私の追憶癖にもちらりと目をやつてはくれないであらうか?

[やぶちゃん注:芥川龍之介が上海を発って、長江溯上の旅に赴いたのは、大正101921)年5月16日のことであった。本作発表の実に3年3箇月半前のことであった。これはどう見ても、原稿依頼に窮した彼が、力技で捻り出した苦肉の策ならぬ作と言わざるを得ない。実際に本作の大正131924)年9月1日発表前を見ると、小説らしい小説は4月1日の「文章」「寒さ」、4月1日と5月1日にカップリングされた「少年」、7月1日の「桃太郎」、同月発表の「十円札」以外はなく、「芭蕉雑記」の続編二種、6月1日のルナール風(換骨奪胎とはとても言えない)アフォリズム「新緑の庭」が目に付く程度のスランプの時期にあった。本作を実質的に書いたと思しい8月中も、軽井沢に避暑しながら、創作意欲が湧かず、終日文章が書けない状態が続いた模様である。

・「人生を行旅とすれば、畢竟あらゆる追憶は數年前の紀行である」この芭蕉の「奥のほそ道」を髣髴させる言葉は、よく考えると不吉である。よく読むと、これは実は、一般論として語られたものではないことに気づくからである。そもそも人生は旅という哲学から引き出される真理が結局「あらゆる追憶は數年前の紀行である」という命題では普遍則とならないことからも明らかである。ここで芥川はさりげなく、個人的なある感懐を述べていると考えるべきである。即ち、『(私の短かった)人生を「旅」に譬えるとすれば、所詮、私の短い疲労と倦怠に満ちた人生の中で経験した、忘れがたいあらゆる追憶というものは、畢竟、あの數年前の中国の旅の思い出に、――あの疲労と倦怠に満ちた(満ちているとその時には感じて故国へ帰らんと欲した)あの旅の思い出に尽きるのである。』という意味と考えた時、初めて私にはこの冒頭の文が腑に落ちるのである。即ち、私はこの時既に、芥川の意識の中に、ある種の死への傾斜が始まっていると、私には思えるのである。

・『「堀川保吉」』:芥川龍之介自身をモデルとしていることが一目瞭然の堀川保吉を主人公とする芥川の作品群を指す。芥川龍之介の小説の中で、彼(広義には彼らしい=作者芥川龍之介らしい人物)を主人公とする極めて私小説的色彩の濃い作品群を、研究者の間では『保吉物』と称する。正式な初登場は大正121923)年5月の『改造』に掲載した「保吉の手帳」の冒頭で、『堀川保吉(やすきち)は東京の人である。二十五歳から二十七歳迄、或地方の海軍の學校に二年ばかり奉職した。以下數篇の小品はこの間の見聞を録したものである。保吉の手帳と題したのは實際小さいノート・ブツクに、その時時の見聞を書きとめて置いたからに外ならない、』(初刊本『黄雀風』(こうじゃくふう)の再録では題名を「保吉の手帳から」とし、この部分を全文削除している)とあり、これは芥川龍之介大正5(191612月~大正8(1919)年3月迄、2年3ヶ月、数えで二十五歳から二十七歳迄、芥川龍之介が横須賀海軍機関学校教授嘱託(英語)に就任していたことと完全に一致する。芥川は大正8(1919)年頃から現代物を書き始めたが、「保吉」のルーツは主人公「私」の設定といい、その内容といい、同年5月の「蜜柑」にこそ求められるように思う(そうしてこれが最も成功した『保吉物』であったとも思う)。以下、大正111922)年8月の「魚河岸」(初出の主人公「わたし」が『黄雀風』で「保吉」に変更)、「保吉の手帳、「お時儀」「あばばばば」「或恋愛小説」で保吉を主人公とする。そして正に上記で示した、この時の近作「文章」「寒さ」少年」(これは保吉の4~9歳前後までの回想を主軸としており、やや他の現在時制的『保吉物』とは異なる)「十円札」でも主人公としてフルネームで堀川保吉が登場している。長く自然主義的な自己告白を軽蔑してきた彼が、王朝物のマンネリズムの中でスランプに陥った自己を打破するために、また、自分なら実体験を小説にこう生かすという表明としての実験的作品群である。そうして実はちゃっかりした芥川らしい作品の売り込みでもあるのである。

・『「長江」』本「長江游記」冒頭注参照。初出の表題は「長江」であった。

・「炎暑の甚しい東京」この年の夏は暑かった。芥川は初めて軽井沢に避暑に赴く。彼がこの時、軽井沢が初めてであったことを記憶されたい。因みに、その軽井沢で親しく接した女性が、越し人、片山廣子であったのであった。

・「汪洋」水量が豊富で、水面が遠く広がっているさま。また、ゆったりとして、広々と大きいさま。

・「蕪湖(ウウフウ)」“Wúhú”は長江中流に位置する港湾都市。現在の安徽省南東部、蕪湖市蕪湖県。「一 蕪湖」参照。

・「漢口(ハンカオ)」“Hànkǒu ”は中国湖北省にあった都市で、現在の武漢市の一部に当たる。明末以降、長江中流域の物流の中心として栄えた商業都市で、1858年、天津条約により開港後、上海のようにイギリス・ドイツ・フランス・ロシア・日本の5ヶ国の租界が置かれ、「東方のシカゴ」の異名を持った。芥川は廬山を見た後、5月26日に漢口に着き、30日迄滞在しているが、このように示しながら「長江游記」本文には現れない。「雜信一束」の冒頭で、

       一 歐羅巴的漢口

 この水たまりに映つてゐる英吉利の國旗の鮮さ、――おつと、車子(チエエズ)にぶつかるところだつた。

       二 支那的漢口

 彩票や麻雀戲(マアジヤン)の道具の間に西日の赤あかとさした砂利道。

 其處をひとり歩きながら、ふとヘルメツト帽の庇の下に漢口の夏を感じたのは、――

   ひと籠の暑さ照りけり巴旦杏(はたんきやう)

と綴るのみである(語注等は「雜信一束」の私の注を参照されたい)。

・「廬山」江西省九江市南部にある名山。「三 廬山(上)」以下を参照。

・「洞庭」洞庭湖のこと。芥川龍之介は5月29日に訪れているが、このように示しながら「長江游記」本文には現れない。やはり「雜信一束」で、


       五 洞庭湖

 洞庭湖は湖(みづうみ)とは言ふものの、いつも水のある次第ではない。夏以外は唯泥田の中に川が一すぢあるだけである。――と言ふことを立證するやうに三尺ばかり水面を拔いた、枯枝の多い一本の黑松。


芥川の本件の記載は、干上がったその無惨な(荒涼としたでも、汚いでもよい)洞庭湖を見たことのみを表明している。5月30日附與謝野寛・晶子宛旧全集九〇四書簡(絵葉書)では、自作の定型歌を掲げ『長江洞庭ノ船ノ中ハコンナモノヲ作ラシメル程ソレホド退屈ダトオ思ヒ下サイ』とし、同じく同日附松岡譲宛旧全集九〇五書簡(絵葉書)では、『揚子江、洞庭湖悉濁水のみもう澤國にもあきあきした』とさえ記している(中国中東部の長江中・下流域の平原部は「長江中下游平原」或いは無数の湖沼の間を水路が縦横に走ることから「水郷沢国」と呼ばれる)。芥川は詩に歌われ、古小説の美しい舞台として憧憬していた洞庭湖に、実は実見直後、激しく失望していたことが明らかである。以上、本作はその冒頭から「書く気の無さ」を表明していると言ってよいと私は考えている。]

83年遠忌河童忌記念 芥川龍之介 江南游記 附やぶちゃん注釈 完全版

83年遠忌河童忌記念として芥川龍之介「江南游記」やぶちゃん注釈附き完全版を正字正仮名で「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」に公開した。早朝3時半、文学部に進学した教え子からのメールで斬新な「羅生門」論を読み、興に乗って感想を書いて送った後、霧雨の中の4:25の蜩を聴き、「江南游記」の最後の注追加を行って、切れた雲から朝日が射し、生まれて初めて河童忌らしい河童忌を迎えた。

2009/07/23

江南游記 二十九 南京(下) 芥川龍之介「江南游記」全篇終了

これを以って芥川龍之介「江南游記」の全篇の公開を終わった。既に次の「長江游記」に着手した。

       二十九 南京(下)

 私はホテルに歸つて來ると、直(すぐ)にベッドに這ひ上つた。胃は不相變痛んでゐる。熱も少しはあるらしい。何だかこのベツドに横はつた儘、曠世(くわうせい)の大志を抱きながら、私は茶を入れて來た束髮の女中に、按摩はないかと尋ねて見た。すると純粹の按摩はないが、按摩をする床屋ならばあると云ふ。私は床屋でも湯屋(ゆや)でも好(よ)いから、早速その按摩を呼んでくれろと云つた。往生してしまひさうな心もちがする。

 女中が驚いて引き下つた後(のち)、久米正雄とお揃ひに買つた、ニツケルの時計を出して見ると、やつと二時何分過ぎである。今日は孝陵を見物したぎり、莫愁湖へは廻らずに歸つて來た。西湖では蘇小を弔ひ、虎邱では眞娘を弔つたのだから、やはり三美妓(びぎ)の一人たる莫愁も弔ひに行きたかつたが、かう云ふ始末ぢややむを得ない。いや、今日五味君と晝飯を食ひに、秦淮の料理屋にゐた時などは、鮑(あわび)の湯(タン)を吸ひかけたなり、少時(しばらく)は口も利けなかつた程、世にも胸苦(むなぐる)しい心もちになつた。事によると胃病と同時に、肋膜炎も再發したのかも知れない、――さうな事を考へてゐると、愈(いよいよ)私は五六分の内に、落命にでも及びさうな氣がし始めた。

 その内にふと人音(ひとおと)がしたから、突伏(つつぷ)してゐた顏を擧げると、嫌に背の高い支那人が一人、ベツドの前に佇んでゐる。私はちよいとシヨツクを受けた。實際ペンキ塗りの屏風の前に、突然こんなのつぽを發見するのは、誰にも氣もちの好(よ)いものぢやない。しかも彼は私を見るなり、悠悠と支那の腕まくりをし出した。

 「何だい、君は?」 

 彼は私に怒鳴られても、全然顏色を動かさなかつた。さうして唯一言返事をした。

 「アンマ!」

 私は思はず苦笑しながら、彼に揉めと云ふ手眞似をした。が、この床屋を兼ねた按摩は、揉みもしなければ叩きもしない。唯(ただ)首筋から背筋の方へ、順順に筋肉をつまむだけである。それでも決して莫迦には出來ない。私はだんだん體の凝りが、寛いで來るのを感じたから、出たらめに「好(ハオ)、好(ハオ)」と褒めてやつた。

 その後二時間程晝寢をしたら、大分(だいぶ)元氣も恢復してゐた。五時には五味君と多賀中尉――多賀氏は少時(せうじ)愛讀した、「家庭軍事談」の筆者である。私はその時の署名通り、最も私に親みのある、多賀中尉と云と云ふ名を使ふ事にするが、現在は何だか未に知らない。――その當年の多賀中尉に、晩餐の御馳走になる約束がある。そこで顏へ剃刀を當てたり、黑い洋服を着用したり、五時までにはざつと身支度をすませた。

 その夜私は多賀中尉と、昆布だの干物だのを嚙りながら、「家庭軍事談」の話をした。この昆布だの干物だのは、抵抗療法に據つたとか云ふ、惡辣な獻立の一部である。中尉は一見武人らしい、脊梁(せきりよう)骨(こつ)を感ぜしむる人物だつた。その癖座談も下手ぢやない。私は中尉と桂月先生の噂をしたり、我我の他にもう一人呼ばれた年の若い御客樣と、江南の風光を論じたり、少時(しばらく)は病體も忘れてゐた。殊にその御客樣が、搗栗(かちぐり)や何かを平げるのにも、頗(すこぶる)みやびやかだつた事は、今でも印象が鮮(あざやか)である。

 我我は食事をしまつてから、客間に又一しきり話しこんだ。此處には支那の土中物(どちゆうも)だの、眞紅な山を描(か)いた田夫(でんぷ)氏の畫(ゑ)だの、骨董じみた物が並べてある。私は例のペンキ塗りの屏風に、半日惱まされた後(あと)だつたから、かう云ふ室内の安樂椅子に、漫然と腰を落ちつけてゐるのは、少からず愉快だつた。おまけに中尉は仕合せにも、「唐(とう)の三彩は」とか何とか辯ずる程、骨董眼を具へてゐないらしい。

 その内に何時か一座の話題は、病氣の上に移つて行つた。

 「南京で怖いのは病氣だけだね。古來南京で病氣になつたら、早速日本へ歸らない限り、一人も命の助かつたやつはない。」

 多賀中尉は酒氣と一しよに、冗談のやうな、眞面目のやうな、甚(はなはだ)心もとない斷案を下した。一人も命の助かつたやつはない、――私はこの言葉を聞いた時、急に又死にさうな心もちになつた。同時に明日は汽車のあり次第、栖霞寺(せいかじ)も見ず、莫愁湖も見ず、上海(シヤンハイ)へ歸らうと決心した。………

 翌日上海へ歸つた私は、糠雨の降る翌翌日の朝、里見病院の診察室に、打診や聽診を受けてゐた。それが一通り終つた時、里見先生は手を洗ひながら、私の方へ笑ひ顏を見せた。

 「何處も惡くありません。惡いと思つたのは神經ですね。」

 「しかしまだ漢口(ハンカオ)から、北京(ペキン)へ行かなければならないのですが、――」

 「その位の旅行は大丈夫です。」

 私は兎に角嬉しかつた。しかしその嬉しさの何處かには、折角上海へ歸つて來たのも、結局骨折損に過ぎなかつたと云ふ、失望があつたのは事實である。里見先生は立派な醫者だが、憾むらくは立派なサイコロヂストぢやない。もし私が先生ならば、たとひ無病息災でも、かう云ふ診斷を下したであらう。

 「右の肺にちとインフラマテイオンがあります。すぐに御入院なさるがよろしい。」

[やぶちゃん注:5月12日は孝陵から早々にホテルへ戻っている。この前後に、長男比呂志の初節句の祝に着物を買っている。『支那の子供がお節句の時に着る虎のやうな着物ですあまり大きくないから比呂志の體ははひらないかもしれません尤もたつた一圓三十錢です』(517日上海から芥川道章宛岩波旧全集書簡番号九〇〇)。本文のような経緯で、心気症と多賀中尉の談話の逆プラシーボ効果によって、芥川は南京到着の翌々日の14日には一切の観光をせず、上海へと戻った(鷺只雄編著「年表読本 芥川龍之介」では船で上海に戻ったとし、上海帰着を15日、その日のうちに里見病院での診断とする。岩波新全集の宮坂覺の年譜では、帰着を14日同日中とし、里見病院での診断を15日とする。診断日自体は九〇〇書簡から動かない(書簡中に『體は一昨日もここの醫者に見て貰ひましたが、一切故障はないと云ふ事でした』とある)。本篇の叙述通りならば、汽車で帰り、日程的には宮坂説が正しいということにはなる。当時の交通機関のデータが欲しいところである。

・「曠世の大志」広いこの世で誰にも負けない偉人たらんとする大望。

・「西湖では蘇小を弔ひ、虎邱では眞娘を弔つた」美妓「蘇小」は七 西湖(二)を、「眞娘」は「江南の美人眞孃」で「十九 寒山寺と虎邱と」をそれぞれ参照のこと。

・「莫愁」という名の悲劇の美女については前篇「二十八 南京(中)」の「莫愁湖」注を参照のこと。

・「湯(タン)」“tāng”。スープ。

・「「好(ハオ)」“hăo”。よろしい。いいね。

・「多賀中尉」多賀宗之(明治5(1872)年~昭和101935)年)。中国名、賀忠良。明治271894)年陸軍少尉として任官、大正61917)年には参謀本部附・江蘇省督軍顧問となり、芥川が逢った際には既に陸軍歩兵大佐であった(後に支那駐留陸軍少将及び福州領事館武官となっている)。「家庭軍事談」以外にも、「支那の軍情」(昭和6(1931)年兵林館刊)、「天皇と世界及び吾人」(大正141925)年嶽陽互助育英会刊)、「赤裸の支那」(昭和7(1932)年新光社刊)などの著書がある。因みに彼は満州国建国の内幕にも関わっている。当時49歳。

・『「家庭軍事談」』文武堂明治341901)年刊の少年向けの軍事講話集。刊行当時、芥川は9歳であった。

・「抵抗療法」岩波版新全集の神田由美子氏の注解が詳しいので、例外的に全文を引用させて頂く。『高野太吉が唱えた健康法。周囲の環境から栄養を摂り、悪影響を拒否する抵抗力が人体には存在し、その抵抗力を養うには外部と接する部分、特に栄養の吸収にあたる胃腸に刺激を与え、その機能を旺盛にするのが重要とする。』とある。これは彼の著「抵抗養生論」(大正3(1914)年仙掌堂刊)で広まった。彼は孫文とも関係があり、邦文サイトより中文サイトの方が記載が多い。

・「脊梁骨」「脊梁」は背骨、「骨」はしっかりとした堅固なものの謂いで、一筋ピンと通った軍人気質を讃した語である。

・「桂月先生」大町桂月(明治2(1869)年~大正141925)年)高知出身の詩人・歌人・随筆家・評論家。多賀宗之は同じ高知出身で著作物も多いので、桂月とは知り合いであった可能性が高い。芥川龍之介は大正9(1920)年『文章倶楽部』に発表した「愛讀書の印象」で『中學へ入學前から徳富蘆花氏の「自然と人生」や樗牛の「平家雜感」や小島烏水氏の「日本山水論」を愛讀した。同時に、夏目さんの「猫」や鏡花氏の「風流線」や緑雨の「あられ酒」を愛讀した。だから人の事は笑へない。僕にも「文章倶樂部」の「青年文士録」の中にあるやうな「トルストイ、坪内士行、大町桂月」時代があつた。』と述べている。

・「搗栗」栗を干した後、搗いて殻と渋皮を除去したもの。主に本邦での加工法。但し、天津甘栗でご存知のように、中国産のクリの方が殻や渋皮が剥がれ易く、この加工が容易である。

・「土中物」これは次の「田夫氏」との釣り合いから言っても、地中から発掘した、という文字通りの意味に加えて、所謂、くすぐりで言うところの怪しげな謂いとしての「掘り出しもの」の意味を掛けているように思われる。

・「田夫氏」田夫野人を慇懃無礼に皮肉った謂い。教養のない粗野な人。田舎者。風流・風雅を解さない、才能のない俗流自称芸術家。

・「栖霞寺」南京市街の北東約22㎞の摂山西麓にある南京最大級の寺院。南斉の頃(500)の栖霞精舎に始まり、唐代には禅堂として栄えた。清の1855年、栖霞一帯での清軍と太平天国軍の激戦により破壊されたが、光緒年間(1908)に再建。

・「里見病院」渡中直後に乾性肋膜炎で一ヶ月入院した病院。神田由美子氏の岩波版新全集「上海游記」の注解によると、院長は内科医里見義彦で、『密勒路A六号(当時この一帯は日本人街。現、上海氏虹口区峨嵋路十八号)にあった赤煉瓦四階建の左半分が里見病院。』とある。現在はアパートになっているが、建物そのものは現存しているらしい。西湖に同行している大阪毎日新聞社上海支局長村田孜郎が、院長の俳句の仲間であった縁故による。「上海游記 五 病院」を参照。

・「北京(ペキン)」“bĕijīng”。芥川が北京へ向かって上海に別れを告げるのは翌々日の5月17日のことであった。但し、途中、蕪湖・九江・廬山・漢口・洞庭湖・長沙・洛陽を経ているため、実際に北京に着いたのは凡そ一ヶ月後の、6月14日(11日説もあり)である。

・「インフラマテイオン」“inflammation”。炎症。諸注はドイツ語とするのだが、これは英語かフランス語、読みからしてフランス語であろう。私の所持する同学社1977年刊「新修ドイツ語辞典」には、このような綴りの単語はない。ドイツ語の医学用語の「炎症」ならば“Entzündug”(エント・ツュンドゥング)が一般的ではないか。識者の御教授を乞うものである。]

江南游記 二十八 南京(中)

       二十八 南京(中)

 私はホテルの西洋間に、きな臭い葉卷を啣(くは)へた儘、昨日ざつと見物した、秦淮の景色を書き留めてゐた。此處は日本人經營の宿屋だが、室(しつ)の一隅に立て廻した、惡どいペンキ塗りの山水屏風は、私を惱ます事一通りぢやない。おまけにバタの惡い燒麪包(やきパン)は、私の胃袋の口もとに、さつきからまだ痞(つか)へてゐる。

 私は多少のノスタルジアを感じながら、せつせと萬年筆を走らせ續けた。

 「秦淮(しんわい)の孔子廟を過ぐ。時既に薄暮なれば、門を鎖して人を入れず。門前に老いたる講釋師あり。多數の閑人に圍まれつつ、三國志か何か辯ずるを見る。掌中の扇子、舌頭の諧謔、日本の辻講釋を髣髴せしむ。

 「橋上より眺むれば、秦淮は平凡なる溝川(どぶがは)なり。川幅は本所の竪川(たてかは)位。兩岸に櫛比(しつひ)する人家は、料理屋藝者屋の類(るゐ)なりと云ふ。人家の空に新樹の梢あり。人なき畫舫三四、暮靄(ぼあい)の中に繋がれしも見ゆ。古人云ふ。「煙籠寒水月籠沙」と。這般(しやはん)の風景既に見るべからず。云はば今日の秦淮は、俗臭紛紛たる柳橋(やなぎばし)なり。「水畔の飯館に晩飯(ばんめし)を喫す。一流の料理屋の由なれども、室内は餘り綺麗ならず。木彫りの菊にべンキを塗れる柱、西瓜の種の散亂したる板敷き、拙(つたな)き水墨の四君子の軸、――畢(つひ)に今日の支那料理屋は、味覺以上の何物をも滿足せしめざる場所なるべし。食事は八寶飯佳(か)。勘定は祝儀共二人前(ふたりまへ)三圓二十錢。食事中隣室に胡弓の音あり。歌聲又次いで起る。昔は一曲の後庭花、詩人をして愁殺せしめたれど、東方の遊子多恨ならず。青黑き玉子を頰張りながら、微醺(びくん)を帶びたる案内者と、明日(みやうにち)の豫定を談ずる事多時。

 「飯館を出づれば既に夜なり。家家(かか)の電燈の光、妓の人力車に駕せるを照(てら)す。宛然代地(だいち)の河岸(かし)を行くが如し。されど一の姝麗(しゆれい)を見ず。私(ひそかに)に疑ふ、「秦淮畫舫録」中の美人、幾人か懸け値のなきものある。もし夫「桃花扇傳奇」の香君に至つては、獨り秦淮の妓家(ぎか)と云はず、四百餘州を遍歴するも、恐らくは一人もあらざるべし。………」

 私はふと顏を擧げた。卓子(テエブル)の前には社の五味君が、支那服を着たなり佇んでゐる。暖さうな黑の馬掛兒(マアクワル)に、藍の大掛兒(タアクワル)を着こんだ所は、威儀堂堂と評しても誇張ぢやない。私は挨拶をする前に、ちよいとその支那服に敬意を表した。(後に私の支那服が、北京の日本人諸君を惱ませたのは、確にこの五味君の惡影響である。)

 「今日は私が御案内しませう。明の孝陵から莫愁湖の方へ。」

 「さうですか。ぢや早速出かけませう。」

 私は名所を見たいよりも、胃の中の麪包(パン)を消化したさに、早速外套へ手を通した。

 一時間の後(のち)、我我二人は、鍾山(しようざん)の陵(りよう)に至るべき、堂堂たる石橋(せきけう)を渡つてゐた。孝陵は長髮賊の亂の爲に、大抵の殿樓を燒かれたから、何處を見ても草ばかりである。その離離とした草の中に、大きい石の象が立つてゐたり、門の礎(いしづゑ)が殘つてゐたりするのは、到底奈良の郊外の緑蕪(りよくぶ)に、銀の目貫の太刀を下げ佩(は)いた公子を憶ふ所の寂しさぢやない。現にこの石橋にしても、處處の石の隙間に、薊の花が咲いてゐるのは、その儘(まま)懷古の詩境である。私は吐き氣をこらへながら、鍾山の松柏を仰ぎ見ては、六朝(りくてう)の金粉(きんぷん)何とか云ふ前人の詩を思ひ出さうとした。

 陵その物――かどうか知らないが、兎に角最後に聳えてゐるのは、無暗に高い石の壁だつた。その壁のまん中に、ざつと自動車でも通れさうな、爪先上りのトンネルがある。このトンネルの高ささへも、壁全體の高さから見れば、やつと四分の一位しかない。私はトンネルの前に佇んだ儘、薄黑い壁のずつと上に、晩春の青空を仰いだ時、何だか急に自分の體が、小鳥程になるやうな心もちがした。さうして其處の敷石の草へ、酸つぱい水を少し吐いた。

 そのトンネルを通り拔けた後、少時石段を登つたら、とうとう陵の一番上へ出た。其處には屋根も柱もない、赤壁だけがぐるりと殘つてゐる。あたりに生え伸びた若木や草、壁一面の落書の跡、――荒廢はやはり變りがない。しかしこの陵上に立つて見ると、紛紛と飛び交ふ燕の下に、さつき渡つた石橋は勿論、正殿(せいでん)、郭門、薄白い陵道、――その他日の光に照つた山河が、遙に青青と廣がつてゐる。五味君は叡山(えいざん)の將門(まさかど)のやうに、悠然と風に吹かれながら、點點と眼下を歩いてゐる、何人かの男女を見下した。

 「御覽なさい。今日は西門外(せいもんがい)に、高跳動(カオチヤオトン)があるものですから、見物人が大分多いやうです。」

 が、鳥打帽をかぶつた純友(すみとも)は、酸つぱい水を口にためた儘、高跳動とは何の事だか、尋ねて見る元氣も起らなかつた。

[やぶちゃん注:5月13日。

・「孔子廟」は南京市内の秦淮河北岸にある。南京では夫子廟“fūzĭmiào”(フゥツミアオ ふうしびょう)と呼ぶが、この呼称はこの孔子廟を中心として秦淮河畔から建康路周辺までの地域全体を夫子廟と呼び、南京有数の歓楽街となっている。ここで私はやはり個人的な体験をどうしても記しておきたいことがある。

 私は2000年、中国派遣日本語教師として南京大学日本語学科で日本語を教えていた妻を訪ねた際、この夫子廟で晩餐をとった。その時、妻と、当時、同学科で日本語や経済政策等を教えておられた福田茂老師(「先生」という呼称では足りない。妻の1年間の中国生活を支えて下さり、妻から伝え聞いたそのアップ・トゥ・デイトな鋭い教授内容は素晴らしいもので、数回の談話で私は魅了された)、そうして老師の知人の文部科学省からの若い派遣員二人と一緒であった。食後、夫子廟の繁華街を抜けて行った折りのこと、鰻の寝床のような酒桟(“jiŭzhàn”チィォウチァン)の前を通り過ぎた。日本のションベン横丁の立ち飲みみたような店を想像してもらえればよい。朦々たる煙草の煙に裸電球が煌き、労働者たちが声高に言い合う声とともに、盛んに酒盃を挙げていたのが見えた。外には小さな椅子を並べてこれまた、ままごとに使えそうな小さな卓子(テエブル)にグラスを置いて二人の老人が静かに酒を飲んでいた。その時、老師は誰に言うともなく「こういうところでコンイーチーは飲んでいたんだねえ……」と呟かれた。妻や文科省の役人二人は黙っていた。私は「魯迅ですね――しかし、僕はコンイーチーが好きです――ああした前時代の滅んでゆくべき彼や阿Qような人物を、魯迅は優しい視線で愛情を持って描いていますね。」と答えた。老師は「そう、そうなんだよ!」と如何にもという風情で相槌を打たれた。文科省の役人は――知っていて黙っていたのかどうか、知らない――少なくとも私の妻は「コンイーチー」が何者であるか知らなかった――「孔乙己」“kŏngyĭjĭ”(クゥォンイチ)は魯迅の同名小説の主人公の名である。私は「薬」や「故郷」と並んで好きな作品の一つなのである――私はこの一瞬、この日初めて逢ったばかりの、この福田老師を、心から尊敬した。その何気ない視線と感懐に、この老師が心底「中国」を愛しておられるということを知ったからであった――後日、私は妻から福田老師は少年の頃、満州からの引揚者であったと聞いた。その時、何か師の琴線に触れるものがあったのでは、などと私は不遜にも想像したりしたけれど、師はその後もご自身の経験については、特にお話にはならなかった――福田茂老師は今も、矍鑠として中国にあって、日中何れに対しても歯に物着せぬ勘所を得た批評をされ、中国の若者たちに教鞭をとっておられるのである――

・「本所の竪川」現在の東京都墨田区の南を東から西に流れ(交差する大横川に対する名)、芥川所縁の回向院の近く、首都高7号線と6号線の合流する両国ジャンクションの下で隅田川に注いでいる。

・「櫛比」櫛(くし)の歯のように、すき間なく並んでいること。

・『「煙籠寒水月籠沙」』は晩唐の詩人杜牧(803853)の七絶「泊秦淮」の起句。

 泊秦淮

煙籠寒水月籠沙

夜泊秦淮近酒家

商女不知亡國恨

隔江猶唱後庭花

○やぶちゃんの書き下し文

 秦淮に泊す

煙(えん)は寒水を籠(こ)め 月は沙(さ)を籠む

夜(よ) 秦淮に泊し 酒家(しゆか)近し

商女は知らず  亡國の恨(こん)

江を隔てて猶ほ唱(うた)ふ 後庭花

○やぶちゃんの現代語訳

 秦淮に泊す

夜霧は冷たき川面(かわも)を覆い 月光砂を守って光る

夜(よる) 秦淮の舟泊(ふなどま)り 近き酒場のさんざめく

歌い女(め) 知らず 亡国の 恨みの籠もるその曲を

川を隔てて 歌う その 酒(さけ)と傾城(けいせい) 「後庭花」

「月籠沙」は川の砂洲に月光が射してそこが特異的に光り輝くさまであろう。やや無理があるが上記のように訳してみた。「商女」は妓。結句の「後庭花」は、正しくは「玉樹後庭花」で、「杜牧 泊秦淮 詩詞世界 碇豊長の詩詞」の語注によれば、『嘗てここに都を構えていた』、『南朝の陳の後主が作った淫靡な詩(本来は音楽)』である。君主がそのような酒色に耽ったがために、陳は亡んだとされる、とある。そこに籠もった「亡國恨」、亡国の恨みを知る由もなく、艶めかしい魅力的な声で、妓が「玉樹後庭花」を歌う声が、舟旅の旅愁に沈む私の心に響いて来る、といった意味であろう。

・「這般の」「這」は宋代の俗語で「此」(これ)の意。「これらの」「このたびの」「今般の」の意味で、芥川は擬古文では好んで用いる。ここでは、「この辺りの」の意。

・「柳橋」現在の台東区(旧・浅草区)の神田川が隅田川に流れ入る河口部に架橋する柳橋(元禄111698)年竣工)を中心とした隅田川一帯の地名。その江戸中期より隅田川の船遊び客相手の船宿が多く、幕末から明治にかけては新橋と共に「新柳二橋」と並び称された花街であった。

・「四君子」蘭・竹・菊・梅の四種を草木の中の高潔な君子に喩えた語で、それら4種を総て用いたモチーフを言う。宋代の画題から頻繁に見られるようになり、春を蘭に、夏を竹、秋を菊、冬を梅に配して四季のシンボルともした。

・「八寶飯」米の上に金柑・棗(なつめ)・冬瓜・小豆・蓮の実・松の実・黒豆など8種類の果物など乗せて蒸したデザート。「CHINA SUPER CITY ON LINE 今の中国を知る」のグルメ記事に『周王朝に貢献した8名の勇士をもてなすために創り出され、数千年の歴史を持つ』とある。

・「昔は一曲の後庭花、詩人をして愁殺せしめたれど、東方の遊子多恨ならず。」前掲注の杜牧の「泊秦淮」の詩を参照。『しかし、日本の旅人はそんなに感じやすくウエットじゃない、頗るドライである。』の意。

・「青黑き玉子」皮蛋“pídàn”(ピータン)。アヒルの生卵に石灰・木炭・塩を混ぜた泥を塗りつけ、それに籾殻をまぶした上、土中又は甕の中に入れて2~3箇月熟成させたもの。塗布物のアルカリ成分によってタンパク質が変性して固化し、白身は黒味の強い琥珀色のゼリー状に、黄身は青磁のような翡翠色となる。

・「宛然」あたかも。

・「代地の河岸」前掲の東京都台東区柳橋の隅田川の河岸の旧通称。

・「姝麗」本来は見目麗しい、美麗という形容。ここでは美女のこと。

・『「秦淮畫舫録」』捧花生著。岩波版新全集の神田由美子氏の注解によれば、秦淮の芸妓の評判記で、嘉慶221817)年刊、『上、下二冊。付録に「画舫余談、三十六春小譜」。』とある。この余談なるものは名妓の名数か。上海古籍出版社2007年刊の「清代筆記小説大観 全6冊」に所収する。

・『「桃花扇傳奇」の香君』「桃花扇傳奇」は、通常、単に「桃花扇」とも呼ぶ、清代の孔尚任(16481718 こうしょうじん:孔子64代の子孫。)作の戯曲。40幕。1699 年に完成した。明清の興亡を背景に、文人の侯方域と名妓李香君の悲恋物語を描いた長編で、「長生殿伝奇」(「長生殿」とも。洪昇(16451704)作の50幕の戯曲。1688年に完成。唐の玄宗皇帝と楊貴妃の悲恋を主題とする)と並ぶ清代の代表的戯曲である。李香君は実在した秦淮の有名な美人の妓女の一人であった。本名、楊吉児、明の名将楊之浩の娘であった。夫子廟(フゥツミアオ)の西南に彼女の旧居が今も残る。

・「四百餘州」中国全土を言う美称。

・「社の五味君」中国在留毎日新聞社社員で、恐らく南京支局員であろう。それ以外は未詳。

・「馬掛兒(マアクワル)」“măguàér”日本の羽織に相当する上衣で対襟。「上海游記」の筑摩版脚注では「掛」は「褂」が正しいとある。

・「大掛兒(タアクワル)」“tàiguàér”男物の単衣(ひとえ)の裾が足首まである長い中国服のこと。前注参照。

・「後に私の支那服が、北京の日本人諸君を惱ませた」芥川は涼しくゆったりとした中国服が大層気に入り、北京でもそれで過すことが多く、「北京日記抄」によれば、辜鴻銘(Gū Hóngmíng グー ホンミン ここうめい 18571928:清末から中華民国初期の学者・リベラリスト。)との会見でも中国服で臨み、辜鴻銘に『洋服を着ないの感心だ。只憾むらくは辮髮がない。』と言わしめ、やはり北京で中国服の芥川に会見した胡適は、『あまりに中国人に似ている容貌にびっくりしたとのことばを「日記」に書きつけ』(毎日新聞社1997年刊の関口安義「特派員 芥川龍之介」より引用)ている。同書から具体的に引くと(孫引きになるが)、『彼は容貌が中国人に似ている。そのうえ、中国服を着ているため、なおさら中国人に似ている。この人は日本人の悪い習性がないらしく、談話(英語を使って)も相当見識のあるものである。』(單援朝「芥川龍之介と胡適―北京体験の一側面―」(『国文学 言語と文芸』1991年8月)の中の單氏による日本語訳)と記しているのである。中国服の着用は、ジャーナリスト芥川龍之介に極めて有効に作用しているのである。止めを刺すならば、同書には帰国時のエピソードとして、『天津の税関で中国服を着ていたため、鞄の中を引っかき回され、「大いに窮したので、其処からは大阪までは洋服に着替へ、大阪からまた支那服で乗車」したところ、車中の客に「大分、長く此方にお出ですね、日本語が中々お達者だ」とやられて閉口した』(芥川龍之介「最近の文壇のいろいろ」『文芸倶楽部』1921年9月)という話を載せている。

・「明の孝陵」南京の東、紫金山南麓にある明の太祖、洪武帝朱元璋(しゅげんしょう 13281398)と后妃の陵墓。明の陵墓では最大で、造営に25年、1383年に完成している。この未発掘の二人が埋葬されている地下宮殿玄宮というのは如何にも魅力的ではないか。

・「莫愁湖」南京市内南西部、水西門外大街にある湖。周囲約5㎞、面積約50haウィキの「莫愁湖公園」の記載に『伝説によれば南斉年間、洛陽に莫愁という女性がおり、家が貧しく父の死後に身を売って葬儀を行った。ちょうど建業より洛陽を訪れたある富豪が莫愁の美しさに引かれ莫愁を身請けする。しかし、莫愁は故郷を懐かしみ湖に身を投げ』たとある。

・「鍾山」孝陵のある紫金山の旧名。

・「長髮賊の亂」太平天国の乱のこと。清代の1851年に宗教結社上帝会の洪秀全(18141864)が起こした大規模な反乱。農民出身の洪秀全はキリスト教の影響を受けた新興宗教上帝教を組織し、自らをヤハウェの子にしてキリストの弟、天王とし、土地私有の禁止、辮髪を禁じて長髪を蓄え(政府側は「長髪賊」「髪匪」と呼ばれた)、清朝打倒を宣言、広西省桂平県金田村で挙兵、南京を陥落して、天京と改めて首都とした。信者は約1万人と伝える。1864年に政府軍に滅ぼされたが、後の中国革命の先駆として後世に大きな影響を与えたとされる。

・「離離」草木が乱れて繁茂しているさま。

・「緑蕪」青青と生い茂った草原。

・「目貫」目釘。本来は刀身と柄(つか)を接合する固定具であるが、柄の外に見える目釘の鋲頭(びょうがしら)と座が装飾化されてその部分全体を指すようになり、更には実際の目釘とは無関係にもっと広範に柄に飾られた金物を言うようになった。

・「六朝の金粉何とか云ふ前人」筑摩全集類聚版脚注や岩波版新全集の神田由美子氏の注解共に、ここに、この歌は催馬楽にある、とのみ記している。これは如何にもおかしくはないか。いや、歌謡の催馬楽にそのような歌詞があることについては問題ない。あるのであろう(しかし両注共に引用していないのは残念である)。私がおかしいというのは、ここで芥川が「前人の」と言っている点である。ここで、芥川は「到底奈良の郊外の緑蕪に、銀の目貫の太刀を下げ佩いた公子を憶ふ所の寂しさぢやない」、日本のしみじみとした風景の寂しさじゃあない、と言っているのである。それは「吐き氣をこらへ」てでも、「鍾山の松柏を仰ぎ見」んとさせる程に、激しく胸を突く「その儘懷古の詩境であ」るのだ。そこに何で場違いな日本の催馬楽を思い出す必要があるのかという疑義である。ここで芥川が想起せんとしたのは漢詩である。そうしてそれにぴったりの作品が存在する。清代、袁枚(17161797)・趙翼(趙甌北 17271812)とともに乾隆(江家)三大家と讃えられた詩人・劇作家蒋士銓(しょうしせん 17251785)の七絶「卜居(ぼっきょ)二首」の、その「二」である。

 卜居

鍾山眞作我家山

揀得行窩靜掩關

洗去六朝金粉氣

展開屏障畫煙鬟

○やぶちゃんの書き下し文

 卜居

鍾山 眞(まこと)に我が家山と作(な)し

窩(か)を揀(え)り得て靜かに關を掩ふ

六朝金粉の氣を洗ひ去りて

屏障を展開して煙鬟(えんくわん)を畫(か)く

○やぶちゃんの現代語訳

 地を占って居を定める

見つけたよ――離離たる緑蕪のこの鍾山さ――僕の遂の住みかなんだ

潜り込む心地よい洞(うろ)の窩(あな)を選りすぐって――僕は庵の閂(かんぬき)を下ろした

もう派手な六朝の金粉なんかいらない

屏風を張り巡らし――僕はひたすらけぶるように豊かな女の髷(まげ)を描く……

転・結句は私のいい加減な感触で訳しているに過ぎない。是非、お分かりになる方の御教授を願う。

・「正殿」地下宮殿がある法宝城のことであろう。芥川がここで立っているのはそこに囲まれた高さ129mの「宝頂」と思われる。

・「郭門」明孝陵の正門である朱塗りの文武方門であろう。

・「陵道」文武方門に至る左右の獅子・駱駝・象・馬や武人等の石像が配列された神道(参道)。

・「叡山の將門」これは若き日の平将門が藤原純友とともに比叡山に登り、京の町を睥睨していつかこの町を我らがものにせんと誓い合ったという伝説のパロディ。「暖さうな黑の馬掛兒(マアクワル)に、藍の大掛兒(タアクワル)を着こんだ」威儀堂堂たる五味氏演じる将門が高みからの「第三の男」、対する芥川は胃液を吐く役不足の純友である。

・「高跳動(カオチヤオトン)」“gāotiàodòng”辞書にもなく、検索にも掛からず不詳の遊戯である。筑摩全集類聚版脚注には『竹馬にのって踊りをするのか。』とある。私はよく中国雑戯団の演目で見かけるシーソーで高く跳躍してトンボを打ったり、積み重ねた椅子の上に着地したりする芸を想起したのだが……。識者の御教授を乞うものである。【2010年10月16日追記】これは「高蹻戲」“gāojiăoxì”(ガオチャオシ)若しくは「高脚戲」“gāojiăoì”(ガオチャオシ)であることを解明した。詳しくはHPの「江南游記」該当注を参照されたい。画像も添付してある。]

江南游記 二十七 南京(上)

       二十七 南京(上)

 南京(ナンキン)へ着いた日の午後、私は何とか云ふ支那人と、とり敢へず城内一見の爲に、例の通り人力車の客となつた。夕日の光の流れた町は、西洋建も交つた家並(やなみ)の後(うしろ)に、麥や蚕豆(そらまめ)の畠を見せたり、鵝鳥(がてう)のゐる池を見せたりする。その上比較的廣い往來には、行人の數も疎(まばら)にしかない。案内者の支那人に尋ねて見ると、南京城内の五分の三は、畠や荒地になつてゐると云ふ。私は路側(みちばた)の柳だの、崩れかかつた土塀だの、燕の群だのを眺めながら、懷古の情を催すと同時に、かう云ふ空き地を買つて置いたら、成金になれさうな心もちもし出した。

 「誰か今の内に買つて置けば好(よ)いのに。浦口(プウカオ)(南京の對岸にある町)が盛になりさへすれば、きつと地價も暴騰するぜ。」

 「駄目です。支那人は皆明日の事を考へない。地面なぞを買ふものはありやしません。」

 「ぢや君だけ考へるさ。」

 「私もやはり考へない。――第一考へる事は出來ないのです。家を燒かれるか殺されるか、明日(あした)の事はわからんでせう。其處が日本とは違ふ所です。まあ今の支那人は、子供の生ひ先を樂(たのし)みにするより、酒か女かに嵌つてゐますね。」

 その内に何時か往來には、呉服屋だの本屋だの、賑かな店が見え始めた。私は靈巖山へ登つた歸りに、何度も路に迷つた擧句、とうとう日さへ暮れたものだから、驢馬ごと田の中へ飛びこんだり、襯衣(シヤツ)まで雨に透されたり、一方ならない難儀をした。その記念にはキツドの靴に、二三箇所大きい穴が明いてゐる。私は靴屋の見えたのを幸ひ、靴を買ふ必要を痛感したから、早速その店の飾り窓の前へ、車を止めるやうに命令した。靴屋は軒へはひつて見ると、思つたより廣い店構へだつた。其處に職人がたつた二人、こつこつ靴を拵へてゐる。まはりには大きい椅子の戸棚に、西洋風の靴は勿論、支那の靴もいろいろ飾つてある。黑い靴、桃色の靴、水色の靴、――支那の靴はいづれも繻子(しゆす)張りだから、大小さまざまの男女の靴が、夕明りの中に並んでゐるのは、妙に美しい氣がしない事もない。おまけに帳場に立つた主人は、色の白い、口もとの優しい、それだけに一層氣味の惡い、片目眇(かためすがめ)の男である。私はちよいとロマンテイツクな氣になりながら、出來合ひの靴を物色し出した。この店には戸棚の何處かに、人間の皮を縫ひ合はせた、華奢な女の靴があるかも知れない、――そんな氣も多少はしたのである。が、私が買つた靴はロマンテイツクでも何でもない。正價六圓の編上げである。色は、――その後(のち)この靴をはいた儘、村田烏江君とめぐり過つたら、「妙な色ですね。鞄をはいて歩いてゐるやうぢやないですか。」と、殘酷な批評を加へられた。實際又黄色いやうな、黑いやうな、甚(はなはだ)怪しげな赤靴である。

 新しい靴をはいた後(のち)、又車に乘つて行つたら、貢院の續いてゐる往來へ出た。貢院は坪數約三萬、戸數二萬六百とか云ふ、途方もない規模を備へた、昔の文官試験場である。通りすがりに見た感じは、棟割長屋と大差はない。が、日の入りの空に聳えた、壁だけ灰白い明遠樓(めいえんろう)の下に、無數の甍が連つてゐるのは、大袈裟な氣もちがするばかりか、如何にも荒涼たる景色である。私はその屋根を眺めてゐると、急に天下の試驗制度が悉(ことごとく)下らない氣がし出した。同時に又天下の落第書生に、滿腔の同情も捧げたくなつた。諸君が試驗に落第したのは、諸君の無能によるのぢやない。單に不幸なる偶然である。古來支那の小説家は、この偶然を必然とする爲に、諸處の貢院を舞臺とする、因果の怪談を作り出した。が、あれは信ずるに足りない。いや、寧ろさう云ふ話は、彼等も試驗の及落には、如何に偶然が幅を利かすか、明かに知つてゐた證據である。諸君は試驗に落第しても、諸君の能力を疑つてはならない。もしそれを疑つたが最後、諸君は諸君自身を亡ぼすと共に、諸君の先進たる試驗官をも、精神的殺人の犯罪に陷らせる事になるからである。現に私なぞは落第點を取つても、私自身の才力に就いては、寸毫(すんがう)の疑(うたがひ)も挾まなかつた。その爲に當時の試驗官諸公も、私に接する時だけは、良心の呵責を感じないらしい。……

 「貢院はもつとあつたのです。」

 案内者の聲は卒然と、私の妄想を驚かせた。彼は私を顧みながら、點點と空に蝙蝠を飛ばせた、物悲しい瓦屋根を指さしてゐる。

 「一時は議員の選擧場にも使はれたのですが、去年以來どしどし毀され出しました。」

 我我の車はさう云ふ内に、名高い秦淮(しんわい)のほとりへ出てゐた。

[やぶちゃん注:5月12日、揚州から鎮江へ戻った芥川は、ここで案内をしてくれた島津四十起と別れ、単身、列車で南京“nánjīng”に赴いた。

・「浦口(プウカオ)」“pŭkŏu”は現在の江蘇省南京市浦口区。南京市街とは長江を挟んで反対側にあり、1968に竣工した南京長江大橋で市街と連絡する。この橋は鉄道道路併用橋で、この開通によってそれまで長江によって分断されていた上海・北京間の鉄道が繋がった。新技術開発区や経済開発区に指定されているが、活気は今一つである。

・「靈巖山へ登つた歸りに、……」前掲「十八 天平と靈巖と(下)」参照。

・「キツドの靴」“kid”でキッド革、子山羊の革。

・「繻子」絹を、縦糸と横糸とが交差する部分が連続せず、一般には縦糸だけが表に現れる織り方(繻子織りと言う)にしたものを言う。

・「村田烏江」村田孜郎(むらたしろう ?~昭和201945)年)。大阪毎日新聞社記者で、当時は上海支局長。中国滞在中の芥川の世話役であった。烏江と号し、演劇関係に造詣が深く、大正8(1919)年刊の「支那劇と梅蘭芳」や「宋美齢」などの著作がある。後に東京日日新聞東亜課長・読売新聞東亜部長を歴任、上海で客死した。「上海游記」には勿論のこと、本篇前半の西湖の案内者として既に登場している。

・「貢院」科挙試のための一方開放式ボックスの試験室が長屋状になったもの。私も復元されたものに受験生気分で座って写真を撮ったことがある。極めて狭い。ここで2泊3日自炊で試験を受けた。筆記試験実施中にここから出た者は即座に失格であった。

・「明遠樓」上記の江南貢院は清末に科挙の廃止に伴い、順次、取り壊されてしまったが、試験官の詰め所であった明遠楼は、現在も保存されている。

・「秦淮」江蘇省南西部から南京市街の西を流れ、長江に通ずる運河の名。南京の名勝地で、両岸には料理屋や遊郭が殷賑を極めていた。]

2009/07/22

1978年8月6日の僕の日記

「上海游記」「江南游記」「長江游記」を読む。
恐らく芥川龍之介の著作中、最も嫌悪感を抱かせ、失望に至らざるを得ない作品群。彼の汚点はこの随筆集に残されてしまった――しまった? 残されている、には違いない。
随筆とは誰が書いても、多かれ少なかれ、芸術家然気質の展覧の場に過ぎず、言葉のtechniqueと作家のposeの干物のアンモニア臭に満ちているものである。
この三作は図らずも芥川龍之介の以下の内実を暴露した。若しくは私が以前からどこかで嗅ぎ取っていた、或る「臭さ」の元凶を白日の下に曝した。
芥川龍之介は実生活に於いて“好色”である。「上海游記」では「南国の美人」として三章を割いているが、この中で彼は中国人の女の耳のコケティッシュさを説き、この発見を自画自讃して止まない。新聞読者の好奇心をくすぐるためと考えれば、まことに美事と言えなくもないが、小説「好色」に現れるようなスカトロジスム的雰囲気、宇野浩二の愛人に対するきわどい悪戯(ベッティングによる情動充足)等を見ると、芥川龍之介の極めて過剰なフェティシズム的側面を感じさせる。
小説で如何なる好色異常な性愛を描写しても、即座にそれが作者自身の異常性へと連動しなことは言わずもがなながら、随筆のそれが病跡学的な形で、作者自身を解剖する方途とされてしまうのは仕方あるまい。
雑録に類した紀行から生まれた軽佻浮薄。小説のような綿密な構造性に欠けるために、芥川は断片的な事象に安易な見解を下しては、立ち止まって考えることをせず、あっという間に気を他に移している。一度、判断した事柄について立ち返って反芻することがない。その狭間を漢文学的知識のひけらかしと西洋文学との比較文化論的御開帳で粉飾している。勿論、彼の漢学教養には舌も巻くし、彼が何気ない対象に向けた独特の視点の在り方には、どきりとさせる箇所も少なくはない。しかし、やはり、総じて彼のたどりつく感懐の果ては、無責任で短絡的と言わざるを得ない。小説のストーリー・テラーの鮮やかな手捌きはなりを潜めてしまい、全体のリズムを変化させようとして、逆に各篇がその中でおためごかしの形式主義に堕してしまった。
当時の中国や中国人に対する、当時の日本人大衆への安易な迎合。その差別感覚は読んでいて憤りを覚えることも一度や二度ではない。鏡花の「蛇くひ」等の被差別部落民への偏見は、それを仮構された小説世界の中で、主人公や登場人物への人間的評価の負のベクトルとして読むことで、私は或る程度、許容して読み進めることが出来るのだが、どうも愛する芥川が、ナマの言葉で綴ってしまったこれらの「随筆」(私は如何なる作家も随筆を小説の遥か下方に置いている。随筆家なる芸術家はいないとさえ思っている)群を前にすると、作者自身への感情的な不快感を抑えることが出来なくなる。芥川の中国人大衆への侮蔑感は首尾一貫している、時代が時代だからとは言え、近代的インテリゲンチアを自認していたに違いない芥川にして、「羅生門」や「鼻」の作者にして、そのhumanismの部分的欠如――うまく言えないが芥川の内実に於けるhumanismの不均衡――は私には理解し得ない。――何故に、花売りの老婆を、その如何にも狭量な時空間の中で裁断し、唾棄出来るのか?――何故に、たむろする乞食の一人一人の映像をアップすること、彼等の過去現在未来を深く慮ることなしに「不愉快」の一語で通り過ぎてしまうことが出来るのか?
君は良心を持っていない、と言った――良かろう。土台、人間の良心等、虚像に過ぎないことを私に教えてくれたのは、君だから――だが、君は神経を持っている、と言った――
ここに至って私は君に訊く――君の神経は無脳ガエルの背中に塩酸の試験紙を張ったあの高校生の時の実験のように、無条件反射系の神経系統を持っているだけなのか? 君の脳は条件反射を行えない、ただ単に壊れた脳なのか?――
私は君を愛している――こうした言葉さえ、君にしても私にしても、虚偽でないことを証明することは難しいのではあるが――だが、この三篇を通して接した君の姿は、私に、大溝の水を飲んだような、嘔吐の感覚を引き起こさせる――
君は、大いなる汚物を残して逝った――

日記の山の中からやっと探し当てた。
以上は大学4年の夏、1978年8月6日(日)の21歳の僕の日記から引用した。
如何にも恥ずかしい稚拙極まりない感想であるが、「この時の僕」は、確かに心底、こう感じていたのだと「今の僕」に実感できる。そうして「今の僕」は、この芥川の「随筆」を愛しているという違いも、矛盾なく理解出来るのだ――
そうして――この頃の僕は、如何にも真っ正直で――ウブで――お目出度くて――しかし――「云いようのない疲労と倦怠とを、そうして又不可解な、下等な、退屈な人生を生きている今の僕」にとって――何処か羨ましい奴でもある――と思うのである……

江南游記 二十六 金山寺

 

 

       二十六 金山寺

 

 「對聯(たいれん)の文句も變りましたね。御覧なさい。あすこに貼つてあるやつなぞは、獨立大道、共和萬歳としてあります。」

 

 「成程、此處のも新しい。文明世界、安樂人家(あんらくじんか)と書いてあります。」

 

 我我は人力車に搖られながら、こんな事を話し合つた。狹い路の南側には、煮賣屋(にうり)だの安宿(やすやど)だの、いづれも薄汚い家が並んでゐる。その戸口に貼りつけた、例の緋唐紙(ひとうし)の聯を讀むと、大抵今話した通り、新時代の對句(つゐく)が書いてある。我我が今通つてゐるのは、呉中の門戸(もんこ)たる鎭江(チンキヤン)ぢやない。正に「西暦千八百六十一年天津(てんしん)條約により開港せられたる」民國十年の錢江である。

 

 「今眞紅な着物を着た子供がゐたでせう?」

 

 「ええ、肥つたお上さんが抱いてゐた。――」

 

 「あれです。あれは天然痘ですよ。」

 

 私は急にこの四五年、種痘をしない事を思ひ出した。

 

 その内に我我の人力車は、鎭江(チンキヤン)停車場の前に着いた。が、時間表を調べて見ると、南京行の汽車に乘るのには、まだ一時間程餘裕がある。既に餘裕があるとなれば、あの山の上に塔の見える、金山寺(きんざんじ)を見ないと云ふ法はない。我我は評議一決するが早いか、早速又人力車の客となつた。但し早速とは云ふものの、例の通り賃錢(ちんせん)を値切る爲に、十分ばかりかかつたのは事實である。

 

 最初に車の通つたのは、掘立小屋ばかり軒を並べた、頗(すこぶる)原始的な貧民窟である。小屋の屋根は藁葺きだが、土を塗つた壁は殆(ほとんど)見えない。多くはあんぺらか蓆張りである。その内外には男も女も、陰慘たる顏をしたのがうろついてゐる。私は小屋の屋根の後に、長の高い蘆を眺めながら、もう一度疱瘡になりさうな氣がした。

 

 「どうです、あの犬は?」

 

 「毛も何もない犬は珍しい。が、氣味も惡いですね。」

 

 「ああ云ふのは皆梅毒ですよ。苦力(クウリイ)や何かに移されるのださうです。」

 

 その次に車の通つたのは、川があつて、材木屋があつて、――要するに木場のやうな所である。此處には家家の軒に貼つた、小さい緋唐紙(ひたうし)の切れ端に、「姜大公在此」(きょうだいこうここにあり)云云の文字が並んでゐる。これは「爲朝御宿」(ためともおんやど)のやうな、お呪(まじな)ひの類(るゐ)に違ひない。その川を向うへ渡つたら、不景氣な町を通り拔けた所に、赤壁の寺の門が立つてゐた。門の前には乞食が一人、松の木の根かたに坐つた儘、どう云ふ訣か深呼吸をしてゐる。事によるとあれは哀(あい)を乞ふ爲に、苦しさうな容子をして見せたのかも知れない。

 

 金山寺は勿論この寺である。我我は車を捨てた後、一通り寺内を歩き廻つた。が、何分にも汽車の時間があるから、ゆつくり見物する氣もちになれない。寺は山に倚つてゐるので、(昔はこれが島だつたと云ふが、)一堂(だう)毎(ごと)にだんだん高くなつてゐる。その間(あひだ)の石段を上下しながら、ざつと見て歩いた感じを云ふと、勢ひ未來派の畫(ゑ)のやうな、妙に錯雜したものになつてしまふ。しかし當時の印象は、それに違ひなかつたのだから、手帳に書いてあるのを寫して見ると、大體こんな調子である。

 

 「白壁。赤い柱。白壁。乾いた敷石。廣い敷石。忽(たちまち)又赤い柱。白壁。梁(はり)の額。梁の彫刻。梁の金と赤と黑と。大きい鼎(かなへ)。僧の頭(あたま)。頭に殘つた六つの灸跡。揚子江の波。代赭色に泡立つた波。無際限に起伏する波。塔の屋根。甍の草。塔の甍に劃(かぎ)られた空。壁に嵌めた石刻(せきこく)。金山寺の圖。査士票(さしへう)の詩。流れて來る燕。白壁と石欄(せきらん)と。蘇東坡の木像。甍の黑と柱の赤と壁の白と。島津氏はカメラを覗いてゐる。廣い敷石。簾(すだれ)。突然鐘の音。敷石に落ちた葱の色。………」

 

 どうもこれだけ書いたのぢや、讀者には一向通じさうもない。が、通じる事にして置かないと、書き直すだけでも手數である。手數も勿論ふだんなら辭さない。が、私は今名古屋にゐる。おまけに道づれの菊池寛は、熱を出して呻(うな)つてゐる。どうか其處を御酌量の上、通じるとして置いて頂きたい。この一囘を書き終つた後(のち)、私は又菊池の病室へ出張しなければならないのである。

 

[やぶちゃん注:5月12日、南京に向かう途中の鎮江にて。

 

・「對聯」は書画や彫り物を柱や壁などに左右に相い対して掛け、飾りとした細長い縦長の板状のものを合わせて言う語。但し、佐々木芳邦氏の「コラム・中国雑談」『その18  中国の「対聯」』によれば、本来は春節を祝うものとして飾られ、「春聯」とも言うが、実は対聯と言った場合はもう一枚、その左右の上に貼るものをも含める。向かって右側のものを上聯、左側を下聯、上に張るものを横批と言い、それらにはここで語られるような社会批評が現れることがあることを佐々木氏は語っておられる。大変面白いのでリンク先をお読みになることをお薦めする。

 

・「例の緋唐紙の聯」「唐紙」は竹とコウゾ(楮)を用いて漉く中国の伝統的な紙のこと。柔らかく脆い。赤いそれに文句を記した対聯は、今も中華街などでよく見かけるお馴染みのものである。

 

・「呉中の門戸たる鎭江(チンキヤン)」鎮江は古くは京口と呼ばれ、三国時代の呉の孫権は一時、ここ京口(鎮江)に都を置いた。

 

・「天津條約」天津に於いて清と諸外国間に、複数期に亙って締結された17条約の通称。1858年アロー号戦争により清とロシア・アメリカ・イギリス・フランスの間で結ばれたものを1回目とし、2回目は1885年に、ベトナム領有を巡る清仏戦争の講和条約として再度、清とフランスが、同時に同年4月には清と日本との間で締結された。この条約はいずれも広範囲の外国の特権を規定しており、これ以降に中国が蒙る不平等条約の元凶となった。1858年の条約の主な内容は、軍事費賠償・外交官北京駐在・外国人の中国旅行開放と貿易の自由化・キリスト教布教の自由と宣教師の保護・漢口、鎮江、南京等10港の開港を定めていた(以上はウィキの「天津条約」を参照した)。

 

・「民國十年」西暦1921年。大正10年。この芥川の中国行の年。

 

・「眞紅な着物を着た」赤色は疱瘡除けの呪(まじな)い。患者には赤い着物、赤い頭巾、枕頭には疱瘡神を祀った。その他、赤い蠟燭・紅団子・赤飯・赤鯛・赤い猿の面・緋色の袈裟を纏った達磨・朱で描いた鍾馗、本邦では赤紙の幣(ぬさ)や紅潮した源為朝・桃太郎の絵等、徹底した赤色アイテムを護符代わりとして用いた。

 

・「天然痘」オルトポックスウイルス属天然痘ウイルス(Poxvirus variolae)により引き起こされる強感染性疾患。死亡率は最大30%。天然痘の症例は世界的なワクチン接種により1977年以来発生していない。1980年の世界保健機関(WHO)の定期ワクチン接種の中止推奨により根絶宣言を出した(但しテロリストが既存の貯蔵天然痘ウイルスを入手することによる再発の危険性はある)。免疫は経時的に低下するため、現在ではほぼ全人類に天然痘に感受性があると言ってよい。感染は直接接触及び飛沫感染による。汚染された衣服・寝具も感染源となり得る。発疹が出現後、最初の7~10日間に感染力は最大となる。皮膚病変部に瘡蓋が形成される頃には低下する。ウイルスは口腔咽頭又は気道粘膜に侵入、該当部位のリンパ節で増殖する。潜伏期間は7~17日の範囲で、その後、発熱・頭痛・背部痛及び激しい倦怠感を伴う前駆症状が2~3日続く。前駆症状に続いて斑点状丘疹が口腔咽頭粘膜・顔面・腕を中心に発現、速やかに体幹および脚部に拡大、その1~2日後、皮膚病変が小水疱になり、次いで膿疱となる。膿疱は体幹よりも顔面および四肢に密集する。膿疱は丸く、よく膨れ、外見上、上皮組織に深く埋没して見える。死亡率はこの2週目前後にショックと多臓器不全を引き起こす激しい炎症反応により最も高まる。その状態が8~9日間続いた後、膿疱は瘡蓋を形成して終息するが、重度の瘢痕が残る。以上を「大痘瘡」と称し、それに類似しているがはるかに軽度な症状の「小痘瘡」は発疹の範囲も狭く、死亡率は1%未満である(以上は「メルクマニュアル 第18版 日本語版」「天然痘」を私が要約したものである。下線部やぶちゃん)。

 

・「私は急にこの四五年、種痘をしない事を思ひ出した」ほくそ笑んだ方は、上記下線部を参照のこと。

 

・「金山寺」鎮江市街西北約3㎞の郊外にある寺。東晋の319年に創建され、正しくは江天禅寺というが、唐代にこの辺りで金を採掘したことから金山寺と呼ばれるようになったという。芥川のメモに現れる塔は鎮江のシンボルとされる七層八角高さ30mの慈寿塔で、金山の尾根上にある。現在のものは清の1900年に重修されたものである。

 

・「あんぺら」中国南部原産の単子葉植物綱イネ目カヤツリグサ科 Cyperaceae の仲間の湿地性多年草の茎の繊維を用いて編んだ筵。日覆いを意味するポルトガル語の“ampero”又はマレー語の“ampela”語源説や、茎を平らに伸ばして敷物や帽子などを編むことを意味する「編平」(あみへら)転訛説等がある。

 

・『「ああ云ふのは皆梅毒ですよ。苦力(クウリイ)や何かに移されるのださうです。」』――ここに注を施さない先人達に私は大いに不満を持っている。アカデミズムの世界にいる人々は、ここを注なしで誰もが分かるとでも思っているのか? そもそも、あなた方は性感染症の深い知識おありになり、一般大衆も同等だなどと思っているのか? 注とは文学の領域を遙かに超えていることを、あなた方は理解しているか? いや、あなたは危ない経験も、不倫も、何もしたことがない。それで、しかし、芥川龍之介の核心的内実を理解しているなどと、思っているとしたら、こんな最下劣な噴飯物はあるまいよ!――まず、語注からとりかかる。「梅毒」は言わずと知れた“Syphilis”、スピロヘータ門スピロヘータ綱スピロヘータ目スピロヘータ科トレポネーマ属 Treponema の梅毒トレポネーマ Treponema pallidum によって発症する性感染症である。各期病態については幾らも容易に読める資料があるから省略する。次に「苦力(クウリイ)」は“ kǔで肉体労働者の意であるが、ここは鎮江であるので、私にとってしっくりくる「港湾の荷積労務者」である。次にここで描写される無毛の犬であるが、これは犬皮膚真菌症や膿皮症等の重症の皮膚疾患による脱毛症状である。私が言いたいのは、ここからだ。「苦力や何かに移される」とは、どういうことか若い読者は、本当に分かるだろうか? 「識者」どもはカマトトの女子高校生に、これが説明なしで本当に分かるとでも思っているのだろうか? この台詞(文脈からは高洲氏かと思われるが、内容からは島津氏の言いそうなことである)は、苦力たちが性欲のはけ口に犬を獣姦し、そのために苦力の罹患している梅毒が犬に感染しているということを言っているのである。私が言いたいのは、そのような誤った差別的(言っておくが、私は苦力たちが「誰一人として」そのような行為を「絶対にしない」などということを力説しようとしているのではない。そんな変態もいたであろう。しかし、それは中国に限ったことではない。どこだってあるさ! 先進諸国の今にあっても)にして、非科学的であることを、何故、アカデミズムは語らないのかという憤懣である。一言で済む。犬に人間の梅毒は感染しないということだ。ここは、向後、必ず注されるべきである。そして、最後に。ここには図らずも芥川龍之介の梅毒感染恐怖に基づく強迫神経症が垣間見えるということである。以上。

 

・「木場」東京都江東区深川地域内の地名。江戸時代初期から隅田川の河口に設けられた貯木場。江戸の度々の大火を目した建設資材の集積場として発展した。現在は埋め立てられて公園となっている。

 

・『「姜大公在此」』「姜大公」は太公望呂尚(りょしょう)のこと。B.C.11世紀頃、周の軍師として活躍し後に斉の始祖となった。姓は姜、氏は呂、名は尚または望、字は子牙又は牙。謚は太公。斉太公、姜太公とも呼ばれる。明代のベストセラーであった神怪小説「封神演義」では姜子牙と称し、革命を指揮する周の軍師として、また崑崙山の道士として主役級の扱いを受ける。この辺りの天下無敵の神格化により、疱瘡除けの呪符にその名が記されるようになったものであろう(以上の太公望の事蹟はウィキの「呂尚」を参照した)。

 

・『「爲朝御宿」』「爲朝」は鎮西八郎源為朝(保延51139)年~嘉応21170)年?)。平安末期の武将。源為義の八男、源義朝の弟。保元の乱(保元元(1156)年7月)で父為義に従い崇徳上皇方に組みするも敗れ、伊豆大島に配流となった。粗暴にして強腕、弓の使い手として知られた。生き延びて沖繩へと流れて行き、琉球王朝の祖となったという伝承の他、御霊伝説に事欠かないヒーローである。古河市公式サイト内の古河歴史博物館学芸員立石尚之氏の「続・歴史の散歩」にある「病の調伏と弓の使い手 源為朝と源頼政」に『昭和14年(1939)夏、古河地方で疱瘡(天然痘)が流行し、人々は疱瘡にかからぬまじないとして「鎮西八郎為朝公御宿(源為朝の宿)」としるした札をかかげていたという』記載が見られる。この芥川の映像の中の中国の民を笑うなかれ、昭和ですぞ。

 

・『どう云ふ訣か深呼吸をしてゐる。事によるとあれは哀を乞ふ爲に、苦しさうな容子をして見せたのかも知れない』芥川さん、あんたが何度も自殺のポーズをしたように、そうした乞食もいたろうよ、しかし、あんたが本気で自殺したかったように、本気で激しい呼吸器障害を伴う慢性疾患は無数にあるんだよ、芥川さん。彼が演技をしていたのか、いなかったか、それを真摯にあの時に立ち戻って、あんたは、その乞食に優しく訊ねて見給え! それがあんたの、まず、すべきことだ!

 

・「昔はこれが島だつたと云ふ」以前、金山は標高約60m・周囲500mの島であったが、長江の蛇行により清代に陸繋島になったという。

 

・「未來派の畫」未来派は、Futurismo(イタリア語)・Futurism(英語)フューチャリズムの訳語。20世紀初頭のイタリアで、既成美術概念の破壊と近代の機械技術革新によって現前した現代社会の持つ純粋な「運動性」や「速度」を称える前衛芸術運動。その短絡的感性故に第二次世界大戦への軍靴の音、ファシズムの賛美に連動していってしまった。ここでの芥川の叙述は、一見、堂内の動的な自己視線の文字化には見えるが、私にはこれといった未来派的な運動と速度への分析的統合という程のものには思えない。それよりもエイゼンシュタインのモンタージュ理論による脚本に近いものを感じる。これは言葉の絵コンテというに相応しい。

 

・「頭に殘つた六つの灸跡」六星球というらしいが、それ以上の意味を捜し得ない(ネットではドラゴンボールの記載ばかり)。少林寺の僧等でお馴染みであるから、仏教というよりも、道教絡みの神仙関連の星座との意味合いがあるか。識者の御教授を乞う。

 

・「査士票」明末清初の画家(16141698)。諸生に合格するも明が滅んだため節を守って仕官しなかった。新安四大家(弘仁・汪之瑞(おうしずい)・孫逸)の一人。山水画を得意とし、書画の鑑識家としても有名で、晩年は揚州に住んだ。

 

・「私は今名古屋にゐる。おまけに道づれの菊池寛は、熱を出して呻つてゐる。……」これによって本篇が大正111922)年1月29日以降の執筆脱稿であることが分かる。芥川は同年1月27日に名古屋へ出発、28日の午後6時半に新婦人教会主催、新愛知新聞社文芸部後援による名古屋椙山(すぎやま)女学校での文芸講演会に、小島政二郎・菊池寛と出席、芥川は文学の「形式と内容」の演題で講演をした(その際、最後に講演した菊池が芥川のことに言及したため芥川が再登壇して反論を述べて拍手喝采を浴びるというハプニングがあったことを後年、芥川の死後に菊池は記している。但し、彼はそのことを『なかなか愉快な會だつた』と言っている)。ところがその夜、別宿していた菊池は芥川から貰った睡眠薬ジャールを処方量を知らずに飲み過ぎ、二日二晩昏睡を続けるという事件を起こしたのであった。――しかし乍ら、私はこれは1月29日ではなく(その日は確かに名古屋に居た)、その翌日、鎌倉に居た1月30日の執筆であるように思われる。――勿論、妻、文には名古屋にいることになっているのだが、その日は居た場所は、鎌倉の料亭小町園――女将の名は野々口豊子――いやいや、これ以上は大脱線……桑原、桑原……]

江南游記 二十五 古揚州(下)

       二十五 古揚州(下)

 

 「――五亭橋畔に喇嘛(らま)塔があります。この寺は法海寺と云ふのださうですが、紅殼(べにがら)を塗つた本堂は勿論、喇嘛塔もびどく荒れてゐました。しかし疎な竹林の空に、大きい辣韮(らつきよう)形の塔が聳えてゐるのは、壯觀でない事もありません。我我は寺の中をぶらついた後(のち)、又畫舫に乘りこみました。

 「川の南岸には不相變、寂しい蘆の茂つた間(あひだ)に、柳や槐(ゑんじゆ)が立つてゐます。法海寺の對岸は、確(たしか)乾隆帝の釣魚臺(てうぎよだい)だつたと思ひますが、その水郷らしい風景の中に、古い亭が一つありました。その水路の窮まつた所が、平山堂のある蜀岡(しよくかう)です。遙に畫舫から眺めても、松林と麥畠と土の赤い崖(がけ)と、斑(まばら)に入り交つた蜀岡の景色は、頗(すこぶる)畫趣に富んでゐました。これは一つには岡の上に、處處青空を見せた、春雲が靜に動いてゐる、――その微妙な光の工合が、手傳つてゐたのかも知れません。

 「しかし畫舫から上つた後も、蜀岡、少くとも歐陽修が建てたと云ふ、平山堂のあるあたりは、甚(はなはだ)閑雅な所でした。堂は法海寺の境内に、大雄寶殿と並んでゐますが、ひやりと埃の匂のする、薄暗い堂へはひつた時は、何だか難有い氣がしたものです。私は額や聯(れん)を讀んだり、欄外の見晴しを賞したり、少時(しばらく)堂の中を徘徊しました。この堂の主人歐陽修は勿論、此處に遊んだ乾隆帝も、きつと今の私のやうに、悠悠たる氣もちを樂んだでせう。その意味では私も凡俗ながら、古人と默會が出來たのです。堂の前には亭亭(ていてい)と、幹の白い松が二本、高い軒瓦(のきがはら)を凌いでゐる、私はそれを仰ぎ見ながら、鄭蘇戡(ていそかん)先生のヴエランダの外にも、やはり此(この)白松(はくしよう)と云ふのが植ゑてあつた事を思ひ出しました。松の梢に遮られた空には、絶えず時鳥(ほととぎす)が啼き渡つてゐます。………………」

 私は手紙を書きかけた儘、「やあ」と高洲氏に御時儀をした。高洲氏は其時私の前へ、一椀の草決明(さうけつめい)を勸めたからである。――我我は名所の見物をすますと、高洲氏の邸宅へ引き揚げて來た。邸宅は手廣い庭を控へた、好く云へば支那の庵室のやうな、惡く云へば稗(ひえ)蒔きの家に近い、藁葺屋根の建物である。が、草花の多い庭は決して稗蒔きどころの騷ぎぢやない。殊に現在暮色の中に、シネラリアや雛菊の仄(ほのめ)いてゐるのは、明星派(めうじやうは)の歌じみた心もちもする。私は窓の硝子の外に、さう云ふ庭先を眺めながら、書きかけた手紙はそつちのけに、ゆつくり熱い草決明を吸つた。

 「これさへ飮んでゐれば無病長壽さ。僕は珈琲(コオヒイ)も紅茶も飮まない。朝夕こればかり飮んでゐる。」

 高洲氏はやはり茶椀を前に、草決明の效能を吹聽した。按ずるに草決明と稱するのは、はぶ草の實を煎じたものである。これに牛乳や砂糖を入れると、飮料としても惡いものぢやない。

 「つまり何首烏(かしゆう)の類(るゐ)ですか?」

 島津氏は一口飮んでから、口髭についてゐる滴を拭つた。

 「何首烏は君、婬藥(いんやく)さ。草決明はあんな物ぢやない。」

 私はそんな對話を外(よそ)に、もう一度手紙を書き始めた。

 「我我は今夜高洲氏の所に、一晩止めて貰つた後、鎭江(チンキヤン)へ引返す豫定です。島津氏とは多分鎭江から別れる事になるでせう。私は蘇州滯在中、島津氏と一度大喧嘩をしました。が、今ではかう云ふ好漢と、何故喧嘩をしたかと思つてゐます。どうかその點は御安心下さい。

 「何でも坊間の説によると、高洲氏は年俸何萬圓とかの大官になつてゐるさうですが、この部屋も紫檀の寢臺(ねだい)があつたり、いろいろ骨董が並べてあつたり、ホテルよりも遙に難有い位です。唯(ただ)の寢臺足りない爲、私は島津氏と長椅子の上へ、同衾(どうきん)する運命を荷ひました。それも足と頭と並ぶやうに、枕を反對にするのださうですから、私の頭は島津氏の足に何時蹴飛ばされるかわかりません。私は如何に島津氏の足が、赤縣(せきけん)の山河を踏破しただけに、巖丈であるかを知つてゐます。その足が私の枕の近所に、夜中(よぢゆう)横はつてゐるのだと思ふと、確に愉快ではありません。私は昔袈裟御前が、盛遠に打たれる覺悟をしながら、靜に獨り寢てゐた如く、今夜も豫(あらかじ)め………」

 私は急に手紙を隱した。

 「大分長い手紙ですな。」

 島津氏は何だか落ち着かなさうに、部屋の中を歩きながら、私の手紙へ眼をやつた。事によると島津氏自身も、私に頭を蹴られはしないかと、内心不安に思つたのかも知れない。

 

[やぶちゃん注:5月11日夜。これは書簡体小説を意識した入れ子構造の実験的一篇である。この書簡も実在しないと考えてよい。ちょっと考えても、この手紙を受け取る人間を考えると分かる。この宛名人は、上海での芥川の鄭孝胥訪問を恐らく知っており、島津四十起とも旧知、更に恐らく高洲大吉も知らぬわけではない相手である。そういう人物は上海には複数いると考えられる。しかし、芥川の書簡の嘱目の説明からして、その宛先は日本にいる日本人であると断定してよい。だいたい一泊の小旅行で上海在留の日本人知人に宛てて手紙を書くはずがない。芥川に「上海游記」等に出てくる西村貞吉のような上海以外の中国在住日本人の知人がいないことはないが、この揚州の情景描写はここに来れない者へ向かっての語り口であり、日本にいる日本人以外には考えられない。そうして、その根拠の決定打は、その人物は芥川龍之介の「袈裟と盛遠」を雑誌『改造』か、作品集『傀儡師』で読んでいる人物である点である……これはもう、現にこの連載を読んでいる「毎日新聞」の購読者の中の、芥川好きの読者以外には、いないのである。

・「喇嘛塔」/「法海寺」は五亭橋の南端のある元代に創建された寺。蓮性寺の元の寺名。そこに立つ「喇嘛塔」とは白塔のこと。チベット仏教=ラマ教様式の白い独特の形をした塔で、高さ約28m。乾隆帝によって1784年に改修された。五亭橋同様、帝の歓心を得るために塩商人が一夜にして築いたという伝説もある。揚州二十四景の「白塔晴雲」はここである。

・「紅殼」赤色顔料の一。主成分は酸化第二鉄Fe2O3。着色力が強い。塗料・油絵具の他、研磨剤に用いる。ベンガラ。名称はインドのベンガル地方で多く産出したことから。それに当字したものの訓読みである。

・「釣魚臺」五亭橋の東北、湖上の島の張り出した先端に位置する。K.Iwata氏の「中国を楽しく旅行する」の「古都揚州」のページに『乾隆帝行幸の折、皇帝が湖上を行くときに、水辺で楽隊が音楽を吹奏するために造ったものであるので、吹台と呼ばれたが、水辺にあるその姿が、いかにも魚釣りのあずまやに見えるところから、いまは一般に釣魚台と呼ばれている。このあずまやには、大きな丸窓があって、その丸窓の借景、とくに水面に浮かぶ五亭橋を丸く切り取って撮すことができるスポットとしても、好事家の間で知られている名所である』と解説され、また『乾隆帝は実際ここで釣りをしたという話も伝えられている。帝が釣り糸を垂れるたびに、蓮の葉で身を隠して近づき、蓮の茎で呼吸をして水中に潜っては、釣り糸の先に生魚を付けて、皇帝がそれを釣り上げるたびに、なみいる皆が拍手喝采して、皇帝を喜ばせたという。』と、興味深いお話を綴られている。

・「平山堂のある蜀岡」蜀岡は痩西湖最北端の眺めの良い高台。南北朝の南朝宋孝武帝大明年間(457464)に創建された大明寺がある。唐の743年、当時のこの住持を務めていた鑑真和上は遣唐僧の懇請を受けて苦難の末に来日した。日中仏教文化の所縁の地でもある。この一画に「平山堂」があり、北宋の1048年、欧陽脩が揚州知府に任じされた際に建てた、文人墨客を招いたサロン。揚州大明寺日本語版公式サイト「文人墨客区」によれば、『平山堂から遠くの江南地域の山並みを眺めたら、山の高さはちょうど平山堂の高さと同じように見えた』ことから名づけた、とある。このサイト、中国のサイトの日本語版としては頗る高度な内容となれた日本語で構成されている。一見の価値あり。

・「大雄寶殿」揚州大明寺日本語版公式サイトに敬意を示して「大雄宝殿」から全文を引用する。『大明寺の本堂に相当する廟殿である。宝殿前の庭園の東側に百年以上の柏木、右側に百年以上の黄楊が植えられ、中央に二つの鼎が置かれている。清時代に建てられた大雄宝殿は前後に回廊に囲まれ、正面間口三間、三重もこし付の建築物である。屋根は全部灰色の瓦を葺き、その脊に透かし彫りの美しい模様が刻まれている。二重目のひさしに「大雄宝殿」の扁額がかかっている。屋根に鏡がかかっていて、表面に「国泰民案」の文字が刻まれ、裏面に「風調雨順」の文字が彫刻されている。仏教によると、大雄宝殿及び天王殿で祭られている仏は国と民衆の平安無事、農作物の豊作を守るという重責を担っている。大雄宝殿殿内の仏像は静かな厳しさを感じさせる。中央の蓮華座の上にある南向きの仏像は釈迦牟尼仏坐像、即ち仏陀であり、「釈尊」と呼ばれ、また中国語で「大雄」とも呼ばれ、尊敬されている。それは釈迦牟尼仏がまるでライオン、勇士のようになにものも恐れないわけである。釈尊の左側には薬師如来坐像であり、居所たる東方浄瑠璃世界を主宰し、右側には阿弥陀仏坐像であり、居所たる「西方極楽浄土」を主宰している。また、釈尊の両側に十人弟子のうちの二人の立像も祭られていて、左側の立像が経験及び威厳を象徴し、右側の坐像が智慧及び学識を象徴している。釈尊の反対側、北面にある仏像は「海島観音」である。観世音菩薩は西方極楽世界にいる聖者であり、仏の大慈大悲で衆生を済度することを本願とし、衆生の求めに応じるため、大衆に最も尊重されている。殿内東西側に十八羅漢が祭られ、それぞれの生き生きした表情は人々の心を引き付ける。毎年、中国そして世界各地から数多くの観光客が大明寺を訪問していて、信者のお寺参りが絶え間なく続いている、特に毎年の大晦日に鐘を鳴らし、来年の幸福を祈念する行事が国内外の観光客及び信者を引き付けている。』芥川が静かに佇んだ堂内と堂前が髣髴としてくるではないか。

・「聯」は対聯のことで、書画や彫り物を柱や壁などに左右に相い対して掛け、飾りとした細長い縦長の板状のものを合わせて言う語。ここでは経や法句を記したものであろう。

・「亭亭と」高く聳えるさま。

・「幹の白い松」恐らく裸子植物門マツ亜門マツ綱マツ亜綱マツ目マツ科マツ属シロマツPinus bungeanaと思われる。「白松(はくしょう)」「白皮松」とも言い、中国中部から北西部原産。針葉が三本で一組。成長が遅く、現在は希少種。

・「鄭蘇戡」鄭孝胥(ていこうしょ)の号。鄭孝胥(Zhèng Xiàoxū ヂョン シアオシュー 18601938)は清末の1924年総理内務府大臣就任(最早、清滅亡を眼前にして有名無実の職であったが、失意の溥儀によく尽くし、後、満州国にあってもその誠心を貫いた)、後、満州国国務院総理(首相)となった。詩人・書家としても知られる。ウィキの「鄭孝胥」によれば、1932年の『満州国建国に際しても溥儀と一緒に満州入りし』、1934年、初代国務院総理となったが、『「我が国はいつまでも子供ではない」と実権を握る関東軍を批判する発言を行ったことから』1935年辞任に追い込まれた。「上海游記」「上海游記 十三 鄭孝胥氏」を参照のこと。

・「草決明」漢方名は「決明子」(ケツメイシ)とも。バラ亜綱マメ目ジャケツイバラ科センナ属エビスグサSenna obtusifolia、シノニム Cassia obtusifoliaの成熟種子。平行四辺形の独特の形状を成す。目薬や便秘薬として用いられ、健康茶「ハブ茶」としても古くから用いられた。後掲「はぶ草」を必ず参照されたい。

・「稗蒔きの家」貧乏な百姓家の謂い。

・「シネラリア」キク目キク科ペリカリス属シネラリアPericallis cruenta。北アフリカ・カナリヤ諸島原産。冬から早春にかけて開花、品種が多く、花の色も白・青・ピンクなど多彩。別名フウキギク(富貴菊)・フキザクラ(富貴桜)。英名を“Florist's Cineraria”と言い、現在、園芸店などでサイネリアと表示されるのは英語の原音シネラリアが「死ね」に通じることからとされる。――しかし乍ら、試みに調べてみたら、余りに美しすぎて他の花が売れなくなるからか――“Cineraria”という語は“cinerarium”――「納骨所」の複数形である――“Florist's Cineraria”「花屋の墓場」という意味なのであった――

・「明星派」与謝野鉄幹主宰の東京新詩社同人による詩歌雑誌『明星』(明治331900)年4月~明治411908)年11月:第一次と呼称)に拠った明治30年代の浪漫主義を代表する詩人・歌人の一派及びその詩風を言う。高踏的・唯美的で、強い芸術至上主義傾向を持つ。星菫派。与謝野鉄幹・与謝野晶子・北原白秋・石川啄木・吉井勇・山川登美子らが挙げられる。芥川はそれに続く『明星』第二次(大正101921)年11月~昭和2(1927)年4月・明星発行所刊)に寄稿している(同時期の寄稿者には旧来の星菫派以外に森鷗外・永井荷風・佐藤春夫・堀口大学らがいたが、この時期の『明星』は最早、本来第一次が内包していた文学的革新性からはほど遠いものとなっていた)。芥川龍之介は大正111923)年1月の第一巻第三号に「本の事」(内容の一部である「各国演劇史」「天路暦程」は同趣旨のものを大正9(1020)年発表の骨董羹―壽陵余子の假名のもとに筆を執れる戲文―」に所収しており、リンク先の私の注で「本の事」版と比較して読める)、大正121923)年9月第四巻第三号に「洞庭舟中」、大正141925)年3月第六巻第三号に恋情抑えがたき片山廣子への「越びと 旋頭歌二十五首」等を発表している。「洞庭舟中」は本「江南游記」冒頭の「前置き」注で述べた5月30日附與謝野寛・晶子宛旧全集九〇四書簡(絵葉書)で、『長江洞庭ノ船ノ中ハコンナモノヲ作ラシメル程ソレホド退屈ダトオ思ヒ下サイ』と記す前に掲げたものである。中国行での吟詠でもあり、以下に示しておく。

 

 洞庭舟中

 

しらべかなしき蛇皮線に、

小翠花(シヤウスヰホア)は歌ひけり。

耳環は金(きん)にゆらげども、

君に似ざるを如何にせん。

 

「蛇皮線」は「じゃびせん」と読む。中国伝統の弦楽器、三弦(弦子)のこと。沖繩の三線(さんしん)や三味線のルーツ。「小翠花(シヤウスヰホア)」“xiăcuìhuā”は名花旦として知られた于連泉(本名桂森19001967)を指す。但し、正しい芸名は筱翠花“xiăocuìhuā”(シィアォツォェイホア しょうすいか)である(「筱」は「篠」の本字)。幼い時に郭際湘(芸名水仙花)に師事し、芸名を「小牡丹花」と名乗った。特に花旦の蹻功(きょうこう:爪先立った歩き方の演技を言うと思われる)に優れていた。北京市戯曲研究所研究員を務め、晩年は中国戯曲学校で人材の育成に力を尽くした(以上の事蹟はこちらの個人の京劇サイト「歴代の主な京劇俳優一覧」を参照させてもらった)。芥川は上海で「彼女」の舞台を見ている。「上海游記」「九 戲臺(上)」を参照されたい。

 

・「はぶ草」バラ亜綱マメ目ジャケツイバラ科センナ属ハブソウSenna occidentalis。江戸時代、毒虫・毒蛇、特に南西諸島でハブに咬まれた際の民間薬として用いられたため、この名を持つが、漢方薬処方としては用いられない。現在、知られている「ハブ茶」には、本種は全く用いられず、先に「草決明」で掲げた同属のエビスグサSenna obtusifoliaの種子を原料とする。

・「何首烏」本邦の漢方処方ではナデシコ亜綱タデ目タデ科タデ属ツルドクダミPolygonum multiflorumの塊根を乾燥させた生薬(但し、中国「何首烏」にはリンドウ目ガガイモ科イケマ属 Cynanchumに属するCynanchum auriculatumを基原植物とするものもある)。現在は老人性の湿疹・皮膚掻痒症・慢性蕁麻疹等に処方されるが、ここで島津が言うように民間薬として強壮剤・緩下薬としても用いられ、髪を黒くするという効能から名付けられたという。

・「婬藥」精力増強剤のこと。実際の効果はクエスチョンだが、「何首烏 精力」の検索ワードで4940件ヒットし、そのようなリードが並んでいる。

・「紫檀」マメ目マメ科ツルサイカチ属Dalbergia及びシタン属Pterocarpusの総称。古くから高級工芸材として利用される。ビワモドキ亜綱カキノキ目カキノキ科カキノキ属コクタンDiospiros ebenum・マメ目ジャケツイバラ科センナ属タガヤサンSenna siameaとともに三大唐木の一つに数えられる。

・「赤縣」中国の異名。「史記」の「孟子荀卿列伝 第十四」に『中國曰赤縣神州。赤縣神州内自有九州。』とある。

・「昔袈裟御前が、盛遠に打たれる覺悟をしながら、靜に獨り寢てゐた如く」大正7(1918)年4月に『中央公論』に発表、翌大正8(1918)年1月15日に新潮社より刊行した第三番目の作品集である『傀儡師』に再録した、自作の「袈裟と盛遠」を意識した叙述。未読の方は、私の電子テクストには岩波旧全集版テクスト附原典)作品集『傀儡師』版テクスト2種を用意してある。お好きな方でお楽しみあれ。]

江南游記 二十四 古揚州(中)

       二十四 古揚州(中)

 この水路を行き盡した所に、城門へ穿つた水門があつた。水門にはちやんと番人がゐるから、舟さへ行けば開けてくれる。それを向うに通り拔けると、急に川幅が廣くなつた。畫舫の左には高々と、揚州城の城壁が連(つらな)つてゐる。この城壁も瓦の間に、蔦蘿(つたかづら)が網を張つてゐたり、灌木が生え伸びてゐたりするのは、杭州や蘇州と變りはない。水と城壁との境には、盛り上つた洲の土の色が、蘆むらの向うに續いてゐる。畫舫の右には竹林(ちくりん)が多い。その中に一軒百姓家が見えた。百姓家の壁にはべた一面に、牡丹餠程のものが貼りつけてある。いや、現在もこの家の前には、鳥打帽をかぶつた男が一人、頻に牡丹餠を製造してゐる。これは何かと思つたら、冬の燃料を作る爲に、牛糞を干し固めてゐるのであつた。

 しかし水門を拔けてからは、水も前程臭くはない。景色も畫舫の進むのにつれて、だんだん美しさを加へるやうである。殊に或竹林の後(うしろ)に、古い茶館(ちやかん)が一軒ある、その邊の名前を聞いて見たら、緑楊村(りよくやうそん)と云ふのは風流だつた。實際さう云はれて見れば、茶館の卓子(テエブル)を圍みながら、川を見てゐる連中の顏も、緑楊村裏の住人らしい、泰平の相を具へてゐる。

 その内に我我の畫舫の先には、もう一艘畫舫が見え始めた。この畫舫に乘つてゐるのは、いづれも女ばかりである。しかも棹をとつたのなぞは、日本めかしい御下げの髮に、紅い玫瑰(メイクイ)の花をさしてゐる。私はもう五分もすれば、彼等の舟を追ひ越すから、その時この揚州の美人に、一瞥を與へようと思つてゐた。が、城壁が盡きると同時に、水路の分れる處へ來ると、彼等の畫舫は右へ曲るし、我我の畫舫は反對の方へ、冷淡にも船首を向けてしまふ。見送れば彼等の舟の跡には、兩岸の蘆の靜な間(あひだ)に、薄白い水光(みづひかり)が殘つてゐる。「二十四橋明月夜。玉人何處教吹簫」――私は突然杜牧の詩が、必しも誇張ぢやない事を感じた。どうも揚州の風物の中には、私さへ詩人と化せしめるやうな、快い惱しさがあるやうである。

 畫舫は船頭の操る棹に、水上の水草を押し分けながら、大きい石の眼鏡橋(めがねばし)をくぐつた。橋のアアチの石面には、白墨かペンキか覺えてゐないが、兎に角白い字を並べ立てた、排日の宣言が書き立ててある。その橋の下を通り拔けると、畫舫は高洲氏の命令通り、斜に右岸へ進路を向けた。其處にはずつと水際に、柳ばかり枝を垂らしてゐる。

 「今の橋? 今の橋が大虹橋、この岸が春柳堤さ。」

 高洲氏は舟を止めさせながら、かう私に教へてくれた。

 その春柳堤へ上つて見たら、路を隔てた麥畠の向うに、草色の薄い小山がある。その又小山に幾つとなく、丁度鼹鼠(もぐら)が土を上げたやうに、小さい土饅頭が並んでゐる。墓もかうなると惡くはない。何だか揚州の土の底では、死人さへ微笑してゐさうな氣がする。私は徐氏(じよし)の花園(かえん)の方へ、ぶらぶら柳の下を歩きながら、うろ覺えのミユツセなぞを暗誦した。ミユツセ、――尤もミユツセだつたかどうだか當てにはならない。實は唯(ただ)口の内に、柳、墓、水、懸、草、と云ふやうな、その場合に適切な言葉ばかり、好い加減に呟いてゐると、如何にもミユツセじみた氣がし出したのである。徐氏の花園を一見した後(のち)、我我は又畫舫に乘つて、元通り川を上つて行つた。すると今度は水の向うに、名高い五亭橋が見え始めた。五亭橋一名蓮華橋は、やはり石の眼鏡橋の上に、中央に一つ、二つ、都合五つの亭を構へた、頗(すこぶる)贅澤な橋である。亭の柱や欄干は、皆寂びた丹塗りだから、贅澤でも格別惡どくはない。唯(ただ)橋臺(はしだい)の石の色は、もう少し古みを帶びてゐても、差支へないと云ふ氣がした。が、大體感じを云へば、周圍に蔓(はびこ)る柳や蘆と、多少不調和な氣がする位、支那風に風雅を極めてゐる。私はこの橋の姿が、かすかに青んだ空を後(うしろ)に、柳の中から現れた時、思はず微笑せずにはゐられなかつた。――西湖、虎邱(こきう)、寶帶橋、――それらも勿論惡いとは云はない。しかし私を幸福にしたのは、少くとも上海以來、何處よりもまづ揚州である。

[やぶちゃん注:5月11日。名前が示されないが、揚州西北の郊外にある名勝、痩西湖の周遊である。痩西湖は文字通り細長い人工湖で全長4.3㎞、湖面は凡そ30ha。清の康煕・乾隆年間に湖畔庭園として整備され、長堤・徐園・小金山・吹台・月観・五亭橋・鳧荘(ふそう)・白塔等、名跡が多数ある。

・「緑楊村」痩西湖湖畔の村。銘茶の産地として知られる。

・「玫瑰(メイクイ)」“méiguī”本邦ではこの表記でバラ科バラ属ハマナス(浜梨)Rosa rugosaを表わすが、Rosa rugosaは北方種で中国では北部にしか分布しない。中国産のハマナスの変種という記載もあるが、芥川が中国語としてこの語を用いていると考えれば、これは一般的な中国語としてバラを総称する語であり、注としては「バラ」「薔薇」でよいと思われる。

・『「二十四橋明月夜。玉人何處教吹簫」』前篇「二十三 古揚州(上)」注『杜牧の詩にあるやうな「青山陰陰水迢迢」』参照。

・「大虹橋」痩西湖の入口に架かかり、揚州二十四景の西園曲水と長堤春柳を結ぶ。岩波版新全集の神田由美子氏の注解によれば、明末に架橋後、清の乾隆年間にアーチ型に改修された。命名は『虹が東西両岸にかかっているようにみえる』ところから、とある。

・「春柳堤」湖の西岸にある。入口から小金山迄の数百メートルの堤であるが、揚州二十四景の「長堤春柳」がこれである。

・「徐氏の花園」筑摩全集類聚版脚注は、鎮江の徐宝山の花園とし、岩波版新全集の神田由美子氏の注解は『揚州市の市街東南部にある花園か? 旧市街の徐凝門外の裏道にある』とする。検索をかけるうちに「徐凝門」で、以下個人ブログ考古学用語辞典記載を発見した。「何園」(かえん)という旧跡についてである。改行は「/」に変えた。『揚州市南徐凝門街77号にあり、寄嘯山荘とも呼ばれている。清の光緒年間に造営されたもので、揚州の名園の一つ。園主は隠退して揚州に帰ってきた湖北漢黄徳道道台の何芷(舟+刀)で、陶淵明の「南窓に倚りて以つて寄傲し、東皋に登りて以つて舒嘯す」の詩句から取って、「寄嘯山荘」と名づけたといわれている。/これは大型の邸宅庭園で、後花園、庭付き住宅、片石山房からなっている。面積はわずか7000㎡で、最大の特徴は池の周りに異なる形をした楼が連なっていることで、その長さは430m余に及ぶ。観光客は回廊に沿って一回りして見学することができるようになっている。/この園は東西2部分に分かれ、東部に船庁と牡丹庁があり、船庁の北側に女性の客を宴会でもてなす丹鳳朝陽がある。養魚池の水亭は納涼をとるところであれば、舞台として使うこともでき、また回廊は観劇の観衆席に使われる。主楼の蝴蝶庁は男性の客を宴会でもてなすところである。国内に築山、怪石、古木があり、四季折々の花が咲いている。/何園は曲がりくねった道と回廊で有名。中国・西洋の建築芸術をうまく融合させている。中国の現代の有名な古建築専門家の羅哲文氏は「全体的な配置が整然としており、疎密が適当で、なかでも北部の花園が絶妙を極めている」と述べ、また何園は「江南庭園における唯一つの例」と高く評価している。』。一見、これかと思わせるのだが、やはり「徐氏」はどうみても人名である。すると中文サイト「壹旅游」の「非游不可」の揚州有位“徐老虎”徐宝山其人其事という記事を発見、「徐園」なるものが存在することが分かった。そこに花園があるかないかは分からないが、私はこちらを採りたい。因みに、筑摩版の脚注の徐宝山(18621913)とは清末の軍人。鎮江新勝党の統領として揚州軍政府を弾圧、自ら揚州軍政分府を組織した地元のボス(鎮江出身)。革命党により暗殺された。

・「ミユツセ」Alfred Louis Charles de Mussetアルフレッド・ルイ・シャルル・ド・ミュッセ(18101857)はフランスのロマン主義の作家。

・「如何にもミユツセじみた氣がし出した」ウィキの「ミュッセ」には彼を評して『その詩はうわべの抒情、表面的な憂愁に満ちていて、ロマン主義のもっとも軽薄な部分が出ていると言える』という記載がある。この批判的一刀両断、ウィキならではという感じで、面白い。

・「五亭橋」痩西湖のシンボルと言える極めて異形の建造物。乾隆221757)年、この年の乾隆帝2度目の江南巡幸に合わせて、莫大な財産を恣にした地元の塩商人らが出資し、架橋した。橋上には二重の急激に反り返った廂を有した主亭を中心に、四つ角で接した同じ傾斜角を持った単廂の方亭が囲むように四つ配されている。橋脚には大小異なる遂道が通り、最大の中央のものは水面から7.13m、複雑な形状が四季折々の変化に飛んだ景色を楽しめるよう工夫されている。

・「橋臺」橋脚のことであるが、五亭橋の写真を見ると、如何にも「台」である。]

4時25分の蜩

蜩は一定気温で鳴くのだと思っていた。事実、30年前、鎌倉は岩瀬にある自然保護地域と保存樹林の柱がアパートの前に二本立つ、鬱蒼とした栗林の古い名主の家の前に住んでいた時、彼らが夜中に鳴き出すことがしばしばあった。何故、こんなことを書くかといえば、夜鳴くセミは、体内時計(特に一日単位の概日時計)がしっかりとあり、夜鳴くのはそれが繁華街の終夜照明などの人工環境によって壊れるからだというネット記載を読んだからだ。あの栗林は、照明なんかない。それどころか、鎌倉でも数少ない、古典的自然環境の保存された場所であった(お蔭で見たこともない昆虫や巨大ゲジゲジや巨大ムカデ、グローブ大のウシガエルの大群に悩まされたが)。

――しかし違う。この一週間、観察を続けて見て、少なくとも僕の家の周囲の蜩は、この時期、

朝は4時25前後(殆んど狂いがないので目覚ましにさえなる)から5時前(5時には完全に泣き止む)

に鳴き出す事実が分かった。

セミの種によって鳴く時間帯が違うことは、多くの記載があるが、これ程、正確だとは思わなかった。どうです? あなたも、暫くの間、あなたの近所の蜩のラブ・コールの時間を、調べてみては?

2009/07/21

江南游記 二十三 古揚州(上)

 

 

       二十三 古揚州(上)

 

 揚州の町の特色は、第一に見すぼらしい事である。二階建の家なぞは殆(ほとんど)見えない。平家(ひらや)も眼に止まつた限りは、いづれも貧しさうな容子である。往來は敷石の凸凹した上に、至る所泥水がたまつてゐる。蘇州や杭州を見た眼には、悲しい氣がすると云つても誇張ぢやない。私は泥だらけな人力車の上に、さう云ふ町町を通りながら、鹽務署(えんむしよ)の門前へ辿りついた時、腰纏(えうてん)十萬貫(ぐわん)、鶴に騎して揚州に遊んでも、これぢやつまらないに違ひないと思つた。 

 

 鹽務署の前には石獅(せきし)と一しよに、番兵がちやんと控へてゐる。我我は來意を告げた後(のち)、長い石疊の奧にある、大きい役所の玄關へ行つた。それから給仕の案内通り、アンペラ敷きの應接室へ通つた。應接室の外の庭には、梧桐(ごとう)か何かが立つてゐる。その梢を透かして見たら、糠雨(ぬかあめ)の降つてゐる空が見えた。役所の中はひつそりした儘、何處に人がゐるか判然しない。成程今でもかう云ふ風なら、歐陽修とか蘇東披とか、昔の文人墨客(ぼくかく)たちが、本職の詩酒を樂む片手間、役人を務めたのも當然である。

 

 少時(しばらく)其處に待つてゐると、老人のやうな、若いやうな、背廣の御役人がはひつて來た。これが揚州唯一の日本人、鹽務官の高洲太吉(たきち)氏である。我我は上海の小島氏から、高洲氏へ紹介狀を貰つて來た。さもなければ意氣地のない私は、揚州へ來る氣にはならなかつたかも知れない。來ても高洲氏を知らなければ、愉快に見物は出來なかつたかも知れない。私は甚失禮だが、此處に小島梶郎(かじらう)氏へ、感謝を表して置きたいと思ふ。「上海游記」を讀まれた君子(くんし)は、多分記憶に殘つてゐると思ふが、小島氏はあの小い庭に、櫻の咲いたのを得意にしてゐた、俳骨稜稜たる紳士である。――高洲氏は大きい卓子の向うに、我我二人を招ずると、快活にいろいろ話をした。氏自身の説によると、外國人の揚州に官たるもの、前にマルコ・ポオロあり、後(のち)に高洲氏あるのみだと云ふ。私はこれを聞いた時、大いに氏を尊敬したが、今になつて考へて見ると、損をしたやうながしないでもない。今年今月今日今時、揚州の鹽務署へはひつたのも、一足先には島津四十起、一足後(あと)には私のみである。

 

 うどんの御馳走になつた後(のち)、我我は揚州一見の爲に、高洲氏と鹽務署の門を出た。すると番兵が二三人、一度に我我へ捧げ銃(つつ)をした。糠雨はもう晴れてゐたが、往來は不相變ぬかるみが多い。私はこの泥の中を歩きながら、又古蹟なるものを見るのだと思ふと、甚心細い氣もちがした。が、高洲氏に尋ねて見たら、見物は畫舫でするのだと云ふ。畫舫ならば勿論悄氣(しよげ)なくとも好(よ)い。私はそれを聞かされるが早いか、忽(たちまち)揚州廣しと雖も、悉(ことごとく)經めぐりたい心願を起した。

 

 高洲氏の邸(やしき)に一休みしてから、門前の川へ繋がせた、屋根のある畫舫に乘りこんだのは、その後まだ三十分と、たたない内の事である。畫舫はぢぢむさい船頭の棹に、直(すぐ)と川筋へ漕ぎ出された。川は幅も狹ければ、水の色も妙に黑ずんでゐる。まあ正直に云つてしまへば、これを川と稱するのは、溝(どぶ)と稱するの勝れるのに若かない。その又黑い水の上には、家鴨や鵞鳥が泳いでゐる。兩岸は汚い白壁になつたり、乏しい菜の花の畑になつたり、どうかすると岸の崩れた、寂しい雜木原になつたりする。が、いづれにした所が、名高い杜牧の詩にあるやうな「青山隠隠水迢迢」の趣なぞは見られさうもない。殊に煉瓦の橋があつたり、水際に下りた支那の年増が、泥靴の洗濯をしてゐたりするのは、吟懷を傷けるばかりである。が、それはまだしも好(よ)い。一番私の辟易したのは、この大溝(おほどぶ)の臭氣である。私はその臭ひを嗅ぎながら、ぢつと舟の中に坐つてゐると、何だか又肋膜のあたりが、かすかに痛みさうな氣がして來た。しかし高洲、島津の兩先生は、香料の川にでも泛(うか)んでゐるやうに、平然と何か話してゐる。私の信ずる所によれば、日本人は支那に住んでゐると、第一に嗅覺が鈍るらしい。

 

[やぶちゃん注:「古揚州」をウィキの「揚州市」の「歴史的地名としての楊州」から 引用しよう。『揚子江(江水)を中心に、北は淮水から南は南嶺山脈までの地域のことである。現在の江蘇省全体よりも広く、江南(揚子江の南部)の広大な地域をも含んでおり、魏晋南北朝においては、全国一の重要な地位を占める地域であった。楊州は北に徐州、豫州と接し、西は荊州、南は交州に接していた。楊州は三国時代、呉の孫策・孫権によって支配された土地である。楊州は南部が山岳地帯であるために、人も物資も北部に集中した。このため、三国時代の呉では戦争が相次いで人口不足に陥り、兵力が減少して国が滅亡する一因を成した。しかし楊州は中国南部の要衝地帯であり、晋滅亡後に建国された東晋は、楊州を本拠地としている』。以下、たった一泊(翌12日には鎮江を経由して南京へ向かった)の揚州行に「古揚州」3篇を配した点を見ても一目瞭然、芥川は、この揚州を江南第一として、忘れがたい中国行の郷愁の記憶として、北京と共に刻んでいるのである。私は残念ながら揚州を訪れたことがない。以下、多くを引用でまかなうことをお許し頂きたい。

 

・「揚州」はウィキの「揚州市」によれば、『本来「楊州」と書かれ、漢代に置かれた13州の一つであった。それが唐代に表記を「揚州」と改められた』とある。同じくウィキの「揚州市」の「都市名としての揚州」から 引用しよう。『隋の煬帝が開削させた大運河により物資の集積地となり、一躍繁栄することとなる。また、煬帝が再三行幸を行い、遊蕩に耽ったため、亡国に至った都市としても知られている。唐代にはすでに国際港としての位置づけになって交易が発展したほか、明代以降は、現在の江蘇省の東部を中心とした塩田からとれる塩の集積地としても重要な位置をしめ、この地に豪商を産み、文化の花を開かせる基礎となった。清代の揚州八怪を初めとする、文人を多く輩出しており、揚劇や書画、盆景、料理といった、中国文化の上でも重要な位置を占める。市内にある大明寺は、鑑真和上が唐代に日本に来る前にいた寺である』。

 

・「鹽務署」中国では製塩は漢の武帝以来(当時は匈奴との戦乱による財政再建のため)、中華民国に至るまで官営であり、その産塩や品質の管理・個人製塩や盗難の防止・販売流通・塩に関わる徴税その他塩に関わる一切の行政権を掌る役所を塩務署と称した。

 

・「腰纏十萬貫、鶴に騎して」「腰纏十萬貫」は、腰に緡(さし:穴あきの銭を100枚、紐で貫いた束。)で十万貫(一貫は千文)ぶら下げるような金持ちになり、その上更に、鶴に乗る仙人ともなったとしても、の意。

 

・「アンペラ」中国南部原産の単子葉植物綱イネ目カヤツリグサ科Cyperaceaeの仲間の湿地性多年草の茎の繊維を用いて編んだ筵。日覆いを意味するポルトガル語の“ampero”又はマレー語の“ampela”語源説や、茎を平らに伸ばして敷物や帽子などを編むことを意味する「編平」(あみへら)転訛説等がある。

 

・「梧桐」本邦産の双子葉植物綱ビワモドキ亜綱アオイ目アオギリ科アオギリ Firmiana simplex と同じ。

 

・「歐陽修とか蘇東披とか、昔の文人墨客たちが、本職の詩酒を樂む片手間、役人を務めた」欧陽修(10071072)は、北宋の文人政治家。唐宋八大家(とうそうはちたいか)の一人。1030年に進士に登第後、開封府尹・館閣校勘、失脚して夷陵県令以下、10年の地方官吏、返り咲いて諌官、再度失脚して滁州知事、再度の返り咲きで、翰林学士・権知礼部貢挙(この時に科挙を監督中、蘇軾を見いだす)、後、枢密副使・参知政事(副宰相)となり、1071年、政界を引退して隠棲。同じく唐宋八大家、北宋の文人政治家であった蘇軾(10361101)は1057年に進士登第、地方官を歴任後、中央政府入りを果たすが、師欧陽修が抜擢した王安石の新法に反対して左遷、再び地方官を歴任。1079年には讒言を受けて投獄後に黄州(湖北省黄州区)へ左遷(左遷先の土地を東坡と名づけ、この時自ら東坡居士と名乗った。1089年、杭州知事の際には西湖の浚渫を手掛けた)、その後に中央に復帰するも、1094年には再び新法派が勢力を盛り返して、再び恵州(現在の広東省)左遷、62歳のときには海南島にまで追放された。66歳にして勅許により中央復帰が叶ったが、上洛途上に常州(現・江蘇省)で死去した。芥川の言うように、必ずしも「本職の詩酒を樂む片手間」という閑適の世界に遊んでいたわけでは、ない(以上は主にウィキの「欧陽修」及び「蘇軾」の履歴部分を参照・簡約したものである)。

 

・「上海の小島氏」/「小島梶郎」上海紡績(シヤンハイぼうせき)の社員(管理職?)という以外は不詳。「上海游記」の「十九 日本人」参照(但し、小島梶郎というフルネームはここで初めて明らかにされたものである)。

 

・「俳骨稜稜」これは「九 西湖(四)」で、ここでも同行している島津四十起を表現した「蠻骨稜稜」(「蠻骨」は蛮勇の気質、バンカラな格好、の意。「稜稜」は角張って勢いのある様子を言う。如何にもがっしりとして筋肉質で、物怖じしない風体バンカラな様を言う)の対比的パロディとして用いた芥川の造語である。如何にも俳句でも捻りそうな諧謔風狂味に満ち満ちた感じが、ありありと伺われる風貌、の意である。

 

・「外國人の揚州に官たるもの、前にマルコ・ポオロあり」イタリア・ヴェネツィア共和国商人にして旅行家Marco Polo(マルコ・ポーロ12541324)の「東方見聞録」(これは彼の著作ではなく、イタリアの小説家 Rustichello da Pisa ルスティケロ・ダ・ピサがマルコの口述を筆記したものである)によれば、マルコは1271年にシルクロードを経て元に入り、皇帝のフビライに謁見後、実に17年間に亙って元に仕えた(但し、モンゴルの言葉は話せたが、中国語は話せなかった)。中国周辺の各地を周遊、ここ揚州では3年間行政官を務めた。1292年に帰国した(以上は主にウィキの「マルコ・ポーロ」を参照した)。

 

・『杜牧の詩にあるやうな「青山陰陰水迢迢」』は晩唐の詩人杜牧(803853)の七絶「寄揚州韓綽判官」の起句である。

 

   寄揚州韓綽判官

 

青山隠隠水迢迢

 

秋盡江南草木凋

 

二十四橋明月夜

 

玉人何處教吹簫

 

○やぶちゃんの書き下し文

 

   揚州の韓綽(かんしやく)判官に寄す

 

青山 隠隠 水 迢迢(てうてう)

 

秋盡き 江南 草木(くさき)凋(しぼ)む

 

二十四橋 名月夜

 

玉人 何れの處にか吹簫(すいせう)せしむる

 

○やぶちゃんの現代語訳

 

霞む青山 水面(みなも)は遙か

 

晩秋 江南 草木もみんな枯れ果てた

 

揚州二十に四(し)の橋の その明月のその夜に

 

佳人 何処(いづく)に笛を吹く――

 

「韓綽」は人名。判官は唐代律令官の四等官制(長官・通判官・判官・主典)の第三等官。政務判断(決済権)を有する長官・通判官・判官三判制の一人。久下昌男氏の「ひとりよがりの漢詩紀行」の「揚州の韓綽判官に寄す」の解説に、『これは、作者が江南の池州(安徽省貴池県)にいたときの作と考え』、『揚州を厳密に「江北」の地ととらえて、江南のここ池州も、秋が過ぎて寂しくなった。君のいる揚州はいいなあ、美しい橋に月が輝き、玉のようなひとが笛を』吹いているから、と作詩背景と感懐を推測されている(杜牧は恐らく州長官である池州刺史)。また、「杜牧 寄揚州韓綽判官 詩詞世界 碇豊長の詩詞」の「二十四橋」の語釈には『揚州の別名。唐代、市内に二十四の橋があったことから云う。我が国の大阪を「八百八橋」というようなものか。』また、揚州にあった橋の名とも言い、『呉家橋、別名紅薬橋のことで、昔ここで、二十四人の美女が簫を吹いたという伝承から起こった名称とも云う』と記す。なお、「草木凋」については一本に「草未凋」(草未だ凋まず)とするが、碇豊長氏は『秋が盡きてもなおも草木は凋まない、という江南の温暖さを強調している。どちらが原初の形かを別とすれば、「草未凋」は、なかなかのものである』と記されている。景観への認識と感懐の違いがあるので如何とも言い難いが、私は詩想としては「草木凋」を、論理的説得性から言うと「草未凋」を採りたい。とりあえず私にとって本詩を味わうには、このお二人の導きで十分であると感じている。

 

・「何だか又肋膜のあたりが、かすかに痛みさうな氣がして來た」上海上陸直後に即入院(乾性肋膜炎による。「上海游記」の「五 病院」を参照)した彼が、やっと退院出来たのが凡そ一ヵ月後の4月23日であったから、5月11日はその僅か18日後のことであった。神経質な芥川にしてみればこうした心気症的描写は、実は切実な現実であったことが、最終回に向けて明らかにされてゆく。

 

・「一番私の辟易したのは、この大溝の臭氣である」ここに私は尾籠乍ら、どうしても書いておきたい体験を記して本注を終わりとしたい。≪!注意!≫≪以下は気持ちが悪くなる方もいるやに思いますが、自己責任でお読み下さい。お食事中・お食事直後の方はお読みになるのを控えられた方がよろしいでしょう。これ以降には本章の注はありません。芥川が行って大いに失望した寒山寺には、ご他聞に漏れず、実は私も失望した。その失望の頂点は私の場合、楓橋であった。その造形は悪くはなかった。しかし楓橋の下に水がなかった。観光整備のために、真下を潜る運河を直下で板と杭を用いて遮断し、ぐずぐずこてこてのヘドロを浚渫している最中であった。――「橋のない川」は文学になるが「川のない橋」ぐらいとぼけたものはない――その作業のせいもあってか、強烈な「大溝(おおどぶ)の臭気」が楓橋一帯を包んでいた。ウォシュ・タイプのチーズもクサヤも大好きな私でさえ思わずハンカチで鼻をふさいだことから、その強度がご想像戴けるものと思う。――さても時に、私は慣れない中華料理攻めに合い、その油にやられて、朝から少々腹が下っていた。――日本では、中国の扉のない公衆トイレの「大」を平気で使いこなせれば立派な中国人だ、等とよく言われるが、世界どこに行こうが日常的腹下し狀態に生きている私には、背に下痢腹は変えられない。ふんばっている私をもの珍しそうに凝っと見る中国人を(何故か知らん毎回必ずこっちをわざわざ見る人がいたのである。これは私が中国で実は最も痛感した言われない排日ならぬ排泄の差別であった)、負けじと私は睨み返すぐらいの便所蟋蟀ならぬ便所根性は上陸初日から培ってきていた。――目の前の公衆便所に飛び込んで事なきを得、ほっとして出てくると、その便所のすぐ脇に遊覧船の乗り場がある。船の喫水線は沈むんじゃないかと思う程、異常に低い。船端から溢れんばかりに人が乗っているせいである。勿論、あらかたが「楓橋夜泊」大好き日本人ツアー客である(私は妻との個人旅行で、妻の南京大学日本語学科の教え子たちがわざわざ「日本人好み」ということでここを案内してくれたのであった)。私はその彼らの前の正真正銘真っ黒などぶどろの水面を情けなく眺め乍ら、その臭気を鼻の高さに直(じか)に感じなければならぬ、遊覧船に乗らねばならぬ彼等の不幸に、幾分同情していた(勿論、瘴気にハンカチで鼻を覆ってである)。その時、手前の見知らぬ中年の御婦人と目が合った。私を日本人と分かってか(大体、服装で区別がつくのである)、彼女はにっこり笑って私に手を振つのが眼に入った――ところが、その、御婦人の直ぐ目と鼻の先、も眼に入った――優雅に浮き沈みながら水面(みなも)を漂っている一物が――ある――それはまごうかたなき、さっき私の体からひりだされたばかりの、一物そのものであった――私は如何にも申し訳なさそうな泣き笑いの表情で、その御婦人に何とも言えぬ中途半端な手を、振り返したのであった……これはまた、一切の脚色をしていない、中国での、私にとって視覚と嗅覚の記憶を鮮やかに伴った、忘れがたい一齣ではあったのである……

 

・「高洲大吉」高洲太助の誤り。中文個人ブログ「三風堂」の「日本人高洲太助在揚州」(元は簡体字表記)に本篇の記載も含めて詳細な記事が載り、そこに「高洲太助」と明記、現在、揚州にある「萃園」という庭園がこの「高洲太助」なる人物の旧居であるらしい。更に、国立公文書館アジア歴史資料センターの検索をかけると52件がヒットし、明治391906)年に「清国杭州駐在領事高洲太助」宛委任状、明治401907)年に「清国長沙駐在領事高洲太助」宛委任状、ここや京都大学東南アジア研究センター『東南アジア研究』18巻3号(Dec-1980)中村孝志『「台湾籍民」をめぐる諸問題』(リンク先はHTMLバージョン)という論文の中にも、明治431910)年1月・12月・翌1911年1月附で日本の台湾領有によって生じた台湾籍民についての外務省機密文書が福建省の『福州領事高洲太助』なる人物に示されたことが記されている。この人物は同姓同名で同一人物である可能性が極めて高い。]

2009/07/20

江南游記 二十二 大運河

       二十二 大運河

 

 我我は鎭江(チンキヤン)から揚州に通ふ、川蒸氣の上等室に腰をかけてゐる。と云ふと如何にも贅澤らしいが、この汽船の上等室は奴隸の船艙(ふなぐら)と大差はない。現に我我が坐つてゐるのも、まつ黑な揚げ板の上である。揚げ板の下は、察する所、直(すぐ)と船底(ふなぞこ)に違ひない。ぢや上等室なる所以は何處にあるかと云ふと、兎に角此處は室になつてゐる。下等は船の屋根の上だから、室と呼びたくも室ぢやない。

 船の外は名代(なだい)の揚子江である。揚子江の水の赭(あか)い事は、中學生と雖も心得てゐる。が、どの位赭いかと云ふ事は、江に泛(うか)ばないと髣髴出來ない。私は上海滯在中、黄浦江の水さへ見れば、必ず黄疸を思ひ出した。あれは今考へると、多少でも海水を交へてゐるだけ、やつと黄疸ですんでゐたのである。しかし揚子江の水の色は、黄浦江よりも遙に赭い。まあ似た色を搜して來れば、金物の赤錆にそつくりである。それが起伏する波の間に、紫の影を煙らせながら、何處までも無法に廣がつてゐる。殊に今日は曇つてゐるから、一層その色が重苦しい。江上には無數のジヤンクの外に、英吉利の旗を飜した、二本檣(マスト)の汽船が一艘、一心に濁浪と鬪つてゐる。勿論實際は鬪はずとも、航行出來たのかも知れないが、そのまつ白に塗られた船が、徐(おもむ)に江を遡る所は、どうしても鬪ふと云ふ感じである。私は彼是五分ばかり、揚子江に敬意を拂つてから、冷い板の上に寢ころんだ儘、眠るとも思はず眠つてしまつた。

 我我は昨夜十二時頃、蘇州の停車場から汽車に乘つた。錢江(チンキヤン)へ着いたのは夜明け方である。停車場の外へ出て見ると、車屋もまだ集まつてゐない。唯曇つた葉柳の空に、鴉ばかり何羽も集まつてゐる。我我は兎に角朝飯を食ひに、停車場前の茶館(ちやかん)へ行つた。茶館も今起きたばかりだから、麺類も急には出來ないと云ふ。すると島津氏は茶館の亭主に、何とか云ふ物を持つて來いと云つた。それならば今でもある所を見ると、上等な食物ぢやないに違ひない。又實際食つて見た感じも簾麩(すだれふ)のやうな、湯葉のやうな要するに二度と食ふ氣のしない、頗(すこぶる)怪しげな代物である。――さう云ふ艱難を嘗めた上、やつとこの汽船に乘つたのだから、ほつと一息すると同時に、眠氣を催したのも不思議ぢやない。

 少時(しばらく)うとうとしてゐた後(のち)、汽船の外を眺めると、何時の間に瓜州(くわしう)を過ぎたのか、草の青い一帶の土手が、直(すぐ)と眼の前に動いてゐた。此處はもう長江ぢやない。隋の煬帝(やうだい)が開鑿(かいさく)した、延長二千五百哩(マイル)と云ふ世界第一の大運河である。しかし船から眺めた所は、格別雄大でも何でもない。薄日の當つた土手の上に、野菜の色がちらついたり、百姓の姿が見えたりするのは、何だか銚子通ひの汽船の窓から、葛飾の平野でも眺めるやうな、平凡な氣もちがする位である。私は又煙草を啣(くは)へながら、紀行を書かされる時の下拵へに、懷古の詩情を捏(こ)ね上げようとした。しかしこれは取りかかつて見ると思つた程容易に成功しない。第一私が考へる事は、悉(ことごとく)案内記が破壞してしまふ。今その見本を擧げて見れば、大體下(しも)の通りである。

 私。ああ、煬帝はこの堤に、萬株(ばんしゆ)の楊柳を植ゑさせた上、十里に一亭を造らせたと云ふ。堤は昔の堤である。が、煬帝は今何處にあるか?

 案内記。堤は昔の堤ぢやない。爾來五代以降元明清、皆北京に都を定め、食糧を江南に需(もと)めたから、運河も度度修理された。この堤の草色(さうしよく)を見ながら、煬帝の昔を懷ふのは、銀座尾張町に佇みながら、太田道灌を憶ふのも同じ事である。

 私。水は今も昔のやうに、悠悠と南北に通じてゐる。が、隋朝は夢のやうに、忽(たちまち)瓦解してしまつたではないか?

 案内記。水は南北に通じてゐない。とうに山東省臨清州では、河底に田畑を拵へたから、舟楫(しうしふ)の通ずるのは其處までである。

 私。ああ、過去よ。美しい過去よ。たとひ隋は亡びても、雲の如き麗姫(れいき)と共に、この運河に舟を浮べた、我(わが)風流天子(ふうりうてんし)の榮華は、たとへば壯大な虹のやうに、歴史の空を横切つてゐる。

 案内記。煬帝は快樂に耽つたのではない。あれは大業(たいげふ)七年に、遠く高麗を伐たうとした、その準備が暴露しないやうに、表面だけ悠遊(いういう)を裝つたのである。この運河もすはと云ふ時に、糧食を送る必要上、特に開かせたと思ふが好(よ)い。お前は「迷樓記」や「開河記」(かいかき)なぞを正史と混同してゐはしないか? あんな俗書は信ずるに足りない。殊に「煬帝艷史」なぞは、小説としても惡作である。

 私は煙草を吸ひやむと共に、詩情の製造も斷念した。土手の上の春風(はるかぜ)には、子供を乘せた驢馬が一匹、汽船と同じ方へ歩いてゐる。

 

[やぶちゃん注:ここで芥川が言う「大運河」とは、京杭運河のこと。北京から杭州までを結び、途中、黄河と揚子江を横断する。総延長は1,794㎞に及び(ネット上にはウィキを初め2,500㎞という記載もある)、全面開鑿時には世界最長の運河であった。戦国時代から部分的に開削されていたものを、隋の第2代皇帝煬帝(569618)が610年に完成させた。

・「鎭江(チンキヤン)」“Zhènjiāng”(チェンチィアン)は江蘇省西南部長江下流南岸、長江と京杭運河とが交差する地点、上海から凡そ200㎞上流、南京の下流凡そ80㎞に位置する。芥川は5月11日深夜、午前0時頃、蘇州駅から乗車して、夜明けに鎮江に到着、下車してこの運河を船で揚州に向かった。

・「揚州」鎮江の長江を隔てた北方30㎞に位置する京杭運河沿いの町。運河開通により物資の集積地となって古くから繁栄した。続く「二十三 古揚州(上)」以下三篇に譲る。

・「黄浦江」太湖を源流とする上海市内を貫通する川。市街地下流で長江に合流する。

・「ジヤンク」元来はジャワ語の「船」の意。中国・ベトナムの沿岸や河川で使用される中型以上の伝統的木造帆船の総称。

・「簾麩のやうな、湯葉のやうな要するに二度と食ふ氣のしない、頗怪しげな代物」料理名不詳。中華料理にお詳しい方の御教授を乞う。

・「瓜州」揚州、長江北岸の町。鎮江との長江の渡し場として栄えた。

・「二千五百哩」1mile1.6㎞で計算しても、2,500×1.64,000㎞。前述の通り、最大長をとっても2,500㎞であるから、芥川もすっかり中華的誇張表現に狎らされてしまった。

・「十里」隨代の記載によるものならば、1里=300歩≒531m(現代中国は500m)であるから、5.31㎞ごと。

・「銀座尾張町に佇みながら、太田道灌を憶ふ」太田道灌(永享41432)年~文明181486)年)は室町時代の武将で武蔵国守護代として江戸城を築城、江戸の繁栄の礎を創った人物。「銀座尾張町」は現在の銀座4丁目で、明治中期以降、ここの尾張町角(現・銀座四丁目交差点)の服部時計店と、現在の三越の位置にあった山崎高等洋服店が、帝都東京を代表する繁華街銀座の象徴であった。

・「山東省臨清州」山東省西部に位置し、現在は聊城市(りょうじょうし)に属する。名称は古く清河という川が近くを流れていたことに由来する。京杭運河に面した交通の要衝として栄えた。清代の開国以降、芥川が言うようにこの付近の運河は閉塞した模様であるが、中華人民共和国成立以後、再整備されて再び運河として機能している。

・「風流天子の榮華」「風流天子」は煬帝のこと。後に芥川が挙げる「煬帝艷史」の清代の刻本に「絵図風流天子伝」と題するものがあり、芥川はそれを意識したか。ウィキの「揚州市」の記載によると、『煬帝が再三行幸を行い、遊蕩に耽ったため、亡国に至った都市としても知られている』とある。

・「大業七年」611年。煬帝42歳。但し、以下に示す通り、高句麗第一次遠征は大業八(612)年である。

・「高麗を伐たうとした」ウィキの「煬帝」によれば、大運河開鑿によって物流の円滑化に成功した彼は、領土拡大を目論み、612年に高句麗遠征を敢行する。その後も3度に亙って遠征したが、完全な失敗に終わり、隋の権威は失墜、『国庫に負担を与える遠征は民衆の反発を買い、第2次遠征途中』には、『各地で反乱が発生、隋国内は大いに乱れた』。各地で群雄が割拠する惨憺たる政情不安の中、煬帝は江南に逃れることとなった。その後、『煬帝は現実から逃避して酒色にふける生活を送り、皇帝としての統治能力は失われていた。618年、江都で煬帝は故郷への帰還を望む近衛兵を率いた』側近達に裏切られて殺された、とある。芥川の記述とは時制を齟齬にはするが、この高句麗遠征後の事蹟を以って、「快樂に耽つた」とするか。結果と原因がどちらであったにせよ、ある意味、芥川の詠じる如く、煬帝の「榮華」は、その大運河のうねりと同じく「壯大な虹のやうに、歴史の空を横切つてゐる」と言えるように、私には感じられる。

・『「迷樓記」』作者未詳。宋代の劉斧「青瑣高議」という書に所収しているため、唐代から宋以前と推定される。煬帝の生涯を描く伝奇小説。迷楼は作中に現れる、晩年の煬帝が莫大な費用と1年の歳月をかけて作らせた大規模な複数の迷宮型楼閣の名。真仙も一日中迷い続けるという意味で煬帝自らが名付けたという。今も揚州市にその跡とされる迷楼址がある。

・『「開河記」』作者未詳であるが、文体から「迷樓記」と同じ作家になるものと推定されている。主に煬帝の大運河開鑿を描く伝奇小説。そこには揚州に行幸した煬帝が将軍麻叔謀に、黄河を浚渫し、揚州の北にある黄河と長江の間を東西に流れている淮河との運河の開鑿を将軍麻叔謀に命じ、麻叔謀は兵士や人夫を冷酷無惨に犠牲にして実行したことが記されている。因みに、この麻叔謀なる男は上田秋成の「雨月物語」の「青頭巾」で小児の肉を好んで食った人物として挙げられている。「開河記」には他にも嗜好的人肉食の話が出てくるようである。これは私の嗜好譚、脱線である――

・『「煬帝艷史」』正しくは「新鍋全像通俗演義晴煬帝艶史」。通常は略して「煬帝艶史」「晴煬艶史」「艶史」と呼ぶ。作者未詳。明末期の成立。煬帝の誕生から死に至るまでの先行する「迷樓記」「開河記」等の記載を自在に組み合わせ、更に女性との絡みを主たる部分に効果的に据えて創作された通俗小説。岩波版新全集の神田由美子氏の注解によると、『日本では『通俗二十一史』にも収められ、この書の記述が大体は歴史的事実であるかのように考えられていた』とある。「通俗二十一史」とは、早稲田大学出版部が明治441911)年に出版した叢書。以上の三書については、多様なネット記載を総合して記載したが、特に書誌的な部分は最も信頼出来ると思われる九州大学中国文学論集の河野真人氏の論文「『隋煬帝艶史』に於ける『隋遺録』『海山記』『開河記』『迷楼記』の襲用について」を参照した)。]

2009/07/19

江南游記 二十一 客棧と酒棧

       二十一 客棧と酒棧

 

 島津氏が何處かへ出て行つた後(のち)、私は椅子に腰を下しながら、ゆつくり一本の敷島を吸つた。寢臺(ねだい)が二つ、椅子が二つ、茶道具を載せた卓子(テエブル)が一つ、それから鏡のある洗面臺が一つ、その外は窓掛も敷物もない。唯白いむき出しの壁に、ペンキ塗りの戸が鎖(とざ)してある。が、思つたより不潔ぢやない。蚤とり粉を盛に撒いたせゐか、幸(さいはひ)南京蟲にも食はれなかつた。この分なら支那宿へ泊るのも、茶代の多寡を心配しながら日本人の旅館に陣取るよりは、遙に氣が利いて居る位である。

 私はそんな事を考へながら、硝子(ガラス)窓の外へ眼をやつた。この部屋のあるのは三階だから、窓の外の眺も可也廣い。しかし眼にはひるものは、夕明りの中に黑み渡つた、侘しい瓦屋根ばかりである。何時かジヨオンズがさう云つたつけ、最も日本らしい寂しさは、三越の屋上から見下した、限りない瓦屋根に漂つてゐる。何故日本の畫家諸君は。――

 私は物音に驚かされた。見ればペンキ塗りの戸口には、不相變青い服を着た、背の低い婆さんが佇んでゐる。婆さんはにやにや笑ひながら、何か私に話しかけるが、啞(おし)の旅行家たる私には、勿論一言(ひとこと)も判然しない。私は當惑し切つた儘、やむを得ず顏ばかり眺めてゐた。

 すると、開け放した戸の外に、ちらりと花やかな色彩が見えた。水水しい劉海(リウハイ)(前髮)、水晶の耳環、最後に繻子(しゆす)らしい薄紫の衣裳(イイシヤン)――少女は手巾(ハンケチ)を弄びながら、部屋の中には一瞥も送らず、靜に廊下を通り拔けた。と思ふと又婆さんは、早口に何か饒舌(しやべ)り立てては、得意さうに笑つて見せる、かうなればもう婆さんの來意も、島津氏の通譯を待つ必要はない。私は脊の低い婆さんの肩へ、ちよいと兩手をかけるが早いか、くるりと彼女に廻れ右をさせた。

 「不要(プヤオ)!」

 其處へ島津氏が歸つて來た。

 その晩私は島津氏と一しよに、城外の酒棧(チユザン)へ出かけて行つた。島津氏は「老酒(ラオチユ)に醉つた父の横顏」と云ふ、自畫像めいた俳句の作者だから、勿論相當の酒豪である。が、私は殆(ほとんど)飮めない。それが彼是一時間あまり、酒棧の一隅に坐つてゐたのは、一つには島津氏の德望の力、二つには酒棧に纏綿(てんめん)する、小説めいた氣もちの力である。居酒屋は都合二軒見たが、便宜上一軒だけ紹介すると、其處は白壁を左右にした、天井の高い店裏(みせうら)である。部屋の突き當りはどう云ふ訣(わけ)か、荒い格子戸になつてゐたから、夜目(よめ)にも往來の人通りが見える。机や腰掛けは剥(はげ)てゐたが、ため塗りのやうに塗つてあるらしい。私はその机を中に、甘蔗の茎をしやぶりながら、時時島津氏へ御酌をしたりした。

 我我の向うには二三人、薄汚い一座が酒を飮んでゐる。その又向うの白壁の際には、殆(ほとんど)天井につかへる位、素燒の酒瓶(さけがめ)が積み上げてある。何でも老酒(ラオチユ)の上等なのは、白い瓶に入れると云ふ事だから、この店の入り口の金看板に、京莊花雕(けいさうくわてう)なぞと書いてあるのは、きつと大法螺に違ひない。さう云へば土間に寢てゐる犬も、氣味の惡い程瘦せた上に、癬蓋(かさぶた)だらけの頭をしてゐる。往來を通る驢馬の鈴、門附(かどづけ)らしい胡弓の音、――さう云ふ騷ぎの聞える中に、向うの一座は愉快さうに、何時(いつ)か拳(けん)を打ち始めた。

 其處へ面皰(にきび)のある男が一人、汚い桶を肩へ吊りながら、我我の机へ歩み寄つた。桶の中を覗いて見ると、紫がかつた臟腑のやうな物が、幾つも渾沌と投げこんである。

 「何です、これは?」

 「豚の胃袋や心臟ですがね、酒の肴には好(よ)いものです。」

 島津氏は銅貨を二枚出した。

 「一つやつて御覽なさい。ちよいと鹽氣がついてゐますから。」

私は小さい新聞紙の切れに、二つ三つ紫がつた臟腑を見ながら、遙に東京醫科大學の解剖學數室を思ひ出した。母夜叉孫二娘(ぼやしやそんじぢやう)の店ならば知らず、今日明るい電燈の光に、こんな肴を賣つてゐるとは、さすがに老大國は違つたものである。勿論私は食はなかつた。

 

[やぶちゃん注:「客棧」は旅館。中国の伝統的な普通の旅籠屋を指す。「酒棧」は居酒屋。芥川龍之介がもし「酒棧」を本文同様中国音で「チユザン」と読んでいるのであれば、「客棧」は“kèzhàn”で「コザン」となる。但し、本文には「客棧」が現れないから、この標題は素直に日本語の音で通して「きやくさんとしゆさん」と読ませていると考えてよい。

・「敷島」国産の吸口付き煙草の銘柄。明治371904)年に発売され、昭和181943)年販売終了。口付とは、紙巻き煙草に付属した同等かやや短い口紙と呼ばれるやや厚手の紙で出来た円筒形の吸い口のことで、喫煙時に十字や一文字に潰して吸う。確か私の大学時分まで「朝日」が生き残っていて、吸った覚えがある。

・「南京蟲」昆虫綱半翅(カメムシ)目異翅亜目トコジラミ科トコジラミCimex lectulariusの別名。「トコジラミ」は、本種が咀顎目シラミ亜目Anopluraとは全く異なる以上、不適切な和名であると思う。私は木下順二のゾルゲ事件を題材とした『オットーと呼ばれる日本人』冒頭で、上海の共同租界でこれに刺される登場人物が「あちっ!」と言うのが、ずっと記憶に残っている。それは灼熱のような刺しでもあるのかも知れぬ。

・「ジヨオンズ」Thomas Jones18901923)。岩波版新全集書簡に附録する関口安義らによる人名解説索引等によれば、芥川龍之介の参加した第4次『新思潮』同人らと親密な関係にあったアイルランド人。大正4(1915)年に来日し、大蔵商業(現・東京経済大)で英語を教えた。芥川との親密な交流は年譜等でも頻繁に記されている。後にロイター通信社社員となった彼は、当時、同通信社の上海特派員となっていた(芥川も並んだその折の大正8(1919)年9月24日に鶯谷の料亭伊香保で行われた送別会の写真はよく知られる)。この中国行での上海での出逢いが最後となり、ジョーンズは天然痘に罹患、上海で客死した。芥川龍之介が『新潮』に昭和2(1927)年1月に発表した「彼 第二」はジョーンズへのオードである。ジョーンズの詳細な事蹟は、「上海游記」「三 第一瞥(中)」の冒頭注及び「彼 第二」の私の後注を参照されたい。

・「劉海(リウハイ)」Liú Hăi”は元来は神仙の名前である。額の前に垂れ下がった髪を短く切り揃えた童子の姿で描かれた、人気の仙童(実は南京大学で一年間日本語教師をした妻の私への土産物がこの劉海の絵であった)で、そこから前髪をこう言うようになった。別に、男の子の額の左右の両角の産毛と女の子の額の中央の産毛を合わせて「留孩髪」と呼んだが、その「留孩」の中国音“liúhái”が、劉海“Liú Hăi”と似ており、野暮ったい「留孩」を伝承が知れていた「劉海」に換えたという話や、則天武后の婉児の額の梅の刺青にまつわるエピソードなどは、面白さ満載の以下をお読みあれ。個人のブログ「中縁ネット」「916中国の三面記事を読む(314)前髪をなぜ“劉海”というのか?」という中国の新聞記事の素晴らしい日本語訳である。

・「繻子」絹を、縦糸と横糸とが交差する部分が連続せず、一般には縦糸だけが表に現れる織り方(繻子織りと言う)にしたものを言う。

・「衣裳(イイシヤン)」“yīshāng”。

・「不要(プヤオ)」“búyào”。

・「酒棧(チユザン)」“jiŭzhàn”。

・「老酒(ラオチユ)」“lăojiŭ”。中国産の醸造酒(黄酒)の総称。長期熟成したものほど貴ばれることからこの名で呼ばれることが多い(一般に3年以上でないと商品とはならないとされる)。特に紹興酒に用いることもあるが、逆に地域ブランドとしての紹興酒以外の老酒を紹興酒を呼んでしまう誤りのもとともなっている。現在、2000年4月20日に中国政府の発令により、紹興以外の土地で造られた老酒を「紹興酒」と呼称することは禁じられている。

・『「老酒(ラオチユ)に醉つた父の横顏」と云ふ、自畫像めいた俳句』完全な自由律俳句である。言葉少なに自分の横で「老」酒(ラオチュウ)を酌み交わす父、その酔った父の「老」いた横顔を眺めるうち、それが如何に自分に似ているかに気づいた視線である。芥川の読みは鋭い。因みに島津四十起は明治4(1871)年生まれであるから、この時既に50歳であった(芥川は当時29歳)。

・「纏綿する」からみついている、まとわりついた、の意。

・「店裏」店の内部。

・「ため塗り」これは「溜塗り」で、漆器の漆の塗り方の一種。まず下地に朱色を塗って、その上から半透明の透漆(すきうるし)を塗って仕上げる。下の朱が微妙に見え、赤茶色のような色合いが生まれる。更に経時変化によって透明度が増してくる漆の特性を最大限に発揮させる塗りである(京都の漆塗り・漆器販売「漆器の井助」の漆塗り豆知識」を参照した)。

・「甘蔗」イネ目イネ科サトウキビSaccharum officinarumのこと。

・「京莊花雕」紹興酒の内、長期熟成させた老酒(ラオチュウ)を「花雕」、花彫酒という。これは紹興地方の習慣で、女児が生まれた三日後に酒を甕(かめ)に仕込み、嫁入りの際に掘り出して甕に彫刻と煌びやかな彩色を施して婚家へ持参したことから。中文記事等を斜め読みすると、京荘酒というのは、紹興酒の中でも美事に熟成した上品を指し、それを京師(けいじ:長安)に高級酒として運んだことに由来するらしい。「荘」は恭しく奉る、厳かにして高品質の、と言った意味合いではなかろうか。

・「拳」拳遊び。日本のジャンケンのルーツ。二人又はそれ以上で手・指・腕の開閉・屈伸交差による数字や形象等によって競う、本来はこの場面の通り、酒席で行われた大人のギャンブルである。

・「豚の胃袋や心臟」中国人の方の日本語ブログ「忠于云端」に福建省沙県での記事があり、そこで「炖罐」“dùnguàn”(トェンコアン)なる食べ物を紹介されている。失礼ながら、やや日本語がおかしいのであるが、本文の島津の言と総合すると、豚の心臓・肝臓・胃及び鶏肉や兎の肉を炭・塩で漬け込んだものである。如何にもこれっぽい。因みに「炖」は「廣漢和」にも所収しない字であるが、ネット検索により、とろ火で長時間煮込むことを意味することが分かった。「罐」は(水を入れる)素焼きの甕の意。――私はこう書きながら、既に唾液が口中に浸潤してくるのを感じるのであった――

・「遙に東京醫科大學の解剖學數室を思ひ出した」芥川龍之介は大正3(1914)年3月、巣鴨の精神病院を見学後、東京帝国大学医科大学で人体解剖を見学している(東京大学は明治191886)年3月に東京大学医学部から帝国大学医科大学となり、明治301897)年6月に帝国大学の呼称が東京帝国大学と変更、大正8(1919)年4月に学部制が敷かれて医科大学は医学部となった)。後の「羅生門」の死体描写に生かされ、また、「或阿呆の一生」の中にも描かれている。無縁とも思えぬので精神病院の記載と合わせて私の電子テクストから引用する。

 

   二 母

 狂人たちは皆同じやうに鼠色の着物を着せられてゐた。廣い部屋はその爲に一層憂鬱に見えるらしかつた。彼等の一人はオルガンに向ひ、熱心に讚美歌を彈きつづけてゐた。同時に又彼等の一人は丁度部屋のまん中に立ち、踊ると云ふよりも跳ねまはつてゐた。

 彼は血色の善い醫者と一しよにかう云ふ光景を眺めてゐた。彼の母も十年前には少しも彼等と變らなかつた。少しも、――彼は實際彼等の臭氣に彼の母の臭氣を感じた。

 「ぢや行かうか?」

 醫者は彼の先に立ちながら、廊下傳ひに或部屋へ行つた。その部屋の隅にはアルコオルを滿した、大きい硝子の壺の中に腦髓が幾つも漬つてゐた。彼は或腦髓の上にかすかに白いものを發見した。それは丁度卵の白味をちよつと滴らしたのに近いものだつた。彼は醫者と立ち話をしながら、もう一度彼の母を思ひ出した。

 「この腦髓を持つてゐた男は××電燈會社の技師だつたがね。いつも自分を黒光りのする、大きいダイナモだと思つてゐたよ。」

 彼は醫者の目を避ける爲に硝子窓の外を眺めてゐた。そこには空き罎の破片を植ゑた煉瓦塀の外に何もなかつた。しかしそれは薄い苔をまだらにぼんやりと白らませてゐた。

 

   九 死  體

 死體は皆親指に針金のついた札をぶら下げてゐた。その又札は名前だの年齡だのを記してゐた。彼の友だちは腰をかがめ、器用にメスを動かしながら、或死體の顏の皮を剥ぎはじめた。皮の下に廣がつてゐるのは美しい黄いろの脂肪だつた。

 彼はその死體を眺めてゐた。それは彼には或短篇を、――王朝時代に背景を求めた或短篇を仕上げる爲に必要だつたのに違ひなかつた。が、腐敗した杏(あんず)の匂に近い死體の臭氣は不快だつた。彼の友だちは眉間(みけん)をひそめ、靜かにメスを動かして行つた。

 「この頃は死體も不足してね。」

 彼の友だちはかう言つてゐた。すると彼はいつの間にか彼の答を用意してゐた。――「己(おれ)は死體に不足すれば、何の惡意もなしに人殺しをするがね。」しかし勿論彼の答は心の中にあつただけだつた。

 

・「母夜叉孫二娘」は「水滸伝」中の梁山泊の女傑の一人。水滸伝百八星の七十二地煞星の103番目で、102番目の夫張青に従っている。孟州十字坡(は:坂の意。)で、居酒屋を営んでいたが、金品を持った旅人に毒を盛って荷物を奪い、その死体を刻んで牛肉と偽って肉饅頭を作り客に出すというとんでもない牛頭人肉酒桟(チュザン)であった。そこから渾名を「母夜叉」(女の夜叉=鬼神)の意。以上は主に「山頭水賊漢」「母夜叉 孫二娘」のページを参照した。武松との関わりから梁山泊へと身を寄せる過程など、不精な私には有難い「水滸伝」ダイジェスト・ページである)。]

2009/07/18

江南游記 二十 蘇州の水

       二十 蘇州の水

 

 主人。寒山寺だの虎邱(こきう)だのの外にも、蘇州には名高い庭がある。留園だとか、西園だとか。――

 客。それも皆つまらないのぢやないか?

 主人。まあ、格別敬服もしないね。唯(ただ)留園の廣いのには、――園その物が廣いのぢやない、屋敷全體の廣いのには、聊(いささか)妙な心もちになつた。つまり白壁の八幡知(やはたし)らずだね。どちらへ行つても同じやうに、廊下や座敷が續いてゐる。庭も大抵同じやうに、竹だの芭蕉だの太湖石だの、似たやうな物があるばかりだから、愈(いよいよ)迷子になりかねない。あんな屋敷へ誘拐された日には、ちよいと逃げる訣にも行かないだらう。

 客。誰か誘拐されたのかい?

 主人。何、された訣ぢやないが、どうもさう云ふ氣がするのだね。今に支那の谷崎潤一郎は、きつと「留園の祕密」とか何とか、そんな名の小説を作るに違ひない。いや、未來は兎も角も、金瓶梅や紅樓夢を讀むには、現在一見の價値があるやうだ。

 客。寒山寺、虎邱、寶帶橋(ほうたいけう)、――いづれもつまらないとなつて見ると、蘇州は大抵つまらなささうぢやないか。

 主人。そんな所はつまらないがね。蘇州はつまらない所ぢやない。蘇州にはヴエニスのやうに、何よりもまづ水がある。蘇州の水、――さうさう、蘇州の水と云へば、僕は當時手帳の端に、こんな事も書いて置いたつけ。「自然と人生」式の名文だがね。

 ――橋名を知らず、石欄に依りつつ河水を見る。日光。微風。水色鴨頭(あふとう)の緑に似たり。南岸皆粉壁(ふんぺき)、水上の影描けるが如し。橋下を過ぐるの舟、まづ赤塗りの船首見え、次に竹を編みし船艙(せんさう)見ゆ。櫓聲の咿啞(いあ)耳にあれど、船尾既に橋下を出づ。桂花一枝流れ來るあり。春愁水色と共に深からんとす。

 ――暮歸。蹇驢(けんろ)に騎す。路(みち)常に水畔(すいはん)。夜泊の船、皆蓬(ほう)を蔽へるを見る。月明、水靄(すいあい)、兩岸粉壁の影、朦朧として水にあり。時に窓底の人語、燈光の赤きに伴ふを聞く。或は又石橋あり。偶(たまたま)橋上を過ぐるの人、胡弓を弄する事三兩聲。仰ぎ見ればその人既にあらず。唯橋欄の高きを見るのみ。景情宛として「聯芳樓の記」を想はしむ。知らず、閶闔門外(しやうかふもんがい)宮河の邊、珠簾重重(ちようちよう)月に垂るる事、薜家(せつか)の粧樓(しやうろう)の如きものありや否や。

 ――春雨霏霏(ひひ)、兩岸の粉壁、苔色鮮なるもの少からず。水上鵞(が)浮ぶ事三四。橋畔の柳條、殆(ほとんど)水に及ばんとす。画(ぐわ)とすれば或は套(たう)。實景を見るは惡しからず。舟あり。徐(おもむろ)に橋下より來る。載する物を見れば棺なり。艙中(さうちゆう)の一老媼(あう)、線香に火をともしつつ、棺前に手向けんとするを見る。

 客。へええ、大いに又感心したものぢやないか?

 主人。水路だけは實際美しい。日本にすれば松江(まつえ)だね。しかしあの白壁の影が、狹い川に落ちてゐる所は、松江でもちよいと見られさうもない。その癖未に情ない事には、とうとう畫舫にも乘らずにしまつた。しかし水には感服しただけ、兎に角未練は殘つてゐない。殘念なのは美人を見なかつた事だ。

 客。一人も見ない?

 主人。一人も見ない。何でも村田君の説によると、目をつぶつて摑んでも、蘇州の女ならば別嬪ださうだ。現に支那の藝者の言葉は、皆蘇州語ださうだから、その位の事はあるかも知れない。處が又島津氏の説では、一體蘇州の藝者なるものは、蘇州語に一通り通じた上、上海へ出ようと云ふ候補生か、又は上海へ出ても流行らないので、歸つて來たと云ふ落伍卒(そつ)だから、碌な女はゐないさうだ。成程これも一理窟だね。

 客。それで見ずにしまつたのかい?

 主人。何、別に理由なぞはない。唯藝者の顏を見るよりは、一時間も餘計に眠りたかつたのさ。何しろあの時分は驢馬へ乘つたおかげに、すつかり尻をすり剥いてゐたから。

 客。意氣地のない男だな。

 主人。我ながら意氣地があつたとは思へないよ。

 

[やぶちゃん注:

・「留園」明の嘉靖年間(15221566)の1525年に太朴寺(記載によっては太僕寺)の少卿(寺院の管理を司る長官か)であった徐時泰が私邸の庭「東園」として造園、18世紀末(清の乾隆末)に劉恕の所有となり、改築されて「寒碧荘」、嘉慶年間(17961820)に改修され、園主の姓に因んで俗称が「劉園」となり、さらに1874(同治12)年に盛康に買い取られた際、劉の音通で「留園」となった。蘇州四大名園の一つとして「呉下名園之冠」と呼ばれるだけでなく、中国四大名園の一つに数えられている。敷地面積23,310㎡、約2haに及び、東・中・西・北部の4パートに分かれる。東部の居住建築群、中央部は池泉を置き、西に山林、北に田園の風景の趣を造る。それらを巡る回廊にある「漏窓」と称する、多様なデザインの透かし窓からの眺めが、また計算された風景画となっている。私はもう一度行って見たい中国のランドマークの一番にこの「留園」を挙げたいくらい、ここが気に入っている。

・「西園」厳密には戒憧律寺と西花園放生池を総称する俗称。元代に建造・造園、本来の寺名は帰元寺。虎丘路を挟んで留園と隣り合う。

・「白壁の八幡知らず」「八幡知らず」とは「八幡の藪知らず」のこと。入ったら二度と出て来ることが出来なくなる場所・迷路・迷宮(ラビリンス)、道に迷うことや出口が分からないこと、「藪の中」を言う。現在の千葉県市川市の国道14号線沿いの市川役所の斜め前にある森(現在は殆んどが孟宗竹の竹林)の名称。何故、このような名称なのかについては、古来、日本武尊の陣屋であったという伝説による禁足説の他、平良将(生没年未詳:将門の父)の墓所説・平将門(?~天慶3(949)年)の墓所説等が挙げられている。個人のHP「市川歴史散歩」の「八幡不知藪」には入会地説が挙げられており、『この場所が行徳の入会地(いりあいち)であり、八幡の住民はみだりに入ることが許されず、そのため「八幡知らず」と言われたのが藪知らずになった』という解説がなされている。『入会地とは、自給肥料や燃料を確保し農業生産能力を維持する目的で共同利用する場所と定めた土地であり、八幡のこの場所が行徳住民の入会地であったことから八幡の住民からすると入ると恐ろしい目にあう場所、としてきた、というのは説得力のある説ではあります。』とあり、『直接史料を確認してはおりませんが、史実として入会地であったことも確かなようです。』と結ばれている。大変、納得出来る内容であると私は思う。因みに、中国旅行による日本脱出の一つの要因であった不倫相手秀しげ子の影(「上海游記 一 海上の私の注を参照)をその「真砂」に色濃く反映させた芥川龍之介の名作「藪の中」は、正にこの「江南游記」の連載が始まる大正111922)年1月1日に『新潮』に掲載されている。「広辞苑」の「藪の中」を引くと『(芥川竜之介の同名の小説から) 関係者の言うことが食い違っていて、真相が分らないこと。』とある(私はこの語源説には納得出来ないのであるが、それ以前の使用例を見出せないことも事実ではある)。

・「太湖石」蘇州近郊の主に太湖周辺の丘陵から切り出される多くの穿孔が見られる複雑な形状をした石灰岩を主とする奇石を総称して言う。

・「紅樓夢」に登場する公子の大邸宅に付随する大庭園「大観園」なるものが登場するが、実はこの「留園」にはその「大観園」が再現された部分があると言う。但し、『人民中国』の「庭園に見る江南文化の爛熟美」によると、「紅楼夢」の作者清代乾隆期の作家曹雪芹(そうせっきん 1724?1763?)が「大観園」のモデルとしたと推定されるのは、同じ蘇州にある最大の庭園「拙政園」(敷地面積5.2ha)であるという。『少年時代に家族に連れられ、よくここを訪れた。それで小説の舞台である「大観園」の描写は、ここでの印象がかなり生かされているという』とある。

・「寒山寺」/「虎邱」/「寶帶橋」は、前篇「十九 寒山寺と虎邱と」の本文及び注を参照。

・「自然と人生」徳冨蘆花(明治元(1868)~昭和2(1927)年)が明治331900)年に民友社から刊行した小説・随筆集。クレジットは本名の徳冨健次郎。国木田独歩の「武蔵野」と並ぶ、私の青春時代の愛読書の双璧であった。

・「粉壁」白壁と同義。

・「咿啞」ギイギイ。舟の櫂や櫓のきしる音。

・「桂花」双子葉植物綱マノハグサ目モクセイ科モクセイ属ギンモクセイOsmanthus fragrans。常緑小高木。小さな総状の花は強い芳香を持ち、乳白・黄・橙・紅等、色も多彩。中国南部原産。なお、本邦に産するキンモクセイOsmanthus fragrans var. aurantiacusはギンモクセイOsmanthus fragransの変種で、且つ、その雄株のみである(従って本邦産は結実しない)。

・「蹇驢」びっこの驢馬。「蹇」は片足が曲がっている意。蛇足であるが、私は片足飛びのことを「ケンケン」と呼ぶのは、これが語源であると思っていたのだが、辞書類には見ない。こんなことを言うと、またぞろ世の言葉狩りのフリークは、「ケンケン」を差別用語として抹殺しかねないな。

・「蓬」菰莚(こもむしろ)のこと。マコモ(イネ目イネ科マコモZizania latifolia)の葉を粗く編んだむしろ。

・「三兩聲」二三声で、ちょっと弾くの意。

・「宛として」宛然として、あたかも、まるで。

・『「聯芳樓の記」』明代の文人瞿佑(くゆう 13411427)の伝奇集「剪灯新話」の一篇。楼上の呉郡(蘇州)の金満家薛(せつ)氏の娘、姉の蘭英・妹の蕙英(けいえい)と、楼下の舟に泊まる青年鄭(てい)の詩の遣り取りによる恋愛の成就の物語(「剪灯新話」の主調である志怪性は全くない)。才子佳人譚小説の先駆的作品。

・「閶闔門外」蘇州城の西北の門。「聯芳樓記」冒頭、薛氏は「居於閶闔門外」し、米屋を営む、とある。

・「宮河」閶闔門外を流れている河川名は「官河」である。これは芥川の誤認か、若しくは誤植の可能性さえも考え得る。

・「珠簾重重」「聯芳樓記」には該当の詩句はないが、蘭英・蕙英姉妹の詩才に感じた詩人楊鉄崖が姉妹の七言古詩に附した讃詩の中に「連珠合璧照華筵」、「連珠(れんじゆ)合璧(がうへき)華筵(くわえん)を照らす」(二人の詩才は、あたかも珠玉を連ねて璧玉を合わせたものが美しい敷物に照り映えるようだ)とはある。

・「霏霏」絶え間なく降るさま。

・「鵞」ガチョウ。

・「柳條」柳の枝。

・「套」古臭い。ありきたり。陳腐。

・「松江」島根県松江市。芥川龍之介は大正4(1915)年8月3日から22日迄、畏友井川(後に恒藤に改姓)恭の郷里松江に来遊、吉田弥生への失恋の傷心を癒した。その際、山陰文壇の常連であつた井川は、予てより自分の作品発表の場としていた地方新聞『松江新報』に芥川来遊前後を記した随筆「翡翠記」を連載、その中に「日記より」という見出しを付けた芥川龍之介名義の文章が三つ、離れて掲載されている。後にこれらを合わせて「松江印象記」として、昭和四(1929)年二月岩波書店刊「芥川龍之介全集」別冊で公開された(諸注はここの注に「松江印象記」という題名を用いているが、以上より、これは芥川龍之介自身による表題はないと考えるべきであり、『松江での印象を記したものが残されている』とすべきである)。

・「落伍卒」落伍者の意であるが、この場合の「卒」は下級兵士や下役を言う語であり、都落ちした失格者・敗残者の意味を更に強めた語である。]

2009/07/17

翠泉掘削

多くの生物多様性を破壊したことは事実である

人間は勝手である

見た目の美しさを求めて無数の生き物を殺して

「美しい泉」を復活させるのだと言う

――その一番の尖兵を今日僕は勤めたのだが

爪の中にヘドロが匂う

明日足腰立たないのは

その呪いである

ビオトープ――

お笑いだね……

僕は似非でも真でも

ナチュラリストじゃあ――ないという表明だ……

卒業生諸君、見たまえ――翠泉を

それは僕の気に入った残したい傷跡である――

ゆりちゃん――僕は 少しだけ 神の真似事が したかっただけなのかもしれない……それじゃ あいつと おんなじだ……

江南游記 十九 寒山寺と虎邱と

       十九 寒山寺と虎邱と

 客。蘇州はどうだつたね?

 主人。蘇州は好い處だよ。僕に云はせれば江南第一だね。まだあすこは西湖のやうに、ヤンキイ趣味に染(そ)んでゐない。それだけでも難有い氣がした。

 客。姑蘇城外の寒山寺は?

 主人。寒山寺かい? 寒山寺は、誰でも支那へ行つた連中に聞いて見給へ。きつと皆下らんと云ふから。

 客。君もかね?

 主人。さうさね。下らんには違ひない。今の寒山寺は明治四十四年に、江蘇の巡撫(じゆんぶ)程德全が、重建したと云ふ事だが、本堂と云はず、鐘樓と云はず、悉(ことごとく)紅殼(べにがら)を塗り立てた、俗惡恐るべき建物だから、到底月落ち烏鳴くどころの騷ぎぢやない。おまけに寺のある所は、城の西一里ばかりの、楓橋鎭(ふうけうちん)と云ふ支那町(まち)だがね。これが又何の特色もない、不潔を極めた門前町と來てゐる。

 客。それぢや取り柄がないぢやないか。

 主人。まあ、幾分でも取り柄のあるのは、その取り柄のない所だね。何故と云へば寒山寺は、一番日本人には馴染の深い寺だ。誰でも江南へ遊んだものは、必寒山寺へ見物に出かける。唐詩選は知らない連中でも、張繼の詩だけは知つてゐるからね。何でも程德全が重修したのも、一つには日本人の參詣が多いから、日本に敬意を表する爲に、一肌脱いだのだと云ふ事だ。すると寒山寺を俗惡にしたのは日本人にも責はあるかも知れない。

 客。しかし日本人には氣に入らないのだらう?

 主人。さうらしいね。が、程德全の愚を哂ふ連中でも、西洋人相手の仕事になると、程大人(たいじん)と同じ事をしてゐる。寒山寺はその實物教訓だね。其處に多少興味があるだらう? 殊にあの寺の坊さんは、日本人の顏さへ見ると、早速紙を展(ひろ)げては、「跨海萬里弔古寺 惟爲鐘聲遠送君」と、得意さうに惡筆を振ふ。これは誰でも名を聞いた上、何何大人正(せい)とか何とか入れて、一枚一圓に賣らうと云ふのだ。日本人の旅客の面目(めんもく)は、こんな所にも窺はれるぢやないか? まだその上に面白いのは、張繼の詩を刻んだ石碑が、あの寺には新舊二つある。古い碑の書き手は文徴明、新しい碑の書き手は愈曲園(ゆきよくゑん)だが、この昔の石碑を見ると、散散に字が缺(か)かれてゐる。これを缺いたのは誰だと云ふと、寒山寺を愛する日本人ださうだ。――まあ、ざつとこんな點では、寒山寺も一見の價値があるね。

 客。それぢや國辱を拜見する訣ぢやないか?

 主人。さうさね。事によると案外程德全は、日本人を愚弄する爲に、あんな重修をやつたのかも知れない。たとひ皮肉でないにしても、あらゆる支那旅行記の著者のやうに、程德全を哂ふのは殘酷だね。敷島の大和の知事閣下にしても、あの位の英斷に出づるの士は、餞りなささうでもないぢやないか?

 客。寶帶橋は?

 主人。唯長い石橋さ。ちよいとあの不忍の池の觀月橋と云ふ感じだね。尤もあれ程俗な氣はしない。春風春水春草堤――道具立てはちやんと揃つてゐる。

 客。虎邱(こきう)は好い所だらう?

 主人。虎邱も荒廢を極めてゐたつけ。あすこは呉王闔閭(かふりよ)の墓ださうだが、今日では全然塵塚の山だね。傳説によればあの山の下には、金銀珠玉を細工をした鴨が、三千の寶劍と一しよに埋めてあると云ふ。そんな事だけ聞いてゐる方が、反つて興味が多い位だ。秦の始皇の試劍石、生公(せいこう)の説法を聞いた點頭石、江南の美人眞孃の墓、――いろいろ因縁を承ると、難有い遺蹟が澤山あるが、どれも見てはつまらん物だ。殊に劍池なぞと來た日には、池と云ふよりも水たまりだね。しかも五味捨て場も同じ始末なのだから、王禹(う)の劍池銘にあるやうに、「巖巖虎邱、沈沈劍池、峻不可以仰視、深不可以下窺」 の趣は、義理にもあるとは考へられない。唯殘曛(ざんくん)を漲らした空に、やや傾いた塔を見上げた時は、悲壯に近い心もちがした。この塔もとうに朽廢してゐるから、一層毎に草を茂らせてゐる。それに何だか無數の鳥が、盛に囁き聲を飛ばせながら、塔のまはりを繞(めぐ)つてゐたのは、一段と嬉しかつたのに違ひない。僕はその時島津氏に、鳥の名前を尋ねて見たが、確かパクとか云ふ事だつた。パクとはどう云ふ字を書くのか、其處は島津氏も知らないのだがね。君はパクなるものを知らないかい? 

 客。パクかい? バクなら夢を食ふ獸だがね。

 主人。一體日本の文學者は、動植物の智識に乏しすぎるね。南部修太郎と云ふ男なぞは、日比谷公園の蘆を見ても、麥だとばかり思つてゐたのだから。――まあ、そんな事はどうでも好い。塔の外にもう一つ、小呉軒と云ふ建物がある。其處は中中見晴しが好い。暮色に煙つた白壁や新樹、その間を縫つた水路の光、――僕はそんな物を眺めながら、遠い蛙(かはづ)の聲を聞いてゐると、かすかに旅愁を感じたものだ。

[やぶちゃん注:寒山寺は蘇州中心部から西方5㎞の楓橋鎮にある寺院。南北朝の梁(南朝)武帝の天監年間(502519)に妙利普院塔院として創建されたが、唐の貞観年間(627649)に伝説的禅者であった寒山がここに草庵を結んだという伝承から、後、寒山寺と改められた。先の蘇州の靈巌寺(霊岩寺)と同じく、空海が長安への道中、船旅で立ち寄っている所縁の地でもある。虎邱は蘇州北西の郊外約5㎞に位置する景勝地。春秋時代末期、「臥薪嘗胆」で知られる呉王夫差(?~B.C.463)が父王闔閭(こうりょ:?~B.C.496)を葬った場所。埋葬後、白虎が墓の上に蹲っていたことから虎邱と呼ばれるという(丘の形が蹲った虎に似ているからとも)。標高36m。五代の周の961年に建てられた雲岩寺塔が立つ。別名、海涌山(かいゆうざん)。現在は「虎丘」と表記。

・「巡撫」清代の皇帝直属の官職名。省の長官で、軍の指揮権や地方財政の監督権も持っていた。

・「明治四十四年」西暦1911年。以下の「程德全」の注を参照。

・「程德全」(Chéng Déquán チェン ドゥーチュエン 18601930)は清末民初の政治家で中華民国の初代江蘇都督(この「都督」は清代に消滅後、伝統的な都督の名を復活させたもので、辛亥革命後に置かれた地方軍政担当官)。清の文官として各地で実務職を歴任後、1909年に奉天巡撫に任命され、翌1910年に江蘇巡撫に異動した。寒山寺の大修理はその翌年であるが、その『辛亥革命勃発後の1911年(宣統3年)11月、程徳全は周囲から推戴され、江蘇都督となる。1912年(民国元年)13日に南京臨時政府が成立すると、その内務部総長に任命された。その同日、中国同盟会を離脱した章太炎、張謇らと中華民国連合会(後の統一党)を組織した。4月、臨時大総統に就任した袁世凱から、改めて江蘇都督に任命される。5月、統一党は民社と合併して共和党となったが、程徳全は章太炎と不和になり、共和党から離党した。1913年(民国2年)の二次革命(第二革命)では、程は江蘇省の独立を宣言したが、まもなく上海に赴くなどして、実際の活動は乏しかった。同年9月、二次革命の敗北と共に、江蘇都督を辞任した。これにより政界から引退し、以後は上海で仏門に入った。』(以上は引用を含めウィキの「程徳全」を参照した)。

・「紅殼」赤色顔料の一。主成分は酸化第二鉄Fe2O3。着色力が強い。塗料・油絵具の他、研磨剤に用いる。ベンガラ。名称はインドのベンガル地方で多く産出したことから。それに当字したものの訓読みである。

・「月落ち烏鳴く」日本人には余りにも有名な中唐の詩人張継の七言絶句「楓橋夜泊」の起句の冒頭。                   

 楓橋夜泊

月落烏啼霜滿天

江楓漁火對愁眠

姑蘇城外寒山寺

夜半鐘聲到客船

 楓橋夜泊

                       

月 落ち 烏 啼いて  霜 天に滿つ

江楓 漁火 愁眠に對す

姑蘇城外 寒山寺

夜半の鐘聲  客船(かくせん)に到る

○やぶちゃん現代語訳

月は落ち――烏鳴いて――満天霜の気配あり

岸辺の楓(かえで)――漁(いさ)なとる篝火(かがりび)……旅愁に眠れぬ眼に映る

姑蘇城外の寒山寺

そこから聞える夜半(よわ)の鐘――私の宿れるこの船にまで――陰に籠って――心に響く

私は高校時代、この詩をならった時に訳しにくいなあと感じたものだった。何んで夜中に鴉が鳴くのか? 川岸の楓は緑なのか紅葉しているのか? 「江村」か「江楓」かっていうのは衍字じゃあないの? こんな夜の夜中に何を漁(すなど)るんじゃい? 夜の夜中に鐘鳴らす寺って何よ?――と疑問だらけなのだ。そうして参考書を見て、正にそのような議論が昔からなされていることを知るに及んで、私はこの詩が決していい詩だとは思わなくなっていた。寒山寺を案内してくれた南京大学日本語学科卒業の知人青年は「中国人にとっては韻律も意味も決していいとは思われません。」と、私にはっきりと言ったのを覚えている。

・『「跨海萬里弔古寺 惟爲鐘聲遠送君」』書き下せば「海を跨(また)ぐこと萬里、古寺を弔す。惟だ鐘聲と爲りて遠く君を送らん」か。「あなたは海の遙か彼方からこの古き寺に敬虔にも過ぎしすべての過去の死者の魂をとむらいに来られた。そのあなたをこの何もない私はただあの知られた寒山寺の鐘の音(ね)を以って送別するばかりです。」という意か。

・「何何大人正」この「大人」は立派な人を、「正」は高位の者を示す尊称で、「君・様」の意味であろう。諸注は「正」は「正せ」という命令形の意味とするが、何を「正せ」というのか? 謙譲の接尾語だとでも言うのか? では、何故そう説明しない? 僕が馬鹿なのか、意味が分からない。

・「張繼」中唐の詩人(生没年不詳)。湖北省襄州(現・襄樊市襄陽)の出身。現在の京杭(けいこう)大運河を旅した際の感懐を「楓橋夜泊」に詠んだ。

・「文徴明」明代中期の画家・書家(14701559)。蘇州(江蘇省長州県)の出身。祝允明(しゅくいんめい)・王寵とともに「呉中三大家」と呼ばれた名書家であり、「天下の法書はみな呉中に帰す」と言わしめたという(ウィキの「文徴明」による)。

・「愈曲園」本名兪樾(ゆえつ 18211907)。曲園は号。清末の考証学者。1850年、進士に登第、翰林院編修・国史館協修を歴任後、咸豊帝からその博識を評価され、1855年には河南学政(省の教育行政長官)となったが、出題した科挙試について弾劾され、あっさりと官を退き二度と出仕しなかった。1875年に西湖湖岸に隠棲、晩年は杭州の詁経精舍(こきょうしょうじゃ:清朝の政治家・学者であった阮元(げんげん 17641849)が創立したで訓詁学の研究機関)で考証学を講義した。(「六 西湖(一)」の同注を参照)。

・「寶帶橋」蘇州市東南の蘇州と杭州を結ぶ大運河の支流である玳玳河(たいたいが)に架かる橋。橋長317m(中国最長の石橋)、幅4mで、全53のアーチを有する。建造は唐の819年に遡り、蘇州刺史(地方長官)であった王仲舒(761822)が水運の発展を企図して建設を始めたが、その壮大な計画ゆえに資金が不足し、募金を募った。仲舒自らも家伝の宝帯(珠玉で飾った腰帯)を売り、それに感じた富豪たちの寄附で3年後の822年にに完成した。橋名はこれに由来する(以上は「人民中国」の「中国の橋」の史和平氏の「宝帯橋」の記事を参照した)

・「呉王闔閭」(?~B.C.496)は春秋時代の呉の第6代の王。呉を覇者に興隆させたが、越王句践に敗れて没した。

・「秦の始皇の試劍石」闔閭が手に入れた「莫邪」(ばくや)の名剣を石を虎に見立てて斬ったというもの。実見したが、やや楕円形をした大石の長軸に沿ってすっぱりと切れ目が入っていた。秦の始皇帝(B.C.259B.C.210)というのは異聞か、ただの芥川の勘違いか。

・「生公の説法を聞いた點頭石」優れた僧生公(晋とも南北朝の梁とも)が説法をした際、縦に首を振ったという石。

・「眞孃」唐代の蘇州の名妓であった真嬢の墓所。本名を胡瑞珍といった北方人で、唐代の安史の乱の頃、蘇州に流れて来たが、寄る辺なく妓女となった。歌唱作詩の才といいその美貌といい蘇州一の名をほしいままにした。一青年が金にまかせて彼女を身請けしようとしたところ、貞節を守るために真嬢は縊れて自死した。青年は悔いてここに墓を造り、またその当時蘇州知事であった白居易はこれを聞いて墓誌銘を書いたという(以下の“JRE Corporate, Suzhou real estate agency”の蘇州紹介ページを参照にしたが、強引な中文の機械翻訳を行っているのか、日本語が激しく壊れているため、私がいいように整文してしまったことをお断りしておく)。

・「劍池」夫差は刀剣好きであった父呉王の遺体と共に、3000本の名剣を同所に副葬したと伝承された結果、秦の始皇帝や呉の孫権が周囲を掘り返した。結果は一本も見つからず、その窪地に何時しか水が溜まって、池となったもの。私は一心にその緑の水底を見つめながら、何故かザリガニを探していたのを思い出した。そこは僕には不思議に郷愁を誘う昭和30年代の水景色であったのであろう。

・「王禹の劍池銘」王禹は王禹※[※=「稱」-「禾」+(にんべん)。](おううしょう 954-1001) は宋代の詩人・散文家。杜甫・白居易の唐代古文の現実主義を称揚、北宋の詩文革新運動の先駆者となった。「劍池銘」とは剣地の由来について記した碑のこと。

・『「巖巖虎邱、沈沈劍池、峻不可以仰視、深不可以下窺」』「巖巖たるかな、虎邱、沈沈たるかな、劍池、峻なること、以て仰ぎ視るべからず、深なること、以て下り窺ふべからず」。

・「殘曛」日没後も空に照り残っている日の光。夕照。

・「パク」筑摩全集類聚版脚注では「鸊」を示す。これは拼音(ピンイン)で“”(ピ)であるが、カイツブリを示す日本語の音としては「ハク・ヒャク」という音があるので、この字と同定してよいであろう。カイツブリ目(中文名:鸊鷉目)カイツブリ科(中文名:鸊鷉科)Podicipedidaeに属する鳥の総称又は以下の6属の中文属名を持つ何れかに属するカイツブリ類を指すと考えられる。本邦産のカイツブリは「小鸊鷉屬」Tachybaptusに属するTachybaptus ruficollisであるが、芥川が識別出来ず、島津も発音するのみでカイツブリと同定し得なかったということは、我々の知るこのカイツブリ、鳰(にお)と同種ではない可能性が高い。

   鸊鷉屬Podiceps

   小鸊鷉屬Tachybaptus

   巨鸊鷉屬Podilymbus

   北美鸊鷉屬Aechmophorus

・「バク」獏。人の夢を食うとされる伝説上の生物。その形状は一種のキマイラで、体は熊・鼻は象・目は犀・尾は牛・脚は虎とされる。その姿は哺乳綱獣亜綱奇蹄目バク科Tapiridaeのバクと近似しており、ウイキの「獏」によれば、『京都大学名誉教授 林巳奈夫の書いた『神と獣の紋様学―中国古代の神がみ―』によれば、古代中国の遺跡からバクをかたどったと見られる青銅器が出土している。このことから、古代中国には象や犀などと同じように現在は絶滅してしまったが野生のバクがいた可能性が高い。であるから、一般的には伝説上の獏と生物学上のバクは無関係であると考えられているが、もともと同じものを指していたものが中国では絶滅したために伝説化した可能性も否定はできない。』とする。即ち、架空のバクのモデルこそが、絶滅した実在したバクであったというのである。

・「小呉軒」筑摩全集類聚版脚注に、清の第4代聖祖(康熙帝 6541722)及び第6代皇帝高宗(乾隆帝 17111799)が『南巡のおりの行宮の一部』とある。]

2009/07/16

映画 ユメ十夜

同僚より借りた「ユメ十夜」(2007年・日活・100分)をDVDで見る。

総括的印象:概ね寺山や唐、清水邦夫や蜷川の五、六番を煎じているのであろうぐらいな先入観を以ってせざるを得ない僕の世代にとっては図らずもそれが大当たりとなって期待をしない分だけ失望も少ない。但し、寺山や唐を同時代的に体験せず舞台も知らず脚本も読まず映像も見ることがない圧倒的多数の高校生や青年層にとってはこの冷凍の歪んだ鮭缶丸ごとから100年前の豚の爪(チョッパリ)まで投げ込まれたこの闇鍋ごった煮アンソロジーは恐らく退屈ではあるまい。『もっと続いてくれ!』とタルコフスキイの「ソラリス」に感じる僕はしかし「第十夜」までが永遠に続く悪夢かと思われる程に長かった。以下で掲げるこれはと思った作品さえもそれぞれの半ばに至る前に『早く次の夜にしてくれよ……』としか思わなかった。最後に言うならばこれは夏目漱石の「夢十夜」と思わずに見ることが肝要であり実相寺の遺作彼の「コダイ」の全面参加美術に加わる池谷仙克というクレジットとインスパイアの方法を見ても一目瞭然ながらこれは「ウルトラQ」とあのリメイク「dark fantasy ウルトラQ」への期待と失望そして諦観に至った私の感懐と完全に二重写しとなったことを申し添えておく。
――相応に琴線をくすぐり映像芸術として成功している部類に加えてよく批評を加えるために再度見てもよいと思われる話は

第6話の運慶☆☆☆
(最も面白い前衛状況アンチテアトルインスパイアがなされている。惜しむらくは役者がことごとく下手であることである《寺山や蜷川や唐が見たら確実に花輪と灰皿と金魚鉢の中の赤い太鼓橋が飛んでくるであろう》。但し、石原良純の出演は彼のライフワークとして確実に銘記されるものである。

第4話の山本耕史の「漱石」君のタイム・スリップ物☆☆
「白い壁の緑の扉」や「ジェニーの肖像」や「トムは真夜中の庭で」を偏愛する僕には少し目頭が熱くなった。はるかがおでこを漱石にくっつけて熱を測るシーンなど、監督はもっと登場人物に接近する必要があった。幻想のパースペクテイヴを意識する余り、登場人物を撮影している意識が強すぎるのが難点。また寺山や唐がイメージの著作権侵害を訴えることは必須だがそれはそれで水準を超えた出来であるからよい。

第1話実相寺遺作☆☆
私もこれを見ようと借りたればこそ最後なればこそ実相寺組の堀内正美や寺田農が出演していればこそ見たのである――堀内さんのしっかりナメの構図に始まり――寺田さんを例のとおり変態的に演じさせ――後年お好きだったバラした舞台を舞台とされて――相も変わらず画面も暗く――お好きなキョンキョンを確信犯で淫らに綺麗に撮りました(若い時のあのころの桜井浩子さんを使えたら良かったですね)――そうして今度は鈴の音が――遂にホントの供養の鉦の音に――なりました――合掌
「時に……ツグミは向田邦子ですね、久世さん?……」

第3話の文化五年辰年の殺人☆
ホラーとして見るならよかろう。さりながら原作はホラーの体裁をとりながらグロテスクでないところに真骨頂あるを知るべし。まだまだだめだ――

次点「第9話」神社の柱に縛られた少年の表情の演技がよくカメラも悪くないしかしこれを見る時間を「青幻記」を見る時間に回したくなる。

以上。

江南游記 十八 天平と靈巖と(下)

 

 

       十八 天平と靈巖と(下)

 

 やつと靈巖山へ辿り着いて見たら、苦勞して來たのが莫迦莫迦しい程、侘しい禿げ山に過ぎなかつた。第一西施の彈琴臺とか、名高い館娃宮趾(くわんあきうし)とか云ふのは、裸の岩が散在した、草も碌にない山頂である。これでは如何に詩人がつても、到底わが李太白のやうに、「官女如花滿春殿」なぞと、懷古の情には沈めさうもない。それに天氣でも好かつたなら、遙に太湖の水光(すゐくわう)か何か、見晴らす事が出來たのだが、生憎今日はどちらを見ても、唯(ただ)模糊たる雲煙が立ち迷つてゐるばかりである。私は靈巖寺の朽廊に、蕭蕭(しやうしやう)たる雨の音を聞きながら、七級(きふ)の廢塔を仰ぎ見た時、古人の名句を思ふよりも、しみじみ腹の減つた事を感じた。

 

 我我は寺の一室に、ビスケツトばかりの晝飯をすませた。が、一應腹は張つても、精力は更に快復しない。私は埃臭い茶を飮みながら、妙に悲しい心もちがして來た。

 

 「島津さん。この寺の坊主に掛け合つてくれませんか? 白砂糖が少し欲しいのですが、――」

 

 「白砂糖? 白砂糖をどうするのです?」

 

 「舐めるのです。白砂糖がなければ赤砂糖でもよろしい。」

 

 しかし小皿へ山盛り一杯、どす黒い砂糖を舐めた後(のち)も、やはり元氣にはなれなかつた。雨は中中晴れさうもない。蘇州へは日本里數にしても、四五里の道を隔ててゐる。――そんな事を考へると、愈(いよいよ)心もちは沈んでしまふ。私は何だか肋膜炎が、再發しさうな氣さへして來た。

 

 この情ない心もちは、靈巖山を下る間にも、だんだん募つて來る一方だつた。風雨は暗い中空から、絶えず我我を襲つて來る。我我は傘を持つてゐたが、さつき驢馬を捨てる時に、二本とも其處に殘して來た。路は勿論、辷(すべ)りさうである。時間も彼是三時過ぎになつた。――其處へ最後の打撃だつたのは、山の麓の村へ來ても、我我の驢馬の姿が見えない。驢馬曳きの子供は大聲に、何度も友だちの名を呼んだが、それこそ答へるのは谺(こだま)だけである。私は吹きかける雨の中に、ずぶ濡れの島津氏へ聲をかけた。

 

 「驢馬がゐないとすると、どうしたものでせう?」

 

 「ゐますよ。ゐなければ歩くだけです。」

 

 島津氏はやはり元氣だつた。それは私を慰める爲に、強て裝つたものだつたかも知れない。が、私はその言葉を聞くと、急に癇癪(かんしやく)が起り出した。元來癇癪と云ふものは、決して強者の起すものぢやない。この場合も私が腹を立てたのは、全然弱者だつた祟りである。四百餘州を縱横した島津氏と、自脈ばかりとつてゐる病後の私と、――困苦缺乏に耐へる上から見れば、私なぞは島津氏の足もとへもよれない。それだけに、平然たる島津氏の言葉は、私の怒火(どくわ)を吹き煽(あふ)つたのである。私は前後四箇月の旅行中、この時だけ比類ない佛頂面になつた。

 

 その内に驢馬曳きは驢馬を尋ねに、何處か村の外へ行つてしまふ。我我は或農家の戸口に、やつと雨を避けながら、驢馬曳きの歸るのを待ち暮してゐる。古い白壁、石だらけの村道、雨に光つた道ばたの桑の葉、――その外は殆(ほとんど)人影さへ見えない。時計を出して見れば、四時になつてゐる。雨、四五里の路、肋膜炎、――私はなほこの上にも、日が暮れる事を憐れながら、風を引かない用心に、絶えず足踏みをする必要があつた。

 

 すると其處へこの家の主人か、ぢぢむさい支那人が顏を出した。見れば家の内部には轎子(けうし)が一基しまつてある。

 

 きつと此男の副業は、駕籠舁(か)きか何かに違ひない。

 

 「此處から轎子は雇へないのですか?」

 

 私は業腹なのを我慢しながら、かう島津氏に尋ねて見た。

 

 「聞いて見ませう。」

 

 しかし島津氏の上海語(シヤンハイご)は、相手の支那人に通ずるにしても、殘念ながら相手の蘇州語は、十分島津氏に通じないらしい。島津氏は押問答を重ねた後(のち)、とうとう交渉を斷念した。斷念したのはやむを得ない。が、一瞬の後振り向いて見ると、島津氏は私に頓着(とんぢやく)なく、悠悠と手帳を廣げながら、今日得た俳句を書きつけてゐる。私はこの容子を眺めた時、羅馬(ロオマ)の大火を前にした儘、微笑してゐるネロを見たやうに、喧嘩を吹きかけなければすまない氣になつた。

 

 「お互に迷惑しますね、案内者がその土地を知らないと。」

 

 喧嘩面の私の言葉は、忽ち島津氏にも腹を立てさせた。これは怒るのが當り前である。私は今考へると、あの時島津氏に擲(なぐ)られなかつたのは、不幸中の幸と思はざるを得ない。

 

 「その土地を知らない? 知らない事は前にも申し上げた筈です。」

 

 島津氏は私を睨みつけた。

 

 私も足踏みを續けながら、負けずに島津氏を睨み返した。これは次手に注意するが、かう云ふ時には威張るにしても、ちやんと直立して威張るべきである。威張る傍(かたはら)機械的に、行儀の好い足踏みを繰返してゐるのは、少からず威嚴を傷けるらしい。

 

 雨は依然として降りしきつてゐる。驢馬の鈴音は何時(いつ)になつても、容易に聞えさうなけはひがしない。我我は寂しい桑畑を前に、二人とも血相を變へながら、ぢつと長い間立ち續けてゐた。

 

 

[やぶちゃん注:

・「館娃宮趾」「十七 天平と靈巖と(中)」の「靈巖寺」注参照。

・『「官女如花滿春殿」』は李白の有名な七絶「越中覧古」の転句。

 

   越中覧古

 

越王勾踐破呉歸

 

義士還家盡錦衣

 

宮女如花滿春殿

 

只今惟有鷓鴣飛

 

 

○やぶちゃんの書き下し文

 

越王勾踐 呉を破りて歸り

 

義士 家に還りて 盡く錦衣す

 

宮女 花のごとく 春殿に滿つるも

 

只今惟だ 鷓鴣(しやこ)の飛ぶ有るのみ

 

 

○やぶちゃんの現代語訳

 

越王の句践は 会稽の恥を雪いで呉の国を破り凱旋する――

 

忠義を尽くした戦さ人らも 栄誉の錦の服に身を包む――

 

後宮の女たちも 花のごと 春の宮殿に満ち溢れ……

 

……今はただ ただ 鷓鴣が淋しく鳴きながら 飛んでゆくばかり――

 

 

「鷓鴣」はキジ目キジ科シャコ属コモンシャコFrancolinus pintadeanus

 

・「太湖」江蘇省南部と浙江省北部の境界上、長江デルタに位置する湖。蘇州は東岸に当る。ウィキの「太湖」には、『改革開放後は、蘇州や無錫には多くの工業団地が作られて外資系企業の大工場が進出し、激しい勢いで都市化・工業化が進んでいる。一方で、太湖に入る川や太湖から出る川は汚染が進み、透明度の低下や悪臭が著しい。20075月には藻類の大発生により湖水が青く変わり悪臭が激しくなる公害事件が起こり、無錫市内では水道水が使えなくなる事態になった。人々がミネラルウォーターを買い求めたため通常の六倍以上の値になり、市当局が水の値上げを禁止する騒ぎが起こっている。』という哀しい記事が附帯する(同じ江蘇省無錫は太湖の北岸)。

 

・「七級の廢塔」神田由美子氏の岩波版新全集注解には、『霊巌寺の多宝塔。梁代に建立、五代の呉越時代に再建ののち倒壊。芥川の見たのは南宋の紹興一七(一一四七)年の再建で八角九層の磚塔。』という詳細な記述が載る。級は階段の意があるので、7階建の意(9層とあるから芥川の誤認ということになる)、磚塔(せんとう)とは煉瓦造りの塔のことを言う。

 

・「肋膜炎が、再發しさう」芥川龍之介「上海游記」の「五 病院」参照。

 

・「轎子」お神輿のような形をした乗物。お神輿の部分に椅子がありそこに深く坐り、前後を8~2人で担いで客を運ぶ。これは日本由来の人力車と違って、中国や朝鮮の古来からある上流階級の乗物である。現代中国でも高山の観光地などで見かけることがある。

 

・「上海語」/「蘇州語」共に北京語に次いで話者の多い中国語方言である呉語(呉越語)のグループ。呉語は上海語・蘇州語・温州語等がある。上海語との近似性は大きいそうだが、上海語自体が一種の南方の都会語として急速に変化してきたため、恐らく島津氏には、ネイティヴな庶民の蘇州語はお手上げであったか。

 

・「羅馬の大火を前にした儘、微笑してゐるネロ」「ネロ」は勿論、暴君ローマ帝国第5代皇帝Nero Claudius Caesar Augustus Germanicusネロ・クラウディウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクス(3768)。以下、ウィキの「ローマ大火」よりほぼ主要本文すべてを引用する(改行は「/」で示した)。『ローマ大火はローマ帝国の皇帝・ネロの時代、64年7月19日にローマで起こった大火。/チルコ・マッシモから起こった火災は市内のほとんどを焼き尽くし多くの被災者と死傷者を出した。ネロはこの火災に際して、的確な処置を行い、陣頭で救助指揮をとったといわれ、被害が広がらないよう真剣に対処したものの、火災後のローマ再建で後に記すような宮殿建造を行ったこともあり、市民の間ではネロの命によって放火されたとの説が流れた。こうした風評に対してネロは当時の新興宗教であったキリスト教の信徒を放火犯として処刑した。この処刑がローマ帝国による最初のキリスト教の弾圧とされ、キリスト教世界におけるネロのイメージに大きな影響を与えたが、タキトゥスらローマの歴史家はローマ伝統の多神教を否定するキリスト教に対して嫌悪感を抱いており、ネロの弾圧そのものは非難しながらもその原因をキリスト教とその信徒に求めている。/こうしてキリスト教徒へ迫害を行い、犯人としたにもかかわらず、ネロがローマ復興の際に広大な黄金宮殿(ドムス・アウレア)の建造を行なったため新宮殿の用地確保のために放火したという噂は消えることはなかった。/一方この迫害によって市民の一部ではキリスト教徒に対する同情心が生まれたとも言われる』。]

2009/07/15

江南游記 十七 天平と靈巖と(中)

       十七 天平と靈巖と(中)

 萬笏朝天(ばんこつてうてん)の名を負うた、山頂の岩むらへ登つた後(のち)、又山路(やまみち)を下りて來ると、さつきの亭へ出る前に、横に切れる廊下が見えた。次手に其處を曲つて見たら、龍の髭や擬寶珠(ぎぼしゆ)に圍まれた、小さい池が一つある。――その池へ亞鉛(とたん)の懸け樋(ひ)から、たらたら水の落ちてゐるのが、名高い呉中第一泉だつた。池のまはりには白雲泉とか、魚樂とか、いろいろの名を彫りつけた上に、御丁寧にもペンキか何かさした、大小の碑が並んでゐる。あれは呉中第一泉にしては、餘り水が汚いから、唯の泥池と間違はれないやうに、廣告をしたのに違ひない。

 しかしその池の前の、見山閣とか號するものは、支那の燈籠がぶら下つてゐたり、新しい絹の布團があつたり、半日位寢ころんでゐるには、誂へ向きらしい所だつた。おまけに窓に倚つて見れば、山藤(やまふじ)の靡いた崖の腹に、ずつと竹が群つてゐる。その又遙か山の下に、池の水が光つてゐるのは、乾隆帝が命名した、高義園の林泉であらう。更に上を覗いて見ると、今登つた山頂の一部が、かすかな霧を破つてゐる。私は窓によりかかりながら、私自身南畫か何かの點景人物になつたやうに、ちよいと悠然たる態度を粧つて見た。

 「天平(てんぺい)地平、人心不平、人身平平、天下泰平」

 「何です、それは?」

 「さつきの壁に書いてあつた、排日の落書きの一つですがね。中中口調が好いぢやありませんか? 天平地平、人心不平、………」

 天平山一見をすませた後(のち)、我我は又驢馬に乘りながら、靈巖山塞靈巖寺へ志した。靈巖山は傳説にもせよ、西施彈琴の岩もあれば、范蠡(はんれい)の幽閉された石室もある。西施や范蠡は幼少の時に、呉越軍談を愛讀した以來、未に私の贔屓役者だから、是非さう云ふ古蹟は見て置きたい。――と云ふ心もちも勿論あつたが、實は社命を帶びてゐる以上、いざ紀行を書かされるとなると、英雄や美人に縁のある所は、一つでも餘計に見て置いた方が、萬事に好都合ぢやないかと云ふ、さもしい算段もあつたのである。この算段は上海から、江南一帶につき纏つた上、洞庭湖を渡つても離れなかつた。さもなければ私の旅行は、もつと支那人の生活に觸れた、漢詩や南畫の臭味(しうみ)のない、小説家向きのものになつたのである。が、今は便便(べんべん)と道草なぞを食つてゐる場合ぢやない。――兎に角靈巖山へ志した。處が十町と來ない内に、何時か道が無くなつてしまつた。あたりには草の深い濕地に、背の低い雜木が茂つてゐる。可笑しいなと思つてゐると、驢馬を曳いて來た二人の子供も、其處に足を止めたぎり、何か不安さうに饒舌(しやべ)り出した。

 「路が分らないのですか?」

 私は島津氏に聲をかけた。島津氏は私の鼻のさきに、痩せた驢馬を乘り据ゑた儘、大澤に陷つた項羽のやうに、あたりの景色を見廻して、ゐる。

 「分らないのださうです。――おお、あすこに百姓がゐる。おい、モンモンケ!」

 但しこのモンモンケなる言葉は、驢馬曳きの子供に發せられたのである。既に百姓がゐると云ふ以上、これはきつとその百姓に、路を問へと云ふ事に違ひない。私の推察にして誤らなければ、モンは問答の問である。――私はさう思つたから、私について來た驢馬曳きにも、早速同樣の命令を下した。

 「モンモンケ! モンモンケ!」

 モノモンケは祕密の呪文のやうに、忽(たちまち)路をわからせてくれた。驢馬曳きの復命した所によれば、右にまつ直に行きさへすれば、靈巖山の麓へ出るさうである。我我は早速教へられた方へ、驢馬の頭を向け直した。が、又一二町行つたと思ふと、本街道へ來るどころか、寂しい谷合ひへはひつてしまつた。磊磊横はつた石の間には細い松ばかり生え伸びてゐる。おまけに水でも出た跡か、その松の根こぎになつたのも見えれば、山腹の土の崩れてゐるのも見える。更に一層困つた事には、少時(しばらく)谷に沿うて登つて行つたら、とうとう驢馬が動かなくなつた。

 「弱つたな。」

 私は山を見上げながら、ため息をつかずにはゐられなかつた。

 「何、かう云ふ事も面白いです。あの山がきつと靈巖山ですから、――さうです、兎に角あの山へ登つて見ませう。」

 島津氏は私を勵ますやうに、わざとしか思はれない快活さを見せた。

 「驢馬はどうするのです?」

 「驢馬は此處に待たして置けばよろしい。」

 島津氏は驢馬を飛び下りると、一人の子供と二頭の驢馬とを松の中に殘した儘、猛然と山腹へ登り出した。勿論、登り出したと云つても、路なぞがついてゐる訣ぢやない、野薔薇や笹を押し分けながら、ひた押しに斜面を押し上るのである。私はもう一人の驢馬曳きと一しょに、負けずに島津氏の跡を追つた。が、病後の事だから、かうなるとさすがに息が切れる。その上十間ばかり登る内にぽつりと冷たい物が顏に落ちた。と思ふと一山の木木が、さあつとかすかに戰(そよ)ぎ始める。雨――私は靴を、辷(すべ)らせないやうに、細い松の木につかまりながら、足もとの谷を見下した。谷の底には驢馬や子供が小さく雨に濡らされてゐる。

[やぶちゃん注:ここまで注釈を附けてきて、私ははたと気がついた。これはツルゲーネフ「猟人日記」を確信犯的にインスパイアしたものではなかろうか?(リンク先は私のHP「心朽窩 新館」、イワン・ツルゲーネフ作中山省三郎訳「獵人日記」を公開中) 勿論、これらの体験は芥川の実際のものであることに疑いはない。しかし、そこに現れる自然描写・案内人島津と驢馬曳きの子供・主人公芥川の心内描写の一切、その悉くが、私にはツルゲーネフの「猟人日記」の様々な複数のシークエンスと二重写しになって見えるのである。いや、島津四十起の姿はあの下男のエルモライの風貌となって私の映像の中に立ち現れてくると言ってもよい。そして――雨、風、濡れた梢、その葉、草原、湿めった気――道に迷った主人公そして谷の底の驢馬や子供――そこはあのベージン草原――ビェージンの草原に見紛うばかりではないか!

・「萬笏朝天」神田由美子氏の岩波版新全集注解に、天平山西側の中腹にある『卓筆峰の背後にそびえる環状に多くの笏が天にむかっているように見える岩』塊とある。「笏」は官吏が正装した際、帶の間に差し挟んだ板で、重要な事柄をメモする備忘録に用いた。「朝」は動詞で、拝する、の意。

・「龍の髭」ユリ目ユリ科ジャノヒゲOphiopogon japonicus。別名リュウノヒゲとも言う常緑多年草。開花は夏7月であるから、ここではあの淡い紫の花は咲いていない。

・「擬寶珠」ユリ目ユリ科ギボウシ属Hostaの総称。多年草、山間の湿地等に自生。白又は青色の花の開花はやはり夏であるから、これも咲いてはいない。筑摩全集類聚版脚注ではこれを、橋の欄干などに使う擬宝珠と解しているが、確かに人造の「擬宝珠」は池塘に配して不自然ではないが、植物のリュウノヒゲと人工物を並列にするというような無粋なことを、芥川がするだろうか? 私にはとても採れない解釈である。

・「呉中第一泉」天平山の東側中腹の雲泉精舎にある泉。盛唐から中唐にかけて生きた作家で、「茶経」を著し、茶聖と呼ばれる陸羽(733804)が、この白雲泉を呉中第一泉と認定したと伝えられる。

・「白雲泉」中唐の白居易(772846)の命名による。

・「魚樂」これは「荘子」第十七「秋水」篇にある荘子と恵子の詭弁のエピソード「知魚楽」に基づくものであろう。教え子諸君は私がオリジナル・プリントでやったのを思い出して欲しい。

・「見山閣」雲泉精舎の建物の一部か。

・「乾隆帝」清第6代皇帝高宗(17111799)。

・「高義園の林泉」天平山の麓にある林泉式庭園。林泉式とは泉水・築山・曲水・樹林など自然の景観を真似て造られた庭園を言う。

・『「天平地平、人心不平、人身平平、天下泰平」』日本語は勿論小気味よいのだが、これを拼音(ピンイン)で示すと

tiānpíngdìpíng, rénxīnbùpíng, rénshēnpíngpíng, tiānxiàtàipíng

(ティエンピンティピン、レンシンプピン、レンシェンピンピン、ティエンシィアタイピン)

若しくは

tiānpíngdìpíng, rénxīnbùpíng, rénshēnpiánpián, tiānxiàtàipíng

(ティエンピンティピン、レンシンプピン、レンシェンピェンピェン、ティエンシィアタイピン)

となってより美事である。因みに、後者は「平平」の部分の意味を「安らか」の意でなく、「整い治まる」として用いた際の読みを試みたものである。

・「靈巖寺」現在は「霊岩寺」と表記する。霊厳山の山頂にある(地図上では山頂表示の南東のかなり離れた位置に寺が示されている)中国浄土宗の名刹。元は呉王夫差(?~B.C.473)が西施(生没年不詳)の住居として設けた館娃宮(かんあいきゅう:「娃」は美人)であった。後、東晋時代に寺院となり、その後も興廃を繰り返した。現存の建物は1911年から1932年にかけて再建されている。なお、ここは空海が長安への道中、立ち寄った所縁の地でもある。

・「范蠡」(生没年不詳)は春秋時代の越の政治家・軍人。呉王夫差と対抗した越王勾践(?~B.C.465)に仕えた名臣。但し、彼が「幽閉された石室」が、彼の策謀で差し出された西施の居所にあるというのは、私には解せない。識者の御教授を乞う。

・「呉越軍談」書名。元禄161703)年に清地以立(きよちいりつ 16631729)が明代に成立した歴史小説「春秋列国志伝」を翻案した「通俗列国志呉越軍談」のこと。

・「十町」1町は約109mであるから、約1㎞強。

・「モンモンケ」を諸注は「問問咯」とし、江蘇方言で「お尋ねします」の意とする。因みに現代中国語の拼音(ピンイン)で示すと“wènwènlo”(ウェンウェンロ)であろう。岩波の倉石武四郎著「中国語辞典」に依るならば、この場合の「咯」“lo”は、現代中国語の文末の完了の助詞「了」“le”等を投げやりに発音した時に、「言うまでもなくそうだ!」という語気を示す、とある。しかしだとすれば、「お尋ねします」という丁寧語訳は少々おかしい。「訊ねん!」「教えてくんな!」「教えてくれ!」でよいのではないか? 江蘇方言にお詳しい方の御教授を乞う。

・「病後の事だから」芥川龍之介「上海游記」の「五 病院」参照。退院から未だ17日後のことである。]

2009/07/14

江南游記 十六 天平と靈巖と(上)

       十六 天平と靈巖と(上)

 天平山白雲寺(てんぺいざんはくうんじ)へ行つて見たら、山に倚(よ)つた亭の壁に、排日の落書きが澤山あつた。「諸君儞在快活之時、不可忘了三七二十一條」と云ふのがある。「犬與日奴不得題壁」と云ふのがある。(尤も島津氏は平然と、層雲派の俳句を題してゐた。)更に猛烈なやつになると、「莽蕩河山起暮愁。何來不共戴天仇。恨無十萬横磨劍。殺盡倭奴方罷休。」と云ふ名詩がある。何でもこの詩の前書きには、天平山へ詣でる途中、日本人と喧嘩をしたら、多勢に無勢のため負けてしまつた。痛憤に堪へないなどと書いてあつた。聞けば排日の指嗾費(しそうひ)は、三十寓圓内外とか云ふ事だが、この位利き目があるとすれば、日本の商品を驅逐する上にも、寧ろ安い廣告費である。私は欄外の若楓(わかかへで)の枝が、雨氣(うき)に垂れたのを眺めながら、若い寺男の持つて來る、抹香臭い茶を飮んだり、固い棗(なつめ)の實を嚙つたりした。

 「天平山は思つたより好い。もう少し綺麗にしてあると猶好(よ)いが、――おや、あの山の下の堂の障子は、あれは硝子(がらす)が嵌まつてゐるのですか?」

 「いや、貝ですよ。木連(きつ)れ格子(がうし)の目へ一枚づつ、何とか云ふ貝の薄いやつを、硝子代りに貼りつけたのです。――天平山は何時か谷崎さんも、書いてゐたぢやありませんか?」

 「ええ、蘇州紀行の中に。尤も天平山の紅葉よりは、途中の運河の方が面白かつたやうです。」

 我我は靈巖山(れいがんざん)へも登る必要上、今日も驢馬に跨つて來たが、それでも初夏の運河に沿うた、姑蘇城外の田舍路は、美しかつたのに相違ない。白い鵞(が)の浮いた運河には、やはり太鼓なりに反り上つた、古い石橋がかかつてゐる。その水にはつきり影を落した、涼しい路ばたの槐(ゑんじゆ)や柳、或は青麥の畠(はた)の間に、紅い花をつけた玫瑰(メイクイ)の棚、――さう云ふ風景の處處に、白壁の農家が何軒も見える。殊に風流に思つたのは、そんな農家を通り過ぎる毎に、窓の中を覗きこむと、上(かみ)さんだか娘だか、刺繡(ししう)の針を動かしてゐる、若い女も少くない。生憎(あいにく)空は曇つてゐたが、もし晴れてゐたとすれば、彼等の窓の向うには、靈巖、天平の青山が、描いたやうに見えた事であらう。

 「谷崎さんも乞食に惱まされたやうですね。」

 「あれには誰でも惱まされる。しかし蘇州の乞食はまだ好(い)いですよ。杭州の靈隠寺(れいいんじ)と來た日には――」

 私は思はず笑ひ出した。靈隠寺の乞食の非凡さは、日本人には到底想像も出來ない。大袈裟にぽんぽん胸を叩いたり、地(ぢ)びたへ頭を續け打ちにしたり、足首のない足をさし上げて見せたり、――まづ、乞食の技巧としては、最も進歩した所を見せる。が、我我日本人の眼には、聊(いささか)藥が利きすぎるから、憐憫の情を催すよりも、餘り仰仰しいのに吹き出してしまふ。あれを思へば蘇州の乞食は、唯泣き聲を出すだけだから、手の内をやるにもやり心地が好い。しかし獅子山(ししざん)の裾か何かの、寂しい村を過つた時、うつかり一錢投げてやつたばかりに、村の子供だの女だのが、いづれも手をさし出しながら、驢馬のまはりを取り卷いたのには、少からず難澁した。如何に柳が垂れてゐたり、女が刺繡(ぬひ)をしてゐたりしても、敬服ばかりすべきものぢやない。その村の白壁の一重内(へうち)には、丁度巣を食つた燕のやうに、恐るべき娑婆苦(しやばく)が潛んでゐる。

 「ぢや山の上に登つて見ませうか?」

 島津氏は私を促しながら、亭後(ていご)の山路(やまみち)を登り始めた。油ぎつた若葉の中に、土の赤い山路が、細細と岩を縫つてゐるのは、何だか嬉しいものである。その路を斜(ななめ)に登りつめると、今度は屏風を立てたやうに、巨岩の突き立つた所へ出た。此處が行き止りかと思つたら、岩と岩との迫つた間に、體を横にしなければ、殆(ほとんど)通過も出來ない位、小さい路が走つてゐる。いや、走つてゐるのぢやない。まつ直に天上へ向つてゐるのである。私は岩の下に佇んだ儘、樹の枝や蔦蘿(つたかつら)に絡(かが)られた、遠い青空を振り仰いだ。

 「卓筆峰とか望湖臺とか云ふのはこの山の上にあるのでせうか?」

 「さあ、多分さうでせう。」

 「成程、これは登天平路らしい。」

[やぶちゃん注:5月10日の蘇州周遊。標題は蘇州の西にある天平山と靈巌(れいがんざん)の意。天平山は蘇州市西方約14㎞に位置する山で、標高382m(221mとするものもある)、奇岩怪石と清泉、楓の紅葉で知られる。霊巌山は天平山の南方蘇州市街西南西へ約15㎞に位置する山で、標高182m、李白・白居易・范仲淹・高啓といった高名な詩人達が題詠を残している名勝である。

・「天平山白雲寺」天平山自体は有名な寒山寺からは真西に約6㎞のところに位置する。現在、寺は存在しないのか、ネット検索に殆んど掛かってこない。神田由美子氏の岩波版新全集注解では『宋の范仲淹のために建立』とある。

・「山に倚つた亭」現在の白雲茶室か。

・『「諸君儞在快活之時、不可忘了三七二十一條」』は、訓読するなら「諸君儞(なんぢ)快活の時に在りて、三七二十一條を忘了(ばうりやう)すべからず」で、「三七二十一」は九九の掛け算で読む。「君たち! そこの、あなた、だ! この大事な時にあって、あの屈辱的な二十一ヶ条を忘れてはならない!」の意。本邦で言う通称「対華21ヶ条要求」のことを言っている(中国では「二十一条」。本条約には正式名称がない)。大正4(1815)年に日本が権益と侵略のために中華民国袁世凱政権に受諾させた条約。第一次世界大戦に敗北したドイツの山東省での権益の日本継承・関東州租借期限延長・満鉄権益期限延長・漢冶萍公司(かんやひょうこんす:中国最大の製鉄会社)日中合弁化等を内容としたあからさまな不平等条約であった。中国国民はこれを非難し、要求を受諾した59日を国恥記念日と呼び、学生・労働者のストライキから、1819年の五四運動の火種となった(以上は主にウィキの「対華21ヶ条要求」を参照した)。

・『「犬與日奴不得題壁」』訓読すると「犬と日奴とは壁に題することを得ず」で、「犬と日奴(日本人野郎)は壁に落書きするな」の意。これは有名な上海外灘(“Wàitān”ワイタン『外国人の河岸』の意 英語名“The Bund”バンド)あった“Public Garden”パブリック・ガーデンの入口の看板「華人與狗不得入内」を逆手に取ったパロディである(芥川龍之介「上海游記」の「十二 西洋」等の本文及び私の注を参照されたい)。

・「層雲派の俳句を題してゐた」先に記した通り、島津四十起は俳句を嗜み、自由律俳誌『華彫』の編集人を務めたりした。ここで言う「層雲派」とは、新傾向の河東碧梧桐門下の荻原井泉水が、非定型・無季語という更に突っ込んだ自由律俳句を創始し出した結社。その雑誌名を『層雲』という。尾崎放哉や種田山頭火が著名。因みに私も若い時分、この雑誌に依って自由律俳句をものした。私の卒論は尾崎放哉論であった。よろしければ「尾崎放哉全句集(やぶちゃん版新版)」をもご覧あれ。

・『「莽蕩河山起暮愁。何來不共戴天仇。恨無十萬横磨劍。殺盡倭奴方罷休。」』筑摩全集類聚版も神田由美子氏の岩波版新全集注解も注として挙げていない。自明とおっしゃるのか? 私はよく分からない。暴虎馮河なれど、諸注の態度が気に入らないから、意地でひねり出す。句読点を排除して書き下せば、

○やぶちゃんの書き下し文

莽蕩(まうたう)たる河山(かざん) 暮愁起る

何くより來たる 共に天を戴かざるの仇(かたき)

恨むらくは 十萬の横磨劍(わうまけん)の無きを

倭奴を殺し盡して 方(まさ)に罷休(ひきゆう)せんに

○やぶちゃんの現代語訳

遙かに遙かに茫々と広がるこの大地大河 そこが暗く沈んで暮れゆく そこに自ずから愁いが立ち上ってくる――

一体お前たちは どこからやってきた? 不倶戴天の仇敵よ!――

恨むらくは 今 この国に十万の横磨剣が無いこと――

ああ! 日奴を殺し尽くして初めて 私は安らかな休息を得ることが出来ようというものなのに!――

 後晋の軍人にして宰相であった景延広(892947)は圧迫してくる契丹に対し臣と称することに反対、契丹の使者に「孫(=後晋の比喩)には十万の横磨剣がある。翁(=契丹)がもし戦いたいならさっさと来るがいい」と言ったことを指す(景延広の事蹟については杭流亭の「中国人名事典~後晋」の記載を参照した)。「横磨剣」の意味がよく分からないが、雰囲気としては横たえなければならない程太い鋭く研磨し上げた剣(若しくは触れなば即死のまがまがしい程の切れ味のよい魔剣)と言った意味か。ともかくも国民総てが勇猛果敢死を恐れず、一丸となって闘うぞ! といった感じの、強国契丹への挑発である。この詩の転句・結句の解釈には自信はない。自信はないが、私の意識の中では牽強付会の訳では、必ずしもない。誤りがあれば、是非、御教授を乞うものである。

・「排日の指嗾費」排日運動を陰でけしかけるために、中華民国政府が秘かにばら撒いている非合法の秘密費という意味であろう。同僚の世界史の教師に訊いて見たが、このような事実を確認することは出来なかった。しかし、あったとしても少しもおかしくはあるまい。中日の軍閥割拠、何をしていたか、誰も分からない。報操作は大事な戦略である。後のことになるが、上海事変の末期の昭和7(1932)年4月29日に虹口公園(現・魯迅公園)で起こった上海天長節爆弾事件では、抗日テロ行為に中華民国政府が資金調達をしていたことが知られる。以下にウィキの「上海天長節爆弾事件」から該当部分を引用する。当時の昭和天皇誕生日であった天長節4月29日、日本の上海派遣軍と在上海日本人居留民によって『大観兵式と天長節祝賀会を執り行うことになった。この行事は日本軍の上海における軍事行動の勝利を祝賀するものでもあった』が、『このテロ実行の恰好の機会に、朝鮮半島からの日本による支配を駆逐する事を目的とする大韓民国臨時政府(亡命政権)の首班金九は尹奉吉をテロの実行犯として差し向ける事にした。またこのテロ計画には中華民国行政院代理院長(日本の内閣総理大臣代理に相当)であった陳銘樞などが、朝鮮人側の要人であった安昌浩に資金を提供し協力していた。これは当日の天長節の祝賀会場への入場を中国人は一切禁止されていたため、日本語が上手で日本人に見える実行犯を使うことにしていた。そのため日本の軍事力に蹂躙されていた中国と朝鮮が抗日で一致して中朝協力の下で実行したといえる。』2名死亡・5名重傷、『犯人の尹は、その場で「大韓独立万歳!」と叫んだ後に自殺を図ろうとした所を、検挙され軍法会議を経て12月19日午前7時に金沢刑務所で銃殺刑となった。なお尹は戦後韓国では日本に打撃を与えた独立運動の義士として顕彰されている。事件の首謀者であった金九は事件の犯行声明をロイター通信に伝えたうえで、上海を脱出した。日本軍はフランス租界にいた安昌浩ら大韓民国臨時政府のメンバー17名を逮捕した。』。

・「棗」双子葉植物綱クロウメモドキ目クロウメモドキ科ナツメZiziphus jujuba、シノニムZiziphus zizyphusの実。中国北部原産の落葉高木で、果実を乾燥させて干しなつめとし、漢方薬や菓子材料として利用される。

・「木連れ格子」屋根の妻(切妻や入母屋(いりもや)の屋根の側面の三角形の壁面部分)の飾りの一つ。格子の内側に板を張ったもの。狐格子。妻格子。

・「何とか云ふ貝」二枚貝綱翼形亜綱ウグイスガイ目ナミマガシワ超科ナミマガシワ科マドガイ(窓貝)Placuna placenta若しくはその近縁種。円形、殻長は約8㎝。右殻は平らで薄く、白色半透明。熱帯の浅海に生息する。貝ボタンの材料とする一方、中国やフィリピンでは昔から窓にガラスのように使用された。現在もアクセサリーや手工芸品(風鈴・モビール・トレー等)に用いられる。

・「天平山は何時か谷崎さんも、書いてゐた」/「蘇州紀行」谷崎潤一郎は大正7(1918)年10月上旬から12月上旬までの2ヶ月間、朝鮮・満州・江南を単独旅行、その紀行文「画舫記」(後に「蘇州紀行」と改題)は翌大正8(1919)年2月の『中央公論』に掲載された(小谷野敦氏の製作された谷崎潤一郎詳細年譜大正7(1918)年による)。

・「途中の運河」やはり小谷野敦氏の製作された谷崎潤一郎詳細年譜大正7(1918)年1124日の条に、正に『画舫を傭い、天平山へ出掛ける。運河の眺めが目当てだと言う。』とある。

・「靈巖山」天平山南西約4㎞のところに位置する。なお、この山嶺の南南東山上にある古刹霊巌山寺は空海が長安への道中、立ち寄った所縁の地である。

・「白い鵞」ガチョウ。

・「槐」バラ亜綱マメ目マメ科エンジュStyphonolobium japonicum。落葉高木。中国原産で、街路樹によく用いられる。志怪小説等を読むと中国では霊の宿る木と考えられていたらしい。

・「玫瑰(メイクイ)」“méiguī”本邦ではこの表記でバラ科バラ属ハマナス(浜梨)Rosa rugosaを表わすが、Rosa rugosaは北方種で中国では北部にしか分布しない。中国産のハマナスの変種という記載もあるが、芥川が中国語としてこの語を用いていると考えれば、これは一般的な中国語としてバラを総称する語であり、注としては「バラ」「薔薇」でよいと思われる。

・「谷崎さんも乞食に惱まされたやうですね」やはり小谷野敦氏の製作された崎潤一郎詳細年譜大正7(1918)年1124日の条に、正に「白雲亭で昼食、白雲寺で乞食に悩まされる」とある。私は北京のホテルに泊まった翌朝薄明の頃、窓から見下ろしていると、棧三三五五、ホテルの前に人々が集まって来るのを見た。総勢、二十人を下らなかった。一人の元締めらしき人物が、何人かを指名していろいろな方向を指差す。また、ある幼児を抱きかかえていた女性に近寄って何か言ったかと思うと、その女性は別の女性にその幼児を手渡して、四方に散会した。子供を託された女性と数人がそこに残った。これらが何を意味するかを推理することは容易い。数十分後、早朝出発の団体がホテルのロビーから出てくると、他人の子を抱いた女性は急に悲痛な顔をして、バスに乗り込もうとする客に右手を差し出していた。白人の老婦人はその手に何がしかの「手の内」を渡した。これが私の見た一部始終であり、脚色はない。また、「あちゃ!乞食の8割は「やらせ」、当局が市民に注意を呼び掛け―湖北省武漢市」というこんな記事も見出した。中国発でもあり、そのまま引用する(改行を排除した。報道記事で消失するため、リンクは張らない)。

[引用開始]

2009717日(金)2321分配信 Record China

2009717日、「街で見かける乞食の8割はやらせ」―湖北省武漢市でホームレスの支援活動を行う救助管理センターが、市民に「騙されないよう」注意を促した。楚天都市報が伝えた。同センターは街で物乞いをしているホームレスを支援施設に入所させる活動を行っているが、責任者の庄厳(ジュアン・イエン)氏は「8割以上はやらせ。金儲けのために弱者になり済ますプロの乞食だ」と話す。庄氏によれば、その手口は様々。“小道具”として借りてきた小さな子供を抱え「病気の子供を助けて下さい」。空の骨壷を傍らに「父の埋葬代が払えない」。足が不自由なふりをするパターンもあれば、汚い身なりをした78歳の女の子が街で生花を売る姿も良く見かける。「乞食」の稼ぎは悪くないらしい。中には「仕事の時間」が終わると互いに携帯電話で連絡を取り合い、1日の疲れを癒しに食事に繰り出す輩もいるという。ベテランともなれば、故郷に立派な「乞食御殿」まで建ててしまうというから驚きだ。同センターはこうした「プロの乞食」に騙されないよう市民に呼び掛けた。(翻訳・編集/NN

[引用終了]

・「杭州の靈隠寺」前掲「十二 靈隠寺」参照。

・「地びた」「地べた」の音便変化したもの。

・「手の内をやる」施しをする。

・「獅子山」杭州の西南方向に西湖西岸から約4㎞のところに位置する山。茶の名産地。

・「恐るべき娑婆苦」芥川にとって「娑婆苦」は仏教用語を超えたのっぴきならないキーワードである。「或阿呆の一生」から引用しておきたい。

       二十四 出  産

 彼は襖側(ふすまぎは)に佇んだまま、白い手術着を着た産婆が一人、赤兒を洗ふのを見下してゐた。赤兒は石鹸の目にしみる度にいぢらしい顰(しか)め顏を繰り返した。のみならず高い聲に啼きつづけた。彼は何か鼠の仔に近い赤兒の匂を感じながら、しみじみかう思はずにはゐられなかつた。――「何の爲にこいつも生まれて來たのだらう? この娑婆苦(しやばく)の充ち滿ちた世界へ。――何の爲に又こいつも己(おのれ)のやうなものを父にする運命を荷つたのだらう?」

 しかもそれは彼の妻が最初に出産した男の子だつた。

・「卓筆峰」天平山西側の中腹にある峰。

・「望湖臺」天平山頂上の別称。山頂は平らになっており、西南に広がる広大な太湖を見下ろす。

・「登天平路」天平山に登る路の意であるが、これは天へ登らんとするような急峻の小道という皮肉なニュアンスを込めた、芥川の機知の表現である。このシニックな感覚はこれから現れる芥川の感情のカタストロフへの伏線として機能している。なお、知人が簡体字「白云寺」で検索し、調べてくれたところによると、やはり現在は寺院ではない模様で、当該地と思しい場所には「游客」(旅行客)用の「餐庁」(レストラン)があるらしい。そして、その西の塀沿いに門があり、その門の上に掲げられた門額には「登天平路」と記されていて、天平山への登山道になっていると伝えてくれた。きっと芥川もその門額を見上げていたのであろう。]

2009/07/13

江南游記 十五 蘇州城内(下)

       十五 蘇州城内(下)

 孔子廟へ來たのは日暮れ方だつた。疲れた驢馬に跨りながら、敷石の間に草の生えた、廟前の路へさしかかると、寂しい路(みち)ばたの桑畑の上に、薄白い瑞光寺の癈塔が見える。塔の一層一層に、蔦蘿(つたかつら)や草の茂つたのも見える。その空に點點と飛び違ふ、この邊(へん)に多い鵲(かささぎ)も見える。私は實際この瞬間、蒼茫萬古(さうばうばんこ)の意とでも形容したい、哀れにも嬉しい心もちになつた。

 この蒼茫萬古の意は、幸ひにずつと裏切られなかつた。門外に驢馬を乘り捨てた後(のち)、路も覺束ない草の中を行けば、暗い柏や杉の間に、南京藻の浮んだ池がある。と思ふと池の縁(ふち)には、赤い筋の帽子の兵卒が一人、蘆や蒲を押し分けながら、叉手網(さであみ)に魚(うを)を掬つてゐる。此處は明治七年に再建(さいこん)されたとは云ふものの、宋の名臣范仲淹(はんちゆうえん)が創(はじ)めた、江南第一の文廟である。それを思へばこの荒廢は、直に支那の荒廢ではないか? しかし少くとも遠來の私には、この荒廢があればこそ、懷古の詩興も生ずるのである。私は一體歎けば好(よ)いのか、それとも又喜べば好いのか?――さう云ふ矛盾を感じながら、苔蒸した石橋(いしばし)を渡つた時、私の口には何時の間にか、こんな句がかすかに謳はれてゐた。「休言竟是人家國。我亦書生好感時。」但しこの句の作者は私ぢやない。北京にゐる今關天彭(いまぜきてんぽう)氏である。

 黒い禮門を通り過ぎてから、石獅(せきし)の間を少し歩むと、何とか云ふ小さい通用門がある。その門を開けて貰ふ爲には、青服(あをふく)の門番の上(かみ)さんに、二十錢銀貨をやらなければならない。が、その貧しさうな上さんが、痘痕(あばた)のある十ばかりの女の子と一しよに、案内に立つ所は哀れである。我我は彼等の後から、毒だみの花だけ仄白(ほのしろ)い、夕濕りの敷石を踏んで行つた。敷石の盡きる所には、戟門(げきもん)と云ふのだらう、大きい門が聳えてゐる。名高い天文圖や支那全圖の石に刻まれたのも此處にあるが、あたりに濡つた薄明りでは、碑面もはつきりとは見る事が出來ない。唯その門をはいつた所に、太鼓や鐘が並んでゐる。甚しいかな、禮樂の衰へたるや。今考へると滑稽だが、私はこの埃だらけの、古風な樂器を眺めた時、何だかそんな感慨があつた。

 戟門の中の石疊みにも、勿論茫茫と草が伸びてゐる。石疊みの南側には、昔の文官試驗場だつたと云ふ、廊下同樣の屋根續きの前に、何本も太い銀杏がある。我我は門番の親子と一しよに、その石疊みのつきあたりにある、大成殿(たいせいでん)の石段を登つた。大成殿は廟の成殿だから、規模も中中雄大である。石段の龍、黄色(きいろ)の壁、群青に白く殿名を書いた、御筆(ぎよひつ)らしい正面の額――私は殿外を眺めまはした後、薄暗い殿内を覗いて見た。すると高い天井に、雨でも降るのかと思ふ位、颯颯(さつさつ)たる音(おと)が渡つてゐる。同時に何か異樣の臭ひが、ぷんと私の鼻を打つた。

 「何です、あれは?」

 私は早速退却しながら、島津四十起氏をふり返つた。

 「蝙蝠(かうもり)ですよ、この天井に巣を食つてゐる。――」

 島津氏はにやにや笑つてゐた。見れば成程敷き瓦の上にも、一面に黑い糞が落ちてゐる。あの羽音を聞いた上、この夥しい糞を見れば、如何に澤山の蝙蝠が、梁間の暗闇に飛んでゐるか、想ふだに餘り好(よ)い氣味はしない。私は懷古の詩境からゴヤの畫境へつき落された。かうなつては蒼茫どころぢやない。宛然(ゑんぜん)たる怪談の世界である。

 「孔子も蝙蝠には閉口でせう。」

 「何、蝠(ふく)と福とは同音ですから、支那人は蝙蝠を喜ぶものです。」

 驢背(ろはい)の客となつた後、我我はもう夕靄の下りた、暗い小道を通りながら、こんな事を話し合つた。蝙蝠は日本でも江戸時代には、氣味が惡いと云ふよりも、意氣な物だと思はれたらしい。蝙蝠安(かうもりやす)の刺青(ほりもの)の如きは、確にその證據である。しかし西洋の影響は、何時の間にか鹽酸のやうに、地金(ぢがね)の江戸を腐らせてしまつた。して見れば今後二十年もすると、「蝙蝠も出て來て濱の夕涼み」の唄には、ボオドレエルの感化があるなぞと、述べ立てる批評家が出るかも知れない。――驢馬はその間も小走りに、頸の鈴を鳴らし鳴らし、新緑の匂の漂つた、人氣のない路を急いでゐる。

[やぶちゃん注:「十三 蘇州城内(上)」の冒頭注で示した通り、5月9日の嘱目。ここまで入れ込んで注を附していると、不思議なことが起こるものだ。私は西湖に行ったことがないのに、眼をつぶってもその略図が書けるようになり、その半ば淀んだアオコの水の生臭い匂いがし、擦れ違う中国人の鮮やかな服が思い出せる。そうして遂には「小走りに、頸の鈴を鳴らし鳴らし、新緑の匂の漂つた、人氣のない路を急いでゐる」驢馬に跨った華奢な芥川をドキュメンタリーで撮影しているカメラマンである自分が実感されるのである。

・「孔子廟」蘇州文廟とも。宋の1035年に教育行政の一環として蘇州知事范仲掩によって創建された江南最大の孔子廟である。現在は廟内にある蘇州碑刻博物館としての肩書の方が知られ、儒学・経済・孔廟重修記碑等多数が展示されている。芥川が見えないことを嘆いたのはその目玉である「平江図碑」(1229)・「天文図碑」(1247)・「地理図碑」(1247)・「帝王紹運図碑」(1247)の四大宋碑である(主に松倉大輔氏の「旅で出会った文物たち 第 蘇州をゆく」の記載を参照した)。

・「瑞光寺の癈塔」蘇州で最も古い城門である盤門(元代の1351年の再建になる)の北側にそびえる瑞光寺塔のこと。禅寺として三国時代の241年に創建された。八角七層の塔は北宋初期のもので、高さ43.2m。ここで芥川が「癈塔」と表現している(「十三 蘇州城内(上)」では『名高い瑞光寺の古塔だつた。(勿論今のは重修に重修を重ねた塔である。)』とあったのだが)のは、芥川が見た時は、「重修に重修を重ねた」ものが以下に描出されるように、羅生門の如く相当に荒廃していたということを指している。

・「蔦蘿」「蘿」も、つた・かずらの意。

・「鵲」スズメ目カラス科カササギPica pica。本邦では主に有明海沿岸に分布、コウライガラスとも呼ぶ。中国では「喜鵲」で、「鵲」「客鵲」「神女」等とも言う。大陸や朝鮮半島では極一般的な鳥である。

・「蒼茫萬古」。目に見えない何ものかが無限の彼方まで広がっているさまが、永遠に続く時の中にあること。限定を超越した永遠無限の時空間認識、その感懐を言う語。

・「南京藻」他の作品でもそうだが芥川がこう言う時には、必ず腐れ水の匂いが付き纏う。従ってこれは、所謂、水草らしい水草としての顕花植物としての水草類や、それらしく見える藻類を指すのではなく、真正細菌シアノバクテリア門藍藻類のクロオコッカス目 Chroococcales・プレウロカプサ目 Pleurocapsales・ユレモ目 Oscillatoriales・ネンジュモ目 Nostocales・スティゴネマ目 Stigonematales・グロエオバクター目 Gloeobacterales等に属する、光合成によって酸素を生み出す真正細菌の一群、所謂、アオコを形成するものを指していると考えられる。アオコの主原因として挙げられる種は藍藻類の中でもクロオコッカス目のミクロキスティス属 Microcystis、ネンジュモ目アナベナ属 Anabaena や同目のアナベノプシス属 Anabaenopsisであるが、更に緑藻類の緑色植物亜界緑藻植物門トレボウキシア藻綱クロレラ目クロレラ科のクロレラ属 Chlorella、緑藻植物門緑藻綱ヨコワミドロ目イカダモ科イカダモ属 Scenedesmus、緑藻綱ボルボックス目クラミドモナス科クラミドモナス属 Chlamydomonas 等もその範囲に含まれてくる。若しくは、それらが付着した水草類で緑色に澱んだものをイメージすればよいであろう。

・「叉手網」2本の竹木を交差させて袋状に網を張り、魚を掬い採る漁具。

・「明治七年」1874年。清の同治13年。

・「范仲淹」(9891052)は北宋屈指の名臣。蘇州出身で、辺境をよく守備して西夏の侵入を防いだ。名文「岳陽楼記」中、理想的な為政者の在り方を示した「先憂後楽」は特に知られる故事成句である。1104年にこの孔子廟(蘇州文廟)を建立している。

・「文廟」一般名詞としての孔子廟のこと。

・『「休言竟是人家國。我亦書生好感時。」』は、

○やぶちゃんの書き下し文

言ふを休めよや 竟(つひ)に是れ 人の家國(かこく)

我れ亦 書生 好く時に感ずべし

○やぶちゃんの現代語訳

あれこれ言うのは止めましょう トドのつまり ここは中国 人の国

私もこれまた たかが学生(がくしょう) 人生に いろいろ感じて懐(おも)うのも 仕方がないとは言えましょう

てな感じだろうか。前後がないのでとんでもない誤訳かも知れない。ご注意あれ。

・「今關天彭」本名今関寿麿(いまぜきとしまろ 明治151882)年~昭和451970)年)は日本の中国研究家・漢詩人。石川鴻斎(こうさい)、森槐南(かいなん)らに師事。朝鮮総督府嘱託などを経て、大正71918)年に北京に中国文化学術の研究所である今関研究室を設立。昭和171942)年には重光葵(しげみつまもる)駐華大使の大使顧問となった。著作に「宋元明清儒学年表」「中国文化入門」「近代支那の学芸」「天彭詩集」等多数。

・「禮門」ここでは、孔子廟の一番外側にある入場門の謂い。

・「石獅」日本の狛犬。古代インドをルーツとし、日本へは中国から朝鮮を経て移入、そこから「高麗(こま)犬」と呼ばれるようになったとされる。

・「戟門」ここでは、孔子廟の内の正門の謂い。

・「天文圖」四大宋碑の一つである「淳祐天文図碑」(1247)のこと。十二支を星座に配してある。この星図自体は既に南宋の1190年頃には完成していたらしい。

・「支那全圖」四大宋碑の一つである「地理図碑」(1247)というのがそれであろうか。識者の御教授を乞う。

・「昔の文官試驗場」科挙試のための一方開放式ボックスの試験室が長屋状になったもの。私も復元されたものに受験生気分で座って写真を撮ったことがある。極めて狭い。ここで2泊三日自炊で試験を受けた。筆記試験実施中にここから出た者は即座に失格であった。

・「大成殿」孔子廟の正殿。

・「御筆らしい正面の額」筑摩全集類聚版脚注には、北宋の徽宗(10821135)の宸筆か、と推測されているが、岩波版はここに注しない。そうではないということか?

・「ゴヤの畫境」晩年のFrancisco José de Goya y Lucientesフランシスコ・ホセ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンテス(17461828)は179246歳で聴力を失い、1800年代初頭のフランスとの半島戦争(18081814)の戦火の中、1799年には有名なグロテスクな寓意に富んだ処女版画集『ロス・カプリチョス』を刊行、戦中には著名な戦争画「マドリード、180853日」(素晴らしい構図の「巨人」も挙げたいところだが、2009年1月に所蔵するプラド美術館によってゴヤの真筆ではないことが結論された)を描き、1810年には版画集『戦争の惨禍』を、また1820年から1824年にかけては「我が子を食らうサトゥルヌス」で有名な、魔女や暴力を描いた『黒い絵』シリーズを描くなど、暗い現実への皮肉と憎悪に満ちた陰惨な怪奇幻想作品を好んで描いている。

・「宛然たる」そっくりそのままであること。全くもって。完全に。

・「孔子も蝙蝠には閉口でせう。」というこの台詞、音読してみると一目瞭然、次の中国音の音通以前に、芥川自身が「孔」・「蝙」・「口」で音通を洒落ているのである。こういう部分にこそ「注」は必要である。向後、誰一人としてこうした芥川の技巧が分からなくなる日が必ず来る。「蝙蝠」が読めず、「閉口」の意味が分からず、「孔子」の当たり前の事蹟も知らない者が、どうしてこのウィットに気づけるであろう。私は誰かが、こんなつまらないことを今、注しておかなくてはならないのだとしみじみ思うのである。

・「蝠と福とは同音ですから、支那人は蝙蝠を喜ぶもの」本邦と同じくコウモリを言う「蝙蝠」は中国語で“biănfú”で、「蝠」の字の音は“”である。「福」は同じく“”で、完全な音通となる。しばしば見られる紅い蝙蝠のデザインは「紅蝠」“hóngfú”が完全な同音の「洪福」“hóngfú”(大きい幸福)の意となるからである。また、長寿・富貴・健康・修徳・天寿という中国人の理想的「福」を示すために5頭の蝙蝠が飛ぶデザインで描いたりもする。

・「蝙蝠安の刺青」歌舞伎世話物で一般に「お富与三郎」とか「切られ与三(よさ)」の通称で知られる「与話情浮名横櫛」(よわなさけうきなのよこぐし)の主人公。一立斎文車(いちりつさいぶんしゃ ?~文久2(1862)年)の講談が原作。但し、原作は菅良助(かんりょうすけ 明和6(1769)年~万延元(1860)年)説もある。三代目瀬川如皐(せがわじょこう 文化3(1806)年~明治141881)年)が歌舞伎に仕立てて、嘉永6(1853)年に江戸で初演された一種のピカレスク・ロマン。身を持ち崩した主人公与三郎とつるむゴロツキの渾名が「蝙蝠安」で、左頰に蝙蝠の刺青をしている。

・『「蝙蝠も出て來て濱の夕涼み」』筑摩全集類聚版は未詳とし、神田由美子氏の岩波版新全集注解は注としてさえ挙げていないが、これは海賀変哲編「端唄及都々逸集 附はやり唄と小唄」(大正6(1917)年東京博文館刊)の「かの部」にある、

○蝙蝠が(三下リ)

蝙蝠が、出てきた浜の夕凉、川風さつとふく牡丹、からい仕かけの色男、いなさぬ/\いつまでも、浪花の水にうつす姿絵。

が元であろう。芥川のものも「出て」という用語が如何にも新しい感じがする。芥川は「蝙蝠が、出てきた浜の夕凉」の部分を俳諧に改作して江戸趣味にアレンジしたものかと思われる。引用は「J-TEXT」のアーカイブから。当該ブラウザは何度やっても表示すると画面が慄っとするほどフリーズするのでリンクは張らない。因みに、この海賀変哲(明治4(1871)年~大正121923)年)は雑誌記者・作家。本名は篤麿(あつまろ?)。札幌農学校(現・北海道大学)に学び、明治391906)年、博文館に入社、ベストセラーとなった雑誌『少女世界』『文芸倶楽部』の編集に当った。]

2009/07/12

江南游記 十四 蘇州城内(中)

       十四 蘇州城内(中)

 

 

 

 

 我我は北寺(ほくじ)の塔を見てから、玄妙觀を見物に行つた。玄妙觀はさつき通つた、寶石屋の多い往來から、ちよいと横町をはいつた所にある。觀前(かんぜん)の廣場に露店の多い事は、上海の城隍廟(じやうくわうべう)と違ひはない。うどん、饅頭、甘蔗(かんしよ)の莖、地栗(デリイ)! さう云ふ食物店(くひものみせ)の間には、玩具屋や雜貨屋も店を出してゐる。人出も勿論非常に多い。が、上海と違ふ事は、これ程ぞろぞろ練(ね)つてゐる中に、殆(ほとんど)洋服の見えない事である。のみならず場所も廣いせゐか、何だか上海のやうに陽氣でない。華やかな靴下が並べてあつても、韮(にら)臭い湯氣が立つてゐても、いや、漆のやうに髮が光つた、若い女が二三人、鶸色(ひわいろ)や薄紫の着物の尻をわざと振るやうに歩いてゐても、何處か鄙びた寂しさがある。私は昔ピエル・ロテイが、淺草の觀音に詣でた時も、こんな氣がしたのに違ひないと思つた。

 

 

 その群集の中を歩いて行つたら、突きあたりに大きい御堂(おだう)があつた。これも大きい事は大きいが、柱の赤塗りも剥げてゐれば、白壁も埃にまみれてゐる。その上參詣人もこの堂へは、たまに上つて來るばかりだから、一層荒廢した感じが強い。中へはいるとべた一面に、石版だの木版だの肉筆だの、いづれも安物の懸け軸が、惡どい色彩を連ねてゐる。と云つても書畫の奉納ぢやない。皆新しい賣物である。店番は何處にゐるのかと思つたら、薄暗い堂の片隅に、小さい爺さんが坐つてゐた。しかしこの懸け物の外には、香花は勿論尊像も見えない。

 

 

 堂を後へ通り拔けると、今度は其處の人だかりの中に、兩肌脱ぎの男が二人、兩刀と槍との試合をしてゐた。まさか刄(は)はついてもゐるまいが、赤い房のついた槍や、鉤(かぎ)なりに先の曲つた刀が、きらきら日の光を反射しながら、火花を散らして切り結ぶ所は、頗(すこぶる)見事なものである。その内に辮子(ベンツ)のある大男は、相手に槍を打ち落されると、隙間もない太刀先を躱(かは)し躱し、咄嗟に相手の脾腹を蹴上げた。相手は兩刀を握つた儘、仰向けざまにひつくり返る、――と、まはりの見物は、嬉しさうにどつと笑ひ聲をあげた。何でも病大蟲薛永(びやうだいちうせつえい)とか、打虎將李忠(だこしやうりちゆう)とか云ふ豪傑は、こんな連中だつたのに相違ない。石段の上に、彼等の立ち廻りを眺めながら、大いに水滸傳らしい心もちになつた。

 

 

 水滸傳らしい――と云つただけでは、十分に意味が通じないかも知れない。一體水滸傳と云ふ小説は、日本(にほん)にも馬琴の八犬傳を始め、神稻水滸傳(しんとうすゐこでん)とか本朝水滸傳とか、いろいろ類作が現れてゐる。が、水滸傳らしい心もちは、そのいづれにも寫されてゐない。ぢや「水滸傳らしい」とは何かと云へば、或支那思想の閃きである。天罡地煞(てんこうちさつ)百八人の豪傑は、馬琴などの考へてゐたやうに、忠臣義士の一團ぢやない。寧(むしろ)數の上から云へば、無賴漢の結社である。しかし彼等を糾合(きうがふ)した力は、惡を愛する心ぢやない。確(たしか)武松(ぶしよう)の言葉だつたと思ふが、豪傑の士の愛するものは、放火殺人だと云ふのがある。が、これは嚴密に云へば、放火殺人を愛すべくんば、豪傑たるべしと云ふのである。いや、もう一層丁寧に云へば、既に豪傑の士たる以上、區區たる放火殺人の如きは、問題にならぬと云ふのである。つまり彼等の間には、善惡を脚下に蹂躙すべき、豪傑の意識が流れてゐる。模範的軍人たる林冲(りんちゆう)も、專門的博徒たる白勝(はくしよう)も、この心を持つてゐる限り、正に兄弟だつたと云つても好(よ)い。この心――云はば一種の超道德思想は、獨り彼等の心ばかりぢやない。古往今來(こわうこんらい)支那人の胸には、少くとも日本人に比べると、遙に深い根を張つた、等閑に出來ない心である。天下は一人(にん)の天下にあらずと云ふが、さう云ふ事を云ふ連中は、唯(ただ)昏君(こんくん)一人(にん)の天下にあらずと云ふのに過ぎない。實は皆肚(はら)の中では、昏君一人の天下の代りに彼等即ち豪傑一人(にん)の天下にしようと云ふのである。もう一つその證據を擧げれば、英雄頭(かうべ)を囘らせば、即ち神仙と云ふ言葉がある。神仙は勿論惡人でもなければ、同時に又善人でもない。善惡の彼岸に棚引いた、霞ばかり食ふ人間である。放火殺人を意としない豪傑は、確にこの點では一囘頭(くわいとう)すると、神仙の仲間にはいつてしまふ。もし譃だと思ふ人は、試みにニイチエを開いて見るが好い。毒藥を用ゐるツアラトストラは、即ちシイザア・ボルヂアである。水滸傳は武松が虎を殺したり、李逵(りき)が鉞(まさかり)を振廻したり、燕青(えんせい)が相撲をとつたりするから、常人に愛讀されるんぢやない。あの中に磅礴(ほうはく)した、圖太い豪傑の心もちが、直に讀む者を醉はしめるのである。………………

 

 

 私は又武器の音に目を見張つた。あの二人の豪傑は、私が水滸傳を考へてゐる内に、何時か一人は青龍刀を、一人は幅の廣い刀をふり上げながら、二度目の切り合ひを始めてゐる。――

 

 

 

 

[やぶちゃん注:「十三 蘇州城内(上)」の冒頭注で示した通り、5月9日の嘱目。私は「江南游記」の中でも、本篇が殊の外、気に入っている。それはここで語られる芥川の「善悪の彼岸」、豪傑の哲学に魅せられるからである。私は今の中国や中国人の中に、連綿と続くこの「力」を感じるし、それに一種の羨望さえ抱いていると言ってもよいのである。なお、本篇には沢山の「水滸伝」中の人物が登場するが、私はまともに「水滸伝」を読んだことがなく、ドラマ等も完全に通して見たことはない。そのため、それらの登場人物の事蹟については、大々的にウィキの「水滸伝」関連の記載を参照させて頂いた(その際、一部の難解な漢字に私が振ったことが分かるように《 》で読みを補った箇所がある)。なるべく芥川の叙述と関わる内容を心掛けたため、恣意的な一部の引用になっていることをお断りし、また、ここで美事な解説をなさっているウィキの執筆者の方々に心から敬意を表するものである。

 

 

・「玄妙觀」西晋の咸寧年間(275280)に創建された道教寺院。但し、玄妙観という呼称は元代以降のもの(それまでは真慶道院)。明の1371年に道教の聖地として興隆し、盛時は建物三十数棟、敷地面積4haに達したと言われる。太平天国の乱等により、多くの建物・文物の損壊と修復を繰り返したが、宋から清にかけての道教文化を伝えるものとして、また長江以南に現存する最大の建築群として、現在、全国重点文物に指定されている(以上と以下の「大きい御堂」の注は主に『中国・蘇州個人旅行 ユニバーサル旅行コンサルジュ「蘇州有情」』の「玄妙観の記載を参照した)。

 

 

・「上海の城隍廟」中国の民間信仰である道教の土地神たる城隍神を祀るための廟所。上海城隍廟(俗に老城隍廟)は現在の黄浦区南部の豫園及びその商店街に隣接した地に建つ。芥川龍之介「上海游記」の「七 城内(中)」を参照。

 

 

・「甘蔗」イネ目イネ科サトウキビSaccharum officinarumのこと。

 

 

・「地栗(デリイ)」“dìlì”は水生多年草の単子葉植物綱オモダカ目オモダカ科オモダカ属オモダカ品種クワイ(慈姑)Sagittaria trifolia 'Caerulea'

。「地栗」は上海での呼び名で、中日辞書ではクワイはやはり「慈姑」で、拼音(ピンイン)は“cígū”、「ツク」である。

 

 

・「鶸色」黄緑色。スズメ目アトリ科カワラヒワ属マヒワ(真鶸)Carduelis spinusの羽の色の連想から名づけられた色名。

 

 

・「ピエル・ロテイが、淺草の觀音に詣でた時」Pierre Lotiピエール・ロティはフランスの海軍士官にして作家であったLouis Marie-Julien Viaudルイ・マリー=ジュリアン・ヴィオー(18501923)のペンネーム。艦隊勤務の中、彼は明治181885)年と明治331900)年の二度の来日しているが、ここで言う彼の浅草観音来訪の様子は、明治181885)年の体験を元にした1889年刊の“Japoneries d'automne”「秋の日本的なるもの」の「江戸」の章にある。

 

 

・「大きい御堂」玄妙観の主殿である三清殿。南宋の1179年の造立、設計は著名な北宋の画家趙伯駒(ちょうはくく)。神田由美子氏の岩波版新全集注解では、『中国最古最大の御堂』であるとする。

 

 

・「辮子(ベンツ)」“biàz”弁髪(辮髪)のこと。モンゴル・満州族等の北方アジア諸民族に特徴的な男子の髪形。清を建国した満州族の場合は、頭の周囲の髪をそり、中央に残した髪を編んで後ろへ長く垂らしたものを言う。清朝は1644年の北京入城翌日に薙髪令(ちはつれい)を施行して束髪の礼の異なる漢民族に弁髪を強制、違反者は死刑に処した。清末に至って漢民族の意識の高揚の中、辮髪を切ることは民族的抵抗運動の象徴となってゆき、中華民国の建国と同時に廃止された。

 

 

・「病大蟲薛永」「水滸伝」中の梁山泊の豪傑の一人。ウィキの「薛永」によれば、渾名の「病大蟲」とは「病」が『顔色が薄黄色い事、またはそれに『~匹敵する』という意味。大虫とは虎の事である。没落武官の孫で、槍棒の使い手』であったが、その演武を見世物にした膏薬売りに身を落としていたところを、宋江に見出される。

 

 

・「打虎將李忠」「水滸伝」中の梁山泊の豪傑の一人。ウィキの「李忠」によれば、渾名の打虎将とは虎殺しの意で、棒術の使い手であった。薛永同様、『膏薬売りなどをしつつ、各地を放浪していた』が、魯智深との縁で入山する。

 

 

・「神稻水滸傳」文政121829)年より明治141881)年頃まで刊行され続けた読本。28140冊。岳亭定岡(がくていさだおか:五編迄)・知足館松旭(ちそくかんしょうきょく:五編以降)作、岳亭定岡他画。「水滸伝」を室町時代の結城合戦(ゆうきがっせん 永享121440)に関東で勃発した室町幕府に対して結城氏を中心とした豪族が起こした反乱)に翻案したもの。正しくは「俊傑神稲水滸伝」。

 

 

・「本朝水滸傳」安永21773)年に建部綾足(享保41719)年~安永31774)年)が死の前年に発表した、「水滸伝」を換骨奪胎するとともに日本史をも改変した伝奇小説の先駆的作品。

 

 

・「天罡地煞百八人」「百八人」は「水滸伝」に登場する豪傑の数(これは最大の陽数9の12倍)。それを二種の星。天罡星(てんこうせい:本来は中国語で北斗星を意味する。)と地煞星(ちさつせい:「煞」=「殺」で禍々しい神で、真理に向かう過程では必要とされるべき存在を意味するか。何れにせよ、この二星は本来、道教の神である)に分けて、人物を配する。天罡星は36人、地煞星(ちさつせい)は72人。それを示す神文を刻んだ作中明らかにされる(その伏線は作品の冒頭に現れる)。その碑に記された「替天行道」(天に替りて道を行ひて)と「忠義双全」(忠義双つながら全し)の言葉が梁山泊の御旗となる。

 

 

・「武松」行者武松(ぎょうじゃぶしょう)は「水滸伝」中の梁山泊の豪傑の一人であり、また「金瓶梅」等にもスター・システムのように登場する一種の侠客である(渾名は修行者の格好をしていることから)。「金瓶梅」では人食い虎を退治し都督となり、最後のシーンでは兄を殺した主人公ら西門慶・潘金蓮を小気味よく惨殺する。「水滸伝」では、その後に自首した彼が、巡り巡って憤怒から再び大量殺人を犯して逃亡する内に、魯智深ら梁山泊の仲間となっている。京劇では豪傑にして義人として描かれ、その立ち回りが人気のキャラクターである。なお、「水滸伝」では林冲の死を見取り、80歳で天寿を全うしたことになっているが、浙江工商大学日本文化研究所のHP「中国の日本研究」の王勇氏の「《水滸伝の文化誌》 第十六回 武松の墓を再訪して」に、筆者の幼少の頃に聴いた話として、『湧金門の水城を攻めるとき、両腕を失った武松は杭州を放浪中、宿敵に遭遇して両足を切り取られ、「瓢箪人間」となり、西湖に身を投げて命を絶ったそうである。また一説では、四肢を失った武松は魯智深の手を借りて、惨めな生涯を閉じたとも言われる。『水滸伝』とは逆に、武松は魯智深より先に逝ったことになる』という興味深い伝承を伝えている(「湧金門」は「十二 靈隠寺」の同注参照)。

 

 

・「區區たる」小さくてつまらないさま。

 

 

・「糾合」ある目的のために人々を寄せ集め、纏めること。

 

 

・「林冲」豹子頭林冲(ひょうしとうりんちゅう)は「水滸伝」中の梁山泊の豪傑の一人。渾名はヒョウのように鋭く勇猛な顏の意。梁山泊中、武芸はトップクラス、槍棒を得意技とする。ウィキの「林冲」によれば、『首都開封で禁軍の教頭として妻と暮らしていたが、その妻を上司である高俅《こうきゅう》の養子、高衙内《こうがない》に横恋慕されてしまう。林冲の親しい友人であった陸謙らの協力を得て高衙内は夫人に迫るが、間一髪の所で林冲に見破られ未遂に終った。しかし、それを知った高俅により罠に嵌められ、滄州へ流罪となった。護送中に命を狙われるが魯智深により助けられる。流刑先では柴進《さいしん》の世話になり、まじめに刑に服していたが、開封から陸謙らに命を狙われ、彼らを返り討ちにして逃亡する』という生涯の前段を見ても、芥川の言うように高潔な軍人である。妻との悲恋のエピソード等、日本人にはその悲劇性故に人気が高い人物である。

 

 

・「白勝」白日鼠白勝は「水滸伝」中の梁山泊の豪傑の一人。ウィキの「白勝」によれば、「白日鼠」という名は『昼間からこそこそつまらない悪さばかりしていたのでこの渾名がついた。この威厳の無い渾名通り非力で、これと言った特技も』ない上に、官憲に捕縛されて同賊の名前を自白する等、芥川が言うところの「専門的博徒」=『博打好きのチンピラ』として『席次は梁山泊でも最下位に近い人物だが』、芥川が「九 西湖(四)」で取り上げた『「智取生辰綱」《ちしゅせいしんこう》という、有名な場面で重要な役回りを演じた男であり、また使い走りとしては非常に良く働き、時たま思わぬ手柄を立てる事もあるので意外と出番は多く読者認知度もかなり高い』(「智取生辰綱」の内容については「九 西湖(四)」の「阮小二」の私の注を参照されたい)。そのウィキに記された演技力や奇策を見るに、決してただの『博打好きのチンピラ』とは思われない。

 

 

・「昏君」道理に暗い主君。愚かな君主。

 

 

・「英雄頭を囘らせば、即ち神仙と云ふ言葉がある」筑摩全集類聚版は出典未詳とし、神田由美子氏の岩波版新全集注解は注としてさえ挙げていないが、これは北宋の詩人・書家として「詩書画三絶」と讃えられた黄庭堅の「絶句」の結句である。

 

 

 

 

   絶句

 

 

半竿春水一蓑煙

 

 

抱月懐中枕斗眠

 

 

説與時人休問我

 

 

英雄囘首即神仙

 

 

 

 

○やぶちゃんの書き下し文

 

 

半竿(はんかん)の春水 一簑(りふ)の煙(えん)

 

 

月を懐中に抱きて 斗に枕して眠る

 

 

説與(せつよ)す 時人(じじん) 我に問ふを休せよ

 

 

英雄 首を囘せば 即ち神仙

 

 

 

 

○やぶちゃんの現代語訳

 

 

竿(さお)半分 春まだ浅き川流れ 粗末な蓑の一つきり 霞の中の小舟の上(へ)

 

 

さても月を 懐に抱きしめて 北斗を枕に 一眠り

 

 

言っておきたいことがある――世の者たちよ この儂(わし)に 訊いてくれるな

 

 

英雄の そっ首 ぐるりと回したら あらら 見る間に 即 神仙――

 

 

 

 

黄庭堅(10451105)は、字は魯直、号は山谷。23歳で進士に登第、地方官を経て国史編修官となったが、王安石(10211086)ら新法派(財政・軍事・農業・教育行政に及ぶ改革派)と対立し、四川の辺境に流謫されて没した。蘇門四学士(張耒(ちょうらい 10541114)・晁補之(ちょうほし 10531110)、秦観(10491100))中の第一、蘇軾は弟子としてではなく友人として接したという。因みに、宋の釈恵洪(しゃくえこう 10711128)はその著「冷斎夜話」(見聞雑記であるが多くは詩話)で黄庭堅の言葉として「然不易其意、而造其語、謂之換骨法。窺入其意、而形容之、謂之奪胎法。」(然るに其の意を易へずして、而して其の語を造る、之れ、換骨法と謂ふ。其の意を窺ひ入れて、而して之を形容す、之れ、奪胎法と謂ふ。)を引く。これこそが、芥川文学の核心を成すところでもある、「換骨奪胎」の語源である。

 

 

 

 

・「シイザア・ボルヂア」Cesare Borgiaチェーザレ・ボルジア(14751507)はイタリアルネサンス期の専制君主。枢機卿からロマーニャ公となり、権謀術数をもって支配領域を拡大したが、父であった教皇Alexander VIアレクサンドロ6世(14311503 Rodrigo Borgiaロドリーゴ・ボルジア)の死とともに失脚した。弟妹の暗殺疑惑やボルジア家秘伝の毒と呼ばれた“Cantalera”「カンタレラ」(かつて屍毒とされたが、現在は一種の細菌毒と考えられている)による政敵の毒殺等、私には芥川の言わんとするようなピカレスクなロマン性よりは、異常なサディスト・殺人嗜好症の変質者の印象が強い。

 

 

・「李逵」黒旋風李逵は「水滸伝」中の梁山泊の豪傑の一人。ウィキの「李逵」によれば、『二挺の板斧(手斧)を得意と』し、そのすばしっこさと荒々しい強さに加えて、『色の黒さからよく「鉄牛」とも呼ば』れた。『怪力で武芸に優れた豪傑であるが、性格は幼児がそのまま大きくなったように純粋であり、物事を深く考えることは無く我慢もきかないため失敗も多い。』『一方で幼児独特の残虐性や善悪の区別の曖昧さもそのまま引き継いだために、人を殺すことをなんとも思っておらず、無関係の人間を巻き添えにしたり女子供を手にかけることも厭わない』ため、なついて尊崇する宋江等からも『叱責を買うことも多い』。ある意味、『破茶滅茶で失敗も多いが憎めない部分もあるトリックスター的存在で、この手の破壊的快男子が喝采を浴びる中国では群を抜く人気を誇っている。しかし日本ではあまりに行動が短絡的で、無節操に人を殺すせいか辟易する読者も多く、好き嫌いがはっきり分かれる人物のようである』とある。その宋江との意外な別れは魅力的であり、『死後も徽宗《きそう》の夢の中に現れ奸臣にいいように騙された事を罵って斬りかかったり』するなど、如何にも芥川好みのプエル・エテルヌス・ピカレスクではある。

 

 

・「燕青」浪子燕青(ろうしえんせい)は「水滸伝」中の梁山泊の豪傑の一人。ウィキの「燕青によれば、渾名の浪子は『伊達者を意味』し、『年齢は登場時で22歳と、時期的に考えて梁山泊でも最年少の部類に入る。体格は小柄で細身、色白で絹のような肌を持った絶世の美青年。全身に見事な刺青を入れている。多芸多才な人物で弩《いしゆみ》の腕は百発百中、小柄ながらも相撲(拳法)の達人であり肉弾戦も強い。また遊びや音楽、舞踊等の芸事、商売人の隠語や各地の方言にまで精通している。頭の回転も非常に速く、ここぞというときに機転を利かせることができる。また、粗暴なことで知られる李逵を制御する事ができ「天才」といっても過言ではない人物である。故に人気は非常に高い』。『梁山泊の朝廷への帰順の最大の功労者となった』が、最後には不思議な蒸発をする。この若衆も、その消え方といい、芥川はしびれたに違いない。

 

 

・「磅礴」は「旁礴」「旁魄」とも書く。混ぜて一つとすること、の意と、広く満ちて限りないさま、の意があるが、ここは渾然一体となって、水滸伝世界に遍く広がっている、というダブルの意を示していよう。]

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2009/07/11

「日暮死」

なればこそ……

考えてみると梅崎春生の「桜島」のあのシーンで、僕は勝手に蜩の声(ね)を聴いていたのだと気がついた――

骸子形の鍾乳石

ロローズ・セラヴィよ、くしゃみをしたな?!

協力者

僕には中国語が読めない。早速、僕の疑問に答えて、中文サイトを読んで教えてくれた知人がいた。早速、修正了。多謝!

僕は現世を呪う

数値で人を評価する奴

真剣な仕事をパロディにして売り物にする奴

おためごかしの言葉で真摯な若者を篭絡する奴

僕はこの一週間で

現世を心から呪うことを覚えたのだ

それで沢山だと思う――

大好きな大滝秀治氏へ――「家庭教師のトライ」のCMに抗議を!

「家庭教師のトライ」の「特捜最前線」の映像を使ったCM、あなたはギャラを貰っていますか。映像の著作権を持っている民放会社が許可を出したのでしょうから、貴方はあんなものがTVで流れていることを、御存知ないかも知れません。しかし、酷過ぎます。犯人の説得に来た母親、犯人に走り寄ろうとする彼女を止める貴方――貴方の、そして彼女の演技を笑い飛ばすCM――私は貴方から抗議して、あの愚劣で不快なパロディCMを放映差し止めを断固要求すべきだと思います。演技者の演技が、あのように使われることは、権利以前の、役者の演技への冒瀆以外の何物でもない。私は役者の端くれ(教師とはそのようなものと心得ています)として断じて許せません。

言っておく。

僕は本気で怒っている――

江南游記 十三 蘇州城内(上)

       十三 蘇州城内(上)

 驢馬は私を乘せるが早いか、一目散に駈け出した。場所は蘇州の城内である。狹い往來の南側には、例の通り招牌(せうはい)が下つてゐる。それだけでも好い加減せせこましい所へ、驢馬も通る、轎子(けうし)も通る、人通りも勿論少くはない、――と云ふ次第だつたから、私は手綱を引張つたなり、一時は思はず眼をつぶつた。これは臆病で何でもない。あの驢馬に跨つた儘、支那の敷石道を駈けて行くのは、容易ならない冒險である。その危なさを經驗したい讀者は、罰金をとられるのを覺悟の上、東京ならば淺草の仲店、大阪ならば心齋橋通りへ全速力の自轉車を驅つて見るが好(よ)い。

 私は島津四十起氏と、今し方(がた)蘇州へ來たばかりである。本來ならば午前中に、上海を立つつもりだつたが、つい朝寢坊をしたものだから、晝の汽車に間に合はなかつた。――それも一汽車乘り遅れたのぢやない。都合三列車乘り遅れたのである。其處へ島田太堂先生なぞは、その度に停車場(ていしやじゃう)へ來られたと云ふのだから、今思ひ出して恥ぢ入らざるを得ない。しかも私を送る爲に、七絶を一首頂いた事は、愈(いよいよ)恐縮すべき思い出である。………

 私の前には意氣揚揚と、島津氏が驢馬を走らせてゐる。尤も島津氏は私のやうに、始めて驢馬に乘つたのぢやない。だから腰の据り方が違ふ。私は島津氏を御手本に、内心は何度も冷や冷やしながら、いろいろ馬術の工夫をした。但しその後落馬したのは、正に御弟子の私ぢやない。御師匠番の島津氏自身ある。

 狹い往來の左右には、――實は最初の何分かは、何があるのか見えなかつた。が、その何分かが過ぎた後には、經師屋(きやうじや)と寶石屋とが何軒(なんげん)もあつた。經師屋の店には山水だの花鳥だの、表装中の畫(ゑ)が並べてある。寶石屋の店には、翡翠や玉(ぎよく)が銀の飾りなぞときらめいている。それがどちらも姑蘇城らしい、優美な心もちを起させた。しかし、あの優美な心もちも驢馬の背中に躍つてゐないと、もつと嬉しかつたのに相違ない。實際一度なぞは縫箔屋(ぬひはくや)の店に、牡丹だの麒麟だのを縫ひとつた、紅い布が壁に吊してある、――それを見ようと思つたら、もう少しで目くらの胡弓彈きと、衝突してしまふ所だつた。

 しかし驢馬を走らせるのも、平な敷石の上ならば、まだしも我慢が出來ない事はない。それが橋を渡るとなると、いづれも例の反り橋だから、上りは尻餠をつきさうになるし、下りも運が惡ければ、驢馬の頭越しにずり落ちかねない。おまけに橋の多い事は、姑蘇三千六百橋、呉門三百九十橋の語が、文字通りほんたうでないにもせよ、満更譃ばかりではなささうである。私はやむを得ず橋へかかると、手綱なぞを控へる代りに、驢馬の鞍へしがみついた。それでも橋を渡る時は、汚い白壁の並んだ間に、細細と蒼い運河の水が、光つてゐるのだけ眼にはいつた。

 そんな道中を續けた後(のち)、やつと我我の辿りついたのは、北寺(ほくじ)の塔の前である。聞けば蘇州七塔の中、登覧する事の出來るのは、僅にこの塔ばかりだと云ふ。塔の前の草原(くさはら)には、籃(かご)を携へた婆さんたちが、二三人摘草に耽つてゐる。この草原は案内記によると、昔の死刑場だと云ふ事だから、草も人血に肥えてゐるのかも知れない。しかし白堊(はくあ)に日の光を浴びた、九層の塔の聳える前に、青服(あをふく)の婆さんが三三五五、静かに草を摘んでゐるのは、頗(すこぶる)悠悠とした眺めである。

 我我は驢馬を飛び下りると、塔の最下層の入り口ヘ行つた。其處には支那の寺男が一人、格子戸の中に控へてゐる。それが二十鏡の銀貨を貰つたら、大きい錠を外した上、おはいりなさいと云ふ手眞似をした。塔の二階へ上る所には、埃臭い暗闇の中に、カンテラが一つともつてゐる。が、梯子を上(のぼ)りかけると、もうその光はさして來ない。その上手(うへて)すりへつかまつたら、この塔へ詣でた善男善女何萬人かの手垢の名殘が、ぺとり冷たいのには辟易した。しかし二階へ登つてしまへば、四方に口もついてゐるし、もう暗いのに困る事なぞはない。塔の内部は九層とも、皆桃色の壁の間に、金色の佛が安置してある。桃色と金と――かう云ふ色の配合は、妙に肉感的な所があるだけ、如何にも現代の南國らしい。私は何だかこの塔の上には、支那料理でもありさうな心もちがした。

 十分の後、我我は塔の頂上から、蘇州の市街を見下してゐた。市街は黒い瓦屋根の間に、鮮かな白壁を組みこんだなり、思つたより廣廣と擴がつてゐる。その向うに霞を帶びた、高い塔があると思つたら、それは孫權が建てたとか云ふ、名高い瑞光寺の古塔だつた。(勿論今のは重修に重修を重ねた塔である。)町の外はどちらを向いても、水光(みづひか)りと緑との見えない所はない。私は欄干によりかかりながら、塔の下に草を食つてゐる、小さい二頭の驢馬を見下した。驢馬の側には驢馬引きの子供も、二人ながら石に腰かけてゐる。

 「おおうい。」

 私は大きい聲を出した。が、彼等はふり向きもしない。高い塔上に立つてゐる事は、何だか寂しいものである。

[やぶちゃん注:蘇州行は西湖から帰った3日後の5月8日。本文にあるような次第のために蘇州到着は夕方となった。芥川は「今し方蘇州へ來たばかり」と言っているが、それでは嘱目は夕景となる。しかし、本描写にはそのような印象は全くない。それどころか次の「十四」では続いて玄妙観に回っている。これは実は翌日の5月9日の午前中の体験と思われる。蘇州滞在は5月10日迄で、同日深夜12時頃、蘇州駅から次の目的地鎮江へと向かった。

・「招牌」看板。

・「轎子」お神輿のような形をした乗物。お神輿の部分に椅子がありそこに深く坐り、前後を8~2人で担いで客を運ぶ。これは日本由来の人力車と違って、中国や朝鮮の古来からある上流階級の乗物である。現代中国でも高山の観光地などで見かけることがある。

・「島津四十起」(しまづよそき 明治4(1871)年~昭和231948)年)。俳人・歌人。明治331900)年から上海に住み、金風社という出版社を経営、大正2(1914)年には「上海案内」「支那在留邦人々名録」等を刊行する傍ら、自由律俳誌『華彫』の編集人を務めたりした。戦後は生地兵庫に帰った。なお、彼が上海の里見病院入院中の芥川の病床で開いた句会での芥川の作が、岩波版新全集第24巻「補遺一」で「芥川氏病床慰藉句会席上」として明らかにされている。

・「島田太堂」本名島田数雄(慶応2(1866)年~昭和3(1928)年)新聞人。太堂は号。当時の日本語新聞『上海日報』の主筆。二松学舎(現・二松学舎大学)卒業後、郷里熊本の済々黌(せいせいこう:現・熊本県立済々黌高等学校)で教員(総監)となる。明治331900)年頃、渡中して井手三郎(文久2(1862)年~昭和6(1931)年:熊本出身の新聞人。)らと上海に同文滬報(こほう)館を設立、中文新聞『亜洲日報』を創刊した。後、井手が創刊した『上海日報』主筆となり、凡そ30年に亙って編集業務に従事した。『上海日報』》は『上海日日新聞』『上海毎日新聞』と並ぶ、上海3大日本語新聞の一つ。

・「姑蘇城」蘇州の別名。春秋時代の呉の都。南西にある姑蘇山から附いた。当時の都の位置は現在の江蘇省呉県、蘇州市の南に当たる。

・「縫箔屋」刺繍と摺箔(すりはく:布に糊や膠(にかわ)等を用いて模様を描いてそれに金箔・銀箔を押しつけたもの。)を組み合わせて布地に装飾模様を施す店屋。

・「姑蘇三千六百橋、呉門三百九十橋」姑蘇の城内には3,600橋(きょう)の橋があり、その周縁部(姑蘇城内を除いた)である呉江蘇省呉県の範囲には更に390橋の橋がある、という意味。

・「北寺」は蘇州駅に近くにある蘇州最古の寺。三国時代の呉の孫権(後注参照)が母への報恩を目的に造立(247250頃)された通玄寺を元とする。唐代に再建されて現在のように報恩寺と名づけられた(筑摩全集類聚版の「報講寺」は誤りと思われる)。諸注が孫権の建立とする北寺塔の元自体は梁時代(502557年頃)のものらしいが、芥川が言うように損壊と再建が繰り返され、ここで芥川が登った現在の八角形九層塔は、南宋時代の1153年の再建になるものである(七層から上は明代、廂と欄干は清代の再建・補修になるもので、正にこれもまた「瑞光寺の古塔」以上に「重修に重修を重ねた」増殖した塔である)。高さ76m、江南一の高さを誇る(以上は主に『中国・蘇州個人旅行 ユニバーサル旅行コンサルジュ「蘇州有情」』の「北寺塔」の記載を参照した)。

・「蘇州七塔」友人が中文サイトを調べてくれたところによると、六朝時代に始まった「七塔」の名数は時代や数え方で何種類もあるらしい。現在の観光名所としての名数では北寺塔・大同塔・瑞光塔・白塔・双塔(×2)・石塔を指すが、芥川が訪れた時代の名数が同じとは必ずしも言い難い。友人は古跡を含めた白塔・孟子堂の東にある塔・虹塔・司獄司署内にある塔・雄塔・雌塔と、それに妙湛寺にあった塔(現存せず)という記載がそれに近いのではないかと教えてくれた。これだと7つを数えることが出来るのだが、しかし、芥川の謂いの北寺塔が含まれない。とりあえず、前者現代の観光版と同じととっておく。

・「孫權」呉の太祖(182252)。後漢末から三国時代にかけて活躍した「三国志」で知られる武将。赤壁の戦いで劉備と同盟し曹操の軍を破り、江東六郡の呉を建国して初代皇帝に即位した。

・「瑞光寺の古塔」蘇州で最も古い城門である盤門(元代の1351年の再建になる)の北側にそびえる瑞光寺塔のこと。禅寺として三国時代の241年に創建された。八角七層の塔は北宋初期のもので、高さ43.2m

・「高い塔上に立つてゐる事は、何だか寂しいものである」私はこのヴィジュアルなエンディングが如何にも印象的で好きである。パースペクティヴに富んだ彼の視線の映像と声が鮮やかに聞こえてくる。そうしてその最後の言葉は芥川龍之介版「第三の男」の哲学である。]

2009/07/10

江南游記 十二 靈隠寺

       十二 靈隠寺

 私は薄汚い新新旅館の二階に、何枚かの畫(ゑ)はがきを認めてゐる。村田君はもう寢てしまつた。暗い窓硝子(まどがらす)の一角には、不思議な位鮮かに、一匹の守宮(やもり)がひつ附いてゐる。それを見るのが嫌だから、私は全然わき見をしずに、ずんずん萬年筆を走らせ續ける。………

 豐島與志雄に。

 今日靈隱寺(れいいんじ)に出かける途中、清漣寺と云ふ寺を覗いたら、大きい長方形の池の中に、眞鯉、緋鯉が澤山ゐた。此處は玉泉魚躍とか號して、五色の鯉に名高い寺だと云ふ。尤も五色と云つた所が、實際は精精三色しかない。池に臨んだ亭の中には、籐椅子や卓子(テエブル)が並べてある。其處に腰をかけてゐると、坊主が茶や菓子を持つて來てくれる。くれると云つても唯ぢやない。つまり坊主は鯉を養つてゐるやうだが、實は鯉に養はれてゐるのだらう。君は染井の釣堀に、夜通し絲を垂れる豪傑だから、この寺の鯉を見さへすれば、釣りたくなるのに違ひない。

 小穴隆一に。

 靈隱寺に詣(いた)る。途中小石橋(せうせきけう)あり。橋下(けうか)の水(みず)佩環(はいくわん)を鳴らすが如し。兩岸皆幽竹。雨を帶ぶるの翠色、殆(ほとんど)人に媚ぶるに似たり。石谷(せきこく)の畫境に近きもの乎(か)。僕大いに詩興を催す。然れども旅嚢(りよのう)「圓機活法」なし。畢(つひ)に一詩なき所以(ゆゑん)。ない方が仕合せかも知れない。

 香取秀眞(かとりほづま)氏に。

 靈隱寺は中中大きい寺です。總門をはいつて少し行つた所に、天竺の靈鷲山(りやうじゆせん)が飛んで來たと云ふ、來峯と號する山があります。(實は山と云ふよりも、大岩と云ふ方が好(よ)いのですが。)其處の石窟(せきくつ)にある佛は、宋元の佛だと云ふ事です。が、僕にはどの佛も、好いのだか惡いのだかわかりません。難有いと思つたのはたつた一つです。尤も石窟の一部分は、連日の雨に水が出てゐましたから、中へはいらずにしまひました。今日も時時雨が來ます。高い杉檜、苔の蒸した石橋(せきけう)、――まあ、この寺の大體の感じは、支那の高野山と思へばよろしい。

 小杉未醒氏に。

 靈隱寺を見ました。杉の幹に栗鼠の駈け上(のぼ)る所なぞは、如何にも山寺らしい閑寂なものです。雨天だつたせゐか、赭(そほ)塗りの大雄寶殿なぞも、甚(はなはだ)落着いた氣がしました。駱賓王(らくひんわう)がゐたと云ふのは、傳説かも知れないが、一應尤らしい氣がします。此處の空氣には何となく、駱賓王じみた所がある。あなたはさう思ひませんか? もう一つ次手に申し上げたいのは、この寺の五百羅漢です。これも勿論御覧だつた事と思ひますが、少くとも二百位は、殆あなたと瓜二つです。冗談でも何でもない、實際あなたにそつくりです。聞けばこの五百羅漢の中には、マルコ・ポオロの像があるさうですが、まさかあなたの遠つ祖(おや)はマルコ・ポオロだつた次第でもないでせう。が、僕は萬里の異域に、あなたと相見(しようけん)する事が出來たやうな、愉快な心もちになりました。

 佐佐木茂索に。

 靈隱寺に詣りし歸途、鳳林寺一名喜鵲寺(きじやくじ)を訪(と)ふ。烏窼(うさう)禪師のゐた寺なり。寺は殆(ほとんど)見るに足らず。唯(ただ)葬ひか何かありしならん、鼠色の袈裟に海老茶の袈裟かけし坊主、何人も經を讀みながら、歩みゐたり。白樂天、烏窼に問ふ。如何か是(これ)佛法の大意(たいい)。烏窼答へて曰、諸惡莫作(まくさ)、衆善奉行。樂天又云ふ。三尺の童子も之を知れり。烏窼笑つて曰、三尺の童子も之を知れど、八十の老翁も行ひ難し。樂天即ち服すと。かう手輕く服された日には、烏窼禪師も氣味が惡かつたらう。寺門の前に支那の子供大勢あり。前綵(ぜんさい)の花を持ちて遊ぶ。雨後夕陽愛すべし。

 手紙を書いてしまつたら、幸ひ守宮も見えなくなつてゐた。明日は杭州を去る豫定である。湧金門(ゆうきんもん)、囘囘堂(くわいくわいだう)、――そんな物を見る暇はないかも知れない。私は多少の寂しさを感じながら、シヤツ一枚になつた後(のち)、ベツドの毛布へもぐりこもうとした。が、思はず飛びのきながら、「こん畜生」と大きい聲を出した。白いべツドの枕の上には、碁石程の蜘蛛がぢつとしてゐる! これだけでも西湖は碌な處ぢやない。

[やぶちゃん注:靈隠寺は雲林寺とも呼ばれ、杭州市街及び西湖の西にある霊隠山の麓に位置する、杭州一の名刹にして中国禅宗十大古刹の一つ。臨済宗。東晋時代、インドから来朝した僧慧理によって開山された(326年)。慧理が杭州の連山を見て「ここは仙霊が宿り隠れている場所である」と言ったことから霊隠寺と名づけられたとする。五代十国時代、杭州が呉越国(907978)の中心であった当時は3000人を越える学僧が修行していたとされ、他に類を見ない大規模な伽藍を誇ったが、相次ぐ火災や戦災、特に太平天国の乱の折に大部分が崩壊し、芥川が当時見たものは清末に再建されたものであった。南側にある石灰岩でできた岩山には沢山の洞窟が掘られ、芥川が「飛来峰の磨崖仏」と呼んでいる五代十国から元代にかけて彫られた338体の石仏が安置されている。特に五代十国の末期の951年に造立された青林洞西岩壁上座像が著名である。但し、私の感触ではここで芥川が「難有いと思つたのはたつた一つ」と言うのは、これではないように思われる。なお、本篇は複数の手紙文を組み合わせた書簡体形式であるが、実際には類似した各人宛の手紙は現在残されておらず、これは書簡体を意識した創作と思われる。

・「豐島與志雄」仏文学者・作家(明治231890)年~昭和301955)年)。東京帝国大学仏文科在学中の大正31914)年2月に芥川龍之介らと第3次『新思潮』を刊行、その創刊号に処女小説「湖水と彼等」を寄稿している。ユーゴーの「レ・ミゼラブル」(191819年新潮社刊)やヘッセ「ジャン・クリストフ」(1921年新潮社刊)等の翻訳で知られる。芥川より2歳年上。

・「清漣寺」神田由美子氏の岩波版新全集注解では『現在の玉泉寺』とあるが、ネット上の記載を見ると、現在は寺としては機能していない模様で、杭州植物園の一角として単に「玉泉」と呼ばれているようであり、池のある庭園施設のように紹介されている。玉泉は西湖三大名泉の一つで、今は現地名産の茶をこの玉泉で淹れたものが人気であるとある。

・「玉泉魚躍」「チャイナネット」200271日の記事『中国でよく知られた魚を観る観光スポット(2) 杭州の「玉泉魚躍」』を以下に全文引用する。『玉泉は西湖の三大名泉の1つであり、いままでずっと魚の観賞で有名になり、玉泉は泉の水が緑の玉のようであり、一年中涸れず、四角形の池に集まり、池の中の百尾はいると思われるアオウオが、すぐ後に続いて泳いでおり、群れをなして東へ泳いだり西へ泳いだりし、沈んだり浮かんだりし、和らいだ気持ちで悠々自適であるように見える。池のほとりのあずまやの廊下には明代の著名な書家董其昌の題字である「魚楽図」が掲げられており、池のほとりにホールがあり、大理石の欄干で囲まれている。観光客はお茶をたしなみながら、手すりによりかかって魚を観、「魚が楽しくて人も楽しく、泉が清らかで心がさらに清らかである」という面白みを深く体得するのである。』。文中の「アオウオ」は条鰭綱骨鰾上目コイ目コイ科ソウギョ亜科アオウオMylopharyngodon piceus。中国原産の淡水魚で中国四大家魚(アオウオ・ソウギョ・コクレン・ハクレン及びこれらの魚を同一の池で飼うことによる理想的食物連鎖養魚システムの名称でもある)の一。成魚は2mに及ぶ。コイに似た形態を有するが、ヒゲはない。口はやや下方に伸びており、ベントス食に適す。体色がコイに比べて青みがかっていることからの名称であるが、実際には黒い印象である(以上は主にウィキの「アオウオ」の記載によった)。「董其昌」(とうきしょう 15551636)は明末の文人画家・書家。その書を後の第4代皇帝康煕帝(16541722)が敬愛したため、清朝正統の書ともされた。南宗画を興隆させ、後世、芸林百世の師と呼称されるに至った(以上は主にウィキの「董其昌」の記載によった)。

・「染井」は本郷区染井、現在の東京都豊島区駒込。神田由美子氏の岩波新全集注解によれば、豊島与志雄は大正6(1917)年9月より『本郷区駒込千駄木町に住んでいた』とある。彼の釣好きは彼の諸作品によく現れ、小品「鯉」では夜間に帝大の池に鯉をこっそり釣りに行くさまが描かれている(青空文庫「鯉)。因みにこの染井にある染井霊園を抜けたすぐの豊島区巣鴨にある慈眼寺(日蓮宗)は、芥川龍之介の墓所でもある。

・「小穴隆一」(おあな りゅういち、18941966)洋画家。芥川龍之介無二の盟友。芥川の単行本の装丁も手がけ、芥川が自死の意志を最初に告げた人物でもある。芥川より2歳年下。

・「橋下の水佩環を鳴らすが如し」「佩環」は佩玉で、帯び玉、貴人が腰に帯びる飾りの玉の輪を言う。水の流れの音(ね)を、それらが触れ合う音に比した。私はここを「橋下の水珮と爲す」として李賀の「蘇小小墓」を思い出してはくれなかった芥川龍之介を深く恨むものである(「七 西湖(二)」注参照)。唐の柳宗元の「至小丘西小石潭記」に「如鳴佩環」とあり、田山花袋の「山水小記」(大正7(1918)年富田文陽堂刊)の「日光」の中の鬼怒川を描写する一節にも「水の鳴ること佩環の如く」とある。

・「石谷」王翬(おうき 16321717)清初の画家。石谷は字。南宋・北宋の画風を統一して清の新たな正統的様式を完成、世に画聖と称された。

・『「圓機活法」』王世貞校正・楊淙(ようそう)参閲になる明代の作詩用辞書。24巻。天文・時令・節序・地理などの44門を更に細目化し、それぞれについて叙事・事実・品題・大意等を解説、その下に故事成句等を配す。「円機詩韻活法全書」等、異名多し。神田由美子氏の岩波版新全集注解に芥川の蔵書の中には1884年刊本があるとする。これは明治17年山中出版舎刊行になる石川鴻斎訂正版の和本であろう。和訳本には「詩学筌蹄」「和語円機活法」等がある。

・「香取秀眞」鋳金工芸師(明治7(1874)年~昭和291954)年)。東京美術学校(現・東京芸術大学)教授・帝室博物館(現・東京国立博物館)技芸員・文化勲章叙勲。アララギ派の歌人としても知られ、芥川龍之介の隣人にして友人であった。芥川より18歳年上。

・「靈鷲山」インドのビハール州の中央部に位置する山。釈迦在世時はマガダ国の首都王舎城の東北、尼連禅河(にれんぜんが)の側であった。釈迦はここで8年の間、無量寿経や法華経を説いたとされる。一説にその頂上が平らになっており、それがハゲワシの形をしているからという(ウィキの「霊鷲山による)。

・「小杉未醒」小杉放庵(こすぎほうあん、明治141881)年~昭和391964)年)のこと。洋画家。本名国太郎、未醒は別号。「帰去来」等の随筆や唐詩人についての著作もあり、漢詩などもよくした。『芥川の中国旅行に際し、自身の中国旅行の画文集「支那画観」(一九一八)を贈った。芥川は中国旅行出発前には、小杉未醒論(「外観と肚の底」中央美術)を発表』している(以上の引用は神田由美子氏の岩波版新全集注解から)。その「外観と肚の底」の中で芥川は彼の風貌を、『小杉氏は一見した所、如何にも』『勇壯な面目を具へてゐる。僕も實際初對面の時には、突兀(とつこつ)たる氏の風采の中に、未醒山人と名乘るよりも寧ろ未醒蛮民と号しそうな辺方瘴煙の氣を感じたものである。が、その後(ご)氏に接して見ると』『肚(はら)の底は見かけよりも、遙に細い神經のある、優しい人のやうな氣がして來た』と記している。五百羅漢を髣髴とさせる描写ではある。芥川より11歳年上。

・「赭塗り」赤の顔料を塗った壁の意。「赭」は本来は「赭土」(そおに)で、赤色の土・赤土を指し、上代には顔料等に用いた。

・「大雄寶殿」霊隠寺の本殿。ここで芥川が見たのは民国初年に再建されたもの。後、解放直後に倒壊し、内部の仏像も壊れた。現在のものは1956年に再建されたもの。

・「駱賓王」(640?684?)は初唐の著名な詩人。「初唐四傑」の一人。性格は傲慢にして剛直。官僚となって武則天(則天武后 623?705)に対し、数々の上疏をしたが浙江の臨海丞に左遷された。出世の望みを失い、官職を棄てて去った後、684年に名将李勣(りせき)の孫であった李敬業が武則天に謀叛を起こすと、その一味として武則天を誹謗する檄文を起草、その罪を天下に伝えんとした。武則天はその檄を手に入れると、部下に読ませた。「蛾眉敢えて人に譲らず 孤眉偏に能く主を惑わす」の辺りまでは笑っていたが、「一抔土未乾、六尺孤安在」(一抔の土いまだ乾かざるに、六尺の孤いずくにか在る:武則天に殺された王族の墓の土は未だに血の湿りをもって乾かない――ああその遺児たちはいったいどこでどうしているのだろう。)の句に至って、愕然としてその作者の名を問い、かの駱賓王であることを知ると、逆に「このような才人を流謫不遇の徒としたのは宰相の過ちである」と言ったという。敬業の乱平定後は、行方不明となったが(一説には誅殺されたとする)、ここ霊隠寺に隠れ住んでいたという伝説もある。宋子問に「靈隠寺」と題する詩があるが、これはその駱賓王隠棲伝承に因む曰く附きの詩である。石九鼎氏の「千秋詩話 16 駱賓王」をお読みあれかし。

・「この五百羅漢の中には、マルコ・ポオロの像がある」本邦の盛岡にある報恩寺の五百羅漢にはマルコ・ポーロやフビライ・ハンの像が入っているらしいというので調べてみると、第百番善注尊者と第百一番法蔵永劫尊者の像が中国で1840年頃からマルコ・ポーロ像、ジンギスカンの孫フビライ像といわれるようになったという記事を発見した(「盛岡歴史探究館」の「羅漢曼荼羅」内)因みにMarco Poloマルコ・ポーロ(12541324)は杭州を「世界で最も美しく華やかな土地」と讃美している。

・「佐佐木茂索」(明治271894)年~昭和411966)年)は小説家・出版人。龍門の四天王(南部修太郎・滝井孝作・小島政二郎)の一人。後、「文芸春秋」編集長を経て、昭和211946)年、文芸春秋社社長(当時の名称は文芸春秋新社)となった。芥川より2歳年下。

・「烏窼禪師」は鳥窠道林(ちょうかどうりん 741824)のこと。中唐の禅僧。円修禅師と諡(おくりな)された。径山道欽(どうきん)の法灯を受く。後、杭州の秦望山に隠棲し、鳥の巣のように松の枝葉が茂った庵に住んだことから鳥窠禅師・鵲巣(じやくそう)和尚と呼ばれた。白居易との交流は極めて著名で、ここで芥川が綴るエピソードは人口に膾炙する禅問答・公案である。大意を示すと、ある時、杭州太守であった白居易が鳥窠禅師に仏法の真意とはと尋ねたところ、禅師は「諸惡作(な)すこと莫(な)かれ、衆善(しゆぜん)奉行」(ぶぎやう)せよ」(悪いことはするな、ただひたすらに良いことをせよ)という「七仏通誡偈」(しちぶつつうかいげ)の一節をもって答えた。それを聞いた白居易がうっかり「それは三つの童子も知るところですね」と答えたところが、禅師は笑って、「三つの童子でも知っているが、八十の老人であってもそれをまことに行なうことは難しい」と言った。それを聞いた白居易は即座に悟って、西湖孤山に竹閣(「六 西湖(一)」の「孤山寺、今の広化寺」の注参照。現在の広化寺)を建て、そこに鳥窠禅師を招いて朝夕に参禅したという。

・「剪綵」綾絹を花鳥形に切りぬいたもの。又は色糸で作った造花。「綵」は繊維や布が彩られたさま。人形(ひとがた)た花鳥に切り抜いたものは古来からあり、玩具や飾り、天井装飾などに用いられた。

・「湧金門」西湖の四水門の一。西湖東岸にあるが、芥川がこの地名を出したのは「水滸伝」絡みと推測する。その第四一話「魂帰湧金門」で、南軍への使者に立った水軍の頭、張順が兄弟たちの見守る中、身をもって矢襖(やぶすま)となった場所が、ここである。

・「回回堂」筑摩全種類聚は未詳、岩波版は注に挙げてさえいないが、これは杭州中山中路に現存する武林真教寺、通称で鳳凰寺と呼ばれるイスラム教のモスクの別称である。唐代に建立され、元初期にペルシア人によって再建された。建物の外観が羽を広げた鳳凰の姿に似ていることから鳳鳳寺と呼ばれることが多い。礼拝堂である無梁架はメッカに向かって建てられており、中央の壁には1451年に刻まれたアラビア文字のコーラン(中国語「古蘭經」)が嵌め込まれている。中国東南沿海域の4大イスラム寺院の一つ(以上は複数の中文サイトを参照にした)。

・「これだけでも西湖は碌な處ぢやない」最後に、西湖に禍々しい守宮と蜘蛛を配して、生理的な嫌悪の対象と化した西湖に唾棄する。]

2009/07/09

感懐

君は僕が嫌いだね

僕にはそれがよく分かる

しかし

――それでも僕が君を好きなことを

君は分かっていない――

それでも

いいんだ

だって僕は 君は誰かを 総ての人に繋がる「誰か」を 愛していることを

僕は知っているから――

随分 御機嫌よう

またね!

「先生も褌(ふんどし)ですか?」

先日、国語科の歓送迎会があったが、仕事が遅くなって、同僚の女教師と一緒に会場に向かうために校門の前でタクシーを待っていた。

彼女はまだ20代である。後で知ったのだが、僕とちょうど二周り違うのであった。

タクシーはなかなか来ない。待っている僕の左側の少し後ろで彼女は楚々として佇んでいた。

私が左肩にかけたザックの下方には、母がくれた私の干支である縮緬細工の鶏のストラップがぶら下がっている。

彼女はそれをくりっとした澄んだ眼で見下ろしながら――それは丁度私の臀部あたりにぶら下がっていた――徐ろに僕に訊いたのであった。

「先生も褌(ふんどし)ですか?」

……僕は思わず反射的に応えてしまった……

「え! 貴女(あなた)、褌はいてるの!?」

……僕は二年前の暮、ベトナムに旅した際、航空性中耳炎のために左耳の聴力が低下しているのである。勿論、彼女は

「先生も酉年(とりどし)ですか?」

と訊いたのであった……

――しかし僕はそれが下着の線が出ないことから外國の女性の間で流行(はや)つてゐるといふことについては、自分もなにかそんなことを、婦人雜誌か新聞かで讀んでゐたやうな氣がした。――

*   *   *

……こんな馬鹿なことを綴っているうち、丁度10分前、4:34に小鳥と鴉の声に交って、あの……彼岸の声が……蜩が、鳴き出していた……白んでくる空を背景に、僕の左目の金魚鉢の中のメダカも、蜩の音(ね)に元気よく泳ぎまわり始めている……

江南游記 十一 西湖(六)

       十一 西湖(六)

 その案内記Hangchow Itinerariesによると、今を距(さ)る三百七十年餘りの昔、この西湖のほとりには、屢(しばしば)倭寇が攻めこんで來た。處が彼等海賊には、雷峰塔が邪魔になつて仕方がない。何故かと云ふと支那の官憲は、塔上に物見を立たせてある。だから倭冠の一進一退は、杭州城へ近(ちかづ)かない内に、ちやんと支那側に知られてしまふ。そこで或時日本の海賊は、雷峰塔のまはりに火を放つて、三日三晩焼き打ちを續けた。かかるが故に雷峰塔は、赤煉瓦の製造が始まらない以前、早くも赤煉瓦の塔に變つたのである。――ざつとかう云ふ次第だが、眞僞は勿論保證しない。

 雷峰塔を少時(しばらく)仰いだ後(のち)、我我は新新旅館の方へ、――今日は昨日よりも熱が低い。喉も燒いたのが利いたやうである。この分ならば二三日中に、机の前へ坐れるかも知れない。しかし紀行を續ける事は依然として厄介な心もちがする。その心もちを押して書くのだから、どうせ碌な物は出來さうもない。まあ、一日に一囘だけ、纏りがつけば本望である。そこでもう一軒度繰り返すが、――雷峰塔を少時仰いだ後、我我は新新旅館の方に、徐(おもむろ)に畫舫をめぐらせた。

 西湖は今我我の前に、東岸一體を開いてゐる。向うに、――新新旅館の上に、緑をなすつた石山は、葛洪(かつこう)煉丹の地だとか云ふ、評判の高い葛嶺であらう。葛嶺の頂には廟が一つ、丁度飛び立たうとする小鳥のやうに、軒先の甍を反らせてゐる。その右に續ゐた山、――西湖全圖によると寶石山には、華奢な保俶塔(ほしゆくたふ)の姿も見える。この塔が細細と突き立つた容子は、老衲(ろうのう)の如き雷峰塔に比すると、正に古人の云つた通り、美人の如きものがあるかも知れない。しかも葛嶺は曇つてゐるが、寶石山の山頂の草には、鮮やか日の光が流れてゐる。これらの山山の裾あたりには、我我の泊つたホテルを始め、赤煉瓦の建物(たてもの)もないではない。が、いづれも遠いせいか、格別目に立やないのは幸福である。唯(ただ)山山のなだれた所に、白い一線の連つてゐるのは、今朝過つた白堤に違ひない。白堤が左に盡きた所には、樓外樓の旗こそ見えないにせよ、新緑の孤山が横はつてゐる。かう云ふ景色は何と云つても、美しい事だけは否み難い。殊に今は點點と菱の葉を浮べた水の面(おもて)も、底の淺いのを瞞着すべく、鈍い銀色に輝いてゐる。

 「今度は何處に行くのです?」

 「放鶴亭に行つて見ませう。林和靖(りんわせい)のゐた所だから。」

 「放鶴亭と云ふと?」

 「孤山ですよ。新新旅館のすぐ前の所――、」

 その放鶴亭に上陸したのは、二十分餘り後の事だつた。畫舫は今度も其處へ來るのには、錦帶橋をくぐつた上、ずつと圍はれた、所謂裡湖(りこ)を横(よこぎ)つたのである。我我は梅の青葉の中に、放鶴亭を見物したり、もう一つ上に側立つた、これも林逋(りんぽ)の巣居閣へ行つたり、その又後(うしろ)に立てられた、やはり大きな土饅頭の「宋林處士墓」なるものを見たり、いろいろその邊をうろつき廻つた。林逋は高人(かうじん)だつたに違ひない。が、日本の小説家程、貧乏もしてゐなかつたのに違ひない。林逋七世の孫(そん)、洪(こう)の著した「山家清事」(さんかせいじ)によると、洪の隠遁生活は「舍三寢一讀書一治藥一。後舍二一儲酒穀列農具山具一安僕役庖※稱是。童一婢一園丁二犬十二足驢四蹄牛四角」だつたと云ふ。和靖先生も似たやうなものだとすれば、月五十圓の借家にゐるより、餘程豐だつたと云はなければならぬ。私にしても箱根あたりへ、母屋が一軒に物置が一軒――書齋、寢室、女中部屋等、すつかり揃つたのを建てて貰つた上、書生一人、女中一人、下男二人を使つて好ければ、林處士の眞似などはむづかしくもない。水邊(すゐへん)の梅花に鶴を舞はせるのも、鶴さへ承知すれば訣無しである。しかし私はさうなつても、「犬十二足驢四蹄牛四角」は使ひ途がない。これはそつくり君に上げるから、どうとも勝手にしてくれ給へ。――私は放鶴亭一見をすませた後、岸の畫舫へ歸りながら、こんな理屈を發表した。岸には柳絮(りうぢよ)の飛び交ふ間(あいだ)に、白の着物へ黑のスカアトをはいた、支那の女學生が二三十人、ぞろぞろ西冷橋の方へ歩いてゐる。

[やぶちゃん字注:「※」=「广」+(中)に「甾」。]

[やぶちゃん注:

・「Hangchow Itineraries」“Hangchow ”は杭州“Hángzhōu”、“Itinerary”は旅行案内書。「杭州旅行案内」の意。

・「今日は昨日よりも熱が低い。……」前段「十 西湖(五)」を受ける。同段の「私は現在床の上に、八度六分の熱を出してゐる」及び続く「友だちは壯だなぞと冷かしもする」の注を参照されたい。以下、「……我我は新新旅館の方に」迄、実に175字。私が大阪毎日の薄田泣菫なら確実に苦虫を潰すね。

・「葛洪煉丹」葛洪(283343)は、西晋・東晋期の道士・仙人。遊仙思想と煉丹術の書「抱朴子」の著者として有名。他にも「神仙伝」「隠逸伝」等、神仙関連の著書多数。尸解仙の呪法(自身の死体から抜け出て仙人となること。登仙の方法としては下位の呪法)を修得していたとされ、最後にはそれで登仙したとされる。「錬丹」は煉丹とも書き、中国の道士の呪法の一つで、不老不死となれる霊薬「丹」を製造する技術を言う。古来、辰砂などを原材料とした硫化水銀(HgS)を原料として製造出来るとされ、盛んに服用もされた。漢方では精神安定効果を認められており、不眠・眩暈・癲癇などに用いるとある。主に用いられた硫化第二水銀(HgS())は急性毒性はないとされるが、多量の長期服用による水銀中毒で多くの犠牲者や障害者をも生み出すこととなった。

・「葛嶺」現在の杭州市の西部西湖北岸、白堤に対峙して見下ろす位置にある標高166mの山。葛洪を開祖として祀る道教寺院抱朴道院が山腹にある。

・「寶石山」葛嶺の東に位置する山。標高約78m(約100mという記載もあるが、神田由美子氏の岩波新全集注解の200mは何かの間違いであろう)。西湖や杭州市街を見下ろす景勝地である。山名の由来は、山の鉱物組成が凝灰岩と流紋岩を主としているため、陽光が射すと宝玉の如く輝くことからという。

・「保俶塔」宝石山にある杭州のシンボルとも言える層塔。北宋の開宝年間、970年(異説あり)の創建といわれる。神田由美子氏の岩波新全集注解では、986年、都へ登った越王銭弘俶の無事を祈って宰相呉延爽が建てられたと記し、芥川が訪れた『当時は九層の塔』とあるが、ネット上には中文サイトも含め、呉越王銭弘俶により銭塘江の水害を鎮めるために建てられたという記載も多く見受けられる。現在は六面七層で、高さ45.3m(邦人のブログにはには59.89mとの記載も見られる)。日中多くのサイトを見るに、芥川の華奢で女性的な優美な塔という保俶塔のイメージは、現代中国でも一般的な印象であるようだ。

・「老衲」年老いた僧のこと。

・「放鶴亭」林逋の旧居。神田由美子氏の岩波新全集注解によれば、『孤山の北麓の大樹の茂みの中にあ』り、林逋が舟で遊行に出かけた最中に来客があった際には、留守居の童子が籠に伏せてあった鶴を放って林逋に合図させたことからこの名が付いたという。如何にも人界仙境の趣きではないか。

・「林和靖」林逋(9671028)。北宋初期の詩人。和靖先生は詩人として敬愛した第4代皇帝仁宗(10101063:この縁は父第3代皇帝真宗の時から)が諡(いみな)として与えたもの。ウィキの「林逋」によれば、『西湖の孤山に盧を結び杭州の街に足を踏み入れぬこと20年におよんだ』とし、生涯仕官せず、独身を通して、『庭に梅を植え鶴を飼い、「梅が妻、鶴が子」といって笑っていた。』『林逋の詩には奇句が多』いが、『平生は詩ができてもそのたびに棄てていたので、残存の詩は少ない』(一部誤植を正した)とある。当該ウィキの最後にその詩が載るが、確かに一筋繩では読みこなせない佶屈聱牙な詩である。ここに三野豊氏の美事な訳がある。

・「錦帶橋」は白堤のやや孤山寄りの中央付近に架橋している橋。日本の岩国の錦帯橋はこれがモデル。

・「裡湖」裏湖。西湖では堤の内(陸側)の湖を言う。ここは白堤に仕切られた西湖の北側の細長い湖の名。現在は北里湖と呼ぶ。

・「林逋の巣居閣」筑摩全集類聚版脚注には、『放鶴亭の右にある』とする。元代には西湖十景とは別に「銭塘十景」が選ばれているが、その中に「巣居雪閣」とある。ここの雪景色のことを指すか。

・『「宋林處士墓」』「處士」は在野にあって若しくは隠棲して仕官しない人のこと。これは林逋の墓であるが、彼は生前に墓を作り、「茂陵他日求遺稿 猶喜曾無封禪書」(茂陵他日遺稿を求むとも 猶ほ喜ぶ曾て封禪(ほうぜん)の書無きを)と詠んだと言う。散文翻案をすると「武帝の使者が、茂陵に隠居していた司馬相如を尋ねた時には相如は既にあの世行き、優れた遺稿を救わんとするもとっくに散逸、しかし卓文君が差し出したのは遺言の秘書「封禅の文」だったんだと――いや! 嬉しいね! 私は彼のように公(おおやけ)に気を使って封禅の書なんぞを遺書として用意をしなくってよいからね」といった感じか。これは国政に飽くまで無関心であることをあの世まで嘯く林逋の痛快な一言と言えよう。本詩は前漢の文人政治家司馬相如(B.C.179B.C.117) の故事のパロディである。司馬相如を高く評価していた武帝(B.C.156B.C.87)は絶えていた封禅の儀(帝王が天地に王の即位を闡明し、また天下太平を感謝祈念する秘儀)をB.C.110年に初めて泰山行っているが、それには司馬相如が晩年隠棲した茂陵で、武帝への忠心から記したところの遺書封禅の書一巻が役立ったのであった。因みに茂陵(現・陝西省咸陽市)は後に武帝自身の墳墓の地ともなった地で、因縁に満ちている。

・「高人」「かうにん(こうにん)」とも。身分の高い人という意味ではなく、ここでは人品ともに高潔な志しの高い人、更に、世俗に汚されていない人という意味も付与されている。

・『洪の著した「山家清事」』ネット上のいろいろな記載を勘案すると、南宋末の文人にして林逋の子孫であった林洪が記した、山林隠士の生活マニュアル本のようなものらしい。

・『「舍三寢一讀書一治藥一。後舍二一儲酒穀列農具山具一安僕役庖※稱是。童一婢一園丁二犬十二足驢四蹄牛四角」』[「※」=「广」+(中)に「甾」。]書き下そう。「舍三、寢一(いつ)、讀書一治(いちぢ)、藥一(いつ)。後舍二、一は酒穀を儲(たくは)へ、農具・山具を列し、一(いつ)は僕役を安んじ、庖※(はうし)是れに稱(かな)ふ。童一、婢一、園丁二、犬十二足、驢四蹄、牛四角。」か。訳せば「主な棟は3棟で、寝室1室・書斎1室・療治に用いる特別室1室。更に主屋の後ろに2棟あって、1棟には酒や穀物を貯蔵し、更に農機具や山仕事の道具の置き場所とし、もう1棟には下僕を住まわせて、そこをまた私の家の厨房として仮称している。ボーイ1名・女中1名・園丁2名・犬12匹・驢馬4頭・牛四頭。」か。とんでもないゼイタクな隠棲ではある。

・『私はさうなつても、「犬十二足驢四蹄牛四角」は使ひ途がない。これはそつくり君に上げるから、どうとも勝手にしてくれ給へ。』とあるが、驢馬と牛なら我慢出来ようが、特に芥川は犬が大の苦手であったことを申し添えておこう。

・「柳絮」白い綿毛のついた柳の種子を言うが、一般に漢詩では、それが春の風に飛び漂うことを言うことが多い。]

昔の彼女の夢

長い髪の彼女はあの時のままに草木一本ない荒蕪地に佇んでいる

「あなたがいなくなってここもすっかり荒れ果ててしまいました」

と言いながらあの時と同じように手にした乗車券の数字を黙って眺めていた

――四則演算して「1」にするんです――

昔、彼女がそう言ったように……

……そうかリセットするんだね……

……甘く苦かった

――ツゥ!――

寝違えた首筋に痛みを覚えて僕は眼を醒ました

窓を開けていた

頭の上で裏山の森を抜けてゆく風の音が聞こえる……これは僕の山の音……

隣りの家の茶室の方から風鈴の音が聞こえる……少し残念なのは安っぽいガラス製の音……

もうこのまま起きていよう……そうして……そうして蜩の声(ね)を待っていよう……この左目のメダカと一緒に……

2009/07/08

また命拾いした今日の今、聴いた――ああ――いいな――彼岸の声だ――

江南游記 十 西湖(五)

       十 西湖(五)

 桟橋を上ると門がある。門の中には水の澄んだ池に、支那の八つ橋がかかつてゐる。兪樓の廊が曲曲廊なら、これは曲曲橋だと評しても好(よ)い。その橋の處處に、氣の利いた亭(ちん)が出來てゐる。それを向うへ渡り切ると、眩(まばゆ)い西湖の水の上に、三つの石塔のあるのが見えた。梵字を刻んだ丸石に、笠を着せた石塔だから、石燈籠と大した違ひはない。我我は其處の亭の中に、この石塔を眺めながら、支那の卷煙草を二本吸つた。それから、――露西亞のソヴイエツト政府の話はしたが、蘇東披の話はしなかつたやうである。八つ橋をもとへ渡つて來ると、若い四五人の支那人に遇つた。彼等は皆めかした上に、胡弓や笛を携へてゐる。何でも長安の公子とか號したのは、かう云ふ連中だつたのに違ひない。水色や緑の大掛兒(タアクワル)、指環にきらめいたいろいろの寶石、――私は彼等とすれ違ひながら、一一その容子を物色した。すると最後に通りすがつた男は、殆(ほとんど)小宮豐隆氏と、寸分も違はない顏してゐた。その後京漠鐵道の列車ボオイにも、宇野浩二にそつくりの男がゐたし、北京の芝居の出方にも、南部修太郎に似た男がゐた所を見ると、一體日本(につぽん)の文學者には、支那人に似たのが多いのかも知れない。しかしこの時はまだ始めだつたから、他人の空似とは云ふものの、きつと小宮氏の先祖の一人は――なぞと、失禮な事も想像した。

 ――こんな事を書いていると、至極天下泰平だが、私は現在床の上に、八度六分の熱を出してゐる。頭も勿論、ふらふらすれば、喉も痛んで仕方がない。が、私の枕もとには、二通の電報がひろげてある。文面はどちらも大差はない。要するに原稿の催促である。醫者は安靜に寢てゐろと云ふ。友だちは壯(さかん)だなぞと冷かしもする。しかし前後の行きがかり上、愈(いよいよ)高熱にでもならない限り、兎に角紀行を續けなければならぬ。以下何囘かの江南游記は、かう云ふ事情の下に書かれるのである。芥川龍之介と云ひさへすれば、閑人のやうに思つてゐる讀者は、速に謬見(べうけん)を改めるが好(よ)い。

 我我は退省庵(たいしやうあん)を一見した後(のち)、さつきの棧橋へ歸つて來た。棧橋には支那人の爺さんが一人、魚藍(びく)を前に坐りながら、畫舫の船頭と話してゐる。その魚藍を覗いて見たら、蛇が一ぱいはひつてゐた。聞けば日本の放し龜同樣、この爺さんは錢を貰ふと、一匹づつ蛇を放すのだと云ふ。如何に功德になると云つても、わざわざ蛇を逃がす爲に、金を出す日本人は一人もゐまい。

 畫舫は又我我を乘せると、島の岸に沿ひながら、雷峰塔の方へ進んで行つた。岸には蘆の茂つた中に、河柳が何本も戰(そよ)いでゐる。その水面へ這つた枝に、何か蠢いてゐると思つたら、それは皆大きい泥龜だつた。いや、龜ばかりならば驚きはしない。ちよいと上の枝の股には、代赭色に脂切つた蛇が一匹、半身(はんしん)は柳に卷ついたなり、半身は空中にのたくつてゐる。私は背中が痒いやうな氣がした。勿論さう云ふ心もちは、愉快なものでも何でもない。

 その内に島の角を繞(めぐ)ると、水を隔てた新緑の岸には、突兀(とつこつ)と雷峰塔の姿が見えた。まづ目前に仰いだ感じは、花屋敷の近處(きんじよ)に佇んだ儘、十二階に對したのと選ぶ所はない。唯この塔は赤煉瓦の壁へ、一面に蔦(つたかつら)をからませたばかりか、雜木(ざふき)なぞも頂には靡(なび)かせてゐる。それが日の光に煙りながら、幻のやうに聳え立つた所は何と云つても雄大である。赤煉瓦もかうなれば不足はない。赤煉瓦と云へば案内記には、何故に雷峰塔は赤煉瓦であるか、その理由を説明した、尤らしい話が載せてある。但しこの案内記は、池田氏の著した本ではない。新新旅館に賣つてゐた、英文の西湖案内記である。私はそれを書いた後、ペンを捨てるつもりだつたが、かう頭がふらついては、到底もう一枚と書く勇氣はない。跡は又明日(あした)でも、――いや、さう云ふ斷りを書くのも面倒である。肺炎にでもなられた日には、助からない。

[やぶちゃん注:描写は前段最後に続いて彭玉麟の故居退省庵から始まる。

・「支那の八つ橋」「六 西湖(一)」で芥川は兪樓にあった曲折した廊下(階段)を中国風に洒落て「曲曲廊」と言ったのを受けて、池上に架かった雷(いかずち)型の丁度本邦の八橋の如き曲折した橋(中国では池庭に一般的)をこう言った。

・「露西亞のソヴイエツト政府の話はしたが、蘇東披の話はしなかつたやうである」ロシア語表記“Совет”(サヴィェート ラテン語表記“Soviet”)は本来はロシア革命時の社会主義者を中心とした労働者・農民・兵士の評議会を言う。このソヴィエトは形の上では1917年の第二次ロシア革命(二月革命)の際に結成されたものを指すが、事実上、既にニコライ2世を処刑(1918年)し、本篇公開のその年の1922年に一党独裁のソビエト社会主義共和国連邦が成立することになっていたから、ここは勿論、国家としてのソヴィエト又はソビエト政府の謂いである。ここにはさり気ない形で、中国の革命運動に連動してくる時代の流れを敏感に感じ取っている鋭いジャーナリスト芥川龍之介自身の姿が描かれていると言ってよい。それを彼は「蘇東披の話はしなかつた」という切り替えしで、悟られないようにしているのであるが、この切り替えし自体は、正に「七 西湖(二)」で芥川が表明した西湖への反感、引いては中国に対する失望の皮肉な表現に他ならない。芥川にとって『西湖は思つた程美しく』なく、その自然は一応は『繊細な感じに富』んで見え、蘇軾に代表される『支那の文人墨客には、或は其處が好いのかも知れない』が、『繊細な自然に慣れてゐる』日本人にとっては、再顧すればそれは『不滿になつてしま』わざるを得ない程度に退屈なものであり(それ故に西湖を眼前にしながら「露西亞のソヴイエツト政府の話」をするばかりなのである)、今もここで彼の嘱目に景に点々とする『俗惡恐るべき煉瓦建の爲に』、西湖は最早瀕死に至る致命的な疾いを患っている。『いや、獨り西湖ばかりぢやない。この二色の煉瓦建は殆大きい南京蟲のやうに、古蹟と云はず名勝と云はず江南一帶に蔓つた結果、悉風景を破壞し』尽している、だから『私はこんな泥池を見ているよりは、日本の東京に住んでゐたい』のである、というのである。芥川はよくこうした言わずもがなな皮肉を畳み掛けることがある。その意外な粘着的厭らしさは、私には数少ないエレガンス龍之介の瑕疵に当たるもの、と思うところではある。

・「公子」身分の高い家庭や貴族の子息。

・「大掛兒(タアクワル)」“tàiguàér”男物の単衣(ひとえ)の裾が足首まである長い中国服のこと。「上海游記」の「十一 章炳麟氏」の筑摩版脚注では、「掛」は「褂」が正しいとある。

・「京漢鐵道」芥川が後日、漢口を列車で出発し北京に向かった際に乗った鉄道路線(途中、鄭州から洛陽に行っているが鄭州から洛陽の部分は隴海線と言って京漢線ではない)。現在、北京と広州を結んでいる南北縦貫鉄道(京広鉄道)2,324kmの北半分、北京から漢口(現・武漢市)間の全長約1,220kmの鉄道路線の名称。1897年に清がベルギーに借款を受けて着工、1906年、全線開通した。正式には平漢線と言ったようである(ネット上には京漢線に改称したのは1949年とする記載があり、分かりやすい通称として「京漢鉄道」は用いられていたか)。清朝政府はベルギー・ロシア・フランスが所有していた経営権を回収、1909年に国有化した。これに対する反対運動と暴動が、辛亥革命の大きな火種の一つとなった。

・「芝居の出方」芝居茶屋・相撲茶屋・劇場に所属して、客を座席に案内したり、飲食の世話や雑用をする人を言う。

・「私は現在床の上に、八度六分の熱を出してゐる」現在、最新の年譜記載にはこの執筆前後(大正101921)年12月~大正111922)年1月)に感冒で横臥した記載はない。次注参照。

・「友だちは壯だなぞと冷かしもする」本「江南游記」の連載開始の直前の大正101921)年12月は各社の新年号の作品群「藪の中」「俊寛」「將軍」(中国旅行のインスピレーションの賜物)「神神の微笑」「パステルの龍」(「三 杭州の一夜(上)」に登場するJudith Gautierジュディット・ゴーティエの詩の翻訳2篇を所収)「LOS CAPRICHOS」等を体調がすぐれない中で書き上げている。「藪の中」「將軍」「神神の微笑」等は、芥川作品の中でも飛びっきりの問題作と言ってよく、その最中か新年号発表後の、感冒に冒されながら、これだけの驚異的執筆を成し遂げた(12月中なら「つつある」)芥川への羨望と揶揄こもごもの同世代作家の友が「お盛だね」と言うシチュエーションは、如何にもありそうではないか。そのためには熱を出している方が凄絶ではあると言える。そもそも芥川は「江南游記」では、向後もしばしば無関係な執筆時のエピソードを話の中に挿入する。芥川ならではの手法であり、相応に面白く書けてはいるが、こんなことは「上海游記」では全くなかったことである。ここに図らずも「兎に角紀行を續けなければならぬ」と記してしまった諦観的感懐は、本紀行の執筆自体に乗り切れていない芥川の詩想を明示していると言える。これは私は最終回まで持続していると感じている。

・「放し龜」仏教の殺生戒に基づく放生会(ほうじょうえ)由来の作善(さぜん)行為である「放生」の一つ。川端や社寺仏閣で桶や籠に捕捉されている生類を金を払って買い、その場で逃がしてやって生かすことで、放った者の功徳とするもの。それを専門に商う者がいた。江戸時代には放し亀・放し鰻・放し鳥等、極めて一般的風俗としてあった。現在でもタイ等の東南アジアの仏教国では極普通の商売である。私も雀と蝶のそれをタイの寺院参道で見かけた。鳥類のそれは餌付けしてあり、放たれた後、再び業者の元に戻って来るという話をガイドから聴いた。

・「花屋敷」は現在の東京都台東区浅草二丁目にある遊園地の名。現表記は「浅草花やしき」。嘉永6(1853)年開園になる日本最古の遊園地。以下、ウィキの「浅草花やしき」より、芥川自死前後迄のパートを引用する。『1853年に千駄木の植木商、森田六三郎により牡丹と菊細工を主とした植物園「花屋敷」が開園した。当時の敷地面積は約80000㎡だった。江戸期は茶人、俳人らの集会の場や大奥の女中らの憩いの場として利用され、唯一の遊具はブランコであった。』『明治に入り浅草寺一帯を浅草公園地とした際、花屋敷は奥山一帯と共に第五区に指定された。しかし敷地は縮小し、1885年(明治18年)に木場の材木商・山本徳治郎(長谷川如是閑の父)とその長男・松之助が経営を引き継ぐ。翌年、勝海舟の書「花鳥得時」を入口看板として掲示した。』『この頃でも利用者は主に上流階級者であり、園内は和洋折衷の自然庭園の雰囲気を呈していた。しかし、徐々に庶民にも親しまれるようトラ、クマなど動物の展示などを開始したり、五階建てのランドマーク奥山閣を建設し、建物内に種々の展示物を展示したりした。浅草が流行の地となるにつれて、この傾向は強まり、動物、見世物(活人形、マリオネット、ヤマガラの芸など)の展示、遊戯機器の設置を行うようになった。』『大正から昭和初期には全国有数の動物園としても知られ、トラの五つ子誕生や日本初のライオンの赤ちゃん誕生などのニュースを生んだ。関東大震災の際は罹災民が集ったため、多くの動物を薬殺した』。

・「十二階」明治から大正末まで浅草にあった12階建ての塔で、正式名称は凌雲閣(りょううんかく)という。通称「浅草十二階」と呼ばれた。以下、ウィキの「凌雲閣」より引用する。『凌雲閣は、東京における高層建築物の先駆けであり、藤岡市助による日本初の電動式エレベーターが設置されたことでも知られる。完成当時は、12階建ての建築物は珍しくモダンで、歓楽街・浅草の顔でもあった。明治・大正期の『浅草六区名所絵はがき』には、しばしば大池越しの凌雲閣が写っており、リュミエールの短編映画にもその姿は登場する。

』『建物の中は、8階までは世界各国の物販店で、それより上層階は展望室であった。展望室からは東京界隈はもとより、関八州の山々まで見渡すことができた。1890年の開業時には多数の人々で賑わったが、明治後期には客足が減り、経営難に陥った。明治の末に階下に「十二階演芸場」ができ、1914年にはエレベーターが再設されて一時的に来客数が増えたものの、その後も経営難に苦しんだ。なお設計者のウィリアム・K・バルトンは設計時はエレベーターの施工は考慮しておらず、設計時の構造強度ではエレベーターの施工は危険であると猛烈に反対したと言う。関東大震災時の崩落はバルトンの指摘通り、起こるべくして起こった惨劇と言える。』『凌雲閣はその高さゆえに浅草のランドマークとなり、石川啄木や北原白秋、金子光晴の詩歌や江戸川乱歩の代表的短編『押絵と旅する男』など、数多くの文学作品にその姿は登場する。しかし、192391日に発生した関東大震災により、建物の8階部分より上が崩壊。経営難から復旧が困難であったため、同年に陸軍工兵隊により爆破解体された。跡地は後に映画館の浅草東映劇場となるが、現在はパチンコ店になっている』。なお、同ウィキには「明治末期、大池越しに見た凌雲閣(手彩色絵はがき)」の画像があるが、この位置からもう少し後方(手前)から見上げたものが、本文で芥川が描写している雰囲気と合致するものと思われる。

・「池田氏の著した本」前出の池田桃川著「江南の名勝史蹟」のこと。「六 西湖(一)」及び同書の注参照。]

僕の左目の中を泳ぐメダカ

僕の左の目玉の中で
メダカの子が孵化したのだ
卵黄をぶらさげて元気に泳いでいるのだ
あっちへ ちょこちょこ
こっちへ すすーいすい
無視してると
こっちに頭を向けて
僕を凝っと見つめているのだ

これはきっとメダカの亡霊だ
19年前 
1年余り
バイオスフィアで飼っていたメダカを
水換えしようと容器の縁に頭をぶつけさせて死なしてしまったことがあった
てっきりこいつは
あのメダカだ……

そうしげしげ見るなよ
恥ずかしくなるじゃないか
いいじゃないか 僕の目玉の中に住んでいられるんだから

僕は地球が終わっても
おまえを
離さないんだから……

本日両眼眼圧・眼底・視力・視野・瞳孔麻酔網膜精検(オプション緑内障検査附)一式終了――

若き眼科医「おめでとう御座います。完璧です。ただの尋常性飛蚊(ひぶん)です。ご安心下さい。沈むのを待つだけです。――」

泳いでいろよ
もう厄介には思うまいよ
君も僕の子供みたようなもんだから
沈まなくていい
元気に泳げ
一日中
僕の左目の
金魚鉢の中で

だって
憎悪からは
何も
生まれないよ……だもの……

*   *   *

飛蚊

視界に糸くずや黒い影、蚊のようなものが見え、視点を変えるにつれ、それが動き回る。明るい場所で白いものや空を見た場合によく見える。多くの場合加齢により自然発生する。飛蚊症自体は目の機能に問題はないが、網膜剥離の初期症状糖尿病網膜症の症状としてあらわれる事もあるので、眼科の受診が必要。(ウィキより。下線部やぶちゃん)

急に多くなるときは速やかに眼科医の診断を仰ぐ方が無難である。(やぶちゃんより)

プルートゥ又は「史上最大のロボット」とは誰か?

1.1 ボラー

1.1.1 「ホギャアアア…」と泣き叫ぶその声

1.1.2 つるつるでちんちくりんのその身体

1.1.1.2 手塚先生の原作も同様の形態である

1.1.3 惑星改造ロボットとして星を原初の形に改造するその機能

1.1.3.1 とすれば惑星改造ロボット・ボラーと砂漠緑化ロボット・プルートゥは本来ガロンのような一体であるべきものである

1.1.3.2 しかし惑星改造という領域の問題解決のためには反陽子爆弾による自己破壊を必要とせざるを得ない

1.1.3.3 ゆえにプルートゥとボラーは引き裂かれざるを得ない

1.2 ボラーはゴヤの巨人であった<過去に証明済>

1.2.1 ゴヤの巨人は闘争の生み出す力とその憎悪のシンボルである

1.2.1.2 しかしそれは愛憎の表現 憎しみの生み出す哀しみでもある

1.2.1.3 それは言い換えれば感情のカオスに他ならない

1.2.2 ボラーは原初の感情のカオスである

1.3 ボラーはヒラニア・ガルパ(スター・チャイルド)である

2 「1.1.3.3」からボラーはプルートゥと一体になることがゾルレンである

2.1 ボラーとプルートゥは一体となって機能としては全ったきものとなった

3 プルートゥはサハドである

3.1 プルートゥはサハドの希望と絶望の記憶である

3.2 プルートゥはアトムから総ての人工知能の体験した哀しみを完全に理解した

3.2.1 総ての人工知能とはモンブラン・ノース2号・ブランド・ヘラクレス・イプシロン・ゲジヒト そして そのハイブリッドな知性体としてのアトムである

4 総ての人工知能の総体となったプルートゥとボラーは全ったき存在である

4.4 全ったき存在は同じ失敗は繰り返さない

5 真理命題が与えられる

5.1 「憎悪からは何も生まれない」

5.1.1 「地球が終わってもおまえを離さない」

5.2 「4.4」からそれは必ず守られる

5.2.2 注意! 不完全で愚かである「人間」存在は同じ失敗を繰り返す

6 全ったき者は全ったき存在である

6.1 全ったき存在は総ての自己を守る

6.2 全ったき存在は総ての他者を守る

6.3 全ったき存在は総ての世界を守る

7 総ての世界を守る全ったき存在こそは人間のゾルレンである

8 「史上最大のロボット」とはモンブラン・ノース2号・ブランド・ヘラクレス・イプシロン・ゲジヒト・アトム・プルートゥ・ボラーにシンボライズされた人工知能の総体である

9 総ての世界を守る全ったき存在である「史上最大のロボット」は確かに浦沢直樹の「プルートゥ」で世界を守った

9.1 警告! 世界を守るのは神ではない

10 「史上最大のロボット」こそ/のみが「真の人間」である

僕の今まで書いた「プルートゥ」のブログ記事を纏めて読めるように「プルートゥ」をカテゴライズした。よろしければ、こちらで纏めてお読みあれ。

 

2009/07/07

江南游記 九 西湖(四)

       九 西湖(四)

 

 岳王廟に詣でた後(のち)、我我は又畫舫を浮べながら、孤山の東岸へ返つて來た。其處には槐(ゑんじゆ)や梧桐(ごとう)の蔭に、樓外樓の旗を出した飯館がある。「讀賣新聞」に出た紀行によると、武林無想庵(たけばやしむさうあん)氏の新夫妻は、この樓外樓で食事をしたらしい。我我も船頭の勧め通り、この店の前の槐の下に、支那の晝飯(ひるめし)を食ふ事にした。が、私の前に坐つてゐるのは、押川春浪の冐險小説を愛讀した結果、中學時代に家を拔け出して、何とかといふ軍艦の給仕になつて、八月十日の旅順の海戰に、砲火の下をくぐつ來たとか云ふ、蠻骨稜稜とした村田君である。私は料理を待ちながら、村田君には内證だつたが、ひそかに無想庵氏を羨望した。

 我我の卓子(テエブル)は前に云つた通り、枝をさし交した槐の下にある。前にはぢき足もとに、西湖の水が光つてゐる。その水が絶えずゆらめいては、岸を塞いだ石の間に、音を立ててゐるの物優しい。水際には青服(あをふく)の支那が三人、――一人は毛を拔いた鷄を洗ひ、一人は古布子(ふるぬのこ)の洗濯をし、一人はやや離れた柳の根がたに、悠悠と釣竿をかまへてゐる。と思ふとこの男は、急に釣竿を高くあげた。綸(いと)の先には鮒が一匹、ぴんぴん空中に芋に跳ね返つてゐる。――かう云ふ光景は春光の中に、頗(すこぶる)長閑(のどか)な感じを與へた。しかも彼等の向うには、縹渺(へうべう)とした西湖が開いてゐる。私は確かに一瞬間、赤煉瓦を忘れ、この平和な眼前の景色に、小説めいた氣もちを起す事が出來た。――石碣村(せきけつそん)の柳の梢には、晩春の日影が當つてゐる。阮小二(げんせうじ)は、その根がたに坐つた儘、さつきから魚釣りに餘念がない。阮小五は鷄を洗つてしまふと、庖丁をとりに家の中へはいつた。「鬢(びん)には石榴(ざくろ)の花を插し、胸には青き豹を刺(いれずみ)し」た、あの愛すべき阮小七は、未に古布子を洗つてゐる。其處へのそのそ歩み寄つたのは、――

 智多星(ちたせい)呉用(ごよう)でも何でもない。大きい籃(かご)に腕をかけた、甚(はなはだ)散文的な駄菓子賣である。彼は我我の側へ來ると、キヤラメルか何か買つてくれろと云ふ。かうなつてはもうおしまひある。私は水滸傳の世界から、蚤のやうに躍り出した。天罡地煞(てんかうちさつ)百八人の中にも、キヤラメルを賣る豪傑は一人もゐない。のみならず今は湖水の上にも、まつ白に塗つたボオトが一艘、四五人の女學生に漕がれながら、湖心亭の方へ進んでゐる!

 十分の後、我我は老酒を啜つたり、生姜煮の鯉を突ついたりしてゐた。すると其處へ又畫舫が一艘槐の蔭に横づけになつた。岸へ登つた客を見れば、男が一人、女が三人、男女いつれとも判然しない、小さい赤ん坊が一人である。女の一人は身なりを見ると、乳母か下女の類らしい。男は金縁の眼鏡をかけた、(如何にも不思議な因縁だが)無想庵氏に似た大男である。跡に殘つた二人の女は、きつと姉妹に違ひない。それが二人共同じやうに、桃色と藍と縞になつた、セル地の衣裳を一着してゐる。器量も昨夜(ゆうべ)見た少女よりは、少くとも二割方美しい。私は箸を動かしながら、時時彼等へ眼をやつた。彼等は隣の卓子に、料理の來るのを待つてゐる。その中でも二人の姉妹だけは、何かひそひそ話しながら、我我へ流眄(りうべん)を送つたりした。尤もこれは嚴密に云ふと、食事中の私を映すとか云つて、村田君がカメラをいぢつてゐる――其處が御目(め)にとまつたのだから、餘り自慢にもならないかも知れない。

 「君、あの姉(ねえ)さんの方は細君だらうか?」

 「細君さ。」

 「僕にはどうもわからない。支那の女は三十を越さない限り、どれも皆御嬢さんに見える。」

 そんな話をしてゐる内に、彼等も食事にとりかかつた。青青と枝垂れた槐の下に、このハイカラな支那人の家族が、文字通り嬉嬉と飯を食ふ所は、見てゐるだけでも面白い。私は葉卷へ火をつけながら、飽かずに彼等を眺めてゐた。断橋、孤山、雷峰塔、――それ等の美を談ずる事は、蘇峰先生に一任しても好(よ)い。私には明媚な山水よりも、やはり人間を見てゐる方が、どの位愉快だか知れないのである。

 しかし何時(いつ)までも彼らの食事に敬意を拂つてゐる訣にも行かない。我我は勘定を拂つた後、三譚の印月へ出かける爲に、早速畫舫の客になつた。三譚の印月は孤山から見ると、丁度向う岸に近い島のほとりにある。島の名は何と云ふのだか、これは西湖全圖にも池田氏の案内記にも記してない。唯この島の近所には、東坡が杭州の守(しゆ)だつた時、みをつくしの爲に建てたと云ふ、石塔が三つ殘つてゐる。その石塔が月明の夜には、水面に三つの影を落す、――と云ふ事だけは確である。舟は可也長い間、靜かな湖水を漕ぎ續けてから、やつと柳と蘆との深い、退省庵前(ぜん)の棧橋に着いた。

[やぶちゃん注:

・「梧桐」本邦のビワモドキ亜綱アオイ目アオギリ科アオギリFirmiana simplexと同一種。東南アジア原産の落葉高木。街路樹によく用いられる。

「樓外樓」西湖湖畔に現在も建つ杭州料理の名店。1914年創業(リンクは中文(英文あり)のズバリ樓外樓のHP)。

・「飯館」中国語で料理店(レストラン)のこと。「餐館」とも。ご承知の通り「飯店」となると旅館(ホテル)の意となる。

・「武林無想庵」小説家・翻訳家(明治131880)年~昭和371962)年)本名、磐雄(いわお)後に盛一と改名。大正9(1920)年5月に再婚、中国に新婚旅行をした。神田由美子氏の岩波版新全集注解によると、夫妻は立ち寄ったものの樓外樓では食事をしていないとし(その実証は該当注を読まれたい。私としては諸注の安易な引用は避けて先人の発見と著作権は十分に守りたいと思う)、更に芥川の西湖での描写には、この武林無想庵が大正9(1920)年の夏に『読売新聞』に連載した「放浪」と題する紀行文の影響が顕著に見られることを挙げられている(武林のどのような表現が芥川のどの箇所に影響を及ぼしているかは是非とも該当注を読まれたい)。ちなみに、私は次に芥川が記す押川春浪なら幾つも読んだし知っている(だから「江南游記」最初の冒頭注で申し上げた通り、押川春浪の注は施さないのである)が、怠惰にしてこの人のものは読んだことがないので語りようもない。

・「八月十日の旅順の海戰」日露戦争の黄海海戦のこと。明治371904)年8月10日に、東郷平八郎大将率いる大日本帝国海軍連合艦隊はロシア帝国海軍太平洋艦隊を破った海戦(但し巡洋艦3隻の撃沈に留まり、主力艦を葬ることが出来なかった点で日露戦争史上では失敗とされるようである)。

・「蠻骨稜稜」「蠻骨」は蛮勇の気質、バンカラな格好、の意。「稜稜」は角張って勢いのある様子を言う。如何にもがっしりとして筋肉質で、物怖じしない風体バンカラな様を言う。

・「石碣村」「水滸伝」の主な舞台となる、梁山泊(現在の山東省済寧市梁山県にあった巨大な沼沢地)の石碣湖岸の村名。

・「阮小二」は、後の「阮小五」「阮小七」と共に、「水滸伝」中の人物。石碣村阮氏三兄弟の長兄。石碣湖の漁師であったが、呉用から生辰綱(せいしんこう:北京知事から宰相に送られた誕生祝いの献上品。)強奪の誘いを受けて、二人の弟と共に参加、梁山泊に入ってからは元漁師の手腕を生かして水軍の頭領として活躍する。

・『「鬢には石榴の花を插し、胸には青き豹を刺し」』ネット上の「水滸伝」ファンのサイトを見ると、少なくとも胸に青い豹の刺青をしているのは、芥川の言う阮小七ではなく、阮小五の方である。中文サイトを探す内、改編劇本 - 水滸傳 - 第五集「水滸伝」の劇化された台本を発見(「改編劇本 - 水滸傳 - 第五集」)、その中の阮小五登場シーンと思しいところに書かれたト書きに、

阮小二:五郎來了。

 (那阮小五斜戴著一頂破頭巾、鬢邊插石榴花、披著一領舊布衫露出胸前刺、

  著的青鬱鬱一個豹子來、裏面匾扎起褲子、上面圍著一條間棋子布手巾。)

[やぶちゃん字注:「※」(上)「几」+(下)「木」。]

とある(記号を一部変更した)。この文字列から類推するに少なくともこの芝居では「鬢には石榴の花を插し、胸には青き豹を刺し」ているのは阮小五である。「水滸伝」にお詳しい方の御教授を乞うものである。

・「智多星呉用」書生であったが、梁山泊の2代目首領晁蓋(ちょうがい)から生辰綱奪取の協力を求められ(前掲「阮小二」注参照)、阮氏三兄弟の協力を得て奪取に成功する。梁山泊に逃れた後は軍師格として権謀術数を廻らすとともに、魅力的な好漢を次々と山寨に引き入れた。「智多星」は「水滸伝」特有の次の「天罡地煞百八人」に関わる彼の綽名。

・「天罡地煞百八人」「百八人」は「水滸伝」に登場する豪傑の数(これは最大の陽数9の12倍)。それを二種の星。天罡星(てんこうせい:本来は中国語で北斗星を意味する。)と地煞星(ちさつせい:「煞」=「殺」で禍々しい神で、真理に向かう過程では必要とされるべき存在を意味するか。何れにせよ、この二星は本来、道教の神である)に分けて、人物を配する。天罡星は36人、地煞星(ちさつせい)は72人。それを示す神文を刻んだ作中明らかにされる(その伏線は作品の冒頭に現れる)。その碑に記された「替天行道」(天に替りて道を行ひて)と「忠義双全」(忠義双つながら全し)の言葉が梁山泊の御旗となる。

・「雷峰塔」「雷峰」は丘の名。西湖北岸にある宝石山保俶塔と対した南山の景勝。昔、雷氏が庵を造ったので雷峰という地名を得た。雷峰塔は呉越王の王妃黄氏の男子出産を喜んで造営した黄妃塔であるが、芥川が見た後、1924年に倒壊し、現在のものは2002年の新造。

・「三譚の印月」「三潭」は1089年に蘇軾が西湖を浚渫した際、その最深部に三つの石塔を建立、その三基の内部には菱や蓮などの水草を植えることを禁じたという古跡。蓬莱山を模した庭園技巧の一つ。現在のものは800年前のものとされ、高さ2mの球形塔身で中空となっており、その周囲に五つの穴が等間隔で開き、明月の夜には大蠟燭を入れると言う。古来「天上月一輪 湖中影成三」と詠まれたという。天に印した真影、そして、この月影と、視野の可視範囲である灯籠の60°角及び120°角からの灯影が西湖に「印」された三つという謂いであろうか。

・「島の名」これは西湖最大の島、小瀛洲(しょうえいす)のことであろう。小瀛洲は明代末期1607年に造られた人工島で、島の内の殆んどが池になっている。一般に三譚印月はここから見るとされる。

・「退省庵」西湖南岸、「六 西湖(一)」に現れた清末の軍人にして文人であった彭玉麟がしばしば釣りを楽しんだところに1869年に建てた故居。退省庵主人は彭玉麟の号。]