江南游記 二十八 南京(中)
二十八 南京(中)
私はホテルの西洋間に、きな臭い葉卷を啣(くは)へた儘、昨日ざつと見物した、秦淮の景色を書き留めてゐた。此處は日本人經營の宿屋だが、室(しつ)の一隅に立て廻した、惡どいペンキ塗りの山水屏風は、私を惱ます事一通りぢやない。おまけにバタの惡い燒麪包(やきパン)は、私の胃袋の口もとに、さつきからまだ痞(つか)へてゐる。
私は多少のノスタルジアを感じながら、せつせと萬年筆を走らせ續けた。
「秦淮(しんわい)の孔子廟を過ぐ。時既に薄暮なれば、門を鎖して人を入れず。門前に老いたる講釋師あり。多數の閑人に圍まれつつ、三國志か何か辯ずるを見る。掌中の扇子、舌頭の諧謔、日本の辻講釋を髣髴せしむ。
「橋上より眺むれば、秦淮は平凡なる溝川(どぶがは)なり。川幅は本所の竪川(たてかは)位。兩岸に櫛比(しつひ)する人家は、料理屋藝者屋の類(るゐ)なりと云ふ。人家の空に新樹の梢あり。人なき畫舫三四、暮靄(ぼあい)の中に繋がれしも見ゆ。古人云ふ。「煙籠寒水月籠沙」と。這般(しやはん)の風景既に見るべからず。云はば今日の秦淮は、俗臭紛紛たる柳橋(やなぎばし)なり。「水畔の飯館に晩飯(ばんめし)を喫す。一流の料理屋の由なれども、室内は餘り綺麗ならず。木彫りの菊にべンキを塗れる柱、西瓜の種の散亂したる板敷き、拙(つたな)き水墨の四君子の軸、――畢(つひ)に今日の支那料理屋は、味覺以上の何物をも滿足せしめざる場所なるべし。食事は八寶飯佳(か)。勘定は祝儀共二人前(ふたりまへ)三圓二十錢。食事中隣室に胡弓の音あり。歌聲又次いで起る。昔は一曲の後庭花、詩人をして愁殺せしめたれど、東方の遊子多恨ならず。青黑き玉子を頰張りながら、微醺(びくん)を帶びたる案内者と、明日(みやうにち)の豫定を談ずる事多時。
「飯館を出づれば既に夜なり。家家(かか)の電燈の光、妓の人力車に駕せるを照(てら)す。宛然代地(だいち)の河岸(かし)を行くが如し。されど一の姝麗(しゆれい)を見ず。私(ひそかに)に疑ふ、「秦淮畫舫録」中の美人、幾人か懸け値のなきものある。もし夫「桃花扇傳奇」の香君に至つては、獨り秦淮の妓家(ぎか)と云はず、四百餘州を遍歴するも、恐らくは一人もあらざるべし。………」
私はふと顏を擧げた。卓子(テエブル)の前には社の五味君が、支那服を着たなり佇んでゐる。暖さうな黑の馬掛兒(マアクワル)に、藍の大掛兒(タアクワル)を着こんだ所は、威儀堂堂と評しても誇張ぢやない。私は挨拶をする前に、ちよいとその支那服に敬意を表した。(後に私の支那服が、北京の日本人諸君を惱ませたのは、確にこの五味君の惡影響である。)
「今日は私が御案内しませう。明の孝陵から莫愁湖の方へ。」
「さうですか。ぢや早速出かけませう。」
私は名所を見たいよりも、胃の中の麪包(パン)を消化したさに、早速外套へ手を通した。
一時間の後(のち)、我我二人は、鍾山(しようざん)の陵(りよう)に至るべき、堂堂たる石橋(せきけう)を渡つてゐた。孝陵は長髮賊の亂の爲に、大抵の殿樓を燒かれたから、何處を見ても草ばかりである。その離離とした草の中に、大きい石の象が立つてゐたり、門の礎(いしづゑ)が殘つてゐたりするのは、到底奈良の郊外の緑蕪(りよくぶ)に、銀の目貫の太刀を下げ佩(は)いた公子を憶ふ所の寂しさぢやない。現にこの石橋にしても、處處の石の隙間に、薊の花が咲いてゐるのは、その儘(まま)懷古の詩境である。私は吐き氣をこらへながら、鍾山の松柏を仰ぎ見ては、六朝(りくてう)の金粉(きんぷん)何とか云ふ前人の詩を思ひ出さうとした。
陵その物――かどうか知らないが、兎に角最後に聳えてゐるのは、無暗に高い石の壁だつた。その壁のまん中に、ざつと自動車でも通れさうな、爪先上りのトンネルがある。このトンネルの高ささへも、壁全體の高さから見れば、やつと四分の一位しかない。私はトンネルの前に佇んだ儘、薄黑い壁のずつと上に、晩春の青空を仰いだ時、何だか急に自分の體が、小鳥程になるやうな心もちがした。さうして其處の敷石の草へ、酸つぱい水を少し吐いた。
そのトンネルを通り拔けた後、少時石段を登つたら、とうとう陵の一番上へ出た。其處には屋根も柱もない、赤壁だけがぐるりと殘つてゐる。あたりに生え伸びた若木や草、壁一面の落書の跡、――荒廢はやはり變りがない。しかしこの陵上に立つて見ると、紛紛と飛び交ふ燕の下に、さつき渡つた石橋は勿論、正殿(せいでん)、郭門、薄白い陵道、――その他日の光に照つた山河が、遙に青青と廣がつてゐる。五味君は叡山(えいざん)の將門(まさかど)のやうに、悠然と風に吹かれながら、點點と眼下を歩いてゐる、何人かの男女を見下した。
「御覽なさい。今日は西門外(せいもんがい)に、高跳動(カオチヤオトン)があるものですから、見物人が大分多いやうです。」
が、鳥打帽をかぶつた純友(すみとも)は、酸つぱい水を口にためた儘、高跳動とは何の事だか、尋ねて見る元氣も起らなかつた。
[やぶちゃん注:5月13日。
・「孔子廟」は南京市内の秦淮河北岸にある。南京では夫子廟“fūzĭmiào”(フゥツミアオ ふうしびょう)と呼ぶが、この呼称はこの孔子廟を中心として秦淮河畔から建康路周辺までの地域全体を夫子廟と呼び、南京有数の歓楽街となっている。ここで私はやはり個人的な体験をどうしても記しておきたいことがある。
私は2000年、中国派遣日本語教師として南京大学日本語学科で日本語を教えていた妻を訪ねた際、この夫子廟で晩餐をとった。その時、妻と、当時、同学科で日本語や経済政策等を教えておられた福田茂老師(「先生」という呼称では足りない。妻の1年間の中国生活を支えて下さり、妻から伝え聞いたそのアップ・トゥ・デイトな鋭い教授内容は素晴らしいもので、数回の談話で私は魅了された)、そうして老師の知人の文部科学省からの若い派遣員二人と一緒であった。食後、夫子廟の繁華街を抜けて行った折りのこと、鰻の寝床のような酒桟(“jiŭzhàn”チィォウチァン)の前を通り過ぎた。日本のションベン横丁の立ち飲みみたような店を想像してもらえればよい。朦々たる煙草の煙に裸電球が煌き、労働者たちが声高に言い合う声とともに、盛んに酒盃を挙げていたのが見えた。外には小さな椅子を並べてこれまた、ままごとに使えそうな小さな卓子(テエブル)にグラスを置いて二人の老人が静かに酒を飲んでいた。その時、老師は誰に言うともなく「こういうところでコンイーチーは飲んでいたんだねえ……」と呟かれた。妻や文科省の役人二人は黙っていた。私は「魯迅ですね――しかし、僕はコンイーチーが好きです――ああした前時代の滅んでゆくべき彼や阿Qような人物を、魯迅は優しい視線で愛情を持って描いていますね。」と答えた。老師は「そう、そうなんだよ!」と如何にもという風情で相槌を打たれた。文科省の役人は――知っていて黙っていたのかどうか、知らない――少なくとも私の妻は「コンイーチー」が何者であるか知らなかった――「孔乙己」“kŏngyĭjĭ”(クゥォンイチ)は魯迅の同名小説の主人公の名である。私は「薬」や「故郷」と並んで好きな作品の一つなのである――私はこの一瞬、この日初めて逢ったばかりの、この福田老師を、心から尊敬した。その何気ない視線と感懐に、この老師が心底「中国」を愛しておられるということを知ったからであった――後日、私は妻から福田老師は少年の頃、満州からの引揚者であったと聞いた。その時、何か師の琴線に触れるものがあったのでは、などと私は不遜にも想像したりしたけれど、師はその後もご自身の経験については、特にお話にはならなかった――福田茂老師は今も、矍鑠として中国にあって、日中何れに対しても歯に物着せぬ勘所を得た批評をされ、中国の若者たちに教鞭をとっておられるのである――
・「本所の竪川」現在の東京都墨田区の南を東から西に流れ(交差する大横川に対する名)、芥川所縁の回向院の近く、首都高7号線と6号線の合流する両国ジャンクションの下で隅田川に注いでいる。
・「櫛比」櫛(くし)の歯のように、すき間なく並んでいること。
・『「煙籠寒水月籠沙」』は晩唐の詩人杜牧(803~853)の七絶「泊秦淮」の起句。
泊秦淮
煙籠寒水月籠沙
夜泊秦淮近酒家
商女不知亡國恨
隔江猶唱後庭花
○やぶちゃんの書き下し文
秦淮に泊す
煙(えん)は寒水を籠(こ)め 月は沙(さ)を籠む
夜(よ) 秦淮に泊し 酒家(しゆか)近し
商女は知らず 亡國の恨(こん)
江を隔てて猶ほ唱(うた)ふ 後庭花
○やぶちゃんの現代語訳
秦淮に泊す
夜霧は冷たき川面(かわも)を覆い 月光砂を守って光る
夜(よる) 秦淮の舟泊(ふなどま)り 近き酒場のさんざめく
歌い女(め) 知らず 亡国の 恨みの籠もるその曲を
川を隔てて 歌う その 酒(さけ)と傾城(けいせい) 「後庭花」
「月籠沙」は川の砂洲に月光が射してそこが特異的に光り輝くさまであろう。やや無理があるが上記のように訳してみた。「商女」は妓。結句の「後庭花」は、正しくは「玉樹後庭花」で、「杜牧 泊秦淮 詩詞世界 碇豊長の詩詞」の語注によれば、『嘗てここに都を構えていた』、『南朝の陳の後主が作った淫靡な詩(本来は音楽)』である。君主がそのような酒色に耽ったがために、陳は亡んだとされる、とある。そこに籠もった「亡國恨」、亡国の恨みを知る由もなく、艶めかしい魅力的な声で、妓が「玉樹後庭花」を歌う声が、舟旅の旅愁に沈む私の心に響いて来る、といった意味であろう。
・「這般の」「這」は宋代の俗語で「此」(これ)の意。「これらの」「このたびの」「今般の」の意味で、芥川は擬古文では好んで用いる。ここでは、「この辺りの」の意。
・「柳橋」現在の台東区(旧・浅草区)の神田川が隅田川に流れ入る河口部に架橋する柳橋(元禄11(1698)年竣工)を中心とした隅田川一帯の地名。その江戸中期より隅田川の船遊び客相手の船宿が多く、幕末から明治にかけては新橋と共に「新柳二橋」と並び称された花街であった。
・「四君子」蘭・竹・菊・梅の四種を草木の中の高潔な君子に喩えた語で、それら4種を総て用いたモチーフを言う。宋代の画題から頻繁に見られるようになり、春を蘭に、夏を竹、秋を菊、冬を梅に配して四季のシンボルともした。
・「八寶飯」米の上に金柑・棗(なつめ)・冬瓜・小豆・蓮の実・松の実・黒豆など8種類の果物など乗せて蒸したデザート。「CHINA SUPER CITY ON LINE 今の中国を知る」のグルメ記事に『周王朝に貢献した8名の勇士をもてなすために創り出され、数千年の歴史を持つ』とある。
・「昔は一曲の後庭花、詩人をして愁殺せしめたれど、東方の遊子多恨ならず。」前掲注の杜牧の「泊秦淮」の詩を参照。『しかし、日本の旅人はそんなに感じやすくウエットじゃない、頗るドライである。』の意。
・「青黑き玉子」皮蛋“pídàn”(ピータン)。アヒルの生卵に石灰・木炭・塩を混ぜた泥を塗りつけ、それに籾殻をまぶした上、土中又は甕の中に入れて2~3箇月熟成させたもの。塗布物のアルカリ成分によってタンパク質が変性して固化し、白身は黒味の強い琥珀色のゼリー状に、黄身は青磁のような翡翠色となる。
・「宛然」あたかも。
・「代地の河岸」前掲の東京都台東区柳橋の隅田川の河岸の旧通称。
・「姝麗」本来は見目麗しい、美麗という形容。ここでは美女のこと。
・『「秦淮畫舫録」』捧花生著。岩波版新全集の神田由美子氏の注解によれば、秦淮の芸妓の評判記で、嘉慶22(1817)年刊、『上、下二冊。付録に「画舫余談、三十六春小譜」。』とある。この余談なるものは名妓の名数か。上海古籍出版社2007年刊の「清代筆記小説大観 全6冊」に所収する。
・『「桃花扇傳奇」の香君』「桃花扇傳奇」は、通常、単に「桃花扇」とも呼ぶ、清代の孔尚任(1648~1718 こうしょうじん:孔子64代の子孫。)作の戯曲。40幕。1699 年に完成した。明清の興亡を背景に、文人の侯方域と名妓李香君の悲恋物語を描いた長編で、「長生殿伝奇」(「長生殿」とも。洪昇(1645~1704)作の50幕の戯曲。1688年に完成。唐の玄宗皇帝と楊貴妃の悲恋を主題とする)と並ぶ清代の代表的戯曲である。李香君は実在した秦淮の有名な美人の妓女の一人であった。本名、楊吉児、明の名将楊之浩の娘であった。夫子廟(フゥツミアオ)の西南に彼女の旧居が今も残る。
・「四百餘州」中国全土を言う美称。
・「社の五味君」中国在留毎日新聞社社員で、恐らく南京支局員であろう。それ以外は未詳。
・「馬掛兒(マアクワル)」“măguàér”日本の羽織に相当する上衣で対襟。「上海游記」の筑摩版脚注では「掛」は「褂」が正しいとある。
・「大掛兒(タアクワル)」“tàiguàér”男物の単衣(ひとえ)の裾が足首まである長い中国服のこと。前注参照。
・「後に私の支那服が、北京の日本人諸君を惱ませた」芥川は涼しくゆったりとした中国服が大層気に入り、北京でもそれで過すことが多く、「北京日記抄」によれば、辜鴻銘(Gū Hóngmíng グー ホンミン ここうめい 1857~1928:清末から中華民国初期の学者・リベラリスト。)との会見でも中国服で臨み、辜鴻銘に『洋服を着ないの感心だ。只憾むらくは辮髮がない。』と言わしめ、やはり北京で中国服の芥川に会見した胡適は、『あまりに中国人に似ている容貌にびっくりしたとのことばを「日記」に書きつけ』(毎日新聞社1997年刊の関口安義「特派員 芥川龍之介」より引用)ている。同書から具体的に引くと(孫引きになるが)、『彼は容貌が中国人に似ている。そのうえ、中国服を着ているため、なおさら中国人に似ている。この人は日本人の悪い習性がないらしく、談話(英語を使って)も相当見識のあるものである。』(單援朝「芥川龍之介と胡適―北京体験の一側面―」(『国文学 言語と文芸』1991年8月)の中の單氏による日本語訳)と記しているのである。中国服の着用は、ジャーナリスト芥川龍之介に極めて有効に作用しているのである。止めを刺すならば、同書には帰国時のエピソードとして、『天津の税関で中国服を着ていたため、鞄の中を引っかき回され、「大いに窮したので、其処からは大阪までは洋服に着替へ、大阪からまた支那服で乗車」したところ、車中の客に「大分、長く此方にお出ですね、日本語が中々お達者だ」とやられて閉口した』(芥川龍之介「最近の文壇のいろいろ」『文芸倶楽部』1921年9月)という話を載せている。
・「明の孝陵」南京の東、紫金山南麓にある明の太祖、洪武帝朱元璋(しゅげんしょう 1328~1398)と后妃の陵墓。明の陵墓では最大で、造営に25年、1383年に完成している。この未発掘の二人が埋葬されている地下宮殿玄宮というのは如何にも魅力的ではないか。
・「莫愁湖」南京市内南西部、水西門外大街にある湖。周囲約5㎞、面積約50ha。ウィキの「莫愁湖公園」の記載に『伝説によれば南斉年間、洛陽に莫愁という女性がおり、家が貧しく父の死後に身を売って葬儀を行った。ちょうど建業より洛陽を訪れたある富豪が莫愁の美しさに引かれ莫愁を身請けする。しかし、莫愁は故郷を懐かしみ湖に身を投げ』たとある。
・「鍾山」孝陵のある紫金山の旧名。
・「長髮賊の亂」太平天国の乱のこと。清代の1851年に宗教結社上帝会の洪秀全(1814~1864)が起こした大規模な反乱。農民出身の洪秀全はキリスト教の影響を受けた新興宗教上帝教を組織し、自らをヤハウェの子にしてキリストの弟、天王とし、土地私有の禁止、辮髪を禁じて長髪を蓄え(政府側は「長髪賊」「髪匪」と呼ばれた)、清朝打倒を宣言、広西省桂平県金田村で挙兵、南京を陥落して、天京と改めて首都とした。信者は約1万人と伝える。1864年に政府軍に滅ぼされたが、後の中国革命の先駆として後世に大きな影響を与えたとされる。
・「離離」草木が乱れて繁茂しているさま。
・「緑蕪」青青と生い茂った草原。
・「目貫」目釘。本来は刀身と柄(つか)を接合する固定具であるが、柄の外に見える目釘の鋲頭(びょうがしら)と座が装飾化されてその部分全体を指すようになり、更には実際の目釘とは無関係にもっと広範に柄に飾られた金物を言うようになった。
・「六朝の金粉何とか云ふ前人」筑摩全集類聚版脚注や岩波版新全集の神田由美子氏の注解共に、ここに、この歌は催馬楽にある、とのみ記している。これは如何にもおかしくはないか。いや、歌謡の催馬楽にそのような歌詞があることについては問題ない。あるのであろう(しかし両注共に引用していないのは残念である)。私がおかしいというのは、ここで芥川が「前人の詩」と言っている点である。ここで、芥川は「到底奈良の郊外の緑蕪に、銀の目貫の太刀を下げ佩いた公子を憶ふ所の寂しさぢやない」、日本のしみじみとした風景の寂しさじゃあない、と言っているのである。それは「吐き氣をこらへ」てでも、「鍾山の松柏を仰ぎ見」んとさせる程に、激しく胸を突く「その儘懷古の詩境であ」るのだ。そこに何で場違いな日本の催馬楽を思い出す必要があるのかという疑義である。ここで芥川が想起せんとしたのは漢詩である。そうしてそれにぴったりの作品が存在する。清代、袁枚(1716~1797)・趙翼(趙甌北 1727~1812)とともに乾隆(江家)三大家と讃えられた詩人・劇作家蒋士銓(しょうしせん 1725~1785)の七絶「卜居(ぼっきょ)二首」の、その「二」である。
卜居
鍾山眞作我家山
揀得行窩靜掩關
洗去六朝金粉氣
展開屏障畫煙鬟
○やぶちゃんの書き下し文
卜居
鍾山 眞(まこと)に我が家山と作(な)し
窩(か)を揀(え)り得て靜かに關を掩ふ
六朝金粉の氣を洗ひ去りて
屏障を展開して煙鬟(えんくわん)を畫(か)く
○やぶちゃんの現代語訳
地を占って居を定める
見つけたよ――離離たる緑蕪のこの鍾山さ――僕の遂の住みかなんだ
潜り込む心地よい洞(うろ)の窩(あな)を選りすぐって――僕は庵の閂(かんぬき)を下ろした
もう派手な六朝の金粉なんかいらない
屏風を張り巡らし――僕はひたすらけぶるように豊かな女の髷(まげ)を描く……
転・結句は私のいい加減な感触で訳しているに過ぎない。是非、お分かりになる方の御教授を願う。
・「正殿」地下宮殿がある法宝城のことであろう。芥川がここで立っているのはそこに囲まれた高さ129mの「宝頂」と思われる。
・「郭門」明孝陵の正門である朱塗りの文武方門であろう。
・「陵道」文武方門に至る左右の獅子・駱駝・象・馬や武人等の石像が配列された神道(参道)。
・「叡山の將門」これは若き日の平将門が藤原純友とともに比叡山に登り、京の町を睥睨していつかこの町を我らがものにせんと誓い合ったという伝説のパロディ。「暖さうな黑の馬掛兒(マアクワル)に、藍の大掛兒(タアクワル)を着こんだ」威儀堂堂たる五味氏演じる将門が高みからの「第三の男」、対する芥川は胃液を吐く役不足の純友である。
・「高跳動(カオチヤオトン)」“gāotiàodòng”辞書にもなく、検索にも掛からず不詳の遊戯である。筑摩全集類聚版脚注には『竹馬にのって踊りをするのか。』とある。私はよく中国雑戯団の演目で見かけるシーソーで高く跳躍してトンボを打ったり、積み重ねた椅子の上に着地したりする芸を想起したのだが……。識者の御教授を乞うものである。【2010年10月16日追記】これは「高蹻戲」“gāojiăoxì”(ガオチャオシ)若しくは「高脚戲」“gāojiăoì”(ガオチャオシ)であることを解明した。詳しくはHPの「江南游記」該当注を参照されたい。画像も添付してある。]
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