江南游記 九 西湖(四)
九 西湖(四)
岳王廟に詣でた後(のち)、我我は又畫舫を浮べながら、孤山の東岸へ返つて來た。其處には槐(ゑんじゆ)や梧桐(ごとう)の蔭に、樓外樓の旗を出した飯館がある。「讀賣新聞」に出た紀行によると、武林無想庵(たけばやしむさうあん)氏の新夫妻は、この樓外樓で食事をしたらしい。我我も船頭の勧め通り、この店の前の槐の下に、支那の晝飯(ひるめし)を食ふ事にした。が、私の前に坐つてゐるのは、押川春浪の冐險小説を愛讀した結果、中學時代に家を拔け出して、何とかといふ軍艦の給仕になつて、八月十日の旅順の海戰に、砲火の下をくぐつ來たとか云ふ、蠻骨稜稜とした村田君である。私は料理を待ちながら、村田君には内證だつたが、ひそかに無想庵氏を羨望した。
我我の卓子(テエブル)は前に云つた通り、枝をさし交した槐の下にある。前にはぢき足もとに、西湖の水が光つてゐる。その水が絶えずゆらめいては、岸を塞いだ石の間に、音を立ててゐるの物優しい。水際には青服(あをふく)の支那が三人、――一人は毛を拔いた鷄を洗ひ、一人は古布子(ふるぬのこ)の洗濯をし、一人はやや離れた柳の根がたに、悠悠と釣竿をかまへてゐる。と思ふとこの男は、急に釣竿を高くあげた。綸(いと)の先には鮒が一匹、ぴんぴん空中に芋に跳ね返つてゐる。――かう云ふ光景は春光の中に、頗(すこぶる)長閑(のどか)な感じを與へた。しかも彼等の向うには、縹渺(へうべう)とした西湖が開いてゐる。私は確かに一瞬間、赤煉瓦を忘れ、この平和な眼前の景色に、小説めいた氣もちを起す事が出來た。――石碣村(せきけつそん)の柳の梢には、晩春の日影が當つてゐる。阮小二(げんせうじ)は、その根がたに坐つた儘、さつきから魚釣りに餘念がない。阮小五は鷄を洗つてしまふと、庖丁をとりに家の中へはいつた。「鬢(びん)には石榴(ざくろ)の花を插し、胸には青き豹を刺(いれずみ)し」た、あの愛すべき阮小七は、未に古布子を洗つてゐる。其處へのそのそ歩み寄つたのは、――
智多星(ちたせい)呉用(ごよう)でも何でもない。大きい籃(かご)に腕をかけた、甚(はなはだ)散文的な駄菓子賣である。彼は我我の側へ來ると、キヤラメルか何か買つてくれろと云ふ。かうなつてはもうおしまひある。私は水滸傳の世界から、蚤のやうに躍り出した。天罡地煞(てんかうちさつ)百八人の中にも、キヤラメルを賣る豪傑は一人もゐない。のみならず今は湖水の上にも、まつ白に塗つたボオトが一艘、四五人の女學生に漕がれながら、湖心亭の方へ進んでゐる!
十分の後、我我は老酒を啜つたり、生姜煮の鯉を突ついたりしてゐた。すると其處へ又畫舫が一艘槐の蔭に横づけになつた。岸へ登つた客を見れば、男が一人、女が三人、男女いつれとも判然しない、小さい赤ん坊が一人である。女の一人は身なりを見ると、乳母か下女の類らしい。男は金縁の眼鏡をかけた、(如何にも不思議な因縁だが)無想庵氏に似た大男である。跡に殘つた二人の女は、きつと姉妹に違ひない。それが二人共同じやうに、桃色と藍と縞になつた、セル地の衣裳を一着してゐる。器量も昨夜(ゆうべ)見た少女よりは、少くとも二割方美しい。私は箸を動かしながら、時時彼等へ眼をやつた。彼等は隣の卓子に、料理の來るのを待つてゐる。その中でも二人の姉妹だけは、何かひそひそ話しながら、我我へ流眄(りうべん)を送つたりした。尤もこれは嚴密に云ふと、食事中の私を映すとか云つて、村田君がカメラをいぢつてゐる――其處が御目(め)にとまつたのだから、餘り自慢にもならないかも知れない。
「君、あの姉(ねえ)さんの方は細君だらうか?」
「細君さ。」
「僕にはどうもわからない。支那の女は三十を越さない限り、どれも皆御嬢さんに見える。」
そんな話をしてゐる内に、彼等も食事にとりかかつた。青青と枝垂れた槐の下に、このハイカラな支那人の家族が、文字通り嬉嬉と飯を食ふ所は、見てゐるだけでも面白い。私は葉卷へ火をつけながら、飽かずに彼等を眺めてゐた。断橋、孤山、雷峰塔、――それ等の美を談ずる事は、蘇峰先生に一任しても好(よ)い。私には明媚な山水よりも、やはり人間を見てゐる方が、どの位愉快だか知れないのである。
しかし何時(いつ)までも彼らの食事に敬意を拂つてゐる訣にも行かない。我我は勘定を拂つた後、三譚の印月へ出かける爲に、早速畫舫の客になつた。三譚の印月は孤山から見ると、丁度向う岸に近い島のほとりにある。島の名は何と云ふのだか、これは西湖全圖にも池田氏の案内記にも記してない。唯この島の近所には、東坡が杭州の守(しゆ)だつた時、みをつくしの爲に建てたと云ふ、石塔が三つ殘つてゐる。その石塔が月明の夜には、水面に三つの影を落す、――と云ふ事だけは確である。舟は可也長い間、靜かな湖水を漕ぎ續けてから、やつと柳と蘆との深い、退省庵前(ぜん)の棧橋に着いた。
[やぶちゃん注:
・「梧桐」本邦のビワモドキ亜綱アオイ目アオギリ科アオギリFirmiana simplexと同一種。東南アジア原産の落葉高木。街路樹によく用いられる。
・「樓外樓」西湖湖畔に現在も建つ杭州料理の名店。1914年創業(リンクは中文(英文あり)のズバリ樓外樓のHP)。
・「飯館」中国語で料理店(レストラン)のこと。「餐館」とも。ご承知の通り「飯店」となると旅館(ホテル)の意となる。
・「武林無想庵」小説家・翻訳家(明治13(1880)年~昭和37(1962)年)本名、磐雄(いわお)後に盛一と改名。大正9(1920)年5月に再婚、中国に新婚旅行をした。神田由美子氏の岩波版新全集注解によると、夫妻は立ち寄ったものの樓外樓では食事をしていないとし(その実証は該当注を読まれたい。私としては諸注の安易な引用は避けて先人の発見と著作権は十分に守りたいと思う)、更に芥川の西湖での描写には、この武林無想庵が大正9(1920)年の夏に『読売新聞』に連載した「放浪」と題する紀行文の影響が顕著に見られることを挙げられている(武林のどのような表現が芥川のどの箇所に影響を及ぼしているかは是非とも該当注を読まれたい)。ちなみに、私は次に芥川が記す押川春浪なら幾つも読んだし知っている(だから「江南游記」最初の冒頭注で申し上げた通り、押川春浪の注は施さないのである)が、怠惰にしてこの人のものは読んだことがないので語りようもない。
・「八月十日の旅順の海戰」日露戦争の黄海海戦のこと。明治37(1904)年8月10日に、東郷平八郎大将率いる大日本帝国海軍連合艦隊はロシア帝国海軍太平洋艦隊を破った海戦(但し巡洋艦3隻の撃沈に留まり、主力艦を葬ることが出来なかった点で日露戦争史上では失敗とされるようである)。
・「蠻骨稜稜」「蠻骨」は蛮勇の気質、バンカラな格好、の意。「稜稜」は角張って勢いのある様子を言う。如何にもがっしりとして筋肉質で、物怖じしない風体バンカラな様を言う。
・「石碣村」「水滸伝」の主な舞台となる、梁山泊(現在の山東省済寧市梁山県にあった巨大な沼沢地)の石碣湖岸の村名。
・「阮小二」は、後の「阮小五」「阮小七」と共に、「水滸伝」中の人物。石碣村阮氏三兄弟の長兄。石碣湖の漁師であったが、呉用から生辰綱(せいしんこう:北京知事から宰相に送られた誕生祝いの献上品。)強奪の誘いを受けて、二人の弟と共に参加、梁山泊に入ってからは元漁師の手腕を生かして水軍の頭領として活躍する。
・『「鬢には石榴の花を插し、胸には青き豹を刺し」』ネット上の「水滸伝」ファンのサイトを見ると、少なくとも胸に青い豹の刺青をしているのは、芥川の言う阮小七ではなく、阮小五の方である。中文サイトを探す内、改編劇本 - 水滸傳 - 第五集「水滸伝」の劇化された台本を発見(「改編劇本 - 水滸傳 - 第五集」)、その中の阮小五登場シーンと思しいところに書かれたト書きに、
阮小二:五郎來了。
(那阮小五斜戴著一頂破頭巾、鬢邊插※石榴花、披著一領舊布衫露出胸前刺、
著的青鬱鬱一個豹子來、裏面匾扎起褲子、上面圍著一條間棋子布手巾。)
[やぶちゃん字注:「※」(上)「几」+(下)「木」。]
とある(記号を一部変更した)。この文字列から類推するに少なくともこの芝居では「鬢には石榴の花を插し、胸には青き豹を刺し」ているのは阮小五である。「水滸伝」にお詳しい方の御教授を乞うものである。
・「智多星呉用」書生であったが、梁山泊の2代目首領晁蓋(ちょうがい)から生辰綱奪取の協力を求められ(前掲「阮小二」注参照)、阮氏三兄弟の協力を得て奪取に成功する。梁山泊に逃れた後は軍師格として権謀術数を廻らすとともに、魅力的な好漢を次々と山寨に引き入れた。「智多星」は「水滸伝」特有の次の「天罡地煞百八人」に関わる彼の綽名。
・「天罡地煞百八人」「百八人」は「水滸伝」に登場する豪傑の数(これは最大の陽数9の12倍)。それを二種の星。天罡星(てんこうせい:本来は中国語で北斗星を意味する。)と地煞星(ちさつせい:「煞」=「殺」で禍々しい神で、真理に向かう過程では必要とされるべき存在を意味するか。何れにせよ、この二星は本来、道教の神である)に分けて、人物を配する。天罡星は36人、地煞星(ちさつせい)は72人。それを示す神文を刻んだ作中明らかにされる(その伏線は作品の冒頭に現れる)。その碑に記された「替天行道」(天に替りて道を行ひて)と「忠義双全」(忠義双つながら全し)の言葉が梁山泊の御旗となる。
・「雷峰塔」「雷峰」は丘の名。西湖北岸にある宝石山保俶塔と対した南山の景勝。昔、雷氏が庵を造ったので雷峰という地名を得た。雷峰塔は呉越王の王妃黄氏の男子出産を喜んで造営した黄妃塔であるが、芥川が見た後、1924年に倒壊し、現在のものは2002年の新造。
・「三譚の印月」「三潭」は1089年に蘇軾が西湖を浚渫した際、その最深部に三つの石塔を建立、その三基の内部には菱や蓮などの水草を植えることを禁じたという古跡。蓬莱山を模した庭園技巧の一つ。現在のものは800年前のものとされ、高さ2mの球形塔身で中空となっており、その周囲に五つの穴が等間隔で開き、明月の夜には大蠟燭を入れると言う。古来「天上月一輪 湖中影成三」と詠まれたという。天に印した真影、そして、この月影と、視野の可視範囲である灯籠の60°角及び120°角からの灯影が西湖に「印」された三つという謂いであろうか。
・「島の名」これは西湖最大の島、小瀛洲(しょうえいす)のことであろう。小瀛洲は明代末期1607年に造られた人工島で、島の内の殆んどが池になっている。一般に三譚印月はここから見るとされる。
・「退省庵」西湖南岸、「六 西湖(一)」に現れた清末の軍人にして文人であった彭玉麟がしばしば釣りを楽しんだところに1869年に建てた故居。退省庵主人は彭玉麟の号。]
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