江南游記 十三 蘇州城内(上)
十三 蘇州城内(上)
驢馬は私を乘せるが早いか、一目散に駈け出した。場所は蘇州の城内である。狹い往來の南側には、例の通り招牌(せうはい)が下つてゐる。それだけでも好い加減せせこましい所へ、驢馬も通る、轎子(けうし)も通る、人通りも勿論少くはない、――と云ふ次第だつたから、私は手綱を引張つたなり、一時は思はず眼をつぶつた。これは臆病で何でもない。あの驢馬に跨つた儘、支那の敷石道を駈けて行くのは、容易ならない冒險である。その危なさを經驗したい讀者は、罰金をとられるのを覺悟の上、東京ならば淺草の仲店、大阪ならば心齋橋通りへ全速力の自轉車を驅つて見るが好(よ)い。
私は島津四十起氏と、今し方(がた)蘇州へ來たばかりである。本來ならば午前中に、上海を立つつもりだつたが、つい朝寢坊をしたものだから、晝の汽車に間に合はなかつた。――それも一汽車乘り遅れたのぢやない。都合三列車乘り遅れたのである。其處へ島田太堂先生なぞは、その度に停車場(ていしやじゃう)へ來られたと云ふのだから、今思ひ出して恥ぢ入らざるを得ない。しかも私を送る爲に、七絶を一首頂いた事は、愈(いよいよ)恐縮すべき思い出である。………
私の前には意氣揚揚と、島津氏が驢馬を走らせてゐる。尤も島津氏は私のやうに、始めて驢馬に乘つたのぢやない。だから腰の据り方が違ふ。私は島津氏を御手本に、内心は何度も冷や冷やしながら、いろいろ馬術の工夫をした。但しその後落馬したのは、正に御弟子の私ぢやない。御師匠番の島津氏自身ある。
狹い往來の左右には、――實は最初の何分かは、何があるのか見えなかつた。が、その何分かが過ぎた後には、經師屋(きやうじや)と寶石屋とが何軒(なんげん)もあつた。經師屋の店には山水だの花鳥だの、表装中の畫(ゑ)が並べてある。寶石屋の店には、翡翠や玉(ぎよく)が銀の飾りなぞときらめいている。それがどちらも姑蘇城らしい、優美な心もちを起させた。しかし、あの優美な心もちも驢馬の背中に躍つてゐないと、もつと嬉しかつたのに相違ない。實際一度なぞは縫箔屋(ぬひはくや)の店に、牡丹だの麒麟だのを縫ひとつた、紅い布が壁に吊してある、――それを見ようと思つたら、もう少しで目くらの胡弓彈きと、衝突してしまふ所だつた。
しかし驢馬を走らせるのも、平な敷石の上ならば、まだしも我慢が出來ない事はない。それが橋を渡るとなると、いづれも例の反り橋だから、上りは尻餠をつきさうになるし、下りも運が惡ければ、驢馬の頭越しにずり落ちかねない。おまけに橋の多い事は、姑蘇三千六百橋、呉門三百九十橋の語が、文字通りほんたうでないにもせよ、満更譃ばかりではなささうである。私はやむを得ず橋へかかると、手綱なぞを控へる代りに、驢馬の鞍へしがみついた。それでも橋を渡る時は、汚い白壁の並んだ間に、細細と蒼い運河の水が、光つてゐるのだけ眼にはいつた。
そんな道中を續けた後(のち)、やつと我我の辿りついたのは、北寺(ほくじ)の塔の前である。聞けば蘇州七塔の中、登覧する事の出來るのは、僅にこの塔ばかりだと云ふ。塔の前の草原(くさはら)には、籃(かご)を携へた婆さんたちが、二三人摘草に耽つてゐる。この草原は案内記によると、昔の死刑場だと云ふ事だから、草も人血に肥えてゐるのかも知れない。しかし白堊(はくあ)に日の光を浴びた、九層の塔の聳える前に、青服(あをふく)の婆さんが三三五五、静かに草を摘んでゐるのは、頗(すこぶる)悠悠とした眺めである。
我我は驢馬を飛び下りると、塔の最下層の入り口ヘ行つた。其處には支那の寺男が一人、格子戸の中に控へてゐる。それが二十鏡の銀貨を貰つたら、大きい錠を外した上、おはいりなさいと云ふ手眞似をした。塔の二階へ上る所には、埃臭い暗闇の中に、カンテラが一つともつてゐる。が、梯子を上(のぼ)りかけると、もうその光はさして來ない。その上手(うへて)すりへつかまつたら、この塔へ詣でた善男善女何萬人かの手垢の名殘が、ぺとり冷たいのには辟易した。しかし二階へ登つてしまへば、四方に口もついてゐるし、もう暗いのに困る事なぞはない。塔の内部は九層とも、皆桃色の壁の間に、金色の佛が安置してある。桃色と金と――かう云ふ色の配合は、妙に肉感的な所があるだけ、如何にも現代の南國らしい。私は何だかこの塔の上には、支那料理でもありさうな心もちがした。
十分の後、我我は塔の頂上から、蘇州の市街を見下してゐた。市街は黒い瓦屋根の間に、鮮かな白壁を組みこんだなり、思つたより廣廣と擴がつてゐる。その向うに霞を帶びた、高い塔があると思つたら、それは孫權が建てたとか云ふ、名高い瑞光寺の古塔だつた。(勿論今のは重修に重修を重ねた塔である。)町の外はどちらを向いても、水光(みづひか)りと緑との見えない所はない。私は欄干によりかかりながら、塔の下に草を食つてゐる、小さい二頭の驢馬を見下した。驢馬の側には驢馬引きの子供も、二人ながら石に腰かけてゐる。
「おおうい。」
私は大きい聲を出した。が、彼等はふり向きもしない。高い塔上に立つてゐる事は、何だか寂しいものである。
[やぶちゃん注:蘇州行は西湖から帰った3日後の5月8日。本文にあるような次第のために蘇州到着は夕方となった。芥川は「今し方蘇州へ來たばかり」と言っているが、それでは嘱目は夕景となる。しかし、本描写にはそのような印象は全くない。それどころか次の「十四」では続いて玄妙観に回っている。これは実は翌日の5月9日の午前中の体験と思われる。蘇州滞在は5月10日迄で、同日深夜12時頃、蘇州駅から次の目的地鎮江へと向かった。
・「招牌」看板。
・「轎子」お神輿のような形をした乗物。お神輿の部分に椅子がありそこに深く坐り、前後を8~2人で担いで客を運ぶ。これは日本由来の人力車と違って、中国や朝鮮の古来からある上流階級の乗物である。現代中国でも高山の観光地などで見かけることがある。
・「島津四十起」(しまづよそき 明治4(1871)年~昭和23(1948)年)。俳人・歌人。明治33(1900)年から上海に住み、金風社という出版社を経営、大正2(1914)年には「上海案内」「支那在留邦人々名録」等を刊行する傍ら、自由律俳誌『華彫』の編集人を務めたりした。戦後は生地兵庫に帰った。なお、彼が上海の里見病院入院中の芥川の病床で開いた句会での芥川の作が、岩波版新全集第24巻「補遺一」で「芥川氏病床慰藉句会席上」として明らかにされている。
・「島田太堂」本名島田数雄(慶応2(1866)年~昭和3(1928)年)新聞人。太堂は号。当時の日本語新聞『上海日報』の主筆。二松学舎(現・二松学舎大学)卒業後、郷里熊本の済々黌(せいせいこう:現・熊本県立済々黌高等学校)で教員(総監)となる。明治33(1900)年頃、渡中して井手三郎(文久2(1862)年~昭和6(1931)年:熊本出身の新聞人。)らと上海に同文滬報(こほう)館を設立、中文新聞『亜洲日報』を創刊した。後、井手が創刊した『上海日報』主筆となり、凡そ30年に亙って編集業務に従事した。『上海日報』》は『上海日日新聞』『上海毎日新聞』と並ぶ、上海3大日本語新聞の一つ。
・「姑蘇城」蘇州の別名。春秋時代の呉の都。南西にある姑蘇山から附いた。当時の都の位置は現在の江蘇省呉県、蘇州市の南に当たる。
・「縫箔屋」刺繍と摺箔(すりはく:布に糊や膠(にかわ)等を用いて模様を描いてそれに金箔・銀箔を押しつけたもの。)を組み合わせて布地に装飾模様を施す店屋。
・「姑蘇三千六百橋、呉門三百九十橋」姑蘇の城内には3,600橋(きょう)の橋があり、その周縁部(姑蘇城内を除いた)である呉江蘇省呉県の範囲には更に390橋の橋がある、という意味。
・「北寺」は蘇州駅に近くにある蘇州最古の寺。三国時代の呉の孫権(後注参照)が母への報恩を目的に造立(247~250頃)された通玄寺を元とする。唐代に再建されて現在のように報恩寺と名づけられた(筑摩全集類聚版の「報講寺」は誤りと思われる)。諸注が孫権の建立とする北寺塔の元自体は梁時代(502~557年頃)のものらしいが、芥川が言うように損壊と再建が繰り返され、ここで芥川が登った現在の八角形九層塔は、南宋時代の1153年の再建になるものである(七層から上は明代、廂と欄干は清代の再建・補修になるもので、正にこれもまた「瑞光寺の古塔」以上に「重修に重修を重ねた」増殖した塔である)。高さ76m、江南一の高さを誇る(以上は主に『中国・蘇州個人旅行 ユニバーサル旅行コンサルジュ「蘇州有情」』の「北寺塔」の記載を参照した)。
・「蘇州七塔」友人が中文サイトを調べてくれたところによると、六朝時代に始まった「七塔」の名数は時代や数え方で何種類もあるらしい。現在の観光名所としての名数では北寺塔・大同塔・瑞光塔・白塔・双塔(×2)・石塔を指すが、芥川が訪れた時代の名数が同じとは必ずしも言い難い。友人は古跡を含めた白塔・孟子堂の東にある塔・虹塔・司獄司署内にある塔・雄塔・雌塔と、それに妙湛寺にあった塔(現存せず)という記載がそれに近いのではないかと教えてくれた。これだと7つを数えることが出来るのだが、しかし、芥川の謂いの北寺塔が含まれない。とりあえず、前者現代の観光版と同じととっておく。
・「孫權」呉の太祖(182~252)。後漢末から三国時代にかけて活躍した「三国志」で知られる武将。赤壁の戦いで劉備と同盟し曹操の軍を破り、江東六郡の呉を建国して初代皇帝に即位した。
・「瑞光寺の古塔」蘇州で最も古い城門である盤門(元代の1351年の再建になる)の北側にそびえる瑞光寺塔のこと。禅寺として三国時代の241年に創建された。八角七層の塔は北宋初期のもので、高さ43.2m。
・「高い塔上に立つてゐる事は、何だか寂しいものである」私はこのヴィジュアルなエンディングが如何にも印象的で好きである。パースペクティヴに富んだ彼の視線の映像と声が鮮やかに聞こえてくる。そうしてその最後の言葉は芥川龍之介版「第三の男」の哲学である。]