長江游記 四 廬山(下)
これを以って芥川龍之介「長江游記」の全篇の公開を終わった。既に次の「北京日記抄」の原文打ち込みは終了、これより注釈作業に着手する。 * 四 廬山(下)
飯を食つてしまつたら、急に冷氣を感じ出したのはさすがに海拔三千尺である。成程廬山はつまらないにもしろ、この五月の寒さだけは珍重に値するのに違ひない。私は窓側の長椅子に岩山(いはやま)の松を眺めながら、兎に角廬山の避暑地的價値には敬意を表したいと考へた。
其へ姿を現したのは大元洋行の主人である。主人はもう五十を越してゐるのであらう。しかし赤みのさした顏はまだエネルギイに充ち滿ちた、逞しい活動家を示してゐる。我我はこの主人を相手にいろいろ廬山の話をした。主人は頗る雄辯である。或は雄辯過ぎるのかも知れない。何しろ一たび興(きよう)到(いた)ると、白樂天と云ふ名前をハクラクと縮めてしまふのだから、それだけでも豪快や思ふべしである。
「香爐峰と云ふのは二つありますがね。こつちのは李白の香爐峰、あつちのは白樂天の香爐峰――このハクラクの香爐峰つてやつは松一本ない禿山でがす。………」
大體かう云ふ調子である。が、それはまだしも好(よ)い。いや、香爐峰の二つあるのなどは寧ろ我我には便利である。一つしかないものを二つにするのは特許權を無視した罪惡かも知れない。しかし既に二つあるものは、たとひ三つにしたにもせよ、不法行爲にはならない筈である。だから私は向うに見える山を忽(たちまち)「私の香爐峰」にした。けれども主人は雄辯以外に、廬山を見ること戀人の如き、熱烈なる愛着を蓄へてゐる。
「この廬山つて山はですね。五老峰とか、三疊泉とか、古來名所の多い山でがす。まあ、御見物なさるんなら、いくら短くつても一週間、それから十日つて所でがせう。その先は一月でも半年でも、尤も冬は虎も出ますが………」
かう云ふ「第二の愛郷心」はこの主人に限つたことぢやない。支那に在留する日本人は悉(ことごとく)ふんだんに持ち合はせてゐる。苛(いやしく)も支那を旅行するのに愉快ならんことを期する士人は土匪(どひ)に遇ふ危險は犯すにしても、彼等の「第二の愛郷心」だけは尊重するやうに努めなければならぬ。上海(シヤンハイ)の大馬路(ダマロ)はパリのやうである。北京の文華殿にもルウブルのやうに、贋物(がんぶつ)の畫(ゑ)などは一枚もない。――と云ふやうに感服してゐなければならぬ。しかし廬山に一週間ゐるのは單に感服してゐるのよりも、遙に骨の折れる仕事である。私はまづ恐る恐る、主人に私の病弱を訴へ、相成るべくは明日(あした)の朝下山したいと云ふ希望を述べた。
「明日もうお歸りですか? ぢや何處も見られませんぜ。」
主人は半ば憐むやうに、又半ば嘲るやうにかう私の言葉に答へた。が、それきりあきらめるかと思ふと、今度はもう一層熱心に、「ぢや今の内にこの近所を御見物なさい。」と勸め出した。これも斷つてしまふのは虎退治に出かけるよりも危險である。私はやむを得ず竹内氏の一行と、見たくもない風景を見物に出かけた。
主人の言葉に從へば、クウリンの町は此處を距(さ)ること、ほんの一跨(また(ぎだと云ふことである。しかし實際歩いて見ると、一跨ぎや二跨ぎどころの騷ぎではない。路は山笹(やまざさ)の茂つた中に何處までもうねうね登つてゐる。私はいつかヘルメットの下に汗の滴るのを感じながら、愈(いよいよ)天下の名山に對する憤慨の念を新にし出した。名山、名畫、名人、名文――あらゆる「名」の字のついたものは、自我を重んずる我我を、傳統の奴隸にするものである。未来派の畫家は大體にも、古典的作品を破壞せよと云つた。古典的作品を破壞する次手に、廬山もダイナマイトの火に吹き飛ばすが好(い)い。………
しかしやつと辿り着いて見ると、山風に鳴つてゐる松の間、岩山を綴らせた目の下の谷に、赤い屋根だの黒い屋根だの、無數の屋根が並んでゐるのは、思つたよりも快い眺めである。私は道ばたに腰を下し、大事にポケツトに蓄へて來た日本の「敷島」へ火を移した。レエスを下げた窓も見える。草花の鉢を置いたバルコンも見える。青芝を劃(かぎ)つたテニス・コオトも見える。ハクラクの香爐峰は姑(しばら)く問はず、兎に角避暑地たるクウリンは一夏を消(せう)するのに足る處らしい。私は竹内氏の一行のずんずん先へ行つた後も、ぼんやり卷煙草を啣へた儘、かすかに人影の透いて見える家家の窓を見下してゐた、いつか東京に殘して來た子供の事などを思ひ出しながら。
[やぶちゃん注:5月23日。
・「海拔三千尺」1尺=30.3㎝であるから、凡そ909m。廬山は最高峰である漢陽峰が海抜1,474mであるから(ウィキの「廬山」の記載)、565mも足りない。「四千尺」でもまだ262m足りない。いっそ実測の近似値「五千尺」でなんら問題はない。もう実見から三年も経った芥川には、中国の誇張表現癖が抜けてしまいのであろうか。いやいや、これは確信犯、李白の「望廬山瀑布」の転句「飛流直下三千尺」をもとにした表現だからである。
望廬山瀑布
日照香爐生紫煙
遙看瀑布挂前川
飛流直下三千尺
疑是銀河落九天
○やぶちゃんの書き下し文
廬山瀑布を望む
日 香爐を照らし 紫煙生ず
遙かに看る 瀑布の前川(ぜんせん)に挂(か)くるを
飛流直下三千尺
疑ふらくは是れ 銀河の九天より落つるかと
○やぶちゃんの現代語訳
廬山の大瀧を眺める
陽が香爐峰を照らす――すると立ち上るは紫がかった香煙のような雲
遙かに見渡す――目前の川に掛かるかのような大瀧
飛流直下三千尺!
あたかもそれは 銀河が天空の頂点から落ちたのではないか?! と思わせる――
・「李白の香爐峰、あつちのは白樂天の香爐峰」余りにも有名な「香爐峰」は、その峰の形状とそこから雲気が立ち上る様が香炉に似ることからの命名。ここで大元洋行の主人が言う話は眉唾ではなく、事実、廬山の北西部分にある香爐峰は南北の二峰が存在する。この言に従えば前掲の李白の七絶「望廬山瀑布」の起句「日照香爐生紫煙」等は南の香炉峰で、白居易が「香爐峰雪撥簾看」と詠じたのは北の香炉峰ということになる。
・「五老峰」海抜1,378m(1,358 mとも)にある廬山の中で最も険しい峰(ここを最高峰とする記載が多いが、先のウィキの漢陽峰を最高峰とする記載を採る)。山麓から見上げると五人の老人が座って仰ぎみるような形に見える。牯嶺(クウリン)からは約9㎞も離れている。
・「三疊泉」は三段の瀧の名。五老峰近くにあり、廬山第一、廬山に来てここを見なければ来た意味がない、とまで呼ばれる名所である。落差約155m。
・「虎」「二 溯江」でも示した通り、この「虎」はネコ目ネコ科ヒョウ亜科ヒョウ属トラPanthera tigrisの亜種で、中華人民共和国南部及び西部に生息するアモイトラPanthera tigris amoyensisを指していると考えてよい。全長は♂230~265㎝・♀220~240㎝。体重♂130~175㎏、♀100~115㎏。腹面には狭い白色の体毛があり、縞は太く短く、縞の本数は少ない。既に絶滅が疑われている。
・「土匪」土着民で生活の困窮から、武装して略奪や暴行殺人を日常的に行うようになった盗賊集団を言う。
・「大馬路(ダマロ)」“dàmălù”。上海市内を東西に走る繁華街。現・南京路。「馬路」とは中国語で都市の大通りのことを言う。
・「文華殿」北京紫禁城の外朝(内廷の外側)にある建物。明代には東宮として皇太子の居住区であるとともに、明・清を通じて内閣大学士を構成員とする「内閣」(実質上政治最高機関で日本の内閣という呼称の由来)が置かれた。ここの北側にある文淵閣は、清代に複数浄書(正本7部・副本1部)された四庫全書(中国史上最大の漢籍叢書。完成は乾隆46(1781)年で、9年を要した。経・史・子・集の4部に分類され、総冊数は36000冊に及ぶ)の所蔵で知られた(現在は台湾故宮博物院に所蔵)。現在、故宮博物院となっているが、芥川が訪問した当時、既に、明・清代の御物が展示されて一般に公開されていたものと見える。因みに、芥川訪問時は、未だ中華民国臨時政府が居住権の許可を与えていた溥儀一族が内廷内に住んでいた(後、奉直戦争の中で起こった1924年の馮玉祥(ふうぎょくしょう)の内乱(北京政変)により強制退去させられた)。芥川龍之介は北京到着の6月11日以降、恐らく6月25日から7月9日の間に見学しているが、唯一「北京日記抄」の掉尾に(引用は岩波版旧全集から)、
紫禁城。こは夢魔のみ。夜天よりも厖大(ぼうだい)なる夢魔のみ。
とあるのみである。
・『日本の「敷島」』「敷島」は国産の吸口付き煙草の銘柄。明治・大正・昭和初期迄の小説に頻繁に登場する、言わば文士のアイテムである。明治37(1904)年に発売され、昭和18(1943)年販売終了。口付とは、紙巻き煙草に付属した同等かやや短い口紙と呼ばれるやや厚手の紙で出来た円筒形の吸い口のことで、喫煙時に十字や一文字に潰して吸う。確か私の大学時分まで「朝日」が生き残っていて、吸った覚えがある。ここで芥川は「日本の」と振り、更に「敷島」を鍵括弧で括ることで(これは煙草の銘柄であることを示すための鍵括弧では、断じてない。芥川の他の作品や他作家の小説でも煙草の敷島を「 」で括ったりはしない)、ダブルの枕詞として、読者に効果的な「愛郷心」としての「大和」=「日本」のイメージを引き出しているのである。「敷島」という語は奈良県磯城(しき)郡の地を示す語で、崇神・欽明両天皇の都が置かれた場所であることから、大和国の、更に日本国の別称となった。そこから「敷島の」は「やまと」に掛かる枕詞になったのである。
・「東京に殘して來た子供の事」芥川比呂志のこと。中国旅行当時、長男の比呂志は、満一歳であった(旅行前年の大正9(1920)年4月10日生)。先立つ5月12日頃、南京にいた芥川は、体調の不調を訴えながらも比呂志の初節句の祝に着物を買っている。『支那の子供がお節句の時に着る虎のやうな着物ですあまり大きくないから比呂志の體ははひらないかもしれません尤もたつた一圓三十錢です』(5月17日上海から芥川道章宛岩波旧全集書簡番号九〇〇)。因みに、本「長江游記」発表時には、既に次男多加志も誕生しており(大正11(1922)11月8日生)、やはり執筆時には満一歳であった。芥川が子煩悩であったことは、その遺書を見ても分かる。そうして、そうして実は計算された印象的な孤独な一人の、高みからのシーン(過去の「江南游記」の中でしばしば試みられた「第三の男」的手法である)に“Fin”が入るという憎い演出なのである――大事大事に抱えてきた湿ったまずい日本煙草を燻らせて――一人尾根に取り残されて――山上から下界を見下ろしながらノスタルジックに日本を思う堀川保吉――風の音が聞こえる――]