江南游記 二十二 大運河
二十二 大運河
我我は鎭江(チンキヤン)から揚州に通ふ、川蒸氣の上等室に腰をかけてゐる。と云ふと如何にも贅澤らしいが、この汽船の上等室は奴隸の船艙(ふなぐら)と大差はない。現に我我が坐つてゐるのも、まつ黑な揚げ板の上である。揚げ板の下は、察する所、直(すぐ)と船底(ふなぞこ)に違ひない。ぢや上等室なる所以は何處にあるかと云ふと、兎に角此處は室になつてゐる。下等は船の屋根の上だから、室と呼びたくも室ぢやない。
船の外は名代(なだい)の揚子江である。揚子江の水の赭(あか)い事は、中學生と雖も心得てゐる。が、どの位赭いかと云ふ事は、江に泛(うか)ばないと髣髴出來ない。私は上海滯在中、黄浦江の水さへ見れば、必ず黄疸を思ひ出した。あれは今考へると、多少でも海水を交へてゐるだけ、やつと黄疸ですんでゐたのである。しかし揚子江の水の色は、黄浦江よりも遙に赭い。まあ似た色を搜して來れば、金物の赤錆にそつくりである。それが起伏する波の間に、紫の影を煙らせながら、何處までも無法に廣がつてゐる。殊に今日は曇つてゐるから、一層その色が重苦しい。江上には無數のジヤンクの外に、英吉利の旗を飜した、二本檣(マスト)の汽船が一艘、一心に濁浪と鬪つてゐる。勿論實際は鬪はずとも、航行出來たのかも知れないが、そのまつ白に塗られた船が、徐(おもむ)に江を遡る所は、どうしても鬪ふと云ふ感じである。私は彼是五分ばかり、揚子江に敬意を拂つてから、冷い板の上に寢ころんだ儘、眠るとも思はず眠つてしまつた。
我我は昨夜十二時頃、蘇州の停車場から汽車に乘つた。錢江(チンキヤン)へ着いたのは夜明け方である。停車場の外へ出て見ると、車屋もまだ集まつてゐない。唯曇つた葉柳の空に、鴉ばかり何羽も集まつてゐる。我我は兎に角朝飯を食ひに、停車場前の茶館(ちやかん)へ行つた。茶館も今起きたばかりだから、麺類も急には出來ないと云ふ。すると島津氏は茶館の亭主に、何とか云ふ物を持つて來いと云つた。それならば今でもある所を見ると、上等な食物ぢやないに違ひない。又實際食つて見た感じも簾麩(すだれふ)のやうな、湯葉のやうな要するに二度と食ふ氣のしない、頗(すこぶる)怪しげな代物である。――さう云ふ艱難を嘗めた上、やつとこの汽船に乘つたのだから、ほつと一息すると同時に、眠氣を催したのも不思議ぢやない。
少時(しばらく)うとうとしてゐた後(のち)、汽船の外を眺めると、何時の間に瓜州(くわしう)を過ぎたのか、草の青い一帶の土手が、直(すぐ)と眼の前に動いてゐた。此處はもう長江ぢやない。隋の煬帝(やうだい)が開鑿(かいさく)した、延長二千五百哩(マイル)と云ふ世界第一の大運河である。しかし船から眺めた所は、格別雄大でも何でもない。薄日の當つた土手の上に、野菜の色がちらついたり、百姓の姿が見えたりするのは、何だか銚子通ひの汽船の窓から、葛飾の平野でも眺めるやうな、平凡な氣もちがする位である。私は又煙草を啣(くは)へながら、紀行を書かされる時の下拵へに、懷古の詩情を捏(こ)ね上げようとした。しかしこれは取りかかつて見ると思つた程容易に成功しない。第一私が考へる事は、悉(ことごとく)案内記が破壞してしまふ。今その見本を擧げて見れば、大體下(しも)の通りである。
私。ああ、煬帝はこの堤に、萬株(ばんしゆ)の楊柳を植ゑさせた上、十里に一亭を造らせたと云ふ。堤は昔の堤である。が、煬帝は今何處にあるか?
案内記。堤は昔の堤ぢやない。爾來五代以降元明清、皆北京に都を定め、食糧を江南に需(もと)めたから、運河も度度修理された。この堤の草色(さうしよく)を見ながら、煬帝の昔を懷ふのは、銀座尾張町に佇みながら、太田道灌を憶ふのも同じ事である。
私。水は今も昔のやうに、悠悠と南北に通じてゐる。が、隋朝は夢のやうに、忽(たちまち)瓦解してしまつたではないか?
案内記。水は南北に通じてゐない。とうに山東省臨清州では、河底に田畑を拵へたから、舟楫(しうしふ)の通ずるのは其處までである。
私。ああ、過去よ。美しい過去よ。たとひ隋は亡びても、雲の如き麗姫(れいき)と共に、この運河に舟を浮べた、我(わが)風流天子(ふうりうてんし)の榮華は、たとへば壯大な虹のやうに、歴史の空を横切つてゐる。
案内記。煬帝は快樂に耽つたのではない。あれは大業(たいげふ)七年に、遠く高麗を伐たうとした、その準備が暴露しないやうに、表面だけ悠遊(いういう)を裝つたのである。この運河もすはと云ふ時に、糧食を送る必要上、特に開かせたと思ふが好(よ)い。お前は「迷樓記」や「開河記」(かいかき)なぞを正史と混同してゐはしないか? あんな俗書は信ずるに足りない。殊に「煬帝艷史」なぞは、小説としても惡作である。
私は煙草を吸ひやむと共に、詩情の製造も斷念した。土手の上の春風(はるかぜ)には、子供を乘せた驢馬が一匹、汽船と同じ方へ歩いてゐる。
[やぶちゃん注:ここで芥川が言う「大運河」とは、京杭運河のこと。北京から杭州までを結び、途中、黄河と揚子江を横断する。総延長は1,794㎞に及び(ネット上にはウィキを初め2,500㎞という記載もある)、全面開鑿時には世界最長の運河であった。戦国時代から部分的に開削されていたものを、隋の第2代皇帝煬帝(569~618)が610年に完成させた。
・「鎭江(チンキヤン)」“Zhènjiāng”(チェンチィアン)は江蘇省西南部長江下流南岸、長江と京杭運河とが交差する地点、上海から凡そ200㎞上流、南京の下流凡そ80㎞に位置する。芥川は5月11日深夜、午前0時頃、蘇州駅から乗車して、夜明けに鎮江に到着、下車してこの運河を船で揚州に向かった。
・「揚州」鎮江の長江を隔てた北方30㎞に位置する京杭運河沿いの町。運河開通により物資の集積地となって古くから繁栄した。続く「二十三 古揚州(上)」以下三篇に譲る。
・「黄浦江」太湖を源流とする上海市内を貫通する川。市街地下流で長江に合流する。
・「ジヤンク」元来はジャワ語の「船」の意。中国・ベトナムの沿岸や河川で使用される中型以上の伝統的木造帆船の総称。
・「簾麩のやうな、湯葉のやうな要するに二度と食ふ氣のしない、頗怪しげな代物」料理名不詳。中華料理にお詳しい方の御教授を乞う。
・「瓜州」揚州、長江北岸の町。鎮江との長江の渡し場として栄えた。
・「二千五百哩」1mile=1.6㎞で計算しても、2,500×1.6=4,000㎞。前述の通り、最大長をとっても2,500㎞であるから、芥川もすっかり中華的誇張表現に狎らされてしまった。
・「十里」隨代の記載によるものならば、1里=300歩≒531m(現代中国は500m)であるから、5.31㎞ごと。
・「銀座尾張町に佇みながら、太田道灌を憶ふ」太田道灌(永享4(1432)年~文明18(1486)年)は室町時代の武将で武蔵国守護代として江戸城を築城、江戸の繁栄の礎を創った人物。「銀座尾張町」は現在の銀座4丁目で、明治中期以降、ここの尾張町角(現・銀座四丁目交差点)の服部時計店と、現在の三越の位置にあった山崎高等洋服店が、帝都東京を代表する繁華街銀座の象徴であった。
・「山東省臨清州」山東省西部に位置し、現在は聊城市(りょうじょうし)に属する。名称は古く清河という川が近くを流れていたことに由来する。京杭運河に面した交通の要衝として栄えた。清代の開国以降、芥川が言うようにこの付近の運河は閉塞した模様であるが、中華人民共和国成立以後、再整備されて再び運河として機能している。
・「風流天子の榮華」「風流天子」は煬帝のこと。後に芥川が挙げる「煬帝艷史」の清代の刻本に「絵図風流天子伝」と題するものがあり、芥川はそれを意識したか。ウィキの「揚州市」の記載によると、『煬帝が再三行幸を行い、遊蕩に耽ったため、亡国に至った都市としても知られている』とある。
・「大業七年」611年。煬帝42歳。但し、以下に示す通り、高句麗第一次遠征は大業八(612)年である。
・「高麗を伐たうとした」ウィキの「煬帝」によれば、大運河開鑿によって物流の円滑化に成功した彼は、領土拡大を目論み、612年に高句麗遠征を敢行する。その後も3度に亙って遠征したが、完全な失敗に終わり、隋の権威は失墜、『国庫に負担を与える遠征は民衆の反発を買い、第2次遠征途中』には、『各地で反乱が発生、隋国内は大いに乱れた』。各地で群雄が割拠する惨憺たる政情不安の中、煬帝は江南に逃れることとなった。その後、『煬帝は現実から逃避して酒色にふける生活を送り、皇帝としての統治能力は失われていた。618年、江都で煬帝は故郷への帰還を望む近衛兵を率いた』側近達に裏切られて殺された、とある。芥川の記述とは時制を齟齬にはするが、この高句麗遠征後の事蹟を以って、「快樂に耽つた」とするか。結果と原因がどちらであったにせよ、ある意味、芥川の詠じる如く、煬帝の「榮華」は、その大運河のうねりと同じく「壯大な虹のやうに、歴史の空を横切つてゐる」と言えるように、私には感じられる。
・『「迷樓記」』作者未詳。宋代の劉斧「青瑣高議」という書に所収しているため、唐代から宋以前と推定される。煬帝の生涯を描く伝奇小説。迷楼は作中に現れる、晩年の煬帝が莫大な費用と1年の歳月をかけて作らせた大規模な複数の迷宮型楼閣の名。真仙も一日中迷い続けるという意味で煬帝自らが名付けたという。今も揚州市にその跡とされる迷楼址がある。
・『「開河記」』作者未詳であるが、文体から「迷樓記」と同じ作家になるものと推定されている。主に煬帝の大運河開鑿を描く伝奇小説。そこには揚州に行幸した煬帝が将軍麻叔謀に、黄河を浚渫し、揚州の北にある黄河と長江の間を東西に流れている淮河との運河の開鑿を将軍麻叔謀に命じ、麻叔謀は兵士や人夫を冷酷無惨に犠牲にして実行したことが記されている。因みに、この麻叔謀なる男は上田秋成の「雨月物語」の「青頭巾」で小児の肉を好んで食った人物として挙げられている。「開河記」には他にも嗜好的人肉食の話が出てくるようである。これは私の嗜好譚、脱線である――
・『「煬帝艷史」』正しくは「新鍋全像通俗演義晴煬帝艶史」。通常は略して「煬帝艶史」「晴煬艶史」「艶史」と呼ぶ。作者未詳。明末期の成立。煬帝の誕生から死に至るまでの先行する「迷樓記」「開河記」等の記載を自在に組み合わせ、更に女性との絡みを主たる部分に効果的に据えて創作された通俗小説。岩波版新全集の神田由美子氏の注解によると、『日本では『通俗二十一史』にも収められ、この書の記述が大体は歴史的事実であるかのように考えられていた』とある。「通俗二十一史」とは、早稲田大学出版部が明治44(1911)年に出版した叢書。以上の三書については、多様なネット記載を総合して記載したが、特に書誌的な部分は最も信頼出来ると思われる九州大学中国文学論集の河野真人氏の論文「『隋煬帝艶史』に於ける『隋遺録』『海山記』『開河記』『迷楼記』の襲用について」を参照した)。]