江南游記 十五 蘇州城内(下)
十五 蘇州城内(下)
孔子廟へ來たのは日暮れ方だつた。疲れた驢馬に跨りながら、敷石の間に草の生えた、廟前の路へさしかかると、寂しい路(みち)ばたの桑畑の上に、薄白い瑞光寺の癈塔が見える。塔の一層一層に、蔦蘿(つたかつら)や草の茂つたのも見える。その空に點點と飛び違ふ、この邊(へん)に多い鵲(かささぎ)も見える。私は實際この瞬間、蒼茫萬古(さうばうばんこ)の意とでも形容したい、哀れにも嬉しい心もちになつた。
この蒼茫萬古の意は、幸ひにずつと裏切られなかつた。門外に驢馬を乘り捨てた後(のち)、路も覺束ない草の中を行けば、暗い柏や杉の間に、南京藻の浮んだ池がある。と思ふと池の縁(ふち)には、赤い筋の帽子の兵卒が一人、蘆や蒲を押し分けながら、叉手網(さであみ)に魚(うを)を掬つてゐる。此處は明治七年に再建(さいこん)されたとは云ふものの、宋の名臣范仲淹(はんちゆうえん)が創(はじ)めた、江南第一の文廟である。それを思へばこの荒廢は、直に支那の荒廢ではないか? しかし少くとも遠來の私には、この荒廢があればこそ、懷古の詩興も生ずるのである。私は一體歎けば好(よ)いのか、それとも又喜べば好いのか?――さう云ふ矛盾を感じながら、苔蒸した石橋(いしばし)を渡つた時、私の口には何時の間にか、こんな句がかすかに謳はれてゐた。「休言竟是人家國。我亦書生好感時。」但しこの句の作者は私ぢやない。北京にゐる今關天彭(いまぜきてんぽう)氏である。
黒い禮門を通り過ぎてから、石獅(せきし)の間を少し歩むと、何とか云ふ小さい通用門がある。その門を開けて貰ふ爲には、青服(あをふく)の門番の上(かみ)さんに、二十錢銀貨をやらなければならない。が、その貧しさうな上さんが、痘痕(あばた)のある十ばかりの女の子と一しよに、案内に立つ所は哀れである。我我は彼等の後から、毒だみの花だけ仄白(ほのしろ)い、夕濕りの敷石を踏んで行つた。敷石の盡きる所には、戟門(げきもん)と云ふのだらう、大きい門が聳えてゐる。名高い天文圖や支那全圖の石に刻まれたのも此處にあるが、あたりに濡つた薄明りでは、碑面もはつきりとは見る事が出來ない。唯その門をはいつた所に、太鼓や鐘が並んでゐる。甚しいかな、禮樂の衰へたるや。今考へると滑稽だが、私はこの埃だらけの、古風な樂器を眺めた時、何だかそんな感慨があつた。
戟門の中の石疊みにも、勿論茫茫と草が伸びてゐる。石疊みの南側には、昔の文官試驗場だつたと云ふ、廊下同樣の屋根續きの前に、何本も太い銀杏がある。我我は門番の親子と一しよに、その石疊みのつきあたりにある、大成殿(たいせいでん)の石段を登つた。大成殿は廟の成殿だから、規模も中中雄大である。石段の龍、黄色(きいろ)の壁、群青に白く殿名を書いた、御筆(ぎよひつ)らしい正面の額――私は殿外を眺めまはした後、薄暗い殿内を覗いて見た。すると高い天井に、雨でも降るのかと思ふ位、颯颯(さつさつ)たる音(おと)が渡つてゐる。同時に何か異樣の臭ひが、ぷんと私の鼻を打つた。
「何です、あれは?」
私は早速退却しながら、島津四十起氏をふり返つた。
「蝙蝠(かうもり)ですよ、この天井に巣を食つてゐる。――」
島津氏はにやにや笑つてゐた。見れば成程敷き瓦の上にも、一面に黑い糞が落ちてゐる。あの羽音を聞いた上、この夥しい糞を見れば、如何に澤山の蝙蝠が、梁間の暗闇に飛んでゐるか、想ふだに餘り好(よ)い氣味はしない。私は懷古の詩境からゴヤの畫境へつき落された。かうなつては蒼茫どころぢやない。宛然(ゑんぜん)たる怪談の世界である。
「孔子も蝙蝠には閉口でせう。」
「何、蝠(ふく)と福とは同音ですから、支那人は蝙蝠を喜ぶものです。」
驢背(ろはい)の客となつた後、我我はもう夕靄の下りた、暗い小道を通りながら、こんな事を話し合つた。蝙蝠は日本でも江戸時代には、氣味が惡いと云ふよりも、意氣な物だと思はれたらしい。蝙蝠安(かうもりやす)の刺青(ほりもの)の如きは、確にその證據である。しかし西洋の影響は、何時の間にか鹽酸のやうに、地金(ぢがね)の江戸を腐らせてしまつた。して見れば今後二十年もすると、「蝙蝠も出て來て濱の夕涼み」の唄には、ボオドレエルの感化があるなぞと、述べ立てる批評家が出るかも知れない。――驢馬はその間も小走りに、頸の鈴を鳴らし鳴らし、新緑の匂の漂つた、人氣のない路を急いでゐる。
[やぶちゃん注:「十三 蘇州城内(上)」の冒頭注で示した通り、5月9日の嘱目。ここまで入れ込んで注を附していると、不思議なことが起こるものだ。私は西湖に行ったことがないのに、眼をつぶってもその略図が書けるようになり、その半ば淀んだアオコの水の生臭い匂いがし、擦れ違う中国人の鮮やかな服が思い出せる。そうして遂には「小走りに、頸の鈴を鳴らし鳴らし、新緑の匂の漂つた、人氣のない路を急いでゐる」驢馬に跨った華奢な芥川をドキュメンタリーで撮影しているカメラマンである自分が実感されるのである。
・「孔子廟」蘇州文廟とも。宋の1035年に教育行政の一環として蘇州知事范仲掩によって創建された江南最大の孔子廟である。現在は廟内にある蘇州碑刻博物館としての肩書の方が知られ、儒学・経済・孔廟重修記碑等多数が展示されている。芥川が見えないことを嘆いたのはその目玉である「平江図碑」(1229)・「天文図碑」(1247)・「地理図碑」(1247)・「帝王紹運図碑」(1247)の四大宋碑である(主に松倉大輔氏の「旅で出会った文物たち 第六回 蘇州をゆく」の記載を参照した)。
・「瑞光寺の癈塔」蘇州で最も古い城門である盤門(元代の1351年の再建になる)の北側にそびえる瑞光寺塔のこと。禅寺として三国時代の241年に創建された。八角七層の塔は北宋初期のもので、高さ43.2m。ここで芥川が「癈塔」と表現している(「十三 蘇州城内(上)」では『名高い瑞光寺の古塔だつた。(勿論今のは重修に重修を重ねた塔である。)』とあったのだが)のは、芥川が見た時は、「重修に重修を重ねた」ものが以下に描出されるように、羅生門の如く相当に荒廃していたということを指している。
・「蔦蘿」「蘿」も、つた・かずらの意。
・「鵲」スズメ目カラス科カササギPica pica。本邦では主に有明海沿岸に分布、コウライガラスとも呼ぶ。中国では「喜鵲」で、「鵲」「客鵲」「神女」等とも言う。大陸や朝鮮半島では極一般的な鳥である。
・「蒼茫萬古」。目に見えない何ものかが無限の彼方まで広がっているさまが、永遠に続く時の中にあること。限定を超越した永遠無限の時空間認識、その感懐を言う語。
・「南京藻」他の作品でもそうだが芥川がこう言う時には、必ず腐れ水の匂いが付き纏う。従ってこれは、所謂、水草らしい水草としての顕花植物としての水草類や、それらしく見える藻類を指すのではなく、真正細菌シアノバクテリア門藍藻類のクロオコッカス目 Chroococcales・プレウロカプサ目 Pleurocapsales・ユレモ目 Oscillatoriales・ネンジュモ目 Nostocales・スティゴネマ目 Stigonematales・グロエオバクター目 Gloeobacterales等に属する、光合成によって酸素を生み出す真正細菌の一群、所謂、アオコを形成するものを指していると考えられる。アオコの主原因として挙げられる種は藍藻類の中でもクロオコッカス目のミクロキスティス属 Microcystis、ネンジュモ目アナベナ属 Anabaena や同目のアナベノプシス属 Anabaenopsis 等であるが、更に緑藻類の緑色植物亜界緑藻植物門トレボウキシア藻綱クロレラ目クロレラ科のクロレラ属 Chlorella、緑藻植物門緑藻綱ヨコワミドロ目イカダモ科イカダモ属 Scenedesmus、緑藻綱ボルボックス目クラミドモナス科クラミドモナス属 Chlamydomonas 等もその範囲に含まれてくる。若しくは、それらが付着した水草類で緑色に澱んだものをイメージすればよいであろう。
・「叉手網」2本の竹木を交差させて袋状に網を張り、魚を掬い採る漁具。
・「明治七年」1874年。清の同治13年。
・「范仲淹」(989~1052)は北宋屈指の名臣。蘇州出身で、辺境をよく守備して西夏の侵入を防いだ。名文「岳陽楼記」中、理想的な為政者の在り方を示した「先憂後楽」は特に知られる故事成句である。1104年にこの孔子廟(蘇州文廟)を建立している。
・「文廟」一般名詞としての孔子廟のこと。
・『「休言竟是人家國。我亦書生好感時。」』は、
○やぶちゃんの書き下し文
言ふを休めよや 竟(つひ)に是れ 人の家國(かこく)
我れ亦 書生 好く時に感ずべし
○やぶちゃんの現代語訳
あれこれ言うのは止めましょう トドのつまり ここは中国 人の国
私もこれまた たかが学生(がくしょう) 人生に いろいろ感じて懐(おも)うのも 仕方がないとは言えましょう
てな感じだろうか。前後がないのでとんでもない誤訳かも知れない。ご注意あれ。
・「今關天彭」本名今関寿麿(いまぜきとしまろ 明治15(1882)年~昭和45(1970)年)は日本の中国研究家・漢詩人。石川鴻斎(こうさい)、森槐南(かいなん)らに師事。朝鮮総督府嘱託などを経て、大正7(1918)年に北京に中国文化学術の研究所である今関研究室を設立。昭和17(1942)年には重光葵(しげみつまもる)駐華大使の大使顧問となった。著作に「宋元明清儒学年表」「中国文化入門」「近代支那の学芸」「天彭詩集」等多数。
・「禮門」ここでは、孔子廟の一番外側にある入場門の謂い。
・「石獅」日本の狛犬。古代インドをルーツとし、日本へは中国から朝鮮を経て移入、そこから「高麗(こま)犬」と呼ばれるようになったとされる。
・「戟門」ここでは、孔子廟の内の正門の謂い。
・「天文圖」四大宋碑の一つである「淳祐天文図碑」(1247)のこと。十二支を星座に配してある。この星図自体は既に南宋の1190年頃には完成していたらしい。
・「支那全圖」四大宋碑の一つである「地理図碑」(1247)というのがそれであろうか。識者の御教授を乞う。
・「昔の文官試驗場」科挙試のための一方開放式ボックスの試験室が長屋状になったもの。私も復元されたものに受験生気分で座って写真を撮ったことがある。極めて狭い。ここで2泊三日自炊で試験を受けた。筆記試験実施中にここから出た者は即座に失格であった。
・「大成殿」孔子廟の正殿。
・「御筆らしい正面の額」筑摩全集類聚版脚注には、北宋の徽宗(1082~1135)の宸筆か、と推測されているが、岩波版はここに注しない。そうではないということか?
・「ゴヤの畫境」晩年のFrancisco José de Goya y Lucientesフランシスコ・ホセ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンテス(1746~1828)は1792年46歳で聴力を失い、1800年代初頭のフランスとの半島戦争(1808~1814)の戦火の中、1799年には有名なグロテスクな寓意に富んだ処女版画集『ロス・カプリチョス』を刊行、戦中には著名な戦争画「マドリード、1808年5月3日」(素晴らしい構図の「巨人」も挙げたいところだが、2009年1月に所蔵するプラド美術館によってゴヤの真筆ではないことが結論された)を描き、1810年には版画集『戦争の惨禍』を、また1820年から1824年にかけては「我が子を食らうサトゥルヌス」で有名な、魔女や暴力を描いた『黒い絵』シリーズを描くなど、暗い現実への皮肉と憎悪に満ちた陰惨な怪奇幻想作品を好んで描いている。
・「宛然たる」そっくりそのままであること。全くもって。完全に。
・「孔子も蝙蝠には閉口でせう。」というこの台詞、音読してみると一目瞭然、次の中国音の音通以前に、芥川自身が「孔」・「蝙」・「口」で音通を洒落ているのである。こういう部分にこそ「注」は必要である。向後、誰一人としてこうした芥川の技巧が分からなくなる日が必ず来る。「蝙蝠」が読めず、「閉口」の意味が分からず、「孔子」の当たり前の事蹟も知らない者が、どうしてこのウィットに気づけるであろう。私は誰かが、こんなつまらないことを今、注しておかなくてはならないのだとしみじみ思うのである。
・「蝠と福とは同音ですから、支那人は蝙蝠を喜ぶもの」本邦と同じくコウモリを言う「蝙蝠」は中国語で“biănfú”で、「蝠」の字の音は“fú”である。「福」は同じく“fú”で、完全な音通となる。しばしば見られる紅い蝙蝠のデザインは「紅蝠」“hóngfú”が完全な同音の「洪福」“hóngfú”(大きい幸福)の意となるからである。また、長寿・富貴・健康・修徳・天寿という中国人の理想的「福」を示すために5頭の蝙蝠が飛ぶデザインで描いたりもする。
・「蝙蝠安の刺青」歌舞伎世話物で一般に「お富与三郎」とか「切られ与三(よさ)」の通称で知られる「与話情浮名横櫛」(よわなさけうきなのよこぐし)の主人公。一立斎文車(いちりつさいぶんしゃ ?~文久2(1862)年)の講談が原作。但し、原作は菅良助(かんりょうすけ 明和6(1769)年~万延元(1860)年)説もある。三代目瀬川如皐(せがわじょこう 文化3(1806)年~明治14(1881)年)が歌舞伎に仕立てて、嘉永6(1853)年に江戸で初演された一種のピカレスク・ロマン。身を持ち崩した主人公与三郎とつるむゴロツキの渾名が「蝙蝠安」で、左頰に蝙蝠の刺青をしている。
・『「蝙蝠も出て來て濱の夕涼み」』筑摩全集類聚版は未詳とし、神田由美子氏の岩波版新全集注解は注としてさえ挙げていないが、これは海賀変哲編「端唄及都々逸集 附はやり唄と小唄」(大正6(1917)年東京博文館刊)の「かの部」にある、
○蝙蝠が(三下リ)
蝙蝠が、出てきた浜の夕凉、川風さつとふく牡丹、からい仕かけの色男、いなさぬ/\いつまでも、浪花の水にうつす姿絵。
が元であろう。芥川のものも「出て」という用語が如何にも新しい感じがする。芥川は「蝙蝠が、出てきた浜の夕凉」の部分を俳諧に改作して江戸趣味にアレンジしたものかと思われる。引用は「J-TEXT」のアーカイブから。当該ブラウザは何度やっても表示すると画面が慄っとするほどフリーズするのでリンクは張らない。因みに、この海賀変哲(明治4(1871)年~大正12(1923)年)は雑誌記者・作家。本名は篤麿(あつまろ?)。札幌農学校(現・北海道大学)に学び、明治39(1906)年、博文館に入社、ベストセラーとなった雑誌『少女世界』『文芸倶楽部』の編集に当った。]