長江游記 前置き
長江游記 芥川龍之介 附やぶちゃん注釈
[やぶちゃん注:「長江游記」(ちやうかういうき/ちょうこうゆうき)は大正13(1924)年9月1日発行の雑誌『女性』に「長江」の題で掲載され、後に『支那游記』(「上海游記」を筆頭に「江南游記」「長江游記」「北京日記抄」「雜信一束」の順で構成)に表記の題で所収された。『支那游記』の自序に『「長江游記」も「江南游記」の後にやはり一日に一 囘づつ執筆しかけた未完成品である。』とある。実際に、「前置き」にあるように廬山以降、長江を溯って「漢口」「洞庭湖」「長沙」への旅があったが、それは記されておらず、あたかも途中で放り出されたかのように、中断して見える。しかし、私は本作が「江南游記」の直後に書かれたものではない、正に、大正13(1924)年の8月に新たに書きおろされたものに違いないと感じている。それは本文注で明らかにしたい。「長江游記」底本は岩波版旧全集を用いたが、底本は総ルビであるため、訓読に迷うもののみのパラルビとした。また、一度、読みを提示したものは、原則(幾つかの宛て読みや誤読し易いものは除外)、省略してある。傍点「ヽ」は下線に代えた。各回の後ろに私のオリジナルな注を附した。
私の注は実利的核心と同時に智的な外延への脱線を特徴とする。私の乏しい知識(勿論それは一部の好みの分野を除いて標準的庶民のレベルと同じい)で十分に読解出来る場合は注を附していない(例・「ノスタルジア」「カリイ」「怒火心頭に發した」等)。逆に、当たり前の語・表現であっても『私の』知的好奇心を誘惑するものに対しては身を捧げてマニアックに注してしまう。そのようなものと覚悟して注釈をお読み頂きたい。
その部分を読解するに必要と思われる一部の注は繰り返したが、頻繁に登場する人物や語は初出の篇のみに附した。通してお読みでない場合に、不明な語句で注がないものは、まずは全体検索をお掛けになってみることをお勧めする。
本紀行群に見られる多くの差別的言辞や視点についての私の見解は、既に「上海游記」の冒頭の注記に示しているので、必ず、そちらを御覧頂いた上で本篇をお読み頂きたい。なお、それに関わって私が本紀行群を初めて読んだ21歳の時の稚拙な感想をブログにアップしてある。参考までにお読み頂ければ幸いである。]
長江游記
前置き
これは三年前支那に遊び、長江を溯つた時の紀行である。かう云ふ目まぐるしい世の中に、三年前の紀行なぞは誰にも興味を與へないかも知れない。が、人生を行旅とすれば、畢竟あらゆる追憶は數年前の紀行である。私の文章の愛讀者諸君は「堀川保吉(ほりかわやすきち)」に對するやうに、この「長江」の一篇にもちらりと目をやつてはくれないであらうか?
私は長江を溯つた時、絶えず日本を懐しがつてゐた。しかし今は日本に、――炎暑の甚しい東京に汪洋(わうやう)たる長江を懐しがつてゐる。長江を?――いや、長江ばかりではない、蕪湖(ウウフウ)を、漢口(ハンカオ)を、廬山(ろざん)の松を、洞庭の波を懐しがつてゐる。私の文章の愛讀者諸君は「堀川保吉」に對するやうに、この私の追憶癖にもちらりと目をやつてはくれないであらうか?
[やぶちゃん注:芥川龍之介が上海を発って、長江溯上の旅に赴いたのは、大正10(1921)年5月16日のことであった。本作発表の実に3年3箇月半前のことであった。これはどう見ても、原稿依頼に窮した彼が、力技で捻り出した苦肉の策ならぬ作と言わざるを得ない。実際に本作の大正13(1924)年9月1日発表前を見ると、小説らしい小説は4月1日の「文章」「寒さ」、4月1日と5月1日にカップリングされた「少年」、7月1日の「桃太郎」、同月発表の「十円札」以外はなく、「芭蕉雑記」の続編二種、6月1日のルナール風(換骨奪胎とはとても言えない)アフォリズム「新緑の庭」が目に付く程度のスランプの時期にあった。本作を実質的に書いたと思しい8月中も、軽井沢に避暑しながら、創作意欲が湧かず、終日文章が書けない状態が続いた模様である。
・「人生を行旅とすれば、畢竟あらゆる追憶は數年前の紀行である」この芭蕉の「奥のほそ道」を髣髴させる言葉は、よく考えると不吉である。よく読むと、これは実は、一般論として語られたものではないことに気づくからである。そもそも人生は旅という哲学から引き出される真理が結局「あらゆる追憶は數年前の紀行である」という命題では普遍則とならないことからも明らかである。ここで芥川はさりげなく、個人的なある感懐を述べていると考えるべきである。即ち、『(私の短かった)人生を「旅」に譬えるとすれば、所詮、私の短い疲労と倦怠に満ちた人生の中で経験した、忘れがたいあらゆる追憶というものは、畢竟、あの數年前の中国の旅の思い出に、――あの疲労と倦怠に満ちた(満ちているとその時には感じて故国へ帰らんと欲した)あの旅の思い出に尽きるのである。』という意味と考えた時、初めて私にはこの冒頭の文が腑に落ちるのである。即ち、私はこの時既に、芥川の意識の中に、ある種の死への傾斜が始まっていると、私には思えるのである。
・『「堀川保吉」』:芥川龍之介自身をモデルとしていることが一目瞭然の堀川保吉を主人公とする芥川の作品群を指す。芥川龍之介の小説の中で、彼(広義には彼らしい=作者芥川龍之介らしい人物)を主人公とする極めて私小説的色彩の濃い作品群を、研究者の間では『保吉物』と称する。正式な初登場は大正12(1923)年5月の『改造』に掲載した「保吉の手帳」の冒頭で、『堀川保吉(やすきち)は東京の人である。二十五歳から二十七歳迄、或地方の海軍の學校に二年ばかり奉職した。以下數篇の小品はこの間の見聞を録したものである。保吉の手帳と題したのは實際小さいノート・ブツクに、その時時の見聞を書きとめて置いたからに外ならない、』(初刊本『黄雀風』(こうじゃくふう)の再録では題名を「保吉の手帳から」とし、この部分を全文削除している)とあり、これは芥川龍之介大正5(1916)12月~大正8(1919)年3月迄、2年3ヶ月、数えで二十五歳から二十七歳迄、芥川龍之介が横須賀海軍機関学校教授嘱託(英語)に就任していたことと完全に一致する。芥川は大正8(1919)年頃から現代物を書き始めたが、「保吉」のルーツは主人公「私」の設定といい、その内容といい、同年5月の「蜜柑」にこそ求められるように思う(そうしてこれが最も成功した『保吉物』であったとも思う)。以下、大正11(1922)年8月の「魚河岸」(初出の主人公「わたし」が『黄雀風』で「保吉」に変更)、「保吉の手帳」、「お時儀」「あばばばば」「或恋愛小説」で保吉を主人公とする。そして正に上記で示した、この時の近作「文章」「寒さ」「少年」(これは保吉の4~9歳前後までの回想を主軸としており、やや他の現在時制的『保吉物』とは異なる)「十円札」でも主人公としてフルネームで堀川保吉が登場している。長く自然主義的な自己告白を軽蔑してきた彼が、王朝物のマンネリズムの中でスランプに陥った自己を打破するために、また、自分なら実体験を小説にこう生かすという表明としての実験的作品群である。そうして実はちゃっかりした芥川らしい作品の売り込みでもあるのである。
・『「長江」』本「長江游記」冒頭注参照。初出の表題は「長江」であった。
・「炎暑の甚しい東京」この年の夏は暑かった。芥川は初めて軽井沢に避暑に赴く。彼がこの時、軽井沢が初めてであったことを記憶されたい。因みに、その軽井沢で親しく接した女性が、越し人、片山廣子であったのであった。
・「汪洋」水量が豊富で、水面が遠く広がっているさま。また、ゆったりとして、広々と大きいさま。
・「蕪湖(ウウフウ)」“Wúhú”は長江中流に位置する港湾都市。現在の安徽省南東部、蕪湖市蕪湖県。「一 蕪湖」参照。
・「漢口(ハンカオ)」“Hànkǒu ”は中国湖北省にあった都市で、現在の武漢市の一部に当たる。明末以降、長江中流域の物流の中心として栄えた商業都市で、1858年、天津条約により開港後、上海のようにイギリス・ドイツ・フランス・ロシア・日本の5ヶ国の租界が置かれ、「東方のシカゴ」の異名を持った。芥川は廬山を見た後、5月26日に漢口に着き、30日迄滞在しているが、このように示しながら「長江游記」本文には現れない。「雜信一束」の冒頭で、
一 歐羅巴的漢口
この水たまりに映つてゐる英吉利の國旗の鮮さ、――おつと、車子(チエエズ)にぶつかるところだつた。
二 支那的漢口
彩票や麻雀戲(マアジヤン)の道具の間に西日の赤あかとさした砂利道。
其處をひとり歩きながら、ふとヘルメツト帽の庇の下に漢口の夏を感じたのは、――
ひと籠の暑さ照りけり巴旦杏(はたんきやう)
と綴るのみである(語注等は「雜信一束」の私の注を参照されたい)。
・「廬山」江西省九江市南部にある名山。「三 廬山(上)」以下を参照。
・「洞庭」洞庭湖のこと。芥川龍之介は5月29日に訪れているが、このように示しながら「長江游記」本文には現れない。やはり「雜信一束」で、
五 洞庭湖
洞庭湖は湖(みづうみ)とは言ふものの、いつも水のある次第ではない。夏以外は唯泥田の中に川が一すぢあるだけである。――と言ふことを立證するやうに三尺ばかり水面を拔いた、枯枝の多い一本の黑松。
芥川の本件の記載は、干上がったその無惨な(荒涼としたでも、汚いでもよい)洞庭湖を見たことのみを表明している。5月30日附與謝野寛・晶子宛旧全集九〇四書簡(絵葉書)では、自作の定型歌を掲げ『長江洞庭ノ船ノ中ハコンナモノヲ作ラシメル程ソレホド退屈ダトオ思ヒ下サイ』とし、同じく同日附松岡譲宛旧全集九〇五書簡(絵葉書)では、『揚子江、洞庭湖悉濁水のみもう澤國にもあきあきした』とさえ記している(中国中東部の長江中・下流域の平原部は「長江中下游平原」或いは無数の湖沼の間を水路が縦横に走ることから「水郷沢国」と呼ばれる)。芥川は詩に歌われ、古小説の美しい舞台として憧憬していた洞庭湖に、実は実見直後、激しく失望していたことが明らかである。以上、本作はその冒頭から「書く気の無さ」を表明していると言ってよいと私は考えている。]
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