江南游記 二十三 古揚州(上)
二十三 古揚州(上)
揚州の町の特色は、第一に見すぼらしい事である。二階建の家なぞは殆(ほとんど)見えない。平家(ひらや)も眼に止まつた限りは、いづれも貧しさうな容子である。往來は敷石の凸凹した上に、至る所泥水がたまつてゐる。蘇州や杭州を見た眼には、悲しい氣がすると云つても誇張ぢやない。私は泥だらけな人力車の上に、さう云ふ町町を通りながら、鹽務署(えんむしよ)の門前へ辿りついた時、腰纏(えうてん)十萬貫(ぐわん)、鶴に騎して揚州に遊んでも、これぢやつまらないに違ひないと思つた。
鹽務署の前には石獅(せきし)と一しよに、番兵がちやんと控へてゐる。我我は來意を告げた後(のち)、長い石疊の奧にある、大きい役所の玄關へ行つた。それから給仕の案内通り、アンペラ敷きの應接室へ通つた。應接室の外の庭には、梧桐(ごとう)か何かが立つてゐる。その梢を透かして見たら、糠雨(ぬかあめ)の降つてゐる空が見えた。役所の中はひつそりした儘、何處に人がゐるか判然しない。成程今でもかう云ふ風なら、歐陽修とか蘇東披とか、昔の文人墨客(ぼくかく)たちが、本職の詩酒を樂む片手間、役人を務めたのも當然である。
少時(しばらく)其處に待つてゐると、老人のやうな、若いやうな、背廣の御役人がはひつて來た。これが揚州唯一の日本人、鹽務官の高洲太吉(たきち)氏である。我我は上海の小島氏から、高洲氏へ紹介狀を貰つて來た。さもなければ意氣地のない私は、揚州へ來る氣にはならなかつたかも知れない。來ても高洲氏を知らなければ、愉快に見物は出來なかつたかも知れない。私は甚失禮だが、此處に小島梶郎(かじらう)氏へ、感謝を表して置きたいと思ふ。「上海游記」を讀まれた君子(くんし)は、多分記憶に殘つてゐると思ふが、小島氏はあの小い庭に、櫻の咲いたのを得意にしてゐた、俳骨稜稜たる紳士である。――高洲氏は大きい卓子の向うに、我我二人を招ずると、快活にいろいろ話をした。氏自身の説によると、外國人の揚州に官たるもの、前にマルコ・ポオロあり、後(のち)に高洲氏あるのみだと云ふ。私はこれを聞いた時、大いに氏を尊敬したが、今になつて考へて見ると、損をしたやうながしないでもない。今年今月今日今時、揚州の鹽務署へはひつたのも、一足先には島津四十起、一足後(あと)には私のみである。
うどんの御馳走になつた後(のち)、我我は揚州一見の爲に、高洲氏と鹽務署の門を出た。すると番兵が二三人、一度に我我へ捧げ銃(つつ)をした。糠雨はもう晴れてゐたが、往來は不相變ぬかるみが多い。私はこの泥の中を歩きながら、又古蹟なるものを見るのだと思ふと、甚心細い氣もちがした。が、高洲氏に尋ねて見たら、見物は畫舫でするのだと云ふ。畫舫ならば勿論悄氣(しよげ)なくとも好(よ)い。私はそれを聞かされるが早いか、忽(たちまち)揚州廣しと雖も、悉(ことごとく)經めぐりたい心願を起した。
高洲氏の邸(やしき)に一休みしてから、門前の川へ繋がせた、屋根のある畫舫に乘りこんだのは、その後まだ三十分と、たたない内の事である。畫舫はぢぢむさい船頭の棹に、直(すぐ)と川筋へ漕ぎ出された。川は幅も狹ければ、水の色も妙に黑ずんでゐる。まあ正直に云つてしまへば、これを川と稱するのは、溝(どぶ)と稱するの勝れるのに若かない。その又黑い水の上には、家鴨や鵞鳥が泳いでゐる。兩岸は汚い白壁になつたり、乏しい菜の花の畑になつたり、どうかすると岸の崩れた、寂しい雜木原になつたりする。が、いづれにした所が、名高い杜牧の詩にあるやうな「青山隠隠水迢迢」の趣なぞは見られさうもない。殊に煉瓦の橋があつたり、水際に下りた支那の年増が、泥靴の洗濯をしてゐたりするのは、吟懷を傷けるばかりである。が、それはまだしも好(よ)い。一番私の辟易したのは、この大溝(おほどぶ)の臭氣である。私はその臭ひを嗅ぎながら、ぢつと舟の中に坐つてゐると、何だか又肋膜のあたりが、かすかに痛みさうな氣がして來た。しかし高洲、島津の兩先生は、香料の川にでも泛(うか)んでゐるやうに、平然と何か話してゐる。私の信ずる所によれば、日本人は支那に住んでゐると、第一に嗅覺が鈍るらしい。
[やぶちゃん注:「古揚州」をウィキの「揚州市」の「歴史的地名としての楊州」から 引用しよう。『揚子江(江水)を中心に、北は淮水から南は南嶺山脈までの地域のことである。現在の江蘇省全体よりも広く、江南(揚子江の南部)の広大な地域をも含んでおり、魏晋南北朝においては、全国一の重要な地位を占める地域であった。楊州は北に徐州、豫州と接し、西は荊州、南は交州に接していた。楊州は三国時代、呉の孫策・孫権によって支配された土地である。楊州は南部が山岳地帯であるために、人も物資も北部に集中した。このため、三国時代の呉では戦争が相次いで人口不足に陥り、兵力が減少して国が滅亡する一因を成した。しかし楊州は中国南部の要衝地帯であり、晋滅亡後に建国された東晋は、楊州を本拠地としている』。以下、たった一泊(翌12日には鎮江を経由して南京へ向かった)の揚州行に「古揚州」3篇を配した点を見ても一目瞭然、芥川は、この揚州を江南第一として、忘れがたい中国行の郷愁の記憶として、北京と共に刻んでいるのである。私は残念ながら揚州を訪れたことがない。以下、多くを引用でまかなうことをお許し頂きたい。
・「揚州」はウィキの「揚州市」によれば、『本来「楊州」と書かれ、漢代に置かれた13州の一つであった。それが唐代に表記を「揚州」と改められた』とある。同じくウィキの「揚州市」の「都市名としての揚州」から 引用しよう。『隋の煬帝が開削させた大運河により物資の集積地となり、一躍繁栄することとなる。また、煬帝が再三行幸を行い、遊蕩に耽ったため、亡国に至った都市としても知られている。唐代にはすでに国際港としての位置づけになって交易が発展したほか、明代以降は、現在の江蘇省の東部を中心とした塩田からとれる塩の集積地としても重要な位置をしめ、この地に豪商を産み、文化の花を開かせる基礎となった。清代の揚州八怪を初めとする、文人を多く輩出しており、揚劇や書画、盆景、料理といった、中国文化の上でも重要な位置を占める。市内にある大明寺は、鑑真和上が唐代に日本に来る前にいた寺である』。
・「鹽務署」中国では製塩は漢の武帝以来(当時は匈奴との戦乱による財政再建のため)、中華民国に至るまで官営であり、その産塩や品質の管理・個人製塩や盗難の防止・販売流通・塩に関わる徴税その他塩に関わる一切の行政権を掌る役所を塩務署と称した。
・「腰纏十萬貫、鶴に騎して」「腰纏十萬貫」は、腰に緡(さし:穴あきの銭を100枚、紐で貫いた束。)で十万貫(一貫は千文)ぶら下げるような金持ちになり、その上更に、鶴に乗る仙人ともなったとしても、の意。
・「アンペラ」中国南部原産の単子葉植物綱イネ目カヤツリグサ科Cyperaceaeの仲間の湿地性多年草の茎の繊維を用いて編んだ筵。日覆いを意味するポルトガル語の“ampero”又はマレー語の“ampela”語源説や、茎を平らに伸ばして敷物や帽子などを編むことを意味する「編平」(あみへら)転訛説等がある。
・「梧桐」本邦産の双子葉植物綱ビワモドキ亜綱アオイ目アオギリ科アオギリ Firmiana simplex と同じ。
・「歐陽修とか蘇東披とか、昔の文人墨客たちが、本職の詩酒を樂む片手間、役人を務めた」欧陽修(1007~1072)は、北宋の文人政治家。唐宋八大家(とうそうはちたいか)の一人。1030年に進士に登第後、開封府尹・館閣校勘、失脚して夷陵県令以下、10年の地方官吏、返り咲いて諌官、再度失脚して滁州知事、再度の返り咲きで、翰林学士・権知礼部貢挙(この時に科挙を監督中、蘇軾を見いだす)、後、枢密副使・参知政事(副宰相)となり、1071年、政界を引退して隠棲。同じく唐宋八大家、北宋の文人政治家であった蘇軾(1036~1101)は1057年に進士登第、地方官を歴任後、中央政府入りを果たすが、師欧陽修が抜擢した王安石の新法に反対して左遷、再び地方官を歴任。1079年には讒言を受けて投獄後に黄州(湖北省黄州区)へ左遷(左遷先の土地を東坡と名づけ、この時自ら東坡居士と名乗った。1089年、杭州知事の際には西湖の浚渫を手掛けた)、その後に中央に復帰するも、1094年には再び新法派が勢力を盛り返して、再び恵州(現在の広東省)左遷、62歳のときには海南島にまで追放された。66歳にして勅許により中央復帰が叶ったが、上洛途上に常州(現・江蘇省)で死去した。芥川の言うように、必ずしも「本職の詩酒を樂む片手間」という閑適の世界に遊んでいたわけでは、ない(以上は主にウィキの「欧陽修」及び「蘇軾」の履歴部分を参照・簡約したものである)。
・「上海の小島氏」/「小島梶郎」上海紡績(シヤンハイぼうせき)の社員(管理職?)という以外は不詳。「上海游記」の「十九 日本人」参照(但し、小島梶郎というフルネームはここで初めて明らかにされたものである)。
・「俳骨稜稜」これは「九 西湖(四)」で、ここでも同行している島津四十起を表現した「蠻骨稜稜」(「蠻骨」は蛮勇の気質、バンカラな格好、の意。「稜稜」は角張って勢いのある様子を言う。如何にもがっしりとして筋肉質で、物怖じしない風体バンカラな様を言う)の対比的パロディとして用いた芥川の造語である。如何にも俳句でも捻りそうな諧謔風狂味に満ち満ちた感じが、ありありと伺われる風貌、の意である。
・「外國人の揚州に官たるもの、前にマルコ・ポオロあり」イタリア・ヴェネツィア共和国商人にして旅行家Marco Polo(マルコ・ポーロ1254~1324)の「東方見聞録」(これは彼の著作ではなく、イタリアの小説家 Rustichello da Pisa ルスティケロ・ダ・ピサがマルコの口述を筆記したものである)によれば、マルコは1271年にシルクロードを経て元に入り、皇帝のフビライに謁見後、実に17年間に亙って元に仕えた(但し、モンゴルの言葉は話せたが、中国語は話せなかった)。中国周辺の各地を周遊、ここ揚州では3年間行政官を務めた。1292年に帰国した(以上は主にウィキの「マルコ・ポーロ」を参照した)。
・『杜牧の詩にあるやうな「青山陰陰水迢迢」』は晩唐の詩人杜牧(803~853)の七絶「寄揚州韓綽判官」の起句である。
寄揚州韓綽判官
青山隠隠水迢迢
秋盡江南草木凋
二十四橋明月夜
玉人何處教吹簫
○やぶちゃんの書き下し文
揚州の韓綽(かんしやく)判官に寄す
青山 隠隠 水 迢迢(てうてう)
秋盡き 江南 草木(くさき)凋(しぼ)む
二十四橋 名月夜
玉人 何れの處にか吹簫(すいせう)せしむる
○やぶちゃんの現代語訳
霞む青山 水面(みなも)は遙か
晩秋 江南 草木もみんな枯れ果てた
揚州二十に四(し)の橋の その明月のその夜に
佳人 何処(いづく)に笛を吹く――
「韓綽」は人名。判官は唐代律令官の四等官制(長官・通判官・判官・主典)の第三等官。政務判断(決済権)を有する長官・通判官・判官三判制の一人。久下昌男氏の「ひとりよがりの漢詩紀行」の「揚州の韓綽判官に寄す」の解説に、『これは、作者が江南の池州(安徽省貴池県)にいたときの作と考え』、『揚州を厳密に「江北」の地ととらえて、江南のここ池州も、秋が過ぎて寂しくなった。君のいる揚州はいいなあ、美しい橋に月が輝き、玉のようなひとが笛を』吹いているから、と作詩背景と感懐を推測されている(杜牧は恐らく州長官である池州刺史)。また、「杜牧 寄揚州韓綽判官 詩詞世界 碇豊長の詩詞」の「二十四橋」の語釈には『揚州の別名。唐代、市内に二十四の橋があったことから云う。我が国の大阪を「八百八橋」というようなものか。』また、揚州にあった橋の名とも言い、『呉家橋、別名紅薬橋のことで、昔ここで、二十四人の美女が簫を吹いたという伝承から起こった名称とも云う』と記す。なお、「草木凋」については一本に「草未凋」(草未だ凋まず)とするが、碇豊長氏は『秋が盡きてもなおも草木は凋まない、という江南の温暖さを強調している。どちらが原初の形かを別とすれば、「草未凋」は、なかなかのものである』と記されている。景観への認識と感懐の違いがあるので如何とも言い難いが、私は詩想としては「草木凋」を、論理的説得性から言うと「草未凋」を採りたい。とりあえず私にとって本詩を味わうには、このお二人の導きで十分であると感じている。
・「何だか又肋膜のあたりが、かすかに痛みさうな氣がして來た」上海上陸直後に即入院(乾性肋膜炎による。「上海游記」の「五 病院」を参照)した彼が、やっと退院出来たのが凡そ一ヵ月後の4月23日であったから、5月11日はその僅か18日後のことであった。神経質な芥川にしてみればこうした心気症的描写は、実は切実な現実であったことが、最終回に向けて明らかにされてゆく。
・「一番私の辟易したのは、この大溝の臭氣である」ここに私は尾籠乍ら、どうしても書いておきたい体験を記して本注を終わりとしたい。≪!注意!≫≪以下は気持ちが悪くなる方もいるやに思いますが、自己責任でお読み下さい。お食事中・お食事直後の方はお読みになるのを控えられた方がよろしいでしょう。これ以降には本章の注はありません。≫芥川が行って大いに失望した寒山寺には、ご他聞に漏れず、実は私も失望した。その失望の頂点は私の場合、楓橋であった。その造形は悪くはなかった。しかし楓橋の下に水がなかった。観光整備のために、真下を潜る運河を直下で板と杭を用いて遮断し、ぐずぐずこてこてのヘドロを浚渫している最中であった。――「橋のない川」は文学になるが「川のない橋」ぐらいとぼけたものはない――その作業のせいもあってか、強烈な「大溝(おおどぶ)の臭気」が楓橋一帯を包んでいた。ウォシュ・タイプのチーズもクサヤも大好きな私でさえ思わずハンカチで鼻をふさいだことから、その強度がご想像戴けるものと思う。――さても時に、私は慣れない中華料理攻めに合い、その油にやられて、朝から少々腹が下っていた。――日本では、中国の扉のない公衆トイレの「大」を平気で使いこなせれば立派な中国人だ、等とよく言われるが、世界どこに行こうが日常的腹下し狀態に生きている私には、背に下痢腹は変えられない。ふんばっている私をもの珍しそうに凝っと見る中国人を(何故か知らん毎回必ずこっちをわざわざ見る人がいたのである。これは私が中国で実は最も痛感した言われない排日ならぬ排泄の差別であった)、負けじと私は睨み返すぐらいの便所蟋蟀ならぬ便所根性は上陸初日から培ってきていた。――目の前の公衆便所に飛び込んで事なきを得、ほっとして出てくると、その便所のすぐ脇に遊覧船の乗り場がある。船の喫水線は沈むんじゃないかと思う程、異常に低い。船端から溢れんばかりに人が乗っているせいである。勿論、あらかたが「楓橋夜泊」大好き日本人ツアー客である(私は妻との個人旅行で、妻の南京大学日本語学科の教え子たちがわざわざ「日本人好み」ということでここを案内してくれたのであった)。私はその彼らの前の正真正銘真っ黒などぶどろの水面を情けなく眺め乍ら、その臭気を鼻の高さに直(じか)に感じなければならぬ、遊覧船に乗らねばならぬ彼等の不幸に、幾分同情していた(勿論、瘴気にハンカチで鼻を覆ってである)。その時、手前の見知らぬ中年の御婦人と目が合った。私を日本人と分かってか(大体、服装で区別がつくのである)、彼女はにっこり笑って私に手を振つのが眼に入った――ところが、その、御婦人の直ぐ目と鼻の先、も眼に入った――優雅に浮き沈みながら水面(みなも)を漂っている一物が――ある――それはまごうかたなき、さっき私の体からひりだされたばかりの、一物そのものであった――私は如何にも申し訳なさそうな泣き笑いの表情で、その御婦人に何とも言えぬ中途半端な手を、振り返したのであった……これはまた、一切の脚色をしていない、中国での、私にとって視覚と嗅覚の記憶を鮮やかに伴った、忘れがたい一齣ではあったのである……
・「高洲大吉」高洲太助の誤り。中文個人ブログ「三風堂」の「日本人高洲太助在揚州」(元は簡体字表記)に本篇の記載も含めて詳細な記事が載り、そこに「高洲太助」と明記、現在、揚州にある「萃園」という庭園がこの「高洲太助」なる人物の旧居であるらしい。更に、国立公文書館アジア歴史資料センターの検索をかけると52件がヒットし、明治39(1906)年に「清国杭州駐在領事高洲太助」宛委任状、明治40(1907)年に「清国長沙駐在領事高洲太助」宛委任状、ここや京都大学東南アジア研究センター『東南アジア研究』18巻3号(Dec-1980)中村孝志『「台湾籍民」をめぐる諸問題』(リンク先はHTMLバージョン)という論文の中にも、明治43(1910)年1月・12月・翌1911年1月附で日本の台湾領有によって生じた台湾籍民についての外務省機密文書が福建省の『福州領事高洲太助』なる人物に示されたことが記されている。この人物は同姓同名で同一人物である可能性が極めて高い。]