江南游記 十二 靈隠寺
十二 靈隠寺
私は薄汚い新新旅館の二階に、何枚かの畫(ゑ)はがきを認めてゐる。村田君はもう寢てしまつた。暗い窓硝子(まどがらす)の一角には、不思議な位鮮かに、一匹の守宮(やもり)がひつ附いてゐる。それを見るのが嫌だから、私は全然わき見をしずに、ずんずん萬年筆を走らせ續ける。………
豐島與志雄に。
今日靈隱寺(れいいんじ)に出かける途中、清漣寺と云ふ寺を覗いたら、大きい長方形の池の中に、眞鯉、緋鯉が澤山ゐた。此處は玉泉魚躍とか號して、五色の鯉に名高い寺だと云ふ。尤も五色と云つた所が、實際は精精三色しかない。池に臨んだ亭の中には、籐椅子や卓子(テエブル)が並べてある。其處に腰をかけてゐると、坊主が茶や菓子を持つて來てくれる。くれると云つても唯ぢやない。つまり坊主は鯉を養つてゐるやうだが、實は鯉に養はれてゐるのだらう。君は染井の釣堀に、夜通し絲を垂れる豪傑だから、この寺の鯉を見さへすれば、釣りたくなるのに違ひない。
小穴隆一に。
靈隱寺に詣(いた)る。途中小石橋(せうせきけう)あり。橋下(けうか)の水(みず)佩環(はいくわん)を鳴らすが如し。兩岸皆幽竹。雨を帶ぶるの翠色、殆(ほとんど)人に媚ぶるに似たり。石谷(せきこく)の畫境に近きもの乎(か)。僕大いに詩興を催す。然れども旅嚢(りよのう)「圓機活法」なし。畢(つひ)に一詩なき所以(ゆゑん)。ない方が仕合せかも知れない。
香取秀眞(かとりほづま)氏に。
靈隱寺は中中大きい寺です。總門をはいつて少し行つた所に、天竺の靈鷲山(りやうじゆせん)が飛んで來たと云ふ、來峯と號する山があります。(實は山と云ふよりも、大岩と云ふ方が好(よ)いのですが。)其處の石窟(せきくつ)にある佛は、宋元の佛だと云ふ事です。が、僕にはどの佛も、好いのだか惡いのだかわかりません。難有いと思つたのはたつた一つです。尤も石窟の一部分は、連日の雨に水が出てゐましたから、中へはいらずにしまひました。今日も時時雨が來ます。高い杉檜、苔の蒸した石橋(せきけう)、――まあ、この寺の大體の感じは、支那の高野山と思へばよろしい。
小杉未醒氏に。
靈隱寺を見ました。杉の幹に栗鼠の駈け上(のぼ)る所なぞは、如何にも山寺らしい閑寂なものです。雨天だつたせゐか、赭(そほ)塗りの大雄寶殿なぞも、甚(はなはだ)落着いた氣がしました。駱賓王(らくひんわう)がゐたと云ふのは、傳説かも知れないが、一應尤らしい氣がします。此處の空氣には何となく、駱賓王じみた所がある。あなたはさう思ひませんか? もう一つ次手に申し上げたいのは、この寺の五百羅漢です。これも勿論御覧だつた事と思ひますが、少くとも二百位は、殆あなたと瓜二つです。冗談でも何でもない、實際あなたにそつくりです。聞けばこの五百羅漢の中には、マルコ・ポオロの像があるさうですが、まさかあなたの遠つ祖(おや)はマルコ・ポオロだつた次第でもないでせう。が、僕は萬里の異域に、あなたと相見(しようけん)する事が出來たやうな、愉快な心もちになりました。
佐佐木茂索に。
靈隱寺に詣りし歸途、鳳林寺一名喜鵲寺(きじやくじ)を訪(と)ふ。烏窼(うさう)禪師のゐた寺なり。寺は殆(ほとんど)見るに足らず。唯(ただ)葬ひか何かありしならん、鼠色の袈裟に海老茶の袈裟かけし坊主、何人も經を讀みながら、歩みゐたり。白樂天、烏窼に問ふ。如何か是(これ)佛法の大意(たいい)。烏窼答へて曰、諸惡莫作(まくさ)、衆善奉行。樂天又云ふ。三尺の童子も之を知れり。烏窼笑つて曰、三尺の童子も之を知れど、八十の老翁も行ひ難し。樂天即ち服すと。かう手輕く服された日には、烏窼禪師も氣味が惡かつたらう。寺門の前に支那の子供大勢あり。前綵(ぜんさい)の花を持ちて遊ぶ。雨後夕陽愛すべし。
手紙を書いてしまつたら、幸ひ守宮も見えなくなつてゐた。明日は杭州を去る豫定である。湧金門(ゆうきんもん)、囘囘堂(くわいくわいだう)、――そんな物を見る暇はないかも知れない。私は多少の寂しさを感じながら、シヤツ一枚になつた後(のち)、ベツドの毛布へもぐりこもうとした。が、思はず飛びのきながら、「こん畜生」と大きい聲を出した。白いべツドの枕の上には、碁石程の蜘蛛がぢつとしてゐる! これだけでも西湖は碌な處ぢやない。
[やぶちゃん注:靈隠寺は雲林寺とも呼ばれ、杭州市街及び西湖の西にある霊隠山の麓に位置する、杭州一の名刹にして中国禅宗十大古刹の一つ。臨済宗。東晋時代、インドから来朝した僧慧理によって開山された(326年)。慧理が杭州の連山を見て「ここは仙霊が宿り隠れている場所である」と言ったことから霊隠寺と名づけられたとする。五代十国時代、杭州が呉越国(907~978)の中心であった当時は3000人を越える学僧が修行していたとされ、他に類を見ない大規模な伽藍を誇ったが、相次ぐ火災や戦災、特に太平天国の乱の折に大部分が崩壊し、芥川が当時見たものは清末に再建されたものであった。南側にある石灰岩でできた岩山には沢山の洞窟が掘られ、芥川が「飛来峰の磨崖仏」と呼んでいる五代十国から元代にかけて彫られた338体の石仏が安置されている。特に五代十国の末期の951年に造立された青林洞西岩壁上座像が著名である。但し、私の感触ではここで芥川が「難有いと思つたのはたつた一つ」と言うのは、これではないように思われる。なお、本篇は複数の手紙文を組み合わせた書簡体形式であるが、実際には類似した各人宛の手紙は現在残されておらず、これは書簡体を意識した創作と思われる。
・「豐島與志雄」仏文学者・作家(明治23(1890)年~昭和30(1955)年)。東京帝国大学仏文科在学中の大正3(1914)年2月に芥川龍之介らと第3次『新思潮』を刊行、その創刊号に処女小説「湖水と彼等」を寄稿している。ユーゴーの「レ・ミゼラブル」(1918~19年新潮社刊)やヘッセ「ジャン・クリストフ」(1921年新潮社刊)等の翻訳で知られる。芥川より2歳年上。
・「清漣寺」神田由美子氏の岩波版新全集注解では『現在の玉泉寺』とあるが、ネット上の記載を見ると、現在は寺としては機能していない模様で、杭州植物園の一角として単に「玉泉」と呼ばれているようであり、池のある庭園施設のように紹介されている。玉泉は西湖三大名泉の一つで、今は現地名産の茶をこの玉泉で淹れたものが人気であるとある。
・「玉泉魚躍」「チャイナネット」2002年7月1日の記事『中国でよく知られた魚を観る観光スポット(2) 杭州の「玉泉魚躍」』を以下に全文引用する。『玉泉は西湖の三大名泉の1つであり、いままでずっと魚の観賞で有名になり、玉泉は泉の水が緑の玉のようであり、一年中涸れず、四角形の池に集まり、池の中の百尾はいると思われるアオウオが、すぐ後に続いて泳いでおり、群れをなして東へ泳いだり西へ泳いだりし、沈んだり浮かんだりし、和らいだ気持ちで悠々自適であるように見える。池のほとりのあずまやの廊下には明代の著名な書家董其昌の題字である「魚楽図」が掲げられており、池のほとりにホールがあり、大理石の欄干で囲まれている。観光客はお茶をたしなみながら、手すりによりかかって魚を観、「魚が楽しくて人も楽しく、泉が清らかで心がさらに清らかである」という面白みを深く体得するのである。』。文中の「アオウオ」は条鰭綱骨鰾上目コイ目コイ科ソウギョ亜科アオウオMylopharyngodon piceus。中国原産の淡水魚で中国四大家魚(アオウオ・ソウギョ・コクレン・ハクレン及びこれらの魚を同一の池で飼うことによる理想的食物連鎖養魚システムの名称でもある)の一。成魚は2mに及ぶ。コイに似た形態を有するが、ヒゲはない。口はやや下方に伸びており、ベントス食に適す。体色がコイに比べて青みがかっていることからの名称であるが、実際には黒い印象である(以上は主にウィキの「アオウオ」の記載によった)。「董其昌」(とうきしょう 1555~1636)は明末の文人画家・書家。その書を後の第4代皇帝康煕帝(1654~1722)が敬愛したため、清朝正統の書ともされた。南宗画を興隆させ、後世、芸林百世の師と呼称されるに至った(以上は主にウィキの「董其昌」の記載によった)。
・「染井」は本郷区染井、現在の東京都豊島区駒込。神田由美子氏の岩波新全集注解によれば、豊島与志雄は大正6(1917)年9月より『本郷区駒込千駄木町に住んでいた』とある。彼の釣好きは彼の諸作品によく現れ、小品「鯉」では夜間に帝大の池に鯉をこっそり釣りに行くさまが描かれている(青空文庫「鯉」)。因みにこの染井にある染井霊園を抜けたすぐの豊島区巣鴨にある慈眼寺(日蓮宗)は、芥川龍之介の墓所でもある。
・「小穴隆一」(おあな りゅういち、1894~1966)洋画家。芥川龍之介無二の盟友。芥川の単行本の装丁も手がけ、芥川が自死の意志を最初に告げた人物でもある。芥川より2歳年下。
・「橋下の水佩環を鳴らすが如し」「佩環」は佩玉で、帯び玉、貴人が腰に帯びる飾りの玉の輪を言う。水の流れの音(ね)を、それらが触れ合う音に比した。私はここを「橋下の水珮と爲す」として李賀の「蘇小小墓」を思い出してはくれなかった芥川龍之介を深く恨むものである(「七 西湖(二)」注参照)。唐の柳宗元の「至小丘西小石潭記」に「如鳴佩環」とあり、田山花袋の「山水小記」(大正7(1918)年富田文陽堂刊)の「日光」の中の鬼怒川を描写する一節にも「水の鳴ること佩環の如く」とある。
・「石谷」王翬(おうき 1632~1717)清初の画家。石谷は字。南宋・北宋の画風を統一して清の新たな正統的様式を完成、世に画聖と称された。
・『「圓機活法」』王世貞校正・楊淙(ようそう)参閲になる明代の作詩用辞書。24巻。天文・時令・節序・地理などの44門を更に細目化し、それぞれについて叙事・事実・品題・大意等を解説、その下に故事成句等を配す。「円機詩韻活法全書」等、異名多し。神田由美子氏の岩波版新全集注解に芥川の蔵書の中には1884年刊本があるとする。これは明治17年山中出版舎刊行になる石川鴻斎訂正版の和本であろう。和訳本には「詩学筌蹄」「和語円機活法」等がある。
・「香取秀眞」鋳金工芸師(明治7(1874)年~昭和29(1954)年)。東京美術学校(現・東京芸術大学)教授・帝室博物館(現・東京国立博物館)技芸員・文化勲章叙勲。アララギ派の歌人としても知られ、芥川龍之介の隣人にして友人であった。芥川より18歳年上。
・「靈鷲山」インドのビハール州の中央部に位置する山。釈迦在世時はマガダ国の首都王舎城の東北、尼連禅河(にれんぜんが)の側であった。釈迦はここで8年の間、無量寿経や法華経を説いたとされる。一説にその頂上が平らになっており、それがハゲワシの形をしているからという(ウィキの「霊鷲山」による)。
・「小杉未醒」小杉放庵(こすぎほうあん、明治14(1881)年~昭和39(1964)年)のこと。洋画家。本名国太郎、未醒は別号。「帰去来」等の随筆や唐詩人についての著作もあり、漢詩などもよくした。『芥川の中国旅行に際し、自身の中国旅行の画文集「支那画観」(一九一八)を贈った。芥川は中国旅行出発前には、小杉未醒論(「外観と肚の底」中央美術)を発表』している(以上の引用は神田由美子氏の岩波版新全集注解から)。その「外観と肚の底」の中で芥川は彼の風貌を、『小杉氏は一見した所、如何にも』『勇壯な面目を具へてゐる。僕も實際初對面の時には、突兀(とつこつ)たる氏の風采の中に、未醒山人と名乘るよりも寧ろ未醒蛮民と号しそうな辺方瘴煙の氣を感じたものである。が、その後(ご)氏に接して見ると』『肚(はら)の底は見かけよりも、遙に細い神經のある、優しい人のやうな氣がして來た』と記している。五百羅漢を髣髴とさせる描写ではある。芥川より11歳年上。
・「赭塗り」赤の顔料を塗った壁の意。「赭」は本来は「赭土」(そおに)で、赤色の土・赤土を指し、上代には顔料等に用いた。
・「大雄寶殿」霊隠寺の本殿。ここで芥川が見たのは民国初年に再建されたもの。後、解放直後に倒壊し、内部の仏像も壊れた。現在のものは1956年に再建されたもの。
・「駱賓王」(640?~684?)は初唐の著名な詩人。「初唐四傑」の一人。性格は傲慢にして剛直。官僚となって武則天(則天武后 623?~705)に対し、数々の上疏をしたが浙江の臨海丞に左遷された。出世の望みを失い、官職を棄てて去った後、684年に名将李勣(りせき)の孫であった李敬業が武則天に謀叛を起こすと、その一味として武則天を誹謗する檄文を起草、その罪を天下に伝えんとした。武則天はその檄を手に入れると、部下に読ませた。「蛾眉敢えて人に譲らず 孤眉偏に能く主を惑わす」の辺りまでは笑っていたが、「一抔土未乾、六尺孤安在」(一抔の土いまだ乾かざるに、六尺の孤いずくにか在る:武則天に殺された王族の墓の土は未だに血の湿りをもって乾かない――ああその遺児たちはいったいどこでどうしているのだろう。)の句に至って、愕然としてその作者の名を問い、かの駱賓王であることを知ると、逆に「このような才人を流謫不遇の徒としたのは宰相の過ちである」と言ったという。敬業の乱平定後は、行方不明となったが(一説には誅殺されたとする)、ここ霊隠寺に隠れ住んでいたという伝説もある。宋子問に「靈隠寺」と題する詩があるが、これはその駱賓王隠棲伝承に因む曰く附きの詩である。石九鼎氏の「千秋詩話 16 駱賓王」をお読みあれかし。
・「この五百羅漢の中には、マルコ・ポオロの像がある」本邦の盛岡にある報恩寺の五百羅漢にはマルコ・ポーロやフビライ・ハンの像が入っているらしいというので調べてみると、第百番善注尊者と第百一番法蔵永劫尊者の像が中国で1840年頃からマルコ・ポーロ像、ジンギスカンの孫フビライ像といわれるようになったという記事を発見した(「盛岡歴史探究館」の「羅漢曼荼羅」内)因みにMarco Poloマルコ・ポーロ(1254~1324)は杭州を「世界で最も美しく華やかな土地」と讃美している。
・「佐佐木茂索」(明治27(1894)年~昭和41(1966)年)は小説家・出版人。龍門の四天王(南部修太郎・滝井孝作・小島政二郎)の一人。後、「文芸春秋」編集長を経て、昭和21(1946)年、文芸春秋社社長(当時の名称は文芸春秋新社)となった。芥川より2歳年下。
・「烏窼禪師」は鳥窠道林(ちょうかどうりん 741~824)のこと。中唐の禅僧。円修禅師と諡(おくりな)された。径山道欽(どうきん)の法灯を受く。後、杭州の秦望山に隠棲し、鳥の巣のように松の枝葉が茂った庵に住んだことから鳥窠禅師・鵲巣(じやくそう)和尚と呼ばれた。白居易との交流は極めて著名で、ここで芥川が綴るエピソードは人口に膾炙する禅問答・公案である。大意を示すと、ある時、杭州太守であった白居易が鳥窠禅師に仏法の真意とはと尋ねたところ、禅師は「諸惡作(な)すこと莫(な)かれ、衆善(しゆぜん)奉行」(ぶぎやう)せよ」(悪いことはするな、ただひたすらに良いことをせよ)という「七仏通誡偈」(しちぶつつうかいげ)の一節をもって答えた。それを聞いた白居易がうっかり「それは三つの童子も知るところですね」と答えたところが、禅師は笑って、「三つの童子でも知っているが、八十の老人であってもそれをまことに行なうことは難しい」と言った。それを聞いた白居易は即座に悟って、西湖孤山に竹閣(「六 西湖(一)」の「孤山寺、今の広化寺」の注参照。現在の広化寺)を建て、そこに鳥窠禅師を招いて朝夕に参禅したという。
・「剪綵」綾絹を花鳥形に切りぬいたもの。又は色糸で作った造花。「綵」は繊維や布が彩られたさま。人形(ひとがた)た花鳥に切り抜いたものは古来からあり、玩具や飾り、天井装飾などに用いられた。
・「湧金門」西湖の四水門の一。西湖東岸にあるが、芥川がこの地名を出したのは「水滸伝」絡みと推測する。その第四一話「魂帰湧金門」で、南軍への使者に立った水軍の頭、張順が兄弟たちの見守る中、身をもって矢襖(やぶすま)となった場所が、ここである。
・「回回堂」筑摩全種類聚は未詳、岩波版は注に挙げてさえいないが、これは杭州中山中路に現存する武林真教寺、通称で鳳凰寺と呼ばれるイスラム教のモスクの別称である。唐代に建立され、元初期にペルシア人によって再建された。建物の外観が羽を広げた鳳凰の姿に似ていることから鳳鳳寺と呼ばれることが多い。礼拝堂である無梁架はメッカに向かって建てられており、中央の壁には1451年に刻まれたアラビア文字のコーラン(中国語「古蘭經」)が嵌め込まれている。中国東南沿海域の4大イスラム寺院の一つ(以上は複数の中文サイトを参照にした)。
・「これだけでも西湖は碌な處ぢやない」最後に、西湖に禍々しい守宮と蜘蛛を配して、生理的な嫌悪の対象と化した西湖に唾棄する。]