江南游記 十九 寒山寺と虎邱と
十九 寒山寺と虎邱と
客。蘇州はどうだつたね?
主人。蘇州は好い處だよ。僕に云はせれば江南第一だね。まだあすこは西湖のやうに、ヤンキイ趣味に染(そ)んでゐない。それだけでも難有い氣がした。
客。姑蘇城外の寒山寺は?
主人。寒山寺かい? 寒山寺は、誰でも支那へ行つた連中に聞いて見給へ。きつと皆下らんと云ふから。
客。君もかね?
主人。さうさね。下らんには違ひない。今の寒山寺は明治四十四年に、江蘇の巡撫(じゆんぶ)程德全が、重建したと云ふ事だが、本堂と云はず、鐘樓と云はず、悉(ことごとく)紅殼(べにがら)を塗り立てた、俗惡恐るべき建物だから、到底月落ち烏鳴くどころの騷ぎぢやない。おまけに寺のある所は、城の西一里ばかりの、楓橋鎭(ふうけうちん)と云ふ支那町(まち)だがね。これが又何の特色もない、不潔を極めた門前町と來てゐる。
客。それぢや取り柄がないぢやないか。
主人。まあ、幾分でも取り柄のあるのは、その取り柄のない所だね。何故と云へば寒山寺は、一番日本人には馴染の深い寺だ。誰でも江南へ遊んだものは、必寒山寺へ見物に出かける。唐詩選は知らない連中でも、張繼の詩だけは知つてゐるからね。何でも程德全が重修したのも、一つには日本人の參詣が多いから、日本に敬意を表する爲に、一肌脱いだのだと云ふ事だ。すると寒山寺を俗惡にしたのは日本人にも責はあるかも知れない。
客。しかし日本人には氣に入らないのだらう?
主人。さうらしいね。が、程德全の愚を哂ふ連中でも、西洋人相手の仕事になると、程大人(たいじん)と同じ事をしてゐる。寒山寺はその實物教訓だね。其處に多少興味があるだらう? 殊にあの寺の坊さんは、日本人の顏さへ見ると、早速紙を展(ひろ)げては、「跨海萬里弔古寺 惟爲鐘聲遠送君」と、得意さうに惡筆を振ふ。これは誰でも名を聞いた上、何何大人正(せい)とか何とか入れて、一枚一圓に賣らうと云ふのだ。日本人の旅客の面目(めんもく)は、こんな所にも窺はれるぢやないか? まだその上に面白いのは、張繼の詩を刻んだ石碑が、あの寺には新舊二つある。古い碑の書き手は文徴明、新しい碑の書き手は愈曲園(ゆきよくゑん)だが、この昔の石碑を見ると、散散に字が缺(か)かれてゐる。これを缺いたのは誰だと云ふと、寒山寺を愛する日本人ださうだ。――まあ、ざつとこんな點では、寒山寺も一見の價値があるね。
客。それぢや國辱を拜見する訣ぢやないか?
主人。さうさね。事によると案外程德全は、日本人を愚弄する爲に、あんな重修をやつたのかも知れない。たとひ皮肉でないにしても、あらゆる支那旅行記の著者のやうに、程德全を哂ふのは殘酷だね。敷島の大和の知事閣下にしても、あの位の英斷に出づるの士は、餞りなささうでもないぢやないか?
客。寶帶橋は?
主人。唯長い石橋さ。ちよいとあの不忍の池の觀月橋と云ふ感じだね。尤もあれ程俗な氣はしない。春風春水春草堤――道具立てはちやんと揃つてゐる。
客。虎邱(こきう)は好い所だらう?
主人。虎邱も荒廢を極めてゐたつけ。あすこは呉王闔閭(かふりよ)の墓ださうだが、今日では全然塵塚の山だね。傳説によればあの山の下には、金銀珠玉を細工をした鴨が、三千の寶劍と一しよに埋めてあると云ふ。そんな事だけ聞いてゐる方が、反つて興味が多い位だ。秦の始皇の試劍石、生公(せいこう)の説法を聞いた點頭石、江南の美人眞孃の墓、――いろいろ因縁を承ると、難有い遺蹟が澤山あるが、どれも見てはつまらん物だ。殊に劍池なぞと來た日には、池と云ふよりも水たまりだね。しかも五味捨て場も同じ始末なのだから、王禹(う)の劍池銘にあるやうに、「巖巖虎邱、沈沈劍池、峻不可以仰視、深不可以下窺」 の趣は、義理にもあるとは考へられない。唯殘曛(ざんくん)を漲らした空に、やや傾いた塔を見上げた時は、悲壯に近い心もちがした。この塔もとうに朽廢してゐるから、一層毎に草を茂らせてゐる。それに何だか無數の鳥が、盛に囁き聲を飛ばせながら、塔のまはりを繞(めぐ)つてゐたのは、一段と嬉しかつたのに違ひない。僕はその時島津氏に、鳥の名前を尋ねて見たが、確かパクとか云ふ事だつた。パクとはどう云ふ字を書くのか、其處は島津氏も知らないのだがね。君はパクなるものを知らないかい?
客。パクかい? バクなら夢を食ふ獸だがね。
主人。一體日本の文學者は、動植物の智識に乏しすぎるね。南部修太郎と云ふ男なぞは、日比谷公園の蘆を見ても、麥だとばかり思つてゐたのだから。――まあ、そんな事はどうでも好い。塔の外にもう一つ、小呉軒と云ふ建物がある。其處は中中見晴しが好い。暮色に煙つた白壁や新樹、その間を縫つた水路の光、――僕はそんな物を眺めながら、遠い蛙(かはづ)の聲を聞いてゐると、かすかに旅愁を感じたものだ。
[やぶちゃん注:寒山寺は蘇州中心部から西方5㎞の楓橋鎮にある寺院。南北朝の梁(南朝)武帝の天監年間(502~519)に妙利普院塔院として創建されたが、唐の貞観年間(627~649)に伝説的禅者であった寒山がここに草庵を結んだという伝承から、後、寒山寺と改められた。先の蘇州の靈巌寺(霊岩寺)と同じく、空海が長安への道中、船旅で立ち寄っている所縁の地でもある。虎邱は蘇州北西の郊外約5㎞に位置する景勝地。春秋時代末期、「臥薪嘗胆」で知られる呉王夫差(?~B.C.463)が父王闔閭(こうりょ:?~B.C.496)を葬った場所。埋葬後、白虎が墓の上に蹲っていたことから虎邱と呼ばれるという(丘の形が蹲った虎に似ているからとも)。標高36m。五代の周の961年に建てられた雲岩寺塔が立つ。別名、海涌山(かいゆうざん)。現在は「虎丘」と表記。
・「巡撫」清代の皇帝直属の官職名。省の長官で、軍の指揮権や地方財政の監督権も持っていた。
・「明治四十四年」西暦1911年。以下の「程德全」の注を参照。
・「程德全」(Chéng Déquán チェン ドゥーチュエン 1860~1930)は清末民初の政治家で中華民国の初代江蘇都督(この「都督」は清代に消滅後、伝統的な都督の名を復活させたもので、辛亥革命後に置かれた地方軍政担当官)。清の文官として各地で実務職を歴任後、1909年に奉天巡撫に任命され、翌1910年に江蘇巡撫に異動した。寒山寺の大修理はその翌年であるが、その『辛亥革命勃発後の1911年(宣統3年)11月、程徳全は周囲から推戴され、江蘇都督となる。1912年(民国元年)1月3日に南京臨時政府が成立すると、その内務部総長に任命された。その同日、中国同盟会を離脱した章太炎、張謇らと中華民国連合会(後の統一党)を組織した。4月、臨時大総統に就任した袁世凱から、改めて江蘇都督に任命される。5月、統一党は民社と合併して共和党となったが、程徳全は章太炎と不和になり、共和党から離党した。1913年(民国2年)の二次革命(第二革命)では、程は江蘇省の独立を宣言したが、まもなく上海に赴くなどして、実際の活動は乏しかった。同年9月、二次革命の敗北と共に、江蘇都督を辞任した。これにより政界から引退し、以後は上海で仏門に入った。』(以上は引用を含めウィキの「程徳全」を参照した)。
・「紅殼」赤色顔料の一。主成分は酸化第二鉄Fe2O3。着色力が強い。塗料・油絵具の他、研磨剤に用いる。ベンガラ。名称はインドのベンガル地方で多く産出したことから。それに当字したものの訓読みである。
・「月落ち烏鳴く」日本人には余りにも有名な中唐の詩人張継の七言絶句「楓橋夜泊」の起句の冒頭。
楓橋夜泊
月落烏啼霜滿天
江楓漁火對愁眠
姑蘇城外寒山寺
夜半鐘聲到客船
楓橋夜泊
月 落ち 烏 啼いて 霜 天に滿つ
江楓 漁火 愁眠に對す
姑蘇城外 寒山寺
夜半の鐘聲 客船(かくせん)に到る
○やぶちゃん現代語訳
月は落ち――烏鳴いて――満天霜の気配あり
岸辺の楓(かえで)――漁(いさ)なとる篝火(かがりび)……旅愁に眠れぬ眼に映る
姑蘇城外の寒山寺
そこから聞える夜半(よわ)の鐘――私の宿れるこの船にまで――陰に籠って――心に響く
私は高校時代、この詩をならった時に訳しにくいなあと感じたものだった。何んで夜中に鴉が鳴くのか? 川岸の楓は緑なのか紅葉しているのか? 「江村」か「江楓」かっていうのは衍字じゃあないの? こんな夜の夜中に何を漁(すなど)るんじゃい? 夜の夜中に鐘鳴らす寺って何よ?――と疑問だらけなのだ。そうして参考書を見て、正にそのような議論が昔からなされていることを知るに及んで、私はこの詩が決していい詩だとは思わなくなっていた。寒山寺を案内してくれた南京大学日本語学科卒業の知人青年は「中国人にとっては韻律も意味も決していいとは思われません。」と、私にはっきりと言ったのを覚えている。
・『「跨海萬里弔古寺 惟爲鐘聲遠送君」』書き下せば「海を跨(また)ぐこと萬里、古寺を弔す。惟だ鐘聲と爲りて遠く君を送らん」か。「あなたは海の遙か彼方からこの古き寺に敬虔にも過ぎしすべての過去の死者の魂をとむらいに来られた。そのあなたをこの何もない私はただあの知られた寒山寺の鐘の音(ね)を以って送別するばかりです。」という意か。
・「何何大人正」この「大人」は立派な人を、「正」は高位の者を示す尊称で、「君・様」の意味であろう。諸注は「正」は「正せ」という命令形の意味とするが、何を「正せ」というのか? 謙譲の接尾語だとでも言うのか? では、何故そう説明しない? 僕が馬鹿なのか、意味が分からない。
・「張繼」中唐の詩人(生没年不詳)。湖北省襄州(現・襄樊市襄陽)の出身。現在の京杭(けいこう)大運河を旅した際の感懐を「楓橋夜泊」に詠んだ。
・「文徴明」明代中期の画家・書家(1470~1559)。蘇州(江蘇省長州県)の出身。祝允明(しゅくいんめい)・王寵とともに「呉中三大家」と呼ばれた名書家であり、「天下の法書はみな呉中に帰す」と言わしめたという(ウィキの「文徴明」による)。
・「愈曲園」本名兪樾(ゆえつ 1821~1907)。曲園は号。清末の考証学者。1850年、進士に登第、翰林院編修・国史館協修を歴任後、咸豊帝からその博識を評価され、1855年には河南学政(省の教育行政長官)となったが、出題した科挙試について弾劾され、あっさりと官を退き二度と出仕しなかった。1875年に西湖湖岸に隠棲、晩年は杭州の詁経精舍(こきょうしょうじゃ:清朝の政治家・学者であった阮元(げんげん 1764~1849)が創立したで訓詁学の研究機関)で考証学を講義した。(「六 西湖(一)」の同注を参照)。
・「寶帶橋」蘇州市東南の蘇州と杭州を結ぶ大運河の支流である玳玳河(たいたいが)に架かる橋。橋長317m(中国最長の石橋)、幅4mで、全53のアーチを有する。建造は唐の819年に遡り、蘇州刺史(地方長官)であった王仲舒(761~822)が水運の発展を企図して建設を始めたが、その壮大な計画ゆえに資金が不足し、募金を募った。仲舒自らも家伝の宝帯(珠玉で飾った腰帯)を売り、それに感じた富豪たちの寄附で3年後の822年にに完成した。橋名はこれに由来する(以上は「人民中国」の「中国の橋」の史和平氏の「宝帯橋」の記事を参照した)。
・「呉王闔閭」(?~B.C.496)は春秋時代の呉の第6代の王。呉を覇者に興隆させたが、越王句践に敗れて没した。
・「秦の始皇の試劍石」闔閭が手に入れた「莫邪」(ばくや)の名剣を石を虎に見立てて斬ったというもの。実見したが、やや楕円形をした大石の長軸に沿ってすっぱりと切れ目が入っていた。秦の始皇帝(B.C.259~B.C.210)というのは異聞か、ただの芥川の勘違いか。
・「生公の説法を聞いた點頭石」優れた僧生公(晋とも南北朝の梁とも)が説法をした際、縦に首を振ったという石。
・「眞孃」唐代の蘇州の名妓であった真嬢の墓所。本名を胡瑞珍といった北方人で、唐代の安史の乱の頃、蘇州に流れて来たが、寄る辺なく妓女となった。歌唱作詩の才といいその美貌といい蘇州一の名をほしいままにした。一青年が金にまかせて彼女を身請けしようとしたところ、貞節を守るために真嬢は縊れて自死した。青年は悔いてここに墓を造り、またその当時蘇州知事であった白居易はこれを聞いて墓誌銘を書いたという(以下の“JRE Corporate, Suzhou real estate agency”の蘇州紹介ページを参照にしたが、強引な中文の機械翻訳を行っているのか、日本語が激しく壊れているため、私がいいように整文してしまったことをお断りしておく)。
・「劍池」夫差は刀剣好きであった父呉王の遺体と共に、3000本の名剣を同所に副葬したと伝承された結果、秦の始皇帝や呉の孫権が周囲を掘り返した。結果は一本も見つからず、その窪地に何時しか水が溜まって、池となったもの。私は一心にその緑の水底を見つめながら、何故かザリガニを探していたのを思い出した。そこは僕には不思議に郷愁を誘う昭和30年代の水景色であったのであろう。
・「王禹の劍池銘」王禹は王禹※[※=「稱」-「禾」+(にんべん)。](おううしょう 954-1001) は宋代の詩人・散文家。杜甫・白居易の唐代古文の現実主義を称揚、北宋の詩文革新運動の先駆者となった。「劍池銘」とは剣地の由来について記した碑のこと。
・『「巖巖虎邱、沈沈劍池、峻不可以仰視、深不可以下窺」』「巖巖たるかな、虎邱、沈沈たるかな、劍池、峻なること、以て仰ぎ視るべからず、深なること、以て下り窺ふべからず」。
・「殘曛」日没後も空に照り残っている日の光。夕照。
・「パク」筑摩全集類聚版脚注では「鸊」を示す。これは拼音(ピンイン)で“pì”(ピ)であるが、カイツブリを示す日本語の音としては「ハク・ヒャク」という音があるので、この字と同定してよいであろう。カイツブリ目(中文名:鸊鷉目)カイツブリ科(中文名:鸊鷉科)Podicipedidaeに属する鳥の総称又は以下の6属の中文属名を持つ何れかに属するカイツブリ類を指すと考えられる。本邦産のカイツブリは「小鸊鷉屬」Tachybaptusに属するTachybaptus ruficollisであるが、芥川が識別出来ず、島津も発音するのみでカイツブリと同定し得なかったということは、我々の知るこのカイツブリ、鳰(にお)と同種ではない可能性が高い。
鸊鷉屬Podiceps
小鸊鷉屬Tachybaptus
巨鸊鷉屬Podilymbus
北美鸊鷉屬Aechmophorus
・「バク」獏。人の夢を食うとされる伝説上の生物。その形状は一種のキマイラで、体は熊・鼻は象・目は犀・尾は牛・脚は虎とされる。その姿は哺乳綱獣亜綱奇蹄目バク科Tapiridaeのバクと近似しており、ウイキの「獏」によれば、『京都大学名誉教授 林巳奈夫の書いた『神と獣の紋様学―中国古代の神がみ―』によれば、古代中国の遺跡からバクをかたどったと見られる青銅器が出土している。このことから、古代中国には象や犀などと同じように現在は絶滅してしまったが野生のバクがいた可能性が高い。であるから、一般的には伝説上の獏と生物学上のバクは無関係であると考えられているが、もともと同じものを指していたものが中国では絶滅したために伝説化した可能性も否定はできない。』とする。即ち、架空のバクのモデルこそが、絶滅した実在したバクであったというのである。
・「小呉軒」筑摩全集類聚版脚注に、清の第4代聖祖(康熙帝 654~1722)及び第6代皇帝高宗(乾隆帝 1711~1799)が『南巡のおりの行宮の一部』とある。]