北京日記抄 一 雍和宮
北京日記抄 芥川龍之介 附やぶちゃん注釈
[やぶちゃん注:「北京日記抄」(ペキンにつきせう/ペキンにっきしょう)は大正14(1925)年6月『改造』に掲載され、後に『支那游記』(「江南游記」「長江游記」「北京日記抄」「雜信一束」の順で構成)に所収された。底本は岩波版旧全集を用いたが、底本は総ルビであるため、訓読に迷うもののみのパラルビとした。また、一度、読みを提示したものは、原則(幾つかの宛て読みや誤読し易いものは除外)、省略してある。各回の後ろに私のオリジナルな注を附した。私の注は実利的核心と同時に智的な外延への脱線を特徴とする。私の乏しい知識(勿論それは一部の好みの分野を除いて標準的庶民のレベルと同じい)で十分に読解出来る場合は注を附していない(例・「ワンタン」「チヤルメラ」「トルストイ」等)。逆に、当たり前の語・表現であっても『私の』知的好奇心を誘惑するものに対しては身を捧げてマニアックに注してしまう。そのようなものと覚悟して注釈をお読み頂きたい。なお、注に際しては、一部、筑摩書房全集類聚版脚注や岩波版新全集の細川正義氏の注解を参考にさせて頂いた部分があり、その都度、それは明示してある。また逆に、一部にそれらの注に対して辛辣にして批判的な記載もしてあるのであるが、現時点での「北京日記抄」の最善の注をオリジナルに目指すことを目的としたためのものであり、何卒御容赦頂きたい。私にはアカデミズムへの遠慮も追従もない。反論のある場合は、何時でも相手になる。その部分を読解するに必要と思われる一部の注は繰り返したが、頻繁に登場する人物や語は初出の篇のみに附した。通してお読みでない場合に、不明な語句で注がないものは、まずは全体検索をお掛けになってみることをお勧めする。
本紀行群に見られる多くの差別的言辞や視点についての私の見解は、既に「上海游記」の冒頭の注記に示しているので、必ず、そちらを御覧頂いた上で本篇をお読み頂きたい。]
北京日記抄
一 雍和宮
今日も亦中野江漢(なかのかうかん)君につれられ、午頃より雍和宮一見に出かける。喇嘛寺(らまでら)などに興味も何もなけれど、否、寧ろ喇嘛寺などは大嫌ひなれど、北京名物の一つと言へば、紀行を書かされる必要上、義理にも一見せざる可らず。我ながら御苦勞千萬なり。
薄汚い人力車に乘り、やつと門前に辿りついて見れば、成程大伽藍には違ひなし。尤も大伽藍などと言へば、大きいお堂が一つあるやうなれど、この喇嘛寺は中中そんなものにあらず。永祐殿、綏成殿(すゐせいでん)、天王殿(てんわうでん)、法輪殿などと云ふ幾つものお堂の寄り合ひ世帶なり。それも日本のお寺とは違ひ、屋根は黄色く、壁は赤く、階段は大理石を用ゐたる上、石の獅子だの、青銅の惜字塔(せきじたふ)だの(支那人は文字を尊ぶ故、文字を書きたる紙を拾へば、この塔の中へ入れるよし、中野君の説明なり。つまり多少藝術的なる青銅製の紙屑籠を思へば好し。)乾隆帝の「御碑(ぎよひ)」だのも立つてゐれば、兎に角莊嚴(しやうごん)なるに近かるべし。
第六所東配殿に木彫りの歡喜佛四體あり。堂守に銀貨を一枚やると、繡幔(しうまん)をとつて見せてくれる。佛は皆藍面赤髮(らんめんせきはつ)、背中に何本も手を生やし、無數の人頭を頸飾にしたる醜惡無雙の怪物なり。歡喜佛第一號は人間の皮をかけたる馬に跨り、炎口(えんく)に小人(せうじん)を啣(くは)ふるもの、第二號は象頭人身の女を足の下に踏まへたるもの、第三號は立つて女を婬するもの。第四號は――最も敬服したるは第四號なり。第四號は牛の背上に立ち、その又牛は僭越にも仰臥せる女を婬しつつあり。されど是等の歡喜佛は少しもエロテイツクな感じを與へず。只何か殘酷なる好奇心の滿足を與ふるのみ。歡喜佛第四號の隣には半ば口を開きたるやはり木彫りの大熊あり。この熊も因縁を聞いて見れば、定めし何かの象徴ならん。熊は前に武人二人(藍面にして黑毛をつけたる槍を持てり)、後(うしろ)に二匹の小熊を伴ふ。
それから寧阿殿なりしと覺ゆ。ワンタン屋のチヤルメラに似たる音せしかば、ちよつと中を覗きて見しに、喇嘛僧二人、怪しげなる喇叭(らつぱ)を吹奏しゐたり。喇嘛僧と言ふもの、或は黄、或は赤、或は紫などの毛のつきたる三角帽を頂けるは多少の畫趣あるに違ひなけれど、どうも皆惡黨に思はれてならず。幾分にても好意を感じたるはこの二人の喇叭吹きだけなり。
それから又中野君と石疊の上を歩いてゐたるに、萬福殿(ばんぷくでん)の手前の樓の上より堂守一人顏を出し、上つて來いと手招きをしたり。狹い梯子を上つて見れば、此處にも亦幕に蔽はれたる佛あれど、堂守容易に幕をとりてくれず。二十錢出せなどと手を出すのみ。やつと十錢に妥協し、幕をとつて拜し奉れば、藍面(らんめん)、白面(はくめん)、黄面(くわうめん)、馬面(ばめん)等(とう)を生やしたる怪物なり。おまけに又何本も腕を生やしたる上、(腕は斧や弓の外にも、人間の首や腕をふりかざしゐたり)右の脚(あし)は鳥の脚にして左の脚は獸(けもの)の脚なれば、頗る狂人の畫(ゑ)に類したりと言ふべし。されど豫期したる歡喜佛にはあらず。(尤もこの怪物は脚下に二人の人間を踏まへゐたり。)中野君即ち目を嗔(いか)らせて、「貴樣は譃をついたな。」と言へば、堂守大いに狼狽し、頻に「これがある、これがある」と言ふ。「これ」とは藍色(あいいろ)の男根なり。隆隆たる一具、子を作ることを爲さず、空しく堂守をして煙草錢(たばこせん)を儲けしむ。悲しいかな、喇嘛寺の男根や。喇嘛寺の前に喇嘛畫師(ゑし)の店七軒あり。畫師の總數三十餘人。皆西藏(チベツト)より來れるよし。恆豐號(こうほうがう)と言ふ店に入り、喇嘛佛の畫數枚を購(あがな)ふ。この畫、一年に一萬二三千元賣れると言へば、
喇嘛畫師の收入も莫迦にならず。
[やぶちゃん注:雍和宮は、名が示す通り、本来は清の第4代皇帝聖祖(康煕帝 1654~1722)が、1694年に第四子であった愛新覚羅胤禛(あいしんかくらいんしん 1678~1735:後の第5代皇帝世宗・雍正帝)のために建てた広大な御所。1722年の即位後、紫禁城移った雍正帝は、対外政策としてチベット・モンゴルへの介入を進めたが、その懐柔策の一つとして1744年に自身の雍和宮をラマ教(チベット仏教)ゲルク派の寺院として正式に喇嘛寺となった(1725年に半分を既に喜捨していた)。南北400m(中央部480m)・東西120m、総面積約66,400㎡、現存する北京最大の寺院建築。「ラマ教」とは、チベットを中心に発展した仏教の一派を言うが、現在は「チベット仏教」と呼ぶのが正しい。以下、ウィキの「チベット仏教」から呼称の誤り部分も含めて引用しておく。『大乗仏教の系統を汲み、特に密教を大きな柱とすることから「チベット密教」と呼んでイコール的に見なされがちであるが、実際は顕教の諸哲学や上座部仏教的な出家戒律制度も広く包含する総合仏教である。独自のチベット語訳の大蔵経を所依とする教義体系を持ち、漢訳経典に準拠する北伝仏教と並んで、現存する大乗仏教の二大系統をなす。ラマと呼ばれる高僧、特に化身ラマ(転生活仏)を尊崇することから、かつては一般に「ラマ教」(喇嘛教、Lamaism)と呼び、ややもすると異質な宗教と見なす向きがあったが、歴然とした正統仏教の一派であると自任するチベット仏教の本質が理解されるにつれて、偏見を助長する不適当な呼称とされ、現在では推奨されなくなっている。』。
・「中野江漢」中国民俗研究家。本名は中野吉三郎(明治22(1889)年~昭和25(1950)年)。福岡生。大正3(1914)年26歳で北京に渡り、約30年間在中した。「四 胡蝶夢」で芥川も語っている支那風物研究会を主宰し、『支那風物叢書』を刊行、同叢書の一つとして民俗学的にも考現学的にも優れた1910~20年代の卓抜な北京案内記「北京繁昌記」全3巻(大正11(1922)~大正14(1925)年刊)や、古書店の梗概に、合理的性交の秘法や支那に於ける不老回春術及び秘薬を解説、とある発禁本「回春秘話」(昭和6(1931)年萬里閣書房刊)等、誠に興味をそそる著作が多数ある。昭和14(1929)年には玄洋社(明治14(1881)年に総帥頭山満ら旧福岡藩士を中心によって結成された大アジア主義を標榜する右翼団体)の一員として支那満蒙研究会機関誌『江漢雑誌』も創刊している。
・「永祐殿」建築群(内裏相当の旧御所)のほぼ中央にあり、雍正帝が皇子であった時の居宅であった。雍正帝の死後、一時遺体が安置された。
・「綏成殿」建築群の最も北にある。現在の観光用地図には「綏成楼」とある。これは門を付随した建造物であろう。
・「天王殿」内部の正門昭泰門を入って最初に正面にある、雍和宮時代の主殿の一。通常のラマ教寺院と同じくここには未来仏たる弥勒及び韋駄天が祀られている。そのすぐ北に狭義の雍和宮があり、そこには過去仏(燃灯仏=定光仏:「阿含経」に現れる釈迦に将来成仏することを予言したとされる仏。)・現在仏(釈迦)・未来仏(弥勒)を表わす3世仏及び十八羅漢像を安置する。
・「法輪殿」永祐殿の背後にあり、法要・読経を行う祭殿。本来の御所の一部をチベット仏教形式に改築しているため、建物は十字型をし、屋上にはラマ教独特の小型の仏塔が立ち、殿内にはチベット仏教ゲルク派開祖ツォンカパの銅像が安置されている。建築群中、最も大きい。
・「惜字塔」こうしたものが、雍和宮の各所に設けられていたものか。神戸大学附属図書館の「新聞記事文庫 都市(3-043)」の中に、台湾での記事であるが、興味深いものを見つけたので引用する。『台湾日日新報』大正7(1918)年5月6日の記事で、「台北市街の今昔(1) 二十年の変遷」という中で、中国の伝統的な道徳的風俗が近代化の波の中で失われてゆくのを惜しむ記者の記載である。
[引用開始]
最も惜しむべきは惜字塔の如きものである、即ち文字を惜んで苟くも字の書いてある紙は粗末にせぬと言う所から、この文字ある紙片を道路に求めて拾い歩く篤志家のあった事である、半白の疎髯を風に弄らせ日を遮るべく渋扇を開いて眉上に置き、辮髪を以て之を挟みて頗る風流なる日覆を作り、細き竹棒に細長き竹籠を一荷に担ぎ、手に長き竹箸を携えて悠然として大路小路を打廻る其雅趣ある姿は全く画題の人である、別に之が為に給料を貰って居る訳では無く、唯だ道徳観念からして之を行う篤志に過ぎない、斯くして拾い集めた文字ある紙は之を集めて焼くのである、其れが惜字塔である、台北の市内では旧淡水館の門前に建てられてあったのが未だに眼に残って居る、夕刻には必ずこの塔の中から淡い煙りが昇って居た全く詩的であった、この惜字塔の如きものは漸次破壊されて今日では田舎へ行かぬと余り見られぬが、廟の前などにはよく見受けるのだが、其の惜字籠を担いだ何となく崇高な聖人らしい風格の老爺の姿を見る事は殆んど無いのである、之等の風俗は今日尚大に保存したいものである
[引用終了]
芥川は「多少藝術的なる青銅製の紙屑籠を思へば好し」とおちゃらけているが、ジャーナリストたらんとせば、芥川君よ、この記者を見習うべし!
・「乾隆帝」清第6代皇帝高宗(1711~1799)。
・「御碑」雍和門の左手前にある東八角碑亭と西八角碑亭のことか。1744年(乾隆8年)建立になる、雍和宮を喇嘛寺として喜捨した由来が白玉の石碑に、東に漢語と満州語、西に蒙古語とチベット語で記されているらしい。
・「第六所東配殿に木彫りの歡喜佛四體あり」東配殿は永祐殿の東背後に延びる建物。ここの歓喜仏、さぞや文化大革命で消失したであろうなあと思っていたのだが、「マディとワタシ」という個人の方の2007年8月17日のブログ「北京游記 4日目」に、東配殿で不自然に布をかけた4体の仏像を現認したという記載があり、芥川の見た四体は健在であることが分かる(但し、布は取って貰えず、写真も禁止とのこと)。ちなみにこの方の同じ記事に、何故、チベット仏教寺院に歓喜仏があるのかについて、竹中憲一著「北京歴史散歩」(竹内書店2002年p.290)からの引用が載る。孫引きをお許し頂き、コピー・ペーストする(「ラマ教」表記はママ)。
[引用開始]
ラマ教の歴史は七世紀ごろまでさかのぼる。インドよりチベットに伝わった仏教の一派シバ密教とチベット在来の鬼神崇拝のボン教が相互に影響しあって生まれたのがラマ教といわれている。ラマ教は守護神として鬼神羅漢(きしんらかん)と歓喜仏を祭るのは、その起源に由来するものである。
[引用終了]
恐らくは世界最古の宗教とされるインドの性愛信仰であったタントラ教の性交を通して宇宙的絶対原理と一体化するという考え方が、ヒンドゥー教に取り入れられたもので、竹中氏の謂いは、鬼神は御霊の絶大なパワーを意味し、歓喜仏は「性」のパワーは「生」のパワーと同義ということであろう。芥川の言う「第二號」が我々にはお馴染みの仏教の護法善神たる歓喜天の形象である。なお、この寺の宗派であるゲルク派によって、古くに存在したらしい実際の性行為による修行法の名残りは禁じられ、消滅した。
・「繡幔」刺繍を施したベール。「幔」は幕の意味であるが、縫い取りを施した綺麗な布・シーツであろうから、ベールとしておく。
・「炎口」口から火を噴いているということであろう。この芥川が言う「第一號」は、所謂、インド神話に登場する怪鳥ガルーダ、仏教に取り入れられて八部衆の一神となった迦楼羅(かるら)の形象に近いものではなかろうか。
・「小人」これは小さく見えるだけで、人間(罪人)であろう。
・「寧阿殿」これは、中央の狭義の雍和宮を囲むように東西の南北に建てられた4つの楼の内、西の北側に位置する扎寧阿殿(さつねいあでん)の誤りである。
・「怪しげなる喇叭」“dung chen”トゥンチェン。チベット仏教で用いられる民族楽器でアルペン・ホルンのような長さ5mにも及ぶ角笛形の金管楽器。チベット・ホルンとも呼ぶが、ここで芥川が見たものはもっと短いもののようである。
・「或は黄、或は赤、或は紫などの毛のつきたる三角帽」チベット仏教では地位や修行の階梯の中で帽子による識別が極めて重要な意味を持っているらしい。また、松枝到氏の「草原の中の象徴図像 ウランバートル」に以下の記載もある。
[引用開始]
チベットはこの時点で大きく宗教改革というものをねらっています。とくに黄帽派との闘争がありました。紅い帽子は、僧侶がかぶる決まりの帽子です。これは古いチベット仏教のグループがかぶっていたものです。ところが、長い間一定の宗派が生きていると、当然堕落であるとか教条主義であるとか、そういうものがはびこってきます。それを打開するために、ツォンカパという人が新たな宗派を起こそうとしたわけです。そして紅い帽子をわざと裏返して、裏の黄色い地を出してみんなの前で説教した。そしてそれに賛同した者は、自分たちも帽子をひっくり返して黄色い帽子をかぶり、古い宗派から新しい宗派へと、新たなチベット仏教の展開ということを決意として示しました。これがチベット密教の宗教改革だったわけです。
[引用終了]
ここで松枝氏が挙げているチベット仏教改革者こそ、この「喇嘛寺」の宗派ゲルク派の開祖である。
・「萬福殿」萬福閣が正しい。法輪殿と綏成殿(楼)の間中央にある。
・「喇嘛畫師」以下、ウイキの「チベット仏教」によれば、『文化面では、タンカと呼ばれる曼荼羅(仏画)や砂曼荼羅』が有名である、とある。
・「恆豐號」筑摩全集類聚版脚注に「喇嘛寺」の『前にあった古道具屋。宗徳泉の経営。』とある。何故か、この注、屋号に店主と異様に詳しい。宗徳泉なる人物は不詳。もしかすると、この注釈者は洋画ファンである(「上海游記」の「十四 罪」参照 )と同時に骨董好きで、実はこの宗徳泉なる人物、その方面の世界では有名な鑑定家なのかも?]