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2009/07/27

長江游記 三 廬山(上)

       三 廬山(上)

 

 若葉を吐いた立ち木の枝に豚の死骸がぶら下つてゐる。それも皮を剥いだ儘、後足(あとあし)を上にぶら下つてゐる。脂肪に蔽はれた豚の體は氣味の惡い程まつ白である。私はそれを眺めながら、一體豚を逆吊(さかつ)りにして、何が面白いのだらうと考へた。吊下げる支那人も惡趣味なら、吊下げられる豚も間が拔けてゐる。所詮支那程下らない國は何處にもあるまいと考へた。

 その間に大勢の苦力(クウリイ)どもは我我の駕籠の支度をするのに、腹の立つ程騷いでゐる。勿論苦力に碌な人相はない。しかし殊に獰猛なのは苦力の大將の顏である。この大將の麦藁帽は Kuling Estate Head Coolie No* とか横文字を拔いた、黒いリボンを卷きつけてゐる。昔 Marius the Epicurean は、蛇使ひが使ふ蛇の顏に、人間じみた何かを感じたと云ふ。私は又この苦力の顏に蛇らしい何かを感じたのである。愈(いよいよ)支那は氣に食はない。十分の後(のち)、我我一行八人は籐椅子の駕籠に搖られながら、石だらけの路を登り出した。一行とは竹内栖鳳氏の一族郎黨、並に大元洋行(たいげんやうかう)のお上さんである。駕籠の乘り心地は思つたよりも好(よ)い。私はその駕籠の棒に長長と兩足を伸ばしながら、廬山の風光を樂んで行つた。と云ふと如何にも體裁が好いが、風光は奇絶でも何でもない。唯(ただ)雜木(ざふき)の茂つた間(あひだ)に、山空木(やまうつぎ)が咲いてゐるだけである。廬山らしい氣などは少しもしない。これならば、支那へ渡らずとも、箱根の舊道を登れば澤山である。

 前の晩私は九江にとまつた。ホテルは即ち大元洋行である。その二階に寢ころびながら、康白情氏の詩を讀んでゐると、潯陽江(じんやうかう)に泊した支那の船から、蛇皮(じやびせん)線だか何だかの音がして來る。それは兎に角風流な氣がした。が、翌朝になつて見ると、潯陽江に候(さふらふ)と威張つてゐても、やはり赤濁りの溝川(どぶかは)だつた。楓葉荻花秋瑟瑟(ふうえふてきくわあきしつしつ)などと云ふ、洒落れた趣は何處にもない。川には木造の軍艦が一艘、西郷征伐に用ゐたかの如き、怪しげな大砲の口を出しながら、琵琶亭のほとりに繋つてゐる。では猩猩は少時(しばらく)措き、浪裡白跳(らうりはくてう)張順か黒旋風李逵(りき)でもゐるかと思へば、眼前の船の篷(とま)の中からは、醜惡恐るべき尻が出てゐる。その尻が又大體にも、――甚(はなはだ)尾籠な申し條ながら、悠悠と川に糞をしてゐる。

 私はそんな事を考へながら、何時かうとうと眠つてしまつた。何十分か過ぎた後、駕籠の止まつたのに眼をさますと、我我のつい鼻の先には、出たらめに石段を積み上げた、嶮(けは)しい坂が突き立つてゐる。大元洋行のお上さんは、此處は駕籠が上らないから、歩いて頂きたいと説明した。私はやむを得ず竹内逸氏と、胸突き八町を登り出した。風景は不相變平凡である。唯(ただ)坂の右や左に、炎天の埃を浴びながら、野薔薇の花が見えるのに過ぎない。

 駕籠に乘つたり、歩かせられたり、いづれにもせよ骨の折れる、忌忌(いまいま)しい目を繰返した後、やつとクウリンの避暑地へ來たのは彼是午後の一時頃だつた。この又避暑地の一角なるものが輕井澤の場末と選ぶ所はない。いや、赤禿(あかはげ)の山の裾に支那のラムプ屋だの酒棧(チユザン)だのがごみごみ店を出した景色は輕井澤よりも一層下等である。西洋人の別莊も見渡した所、氣の利いた構へは一軒も見えない。皆烈しい日の光に、赤や青のペンキを塗つた、卑しい亞鉛(トタン)屋根を火照らせてゐる。私は汗を拭ひながら、このクウリンの租界を拓いた牧師エドワアド・リットル先生も永年支那にゐたものだから、とんと美醜の判斷がつかなくなつたのだらうと想像した。

 しかし其處を通り拔けると、薊や除蟲菊の咲いた中に、うつ木(ぎ)も水水しい花をつけた、廣い草原が展開した。その草原が盡きるあたりに、石の垣をめぐらせた、小さい赤塗りの家が一軒、岩だらけの山を後(うしろ)にしながら、翩翩(へんへん)と日章旗を飜してゐる。私はこの旗を見た時に、租國を思つた、と云ふよりは、祖國の米の飯を思つた。なぜと云へばその家こそ、我我の空腹を滿たすべき大元洋行の支店だつたからである。

 

[やぶちゃん注:5月23日。

・「一體豚を逆吊りにして、何が面白いのだらうと考へた」――芥川さん、あなたは考えてない。面白くてやってるのじゃない。頚動脈を切って、速やかに血抜きをする方法として、これは至極論理的な当たり前の処理方法なのですよ。中華料理を至極に旨いと連発するあなたにして、如何にも思慮なく、幼稚な感想、失望しました。――

・「苦力(クウリイ)」)」“ kǔ”は本来は肉体労働者の意であるが、ここでは所謂、荷揚げ人夫。芥川一行が乗っている「駕籠」というのは「轎子(きょうし)」で、お神輿のような形をした乗物。お神輿の部分に椅子がありそこに深く坐り、前後を4~2人で担いで客を運ぶ。これは日本由来の人力車と違って、中国や朝鮮の古来からある上流階級の乗物である。現在も廬山には4人持ちのものがあるらしい。

・「Kuling Estate Head Coolie No*」は「牯嶺苦力頭*番」の英訳。「牯嶺」は後掲する別荘地「クウリン」のこと。“*”は任意の数字。

・「Marius the Epicurean」初出はカタカナ表記で「マリアス・ズイ・エピキユリアン」。これはイギリスのヴィクトリア朝時代の評論家・作家であるWalter Horatio Pater(ウォルター・ホレイシオ・ペイター 18391894)の1885年のアウレリウス帝時代のローマを舞台にした小説“Marius the Epicurean: His Sensations and Ideas”「享楽主義者マリウス、その感覚と観念」の主人公。岩波版新全集の篠崎美生子氏の注解によれば、芥川が大正8(1919)年に漱石の「三四郎」に似た構想のもとに執筆しながら未完で投げ出してしまった「路上」の主人公(明らかに芥川自身を思わせる)安田俊助を『マリウスになぞらえているほか、一九一七年八月29日付井川(恒藤)恭宛書簡では自分を「東洋的エピキュリアン」だと語っている』とある。「エピキュリアン」は快楽主義者。享楽主義者の意。古代ギリシアのヘレニズム期のエピクロス派の始祖であった哲学者Epikūrosエピクロス(B.C.341B.C.270)の教義に基づくが、本来の彼の人生の「快」は精神的なものであって、肉体的快楽はそれを「苦」と捉えていた。

・「大元洋行」筑摩全集類聚版脚注に『九江最大の日本人旅館。後、増田旅館と改名。』とあり、本文で見るように、廬山に支店を持っており、当時、日本人の廬山観光はこの旅館が一手に担っていたらしい。

・「山空木」和名のヤマウツギは、まず、バラ亜綱ムクロジ目ミカン科コクサギOrixa japonicaの別名(「和名抄」)として用いられるが、分布や花の開花期は本記載と一致するものの、花自体が目立たないものなので、同定から除外する。次にキク亜綱マツムシソウ目スイカズラ科タニウツギ属ハコネウツギ(ベニウツギ)Weigela coraeensisの別名(「大和本草」)として用いられるが、本種が中国に分布するかどうかは確認出来ないし、本邦の海岸近くに植生するという点からも除外される(因みに「箱根」が本文に出るのでこれを同定したいところであるが、このハコネウツギ、箱根とは無関係で、箱根には植生しない)。そうなると、広範な意味でのウツギ、バラ亜綱バラ目アジサイ科ウツギ属Deutziaに属するもので、大陸性のものを選ぶしかないが、ウィキの「ウツギ」によると、マルバウツギDeutzia scabra・ヒメウツギDeutzia gracilis等の『同属の類似種多く、東アジアとアメリカに60種ほど分布する』とあるのみで、しかも中文ウィキ「ウツギ」の相当するページには、本邦のウツギ属ウツギ Deutzia crenata をごく短く載せるにとどまるばかりである。ところが同種は所謂、「卯の花」で原種の花は白い。これまでである。識者の御教授を乞う。

・「康白情」kāng báiqíng(カン パイチン 18951959or1954)は、本名康鴻章、詩人。胡適・陳独秀らの影響を受け、1919年の五四運動に参加、散文形式の白話詩人として好評を博した。アメリカ留学を経て、解放後まで華南大学文学部教授等を歴任した。詩集「草児」「河上集」等。

・「潯陽江」現在の江西省揚子江岸九江市付近には、古代に置かれた潯陽郡潯陽県が置かれたことから、この九江の北を流れる揚子江のことを特に潯陽江と呼んだ。以下の白居易の詩「琵琶行」巻頭を意識した表現。

・「蛇皮線」中国伝統の弦楽器、三弦(弦子)のこと。沖繩の三線(さんしん)や三味線のルーツ。

 

・「楓葉荻花秋瑟瑟」白居易の「琵琶行」の冒頭は以下のように始まる。

 

潯陽江頭夜送客

楓葉荻花秋瑟瑟

 

○やぶちゃん書き下し文

潯陽江頭 夜 客を送る

楓葉荻花 秋 瑟瑟

 

○やぶちゃん現代語訳

潯陽江のほとりで

旅立つ人を送る宴を張った――

紅葉した楓の葉――白い荻(おぎ)の穂――

そこを吹き抜けるのは

ただ淋しい風の音(ね)――

 

「瑟瑟」を「索索」とするもの一本がある。「瑟瑟」は“sèsè”(セセ)、「索索」“suŏsuŏ”(シュオシュオ)で、本来ならここは、逐語訳すれば「ヒューヒュー」に相当する「楓葉荻花」を吹き抜ける風の音そのものの擬音語である。その他、この「琵琶行」については、「上海游記 十六 南國の美人(中)」の私の注を参照されたい。

 

・「西郷征伐」西南の役。

・「琵琶亭」現在の九江にある長江大橋の東側にある、白居易が「琵琶行」を詠んだとされる場所に、後世建てられた亭。

・「猩猩は少時措き」の「猩猩」は中国の伝説上の動物で、延びた体毛に覆われた少年のようななりをしており、人語を解し、赤い顔をしていて酒を好むとされる。筑摩全集類聚版脚注は同内容を記して終わる。岩波版新全集の篠崎美生子氏は注を附していない。それで読者は分かるのか? では諸注が読者の誰にも分かっているとして書かない言わずもがなの注を記すとしよう。これは「猩猩」で「酔っ払い」を指している。「猩猩」はその性質から大酒家の渾名に用いられる。これは白居易「琵琶行」の主人公が、友の送別を河畔にした白居易は友と酒杯を挙げ、琵琶引きを呼び、その哀しい音色に心打たれ、酔った勢いでこの長詩を詠んだという設定である。そこに感涙極まった赤ら顔の白居易の姿を芥川はまず浮かべたのである。しかし、時刻はもとより、見える景色も如何にもそぐわないから、それはまあ、仕方がなく想像をやめて、の意である。ここは「琵琶行」を知らなくては、全く意味が分からない部分である。筑摩脚注者や篠崎美生子氏は当然御存知であった。そうして日本国民の一般人はここを読んで即座に白居易「琵琶行」を想起し、その内容から類推して「猩猩」を「酔っ払い」、酔っ払い即ち白居易とコンピュータ並みに迅速に理解出来るらしい。僕は確認のために「琵琶行」を再読しつつ、「猩猩」を調べてみて、はたと気づいた大馬鹿者であった。本篇冒頭注に掲げた『私の乏しい知識(勿論それは一部の好みの分野を除いて標準的庶民のレベルと同じい)で十分に読解出来る場合』の丸括弧注は降ろした方が良いらしい。

・「浪裡白跳張順」は「水滸伝」中の梁山泊の豪傑の一人。ウィキの「張順によれば、渾名は浪くぐりのハヤを意味する。登場の始めは兄の張横と『揚子江で闇渡し舟をして旅人の金銭を巻き上げていたが』、宋江と知り合い梁山泊入りを果たす。『大変な泳ぎの達人で、四、五十里(約20km)を泳ぎ、数日間を水中で過ごすことができるという、水泳の達人が多い水軍頭領の中でもずば抜けた水泳技能を持っていた。梁山泊では水軍頭領のひとりとして活躍した。』梁山泊が官軍となった後、反乱賊軍の首魁方臘(ほうろ)『討伐の中盤、敵軍が杭州城に篭城すると川を泳いで城内に忍び込むことを進言。単独城門前まで忍び寄るが、備えがあったために敵兵に発見される。あわてて水中に逃げ込もうとするが、一瞬遅く矢や投げ槍、岩で攻撃されて戦死した。その夜、宋江の夢に現れて別れを告げた。杭州城が陥落すると、張横の体に乗り移って敵指揮官の方天定を殺害、宋江の前に首を捧げる。張順は竜王によって神に封じられ、魂魄となって方天定についていたところ張横を見かけたので、体を借りて成敗したと告げて去った。』とある。如何にも芥川好みの暴虎馮河ではないか。

・「黒旋風李逵」は「水滸伝」中の梁山泊の豪傑の一人。ウィキの「李逵」によれば、『二挺の板斧(手斧)を得意と』し、そのすばしっこさと荒々しい強さに加えて、『色の黒さからよく「鉄牛」とも呼ば』れた。『怪力で武芸に優れた豪傑であるが、性格は幼児がそのまま大きくなったように純粋であり、物事を深く考えることは無く我慢もきかないため失敗も多い。』『一方で幼児独特の残虐性や善悪の区別の曖昧さもそのまま引き継いだために、人を殺すことをなんとも思っておらず、無関係の人間を巻き添えにしたり女子供を手にかけることも厭わない』ため、なついて尊崇する宋江等からも『叱責を買うことも多い』。ある意味、『破茶滅茶で失敗も多いが憎めない部分もあるトリックスター的存在で、この手の破壊的快男子が喝采を浴びる中国では群を抜く人気を誇っている。しかし日本ではあまりに行動が短絡的で、無節操に人を殺すせいか辟易する読者も多く、好き嫌いがはっきり分かれる人物のようである』とある。その宋江との意外な別れは魅力的であり、『死後も徽宗の夢の中に現れ奸臣にいいように騙された事を罵って斬りかかったり』するなど、如何にも芥川好みのプエル・エテルヌス・ピカレスクではある。

・「篷」「苫(とま)」に同じ。菅(すげ)や茅(かや)等で編んで作った莚(むしろ)。雨露を凌ぐために小船等をこれで覆った。

・「クウリン」“Gǔlĭng”漢字表記は「牯嶺(これい/くれい)」。牯嶺鎮。「北京太極拳気功養生会」「廬山」のページによれば、廬山の北方の峰にあり、三方を山に囲まれ、一方は谷に面しており、その鎮(村)全体の形が牝牛のような形をであることから、この名が付いたとある。現在も別荘が集中する地域で、『ホテルやレストランがこの小さな町の街道に沿って両側に並び、観光客がにぎわっている』とある。

・「この又避暑地の一角なるものが輕井澤の場末と選ぶ所はない。……輕井澤よりも一層下等である。」ここで芥川が軽井沢と廬山を対比している点に注意されたい。これは、廬山でのアップ・トゥ・デイトな感懐ではないということである。何故なら、廬山を訪れた際の芥川は軽井沢に行ったこともなかったからである。彼が始めて軽井沢に避暑に赴いたのは、まさにこの「長江游記」が公開される直前、大正131924)年の7月22日のことであった。彼はこの初めての軽井沢が大変気に入って、8月23日の田端帰還まで、都合、一ヶ月を過している。そして、冒頭注でも述べた通り、ここで越し人、片山廣子と運命の出逢いをしたのであった。本「長江游記」はそのような特殊な雰囲気の中で書かれたものでことを知って読んでみると、何気ない感懐や言葉尻りが、不思議に意味深長なものに見えてくるのである。この大正101921)年の廬山の芥川は、同時に大正131924)年8月の軽井沢の芥川として読めるということである。

・「酒棧(チユザン)」“jiŭzhàn”。居酒屋。

・「亞鉛(トタン)」トタン板。薄い鋼板に亜鉛メッキをしたもの。かつてはよく屋根板に用いられた。この呼称はポルトガルで亜鉛を意味する“tutanaga”に由来するとも言われる。

・「クウリンの租界」こんな山ん中に租界があるんかい、と思って検索すると、「廬山避暑紀行ダイジェストのページに、パール・バックや蒋介石の別荘等の写真入りで、清末に牯嶺の『東谷と称される一帯の租借権が英国人宣教師に与えられ、外国人避暑地として開発された、軽井沢のような地でもある。』という記載(これはその入り口の「廬山避暑紀行」のページのキャプション)を発見、眼から鱗、廬から牯牛!

・「エドワアド・リットル」Edward Selby little(エドワード・セルビー・リットル 18641939)、中国名李徳立は、イギリス人宣教師として清後期(光緒年間:18751908)に来中(在中は18901910)し、この牯嶺東谷を租借地として借り受け、避暑用別荘地として開拓をした。その際、「廬山避暑紀行ダイジェスト」のページによれば、このリットル氏が『英語の「cooling」にも通ずる名称として、同地の「牯牛嶺」という地名をもとに、別荘地一帯を「牯嶺」と命名し、ウェード式ローマ字では「Kuling」と表記した。』とある。またまた、眼から鱗、牯(めうし)から涼!

・「翩翩」翩翻(へんぽん)に同じ。]

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