江南游記 二十四 古揚州(中)
二十四 古揚州(中)
この水路を行き盡した所に、城門へ穿つた水門があつた。水門にはちやんと番人がゐるから、舟さへ行けば開けてくれる。それを向うに通り拔けると、急に川幅が廣くなつた。畫舫の左には高々と、揚州城の城壁が連(つらな)つてゐる。この城壁も瓦の間に、蔦蘿(つたかづら)が網を張つてゐたり、灌木が生え伸びてゐたりするのは、杭州や蘇州と變りはない。水と城壁との境には、盛り上つた洲の土の色が、蘆むらの向うに續いてゐる。畫舫の右には竹林(ちくりん)が多い。その中に一軒百姓家が見えた。百姓家の壁にはべた一面に、牡丹餠程のものが貼りつけてある。いや、現在もこの家の前には、鳥打帽をかぶつた男が一人、頻に牡丹餠を製造してゐる。これは何かと思つたら、冬の燃料を作る爲に、牛糞を干し固めてゐるのであつた。
しかし水門を拔けてからは、水も前程臭くはない。景色も畫舫の進むのにつれて、だんだん美しさを加へるやうである。殊に或竹林の後(うしろ)に、古い茶館(ちやかん)が一軒ある、その邊の名前を聞いて見たら、緑楊村(りよくやうそん)と云ふのは風流だつた。實際さう云はれて見れば、茶館の卓子(テエブル)を圍みながら、川を見てゐる連中の顏も、緑楊村裏の住人らしい、泰平の相を具へてゐる。
その内に我我の畫舫の先には、もう一艘畫舫が見え始めた。この畫舫に乘つてゐるのは、いづれも女ばかりである。しかも棹をとつたのなぞは、日本めかしい御下げの髮に、紅い玫瑰(メイクイ)の花をさしてゐる。私はもう五分もすれば、彼等の舟を追ひ越すから、その時この揚州の美人に、一瞥を與へようと思つてゐた。が、城壁が盡きると同時に、水路の分れる處へ來ると、彼等の畫舫は右へ曲るし、我我の畫舫は反對の方へ、冷淡にも船首を向けてしまふ。見送れば彼等の舟の跡には、兩岸の蘆の靜な間(あひだ)に、薄白い水光(みづひかり)が殘つてゐる。「二十四橋明月夜。玉人何處教吹簫」――私は突然杜牧の詩が、必しも誇張ぢやない事を感じた。どうも揚州の風物の中には、私さへ詩人と化せしめるやうな、快い惱しさがあるやうである。
畫舫は船頭の操る棹に、水上の水草を押し分けながら、大きい石の眼鏡橋(めがねばし)をくぐつた。橋のアアチの石面には、白墨かペンキか覺えてゐないが、兎に角白い字を並べ立てた、排日の宣言が書き立ててある。その橋の下を通り拔けると、畫舫は高洲氏の命令通り、斜に右岸へ進路を向けた。其處にはずつと水際に、柳ばかり枝を垂らしてゐる。
「今の橋? 今の橋が大虹橋、この岸が春柳堤さ。」
高洲氏は舟を止めさせながら、かう私に教へてくれた。
その春柳堤へ上つて見たら、路を隔てた麥畠の向うに、草色の薄い小山がある。その又小山に幾つとなく、丁度鼹鼠(もぐら)が土を上げたやうに、小さい土饅頭が並んでゐる。墓もかうなると惡くはない。何だか揚州の土の底では、死人さへ微笑してゐさうな氣がする。私は徐氏(じよし)の花園(かえん)の方へ、ぶらぶら柳の下を歩きながら、うろ覺えのミユツセなぞを暗誦した。ミユツセ、――尤もミユツセだつたかどうだか當てにはならない。實は唯(ただ)口の内に、柳、墓、水、懸、草、と云ふやうな、その場合に適切な言葉ばかり、好い加減に呟いてゐると、如何にもミユツセじみた氣がし出したのである。徐氏の花園を一見した後(のち)、我我は又畫舫に乘つて、元通り川を上つて行つた。すると今度は水の向うに、名高い五亭橋が見え始めた。五亭橋一名蓮華橋は、やはり石の眼鏡橋の上に、中央に一つ、二つ、都合五つの亭を構へた、頗(すこぶる)贅澤な橋である。亭の柱や欄干は、皆寂びた丹塗りだから、贅澤でも格別惡どくはない。唯(ただ)橋臺(はしだい)の石の色は、もう少し古みを帶びてゐても、差支へないと云ふ氣がした。が、大體感じを云へば、周圍に蔓(はびこ)る柳や蘆と、多少不調和な氣がする位、支那風に風雅を極めてゐる。私はこの橋の姿が、かすかに青んだ空を後(うしろ)に、柳の中から現れた時、思はず微笑せずにはゐられなかつた。――西湖、虎邱(こきう)、寶帶橋、――それらも勿論惡いとは云はない。しかし私を幸福にしたのは、少くとも上海以來、何處よりもまづ揚州である。
[やぶちゃん注:5月11日。名前が示されないが、揚州西北の郊外にある名勝、痩西湖の周遊である。痩西湖は文字通り細長い人工湖で全長4.3㎞、湖面は凡そ30ha。清の康煕・乾隆年間に湖畔庭園として整備され、長堤・徐園・小金山・吹台・月観・五亭橋・鳧荘(ふそう)・白塔等、名跡が多数ある。
・「緑楊村」痩西湖湖畔の村。銘茶の産地として知られる。
・「玫瑰(メイクイ)」“méiguī”本邦ではこの表記でバラ科バラ属ハマナス(浜梨)Rosa rugosaを表わすが、Rosa rugosaは北方種で中国では北部にしか分布しない。中国産のハマナスの変種という記載もあるが、芥川が中国語としてこの語を用いていると考えれば、これは一般的な中国語としてバラを総称する語であり、注としては「バラ」「薔薇」でよいと思われる。
・『「二十四橋明月夜。玉人何處教吹簫」』前篇「二十三 古揚州(上)」注『杜牧の詩にあるやうな「青山陰陰水迢迢」』参照。
・「大虹橋」痩西湖の入口に架かかり、揚州二十四景の西園曲水と長堤春柳を結ぶ。岩波版新全集の神田由美子氏の注解によれば、明末に架橋後、清の乾隆年間にアーチ型に改修された。命名は『虹が東西両岸にかかっているようにみえる』ところから、とある。
・「春柳堤」湖の西岸にある。入口から小金山迄の数百メートルの堤であるが、揚州二十四景の「長堤春柳」がこれである。
・「徐氏の花園」筑摩全集類聚版脚注は、鎮江の徐宝山の花園とし、岩波版新全集の神田由美子氏の注解は『揚州市の市街東南部にある花園か? 旧市街の徐凝門外の裏道にある』とする。検索をかけるうちに「徐凝門」で、以下の個人ブログ「考古学用語辞典」の記載を発見した。「何園」(かえん)という旧跡についてである。改行は「/」に変えた。『揚州市南徐凝門街77号にあり、寄嘯山荘とも呼ばれている。清の光緒年間に造営されたもので、揚州の名園の一つ。園主は隠退して揚州に帰ってきた湖北漢黄徳道道台の何芷(舟+刀)で、陶淵明の「南窓に倚りて以つて寄傲し、東皋に登りて以つて舒嘯す」の詩句から取って、「寄嘯山荘」と名づけたといわれている。/これは大型の邸宅庭園で、後花園、庭付き住宅、片石山房からなっている。面積はわずか7000㎡で、最大の特徴は池の周りに異なる形をした楼が連なっていることで、その長さは430m余に及ぶ。観光客は回廊に沿って一回りして見学することができるようになっている。/この園は東西2部分に分かれ、東部に船庁と牡丹庁があり、船庁の北側に女性の客を宴会でもてなす丹鳳朝陽がある。養魚池の水亭は納涼をとるところであれば、舞台として使うこともでき、また回廊は観劇の観衆席に使われる。主楼の蝴蝶庁は男性の客を宴会でもてなすところである。国内に築山、怪石、古木があり、四季折々の花が咲いている。/何園は曲がりくねった道と回廊で有名。中国・西洋の建築芸術をうまく融合させている。中国の現代の有名な古建築専門家の羅哲文氏は「全体的な配置が整然としており、疎密が適当で、なかでも北部の花園が絶妙を極めている」と述べ、また何園は「江南庭園における唯一つの例」と高く評価している。』。一見、これかと思わせるのだが、やはり「徐氏」はどうみても人名である。すると中文サイト「壹旅游」の「非游不可」の「揚州有位“徐老虎”――徐宝山其人其事」という記事を発見、「徐園」なるものが存在することが分かった。そこに花園があるかないかは分からないが、私はこちらを採りたい。因みに、筑摩版の脚注の徐宝山(1862~1913)とは清末の軍人。鎮江新勝党の統領として揚州軍政府を弾圧、自ら揚州軍政分府を組織した地元のボス(鎮江出身)。革命党により暗殺された。
・「ミユツセ」Alfred Louis Charles de Mussetアルフレッド・ルイ・シャルル・ド・ミュッセ(1810~1857)はフランスのロマン主義の作家。
・「如何にもミユツセじみた氣がし出した」ウィキの「ミュッセ」には彼を評して『その詩はうわべの抒情、表面的な憂愁に満ちていて、ロマン主義のもっとも軽薄な部分が出ていると言える』という記載がある。この批判的一刀両断、ウィキならではという感じで、面白い。
・「五亭橋」痩西湖のシンボルと言える極めて異形の建造物。乾隆22(1757)年、この年の乾隆帝2度目の江南巡幸に合わせて、莫大な財産を恣にした地元の塩商人らが出資し、架橋した。橋上には二重の急激に反り返った廂を有した主亭を中心に、四つ角で接した同じ傾斜角を持った単廂の方亭が囲むように四つ配されている。橋脚には大小異なる遂道が通り、最大の中央のものは水面から7.13m、複雑な形状が四季折々の変化に飛んだ景色を楽しめるよう工夫されている。
・「橋臺」橋脚のことであるが、五亭橋の写真を見ると、如何にも「台」である。]