江南游記 八 西湖(三)
八 西湖(三)
岳飛の墓前には鐵柵の前に、秦檜(しんくわい)張俊等(ら)の鐵像がある。像の格好を按ずると、面縛された所に違ひない。何でも此處に詣でるものは、彼等の姦を憎む爲に、一一これらの鐵像へ、小便をひつかけて行くさうである。しかし今は仕合せと、どの鐵像も濡れてゐない。唯そのまはりの土の上に、青蠅が何匹も止まつてゐる。それが僅かに遠來の私に、不潔な暗示を與へるだけだつた。
古來惡人多しと雖も、秦檜程憎まれたものは滅多にない。上海あたりの往來では確か字では油炸塊(ユツアコイ)とか云ふ、棒のやうな油揚を賣つてゐる。あれも宗方(むなかた)小太郎氏の説によると、秦檜の油揚と云つたつもりだから、油炸檜(ユツアコイ)と云ふのが本名ださうである。一體民衆と云ふものは、單純なものしか理解しない。支那でも關羽とか岳飛とか、衆望を集めてゐる英雄は、皆單純な人間である。この特色を具へてゐない限り、如何に不世出の英雄でも、大向うには持て囃されない。たとへば井伊直弼の銅像が立つには、死後何十年かを要したが、乃木大將が神樣になるのは殆(ほとんど)一週間も要さなかつたやうなものである。それだけに又敵になると、かう云ふ英雄の敵は憎まれ易い。秦檜は如何なる惡因縁か、見事にこの貧乏鬮(くじ)を引いた。その結果御覧の通り、中華民國の十年にさへも、散散な取扱ひを受けてゐる。私もこの新年の「改造」に、「將軍」と云ふ小説を書いた。しかし日本に生れた難有(ありがた)さには、油揚の憂目にも遇はなければ、勿論小便もひつかけられない。唯一部分伏せ字になつた上、二度ばかり雜誌の編輯者が當局に小言を云はれただけであつた。
次手どの位秦檜と云へば憎惡の的になつてゐたか、――その間の消息を語るべきコントを一つ紹介しよう。これは清人景星杓(けいせいしやく)の「山齋客談(さんさいかくだん)」の中の話である。
* * * * *
「何年前になりますか? 私が江上の或寺に、讀書かたがた住んでゐた時です。突然隣家の婆さんに、何か鬼物が乗り移りました。」
嚴曉蒼(げんげうさう)は話し出した。
「婆さんは白眼を吊り上げたなり、一家の男女(なんによ)を睨み廻しては、頻にかう罵るのです。――わが輩は冥道押使(めいだうあふし)だぞ。今秦檜の魂を押しながら、閻王の府へ赴いた還りだが、途中此處を通りかかると、この死損ひの婆あの爲に、汚れ水を着物にかけられた。何とか扱ひをつければよし、さもなければこの婆あは閻王の御前(おんまへ)へ引きずつて行くぞ。
「一家の男女は仰天しました。が、婆さんについたのは、實際冥土の使かどうか、それをまづ確める爲に、いろいろ問答をして見たさうです。すると婆さんは不相變、傲然と正面にかまへながら、何でもはきはき返答をしました。して見れば鬼使(きし)に相違ない。――かう云ふ事になりましたから、一家の男女はとりあへず、紙錢に火をつけるやら、地に酒を注ぐやら、百方祈願を凝らしました。御承知の通り冥土の下役(したやく)も、人界の下役と同じやうに、賄賂を使ひさへすれば無事なのです。
「婆さんは少時(しばらく)たつた後、ばつたり其處へ倒れました。が、ぢきに起き上つた時には、もう鬼使も去つたのでせう、唯きよろきよろするばかりだつたのです。鬼に憑かれる、――それは珍しい事でもありますまい。が、婆さんに乗り移つた鬼は、一家の男女の問を受けると、こんな幽冥の事も話したさうです。
「問。――秦檜は一體どうなりましたか? 御差支なければ御教へ下さい。
「答。――秦檜も今は輪廻の果に、金華の女に生れてゐる。それが今度大膽にも、謀夫の罪を犯したから、磔(はりつけ)の刑に處せられたのだ。
「問。――しかし秦檜は宋の人ではありませんか? 金元明の三朝を閲した後(のち)、やつと罪を正されると云ふのは、遅過ぎるやうに思ひますが。
「答。――檜賊(くわいぞく)は、恣(ほしいまま)に和議を唱へ、妄(みだり)に忠良を屠戮(とりく)した。兇惡も亦甚しい。天曹(てんさう)はその罪を憎む餘り、磔刑(たくけい)三十六度、斬首の刑三十二度の判決を與へた。合計六十八度の刑は、さう手輕にすむものではない。
「まあ、かう云ふ調子なのです。秦檜の罪憎むべしとは云へ、氣の毒なものではありませんか?」
嚴曉蒼が嚴灝庭(げんかうてい)先生の曾孫(そうそん)である。決して譃をつくやうな人ではない。
[やぶちゃん注:
・「秦檜」は南宋の宰相(1090~1155)。侵攻を繰り返す金に対して和平工作を進めて講和を結んだが、内政では、主戦論を唱え実際に善戦した岳飛を謀略に陥れ、獄死させたことから、後世、売国奴の汚名を蒙ることとなった。ここの岳廟の鉄柵の中には、実は秦檜の妻の像がある。これについて以上の記載を参照したウィキの「秦檜」には、以下の記載がある。『秦檜自身も岳飛を殺すことについては大いに悩んだが、妻にうながされて殺すことを決意したという。そのため、岳飛を殺したのは秦檜夫妻だとみなされており、岳王廟には夫婦の像が縄に繋がれる姿で置かれている。以前の中国にはこの像に唾を吐きかける習慣があった(現在では「像に唾を吐いたり、叩いたりしてはならない」という掲示がある)。』(一部の衍字を削除した)とある。
・「張俊」は南宋の政治家(1097~1164)。「照鏡見白髪」で知られる唐代の詩人にして名臣張九齢の弟の子孫である。優れた軍師として主戦論を唱え、よく金軍と善戦したが、年下の辣腕将軍岳飛とそりが合わず、軍役ではことあるごとにぶつかって、遂には秦檜に岳飛を讒訴するに至った。岳飛の冤罪の元を作ったことから秦檜と並んで売国奴の汚名を蒙ることとなったが、ウィキの「張俊」には、終始、正統な主戦論で国防を唱え、敵の金の、皇族にして南宋攻略の将軍であった粘没喝(ねんぼっかつ 1079~1137)をして『「中国で自分の敵となりうるのは張浚だけである」と言い、四川を取る望みを絶つよう本国に遺言』せしめたとある通り、軍師としての才能は抜群であった。
・「油炸塊(ユツアコイ)」“yóuzhàkuài”「炸」は火薬で爆発させる意以外に、中華料理の調理法でも有名な通り、油で揚げる、の意を持つ。現在でも中華菓子として知られる細長い揚げパン風のもの。ちぎって粥に入れ食う。現在は油条というのが一般的。現在の正確なカナ表記の発音は「イォウチアコアイ」となる。
・「宗方小太郎」(文久3・元治元(1864)年~大正13(1924)年)は、所謂、大陸浪人の一人。肥後の細川の支藩藩士の長男として現在の熊本県宇土市に生まれた。日清戦役に従軍後、中国に凡そ40年滞在、孫文らと親交を結び、当時の政治・改革運動の内奥にも精通した。上海通信社の創業、上海日清貿易研究所設立及び東亜同文会とその教育機関である東亜同文書院の創立に関わる等、日本の大陸政策を陰で支えた策士である。
・「油炸檜(ユツアコイ)」“yóuzhàguì” 現在の正確なカナ表記の発音は「イォウチアコェイ」となる。確かに似て、面白い。中国古代の刑罰には熱した油の入った釜で煮られる刑があったとする。
・「關羽」後漢末の劉備に仕えた武将(?~219)。「三国志演義」で知られるが、その伝説的武勇と信義節操の堅実さから、後世、神格化して関帝となった。岳飛とともによく祀られる(各地の中華街でよく見られるのは彼が特に商売の神として崇められるからである)。
・「中華民國の十年」この芥川渡中の年、1921年。大正10年。
・「この新年」大正11(1922)年1月。
・『「將軍」』大正11(1922)年1月発行の『改造』に掲載された。後、作品集『将軍』『沙羅の花』『芥川龍之介集』に所収された。
・「一部分伏せ字になつた」試みに私が数えたところでは「二 間諜」に2箇所5文字分「×」がある他は、総て「一 白襷隊」に集中する(他の「三 陣中の芝居」「四 父と子と」にはない)。「一 白襷隊」冒頭の「第×師團第×聯隊」を除くと(凡そ3,100人からなった中村覚少将により組織された同突撃隊は編入された第三軍の各師団から選ばれた人員による特別支援部隊で、「第×師團×聯隊」はその複数の同一連隊出身の白襷隊員を指しているから、ここは芥川自身が「×」としたものと判断される。以下本文中の「第×聯隊」も同様に判断すると)、「一 白襷隊」の中で14箇所ジャスト100字分が伏字「×」となっている。現在、原稿は存在せず、伏字は復元出来ない。
・「清人景星杓」景星杓(1652~1720)は清代の書道家・学者。若き日には放蕩の限りを尽くして家産を傾けたが、後、学に励み、書道家として名を成した。詩文も好くした。また、菊の栽培に凝り、自ら菊公と号した。
・『「山齋客談」』正しくは「山齋客譚」。景星杓の随筆集。8巻。怪異譚を多く載せる模様。
・「江上」ここは長江のほとり、の意。
・「嚴曉蒼」不詳。ネット検索でも不発。諸注でも不詳。後掲の「嚴灝庭」と共に識者の御教授を乞う。
・「冥道押使」は、閻羅庁に罪人を引き立てて行くことを職務とする冥界の官職名。
・「秦檜の魂を押しながら」の「押す」は、強制する、の意で、秦檜の魂を追い立てながら、という意味である。
・「鬼使」冥界の役人。「鬼」は死者の意であって、まがまがしい「鬼」ではない。
・「紙錢」紙を現行の銭の形や紙幣に似せて切ったもの。十王思想(後の「判官」の注参照)の中から生れたものと考えられ、副葬品としたり、法事の際に燃やして死者の冥福や、自身の来世での来福を願うために用いた。現代では実際の紙幣と類似した印刷物も用いられるが、近年、中国共産党は旧弊として禁じたというニュースを聞いている。
・「金華」浙江省の地名。私の大好きな金華火腿“jīnhuáhuŏtuĭ”(ヂンホアフオトェイ 金華ハム)の名産地。
・「謀夫の罪」広く夫を騙す罪の謂いで、必ずしも間男との姦淫を指すわけではないようである。
・「秦檜は宋の人」秦檜は宋の宰相で1155年に65歳で没している。
・「金元明の三朝を閲した後」中国の北半分を支配した女真族の王朝である金王朝(1115~1234)、その金と南宋を滅ぼして中国を統一した元王朝(1271~1368)、その後の明王朝(1368~1644)を経過して後の意で、この話自体は更にその後の清朝での出来事(作者景星杓の生没年から考えて1650年代後半か)であるから、500年を軽く越えてしまう時間経過を言う。
・「檜賊」は「賊」は卑小の接尾語。檜というあの盗っ人野郎、の意。
・「天曹」「曹」は裁判官。天界の裁判官の意。ここでは閻羅庁の地獄の裁判官の代表たる閻魔王であろう。
・「嚴灝庭」不詳。ネット検索でも不発。諸注でも不詳。芥川の翻訳の内容からすれば、こちらは清代の実在した知られた人物でないとおかしい。それともこれもまた都市伝説的虚構的手法か。識者の御教授を乞う。]