フォト

カテゴリー

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 20250201_082049
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の Pierre Bonnard に拠る全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

無料ブログはココログ

« 江南游記 二十四 古揚州(中) | トップページ | 江南游記 二十六 金山寺 »

2009/07/22

江南游記 二十五 古揚州(下)

       二十五 古揚州(下)

 

 「――五亭橋畔に喇嘛(らま)塔があります。この寺は法海寺と云ふのださうですが、紅殼(べにがら)を塗つた本堂は勿論、喇嘛塔もびどく荒れてゐました。しかし疎な竹林の空に、大きい辣韮(らつきよう)形の塔が聳えてゐるのは、壯觀でない事もありません。我我は寺の中をぶらついた後(のち)、又畫舫に乘りこみました。

 「川の南岸には不相變、寂しい蘆の茂つた間(あひだ)に、柳や槐(ゑんじゆ)が立つてゐます。法海寺の對岸は、確(たしか)乾隆帝の釣魚臺(てうぎよだい)だつたと思ひますが、その水郷らしい風景の中に、古い亭が一つありました。その水路の窮まつた所が、平山堂のある蜀岡(しよくかう)です。遙に畫舫から眺めても、松林と麥畠と土の赤い崖(がけ)と、斑(まばら)に入り交つた蜀岡の景色は、頗(すこぶる)畫趣に富んでゐました。これは一つには岡の上に、處處青空を見せた、春雲が靜に動いてゐる、――その微妙な光の工合が、手傳つてゐたのかも知れません。

 「しかし畫舫から上つた後も、蜀岡、少くとも歐陽修が建てたと云ふ、平山堂のあるあたりは、甚(はなはだ)閑雅な所でした。堂は法海寺の境内に、大雄寶殿と並んでゐますが、ひやりと埃の匂のする、薄暗い堂へはひつた時は、何だか難有い氣がしたものです。私は額や聯(れん)を讀んだり、欄外の見晴しを賞したり、少時(しばらく)堂の中を徘徊しました。この堂の主人歐陽修は勿論、此處に遊んだ乾隆帝も、きつと今の私のやうに、悠悠たる氣もちを樂んだでせう。その意味では私も凡俗ながら、古人と默會が出來たのです。堂の前には亭亭(ていてい)と、幹の白い松が二本、高い軒瓦(のきがはら)を凌いでゐる、私はそれを仰ぎ見ながら、鄭蘇戡(ていそかん)先生のヴエランダの外にも、やはり此(この)白松(はくしよう)と云ふのが植ゑてあつた事を思ひ出しました。松の梢に遮られた空には、絶えず時鳥(ほととぎす)が啼き渡つてゐます。………………」

 私は手紙を書きかけた儘、「やあ」と高洲氏に御時儀をした。高洲氏は其時私の前へ、一椀の草決明(さうけつめい)を勸めたからである。――我我は名所の見物をすますと、高洲氏の邸宅へ引き揚げて來た。邸宅は手廣い庭を控へた、好く云へば支那の庵室のやうな、惡く云へば稗(ひえ)蒔きの家に近い、藁葺屋根の建物である。が、草花の多い庭は決して稗蒔きどころの騷ぎぢやない。殊に現在暮色の中に、シネラリアや雛菊の仄(ほのめ)いてゐるのは、明星派(めうじやうは)の歌じみた心もちもする。私は窓の硝子の外に、さう云ふ庭先を眺めながら、書きかけた手紙はそつちのけに、ゆつくり熱い草決明を吸つた。

 「これさへ飮んでゐれば無病長壽さ。僕は珈琲(コオヒイ)も紅茶も飮まない。朝夕こればかり飮んでゐる。」

 高洲氏はやはり茶椀を前に、草決明の效能を吹聽した。按ずるに草決明と稱するのは、はぶ草の實を煎じたものである。これに牛乳や砂糖を入れると、飮料としても惡いものぢやない。

 「つまり何首烏(かしゆう)の類(るゐ)ですか?」

 島津氏は一口飮んでから、口髭についてゐる滴を拭つた。

 「何首烏は君、婬藥(いんやく)さ。草決明はあんな物ぢやない。」

 私はそんな對話を外(よそ)に、もう一度手紙を書き始めた。

 「我我は今夜高洲氏の所に、一晩止めて貰つた後、鎭江(チンキヤン)へ引返す豫定です。島津氏とは多分鎭江から別れる事になるでせう。私は蘇州滯在中、島津氏と一度大喧嘩をしました。が、今ではかう云ふ好漢と、何故喧嘩をしたかと思つてゐます。どうかその點は御安心下さい。

 「何でも坊間の説によると、高洲氏は年俸何萬圓とかの大官になつてゐるさうですが、この部屋も紫檀の寢臺(ねだい)があつたり、いろいろ骨董が並べてあつたり、ホテルよりも遙に難有い位です。唯(ただ)の寢臺足りない爲、私は島津氏と長椅子の上へ、同衾(どうきん)する運命を荷ひました。それも足と頭と並ぶやうに、枕を反對にするのださうですから、私の頭は島津氏の足に何時蹴飛ばされるかわかりません。私は如何に島津氏の足が、赤縣(せきけん)の山河を踏破しただけに、巖丈であるかを知つてゐます。その足が私の枕の近所に、夜中(よぢゆう)横はつてゐるのだと思ふと、確に愉快ではありません。私は昔袈裟御前が、盛遠に打たれる覺悟をしながら、靜に獨り寢てゐた如く、今夜も豫(あらかじ)め………」

 私は急に手紙を隱した。

 「大分長い手紙ですな。」

 島津氏は何だか落ち着かなさうに、部屋の中を歩きながら、私の手紙へ眼をやつた。事によると島津氏自身も、私に頭を蹴られはしないかと、内心不安に思つたのかも知れない。

 

[やぶちゃん注:5月11日夜。これは書簡体小説を意識した入れ子構造の実験的一篇である。この書簡も実在しないと考えてよい。ちょっと考えても、この手紙を受け取る人間を考えると分かる。この宛名人は、上海での芥川の鄭孝胥訪問を恐らく知っており、島津四十起とも旧知、更に恐らく高洲大吉も知らぬわけではない相手である。そういう人物は上海には複数いると考えられる。しかし、芥川の書簡の嘱目の説明からして、その宛先は日本にいる日本人であると断定してよい。だいたい一泊の小旅行で上海在留の日本人知人に宛てて手紙を書くはずがない。芥川に「上海游記」等に出てくる西村貞吉のような上海以外の中国在住日本人の知人がいないことはないが、この揚州の情景描写はここに来れない者へ向かっての語り口であり、日本にいる日本人以外には考えられない。そうして、その根拠の決定打は、その人物は芥川龍之介の「袈裟と盛遠」を雑誌『改造』か、作品集『傀儡師』で読んでいる人物である点である……これはもう、現にこの連載を読んでいる「毎日新聞」の購読者の中の、芥川好きの読者以外には、いないのである。

・「喇嘛塔」/「法海寺」は五亭橋の南端のある元代に創建された寺。蓮性寺の元の寺名。そこに立つ「喇嘛塔」とは白塔のこと。チベット仏教=ラマ教様式の白い独特の形をした塔で、高さ約28m。乾隆帝によって1784年に改修された。五亭橋同様、帝の歓心を得るために塩商人が一夜にして築いたという伝説もある。揚州二十四景の「白塔晴雲」はここである。

・「紅殼」赤色顔料の一。主成分は酸化第二鉄Fe2O3。着色力が強い。塗料・油絵具の他、研磨剤に用いる。ベンガラ。名称はインドのベンガル地方で多く産出したことから。それに当字したものの訓読みである。

・「釣魚臺」五亭橋の東北、湖上の島の張り出した先端に位置する。K.Iwata氏の「中国を楽しく旅行する」の「古都揚州」のページに『乾隆帝行幸の折、皇帝が湖上を行くときに、水辺で楽隊が音楽を吹奏するために造ったものであるので、吹台と呼ばれたが、水辺にあるその姿が、いかにも魚釣りのあずまやに見えるところから、いまは一般に釣魚台と呼ばれている。このあずまやには、大きな丸窓があって、その丸窓の借景、とくに水面に浮かぶ五亭橋を丸く切り取って撮すことができるスポットとしても、好事家の間で知られている名所である』と解説され、また『乾隆帝は実際ここで釣りをしたという話も伝えられている。帝が釣り糸を垂れるたびに、蓮の葉で身を隠して近づき、蓮の茎で呼吸をして水中に潜っては、釣り糸の先に生魚を付けて、皇帝がそれを釣り上げるたびに、なみいる皆が拍手喝采して、皇帝を喜ばせたという。』と、興味深いお話を綴られている。

・「平山堂のある蜀岡」蜀岡は痩西湖最北端の眺めの良い高台。南北朝の南朝宋孝武帝大明年間(457464)に創建された大明寺がある。唐の743年、当時のこの住持を務めていた鑑真和上は遣唐僧の懇請を受けて苦難の末に来日した。日中仏教文化の所縁の地でもある。この一画に「平山堂」があり、北宋の1048年、欧陽脩が揚州知府に任じされた際に建てた、文人墨客を招いたサロン。揚州大明寺日本語版公式サイト「文人墨客区」によれば、『平山堂から遠くの江南地域の山並みを眺めたら、山の高さはちょうど平山堂の高さと同じように見えた』ことから名づけた、とある。このサイト、中国のサイトの日本語版としては頗る高度な内容となれた日本語で構成されている。一見の価値あり。

・「大雄寶殿」揚州大明寺日本語版公式サイトに敬意を示して「大雄宝殿」から全文を引用する。『大明寺の本堂に相当する廟殿である。宝殿前の庭園の東側に百年以上の柏木、右側に百年以上の黄楊が植えられ、中央に二つの鼎が置かれている。清時代に建てられた大雄宝殿は前後に回廊に囲まれ、正面間口三間、三重もこし付の建築物である。屋根は全部灰色の瓦を葺き、その脊に透かし彫りの美しい模様が刻まれている。二重目のひさしに「大雄宝殿」の扁額がかかっている。屋根に鏡がかかっていて、表面に「国泰民案」の文字が刻まれ、裏面に「風調雨順」の文字が彫刻されている。仏教によると、大雄宝殿及び天王殿で祭られている仏は国と民衆の平安無事、農作物の豊作を守るという重責を担っている。大雄宝殿殿内の仏像は静かな厳しさを感じさせる。中央の蓮華座の上にある南向きの仏像は釈迦牟尼仏坐像、即ち仏陀であり、「釈尊」と呼ばれ、また中国語で「大雄」とも呼ばれ、尊敬されている。それは釈迦牟尼仏がまるでライオン、勇士のようになにものも恐れないわけである。釈尊の左側には薬師如来坐像であり、居所たる東方浄瑠璃世界を主宰し、右側には阿弥陀仏坐像であり、居所たる「西方極楽浄土」を主宰している。また、釈尊の両側に十人弟子のうちの二人の立像も祭られていて、左側の立像が経験及び威厳を象徴し、右側の坐像が智慧及び学識を象徴している。釈尊の反対側、北面にある仏像は「海島観音」である。観世音菩薩は西方極楽世界にいる聖者であり、仏の大慈大悲で衆生を済度することを本願とし、衆生の求めに応じるため、大衆に最も尊重されている。殿内東西側に十八羅漢が祭られ、それぞれの生き生きした表情は人々の心を引き付ける。毎年、中国そして世界各地から数多くの観光客が大明寺を訪問していて、信者のお寺参りが絶え間なく続いている、特に毎年の大晦日に鐘を鳴らし、来年の幸福を祈念する行事が国内外の観光客及び信者を引き付けている。』芥川が静かに佇んだ堂内と堂前が髣髴としてくるではないか。

・「聯」は対聯のことで、書画や彫り物を柱や壁などに左右に相い対して掛け、飾りとした細長い縦長の板状のものを合わせて言う語。ここでは経や法句を記したものであろう。

・「亭亭と」高く聳えるさま。

・「幹の白い松」恐らく裸子植物門マツ亜門マツ綱マツ亜綱マツ目マツ科マツ属シロマツPinus bungeanaと思われる。「白松(はくしょう)」「白皮松」とも言い、中国中部から北西部原産。針葉が三本で一組。成長が遅く、現在は希少種。

・「鄭蘇戡」鄭孝胥(ていこうしょ)の号。鄭孝胥(Zhèng Xiàoxū ヂョン シアオシュー 18601938)は清末の1924年総理内務府大臣就任(最早、清滅亡を眼前にして有名無実の職であったが、失意の溥儀によく尽くし、後、満州国にあってもその誠心を貫いた)、後、満州国国務院総理(首相)となった。詩人・書家としても知られる。ウィキの「鄭孝胥」によれば、1932年の『満州国建国に際しても溥儀と一緒に満州入りし』、1934年、初代国務院総理となったが、『「我が国はいつまでも子供ではない」と実権を握る関東軍を批判する発言を行ったことから』1935年辞任に追い込まれた。「上海游記」「上海游記 十三 鄭孝胥氏」を参照のこと。

・「草決明」漢方名は「決明子」(ケツメイシ)とも。バラ亜綱マメ目ジャケツイバラ科センナ属エビスグサSenna obtusifolia、シノニム Cassia obtusifoliaの成熟種子。平行四辺形の独特の形状を成す。目薬や便秘薬として用いられ、健康茶「ハブ茶」としても古くから用いられた。後掲「はぶ草」を必ず参照されたい。

・「稗蒔きの家」貧乏な百姓家の謂い。

・「シネラリア」キク目キク科ペリカリス属シネラリアPericallis cruenta。北アフリカ・カナリヤ諸島原産。冬から早春にかけて開花、品種が多く、花の色も白・青・ピンクなど多彩。別名フウキギク(富貴菊)・フキザクラ(富貴桜)。英名を“Florist's Cineraria”と言い、現在、園芸店などでサイネリアと表示されるのは英語の原音シネラリアが「死ね」に通じることからとされる。――しかし乍ら、試みに調べてみたら、余りに美しすぎて他の花が売れなくなるからか――“Cineraria”という語は“cinerarium”――「納骨所」の複数形である――“Florist's Cineraria”「花屋の墓場」という意味なのであった――

・「明星派」与謝野鉄幹主宰の東京新詩社同人による詩歌雑誌『明星』(明治331900)年4月~明治411908)年11月:第一次と呼称)に拠った明治30年代の浪漫主義を代表する詩人・歌人の一派及びその詩風を言う。高踏的・唯美的で、強い芸術至上主義傾向を持つ。星菫派。与謝野鉄幹・与謝野晶子・北原白秋・石川啄木・吉井勇・山川登美子らが挙げられる。芥川はそれに続く『明星』第二次(大正101921)年11月~昭和2(1927)年4月・明星発行所刊)に寄稿している(同時期の寄稿者には旧来の星菫派以外に森鷗外・永井荷風・佐藤春夫・堀口大学らがいたが、この時期の『明星』は最早、本来第一次が内包していた文学的革新性からはほど遠いものとなっていた)。芥川龍之介は大正111923)年1月の第一巻第三号に「本の事」(内容の一部である「各国演劇史」「天路暦程」は同趣旨のものを大正9(1020)年発表の骨董羹―壽陵余子の假名のもとに筆を執れる戲文―」に所収しており、リンク先の私の注で「本の事」版と比較して読める)、大正121923)年9月第四巻第三号に「洞庭舟中」、大正141925)年3月第六巻第三号に恋情抑えがたき片山廣子への「越びと 旋頭歌二十五首」等を発表している。「洞庭舟中」は本「江南游記」冒頭の「前置き」注で述べた5月30日附與謝野寛・晶子宛旧全集九〇四書簡(絵葉書)で、『長江洞庭ノ船ノ中ハコンナモノヲ作ラシメル程ソレホド退屈ダトオ思ヒ下サイ』と記す前に掲げたものである。中国行での吟詠でもあり、以下に示しておく。

 

 洞庭舟中

 

しらべかなしき蛇皮線に、

小翠花(シヤウスヰホア)は歌ひけり。

耳環は金(きん)にゆらげども、

君に似ざるを如何にせん。

 

「蛇皮線」は「じゃびせん」と読む。中国伝統の弦楽器、三弦(弦子)のこと。沖繩の三線(さんしん)や三味線のルーツ。「小翠花(シヤウスヰホア)」“xiăcuìhuā”は名花旦として知られた于連泉(本名桂森19001967)を指す。但し、正しい芸名は筱翠花“xiăocuìhuā”(シィアォツォェイホア しょうすいか)である(「筱」は「篠」の本字)。幼い時に郭際湘(芸名水仙花)に師事し、芸名を「小牡丹花」と名乗った。特に花旦の蹻功(きょうこう:爪先立った歩き方の演技を言うと思われる)に優れていた。北京市戯曲研究所研究員を務め、晩年は中国戯曲学校で人材の育成に力を尽くした(以上の事蹟はこちらの個人の京劇サイト「歴代の主な京劇俳優一覧」を参照させてもらった)。芥川は上海で「彼女」の舞台を見ている。「上海游記」「九 戲臺(上)」を参照されたい。

 

・「はぶ草」バラ亜綱マメ目ジャケツイバラ科センナ属ハブソウSenna occidentalis。江戸時代、毒虫・毒蛇、特に南西諸島でハブに咬まれた際の民間薬として用いられたため、この名を持つが、漢方薬処方としては用いられない。現在、知られている「ハブ茶」には、本種は全く用いられず、先に「草決明」で掲げた同属のエビスグサSenna obtusifoliaの種子を原料とする。

・「何首烏」本邦の漢方処方ではナデシコ亜綱タデ目タデ科タデ属ツルドクダミPolygonum multiflorumの塊根を乾燥させた生薬(但し、中国「何首烏」にはリンドウ目ガガイモ科イケマ属 Cynanchumに属するCynanchum auriculatumを基原植物とするものもある)。現在は老人性の湿疹・皮膚掻痒症・慢性蕁麻疹等に処方されるが、ここで島津が言うように民間薬として強壮剤・緩下薬としても用いられ、髪を黒くするという効能から名付けられたという。

・「婬藥」精力増強剤のこと。実際の効果はクエスチョンだが、「何首烏 精力」の検索ワードで4940件ヒットし、そのようなリードが並んでいる。

・「紫檀」マメ目マメ科ツルサイカチ属Dalbergia及びシタン属Pterocarpusの総称。古くから高級工芸材として利用される。ビワモドキ亜綱カキノキ目カキノキ科カキノキ属コクタンDiospiros ebenum・マメ目ジャケツイバラ科センナ属タガヤサンSenna siameaとともに三大唐木の一つに数えられる。

・「赤縣」中国の異名。「史記」の「孟子荀卿列伝 第十四」に『中國曰赤縣神州。赤縣神州内自有九州。』とある。

・「昔袈裟御前が、盛遠に打たれる覺悟をしながら、靜に獨り寢てゐた如く」大正7(1918)年4月に『中央公論』に発表、翌大正8(1918)年1月15日に新潮社より刊行した第三番目の作品集である『傀儡師』に再録した、自作の「袈裟と盛遠」を意識した叙述。未読の方は、私の電子テクストには岩波旧全集版テクスト附原典)作品集『傀儡師』版テクスト2種を用意してある。お好きな方でお楽しみあれ。]

« 江南游記 二十四 古揚州(中) | トップページ | 江南游記 二十六 金山寺 »