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« 江南游記 五 杭州の一夜(下) | トップページ | ブログ開設4周年 »

2009/07/03

江南游記 六 西湖(一)



       六 西湖(一)


 ホテルの前の棧橋には、朝日の光に照された、槐(ゑんじゆ)の葉の影が動いてゐる。其處に我我を乘せる爲に、畫舫(ぐわばう)が一艘繋いである。畫舫と云ふと風流らしいが、何處が一體畫舫の畫の字だか、それは未に判然しない。唯(ただ)白木綿の日除けを張つたり、眞鍮(しんちゆう)の手すりをつけたりした、平凡極まる小舟である。その畫舫――兎に角畫舫と教へられたから、今後もやはりさう呼ぶつもりだが、その畫舫は我我を乘せると、好人物らしい船頭の手に、悠悠と湖水へ漕ぎ出された。


 水は思つたより深くはない。萍(うきくさ)の漂つた水面から、蓮の芽を出した水底(みづぞこ)が見える。これは岸に近いせゐかと思つたが、何處まで行つても同じ事らしい。まあ、大體の感じを云ふと、湖水なぞと稀へるよりも、大水の田圃に近い位である。聞けばこの西湖なるものは、自然の儘任せたが最後、忽(たちまち)干上つてしまふから、水を外に出さないやうに、無理な工面がしてあるのだと云ふ。私は舟縁(ふなべり)に凭(よ)りかかりながら、その淺い水底の土に、村田君の杖を突こんでは、時時藻の間に泳いで來る、鯊(はぜ)のやうな魚を嚇かしたりした。


 我我の畫舫の向こうには、日本領事館のあたりから、湖の中に浮んだ孤山へ、連つてゐる。西湖全圖を按ずると、これは昔白楽天が築いた、白堤なるものに相違ない。尤(もつとも)石版刷の畫圖を見ると柳や何かが描(か)いてあるが、重修した時に伐られたのか、今は唯寂しい沙堤である。その堤に橋が二つあつて、孤山に近いのを錦帶橋と云ひ、日本領事館に近いのを斷橋と云ふ。斷橋は西湖十景の中、殘雪の名所になつているから、前人の詩も少くない。現に橋畔の殘雪亭には、清の聖祖の詩碑が建つてゐる。その他楊鉄崖(やうてつがい)が「段家橋頭猩色酒」と云つたのも、張承吉(ちやうしやうきつ)が「斷橋荒蘚澁」と云つたのも、悉この橋の事である。――と云ふと博學に聞えるが、これは池田桃川(たうせん)氏の「江南の名勝史蹟」に出てゐるのだから、格別自慢にも難何にもならない。第一その斷橋は、ははあ、あれが斷橋かと遙かに敬意を表したぎり、とうとう舟を寄せずにしまつた。が、萍の疎らな湖中に、白白と堤の續いてゐるのは、――殊に其處へ近づい時、辮髮を垂れた老人が一人、柳の枝を鞭にしながら、悠悠と馬を歩ませてゐたのは、詩中の景だつたのに違ひない。私は楽天の西湖の詩に「半醉閑行湖岸東。馬鞭敲鐙轡玲瓏。萬株松樹青山上。十里沙隄明月中。」云々とあるのは、たとひ晝夜を異にするにしても、髣髴出來るやうな心もちがした。勿論この詩も斷橋同樣、池田氏の本の孫引きである。


 畫舫は錦帶橋をくぐり拔けると、すぐに進路を右に取つた。左は即ち孤山である。これも西湖十景の中(うち)の、平湖の秋月と稱するのは、この邊の景色だと教へられたが、晩春の午前では致し方がない。孤山には金持の屋敷らしい、大きいだけに俗惡な、門や白壁が續いてゐる。其處を一しきり通り過ぎた所に、不思議にも品の好(よ)い三層樓があつた。水に臨んだ門も好ければ、左右に並んだ石獅(せきし)も美しい。これは何者の住居かと思つたら、乾隆帝の行宮(あんぐう)の址だと云ふ、評判の高い文瀾閣(ぶんらんかく)だつた。此處には金山寺の文字閣(鎭江)や、大觀堂の文※閣(揚州)と共に、四庫全書が一つづつ納めてある。おまけに庭を立派だと云ふから、一見の爲岸へ登つたが、どちらも凡人には見せてくれない。我我はやむを得ず岸傳ひに昔の孤山寺(こざんじ)、今の広化寺を瞥見してから、その先にある兪樓(ゆろう)へ行つた。[やぶちゃん字注:「※」=「匯」の「氵」を「匚」の左に外に出して偏とした字体。]


 兪樓は兪曲園(ゆきよくゑん)の別莊である。規模は如何にもこせついてゐるが、滿更惡い住居でもない。東坡の古址(こし)にちなんだとか云ふ、伴坡(ばんぱ)亭の後(うしろ)なぞも、竹や龍の髭の茂つた中に、藻の多い古池が一つあるのは、甚(はなはだ)閑寂な心もちがした。その池の側を登つて見ると、所謂曲曲廊(きよききよくろう)の盡きる所に、壁へ嵌めこんだ石刻(せきこく)がある。それが曲園の爲に描いた、彭玉麟(はうぎよくりん)の梅花の圖――と云ふよりも本郷曙町の、谷崎潤一郎氏の二階に懸つてゐた、凄(すさま)じい梅花の圖の原物だつた。曲曲廊の上の小軒(せうけん)、――扁額によれば碧霞西舍(へきかせいしや)を見た後(のち)、我我はもう一度山の下の、伴坡亭へ下つて來た。亭の壁にはべた一面に、曲園だの朱晦庵だの何紹基(かせうき)だの岳飛だの、いろいろの石刷(いしずり)がぶら下つてゐる。石刷もかう澤山あると、格別どれも欲しい氣がしない。その正面には額に入れた、髯の長い曲園の寫眞が、難有(ありがた)さうに飾つてある。私はこの家(や)の主人が持つて來た、一碗の茶を啜りながら、つらつら曲園の人相を眺めた。章炳麟(しやうへいりん)氏の兪先生傳によると、(これは孫引きをするのではない)「雅性不好聲色既喪母妻終身不肴食。」云々とある。成程そんな所も見えないではない。「雜流亦時時至門下此其所短也。」――さう云へば多少の俗氣(ぞくき)もある。事によると兪曲園は、この俗氣があつたおかげに、かう云ふ別莊を拵へてくれる、立派な御弟子たちが出來たのかも現に一點の俗氣も帶ない、玲瓏玉の如き我我なぞは、未に別莊を持つどころか、賣文に露命を繋いでゐる。――私は玫瑰(メイクイ)のはいつた茶碗を前に、ぼんやり頰杖をついた儘、ちよいと蔭甫(いんぽ)先生を輕蔑した。

[やぶちゃん注:・「槐」バラ亜綱マメ目マメ科エンジュStyphonolobium japonicum。落葉高木。中国原産で、街路樹によく用いられる。志怪小説等を読むと中国では霊の宿る木と考えられていたらしい。

・「畫舫」装飾や絵・彩色を施した中国の屋形船。遊覧船。

・「孤山」西湖の北部にある小島にある山(標高約38m)。断橋から白堤で繋がっている。以下で芥川が記すように、ここには西湖の名所旧跡が集中している。

・「西湖十景」は南宋の時に定めた西湖の名数(時代により異同があり、順序や表記も微妙に違うものがある)。以下に説明する。


○断橋残雪:白堤の東北の端にある断橋の残雪。後世、著名な異類婚姻譚である古伝承に基づく「白蛇伝」の幾多の小説・戯曲等で、その舞台として比定されために、十景の中ではもっとも知られている。


○平湖秋月:「平湖」は白堤の西端の水域を指す。その鏡のような湖面に秋の明月が映えるさま。


○曲院風荷:蘇堤の跨虹橋の西北に宋代官営醸造所である麹院(きくいん)があったが、そこはまた蓮花の名所でもあった。湖畔に曲折した蓮見台でもあったのかも知れないが、それ以上に「麹」の中国音が“”、「曲」の音が“”或いは“”であるから、やや特異な施設「麹院」を分かりやすい発音の似る「曲院」に変えたというのが真相ではあるまいか? ネット上には元は「麹院風荷」であったが、清の第4代聖祖(康熙帝 6541722)の勅命により「曲院風荷」と改名したとある。

○蘇堤春暁:蘇堤(命名は後人の知事による)の春の明け方。造営した蘇軾は堤に沿って沢山の柳と桃を植えたというから、春の景は美事であったろう。南宋の画家による命名。


○三潭印月:「三潭」は1089年に蘇軾が西湖を浚渫した際、その最深部に三つの石塔を建立、その三基の内部には菱や蓮などの水草を植えることを禁じたという古跡。蓬莱山を模した庭園技巧の一つ。現在のものは800年前のものとされ、高さ2mの球形塔身で中空となっており、その周囲に五つの穴が等間隔で開き、明月の夜には大蠟燭を入れると言う。古来「天上月一輪 湖中影成三」と詠まれたという。天に印した真影、そして、この月影と、視野の可視範囲である灯籠の60°角及び120°角からの灯影が西湖に「印」された三つという謂いであろうか。


○花港観魚:宋代、西湖の西南の湖畔にあった内侍盧氏の個人の別荘盧園とその鯉を養殖した園池を原型とする。


○南屏晩鐘:呉越時代にルーツを持つ西湖南岸の南屏山麓に建つ古刹浄慈寺(じんずじ)の夕刻を告げる鐘の音。


○雷峰夕照:雷峰は浄慈寺の前にある丘の名。西湖北岸にある宝石山保俶塔と対した南山の景勝。昔、雷氏が庵を造ったので雷峰という地名を得た。雷峰塔の原型は呉越王の王妃黄氏の男子出産を喜んで造営した黄妃塔である。


○柳浪聞鶯(ぶんおう):「柳浪聞鸚」とも。南宋期、杭州城西清波門外の湖畔に皇帝の御苑である聚景園があり、春は園に植えられた柳に西湖の波風が吹き渡って、華麗に鶯が鳴く。


○双峰挿雲:もと「両峰挿雲」であったものを康熙帝が勅命で改名。双峰とは西湖西方に離れて南北に聳える南高峰(標高約257m)と北高峰(標高約314m)をいう。昔、西湖の西方にある霊隠路の洪春橋橋畔から、この二つの峰が中天の雲を刺し貫いて聳えるのを眺めるによい双峰挿雲亭というのがあったという記載を見かけたが、位置関係から考えると西湖の湖上に舟を浮べて西方の夕景を眺めるのが最も美観であるように思われる。

 

・「斷橋」は、孤山路の道はここまでであることから、道を断つ橋という名となったというが、唐代には段家橋と呼称したというから、「段」と「断」はどちらも“duàn”で、ここは音通でもあろう。


・「殘雪亭」現在、断橋近くには二つの亭があり、清の康熙帝及び乾隆帝が行幸した際に記したという二つの碑があるらしい。芥川は「清の聖祖の詩碑」としており、これは第4代康熙帝(16541722)のことであるから、その碑は前者のものとなるのだが、諸注は芥川の誤りで第6代高祖乾隆帝(1711799)の碑ととっている(筑摩書房版脚注では康熙帝の碑はここではなく三潭にあるとするのだが、中国の旅行社が作ったと思しい杭州・西湖の紹介サイト等の記事を見ると上記のような記載がある)。


・「楊鉄崖」本名楊維楨(12961370)、元末から明初の詩人・学者。鉄崖は号。1327年進士に登第、地方官に任ぜられたが、性狷介、出世には恵まれなかった。元末の兵乱から避難した後、銭塘に至り西湖の鉄治嶺に隠棲、湖山に周遊、江南文壇を支えた(晩年は松江に移住)。酒色に耽けり、「文妖」の異名も持つが、節を守って明には仕えなかった。岡本隆三「纏足物語」(福武書店)によれば、『彼は妓女の小さい靴で酒をすすめる趣味があったが、倪元慎はきれい好きだったのでこれをいやがり、それをみるたび怒って席を立った』とある。


・『「段家橋頭猩色酒」』は「段家(だんか)橋頭 猩色(せいしよく)の酒」で、「段家橋(=断橋:前の「斷橋」の注参照。)のたもとに 傾ける赤き葡萄酒」の意。

・「張承吉」本名張祜(ちょうこ)、晩唐の詩人(792?~852?)。盟友杜牧との交遊はよく知られている。岩波版新全集の神田由美子氏の注解では『各地を放浪し、特に淮南から江南の風物を愛して、晩年、丹陽(江蘇省鎮江府)に隠居した。『張処士詩集』五巻など、』とある。


・『「斷橋荒蘚澁」』は「斷橋 荒蘚澁(じふ)たり」で、「断橋橋畔には苔がびっしりと生えて通ることも出来ない」といった意味になるが、「澁」の字は如何にも苦しい気がする。岩波版新全集注解では正しくは「斷橋荒蘚合」とし、これならば「斷橋 荒蘚合す」で、「断橋橋畔には苔がびっしりと生えている」という枯れた情景描写となる。


・『池田桃川氏の「江南の名勝史蹟」』池田桃川は本名池田信夫(明治221889)年~昭和101935)年)、中国文学研究家。著書に「支那の古代文化と神話伝説」等。「江南の名勝史蹟」は上海日本堂書店大正101921)年刊、江南地方の主要な名所旧跡の紀行文。


・『楽天の西湖の詩に「半醉閑行湖岸東。馬鞭敲鐙轡玲瓏。萬株松樹青山上。十里沙隄明月中。」』これは白楽天の「夜歸」と題する詩の前半部であるが、明治書院漢文大系100「白氏文集 四」より引く(本書は現在望み得る最も厳密に校訂された「白氏文集」であり、芥川の引用だけでなく、「全唐詩」等に載る既知の本篇とも異なっている。但し、書き下し・訳は全くの私のオリジナルである)。


   夜歸


半醉閑行湖上東


馬鞭敲鐙轡瓏璁


萬株松樹青山下


十里沙堤明月中

 

樓角漸移當路影


潮頭欲廻滿江風


歸來未放笙歌散


畫戟門開蠟燭紅


○やぶちゃんの書き下し文


   夜歸(やき)


半ば醉ひて 閑(のど)かに行く 湖岸の東(ひんがし)


馬の鞭 鐙(あぶみ)を敲(たた)きて 轡(くつわ) 瓏璁(ろうそう)


萬株の松樹 青山の下


十里の沙堤 明月の中(うち)


樓角 漸(やうや)く移る 路に當る影


潮頭 廻(かへ)らんと欲す 江に滿つる風


歸り來たるも 未だ笙歌(しやうか)の散んぜんとするを放(ゆる)さず


畫戟(がげき)の門開きて 蠟燭(らふしよく) 紅(くれなゐ)


○やぶちゃんの現代語訳


   夜の散歩


半酔の ままにのどかに行く道は 西湖東(ひんがし)岸辺の通り


鐙を鞭で ちょいちょいと 叩いちゃ拍子 軽く取り――執ったは 清らなその手綱(たづな)


緑なす 山の麓(ふもと)に延々と うち続いたる松の木々

 

遙に続く白砂(しらすな)の 堤(つつみ) 明(あき)らむ月の影

高楼(たかどの)の 尖った先も だんだんに 移り動ける 映る影


湖の 潮の頭(かしら)も だんだんに 岸を離れてゆかんとす――湖面に満ちる 涼の風


――さても醒むれば 我が館 戻って見れば まだ宵の 宴(うたげ)の後のざわめきの 名残り惜しやと うち続く


色とりどりの戟並ぶ その門 ぱんと開きしまま 紅き蠟燭(ろうそく)漏れ至る――

 

以下、簡単な語釈を附す。


○「瓏璁」は、白くはっきりとして清らかなこと。


○「青山下」は、芥川の引用したように一本に「上」に作るが、底本は草書体の読取の誤りと推定する。

 

○「十里」の中国の「里」は、唐代の旧制であるから、1里=559.8mで、十里は5,598m。白堤は約1㎞であるから誇張も甚だしい。対句の誇張表現「萬株」に合わせた。


○「潮頭欲廻」は芥川が引用したように一本に「潮頭欲過」に作るが、底本注は恐らく誤りとする。


○「畫戟門」は彩色を施した儀式用の戟(矛の一種)を並べた役所の門。ここは杭州刺史であった白居易の官舎の門を言う。


・「石獅」日本の狛犬。古代インドをルーツとし、日本へは中国から朝鮮を経て移入、そこから「高麗(こま)犬」と呼ばれるようになったとされる。


・「乾隆帝」清の第6代皇帝高祖(1711799)。


・「文瀾閣だつた。此處には金山寺の文字閣(鎭江)や、大觀堂の文※閣(揚州)と共に、四庫全書が一つづつ納めてある」[「※」=「匯」の「氵」を「匚」の左に外に出して偏とした字体。]清の乾隆帝の1741年の勅命によって編纂された中国史上最大の漢籍叢書「四庫全書」(完成は乾隆461781)年。経・史・子・集の4部に分類され、総冊数は36000冊に及ぶ)は、全書正本が7部と副本1部が浄書され、正本はそれぞれ文淵閣(北京紫禁城内)・文源閣(北京円明園)・文津閣(熱河避暑山荘)・文溯閣(ぶんそかく:奉天=現在の瀋陽)の内廷四閣、文匯閣(ぶんかいかく:揚州)・文宗閣(ぶんそうかく:鎮江)とこの文瀾閣(杭州)に収蔵され、副本は翰林院(皇帝専属の秘書室)に収められた。芥川は「文字閣」としており、岩波新全集の神田由美子氏の注解は「文宗(文字)閣」と記して、文宗閣の別名のように記載しているが、私はこれは芥川の誤りか誤植だと思う。なお「金山寺」については後の「二十六 金山寺」を参照されたい。


・「孤山寺、今の広化寺」唐代、白居易所縁の道林禅師という人物がここに招かれ、竹閣(これを芥川は島の名をとって孤山寺と言ったか)という禅寺を開いた。後に広化寺に改名している。


・「東坡の古址にちなんだとか云ふ、伴坡亭」筑摩全集類聚脚注・岩波版新全集注解兪楼内の亭とのみ記し(筑摩版には兪楼の西方にあるとする)、「東坡の古址」なる蘇軾の所縁についての記載はない。ネット上にも伴坡亭についての邦文の記載も見当たらず、不詳である。西湖にお詳しい方の御教授を乞う。


・「龍の髭」ユリ目ユリ科ジャノヒゲOphiopogon japonicus。別名リュウノヒゲとも言う常緑多年草。


・「曲曲廊」「所謂」とある以上、これは固有名詞ではなく、ただ曲折した廊下・階段のことである。


・「彭玉麟」(18161890)は、清末の軍人。湘軍の指揮官。太平天国の乱や清仏戦争の歴戦の名将であったが、画文にも優れた。詩集「彭剛直詩集」がある。


・「碧霞西舍」筑摩全集類聚脚注には『伴坡亭のことをこういった』とあり、岩波版新全集注解は一般名詞の注の必要を感じない「扁額」に注を附しておきながら、これを注さない。しかし、「扁額によれば碧霞西舍を見た後、我我はもう一度山の下の、伴坡亭へ下つて來た」と芥川は述べており、もしこれが伴坡亭であるなら、芥川は「山の下の」別な建物を伴坡亭を誤認したことになる。山下のごてごてに「石刷」を飾った建物と「曲曲廊」と山上の「小軒」全体が「伴坡亭」とも思われない。西湖にお詳しい方の御教授を乞う。


・「朱晦庵」儒学中興の祖である宋代の儒者朱熹(しゅき 11301200)の号。


・「何紹基」清の詩人・学者・能書家(17991873)。書では顔真卿を規範として篆・隷併せもった書風を打ち立てたとされる。


・「岳飛」南宋の武将(11031141)。度々侵略する金をよく防いだが、権力の奪取を恐れた宰相秦檜の謀略により獄死させられた。後にはその冤罪が雪がれ、彼の深い忠心をも称えて、武穆(ぶぼく)と諡(おくりな)され(「穆」は稲の実が熟することで、誠心に満ちた武人の鑑といった意味であろう)、次いで鄂王(がくおう)に封じられた。中国では神格化したスターであり、関羽と並んで祀られる。次の「八 西湖(三)」で芥川が詳述する。


・「石刷」拓本。


・「章炳麟」Zhāng Bĭnglín(ヂャン ビンリン 18691936)は清末から中華民国初期にかけて活躍した学者・革命家。民族主義的革命家としてはその情宣活動に大きな功績を持っており、その活動の前後には二度に亙って日本に亡命、辛亥革命によって帰国している。一般に彼は孫文・黄興と共に辛亥革命の三尊とされるが、既にこの時には孫文らと袂を分かっており、袁世凱の北洋軍閥に接近、その高等顧問に任ぜられたりした。しかし、1913年4月に国民党を組織して采配を振るった宋教仁が袁世凱の命によって暗殺されると、再び孫文らと合流、袁世凱打倒に参画することとなる。その後、芥川の言葉にある通り、北京に戻ったところを逮捕され、3年間軟禁されるも遂に屈せず(その間に長女の自殺という悲劇も体験している)、1916年、中華民国北京政府打倒を目指す護法運動が起こると孫文の軍政府秘書長として各地を転戦した。しかし、この芥川との会見の直前には1919年の五・四運動に反対して、保守反動という批判を受けてもいる。これは本文で本人が直接話法で語るように、彼が中国共産党を忌避していたためと考えられる。奇行多く、かなり偏頗な性格の持ち主であったらしいが、多くの思想家・学者の門人を育てた。特に魯迅は生涯に渡って一貫して章炳麟に対し、師としての深い敬愛の情を示している(以上はウィキや百科事典等の複数のソースを参照に私が構成した)。「上海游記」の芥川の会見録「十一 章炳麟氏」も参照されたい。


・「兪先生傳」書誌不明。章炳麟の著作物の中にある一篇なのかも知れない。芥川はこれに鍵括弧を附していないことからも、このような題名でさえなく、師を回顧した叙述の中の一部なのかも知れない。


・『「雅性不好聲色既喪母妻終身不肴食。」』は書き下すなら「雅(もと)、性(せい)、聲色(せいしよく)を好まず、既に母・妻を喪ひて、終身、肴食(かうしよく)せず。」で、『彼の人柄は、本来、華美で派手な芸能や女色を好まず、早くに母や妻を失ったことから、その後は節を守って肉を口にしなかった。』の意である。最後の「不肴食」はベジタリアンであったことを言うと思われる。


・『「雜流亦時時至門下此其所短也。」』は書き下すなら「雜流、亦、時時、門下に至る。此れ其の短とする所なり。」で、『(立派な文士も大勢その門下生にはいたが、)時々、種々雑多な人々も同様に、その門人になった。実にこれが先生の欠点である。』の意。伝記を綴る程に正統な門人を自負していたのであろう章炳麟にとっては、余程、鼻持ちならない似非文士の同輩が多かったということか。

・「蔭甫先生」「蔭甫」は兪曲園(兪樾)の字。]


・「兪曲園」本名兪樾(ゆえつ 18211907)。曲園は号。清末の考証学者。1850年、進士に登第、翰林院編修・国史館協修を歴任後、咸豊帝からその博識を評価され、1855年には河南学政(省の教育行政長官)となったが、出題した科挙試について弾劾され、あっさりと官を退き二度と出仕しなかった。1875年に西湖湖岸のこの地を買い取り、彎曲した地形を巧みに使い、自ら設計して庭園を造った。曲園という号は「老子」第二十二章にある「曲則全。枉則直。」=「曲なれば則(すなわ)ち全(まった)し。枉(おう)なれば則ち直(ただ)し。」(曲がっているからこそ、全うすることが出来る。枉(まが)っているからこそ、正しい。)という逆説から取ったとするが、文字通りこの地形と庭園(この兪楼の庭を曲園と名付けている)にも掛けられているのであろう。晩年は杭州の詁経精舍(こきょうしょうじゃ:清朝の政治家・学者であった阮元(げんげん 17641849)が創立したで訓詁学の研究機関)で考証学を講義した。章炳麟は1890年にこの詁経精舎に入り、彼に師事した正統な弟子の一人であった(以上は主にウィキの「兪樾」を参照した)。

 

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