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2009/07/09

江南游記 十一 西湖(六)

       十一 西湖(六)

 その案内記Hangchow Itinerariesによると、今を距(さ)る三百七十年餘りの昔、この西湖のほとりには、屢(しばしば)倭寇が攻めこんで來た。處が彼等海賊には、雷峰塔が邪魔になつて仕方がない。何故かと云ふと支那の官憲は、塔上に物見を立たせてある。だから倭冠の一進一退は、杭州城へ近(ちかづ)かない内に、ちやんと支那側に知られてしまふ。そこで或時日本の海賊は、雷峰塔のまはりに火を放つて、三日三晩焼き打ちを續けた。かかるが故に雷峰塔は、赤煉瓦の製造が始まらない以前、早くも赤煉瓦の塔に變つたのである。――ざつとかう云ふ次第だが、眞僞は勿論保證しない。

 雷峰塔を少時(しばらく)仰いだ後(のち)、我我は新新旅館の方へ、――今日は昨日よりも熱が低い。喉も燒いたのが利いたやうである。この分ならば二三日中に、机の前へ坐れるかも知れない。しかし紀行を續ける事は依然として厄介な心もちがする。その心もちを押して書くのだから、どうせ碌な物は出來さうもない。まあ、一日に一囘だけ、纏りがつけば本望である。そこでもう一軒度繰り返すが、――雷峰塔を少時仰いだ後、我我は新新旅館の方に、徐(おもむろ)に畫舫をめぐらせた。

 西湖は今我我の前に、東岸一體を開いてゐる。向うに、――新新旅館の上に、緑をなすつた石山は、葛洪(かつこう)煉丹の地だとか云ふ、評判の高い葛嶺であらう。葛嶺の頂には廟が一つ、丁度飛び立たうとする小鳥のやうに、軒先の甍を反らせてゐる。その右に續ゐた山、――西湖全圖によると寶石山には、華奢な保俶塔(ほしゆくたふ)の姿も見える。この塔が細細と突き立つた容子は、老衲(ろうのう)の如き雷峰塔に比すると、正に古人の云つた通り、美人の如きものがあるかも知れない。しかも葛嶺は曇つてゐるが、寶石山の山頂の草には、鮮やか日の光が流れてゐる。これらの山山の裾あたりには、我我の泊つたホテルを始め、赤煉瓦の建物(たてもの)もないではない。が、いづれも遠いせいか、格別目に立やないのは幸福である。唯(ただ)山山のなだれた所に、白い一線の連つてゐるのは、今朝過つた白堤に違ひない。白堤が左に盡きた所には、樓外樓の旗こそ見えないにせよ、新緑の孤山が横はつてゐる。かう云ふ景色は何と云つても、美しい事だけは否み難い。殊に今は點點と菱の葉を浮べた水の面(おもて)も、底の淺いのを瞞着すべく、鈍い銀色に輝いてゐる。

 「今度は何處に行くのです?」

 「放鶴亭に行つて見ませう。林和靖(りんわせい)のゐた所だから。」

 「放鶴亭と云ふと?」

 「孤山ですよ。新新旅館のすぐ前の所――、」

 その放鶴亭に上陸したのは、二十分餘り後の事だつた。畫舫は今度も其處へ來るのには、錦帶橋をくぐつた上、ずつと圍はれた、所謂裡湖(りこ)を横(よこぎ)つたのである。我我は梅の青葉の中に、放鶴亭を見物したり、もう一つ上に側立つた、これも林逋(りんぽ)の巣居閣へ行つたり、その又後(うしろ)に立てられた、やはり大きな土饅頭の「宋林處士墓」なるものを見たり、いろいろその邊をうろつき廻つた。林逋は高人(かうじん)だつたに違ひない。が、日本の小説家程、貧乏もしてゐなかつたのに違ひない。林逋七世の孫(そん)、洪(こう)の著した「山家清事」(さんかせいじ)によると、洪の隠遁生活は「舍三寢一讀書一治藥一。後舍二一儲酒穀列農具山具一安僕役庖※稱是。童一婢一園丁二犬十二足驢四蹄牛四角」だつたと云ふ。和靖先生も似たやうなものだとすれば、月五十圓の借家にゐるより、餘程豐だつたと云はなければならぬ。私にしても箱根あたりへ、母屋が一軒に物置が一軒――書齋、寢室、女中部屋等、すつかり揃つたのを建てて貰つた上、書生一人、女中一人、下男二人を使つて好ければ、林處士の眞似などはむづかしくもない。水邊(すゐへん)の梅花に鶴を舞はせるのも、鶴さへ承知すれば訣無しである。しかし私はさうなつても、「犬十二足驢四蹄牛四角」は使ひ途がない。これはそつくり君に上げるから、どうとも勝手にしてくれ給へ。――私は放鶴亭一見をすませた後、岸の畫舫へ歸りながら、こんな理屈を發表した。岸には柳絮(りうぢよ)の飛び交ふ間(あいだ)に、白の着物へ黑のスカアトをはいた、支那の女學生が二三十人、ぞろぞろ西冷橋の方へ歩いてゐる。

[やぶちゃん字注:「※」=「广」+(中)に「甾」。]

[やぶちゃん注:

・「Hangchow Itineraries」“Hangchow ”は杭州“Hángzhōu”、“Itinerary”は旅行案内書。「杭州旅行案内」の意。

・「今日は昨日よりも熱が低い。……」前段「十 西湖(五)」を受ける。同段の「私は現在床の上に、八度六分の熱を出してゐる」及び続く「友だちは壯だなぞと冷かしもする」の注を参照されたい。以下、「……我我は新新旅館の方に」迄、実に175字。私が大阪毎日の薄田泣菫なら確実に苦虫を潰すね。

・「葛洪煉丹」葛洪(283343)は、西晋・東晋期の道士・仙人。遊仙思想と煉丹術の書「抱朴子」の著者として有名。他にも「神仙伝」「隠逸伝」等、神仙関連の著書多数。尸解仙の呪法(自身の死体から抜け出て仙人となること。登仙の方法としては下位の呪法)を修得していたとされ、最後にはそれで登仙したとされる。「錬丹」は煉丹とも書き、中国の道士の呪法の一つで、不老不死となれる霊薬「丹」を製造する技術を言う。古来、辰砂などを原材料とした硫化水銀(HgS)を原料として製造出来るとされ、盛んに服用もされた。漢方では精神安定効果を認められており、不眠・眩暈・癲癇などに用いるとある。主に用いられた硫化第二水銀(HgS())は急性毒性はないとされるが、多量の長期服用による水銀中毒で多くの犠牲者や障害者をも生み出すこととなった。

・「葛嶺」現在の杭州市の西部西湖北岸、白堤に対峙して見下ろす位置にある標高166mの山。葛洪を開祖として祀る道教寺院抱朴道院が山腹にある。

・「寶石山」葛嶺の東に位置する山。標高約78m(約100mという記載もあるが、神田由美子氏の岩波新全集注解の200mは何かの間違いであろう)。西湖や杭州市街を見下ろす景勝地である。山名の由来は、山の鉱物組成が凝灰岩と流紋岩を主としているため、陽光が射すと宝玉の如く輝くことからという。

・「保俶塔」宝石山にある杭州のシンボルとも言える層塔。北宋の開宝年間、970年(異説あり)の創建といわれる。神田由美子氏の岩波新全集注解では、986年、都へ登った越王銭弘俶の無事を祈って宰相呉延爽が建てられたと記し、芥川が訪れた『当時は九層の塔』とあるが、ネット上には中文サイトも含め、呉越王銭弘俶により銭塘江の水害を鎮めるために建てられたという記載も多く見受けられる。現在は六面七層で、高さ45.3m(邦人のブログにはには59.89mとの記載も見られる)。日中多くのサイトを見るに、芥川の華奢で女性的な優美な塔という保俶塔のイメージは、現代中国でも一般的な印象であるようだ。

・「老衲」年老いた僧のこと。

・「放鶴亭」林逋の旧居。神田由美子氏の岩波新全集注解によれば、『孤山の北麓の大樹の茂みの中にあ』り、林逋が舟で遊行に出かけた最中に来客があった際には、留守居の童子が籠に伏せてあった鶴を放って林逋に合図させたことからこの名が付いたという。如何にも人界仙境の趣きではないか。

・「林和靖」林逋(9671028)。北宋初期の詩人。和靖先生は詩人として敬愛した第4代皇帝仁宗(10101063:この縁は父第3代皇帝真宗の時から)が諡(いみな)として与えたもの。ウィキの「林逋」によれば、『西湖の孤山に盧を結び杭州の街に足を踏み入れぬこと20年におよんだ』とし、生涯仕官せず、独身を通して、『庭に梅を植え鶴を飼い、「梅が妻、鶴が子」といって笑っていた。』『林逋の詩には奇句が多』いが、『平生は詩ができてもそのたびに棄てていたので、残存の詩は少ない』(一部誤植を正した)とある。当該ウィキの最後にその詩が載るが、確かに一筋繩では読みこなせない佶屈聱牙な詩である。ここに三野豊氏の美事な訳がある。

・「錦帶橋」は白堤のやや孤山寄りの中央付近に架橋している橋。日本の岩国の錦帯橋はこれがモデル。

・「裡湖」裏湖。西湖では堤の内(陸側)の湖を言う。ここは白堤に仕切られた西湖の北側の細長い湖の名。現在は北里湖と呼ぶ。

・「林逋の巣居閣」筑摩全集類聚版脚注には、『放鶴亭の右にある』とする。元代には西湖十景とは別に「銭塘十景」が選ばれているが、その中に「巣居雪閣」とある。ここの雪景色のことを指すか。

・『「宋林處士墓」』「處士」は在野にあって若しくは隠棲して仕官しない人のこと。これは林逋の墓であるが、彼は生前に墓を作り、「茂陵他日求遺稿 猶喜曾無封禪書」(茂陵他日遺稿を求むとも 猶ほ喜ぶ曾て封禪(ほうぜん)の書無きを)と詠んだと言う。散文翻案をすると「武帝の使者が、茂陵に隠居していた司馬相如を尋ねた時には相如は既にあの世行き、優れた遺稿を救わんとするもとっくに散逸、しかし卓文君が差し出したのは遺言の秘書「封禅の文」だったんだと――いや! 嬉しいね! 私は彼のように公(おおやけ)に気を使って封禅の書なんぞを遺書として用意をしなくってよいからね」といった感じか。これは国政に飽くまで無関心であることをあの世まで嘯く林逋の痛快な一言と言えよう。本詩は前漢の文人政治家司馬相如(B.C.179B.C.117) の故事のパロディである。司馬相如を高く評価していた武帝(B.C.156B.C.87)は絶えていた封禅の儀(帝王が天地に王の即位を闡明し、また天下太平を感謝祈念する秘儀)をB.C.110年に初めて泰山行っているが、それには司馬相如が晩年隠棲した茂陵で、武帝への忠心から記したところの遺書封禅の書一巻が役立ったのであった。因みに茂陵(現・陝西省咸陽市)は後に武帝自身の墳墓の地ともなった地で、因縁に満ちている。

・「高人」「かうにん(こうにん)」とも。身分の高い人という意味ではなく、ここでは人品ともに高潔な志しの高い人、更に、世俗に汚されていない人という意味も付与されている。

・『洪の著した「山家清事」』ネット上のいろいろな記載を勘案すると、南宋末の文人にして林逋の子孫であった林洪が記した、山林隠士の生活マニュアル本のようなものらしい。

・『「舍三寢一讀書一治藥一。後舍二一儲酒穀列農具山具一安僕役庖※稱是。童一婢一園丁二犬十二足驢四蹄牛四角」』[「※」=「广」+(中)に「甾」。]書き下そう。「舍三、寢一(いつ)、讀書一治(いちぢ)、藥一(いつ)。後舍二、一は酒穀を儲(たくは)へ、農具・山具を列し、一(いつ)は僕役を安んじ、庖※(はうし)是れに稱(かな)ふ。童一、婢一、園丁二、犬十二足、驢四蹄、牛四角。」か。訳せば「主な棟は3棟で、寝室1室・書斎1室・療治に用いる特別室1室。更に主屋の後ろに2棟あって、1棟には酒や穀物を貯蔵し、更に農機具や山仕事の道具の置き場所とし、もう1棟には下僕を住まわせて、そこをまた私の家の厨房として仮称している。ボーイ1名・女中1名・園丁2名・犬12匹・驢馬4頭・牛四頭。」か。とんでもないゼイタクな隠棲ではある。

・『私はさうなつても、「犬十二足驢四蹄牛四角」は使ひ途がない。これはそつくり君に上げるから、どうとも勝手にしてくれ給へ。』とあるが、驢馬と牛なら我慢出来ようが、特に芥川は犬が大の苦手であったことを申し添えておこう。

・「柳絮」白い綿毛のついた柳の種子を言うが、一般に漢詩では、それが春の風に飛び漂うことを言うことが多い。]

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