江南游記 二十九 南京(下) 芥川龍之介「江南游記」全篇終了
これを以って芥川龍之介「江南游記」の全篇の公開を終わった。既に次の「長江游記」に着手した。
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二十九 南京(下)
私はホテルに歸つて來ると、直(すぐ)にベッドに這ひ上つた。胃は不相變痛んでゐる。熱も少しはあるらしい。何だかこのベツドに横はつた儘、曠世(くわうせい)の大志を抱きながら、私は茶を入れて來た束髮の女中に、按摩はないかと尋ねて見た。すると純粹の按摩はないが、按摩をする床屋ならばあると云ふ。私は床屋でも湯屋(ゆや)でも好(よ)いから、早速その按摩を呼んでくれろと云つた。往生してしまひさうな心もちがする。
女中が驚いて引き下つた後(のち)、久米正雄とお揃ひに買つた、ニツケルの時計を出して見ると、やつと二時何分過ぎである。今日は孝陵を見物したぎり、莫愁湖へは廻らずに歸つて來た。西湖では蘇小を弔ひ、虎邱では眞娘を弔つたのだから、やはり三美妓(びぎ)の一人たる莫愁も弔ひに行きたかつたが、かう云ふ始末ぢややむを得ない。いや、今日五味君と晝飯を食ひに、秦淮の料理屋にゐた時などは、鮑(あわび)の湯(タン)を吸ひかけたなり、少時(しばらく)は口も利けなかつた程、世にも胸苦(むなぐる)しい心もちになつた。事によると胃病と同時に、肋膜炎も再發したのかも知れない、――さうな事を考へてゐると、愈(いよいよ)私は五六分の内に、落命にでも及びさうな氣がし始めた。
その内にふと人音(ひとおと)がしたから、突伏(つつぷ)してゐた顏を擧げると、嫌に背の高い支那人が一人、ベツドの前に佇んでゐる。私はちよいとシヨツクを受けた。實際ペンキ塗りの屏風の前に、突然こんなのつぽを發見するのは、誰にも氣もちの好(よ)いものぢやない。しかも彼は私を見るなり、悠悠と支那の腕まくりをし出した。
「何だい、君は?」
彼は私に怒鳴られても、全然顏色を動かさなかつた。さうして唯一言返事をした。
「アンマ!」
私は思はず苦笑しながら、彼に揉めと云ふ手眞似をした。が、この床屋を兼ねた按摩は、揉みもしなければ叩きもしない。唯(ただ)首筋から背筋の方へ、順順に筋肉をつまむだけである。それでも決して莫迦には出來ない。私はだんだん體の凝りが、寛いで來るのを感じたから、出たらめに「好(ハオ)、好(ハオ)」と褒めてやつた。
その後二時間程晝寢をしたら、大分(だいぶ)元氣も恢復してゐた。五時には五味君と多賀中尉――多賀氏は少時(せうじ)愛讀した、「家庭軍事談」の筆者である。私はその時の署名通り、最も私に親みのある、多賀中尉と云と云ふ名を使ふ事にするが、現在は何だか未に知らない。――その當年の多賀中尉に、晩餐の御馳走になる約束がある。そこで顏へ剃刀を當てたり、黑い洋服を着用したり、五時までにはざつと身支度をすませた。
その夜私は多賀中尉と、昆布だの干物だのを嚙りながら、「家庭軍事談」の話をした。この昆布だの干物だのは、抵抗療法に據つたとか云ふ、惡辣な獻立の一部である。中尉は一見武人らしい、脊梁(せきりよう)骨(こつ)を感ぜしむる人物だつた。その癖座談も下手ぢやない。私は中尉と桂月先生の噂をしたり、我我の他にもう一人呼ばれた年の若い御客樣と、江南の風光を論じたり、少時(しばらく)は病體も忘れてゐた。殊にその御客樣が、搗栗(かちぐり)や何かを平げるのにも、頗(すこぶる)みやびやかだつた事は、今でも印象が鮮(あざやか)である。
我我は食事をしまつてから、客間に又一しきり話しこんだ。此處には支那の土中物(どちゆうも)だの、眞紅な山を描(か)いた田夫(でんぷ)氏の畫(ゑ)だの、骨董じみた物が並べてある。私は例のペンキ塗りの屏風に、半日惱まされた後(あと)だつたから、かう云ふ室内の安樂椅子に、漫然と腰を落ちつけてゐるのは、少からず愉快だつた。おまけに中尉は仕合せにも、「唐(とう)の三彩は」とか何とか辯ずる程、骨董眼を具へてゐないらしい。
その内に何時か一座の話題は、病氣の上に移つて行つた。
「南京で怖いのは病氣だけだね。古來南京で病氣になつたら、早速日本へ歸らない限り、一人も命の助かつたやつはない。」
多賀中尉は酒氣と一しよに、冗談のやうな、眞面目のやうな、甚(はなはだ)心もとない斷案を下した。一人も命の助かつたやつはない、――私はこの言葉を聞いた時、急に又死にさうな心もちになつた。同時に明日は汽車のあり次第、栖霞寺(せいかじ)も見ず、莫愁湖も見ず、上海(シヤンハイ)へ歸らうと決心した。………
翌日上海へ歸つた私は、糠雨の降る翌翌日の朝、里見病院の診察室に、打診や聽診を受けてゐた。それが一通り終つた時、里見先生は手を洗ひながら、私の方へ笑ひ顏を見せた。
「何處も惡くありません。惡いと思つたのは神經ですね。」
「しかしまだ漢口(ハンカオ)から、北京(ペキン)へ行かなければならないのですが、――」
「その位の旅行は大丈夫です。」
私は兎に角嬉しかつた。しかしその嬉しさの何處かには、折角上海へ歸つて來たのも、結局骨折損に過ぎなかつたと云ふ、失望があつたのは事實である。里見先生は立派な醫者だが、憾むらくは立派なサイコロヂストぢやない。もし私が先生ならば、たとひ無病息災でも、かう云ふ診斷を下したであらう。
「右の肺にちとインフラマテイオンがあります。すぐに御入院なさるがよろしい。」
[やぶちゃん注:5月12日は孝陵から早々にホテルへ戻っている。この前後に、長男比呂志の初節句の祝に着物を買っている。『支那の子供がお節句の時に着る虎のやうな着物ですあまり大きくないから比呂志の體ははひらないかもしれません尤もたつた一圓三十錢です』(5月17日上海から芥川道章宛岩波旧全集書簡番号九〇〇)。本文のような経緯で、心気症と多賀中尉の談話の逆プラシーボ効果によって、芥川は南京到着の翌々日の14日には一切の観光をせず、上海へと戻った(鷺只雄編著「年表読本 芥川龍之介」では船で上海に戻ったとし、上海帰着を15日、その日のうちに里見病院での診断とする。岩波新全集の宮坂覺の年譜では、帰着を14日同日中とし、里見病院での診断を15日とする。診断日自体は九〇〇書簡から動かない(書簡中に『體は一昨日もここの醫者に見て貰ひましたが、一切故障はないと云ふ事でした』とある)。本篇の叙述通りならば、汽車で帰り、日程的には宮坂説が正しいということにはなる。当時の交通機関のデータが欲しいところである。
・「曠世の大志」広いこの世で誰にも負けない偉人たらんとする大望。
・「西湖では蘇小を弔ひ、虎邱では眞娘を弔つた」美妓「蘇小」は「七 西湖(二)」を、「眞娘」は「江南の美人眞孃」で「十九 寒山寺と虎邱と」をそれぞれ参照のこと。
・「莫愁」という名の悲劇の美女については前篇「二十八 南京(中)」の「莫愁湖」注を参照のこと。
・「湯(タン)」“tāng”。スープ。
・「「好(ハオ)」“hăo”。よろしい。いいね。
・「多賀中尉」多賀宗之(明治5(1872)年~昭和10(1935)年)。中国名、賀忠良。明治27(1894)年陸軍少尉として任官、大正6(1917)年には参謀本部附・江蘇省督軍顧問となり、芥川が逢った際には既に陸軍歩兵大佐であった(後に支那駐留陸軍少将及び福州領事館武官となっている)。「家庭軍事談」以外にも、「支那の軍情」(昭和6(1931)年兵林館刊)、「天皇と世界及び吾人」(大正14(1925)年嶽陽互助育英会刊)、「赤裸の支那」(昭和7(1932)年新光社刊)などの著書がある。因みに彼は満州国建国の内幕にも関わっている。当時49歳。
・『「家庭軍事談」』文武堂明治34(1901)年刊の少年向けの軍事講話集。刊行当時、芥川は9歳であった。
・「抵抗療法」岩波版新全集の神田由美子氏の注解が詳しいので、例外的に全文を引用させて頂く。『高野太吉が唱えた健康法。周囲の環境から栄養を摂り、悪影響を拒否する抵抗力が人体には存在し、その抵抗力を養うには外部と接する部分、特に栄養の吸収にあたる胃腸に刺激を与え、その機能を旺盛にするのが重要とする。』とある。これは彼の著「抵抗養生論」(大正3(1914)年仙掌堂刊)で広まった。彼は孫文とも関係があり、邦文サイトより中文サイトの方が記載が多い。
・「脊梁骨」「脊梁」は背骨、「骨」はしっかりとした堅固なものの謂いで、一筋ピンと通った軍人気質を讃した語である。
・「桂月先生」大町桂月(明治2(1869)年~大正14(1925)年)高知出身の詩人・歌人・随筆家・評論家。多賀宗之は同じ高知出身で著作物も多いので、桂月とは知り合いであった可能性が高い。芥川龍之介は大正9(1920)年『文章倶楽部』に発表した「愛讀書の印象」で『中學へ入學前から徳富蘆花氏の「自然と人生」や樗牛の「平家雜感」や小島烏水氏の「日本山水論」を愛讀した。同時に、夏目さんの「猫」や鏡花氏の「風流線」や緑雨の「あられ酒」を愛讀した。だから人の事は笑へない。僕にも「文章倶樂部」の「青年文士録」の中にあるやうな「トルストイ、坪内士行、大町桂月」時代があつた。』と述べている。
・「搗栗」栗を干した後、搗いて殻と渋皮を除去したもの。主に本邦での加工法。但し、天津甘栗でご存知のように、中国産のクリの方が殻や渋皮が剥がれ易く、この加工が容易である。
・「土中物」これは次の「田夫氏」との釣り合いから言っても、地中から発掘した、という文字通りの意味に加えて、所謂、くすぐりで言うところの怪しげな謂いとしての「掘り出しもの」の意味を掛けているように思われる。
・「田夫氏」田夫野人を慇懃無礼に皮肉った謂い。教養のない粗野な人。田舎者。風流・風雅を解さない、才能のない俗流自称芸術家。
・「栖霞寺」南京市街の北東約22㎞の摂山西麓にある南京最大級の寺院。南斉の頃(500)の栖霞精舎に始まり、唐代には禅堂として栄えた。清の1855年、栖霞一帯での清軍と太平天国軍の激戦により破壊されたが、光緒年間(1908)に再建。
・「里見病院」渡中直後に乾性肋膜炎で一ヶ月入院した病院。神田由美子氏の岩波版新全集「上海游記」の注解によると、院長は内科医里見義彦で、『密勒路A六号(当時この一帯は日本人街。現、上海氏虹口区峨嵋路十八号)にあった赤煉瓦四階建の左半分が里見病院。』とある。現在はアパートになっているが、建物そのものは現存しているらしい。西湖に同行している大阪毎日新聞社上海支局長村田孜郎が、院長の俳句の仲間であった縁故による。「上海游記 五 病院」を参照。
・「北京(ペキン)」“bĕijīng”。芥川が北京へ向かって上海に別れを告げるのは翌々日の5月17日のことであった。但し、途中、蕪湖・九江・廬山・漢口・洞庭湖・長沙・洛陽を経ているため、実際に北京に着いたのは凡そ一ヶ月後の、6月14日(11日説もあり)である。
・「インフラマテイオン」“inflammation”。炎症。諸注はドイツ語とするのだが、これは英語かフランス語、読みからしてフランス語であろう。私の所持する同学社1977年刊「新修ドイツ語辞典」には、このような綴りの単語はない。ドイツ語の医学用語の「炎症」ならば“Entzündug”(エント・ツュンドゥング)が一般的ではないか。識者の御教授を乞うものである。]
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