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2009/07/25

長江游記 一 蕪湖

       一 蕪湖

 

 私は西村貞吉(にしむらていきち)と一しよに蕪湖(ウウフウ)の往來を歩いてゐた。往來は此處も例の通り、日さへ當らない敷石道である。兩側には銀樓だの酒棧(チユザン)だの、見慣れた看板がぶら下つてゐるが、一月半も支那にゐた今では、勿論珍しくも何ともない。おまけに一輪車の通る度に、きいきい心棒を軋ませるのは、頭痛さへしかねない騷騷しさである。私は暗澹たる顏をしながら、何と西村に話しかけられても、好い加減な返事をするばかりだつた。

 西村は私を招く爲に、何度も上海へ手紙を出してゐる。殊に蕪湖へ着いた夜なぞはわざわざ迎への小蒸氣(こじようき)を出したり、歡迎の宴(えん)を催したり、いろいろ深切を盡してくれた。(しかもわたしの乘つた鳳陽丸は浦口(プウカオ)を發するのが遲かつた爲に、かう云ふ彼の心盡しも悉(ことごとく)水泡に歸したのである。)のみならず彼の社宅たる唐家花園(たうかくわゑん)に落ち着いた後(のち)も、食事とか着物とか寢具とか、萬事に氣を配つてくれるのには、實際恐れ入るより外はなかつた。して見ればこの東道(とうだう)の主人の前へも、二日間の蕪湖滯在は愉快に過さねばならぬ筈である。しかし私の紳士的禮讓も、蝉に似た西村の顏を見ると、忽(たちまち)何處かに消滅してしまふ。これは西村の罪ではない。君僕の代りにお前おれを使ふ、我我の親みの罪である。さもなければ往來の眞ん中に、尿(いばり)をする豚と向ひ合つた時も、あんなに不快を公表する事は、當分差控へる氣になつたかも知れない。

 「つまらない所だな、蕪湖と云ふのは。――いや一蕪湖ばかりぢやないね。おれはもう支那には飽き厭きしてしまつた。」

 「お前は一體コシヤマクレテゐるからな。支那は性に合はないのかも知れない。」

 西村は横文字は知つてゐても、日本語は甚(はなはだ)未熟である。「こましやくれる」を「コシヤマクレル」、鷄冠を「トカサ」、懷を「フトロコ」、「がむしやら」を「ガラムシヤ」――その外日本語を間違へる事は殆(ほとんど)擧げて數へるのに堪へない。私は西村に日本語を教へにわざわざ渡來した次第でもないから、佛頂面をして見せたぎり、何とも答ヘず歩き續けた。

 すると稍(やや)幅の廣い往來に、女の寫眞を並べた家があつた。その前に閑人(ひまじん)が五六人、つらつら寫眞の顏を見ては、何か靜に話してゐる。これは何だと聞いて見たら、濟良所だと云ふ答があつた。濟良所と云ふのは養育院ぢやない。自由廢業の女を保護する所である。

 一通り町を遍歴した後、西村は私を倚陶軒(いとうけん)、一名大花園と云ふ料理屋へつれて打つた。此處は何でも李鴻章の別莊だつたとか云ふ事である。が、園へはひつた時の感じは、洪水後の向島あたりと違ひはない。花木は少いし、土は荒れてゐるし、「陶塘」(たうたう)の水も濁つてゐるし、家の中はがらんとしてゐるし、殆(ほとんど)御茶屋と云ふ物とは、最も縁の遠い光景である。我我は軒(のき)の鸚鵡の籠を見ながら、さすがに味だけはうまい支那料理を食つた。が、この御馳走になつてゐる頃から、支那に對する私の嫌惡はだんだん逆上の氣味を帶び始めた。

 その夜唐家花園のバルコンに、西村と籐椅子を並べてゐた時、私は莫迦莫迦しい程熱心に現代の支那の惡口を云つた。現代の支那に何があるか? 政治、學問、經濟、藝術、悉(ことごとく)墮落してゐるではないか? 殊に藝術となつた日には、嘉慶道光の間(かん)以來、一つでも自慢になる作品があるか? しかも國民は老若を問はず、太平樂ばかり唱へてゐる。成程若い國民の中には、多少の活力も見えるかも知れない。しかし彼等の聲と雖も、全國民の胸に響くべき、大いなる情熱のないのは事實である。私は支那を愛さない。愛したいにしても愛し得ない。この國民的腐敗を目撃した後も、なほ且支那を愛し得るものは、頽唐を極めたセンジュアリストか、淺薄なる支那趣味の惝怳者(しやうけいしや)であらう。いや、支那人自身にしても、心さへ昏(くら)んでゐないとすれば、我我一介の旅客(りよかく)よりも、もつと嫌惡に堪へない筈である。………

 私は盛に辯じ立てた。バルコンの外の槐(ゑんじゆ)の梢は、ひつそりと月光に涵(ひた)されてゐる。この槐の梢の向う、――幾つかの古池を抱へこんだ、白壁の市街の盡きる所は揚子江の水に違ひない。その水の汪汪(わうわう)と流れる涯には、ヘルンの夢みた蓬莱のやうに懷しい日本の島山(しまやま)がある。ああ、日本へ歸りたい。

 「お前なんぞは何時でも歸れるぢやないか?」

 ノスタルジアに感染した西村は月明りの中に去來する、大きい蛾の姿を眺めながら、殆(ほとんど)獨語(ひとりごと)のやうにかう云つた。私の滯在はどう考へても、西村には爲にならなかつたらしい。

 

[やぶちゃん注:現在安徽省第二の大都市となった蕪湖“Wúhú”(ウホウ)は上海から約390km・南京から約90kmの長江中流に位置する。昔から四大穀倉地帯の一つとして、また長江中流の物産の集積する港町として栄えてきた。街中には水路・運河・湖や池が多く、河岸には問屋街が並ぶ。由緒ある古寺や中国四大仏教聖地の一つである九華山、名山と知られる黄山等がある景勝地である。

・「西村貞吉」芥川の府立三中時代の同級生で、東京外国語学校(現・東外語大学)卒業後、各地を放浪の後、中国安徽省蕪湖唐家花園に居を定めていた。芥川が中国から帰還した直後の大正101921)年9月に『中央公論』に発表した「母」は、蕪湖に住む野村敏子とその夫の物語であるが、この夫は明らかに彼をモデルとしている。

・「銀樓」貴金属店。金銀を用いた細工店。

・「酒棧(チユザン)」“jiŭzhàn”。居酒屋。

・「一輪車」所謂、木製で出来た一輪車を向きを逆にして、牛や驢馬の後方に連結したものを言うのであろう。

・「小蒸氣」は「小蒸気船」の略。港湾にあって大型船舶の旅客の送迎や通船等に当たる小型の動力船のこと。

・「鳳陽丸」同名の船が長澤文雄氏のHP「なつかしい日本の汽船」の「明治後期-大正期」のページに、日清汽船所有船舶として写真付きで掲載されている(通し番号15)。その資料によれば、大正4(1915)年に貨物船「鳳陽丸」“ FENG YANG MARU”として進水、船客 は特1等16名・1等18名・特2等10名・2等60名・3200名。昭141939)年に東亞海運(東京)の設立に伴って移籍した。そして『1944.8.31(昭19)揚子江の石灰密(30.10N,115.10E)で空爆により沈没』とあるので、この船に間違いないと思われる。

・「浦口(プウカオ)」“pŭkŏu”は現在の江蘇省南京市浦口区。南京市街とは長江を挟んで反対側にあり、1968に竣工した南京長江大橋が出来るまでは、南京への渡し場・長江の港町として栄えた。

・「唐家花園」ネット検索では掛からない。現在はこの地名(宅地名)は現存しないか。先に示した西村をモデルとした「母」には、その夫の台詞の中に蕪湖の「雍家花園(ようかかえん)」という地名が現れる。しかし、これもネット検索では掛からない。識者の御教授を乞う。

・「東道」は「東道の主」若しくは「東道の主人」の略。「春秋左伝」僖公(きこう)三十年の記載を故事とする語。本来は、東方へ赴く旅人をもてなす主人の意である。そこからホストとしてゲストの世話をする者を言う。

・「禮讓」相手に対して、礼儀正しく、へりくだった態度をとること。

・「濟良所」筑摩全集類聚版脚注等によれば、中華民国時代に置かれた官営機関。官妓や公娼の中で、誰かに引かされたのではなく、自分の意思でやめた者(「自由廢業」)は一般の仕事に就き難くかった。そこでここで手仕事や新時代の一般教養を習得させて、正業に就かせようとした。

・「倚陶軒、一名大花園と云ふ料理屋」未詳。現存しない模様。

・「李鴻章」Lĭ Hóngzhāng(りこうしょう、リ・ホゥォンチャン 18231901)は清代の政治家。1850年に翰林院翰編集(皇帝直属官で詔勅の作成等を行う)となる。1853年には軍を率いて太平天国の軍と戦い、上海をよく防御して江蘇巡撫となり、その後も昇進を重ねて北洋大臣を兼ねた直隷総督(官職名。直隷省・河南省・山東省の地方長官。長官クラスの筆頭)の地位に登り、以後、25年間その地位にあって清の外交・軍事・経済に権力を振るった。洋務派(ヨーロッパ近代文明の科学技術を積極的に取り入れて中国の近代化と国力強化を図ろうとしたグループ。中国で十九世紀後半におこった上からの近代化運動の一翼を担った)の首魁として近代化にも貢献したが、日清戦争(明治271894)年~明治281895)年)の敗北による日本進出や義和団事件(19001901)での露清密約によるロシアの満州進出等を許した結果、中国国外にあっては傑出した政治家「プレジデント・リー」として尊敬されたが、国内では生前から売国奴・漢奸と分が悪い(以上はウィキの「李鴻章」及び中国国際放送局の「李鴻清の末期の政治家」の記載を主に参照した)。

・「洪水後の向島」現在の墨田区向島は、近代史上最大の明治431910)年8月11日の大洪水。向島は巨大な湖のようになったと当時の新聞は報じている。芥川は当時18歳で、第一高等学校に無試験合格した直後で、卒業したばかりの府立第三中学校が避難所となったため、慰問品を持って三中で救護に当たった。その際の救護活動を綴ったものが同年11月発行の『東京府立第三中学校学友会雑誌』に「水の三日」という標題で載っており、芥川は具にその惨状を見ている(「水の三日」は、但し、極めて面白可笑しい体験をお洒落に配した綴り方で、「惨状」の描写等は微塵もなく、そのようなシリアスなものを期待すると完璧に失望するものである)。

・「陶塘」筑摩全集類聚版は『「塘」はつつみ、陶堤というに同じ。』とあるが、では「陶堤」とは何か、記していない。わざわざ芥川が鍵括弧を附した意味が分からぬ。岩波版新全集の篠崎美生子氏の注解は「未詳。」とする。彼女は鍵括弧を附した特別な意味を感じ取って、敢えて注釈者としてはやりたくない「未詳」を附したのであろう。これは、蕪湖市内にある鏡湖の古名である。中国旅行社の「黄山旅遊網」の日本語版の「蕪湖」のページによれば、南宋期の詩人の詩に「田百畝を献し、合流して湖に成り」、その豊かなる田園の様は陶淵明を慕うかのようであるから、「陶塘」と名付けるというようなことが記されており(やや日本語と構文がうまくない)、『歴代の拡張工事によって、今の鏡湖は面積が15万平方メートルもあり、へ平均水深が2メートル、水面が鏡のように透き徹ってい』るとあり、『湖堤には柳が揺らぎ、蕪湖八景の一つ「鏡湖細柳」はここで』あると記す。芥川はかの有名な陶淵明所縁の「陶塘」と風雅に呼ばれた鏡湖、の意味(その清らかな靖節先生、「鏡」の湖が、「濁つてゐる」という皮肉)を込めて鍵括弧を附したのである。

・「嘉慶道光の間」1796年から1850年の凡そ半世紀の間。「嘉慶」は清第7代皇帝仁宗の治世の年号(17961820)、「道光」はその息子である第7代皇帝清の宣宗の治世の元号(18211850)。

・「太平樂」雅楽の一曲である「太平楽」が如何にも悠長な曲想であることから、人が勝手気儘なことを言い放題で暢気に暮らすこと、勝手気儘な振舞いを言う語。

・「頽唐」退廃。反道徳的で不健全なさま。この場合の「唐」は、とりとめがない、虚しいの意。

・「センジュアリスト」“sensualist”は、「官能主義者」「肉欲(酒色)に耽る人」、美術上の「肉感主義者」や哲学上の「感覚論者」の意味もあるが、ここではもう「官能主義者」「肉感的耽美主義者」の謂いである。

・「惝怳者」底本「しやうけい(しょうけい)」とルビを振っているが、正しくは「しやうくわう(しょうこう)」と読む。意味は、がっかりするさま、驚きぼんやりするさま、であるがそれでは意味が通じない。ぼんやりと判然としない憧憬、というような意味で芥川は用いているようである。実は、この語は芥川が好きな語であったらしく、「點心」の「長井大助」、「西方の人」の「18 キリスト教」でも用いている。なお且つ、「18 キリスト教」でもルビが「しやうきやう(しょうきょう)」と誤った、こことはまた異なったルビが振られており、おまけに意味もここでの誤った用法と同じである。博覧強記の芥川龍之介にして、「惝怳」の読み・意味共に、全く誤った思い込みのまま使い続けたというケースは珍しい。

・「槐」バラ亜綱マメ目マメ科エンジュStyphonolobium japonicum。落葉高木。中国原産で、街路樹によく用いられる。志怪小説等を読むと中国では霊の宿る木と考えられていたらしい。

・「汪汪」水が豊かに湛えられているさま。

・「ヘルンの夢みた蓬莱のやうに懷しい日本の島山」この部分は、小泉八雲の「怪談」の掉尾をなす「蓬莱」の記述に基づく。まずLafcadio HearnHôrai”の、その冒頭原文を掲げる(引用は“K.Inadomi's Private Library”所収のものを用いた)。

   *

Blue vision of depth lost in height, — sea and sky interblending through luminous haze. The day is of spring, and the hour morning.

Only sky and sea, — one azure enormity. . . . In the fore, ripples are catching a silvery light, and threads of foam are swirling. But a little further off no motion is visible, nor anything save color: dim warm blue of water widening away to melt into blue of air. Horizon there is none: only distance soaring into space, — infinite concavity hollowing before you, and hugely arching above you, — the color deepening with the height. But far in the midway-blue there hangs a faint, faint vision of palace towers, with high roofs horned and curved like moons, — some shadowing of splendor strange and old, illumined by a sunshine soft as memory.

 

. . . What I have thus been trying to describe is a kakémono, — that is to say, a Japanese painting on silk, suspended to the wall of my alcove; — and the name of it is SHINKIRÔ, which signifies "Mirage." But the shapes of the mirage are unmistakable. Those are the glimmering portals of Hôrai the blest; and those are the moony roofs of the Palace of the Dragon-King; — and the fashion of them (though limned by a Japanese brush of to-day) is the fashion of things Chinese, twenty-one hundred years ago. . . .

   *

この作品の訳を示すに、平井呈一先生の訳以外に名訳を私は知らない。特に先生は、この冒頭に二段落分を擬古文に訳されており、それがこの芥川のそれと美事に照応するかのように美しい。ここにそれを引用せずにはおられない(1975年恒文社刊「怪談 骨董他」所収の「蓬莱(ほうらい)」を用いたため、恐らく初訳の際はそうであったであろう歴史仮名遣は残念ながら現代仮名遣に改められている。もとに戻した願望に駆られるが、著作権存続中の作品の引用であるので、そのままとする。読者は是非、歴史的仮名遣且つ正字に直して鑑賞・対比されると、芥川龍之介――小泉八雲――平井呈一という稀有の美しいラインが見えてくる)。

   *

 水や空なるわだの原。霞にけぶる空と水。時は春なり、日は朝(あした)。

 見わたせば、ただ渺々の海と空(そら)。見る目くまなき群青(ぐんじょう)の、こなたに寄する岸の波。ただよう五百(いお)の水泡(みな)くずは、銀の光をとらうらん。その岸べより沖かけて、目路(まじ)には動くものもなく、ただ一刷毛の藍の色、日に蒸れけむる碧水の、蒼茫として碧天に、つらなるきわを眺むれば底(そこひ)も知らぬ穹窿(きゅうりゅう)の、帰墟(ききょ)の壑(たに)にも似たるかや。高きとともにその色の、ひときわ深き中空に、反りたる屋根の新月に、まがうと見ゆる高楼(たかどの)の、ほのかに遠くかかれるは、げにそこはかとなき思い出の、姿もかくやほのぼのと、朝日に映(は)ゆるとつ国の、古き栄華のまぼろしぞこれ。

 

 上に試みに訳したのは、一幅の掛物である。素絹に描いて、わが家の床の間にかけてある、日本の絵だ。題を「蜃気楼」という「蜃気楼」とは「まぼろし」の意である。しかし、この蜃気楼は形がさだかである。これに見えるのは、仙境蓬莱に輝く光りの門、あれに見ゆるは、竜宮の月の屋根である。その様式は、(現代の日本の画家が描いたものだが)二千年前の中国の様式だ。[やぶちゃん注:以上、平井呈一訳引用終わり。]

 

   *

 

小泉八雲は以下、常世としての蓬莱の不老不死等について語りながら、悲しみや死が犯さない世界などあるはずがない、と否定はする。しかし、すぐに蓬莱の語りの魅力に負けて、その大気が空気ではなく、幾千万億という太古の霊魂の精気によって構成されており、それを摂取することよって蓬莱に生きるものの感覚は我々とは異なったものになると語り出す。蓬莱では正邪の観念がない。故に老若もない。不死ではないが、その死の瞬間以外は、常ににこやかに微笑んでいる。蓬莱では全ての人々が家族のように愛と信頼の絆によって結ばれている。そうして蓬莱の「女」の人の心やその語りかける言葉は、小鳥の魂のように軽やかである。蓬莱では死の瞬間の別れの悲しみ以外には、何一つ、人に隠すことがない(神は死の瞬間の悲しみがその当人の表情から消え去るまで、その顔を蔽うのである)から、もとより恥を感ずるいわれもない。他者から何かを盗む必要も、盗まれるという恐れの感情も不要だから、戸閉まりをする必要もない。そこに住む人々は皆、神仙である。だから、その世界のものは殆んどが極めて小さくて奇妙に見える。彼らは極めて小さな茶碗で飯を食い、極めて小さな杯で酒を飲む……。八雲はここでこれらの霊妙なるものの核心を総括する。それは、理想、即ち古き世の希望の光、に対する憧憬であるとする。その希望の『無私の生涯の朴直な美しさ』(平井氏訳)が蓬莱の「女」の人の誠実な優しさに現われている……と。もう、この八雲が語る「蓬莱」なるものが何辺にあるか、何処であるか、お分かり頂けたものと思う。

 

 最終段落は象徴的である。そうしてこれが芥川の最後の一文に直に繋がる(引用は原文・訳文共に前記引用に同じ)。

 

   *

 

Evil winds from the West are blowing over Hôrai; and the magical atmosphere, alas! is shrinking away before them. It lingers now in patches only, and bands, — like those long bright bands of cloud that trail across the landscapes of Japanese painters. Under these shreds of the elfish vapor you still can find Hôrai — but not elsewhere. . . . Remember that Hôrai is also called Shinkirô, which signifies Mirage, — the Vision of the Intangible. And the Vision is fading, — never again to appear save in pictures and poems and dreams. . . .

 

   *

 

 ――西の国からくる邪悪の陰風が、蓬莱の島の上を吹きすさんでいる。霊妙なる大気は、かなしいかな、しだいに薄らいで行きつつある。いまは、わずかに、日本の山水画家の描いた風景のなかにたなびく、長い光りの雲の帯のように、片(きれ)となり、帯となって、漂うているばかりである。その一衣帯の雲の下、蓬莱は、その雲の下にのみ、今は存しているのである。それ以外のところには、もはやどこにも存在していない。蓬莱は、又の名を蜃気楼という。蜃気楼とは手に触れることのできない、まぼろしの意である。そうして、そのまぼろしは、今やすでに消えかかりなんとしつつある。――絵と、歌と、夢とのなかにあらざれば、もはやふたたびあらわれぬかのように。[やぶちゃん注:以上、平井呈一訳引用終わり。]

因みに、この注は芥川龍之介「骨董羹―壽陵余子の假名のもとに筆を執れる戲文―」に私は注したものを援用している。お読みでない方は、お読みあれ。そうしてまた、私の文章の愛讀者諸君は、この「長江」の一篇に對するやうに、出来れば、その擬古文を暴虎馮河で私が現代語訳した『芥川龍之介「骨董羹―寿陵余子の仮名のもとに筆を執れる戯文―」に基づくやぶちゃんという仮名のもとに勝手自在に現代語に翻案した「骨董羹(中華風ごった煮)―寿陵余子という仮名のもと筆を執った戯れごと―」という無謀不遜な試み 』〔やぶちゃん(copyright 2009 Yabtyan)〕にもちらりと目をやつてはくれないであらうか?]

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