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2009/07/15

江南游記 十七 天平と靈巖と(中)

       十七 天平と靈巖と(中)

 萬笏朝天(ばんこつてうてん)の名を負うた、山頂の岩むらへ登つた後(のち)、又山路(やまみち)を下りて來ると、さつきの亭へ出る前に、横に切れる廊下が見えた。次手に其處を曲つて見たら、龍の髭や擬寶珠(ぎぼしゆ)に圍まれた、小さい池が一つある。――その池へ亞鉛(とたん)の懸け樋(ひ)から、たらたら水の落ちてゐるのが、名高い呉中第一泉だつた。池のまはりには白雲泉とか、魚樂とか、いろいろの名を彫りつけた上に、御丁寧にもペンキか何かさした、大小の碑が並んでゐる。あれは呉中第一泉にしては、餘り水が汚いから、唯の泥池と間違はれないやうに、廣告をしたのに違ひない。

 しかしその池の前の、見山閣とか號するものは、支那の燈籠がぶら下つてゐたり、新しい絹の布團があつたり、半日位寢ころんでゐるには、誂へ向きらしい所だつた。おまけに窓に倚つて見れば、山藤(やまふじ)の靡いた崖の腹に、ずつと竹が群つてゐる。その又遙か山の下に、池の水が光つてゐるのは、乾隆帝が命名した、高義園の林泉であらう。更に上を覗いて見ると、今登つた山頂の一部が、かすかな霧を破つてゐる。私は窓によりかかりながら、私自身南畫か何かの點景人物になつたやうに、ちよいと悠然たる態度を粧つて見た。

 「天平(てんぺい)地平、人心不平、人身平平、天下泰平」

 「何です、それは?」

 「さつきの壁に書いてあつた、排日の落書きの一つですがね。中中口調が好いぢやありませんか? 天平地平、人心不平、………」

 天平山一見をすませた後(のち)、我我は又驢馬に乘りながら、靈巖山塞靈巖寺へ志した。靈巖山は傳説にもせよ、西施彈琴の岩もあれば、范蠡(はんれい)の幽閉された石室もある。西施や范蠡は幼少の時に、呉越軍談を愛讀した以來、未に私の贔屓役者だから、是非さう云ふ古蹟は見て置きたい。――と云ふ心もちも勿論あつたが、實は社命を帶びてゐる以上、いざ紀行を書かされるとなると、英雄や美人に縁のある所は、一つでも餘計に見て置いた方が、萬事に好都合ぢやないかと云ふ、さもしい算段もあつたのである。この算段は上海から、江南一帶につき纏つた上、洞庭湖を渡つても離れなかつた。さもなければ私の旅行は、もつと支那人の生活に觸れた、漢詩や南畫の臭味(しうみ)のない、小説家向きのものになつたのである。が、今は便便(べんべん)と道草なぞを食つてゐる場合ぢやない。――兎に角靈巖山へ志した。處が十町と來ない内に、何時か道が無くなつてしまつた。あたりには草の深い濕地に、背の低い雜木が茂つてゐる。可笑しいなと思つてゐると、驢馬を曳いて來た二人の子供も、其處に足を止めたぎり、何か不安さうに饒舌(しやべ)り出した。

 「路が分らないのですか?」

 私は島津氏に聲をかけた。島津氏は私の鼻のさきに、痩せた驢馬を乘り据ゑた儘、大澤に陷つた項羽のやうに、あたりの景色を見廻して、ゐる。

 「分らないのださうです。――おお、あすこに百姓がゐる。おい、モンモンケ!」

 但しこのモンモンケなる言葉は、驢馬曳きの子供に發せられたのである。既に百姓がゐると云ふ以上、これはきつとその百姓に、路を問へと云ふ事に違ひない。私の推察にして誤らなければ、モンは問答の問である。――私はさう思つたから、私について來た驢馬曳きにも、早速同樣の命令を下した。

 「モンモンケ! モンモンケ!」

 モノモンケは祕密の呪文のやうに、忽(たちまち)路をわからせてくれた。驢馬曳きの復命した所によれば、右にまつ直に行きさへすれば、靈巖山の麓へ出るさうである。我我は早速教へられた方へ、驢馬の頭を向け直した。が、又一二町行つたと思ふと、本街道へ來るどころか、寂しい谷合ひへはひつてしまつた。磊磊横はつた石の間には細い松ばかり生え伸びてゐる。おまけに水でも出た跡か、その松の根こぎになつたのも見えれば、山腹の土の崩れてゐるのも見える。更に一層困つた事には、少時(しばらく)谷に沿うて登つて行つたら、とうとう驢馬が動かなくなつた。

 「弱つたな。」

 私は山を見上げながら、ため息をつかずにはゐられなかつた。

 「何、かう云ふ事も面白いです。あの山がきつと靈巖山ですから、――さうです、兎に角あの山へ登つて見ませう。」

 島津氏は私を勵ますやうに、わざとしか思はれない快活さを見せた。

 「驢馬はどうするのです?」

 「驢馬は此處に待たして置けばよろしい。」

 島津氏は驢馬を飛び下りると、一人の子供と二頭の驢馬とを松の中に殘した儘、猛然と山腹へ登り出した。勿論、登り出したと云つても、路なぞがついてゐる訣ぢやない、野薔薇や笹を押し分けながら、ひた押しに斜面を押し上るのである。私はもう一人の驢馬曳きと一しょに、負けずに島津氏の跡を追つた。が、病後の事だから、かうなるとさすがに息が切れる。その上十間ばかり登る内にぽつりと冷たい物が顏に落ちた。と思ふと一山の木木が、さあつとかすかに戰(そよ)ぎ始める。雨――私は靴を、辷(すべ)らせないやうに、細い松の木につかまりながら、足もとの谷を見下した。谷の底には驢馬や子供が小さく雨に濡らされてゐる。

[やぶちゃん注:ここまで注釈を附けてきて、私ははたと気がついた。これはツルゲーネフ「猟人日記」を確信犯的にインスパイアしたものではなかろうか?(リンク先は私のHP「心朽窩 新館」、イワン・ツルゲーネフ作中山省三郎訳「獵人日記」を公開中) 勿論、これらの体験は芥川の実際のものであることに疑いはない。しかし、そこに現れる自然描写・案内人島津と驢馬曳きの子供・主人公芥川の心内描写の一切、その悉くが、私にはツルゲーネフの「猟人日記」の様々な複数のシークエンスと二重写しになって見えるのである。いや、島津四十起の姿はあの下男のエルモライの風貌となって私の映像の中に立ち現れてくると言ってもよい。そして――雨、風、濡れた梢、その葉、草原、湿めった気――道に迷った主人公そして谷の底の驢馬や子供――そこはあのベージン草原――ビェージンの草原に見紛うばかりではないか!

・「萬笏朝天」神田由美子氏の岩波版新全集注解に、天平山西側の中腹にある『卓筆峰の背後にそびえる環状に多くの笏が天にむかっているように見える岩』塊とある。「笏」は官吏が正装した際、帶の間に差し挟んだ板で、重要な事柄をメモする備忘録に用いた。「朝」は動詞で、拝する、の意。

・「龍の髭」ユリ目ユリ科ジャノヒゲOphiopogon japonicus。別名リュウノヒゲとも言う常緑多年草。開花は夏7月であるから、ここではあの淡い紫の花は咲いていない。

・「擬寶珠」ユリ目ユリ科ギボウシ属Hostaの総称。多年草、山間の湿地等に自生。白又は青色の花の開花はやはり夏であるから、これも咲いてはいない。筑摩全集類聚版脚注ではこれを、橋の欄干などに使う擬宝珠と解しているが、確かに人造の「擬宝珠」は池塘に配して不自然ではないが、植物のリュウノヒゲと人工物を並列にするというような無粋なことを、芥川がするだろうか? 私にはとても採れない解釈である。

・「呉中第一泉」天平山の東側中腹の雲泉精舎にある泉。盛唐から中唐にかけて生きた作家で、「茶経」を著し、茶聖と呼ばれる陸羽(733804)が、この白雲泉を呉中第一泉と認定したと伝えられる。

・「白雲泉」中唐の白居易(772846)の命名による。

・「魚樂」これは「荘子」第十七「秋水」篇にある荘子と恵子の詭弁のエピソード「知魚楽」に基づくものであろう。教え子諸君は私がオリジナル・プリントでやったのを思い出して欲しい。

・「見山閣」雲泉精舎の建物の一部か。

・「乾隆帝」清第6代皇帝高宗(17111799)。

・「高義園の林泉」天平山の麓にある林泉式庭園。林泉式とは泉水・築山・曲水・樹林など自然の景観を真似て造られた庭園を言う。

・『「天平地平、人心不平、人身平平、天下泰平」』日本語は勿論小気味よいのだが、これを拼音(ピンイン)で示すと

tiānpíngdìpíng, rénxīnbùpíng, rénshēnpíngpíng, tiānxiàtàipíng

(ティエンピンティピン、レンシンプピン、レンシェンピンピン、ティエンシィアタイピン)

若しくは

tiānpíngdìpíng, rénxīnbùpíng, rénshēnpiánpián, tiānxiàtàipíng

(ティエンピンティピン、レンシンプピン、レンシェンピェンピェン、ティエンシィアタイピン)

となってより美事である。因みに、後者は「平平」の部分の意味を「安らか」の意でなく、「整い治まる」として用いた際の読みを試みたものである。

・「靈巖寺」現在は「霊岩寺」と表記する。霊厳山の山頂にある(地図上では山頂表示の南東のかなり離れた位置に寺が示されている)中国浄土宗の名刹。元は呉王夫差(?~B.C.473)が西施(生没年不詳)の住居として設けた館娃宮(かんあいきゅう:「娃」は美人)であった。後、東晋時代に寺院となり、その後も興廃を繰り返した。現存の建物は1911年から1932年にかけて再建されている。なお、ここは空海が長安への道中、立ち寄った所縁の地でもある。

・「范蠡」(生没年不詳)は春秋時代の越の政治家・軍人。呉王夫差と対抗した越王勾践(?~B.C.465)に仕えた名臣。但し、彼が「幽閉された石室」が、彼の策謀で差し出された西施の居所にあるというのは、私には解せない。識者の御教授を乞う。

・「呉越軍談」書名。元禄161703)年に清地以立(きよちいりつ 16631729)が明代に成立した歴史小説「春秋列国志伝」を翻案した「通俗列国志呉越軍談」のこと。

・「十町」1町は約109mであるから、約1㎞強。

・「モンモンケ」を諸注は「問問咯」とし、江蘇方言で「お尋ねします」の意とする。因みに現代中国語の拼音(ピンイン)で示すと“wènwènlo”(ウェンウェンロ)であろう。岩波の倉石武四郎著「中国語辞典」に依るならば、この場合の「咯」“lo”は、現代中国語の文末の完了の助詞「了」“le”等を投げやりに発音した時に、「言うまでもなくそうだ!」という語気を示す、とある。しかしだとすれば、「お尋ねします」という丁寧語訳は少々おかしい。「訊ねん!」「教えてくんな!」「教えてくれ!」でよいのではないか? 江蘇方言にお詳しい方の御教授を乞う。

・「病後の事だから」芥川龍之介「上海游記」の「五 病院」参照。退院から未だ17日後のことである。]

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