なあ君
魯迅が言ったように僕たちは「偉大なる凡人」であることの難しさを自覚することから始めるべきではないか? 無名者としての凡人――民衆の中へ赴くこと――それが僕たちの魂が真に正しい安穏に向う、唯一の道では、あるまいか?……
もともとこの世に道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ――
(魯迅「故郷」掉尾)
« 2009年7月 | トップページ | 2009年9月 »
魯迅が言ったように僕たちは「偉大なる凡人」であることの難しさを自覚することから始めるべきではないか? 無名者としての凡人――民衆の中へ赴くこと――それが僕たちの魂が真に正しい安穏に向う、唯一の道では、あるまいか?……
もともとこの世に道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ――
(魯迅「故郷」掉尾)
夏の終わりに。あなたに送る。
芥川龍之介『支那游記』参考資料として、「芥川龍之介中国旅行関連書簡群(全53通) 附やぶちゃん注釈」を正字正仮名で「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」に公開した。
先週、僕の左手を労わって優しい言葉をかけてくれた二人の女子生徒に心から感謝します 一人の子はあの4年前の女子生徒と同じように「私は字を書くのが遅いですが先生の代わりに板書をしましょうか」と言ってくれた 涙が出そうになりました
990 六月二十七日
日本京都市下加茂松原中の町 恒藤恭樣
東單牌樓 我鬼 (年月推定)(繪葉書)
北京の新人たちは河上さんが二三ヶ月北京へ來てくれると好いと云つてゐる、來てくれゝばラッセン以上の持て方をするのは事實だ來ないかね、僕はまだ少時北京にゐる 芝居、建築、繪畫、書物、藝者、料理、すべて北京が好い 以上
二十七日
[やぶちゃん注:底本にはなく、岩波版新全集第十九巻書簡Ⅲに所載するもの。
・「新人」芥川が実際に会見した五四運動以降の改革運動の旗手であった青年達。芥川龍之介が「上海游記」の「十八 李人傑」等で言うところの『「若き支那」』である。ここで芥川は「少年中国学会」を意識して『「若き支那」』と括弧書きしていると思われる。「少年中国学会」は1918年6月30日に主に日本留学生によって企図された(正式成立は連動した五四運動直後の1919年7月1日)、軍閥の専制や日本帝国主義の侵略に反対することを目的として結成された学生組織の名称。当然のことながら、有意に共産主義を志向する学生が占めていた(但し、李人傑は少年中国学会の会員ではない)。芥川は新生中国の胎動の中にある青年の理想=共産主義の機運を包括的にこのように呼んでいると考えてよい。
・「河上さん」当時、京都帝国大学教授であった経済学者河上肇(明治12(1879)~昭和21(1946)年1月30日)。マルクス経済学の研究として知られ、昭和3(1928)年には教授職を辞し、昭和8(1933)年日本共産党党員となって地下活動に入り、治安維持法違反で検挙され、昭和12(1937)年まで獄中生活を送った。カール・マルクス『資本論』の翻訳(第一巻の一部分の翻訳のみ)やコミンテルン32年テーゼの翻訳の他、名文家でもあり、『貧乏物語』や『自叙伝』(死後刊行)等が知られる。
・「ラッセン」イギリスの論理学者・数学者・哲学者Bertrand Arthur William Russellバートランド・アーサー・ウィリアム・ラッセル(1872~1970)のこと。以下、主に驚異的な詳細さを持った『松下彰良(編)「バートランド・ラッセル年譜」』を参照にしながら、彼の事蹟と私が発見した驚くべき芥川との偶然の物理的接近の事実を見てみよう。第一次世界大戦中、彼は平和主義者として徹底した非戦論を主張し、1916年にケンブリッジ大学の論理学・数理哲学教授職を追われ、1918年には5ヶ月間に渡って投獄されてもいる。第一次大戦後は社会主義のシンパとなり、労働党に入党、1920年5月にはイギリス労働党代表団に参加してソヴィエト連邦を訪問、レーニンやトロツキイと会見した。同年10月には中国を訪問、翌1921年7月まで北京大学客員教授の職にあった(10月末には芥川も訪れることとなる長沙で「ボルシェビーキと世界政治」という演題で講演している)。即ち、ここで書簡に「ラッセン」が登場する意味が分かってくる。即ち芥川が北京に滞在中、ラッセルも北京にいたのである(ラッセルに逢ってはいないであろうが、芥川はラッセルが客員教授をしていた北京大学を訪問していた可能性が極めて高い。芥川龍之介談「新藝術家の眼に映じた支那の印象」参照)。更に芥川が北京を汽車で発った7月12日であるが、まさにその日に、何とラッセルは一足先に、まさに天津から日本への船に乗ったのであった! ラッセルは7月17日に神戸に到着した後、7月18日には大阪ホテルで大阪毎日新聞副主幹と午餐を摂っている(芥川龍之介は毎日新聞社社員であり、また奇しくもこの頃、まさに大阪毎日新聞社に芥川は帰国の報告をしに立ち寄っていたと思われるのである!)。その後、ラッセルは奈良を周遊、7月21日には京都帝国大学の荒木総長と会見、その日の午後5時からは改造社主催の都ホテルでの歓迎会に出席している。ここにはまさに京都大学教授その他の学者二十数名が出席している(恒藤は当時は同志社大法学部教授)。京都見学後、7月24日夜に横浜着。7月25日夕刻、入京し、同夜には改造社の山本社長の案内で帝劇を見物している(『改造』はまさに芥川御用達の雑誌である)。翌7月26日午前11時より宿泊していた帝国ホテルに於いて日本の著名な思想家達と会見している(大杉栄・堺利彦・阿部次郎・和辻哲郎・与謝野晶子、福田徳三他多数。帝国ホテルは芥川の定宿の一つ)。7月27日には都下新聞記者20名と共同記者会見を行い、午後は上野及び日本橋丸善を散策している(この時、上野公園のラッセルと田端の芥川の物理的距離は最も短かった)。7月28日夜、小泉信三らの尽力により慶応大学大講堂にて講演、7月29日横浜泊、7月30日午後の船便でバンクーバーへ向けて日本を離れている。――ただの偶然ではある。しかし不思議なものを感じる。因みにラッセルが芥川龍之介に物理的異常接近をしていたこの時、芥川はどうしていたのか? 彼は旅行後の体調不良に悩まされていた。特に胃腸の衰弱著しく、一ヶ月以上、寝たり起きたりの生活が続く。この不思議な7月下旬の漸近線的芥川-ラッセル接近現象は、芥川の下痢により遂に接することはなかったのであった――。私はこれを勝手に“Akutagawa- Russell Close Encounter of the Second kind”(芥川-ラセッル第二種接近遭遇)と呼称することとする。――]
*
――最後に言っとくが――せせら笑うな! 僕はラッセルを師としたヴィトゲンシュタインが、お前らより、好きなんだ!――
ということが分かった今日この頃である――
やっと芥川龍之介が北京に到着した。全53通(新全集の新資料により3通を追加した)の内、残すところ注釈十通余り。
当たり前のことながら、差出人と受取人が分かれば済むために、第三者である我々が読むと、そこら中で躓くこととなる。どうも作家や思想家の書簡を読むというのは、多分に窃視的で私は好まないのだが、それ以上に読解し難いという事実を再認識した。今暫く、御猶予あれ。
冠省原稿用紙で失禮します詩二篇拜見しましたあなたの藝術的心境はよくわかります或はあなたと合つただけではわからぬもの迄わかつたかも知れませんあなたの捉へ得たものをはなさずに、そのまゝずんずんお進みなさい(但しわたしは詩人ぢやありません。又詩のわからぬ人間たることを公言してゐるものであります。ですからわたしの言を信用しろとは云ひません信用するしないはあなたの自由です)あなたの詩は殊に街角はあなたの捉へ得たものの或確實さを示してゐるかと思ひますその爲にわたしは安心してあなたと藝術の話の出来る氣がしましたつまり詩をお送りになつたことはあなたの爲よりもわたしの爲に非常に都合がよかつたのです實はあなたの外にもう一人、室生君の所へ來る人がこの間わたしを訪問しましたしかしわたしはその人の爲に何もして上げられぬ事を發見しただけでしたあなたのその人と選を異にしてゐたのはわたしの爲に愉快ですあなたの爲にも愉快であれば更に結構だと思ひます以上とりあへず御返事までにしたためましたしかしわたしへ手紙をよこせば必ず返事をよこすものと思つちやいけません寧ろ大抵よこさぬものと思つて下さいわたしは自ら呆れるほど筆無精に生れついてゐるのですからどうか今後返事を出さぬことがあつても怒らないやうにして下さい
十月十八日 芥川龍之介
堀辰雄樣
二伸なほわたしの書架にある本で讀みたい本があれば御使なさいその外遠慮しちやいけません又わたしに遠慮を要求してもいけません
*
これは岩波版旧全集書簡番号一一四三の大正12(1923)年10月18日附堀辰雄宛田端発信の芥川龍之介が初めて堀辰雄に送ったと思われる書簡である(同書を底本とした)。第一高等学校理科乙類独語の学生であった堀は、同年5月に出身であった東京府立第3中学校(現・両国高等学校)校長広瀬雄に伴われて田端の室生犀星を初めて訪れて親しくなった。関東大震災を挟んだ同年10月上旬、震災後の東京に見切りをつけた室生が故郷金沢に引き上げる際、芥川に別れの挨拶に訪れたたが、その時、堀を同伴して芥川に紹介したのであった。本書簡はその直後の芥川龍之介堀辰雄宛書簡なのである。書簡中の「街角」とは、恐らく堀がその訪問の際に芥川に見てもらうために示した詩の一篇の題名であろうと思われるが、筑摩全集類聚版脚注によれば『堀辰雄全集になし。のちすてた草稿か。』とある。芥川をしてここまで言わしめた幻の堀辰雄19歳の詩「街角」――読んでみたいものではある……
……しかし僕の言いたいのは、もっと違うことだ……僕は今日、通勤の車内で、とある興味――書簡上に現れたる震災前後の芥川の心境変化という興味――から、芥川龍之介書簡をめくっていたのであったが、その中のこの一消息文を読んだ時、私は思わず「先生だ!」と呟いてしまったのであった。それは、この書簡を声に出して読んでみると分かることだ(僕は東海道線上りの車内でその誘惑を断ち難く、遂に横浜駅に入構する直前、小声で全文を朗読していた。傍にいたОLが如何にも怪訝そうな顔をして見ているのも「え憚らず」である)――そう――この書簡は最初から最後まで――その言葉遣いといい思想といい命令といい禁止といい――「こゝろ」の「先生」が書いたような手紙、いや「先生」が書きながら漱石が反故にした「こゝろ」の「上」の中に投げ込んでも全く違和感がない「先生からの手紙そのもの」ではないか!――そうして――そうして僕は――僕がこうした「先生」に出逢うすべが最早永遠になく、またこうした手紙を出すべき一人の「私」の「先生」にさえもなり得なかった僕自身のことを僅かに残念に思ったのであった――
【廣島鎭守府發】8月26日19時5分 北緯24度5分東經141度2分附近ヨリ人間トハ異ナレル生命體ト思シキ對象ヨリ電文ヲ受信セリ 以下ニ譯ス 猶同電文末ハ「ト連送」也――
タモガミトシヲ ツギハ カナラヅ キサマヲ フミツケテ ブツツブス トトトトトトトトトトトトトトトトトトトト……
*
――広島原爆式典の慰霊祭は左翼運動――参列者は被爆者も被爆者の2世もほとんどいない――並んでいるのは全国からバスで集まってきた左翼ばかりだ――(宮崎1区立候補者無所属中山成彬田母神俊雄8月25日街頭応援演説より)
*
日教祖如き小者は吝嗇臭し潰さば本懷日本國
*
秋涼や田の神亂心稻不稔
――F・I・
○今日の夕方。流行らぬ居酒屋「しんきう屋」の暗い店内。御にび長屋の住人熊五郎と八五郎が卓をはさんで坐っている。八五郎の前には欠けた銚子と盃、沢庵の載った御手皿。
熊五郎
「やい、八公! てめえ、そんなけち臭え銚子一本沢庵ふた切れの駄賃でよ、朝っぱらから、駅でマニフェストなんてえもんを配りやがって、どうも気入らねえぜ! こちとら敷島の大和心としちゃあよ、毛唐のゲジゲジみたような舶来のヘンな言い方をするなってえんだ! 俺たちに分かる言葉で言えってえんだよ! 第一に庶民の暮らし、だあ? だったら、わけの分からねえ「マニフェスト」なんてえ言葉は使はぬがいい!」
八五郎(沢庵を抓んで盃の酒をぐびりと飲み、卓にこぼれた雫をめめしくすすりあげる)
「だけどよ、熊さんよ、「マニフェスト」ってえのは、ほんじゃま、ワシらの言葉で何て言うんでえ?」
熊五郎
「そりゃおめえ……(ちょっと考えて)……「公約」よ!……新聞紙にも「マニフェスト(選挙公約)」と書いてあるわい!」
八五郎
「本当に、そうかい?」
熊五郎
「あたぼうよ!」
(と言ったかと思うと、八五郎のお銚子を奪って一気に口のみしてしまう。
八五郎
「てめえ!!!」
(と、卓越しにつかみ合いになる――と、そこに御にび長屋の御隠居藪庵登場。割って入る)
藪庵
「まあまあ、何をそう喧嘩するか。おい、大将、二人に酒じゃ、ワシにもな……何?……ふんふん……そうか、「マニフェスト」かい……」
熊五郎
「ご隠居! だって、ほれ! そう、書いてあるぜ!」
(と弁当を包でいた新聞紙を卓へたたき出す。梅干の種が転がり出る)
八五郎
「いえね、ご隠居、あっしも別に違うって言ってるんじゃねえんで……だったら、何で、どこの党もそう言わねえのかが、分からねだけなんで……「自民党公約」「公明党公約」ってね……」
藪庵
「そうじゃな……しかし、どうじゃ、「公約」というものは、今まで守られたことはあったかの?……ワシも永く生きて来たが……お化けと……当選した政治家で、言ったが総ての「公約」を一つ残らず守って実行したという当たり前のことをした者には……逢うたことがない……「公約」とは破られるもんじゃ……人々はそれが痛いほど身に沁みておる……さすれば、我らにとって「公約」という言葉は、不快な印象じゃ……どうせ破られる約束という響きを持ったな……それは流石に馬鹿な政治家でも分かっておるというわけじゃ……」
熊五郎・八五郎(声を合わせて)
「な~るほど!」
藪庵
「実はな……ワシも不思議に思うてな……今朝、エゲレス語の字引を繰ってみたのじゃ……すると、どうじゃ!……マニフェストには「公約」や「選挙公約」という意味は……ない……」
熊五郎・八五郎(声を合わせて)
「エエッ!」
藪庵(研究社「リーダーズ」を懐より出し、おもむろに開く)
「これを見てごらん……(指で示す)「manifest」……これをマニフェストと読むんじゃが……」
熊五郎
「八! 見てみい! この毛虫がのたくったような面(つら)を! てめえの眉毛と同なじじゃ!」
八五郎
「何じゃあとぉ!? さっきの酒、返せ!」
熊五郎
「ど頭(たま)の上に反吐で返してやらぁ!」
(と吐き真似をするのを)
藪庵(制して)
「(「ウルトラQ」の一ノ谷博士の口調で)まあ言い争いはそれ位にして!……ほれ……最初は形容詞、次が動詞じゃから関係ないが……「一目瞭然の」……「明らかにする・ 明示する・証明する」……「感情などを表わす」か……ホホ、洒落じゃのう、ムキダシじゃがの奴らは……「幽霊が現われる」……どこの党もお化けみたようなもんじゃわい……いやいや、藪庵得意の脱線、脱線……名詞じゃな……ほれ、ここじゃ、ここじゃ……「積荷目録」「乗客名簿」「急行貨物列車」……」
(藪庵、にんまりして黙る)
八五郎
「……「民主党目録」「自民党名簿」「公明党急行列車」……!?」
熊五郎(卓を拳でたたく)
「人を馬鹿にしていやがる!」
八五郎
「……でも先生、その下にまだ何かありますぜ?」
藪庵(ぱんと膝を打って)
「八っつあん、鋭いね!……「《まれ》 →MANIFESTATION,→MANIFESTO.」……これは、この矢印の言葉の意味でごくごく稀に使われるという意味じゃ……そこを一応、見てみようかの……「manifestation」……「表明」「政見発表」「示威行為」「デモ」……「感情・信念・真実などの明示」……ホホ、またぞろ出たな、平成の妖怪め……心霊学用語では「霊魂の顕現」じゃぞ!……」
八五郎
「ご隠居、そんじゃ、有象無象の党の「表明」やら「政見発表」やらで、とり合えず、意味は通りますゼ?」
藪庵
「そこじゃ……しかし、この「まれ」じゃな……今朝、ワシは気になって同僚のエゲレス語の先生に訊いてみたんじゃ……「アメーリカでは共和党マニフェスト、民主党マニフェストとか言うのか?」とな……しかし、そうは言わんでしょうという答えじゃった……ということはじゃ……英語では政党の選挙公約や政党方針をこうは言わん……「○○党マニフェスト」とは英語じゃあないということじゃ……とワシは思うのじゃ……」
熊五郎・八五郎(声を合わせて)
「エエッ!!」
熊五郎(拳を振り上げて、藪庵の目の前に突き上げてすごむ)
「ご隠居! あんまり、人を馬鹿にすると、先生でも容赦しませんゼェ?!」
藪庵(にっこりと微笑むと熊五郎の拳を両手で包み)
「熊さん、まだ先があるんじゃ……(と、再び字引を示す)……「まれ」にもう一つ残っておろうが……「→MANIFESTO.」じゃ……ほれ、ここじゃ……「manifesto」……「政党などの宣言書・声明書」……」
熊五郎(酒に酔って、紅い鼻に皺を寄せてだらしなく笑って)
「何でェ、デヘヘ、ご隠居もお人が悪りぃや。これで一件落着、ぴったしかんかん、でげしょう!」
八五郎(酒に酔って、ろれつの回らない状態で)
「へエ……でへもごひんきょ……それじゃ……なんでへ「みんじゆたうせんげん」「しみんとうせんげん」「かうめいだうせんげ」とか……いはんのでしゅか?」
藪庵(笑いながら)
「ご貧居とは何ですか! 貧居とは! 確かに長屋は貧居じゃが……いい加減、八っつあんも酔ったのう!……「民呪党」に「嗜眠党」に「高名党遷化」と聴こえましたが……天誅が下されますぞ……近頃は物騒じゃでな……うむ……今一度、見てごらん……」
(と、字引を指差す。)
熊五郎
「ありゃ? ご隠居、何かカカアが子を孕んだような印がありますゼ?」
藪庵
「不謹慎なもの言いじゃのう……しかし、まあ、今度はよく気づいたな、熊さん……これはな、「P」という字じゃ……これは説明は省くが、もう一つのもっと詳しい辞書を見ろ、という意味じゃな……そっちを引いてみよう(ふところから研究社「リーダーズ・プラス」を出して引く)……ほれ、これじゃ!……「manifesto」……同じ字ではあるが……これは実は……えげれすの言葉ではないんじゃ……」
熊五郎
「どこの蛮字で?」
藪庵
「伊太利亜ちゅう国の言葉じゃ……読んでもわからんじゃろが、こう書いてある……「マニフェスト」……「イタリアの政治運動。1969年、イタリア共産党の代表者による同名の月刊紙の創刊 (のちに日刊) に始まる。のちに PDUP (プロレタリア統一党) と合流」……」
熊五郎(ろれつが回らなくなっている)
「……ごいんこう……今の……きょうさんどうとかなんとぅか……それ……アブネいって大家がいってたきがするう……」
藪庵
「ご淫行とは何じゃ! 共産党と共産同を取り違えてどうするか! 共産同はブントというてな、ワシも若い頃には憧れたもんじゃったなあ、共産主義者同盟言うて安保闘争(藪庵も酒に酔い眼が遠い過去を見ている感じになって一人で喋りだす)……いやいや、これも言うても分かるまいの……話しを戻せばじゃ……この「マニフェスト」という語は、このイタリア語で見て分かる通り、いわゆる熊さんの言うアブナい「左」ちゅうもんと密接に結びついた言葉なんじゃな……その左の邪教の経典の名前はエゲレス語では何と“the Communist Manifesto”と言うんじゃ!……マルクス=エンゲルスの「共産党宣言」じゃ!……そこじゃ!……何でこの秋津島の政党は「自民党宣言」「民主党宣言」「公明党宣言」と言わんのか?……それはの……この奴らにとっては『悪魔の書』に他ならない「共産党宣言」……たかが「共産党宣言」されど「共産党宣言」だからなんじゃ!……アカでない自民や民主や公明は「共産党宣言」を連想する「宣言」という語尾は絶対に不快なんじゃ!……いいや! 逆に言えば「共産党宣言」というバイブルが超有名過ぎて、「社民党宣言」や「みんなの党宣言」じゃあ、如何にも幼稚園の学芸会の更に二番を煎じたようなもんじゃ!……要はカッコ、悪いんじゃよ!……ほれ、こうして並べてみ(と言いつつ、新聞の端に今回の衆議院選挙の党名を書き並べてすべてに「宣言」と記す。共産党は敢えて書かない)……どうじゃあ、如何にもクサいじゃろ?……いやいや、党名からして虫唾が走るほどクサいものばかりじゃがの……「共産党」は……「共産党宣言」は流石にマズかろうが……キリスト教徒はヤハウェの名を口にしてはいかんのと同じじゃ……オヤ?」
(熊五郎・八五郎、藪庵の前で額を突き合せたまま、二人とも涎れを垂らしてひん眠っている。間に熊五郎の持っている箸が挟まって向うに突き出ている)
藪庵
「うむ……(黒澤明の「赤ひげ」の笠智衆そっくりに)これでよい、これでよい……民自党でも仰山党でも酷民侵党でも剛腹実権党でも何でも来い!……ワシはごじらじゃ!……何もかも踏み潰す、ごじらじゃ!……」
(とわけの分からないことを口走ったかと思うと、藪庵もコツンと熊五郎と八五郎に鉢を合わせて眠ってしまう)
――F・O・
テロップ「日本奇特狂党宣言」
(演出メモ:最後は日本奇特狂党の三位一体の象徴であることを示すために彼等三人の上部から撮影、F・O・に従ってシンボルとして十字架になるような演出が望まれる。)
*
これはフィクションです。実在の人物・団体とは一切関係ありません。誹謗中傷であると思われる人物・団体の方、それは致命的な神経症です。何故なら僕は誹謗中傷するほどあなた方を真理に近い、真理に達せんとする人々であるとは全く認識していないからです。僕に愛してほしい又は僕に理解してほしいとお思いの方は、まず「ほしい」と感じているあなたが先に僕を愛し理解しようとしなさい。そうしたら僕はあなたやあなたの団体のおぞましき「広告塔」になることも辞さないでしょう。そうして言いましょう。それでも――今も僕はあなたを愛しています、確かに――と。
一匹のチタンの蝶が僕の懐郷を渡つてゆく
夏の終はりの軍艦茉莉
*
前掲尾形亀之助「詩集 軍艦茉莉」を以って尾形亀之助の全評論をブログ公開終了した。
一番最初はカテゴリ「尾形亀之助」の「宮沢賢治第六十回誕生祝賀会(第二夜)」――2008年11月29日であったから、私としては思ったよりは早かった。近日「尾形亀之助拾遺」として全篇を公開する。
*
今日から授業が始まる。果たして右腕が板書に耐えられるか、少しばかり不安である――
詩集の批評をするといふことは多くの場合誠に野暮なことだ。又、――面白いことには、その著作物の所謂価値といふものが全くそれらの批評の外にあることが多いのだから、時には腹の立つこともあるし、お可笑しくなることもあるし、なんでもないこともあるし、あきれてしまふこともあるし、なるほどと思ふこともあるし、読まされただけ損であつたといふこともあることになる。勿論かうしたことは、その筆者の無力と否とに重大な関係があるのだが、この場合に際して、私が無力であるなどと最初から自ら言ふべきではない。だが、ごたぶんにもれずこの一文はその出来のよしあしにかかはらず、殊更に野暮であることは私がそれと知り安西自身も亦さう思ふことであらう。時に漫評ともならう。
詩集軍艦茉莉には北川が序を書いている。北川の詩集戦争の中には沢山のあの有名なグロツスの絵の焼き直しの如きものを散見するが、安西の作品の短いもの(詩集の中にはあまりない)にはパールクレーの絵に似たものが相当あつたやうに記覚する。私の作品を童心云々と罵つた北川への返礼と解されるもよしなきことではあるが、前者は全く下手なものまねに終つてゐるが後者はそれが一個の詩境として立派によい作品をわれわれに見せてゐる。又、最近は幾分その影をうすくしたが、ここ二三年安西のものにまねた詩がずゐぶん沢山あつた。が、それらの多くは初心者であつたことは注意すべき一つの現象ではあつた。安西は、それらの人々に依つて発行される雑誌へまで望まれるままに稿を寄せて、よく忍んで見事にぬけきつた。彼のものはわからないといふのであまり人々の注意を引かなかつたが、最近に到つて「安西」と言へば「よい詩」を書く人といふことになつてしまつてゐることは慶賀すべきことであるばかりでなく、かく一般にまで詩といふものの一歩の進みをもたらせた人として敬意を表すべきである。即ち未来派の初期の作品そのままの張り紙細工の如きシネ・ポエムなどといふものと、彼の作品を同一視してはならぬ所似である。
又、「ランプを持つた彼の写真」の如き、十四五年以前の流行であつた「古風」を遠慮なく詩集に張りつけてゐるところに彼の一面がある。彼の新しさは、ノート・ブツクの新しい頁といふ感じのものではなく、彼の作品は書きふるしたノート・ブツクの余白に何か書きこんでゐるといふ感じのものであつて、ペン先を新しいのと取かへて旧いのを灰皿へでも捨てたときに、安西自身にのみわかる新しさがあるだけであるから決してそれは一般的ではない。即ち、一般が彼を新進詩人などと称ぶべきではない。人そのものは間違ひもなく新しい人ではあるが、ペン先は新しいが紙が古い。この点彼と私は少し似てゐるらしい。安西と私は年に四五度の音信をする。時に彼は私を「蔵六」君などと称ぶ。
私は残念なことに軍艦茉莉を細評するだけの頁をもたない。困つたことだと思つてゐると、今朝、はからずも新聞広告の中から「△病新薬」といふ一文を見つけ出した。それをそのままに一部を転載して僅かにその字句を置きかへて読んでもらへば、詩集軍艦茉莉を推奨する名文となつてしまふので、敢て拙文を草せぬことにした。
※
詩集 軍艦茉莉 ヲガタカメノスケ
「国際的××として果然問題となれる××××」専売特許・××博士推奨(××のところは右のルビの如く調子を合せて読んでいただく)
最近長足の進歩を遂げた世界の×学界に万丈の気を吐いてゐるわが日本の新興×学は、今度更に驚異すべき××を完成して国内は勿論のこと欧米先進国をも瞠目せしめた。云云。――今や国をあげての大センセイシヨンを捲起さんとしてゐる××は直ちに日本政府の専売特許となり斯界に発表された。云云。××者は勿論、大家博士も驚嘆の声を放たざるはない。云云。敢て一九三〇年の貴重なる収穫として云云々々。
――現在世間に発×されてゐる××は千にも近い数であるさうであるが、大別すると和×と洋×の二種であつて、和×は殆んど問題にはならぬが、洋×のなかでは所謂××××が大多数でイロイロと自画自讃の限りを尽してゐるが、原料は問屋で調べるとすぐ分るが、どれもこれも皆似たり寄つたりで達ふのは名前だけである。
――云云。云云驚嘆せざるはなく、殊にその先人未踏の境地として今や全く国際的大センセイシヨンを捲起しつつあるのである。かく云へば誇大な宣伝に慣れたる読者は云云々々。云云々々。××××は完成後直ちに日本政府の専売特許を下附せられ、斯界の大家博士によつて云云々々。別頃の如き記載の推奨云云、単に名前だけを並べた推奨とか創×とはその根本に於て相違するのであるから、云云々々、御注意あれ。諸君!
※
以上。で、これ以上にすばらしい推奨の文はないといふことにする。とまれ本集の評は甚だ困難なことである。色々と品を換へ言葉をかへてまするところよろしく御高覧の程を――。(ここで楽隊)
1
「軍艦茉莉」これが巻頭にあるのは、安西がこれを大変よい出来であると思つたからではあるまい。(私は艦長で大尉であつた)は、あそこに船が錨を入れてゐるといふやうな遠見の眼の中の風景から辣し去つて、それを読者の後頭部へもつて来てゐる上手な手法。見張の犬や妹やノルマンデイ産の機関長はこの集の中にいくつも出てくる彼の「話」である。第四節はスクリンの暗転。安西はここでペンを置いていそいで小便へ立つたやうな気がする。
「閹人猧氏」A「ここで私の読めない字が四つある」B「だが、どうしてそれで君はこれを悪いと言へるんだ」
「暮春の書」「私」が肋家を訪ねると犬と山羊が悦んで巫山戯(いちび)つて庭の辛夷を傷めるので「そんなに巫山戯るなら私はもう来ないから、どんなに先生がこの辛夷を……」と訓へるあたり。窘められてグウとも言はない哀しげな犬と山羊を見て「分つたらもういいから」と彼等を追ひやるあたりは安西のもち味と言へやう。そして、先生のお嬢さんが出て来て小さな会話になつて、朝刊は先生の四月二十九日の消息云云と、安西は読者を彼の例の応接室へとみちびくのだ。
「庭」(桜の実)これは安西のもつ古めかしさ俳句の字句がそのままに列らんで固まつてゐる。次の「記念品」にくらべて、私は「記念品」の方を好く。
「戦後」の「侵略」も「役」も、読んでみて面白いとは思わない。例へば「役」であるが、たいへんあつけないといふので、これを暗示として何かがかくされてあるのだらうと思ふことは断然いけない。又、本を読む間ちよつと顔を上げたら窓の外を牛馬が通つてゐたといふのではないことは勿論だ。「困つた詩だ」と思へばよからう。足らなくはあるが間違つてはゐない。
「春」二篇は共に好ましい。
「日食」は何んと面白さうではないか。
「掩護陣地」(旧式)これは旧式活動写真旅順港総攻といふところ。スクリンいつぱいの煙、気がついてみると明るくなつてゐる白いスクリン。
「物」の「卵に毛あり。鶏は三足」は詩を書くにはあまり物を知り過ぎてゐるの感じ。「輪廻」亦同じ。
2
「徳一家のlesson」辞書を引つばりながらの批評は恥かしい。で、ここには私の読めない横文字が沢山とある。それが自由に読めたら、「祖母に魚を喫べさせて中(あた)らなかつたら一家が啖ふといふやうな、チエーホフ風の衛生は、もうどこへいつた?」などと、何んだかやたらに面白さうではないか。
「あの道」のメリーゴーラウンドは明治三十×年から毎日「マワツテタ」のが、最近すりへつて壊れてしまつた。米国へ修繕をたのんでももう直らないのだ、と安西から手紙。
「海」ここまで来ると、安西ただ一人。もうまねるわけにはいかぬ。私は、この詩篇が最もよく表現された場合の彼の作品として、双手をあげて推奨をおしまぬ。かうは書けるものではない。
「曇日と停車場」は前の「海」とくらべていくぶんの見劣りがする。少々安西が自身に甘いところを見せて呉れてゐます。
「理髪師」ここにも彼の一つのテクニツクとも見られる新しさと古めかしさがある。だが、それはしかたのない事実だ。だから、私は彼のよく使用するテクニツクと言ひ直すのだ。白の上の白を書き物にするだけ私達は見てはゐないのだ。
「Call」これなどはずゐぶんいいと私は思ふ。話しかけられて、うまく聞えないふりをしおほせた男。クソ奴!
「春」安西のポケットの「煙草の屑」でございます。
「自由亭」北川が本集の序で、安西がうつかり「思想」を嚥下した時手古摺つて彼が磨滅して、そしてその輝かしさが「稚拙感」となつて発する。と、言つてゐるが、私はさうは解さない。安西は思想と生活を離して考へられない男なのだ。学校の帽子の徽章のやうなものでしかないやうな流行思想をいやがつて帽子につけないのだ。そうしたうつりかはりのある時間的存在を、彼はむしろ古めいた俳境に似たものに彼自身をゆだねてゐるのだ。
(……鴨を注文して――現れる間、私はここの娘が明治二十何年かに、もう洋装をしてゐた噂をする。娘はもう故人になつてゐる。「つまりスウラ風の瘤の出たお臀、アレなんだ」)コレなんだ。
「普蘭店といふ駅で」等々は秋風のやうなもの。「室」「徳と法」は全く夕飯にはだいぶ間があるが、しかもご馳走といつては今日はこれといつて何もないのだが、飯の中の砂粒を夕飯に安西が嚙むのを知らずにゐるなんて――。と、いふところ。
3
「肋子」は安西の「馬鹿話(ワイダン)」。「うそ」と題して、ハガキは裸のやうな気がして、恥かしくてどうにも出せないといふ。――などとある。なんと――カナハナイ。
「肋大佐の朱色な晩餐会」これはどうでもいい。
「黄河の仕事」これはなかなかの大作。その中にふくむシヤレLolo族は巴里警視総監より優美である。とある。又、黄河は地球を削つてゐる。Catalyserを与へよミシシツピーと河底を共産させるために。とある。
「養狐会社の書記」二年ほど前であれば、尚のこと好いてゐたであらう。空気が透いて隣家の座敷の中が見えるのがどうも不思議でたまらないとばかりに。
「向日葵はもう黒い弾薬」秋をこんな風に語るところが安西。それにしても上手過ぎる。「散骨」亦前と同じ。読んでゐると、何んだか安西が死にかけてゐるのではないかといふ気さへする。
「百年」亦同じい。象牙の紙ナイフで、トウストに牛酪を塗る――これは哂ふべき現象だ。――と彼は言ふ。そして、その口の下から、月の央になつて僅か自分の読んだのは、モウパツサンの「水の上」に過ぎぬと言つてゐる。そして、文明批評といふことになり、(降りるといふ代りに、私は堕ちると言ふ。これは不吉な言葉ではない)とことはつたりして、スローガンといふ言葉は移民の見せ金に似てゐる。と、言ひ、猫の横顔は蛤のやうだ。と言ひ、もう百年すると日本にもオペラが生誕するのださうだがその時は私は羊歯の葉になる時に。と、――。
「途上」亦前の前のに同じ。どれもこれも同じいものに見えて来た。安西はペンの腹を外に向けて字を書くらしい。
「犬」桃の熟するやうに、熟しかけてゐる生活の一部分であらうか。生活といふものが、何時になつてもここにあつて、かうした状態の時にのみ「生活」と称ばれるものなのだといふ私の考へ方は凡そ東洋的ではあるらしい。「マルヌの記念日」に於ても、同じことこの状態はここでは少しゴミ臭い程度に美しくかかれてはゐるのだが、はたして資本主義的世相の末期のみにある状態と限られてゐるのだらうか。云云。
「門」さうだ。門といふものがあつた。お嬢さんと尨尤が戯れてゐる辞書の中の凸版。
4
「バグダット駐在将校苦大佐の脳」「韃靼国郵政事情」「徳一家の財産」「馬」「肋子」は見られる人の御意のままに――。で、次が「民国十五年の園遊会」全文を引用して支那音楽花火など色とりどりとなるべきであるが、少々調子に乗り過ぎて体をゆすつてゐるから――。
「櫛比する街景と文明」
魁(まつさき)に文明を将来した写真館が風景の中で古ぼけてゐる。
(この飴色の街に、もう「市区改正」が到来してゐる)
――どうも。安西といふ男はすくなくも十四五年前に死んでしまつてゐるやうな気がする。ここには人一人鳥一匹もゐない。それなのに街の一部が「市区改正」のために取りはらはれたりしてゐるのだ。文明の描写が騒音にばかりあるのではないといふよいお手本。
「陸橋風景」「夜行列車」「門」は共に同じやうなもの。「陸橋風景」は安西がちよつとよそ見をしたの形。
「河口」私はこれを或る雑誌で発見した。そして、安西といふ男はすごい奴だといよいよ感心した。集中或ひは第一のものであらう。この強い信念は他に見ることは出来ぬ。
「雪毬花」は「河口」にくらべていくぶんらくな作品。残りの十二篇のうち私は「晩春」を拾ふ。
5
「易牙」「長髪賊」共にわるからう筈はない。
「菊」ここに到つて、私は前の「河口」と同じ平面にある異つた位置に出逢つた。「菊」は「河口」よりも散文に近い。これら(5)に編まれてゐるものを私は「短編」と言ふてゐる。「菊」の如きものを書き得るのは安西の外誰もゐない――と、私は又感心してしまつた。くそみそにほめ上げてまだ足らぬのである。
「地球儀」は「菊」と列らぶ。次に、私はメリイ・ゴオ・ラウンドをメリゴランドだとばかり思つてゐたといふ書き出してゐる「遊戯」という好篇がある。
私は(5)に入つてますます批評めいたことを言へなくなつた。最後の智をしぼつて、「菊」は甲の上、「地球儀」は甲、「遊戯」は甲ノ下、「易牙」と「長髪賊」は乙――と、やれば「文明」にはもうやらうにも点がないといふしまつ。それなのに「文明」の次の頁には「松の花」といふのがある。
「鵜」――いつの間にか私はふたところ蚊にやられてゐた。なんだかしやくにさわつて来た。「鵜」は又、ひどく感心させるのだ。「菊」が甲ノ上なら「鵜」も甲ノ上だ。二つならべてさへ困難なところへ、あとからあとから感心させられるのでは、蚊に喰はれたふたところが同じ自分の体の上なのをどつちがどつちよりもカユいといふサクゴよりももつと愚なことにちがひない。
後にまだ五篇もすばらしいのが残つてゐる。「冬」も「物集茉莉」もかつてすでに感心させられたものだ。安西万歳。万歳安西。自らを苦笑する他はない。即ち擱筆す。
(詩神第六巻第八号 昭和5(1930)年8月発行)
[やぶちゃん注:安西冬衛(明治31(1898)年~昭和40(1965)年 本名勝(まさる))の昭和4(1929)年4月に出た代表的詩集『軍艦茉莉』(厚生閣刊)の詩評。私は親しく『軍艦茉莉』を読んだことがないので、幾つかの尾形の評に現れる標題さえ読めぬものがあるが、それらすべてに注するとなると『軍艦茉莉』の注へと逸脱してゆくので、最小限に止めた。幾分、不親切な注になっている点はお許し頂きたい。
・「北川」北川冬彦(明治33(1900)年~平成2(1990)年 本名田畔忠彦)。ここにも記される彼との確執は前掲の「童心とはひどい」や『馬鹿でない方の北川冬彦は「読め」』を参照。
・「グロツス」George Grosz(ジョージ・グロッス 1893~1959) ドイツの画家。ワイマール体制下の資本家・軍人を痛烈に批判した風刺画で著名。1933年以降、アメリカに移住した。
・「パールクレー」Paul Klee(パウル・クレー 1879~1940)スイス出身の画家。
・「未来派の初期の作品そのままの張り紙細工の如きシネ・ポエム」これは暗に北川冬彦への批判を含んでいる。「尾形龜之助拾遺詩集 附やぶちゃん注」の「標――(躓く石でもあれば、俺はそこでころびたい)――」で『「戦争」とかいふ映画的な奇蹟』の部分の注を参照されたい。
・『「蔵六」君』四肢と頭と尾の六つを甲羅の内部に隠すところから、「藏六」は亀の異称。
・『「国際的××……』これはたかがお遊び、であるが、されどお遊びである。オートマチスムや寓喩としての面白さ以外に、この仕儀全体が痛烈な官憲の検閲による伏字のパロディになっていることを意識せずにはいられないからである。
・『「軍艦茉莉」』「ウラ・アオゾラブンコ」にある。そのままコピー・ペーストして掲げる(但し、コピー時に読み込まれるピリオド様の記号は排除し、丸括弧は全角に変換した。なお、後の注は私のオリジナルである)。
軍艦茉莉
一
「茉莉」と読まれた軍艦が、北支那の月の出の碇泊場に今夜も錨を投(い)れてゐる。岩塩のやうにひつそりと白く。
私は艦長で大尉だつた。娉娉(すらり)とした白皙な麒麟のやうな姿態は、われ乍ら麗はしく婦人のやうに思はれた。私は艦長公室のモロッコ革のディワ゛ンに、夜となく昼となくうつうつと阿片に憑かれてただ崩れてゐた。 さういふ私の裾には一匹の雪白なコリー種の犬が、私を見張りして駐つてゐた。私はいつからかもう起居(たちゐ)の自由をさへ喪つてゐた。私は監禁されてゐた。
二
月の出がかすかに、私に妹のことを憶はせた。 私はたつたひとりの妹が、其後どうなつてゐるかといふことをうすうす知つてゐた。妹はノルマンディ産れの質のよくないこの艦の機関長に夙うから犯されてゐた。 しかしそれをどうすることも今の私には出来なかつた。 それに「茉莉」も今では夜陰から夜陰の港へと錨地を変へてゆく、極悪な黄色賊艦隊の麾下の一隻になつてゐる――悲しいことに、私は又いつか眠りともつかない眠りに、他愛もなくおちてゐた。
三
夜半、私はいやな滑車の音を耳にして醒めた。 ああ又誰かが酷らしく、今夜も水に葬られる――私は陰気な水面に下りて行く残忍な木函を幻覚した。一瞬、私は屍体となつて横はる妹を、刃よりもはつきりと象(み)た。私は遽に起とうとした。けれど私の裾には私を張番するコリー種の雪白な犬が、 釦のやうに冷酷に私をディワ゛ンに留めてゐる――『(ああ)!』私はどうすることも出来ない身体を、空しく悶えさせ乍ら、そして次第にそれから昏倒していつた。
四
月はずるずる巴旦杏のやうに堕ちた。夜陰がきた。 そして「茉莉」が又錨地を変へるときがきた。「茉莉」は疫病のやうな夜色に、その艦首角(ラム)を廻しはじめた――
●やぶちゃん語注:
○「ディワ゛ン」フランス語“divan”で、背もたれのないクッション付長椅子のこと。
○「黄色賊艦隊」東洋人を成員とする海賊船団。
○「巴旦杏」は本来、中国語ではバラ目バラ科サクラ属ヘントウPrunus dulcis、アーモンドのことを言う。しかし、実は中国から所謂スモモが入って来てから(奈良時代と推測される)、本邦では「李」以外に、「牡丹杏」(ぼたんきょう)、「巴旦杏」(はたんきょう)という字が当てられてきた。従って、ここで安西はバラ目バラ科サクラ属スモモ(トガリスモモ)Prunus salicinaの意でこれを用いているとも考えられる。いや、恐らく当時の読者の殆んどは安西の意図とは無関係にスモモの意味でとっていると私は思う。
○「艦首角(ラム)」“ram”。一般には衝角と言う。軍艦の艦首に付けてある構造物で、突き出た槌状のものを指す語(角度ではない)。相手艦に衝突させて沈没させるための武器である。
・「閹人猧氏」詩の内容ではなく語注として附す。「閹人」は「あんじん」と読み、宦官のこと。「猧」は音は「ワ」「カ」で、ここでは人の姓に見えるが、有り得ない姓である。「猧」は矮小なる犬の謂いで、狆(チン)のことである(宦官の後宮での渾名としてあったとしても不思議ではないが)。因みに「狆」は和製漢字で中国にはないが、ペットとしてのチンの流行で現代中文でも「日本狆」と書く。
・「巫山戯(いちび)る」関西方言にあってかなり悪い意味で、調子に乗る・出しゃばる・図に乗る・付け上がる等の意。安西は奈良県出身。
・『「春」』内一篇は最も人工に膾炙したあれである。
春
てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた。
・「スウラ風の瘤の出たお臀」フランス新印象派の点描画家Georges Seurat(ジョルジュ・スーラ1859~1891)の極めて著名な作品“Un dimanche après-midi sur l'île de la Grande Jatte”「グランド・ジャット島の日曜日の午後」(1884~86)の右手端で紳士と並んで黒い日傘をさして女性の臀部のコルセットの張り出しを言っている。
・「馬鹿話(ワイダン)」の(ワイダン)」は「馬鹿話」に均等割り付けされたルビ。
・「Lolo族」アルファベットでこう綴る民族で大陸に居住する民族はイ族である。以下、ウィキの「イ族」から解説部分全文を引用する(改行部は「/」とした)。『イ族(イぞく、彝族, 拼音: Yízú )は中国の少数民族の一つ。2000年の第5次全国人口普査統計では人口は7,762,286人で、中国政府が公認する56の民族の中で8番目に多い。/名称/彼ら自身は「ノス」と呼ぶ。もとは「夷族」と表記されたが、清朝時代に、自ら漢民族の王朝ではない満州人がこの呼称を嫌い、同じ音に「彝」の字をあてた。彝は雅字。「ロロ族」という呼称もあり、かつては自称であったが現在は蔑称。「ロロ」とは、イ族自身が先祖崇拝のために持つ小さな竹編み。当て字の「玀猓」は、多分に蔑視的な要素を含んでいる。/歴史/イ族は中国西部の古羌の子孫である。古羌は、チベット族、納西族、羌族の先祖でもあるといわれる。イ族は南東チベットから四川を通り雲南省に移住してきており、現在では雲南に最も多く居住している。/精霊信仰を行い、Bimawという司祭が先導する。道教や仏教の影響も多く受けている。/雲南北西部に住むイ族の多くは複雑な奴隷制度をもっており、人は黒イ(貴族)と白イ(平民)に分けられていた。白イと他民族は奴隷として扱われたが、高位の奴隷は自分の土地を耕すことを許され、自分の奴隷を所有し、時には自由を買い取ることもあった。/使用言語/シナ・チベット語族のチベット・ビルマ語派ロロ・ビルマ語支に属する彝語を使用。ビルマ語と緊密な関係をもつ。6種類の方言がある。/彝文字(ロロ文字)と呼ばれる表音文字を持つ。』果たして安西の意図したLolo族がこのロロ族であるかどうかはこの際問題としない。私はこのロロ族に魅せられたのである。この彝文字(ロロ文字)なるものも何と魅力的なことか!
・「Catalyser」はフランス語の化学用語で、「触媒する」「触媒作用を及ぼす」の意の動詞。
・「二年ほど前であれば、尚のこと好いてゐたであらう」安西の原詩を確認出来ないので見当違いかも知れないが、三年前(昭和2(1927)年1月)の尾形亀之助には狐が青年士官になったり紳士になったり女に化けたりする動物園の狐の物語「青狐の夢」がある。「尾形亀之助作品集『短編集』(未公刊作品集推定復元版 全22篇)附やぶちゃん注」を参照されたい。
・「月の央」安西の原詩を確認出来ないので意味不明。ある月の中旬の謂いか。識者の御教授を乞う。
・『モウパツサンの「水の上」』フランスの詩人にして作家Henri René Albert Guy de Maupassantアンリ・ルネ・アルベール・ギ・ド・モーパッサン(1850~1893)の著名な短編集“La maison Tellier”(1881)年「テリエ館」の中の一篇“Sur l'eau”(1881)「水の上」のこと。モーパッサンの狂気とそれ故の才能が十全に生かされた霧深い川のボート上の幻想と恐怖の物語である。
・「尨尤」安西の原詩を確認出来ないが、これは「尨犬」の誤植ではなかろうか。
・「文明の描写が騒音にばかりあるのではない」これは所謂、ダダイズムや未来派、プロレタリア詩の実験的作品群への揶揄。私は一番に大正14(1925)年に刊行された萩原恭次郎の『死刑宣告』を想起した。
・『「河口」』これだけ尾形が褒め上げる以上、読むに若くはない。「ウラ・アオゾラブンコ」に幸いある。そのままコピー・ペーストして掲げる。因みに「歪(いびつ)な」「蹂躪(じゅうりん)」「汪洋(おうよう:水量が豊かで、水面が遠く遙かに広がっているさま。)」「慰(なぐさみ)」「纔(わずか)に」である。――確かに、私もこの詩は気に入った。
河口
歪な太陽が屋根屋根の向ふへ又堕ちた。
乾いた屋根裏の床の上に、マニラ・ロープに縛られて、少女が監禁されてゐた。夜毎に支那人が来て、土足乍らに少女を犯していつた。さういふ蹂躪の下で彼女は、汪洋とした河を屋根屋根の向ふに想像して、黒い慰の中に、纔にかぼそい胸を堪へてゐた――
河は実際、さういふ屋根屋根の向ふを汪洋と流れてゐた。
・「雪毬花」バラ目バラ科シモツケ亜科シモツケ属コデマリSpiraea cantoniensisのこと。雪毬花は一般には日本の北国での表記。
・「しやく」はママ。
・「サクゴ」はママ。
・『「物集茉莉」』読みは「ぶっしゅううまり」でよいのであろうか。「もづくしまり」では気が抜ける。詩集『軍艦茉莉』の最後に掲載されている散文詩である。コナン・ドイルの研究家のひろ坊氏のブログ『安西冬衛とドイル。「物集茉莉」より』に冒頭が引用されているので、孫引きさせて頂く(但しひろ坊氏によって省略されている)。
物集茉莉
第一章
最初、その少女に遭ふたのは、旅順行貨物列車の最後部の便乗室だつた。秋雨のぐしょぐしょ車床をよごす日で、私はさういふ日に私の有つてゐる事務所に通ふことに、ひどく小説めいた気持がした。(略)尤もこれは必ずしも、私の架空癖からばかりではなかつた。といふのは当時実際自分は「Conan Doyle を持てる茉莉」といふ伝奇的な作品を結構してゐた、その央だつたからである。
すると列車が夏家河子といふ駅に着いた時、突然濡れたレーン・コートを羽織つた黒いリボンの少女が車室に入つてきた。そして私の前にゆつくり座席した。手に副読本(サイドリーダー)らしい、褪紅色の薄い洋書を持つてゐる。彼女はそれを膝に裏返した。私は危なく『あツ』と声を発てようとした。何故なら、さういふ彼女は、不思議にも私作中に出てくる茉莉といふ少女だったからである。咄嗟に私はその洋書を調(たしか)めて、確かにその表紙に
The Adventures of a Scandal in Bohemia
と刷られてゐなければならない筈の事実をはつきりとつきとめて、この運命的な邂逅に、邃い面を合わせたい衝動を感じた。しかし遽に、それをどうすることも出来なかつた。(以下略)]
先づ私が非常に愉快になつてしまつたといふことを述べなければならない。勿論いゝきげん(酒ではない)なのでもある。「悲しきパン」は野長瀬正夫、「叛く」竹内てるよ、「雲に鳥」は佐藤清、「蒼馬を見たり」林芙美子、「真冬」は渋谷栄一。「全日本詩集」は詩壇百四十数家よりなるものである。私はこれらを十枚で書かなければならないのであるが、私は更に加へてかなしき人生などを語つて御高評に給するのである。つとめて悪評などせぬことはすでに読者知るところであるし、愉快でもなければ私はこんなことはなかなかしないことだらう。愉快で書くといふ為めのオチド其の他もし無礼などのあつた場合はよろしく許されよ。「悲しきパン」野長瀬正夫とは丁度昨夜の烈風々景の会でテーブルの差し向ひであつた。昨夜は、宮崎、橙一郎、「真冬」の栄一の諸君にも逢つた。春月さんもゐた。まだ大勢ゐたがさう急には思ひ出せぬ。そして電車がなくなつてから帰宅、玄関にこの一文を依頼するといふ手紙が落ちてゐたといふ次第である。開封してこれは大変だと思つたのであつたが、瞬間に前述の「愉快」がこみあげてきたのである。つまらぬことを書いてゐて紙数をなくすなどといふ心配は不用。十枚四千字はまだまだ残り少くない。渋谷にしても野長瀬にしても、今日私が彼等の著書を批評しやうなどとは思つてはゐないのだ。おかしいことだ。
「悲しきパン」はプロレタリヤ抒情詩集とある。表紙には二階の窓から手を出した人間がはみ出し、大都会の背景に煙突が立ち、煙突の上に太陽が光つてゐる赤い木版がある。とびらには「此の詩集をやさしき友等への感謝と私信に代へて 正夫」とある。いくら抒情詩集であるといつても、このやさしきの文字はやたらにはあるまい。先づ諸君はこの著書のとびらに十分の注意をしなければならぬ。岡本の跋詩は相変らずうれしいものである。この集の中に批評といふことを私に考へさせない、そのまゝを好いてゐる詩篇を三四もつてゐる。それがどれとどれであるかをこの著者に知らせることは好ましいことではない。それは野長瀬正夫自身が尾形といふ野郎の好いてゐるのはこれだなと(こんなものなのか――といふ意味をもふくんでゐれば尚のことよいことなのだ)いふひとつの間違ひのない見通をつけることが必要であるからである。勿論このことは彼の全ての友人不友人にもあてはめてもらひたい。いらざることゝして、詩境もかなりよく技巧もそれに相当であることを附け加へて置かう。唯言ひたい放題のことを書けばよい――ときに、如何なる表現が一番それによいかといふことをもつと考へて欲しい。たやすく書ける詩であつてもそのためにたやすくなく書いて欲しいのだ。昨夜私は君にパンに対するセンチメンタルはいけないなどと言つたことを思ひ出した。馬を少しやすめてやるために犬を馬ほどの大きさにしてそのかはりにしたいと思つてゐたことを、夢に見たなどといふ間のぬけた話は何んとなく恥かしがつてしないでしまつたことも思ひ出した。
「叛く」この詩集はその一つ一つを批評すべきではない。彼女が死にかけてゐるために「竹内てるよを死なせない為の会」のあることは有名である。私は此頃人間のその一人一人が無意識のうちに生まれてゐた事実に対しては、自殺的に(それもなし得るだけ少しでも早く)死ななけれはならないのだといふことを信じてゐるその為に、「誰々を死なせぬための会」の趣意には多くの相異をもつてゐる。事、人情に関することがらであるから私のかうした言葉は同時に多くの非難を受けることであらう。が、死にかけてゐるといふことも、私のかうしたものも共に人間のもつかなしみであるのだらう。生きなけれはならないと自らを思ふにはあまりに時間やそれによつて生ずる人間の多すぎることである。又、各自思ふやうにはならぬことに何かそのことにうらみのやうなもの執念のやうなもの、もつと異つたものでは大将になりたいとか大臣になりたいとかいふものは人間の何なのであらう。こんなことは詩集「叛く」の批評にはならぬが、この著者にも聞いて欲しいと思ふ。自分の為に「死なせない為の会」などのあることをあじけないことに思つてもらひたいと思ふのである。
かうした一文を書きすゝむ間々には、私はいくつかの矛盾を生ずることであらう。しかし、それは生ずるまゝに私はこれを書き終るつもりであるし、自分に多くの矛盾のあることは私には隠すまでもないことである。短時間に於てさへ隠しきれぬ矛盾、つまり矛盾とは「滑稽」といふことであるのではないか。
「雲に鳥」の著者は「詩は韻文で書く」と言ふ。このことに就て、誰がそれはいけないことだと言ふのだらう。断るまでもなく「どうぞ」と誰れもが言ふであらう。韻文で書かれたもの以外に「詩」といふものがないならば、かうしたことを言ふ人もないであらうことはこれ又ここに云々するまでもない。著者にかく言はしめたことに就ては、著者のために私は現在の世相の誠に遺憾であるの意を述べなけれはならぬ次第である。――こゝで気づいたことであるが、杉江重英君が本誌十二月号に書いてゐる「一九二九年度詩壇覚書」といふ一文の中にあげてゐる十一冊の詩集の中に、今私が編輯子の指定に依つて書くべき六つの詩集の四つまでもふくまれてゐることである。が、杉江君がそこで「雲に鳥」に就て言つてゐることにはよらずに、巻頭の(囚人の体操)をごく簡単に批評しやう。
第一節の日が射すことのない中庭だといふ二度のくりかへしはまづい。又、ポツンポツンと夕方囚人が体操するをはさんでゐるのもよくない。これは最後の一つで十分であらうと思はれる。著者がここでつかまいてゐるものはかなりよいものには思はれるが、詩作になれてゐないまづさは、この著者には致命的なものの如くに思はれる。杉江君がこの著者の独得な表現手法と言つてゐることは私の言ふそのまづさではなからうか。
「蒼馬を見たり」は、私はこの本を持つてゐない。それは私にとつてもこの著者にとつても残念でもなんでもない。それに丁度いゝことには春月さんの「彼女の見た青馬」の中の詩の引例を拝見して参考とすることが出来る。
先づ第一にそのまゝに彼女はますます彼女らしくなつたことである。彼女のためには表現が簡ケツになつたこともよいと言はなければならない。彼女に幾年目かでこの間出つくはしたら、日本髪がボツブになり足袋が靴下になつてゐたのだつた。これもわるいことでは勿論ない。春月さんは大変ほめちぎつて居られる。が、男どもに負けてゐないといふことだけでも、十分に一人の女詩人として存在してゐて欲しく私も思はせられてゐる。いづれコク評をしてみたい一人として後に預る。
次は「真冬」である。彼には昨夜新宿駅の上の食堂で金三円をキフさせた。で「真冬」であるが、これも亦一篇一篇をひき出しての批評は私には出来かねる。これを出発とする著者は、私のためにもこの一本で屑カゴへ捨てゝ呉れるであらう。私は彼の出発に際して一二希望をする。それはこの「真冬」にふくまれてゐる詩篇のみならず、彼の詩篇に概して詩作される場合の材料が消化されずに残つてゐることである。どんな意味にとつてもらつてもよいのであるが、何かを言はふとして言ひ得ずにくどくどすることである。もう一つは、詩作をしてゐる際、自分の書かうとしてゐることを大したことの如くに思ふのではなからうかと読者に感じさせることである。「ぬかるみ」などを読んでみてもわかるではなからうか。
「全日本詩集」の批評とはどうすればよいのか。困らせられることである。本を開いて、よくこれだけ集めたものだと思つたが、考へてみるまでもなく、ふくまれてゐる百幾十人といふ詩人はお菓子ではないから、この詩集出版に際して作られたものではないのであつた。目次は(ABC順)に「安」が一人「赤」が一人「会」が一人「江」が一人「福」が四人「藤」が一人「深」が一人「古」が一人「後」が一人「萩」が二人「春」が一人「堀」が一人「平」が二人「広」が一人「浜」が一人「石」が一人「生」が二人「井」が一人「今」が一人で……百四十六人。ひたすら編者の労に謝します。なるつたけ執筆者には一部を頒つやうにたのみます。
★以上。私は九枚で書きました。六冊の詩集を一日で批評するのは始めてでした。
又、見出五十幾字といふこともやはり始めてのことです。兎に角愉快でした。
(詩神第六巻第二号 昭和5(1930)年2月発行)
[やぶちゃん注:昭和4(1929)年12月刊の東亜学芸協会編「全日本詩集」という詩集のアンソロジーの書評。
・『「悲しきパン」』詩人で児童文学作家の野長瀬正夫(明治39(1906)年~昭和59(1984)年)の第二詩集(昭和4(1929)年民謡月刊社刊)。尾形の記載する通り、プロレタリヤ抒情詩集のタイトルを持つ。
・『「叛く」』詩人・小説家の竹内てるよ(明治37(1904)年~平成13(2001)年)の処女詩集(銅鑼社ガリ版印刷百部限定)。近年、2002年9月のスイス・バーゼルで行われた国際児童図書評議会(IBBY) 創立50周年記念大会に於いて現天皇の妃美智子様が、そのスピーチの中に竹内てるよの詩「頰」を引用したことで脚光を浴びた。
・『「雲に鳥」』詩人にして英文学者の佐藤清(明治18(1885)年~昭和35(1960)年)の詩集(昭和4(1929)年自家版)。
・『「蒼馬を見たり」』作家林芙美子(明治36(1903)年~昭和26(1951)年)の詩集(昭和5(1930)年南宋書院刊)。
・『「真冬」』渋谷栄一(明治34(1901)年~昭和18(1943)年)は
『青騎士』『詩神』や農民文芸会機関誌『農民』等を舞台に精力的に作品を発表した詩人。『真冬』は昭和4(1929)年の自家版詩集。
・「すでに読者知るところ」は「すでに読者〔の〕知るところ」の脱字か。
・「オチド」はママ。
・「烈風々景の会」これは詩人大島庸夫(おおしまつねお 明治35(1902)年~昭和28(1953)年)が同年に発行した詩集『烈風風景』の出版記念会ではなかろうか。
・「橙一郎」月原橙一郎(明治35(1902)年~?)は詩人。本名、原嘉章。詩集『冬扇』(昭和3(1928)年大地舎刊)等。
・「春月さん」詩人生田春月(明治25(1892)年~昭和5(1930)年)。本名、清平。1930年5月19日瀬戸内海播磨灘にて投身自殺した。私のブログを参照。
・「岡本の跋詩」恐らくは詩人岡本潤の跋。
・「不友人」はママ。
・『「竹内てるよを死なせない為の会」』竹内てるよは大正13(1924)年5月に20歳で父親の借金の相手と結婚、24歳で腰椎カリエスに罹患し離婚、病床で詩作を始めた。昭和3(1928)年に『詩神』に作品を発表、『銅鑼』同人ともなった。同年、『詩神』と『銅鑼』で関わった詩人神谷暢と共同生活を始めるが、てるよは寝たきりのままであった。翌昭和4(1929)年、草野心平らが「竹内てるよを死なせぬ会」を発足して、5月に彼女の処女詩集『叛く』が草野心平の銅鑼社からガリ版で刊行されることとなった(以上は個人サイト「[アナキズム]Anarchism」の「竹内てるよ」の頁の記載を参照した。)
・『彼女が死にかけてゐるために「竹内てるよを死なせない為の会」のあることは有名である。私は此頃人間のその一人一人が無意識のうちに生まれてゐた事実に対しては、自殺的に(それもなし得るだけ少しでも早く)死ななけれはならないのだといふことを信じてゐるその為に、「誰々を死なせぬための会」の趣意には多くの相異をもつてゐる。事、人情に関することがらであるから私のかうした言葉は同時に多くの非難を受けることであらう。が、死にかけてゐるといふことも、私のかうしたものも共に人間のもつかなしみであるのだらう。生きなけれはならないと自らを思ふにはあまりに時間やそれによつて生ずる人間の多すぎることである。又、各自思ふやうにはならぬことに何かそのことにうらみのやうなもの執念のやうなもの、もつと異つたものでは大将になりたいとか大臣になりたいとかいふものは人間の何なのであらう。こんなことは詩集「叛く」の批評にはならぬが、この著者にも聞いて欲しいと思ふ。自分の為に「死なせない為の会」などのあることをあじけないことに思つてもらひたいと思ふのである。/かうした一文を書きすゝむ間々には、私はいくつかの矛盾を生ずることであらう。しかし、それは生ずるまゝに私はこれを書き終るつもりであるし、自分に多くの矛盾のあることは私には隠すまでもないことである。短時間に於てさへ隠しきれぬ矛盾、つまり矛盾とは「滑稽」といふことであるのではないか。』(右下線部はやぶちゃん)詩評の中に埋もれて、今まで余り顧みられることのなかったであろう、この部分――特に私が下線を引いた部分――ここに現れた尾形亀之助の覚悟は、後にやってくる彼自身の奇体な死を考える時、非常に重い意味を持ってくると言ってよい。新しい尾形亀之助論の地平を開くには、このやや曖昧な部分を含む素敵に慄っとする彼の言葉の核心を、鮮やかに抉り出す必要があるように私は思われるのである。
・「杉江重英」(すぎえしげふさ 明治31(1897)~昭和32(1956)年)は詩人。宮崎孝政らと詩誌『森林』を創刊。詩集に『夢の中の町』(大正15(1926)森林社刊)・『骨』(昭和5(1930)年天平書院刊)等。
・「つかまいて」「簡ケツ」はママ。
・「ボツブ」“bob”はボブ。女性の髪形の一つで、襟首から下に達しない長さで切り揃えたもの。
・「目次は(ABC順)に……」妙な書き方である。気がつくのは「尾」がないことである。
・「★以上。……」底本ではポイント落ち、全体が一字半下げ。]
私はみづから神にしたい一人であった。
×
私は神社の拝殿の前でわざわざ唾を吐いたことも再三ではない。
×
私は神社で合掌した経験は生涯に二度だけある。一度は大学受験の年に生涯一度きりの初詣に出かけた伏木の気多神社でであり、今一度は先般訪れた那智の飛瀧神社に於いてである。但し、後者は御神体が瀧である点を考慮されたい。
×
私は大学受験の年に両親に促されて生涯一度きりの初詣に出かけた伏木の気多神社で合掌した。合掌するに際して、お賽銭を入れなさいと言う母に対し、私は勿体ないから五円でいいとほざいたのを覚えている。おまけに心の内では手を合わせていないことに変わりはなかった。――受けた大学は一つを除いて総て落ちた(受かった大学を除いた他は総て心理学科であった)。そうして――そうして進学した大学はその昔神職を養成する大学であった。そうして――そうして私はしがない国語教師となった。――この矛盾は如何にも多様な興味を有している。――神があるならば、如何にも捻くれた私のこの不遜に天罰が下されてしかるべきであろう。しかし――しかし相変わらず、私はその大学の校内にあった拝殿の前を通ると必ず拝礼をする同期生をせせら笑っていたことに変わりはなかったのである。
×
私は仏像に手を合わせたことも再三ではない。しかし、賽銭を投げ入れたことは拝観料込の立札があった場合を除いては、ない。
×
私は野仏に手を合わせたことも再三ではない。しかも、朽ち果てた滅びつつある野仏に対しては激しい尊崇の念を覚えたことも再三ではない。
×
私は鎌倉を愛するが、その寺社仏閣には聊か冷淡である。冷淡ではあることは不遜とは言えない。私はその鎌倉の寺社仏閣の背後に広がる僅かばかりの残った自然に素朴に畏敬を覚えることも事実である。畏敬は信仰である。私は本質的に縄文人である。
×
私は鎌倉十二所の十二所神社の奥を抜けたお塔やぐらにある籾搭と光触寺の頰焼阿弥陀を愛した。それ以上に十二所神社の奥のそのお塔が窪の湿地と丸木橋と光触寺の背後の暗く湿気た旧朝比奈切通しのあの寒々とした氷柱の列を愛した。
×
私は又如何なる敬虔荘厳なるイタリアの教会でも祈りを捧げたことは一度としてない。同様にモスクもシナゴークもラマ寺も然りである。しかしタイの蔦に覆われた崩れかけた数々の寺々では不思議に合掌することの違和感を覚えることが殆んどなかった。しかしやはり賽銭を投げなかったことについては同前の叙述に矛盾しない。
×
私はしかしマチュピチュの全容を拝した時、心の中で合掌していたことを素直に告白する。
×
私はマチュピチュで最も衝撃的な敬虔さに触れた。それはコンドルの形をした祭壇であった。それはケツアルコアトルへ捧げる青年の心臓を抉って捧げた祭壇であった(と勝手に信じ込んでいる)。私はそこに確かに青年の未だピクピクと蠢く真赤な心臓と迸り溝を流れる血潮を視たからである。――私の人生に唯一の「神の啓示」があったとすれば――その瞬間だけである。
×
私は心霊譚や超常現象を蒐集することに於いて人後に落ちない。いや、高校生の頃は大真面目に「未確認飛行物体研究調査会」という墨痕鮮やかな(白チョークを塗った杉板の上に墨の色が鮮やかだっただけで健筆は私であるから「鮮やかな」だけである)看板を自室の勉強部屋の入口にぶら下げていた。しかし怨霊もUFOも信ずるに足らない。神仏は――もっと足らない。
×
私は聖書を愛する。特に「ヨブ記」は素晴らしい。しかしそれはヨブがヤハウェを越えて素晴らしいからである。確かにヨブは神を越えている。ユングの「ヨブへの答え」を読むがよい。
×
私は親鸞を愛する。それは悩める私と同じ大凡夫であるからである。そうして確かに彼の思想は悩める現代のインテリゲンチアの一つの光明でもあるかも知れない。再度言う。私は親鸞という個人と思想を愛している。彼に繋がるあらゆるおぞましい総ての有象無象の教団は唾棄嫌悪し全否定し去って拒否する。親鸞――それは自らを荒蕪の地に逃したツアラトゥストラである。
×
私はあらゆる宗教の教団・教派・組織を激しく嫌悪する。親鸞の凄いところはそうしたもろもろの教団・教派・組織をも全否定している――絶対の無化性にある。そうして自らを最も救いがたい大凡夫としている――絶対の孤独性にある。そうして総ての衆生と同じ気持ちで念仏を称えている――絶対の無名性にある。親鸞――という絵は衆生というカオスの中に遠近法の消失点さえなくなって絶対の無色となったキャンバスに消失している。しかもなお親鸞という絵はある。
×
私はバッハを愛する。数々の受難曲もコラールもアリアも。――それは彼が真に自らの内なる信仰に真に孤独に忠実に生きた結果物であるからである。
×
私は基督を愛する。しかしそれは彼の信仰が未だ嘗て如何なる人間によっても真に正しく理解されていない限りに於いて――即ち彼が真に孤独者である限りに於いてである。
×
私はヤコブの梯子を持っている。それは私のこの右腕である。
×
私はヤコブの梯子を持っている。しかしそれは折れている。――「私の以上の諸命題は、私を理解する君が其処を通り、其処の上に立ち、其処を乗り越えて行く時、最後にそれが常識を逸脱していると認めることによって、解明の役割を果たす。(君は、言ってみれば、梯子を登り切った後には、その梯子を投げ捨てなくてはならない。)君はこれらの命題を乗り越えなければならない。その時君は世界を正しく見ている。」(Ludwing Wittgenstein 「論理哲学論考」)――ウィトゲンシュタインが言ったこの「梯子」こそヤコブの梯子である。
×
私はみづから神にしたい一人である――それを聞いて「悲しむ」君は正しく君の信仰を持っている。
私はみづから神にしたい一人である――それを聞いて「笑う」君は正しく真正の無神論者である。
君は今日唯今笑ったか?――君は真に絶対の正しい信仰者であるか?
君は今日唯今悲しんだか?――君は真に絶対の正しい無神論者であるか?
――もし君が今の自分が真に「悲しむ」自分であるか「笑う」自分であるかを正しくつらまえられているとしたら――
――君はとっくに正しく神である――
×
私はみづから神にしたい一人である。が、しかし私は私が神であると思っている訣ではない。それは私の中に私だけの神が「在る」という謂いである――神は「名指す」ことは出来るが、「示す」ことは出来ない――更にウィトゲンシュタインはこうも言った――「語ることができないものについて、我々は沈黙せねばならない」――
×
私は人生にあって神韻という気持ちを感じたことは二つの例外を除いてはない――レオンハルト版マタイ受難曲のテルツ少年合唱団のソプラノのアリアと――そうして夏の朝のこの蜩の声――それ以外には――
(2009・8・22・AM4:43)
私は世事にうとい(けんそんでなくもある)。又、「自分のこれからに就いても何もわかつてはゐないのだから、自分以外の人事にはなほのことわからない」といふことでもある。雨が降つてゐれは雨が降つてゐると思ひ、暗くなつてしまへば夜になつたのだと思ふ、他はこんなに暗いのに電燈が遅いとか、路が悪いだらうとかその位のことしか私は考へてはゐない。それにこの頃は寝床なども敷いたまゝ勿論部屋の掃除もしないし、めつたなことに顔も洗はない。(そんなことが自分が今何を書いていゝのかわからないのとどうなのかわからないのだが)鉛筆ならナメて考へこむところなのだと思つたり、煙草の火の消えてゐるのに気づいたり、雨(丁度降つてゐる)が……と思つてみたり、――。三十日までにといふのを忘れてゐてその後二度も注意されて、又それを忘れてゐたのをもう一度注意をされて今度こそはと思つてペンを握つたまでは兎に角まがりなりにもはつきりしてゐるのだが、だが何を書……といふことになると、又、煙草の火の消えてゐるのに気づいたり雨がと思つたりをくりかへさなければならない。
私は「詩神十一月号の宮崎孝政論を諸君が如何に解したか」といふことを主にしてこの一文を書くことにきめた。そして、こゝから稿を新らしく起さなけれはならないのだが、つゞけて書かうといふ気になつた。つゞけてと言つても、前の方には何も書けてはゐないのであるけれども、何か大いに書きまくつたことにしてこれからを書き加へるのだ。――宮崎孝政は私と同年の生れである。彼も私も三十なのだ。だから、彼が私よりフケて見えるとしても、それは年よりも私が若く見えるのか年よりも彼がフケて見えるのか、年よりも私がフケて見えるにもかゝはらず彼が私よりフケて見えるのかどうなのか、又彼が年よりも若く見えるのに私が彼よりももつと若く見えるのか、それはそれとして彼ばかりがよい詩人で私はいつかうさうでないといふこともないのだ。何故ならば、この一文は彼と私の比較のためのものではないのだし、わざわざ彼をよい詩人だといふことを諸君に知らせるためのものでもないからであるからである。
彼宮崎孝政は、詩集「鯉」の著者宮崎孝政でもあり「鯉」といふ詩集の著者宮崎孝政でもあるし宮崎孝政といふ詩集「鯉」の著者なのでもあるのでもあらう。これからの「宮崎孝政」はそれだけの動かない宮崎孝政でしかない。私達がもし彼の友人であるならば、私達はもはや(或はいつまでもいつまでも)詩集「鯉」の著者としての「宮崎孝政」を主にして宮崎孝政を批判してはならない。又、宮崎孝政自身は、馬鹿ばかりが大勢ゐる誠にセマイ現詩壇からはみ出すやうな仕事をしなけれはならないのであります。
(感想集「詩集鯉とその著者について」 昭和4(1929)年12月発行)
[やぶちゃん注:これは昭和4(1929)年9月に発行された宮崎義政の第二詩集『鯉』の刊行記念文集である。前篇に現れた原嘉章(月原橙一郎の本名)の編集で茨花社から発行されている。執筆者は岡本潤・高村光太郎・百田宗治・杉江重英・白鳥省吾・小野十三郎・佐藤惣之助・萩原恭次郎ら錚々たる面々である。「けんそん」「セマイ」はママ。前篇に輪を懸けた確信犯的冗漫叙述である。]
*
一九二九年に発表せる私の詩に就いて
実にくだらぬものばかりです。有難いことにはその数が誠に少なかつた。
老年に近づけば近づくだけづつわるくなるばかりだ。
(詩神第五巻第十二号 昭和4(1929)年12月発行)
*
<「現代詩人全集」に入れる人にして吾々の詩壇にまで生きのびると思ふ人は誰々か>
ごぶさたしてゐます。現代詩人全集に誰と誰が書いてゐるのかを知つてゐませんので、われわれの詩壇(?)にまで生きのびるのかわかりませんです。たいへんうかつでゐてすみません。
(<詩文学>昭和5(1930)年2月発行)
[やぶちゃん注:この『詩文学』なる雑誌の書誌がよく分からないので如何とも言い難いのであるが、この頃に刊行途中であった『現代詩人全集』というのは新潮社のものを指すか。「うかつ」はママ。]
* * *
――老年に近づけば近づくだけづつわるくなるばかりだ。――
尾形亀之助、この時、29歳――二十心已朽――
おゝ宮崎孝政論……どんな結末になることであらう。俺達(勿論その中に宮崎もゐるのだ)の中では、新らしい下駄と新らしい帽子と新らしい着物を同時に体につけるといふことは何年にもないことなのであるから、今この一文を書くに際してあわてゝ宮崎に他行の着物を着てもらつたところが何時もの彼と少しも変りがないのである。それなのに、あらたまつて彼を論じなければならぬといふので「やあ――」といふことなどになつて、私と彼がどこかその辺のカフエへ入つてしまつて十二時が一時近くならなければ出て来ないやうなことであつては困るのだとは、まあそれもしかたのないことゝして、せめて彼と相談でもしながらこの一文を書きたいのであるがそれも出来ぬことであるとは、なんと思ひもかけぬ不しあわせなことであらう。
だが、如何に私のものする宮崎孝政論であつてみても論とかいふからにはすくなくともかなりに正確でなければならぬのであらう。そこで私は積極的に彼を云々して間違ひだらけの批評をするよりは、宮崎からちよつとも離れずに筆を運んでゆくたしかな方法をとるのである。即ち私は直接に彼の芸術を云々すること少くして規定の枚数を越してしまへばよいわけなのである。かりにも一個の人間を論じて、その作品を上手だとか下手だとか言ふことは全くコケ者の弁舌であつて、おそらくはその筆者がなんと言つてよいのかわからなくなつてからの批判でしかないのであらう。又、第三者の眼になれぬことであるからといつて、宮崎孝政のすることが宮崎孝政らしくないといふことは一つとしてあり得ないのである。
詩人としての彼は勿論他の誰にでもあるやうにいくつかの短所をもつてゐるのであらう。だが、それらの短所はひとつとして彼自身には欠点とはならぬのである。この不思議は彼の強力な自信がなすのであるが、このことなどがいつも私をうれしがらせるのである。そんなわけで、彼は沢山のよいところをもつてゐるのであるが、彼の作品が時には人間の息をしてゐるといふことも立派にその一つなのであるが、彼のその一つ一つを列きよして困難な言葉で私が無理に諸君に説明しなければならないわけのないことは当然なことであらう。それこそ彼自身によつて心ゆくまで彼の手でなされるべきであるだらう。彼は詩人としては既に定評があり、最近は「鯉」といふ第二詩集を出版したのだ。私が彼に就て論ずるべき何ものをも残さずに、彼はその全部を彼自身でなしてゐるのである。
又、彼のことを鋼だとか岩のやうだとか松の木の株だとか古武士の面影だとか魚類であれば大きいさざえだとかそれから獣類ならなんだとか言ふのである。が、宮崎孝政とは、宮益坂の上の松友館の二階の部屋に一人で炬燵に入つてゐたり、肉鍋屋でやさしい顔をしてゐたり、橙一郎と肩を列らべて歩いてみたり、勿論その他何か胸にこたへて眼をむいてゐたり、久しぶりで詩を一つものしたときの、何か腹をたててゐるときの、郷里からの便りを読んでゐるときの――、鉱物でも魚類でも面影でもない、何に例へることも出来得ない宮崎孝政その人でなけれはならないのである。
彼は他の人々の作品に就てはほとんどそのよしあしをロにしないが、それは彼の用心深さを示すのである。彼は又、彼の作品に対しての他の人々の評言にはその人のいゝやうに言はして置けばよいと言ふ一つのきまりを用意してゐるのである。それは言ふといふ――他に言ふことであつて、彼自身のそれに対しての耳はその言ふこととは相違のある何か(これは彼の大切な秘密)なのである、この彼の大切な秘密とはなんであるか。秘密とは「心」のことであり、彼の強力な自信と関係のあることであらう。だが、その心は彼の胸の中にあつてこそ相当の値があるのであつて、こゝに鈍刀をふりかざして諸君の眼前に彼の胸を切り開いたところで、諸君は何ものをも眼にみることは出来ぬであらう。諸君のために色をつけ、言葉を飾つて心を語ることは、青色の色紙を諸君に示して「この紙は青を塗る前は白かつたのだ」といふやうなことにしかならぬのである。勿論賢明なる諸君であるからには、白以外のあらゆる色を諸君に示して「こゝにない色が即ち白である」といふ方法もあるのであるがそれが玉手箱の如きものであるからには蓋をあけて諸君を白髪の爺としてしまつてはならぬのだ。又、「宮崎孝政の玉手箱」こんな言葉も誤り伝へられあまつさへはやり出したりなどしてはならぬのだ。
(詩神第五巻第十一号 昭和4(1929)年11月発行)
[やぶちゃん注:宮崎孝政(明治33(1900)年~昭和52(1977)年)は教員をしながら詩作、大正10(1921)年に『現代詩歌』誌上で詩壇デビュー。盟友であった詩人杉江重英(明治30(1897)年~昭和31(1956)年)らが創刊した詩誌『森林』同人となる。大正15(1926)年には教職を辞して上京、本篇所載の『詩神』に拠る。同年9月に処女詩集『風』(森林社)より刊行、昭和3(1928)年には、実は『詩神』の編集に辣腕を揮っており、ここで尾形も述べている通り、早くもこの昭和4(1929)年9月には第二詩集『鯉』(鯉発行所)を刊行していた。そうした身内の雰囲気がこの狙ったように一見冗漫な詩人論には漂っている。戦後は昭和28(1953)年に発表した作品を最後に筆を折った。
・「列きよ」はママ。
・「松友館」未詳。『詩神』の編集室が渋谷宮益坂のこのビルにあったか。私には大学時代に通った友のバイトする珈琲店のあった懐かしい場所だ。
・「橙一郎」月原橙一郎(明治35(1902)年~?)は詩人。本名、原嘉章。詩集『冬扇』(昭和3(1928)年大地舎刊)等。]
さてもこれに僕の注を附して、近日公開予定――
*
九一四 六月十四日
北京から 芥川道章宛
北京着山本にあひました唯今支那各地動亂の兆あり餘り愚圖々々してゐると、歸れなくなる惧あれば北京見物すませ次第(大同府の石佛寺まで行き)直に山東へ出で濟南、泰山、曲阜、見物の上、青島より海路歸京の筈、滿洲朝鮮方面は一切今度は立ち寄らぬ事としましたその爲旅程は豫期の三分の二位にしかなりませぬが、やむを得ぬ事とあきらめます今度の旅(漢口より北京まで)は至つて運よく、宜昌行きを見合せると宜昌に掠奪起り、漢口を立てば武昌(漢口の川向う)に大暴動起り(その爲に王占元は部下千二百名を銃殺したと云ふ一件)すべて騷動が僕の後へ後へとまはつてゐますこれが前へ前へまはつたら、どんな目にあつたかわかりません體はその後ひき續き壯健この頃は支那の夏服を着て歩いてゐます支那の夏服はすつかり揃つて二十八圓故、安上りで便利ですしかも洋服より餘程涼しい北京は晝暑くても夜は涼しい所です六月末か遲くも七月初には歸れますからそれが樂しみです。山東は殆日本故、濟南へ行けばもう歸つたやうなものです。漢口よりの本屆きましたかあれは運賃荷造り費共先拂ひ故よろしく願ひますまだ北京でも本を買ひます叔母さんにさう云つて下さい袋はとうとう使はずじまひです。南京蟲に食はるのなぞは當り前の事になつてしまひました。僕が東京へ歸る日は前以て電報を打つ故皆うちにゐられたし伯母さんもその日は芝へ行かずにゐられたし芝と云へば弟は眞面目に商賣をやつてゐますか 以上
六月十四日 芥川龍之介
芥川皆々樣
二伸 文子雜誌に何か書いた由諸所の日本人より聞き及びたれどまだ僕自身は讀まず惡い事ならねば叱りはせねど餘り獎勵もせぬ事とは存ぜられたし山本瑤子よりは芥川比呂志の方利巧さうなりもう立てるやうになりしや否や
九一五 六月十四日
北京から 岡榮一郎宛 (絵葉書)
北京着北京はさすがに王城の地だ此處なら二三年住んでも好い
夕月や槐にまじる合歡の花
六月十四日 東單牌樓 我鬼生
九一六 六月二十一日
北京から 室生犀星宛 (繪葉書)
拜啓北京にある事三日既に北京に惚れこみ侯、僕東京に住む能はざるも北京に住まば本望なり昨夜三慶園に戲を聽き歸途前門を過ぐれば門上弦月ありその景色何とも云へず北京の壯大に比ぶれば上海の如きは蠻市のみ
九一七 六月二十四日
北京から芥川宛(繪葉書)
ボク大同へ行かんとする所にストライキ起り汽車不通となる。やむを得ず北京に滯在、漢口より送りし本とどき候や香やこちらはもう眞夏なり、この手紙に返事出す事勿れ返事が來るには十日かかる十日たてばもう北京にゐない故に御座候 以上
下島先生より度々手紙頂き候お禮を申上下され度候
上海より村田君章氏の書を送つた由これ又とどき候事と存じ候
九-八 六月二十四日
日本東京市外田端五七一 瀧井折柴君(繪葉書)
北京は王城の地なり壯觀云ふべからず御府の畫の如き他に見難き神品多し 目下大同の石佛寺に至らむとすれどストライキの爲汽車通ぜず北京の本屋をうろついてゐる 以上
二十四日 龍之介
九一九 六月二十四日
日本東京市外田端自笑軒前 下島勳樣 (繪葉書)
度々御手紙ありがたう存じます 僕目下支那服にて毎日東奔西走してゐます 此處の御府の畫はすばらしいものです(文華殿の陳列品は貧弱)北京なら一二年留學しても好いと云ふ氣がします 又本を買ひこみました
二十四日 我鬼
九二〇 六月二十四日
北京から 中原虎雄宛 (繪葉書)
僕は今北京にゐます北京はさすがに王城の地です、僕は毎日支那服を着ては芝居まはりをしてゐます 以上
六月二十四日 北京東單牌樓 芥川龍之介
九二一 六月二十七日(推定)
日本東京市本郷區東片町百三十四 小穴隆一樣
二十七日 (繪葉書)
花合歡に風吹くところ支那服を着つつわが行く姿を思へ
二科の小山と云ふ人に遇つた君と同郷だと云つてゐた文華殿の畫は大した事なし、御府の畫にはすばらしいものがある畫のみならず支那を是非一度君に見せたい
九二二 七月十一日
北京崇文門内八寶胡同大阪毎日通信部内 鈴木鎗吉樣
七月十一日朝 蠻市瘴煙深處 芥川龍之介
天津貶謫行
たそがれはかなしきものかはろばろと夷(えびす)の市にわれは來にけり
夷ばら見たり北京の駱駝より少しみにくし駿馬よりもまた
ここにしてこころはかなし町行けどかの花合歡は見えがてぬかも
支那服を着つつねりにし花合歡の下かげ大路思ふにたへめや
我鬼戲吟
二伸 波多野さんによろしく
三伸 福田氏(上海)への三弗こちらから送ります 御送に及びません 唯扶桑舘の茶代及女中の心づけを多からず少からず願ひます 多すぎる心配は無用だらうと思ひますが、
それから立つ前中山君に會ひながら扇の御禮を云はずにしまつた よろしく御禮を云つてくれ給へ
索漠たる蠻市我をして覊愁萬斛ならしむ一日も早く歸國の豫定
九二三 七月十二日
天津から南部修太郎宛(繪葉書)
昨日君の令妹の御訪問をうけて恐縮したその時君の手紙も受取つた偉さうな事など云はずに勉強しろよ僕は近頃文壇とか小説とか云ふものと全然沒交渉に生活してゐる、さうして幸福に感じてゐる寫眞中書齋に於ける僕は美男に寫つてゐるから貸してやつても好い窓の所で寫たのは唐犬權兵衞の子分じみてゐるから貸すべからず 以上
九二四 七月十二日
日本東京市本郷區東片町百三十四 小穴隆一君
七月十二日 (繪葉書)
天津へ來た此處は上海同樣蠻市だ北京が戀しくてたまらぬ
たそがれはかなしきものかはろばろと夷(エビス)の市にわれは來にけり
此處にして心はかなし町行けどかの花合歡は見えがてぬかも
天津 我鬼
二伸 一週間後はもう東京にゐる
九二五 七月十二日
天津から 芥川宛 (繪葉書)
今夜半發の汽車にて歸京す暑氣甚しければ泰山、曲阜皆やめにしたり一週間後には必東京にあるべし右とりあへず御報まで
七月十二日 天津 芥川龍之介
九二六 七月
天津から
安徽省蕪湖唐家花園齋藤貞吉樣 (繪葉書)
お前の手紙は英語のイデイオムを使ひたがる特色ありこは無きに若かざる特色なりされど亦お前を愛せしむる特色なり僕はお前の手紙を讀んでお前が一層可愛くなつたお前を可愛がらぬ五郎は莫迦なり僕お前の所へChinese Profilesと云ふ本を忘れたりあの本紀行を書くには入用故東京市外田端四三五僕まで送つてくれ兎に角蕪湖でお前の世話になつた事は愉快に恩に着たき氣がする僕北京で腹下しの爲め又醫者にかかつた今夜歸國の程に上る一週間後はもう東京にゐるべしお前の健康を祈る北京で蝉の聲をききお前を思ひ出した蕪湖には今もブタが横行してゐるだらうな何だかゴタゴタ書いたもう一度お前の健康を祈る僕のやうに腹下しをするなよ さやうなら
天津 我鬼
*
芥川龍之介中国旅行関連書簡群 完
九〇三 五月二十三日
日本東京市外田端自笑軒前 下島勳樣
五月二十三日 (繪葉書)
廬山をすつかり見物するには一週間ばかりかかるさうです 旅程を急ぐ爲山上に一夜とまつて明朝九江へ下りすぐに漢口へ上るつもりです 今の廬山は殆西洋人どもの避暑地にすぎません
二伸 蕪湖にて御手紙拜見、難有く御禮申上げます 廬山行同行は竹内栖鳳氏、
九〇四 五月三十日
長沙から 與謝野寛 同晶子宛 (繪葉書)
しらべかなしき蛇皮線に
小翠花(セウスヰホア)は歌ひけり
耳環は金(きん)にゆらげども
君に似ざるを如何にせむ
コレハ新體今樣デアリマス長江洞庭ノ船ノ中ハコンナモノヲ作ラシメル程ソレホド退屈ダトオ思ヒ下サイ 以上
五月三十日 湖南長沙 我鬼
九〇五 五月三十日
長沙から松岡讓宛(繪葉書)
揚子江、洞庭湖悉濁水のみもう澤國にもあきあきした漢口ヘ引返し次第直に洛陽、龍門へ向ふ筈
二伸先生の所に孝胥の書が一幅あつたと思ふが如何上海で僕も孝胥に會つた 頓首
長沙 卅日 芥川生
九〇六 五月三十日
長沙から 吉井勇宛(繪葉書)〔轉載〕
[やぶちゃん注:「〔轉載〕」はこの書簡文が原書簡から起こしたのではなく、昭和4(1929)年2月27日発行の『週刊朝日』からの転載であることを示している。但し、昭和4年7月『相聞』にもこの書簡の影印が掲載されている、と後記にはある。それ以降に、所在が分からなくなったものらしい。]
河豚ばら揚子(ヤンツエ)の河に呼ぶ聞けば君が新妻まぐと呼びけり
五月三十日 湖南長沙 我鬼
九〇七 五月三十日
長沙から 石田幹之助宛 (繪葉書)
長沙に來り葉德輝の藏書を見たり葉先生今蘇州にありあの藏書三十五萬卷皆賣拂ふ意志ある由君の所では買はないか好ささうな本があるぜ詳しくは觀古堂藏書目四卷見るべし僕明朝漢口に歸り、二三日後洛陽へ行く筈 以上
九〇八 五月三十一日
日本東京市外田端五七一 瀧井折柴樣
五月卅一日 長沙 我鬼 (繪葉書)
君はもう室生氏のあとへ引きこした由僕は本月中旬にならぬと北京へも行けぬ上海臥病の祟りには辟易した長沙は湘江に臨んだ町だが、その所謂清湘なるものも一面の濁り水だ暑さも八十度を越へてゐるバンドの柳の外には町中殆樹木を見ぬ 此處の名物は新思想とチブスだ 以上
九〇九 六月二日
漢口から 薄田淳介宛
啓最初約束すらく「原稿は途中から送ります」と今にして知るこの約束到底實行しがたしその故は僕陸にあるや名所を見古蹟を見芝居を見學校を見るの餘暇は歡迎會に出席し講演會に出席し且又動物園の山椒魚を見んと欲する如く僕を見んと欲する諸君子を僕の宿に迎へざるを得ず、僕水にあるや船長につかまり事務長につかまり、時にその所藏の贋書僞畫を恭しく拜見せざる可らずその間に想を練り筆を驅らんとせば唯眠を節すべきのみこれ僕を神經衰弱にする所以にして到底長續きすべからず(二日程やつて辟易せり)私に思ふ澤村先生紹介の藥聊利きすぎたるものの如し是に於て僕やむを得ず歸朝後に稿を起さんと欲す、しかも目に見る所、耳に聞く所、忘却し去るを恐るゝが故に、街頭にあると茶樓にあるとを問はず直に手帖を出してノオトを取るこれ僕の近状なり。僕の約を守らざる、責められざれば幸甚なり。且僕上海に病臥する事二旬、時當に孟夏に入らんとす。即ち宜昌峽を見るを抛ち、西安行きを抛ち、僅に洛陽龍門を見て匆々北京に赴かんと欲す。蓋宜昌峽を見るは必しも僕の任にあらず。西安は戰塵未收まらずして實は龍門さへ行かれぬやうな風説を塗に聞くが故なり。天愈暑からんとして嚢底漸冷かならんとす。遊子今夜愁心多し。草々不宜
芥川龍之介拜
薄田先生 侍史
九一〇 六月六日
日本東京市本郷區東片町百三十四 小穴隆一君 (繪葉書)
子供に御祝の畫を下すつた由家書を得て知る、難有く御禮申上げますこれは朱子の白鹿書院、うしろの山は廬山です僕聊支那に飽き、この頃敷島の大和心を起す事度々
六月六日 漢口 龍之介
金農と云ふ清朝の畫かき君のやうな書を書く號を多心先生、詩も作る歸つたら複製を御めにかけます
九一一 六月 漢口から
芥川道章宛
拜啓 御手紙漢口にて拜見その後多用の爲御返事今日まで延引しました體はますます壯健故御安心下さい小包の數不審です、今日までに送つたのは
上海より箱六つ 包三つ(コノ内一ツハ後ニテ出シタリ古洋服包)
南京より靴と古瓦(コレハ幾ツニ包ンダカ知リマセン賓來館ノ亭主ニマカセタカラ)
この手紙に書留めの受取りを同封しますから全體の數が合はなかつた節は受取を郵便局へ持ち行き御交渉下さい但し箱幾つ包み幾つと云ふ事は僕の記憶ちがひもあるか知れぬ故全體の數にて御教へ下さい(但シ受取は上海より出した最初の八つだけのです。つまり古洋服包みの外八つあればよいのです)それから箱の上に書いた册數は出たらめです。又中につめた古新聞は當方にてつめたのです。それ故もし小包の數さへ合へば包みを解き、中の本を揃へて下さい。御面倒ながら願ひます。
多分小包みは紛失してもゐず、中の本も紛失してゐぬ事と思ひます 又漢口にて五六十圓本を買ひましたから、明日送ります 包みの數はまだわかりません。僕むやみに本を買ふ爲その他の費用は大儉約をしてゐます漢口では住友の支店長水野氏の家に厄介になつた爲、全然宿賃なしに暮せました。支那各地至る所の日本人皆僕を優遇します。小説家になつてゐるのも難有い事だと思ひました。
明日漢口發、洛陽龍門を見物(三四日間)それから北京へ入ります。漢口を出れば旅行は半分以上すんだ事になります。
小澤、小穴の親切なのは感心です。ハガキの禮状を出しました
内地にゐるとわからないでせうが、僕晝間は諸所見てあるき、夜は歡迎會に出たり、ノオトを作つたりする爲非常に多忙です。新聞の紀行も歸朝後でないととても書けぬ位です。ですからこの位長い手紙を書くのは大骨です。諸方へはがきを書く爲、睡眠時間をへらしてゐる位です。
もう當地は七月の暑さです。
九江にて池邊(本所の醫者)のオトさんに遇ひました二十年も日本で遇はぬ人に九江で遇ふとは不思議です。今は松竹活動寫眞の技師をしてゐます。
皆樣御體御大切に願ひます。夜眼をさますとうちへ歸りたくなる。さやうなら
龍之介 拜
芥川皆々樣
二伸 北京の山本へも手紙を出しました。伯母さんは注射を續けてゐますか。あんまり芝へばかり行つてゐると芝の子が可愛くなつてうちの子が可愛くなくなる。なるべくうちにゐなさい。
九一二 六月六日
日本東京市下谷區下谷町一ノ五 小島政二郎樣(繪葉書)
今夜漢口を發して洛陽に向ふ、龍門の古佛既に目前にあるが如し 然れど漢口に止まる一週日、去るに臨んで多少の離愁あり
白南風や大河の海豚啼き渡る
六月六日 漢口 我鬼
九一三 六月十日
日本東京市外田端天然自笑軒前 下島勳樣
六月十日 河南鄭州 我鬼生 (葉書)
やつと洛陽龍門の見物をすませました龍門は天下の壯觀です 洛陽は碑林があるばかり、城外には唯雲の如き麥畑が續いてゐます 支那もそろそろ陝西の戰爭がものになりさうです 小生も側杖を食はない内に北京へ逃げて行く事にします 以上
(コノ旅行ハ支那宿、支那馬車ノ苦シイ旅行デス)
*
――以下、続く――
八八七 五月二日
日本東京市牛込區早稻田南町七夏目樣方 松岡讓樣 (繪葉書)
杭州より一筆啓上、西湖は小規模ながら美しい所なりこの地の名産は老酒と美人、
春の夜や蘇小にとらす耳の垢
五月二日 芥川龍之介
八八八 五月二日
日本東京京橋區尾張町時事新報社内 佐々木茂索君 (繪葉書)
西湖は余り纖巧な美しさが多すぎて自由な想像を起させない(雷峰塔だけは例外だが)今日西湖見物の序に秋瑾女史の墓に詣でた墓には「鑑湖秋女俠之墓」と題してある女史の絶命の句に曰「秋風秋雨愁殺人」この頃の僕には蘇小々より女史の方が興味がある
五月二日 龍之介
二伸 僕の通信は時事には發表しないでくれ給へ社の方がやかましいから 以上
八八九 五月四日
杭州から 南部修太郎宛(繪葉書)
杭州に來た今新々旅館の一室に名物の老酒をひつかけてゐる窓の外には月のない西湖、もうの螢の飛ぶのが見える多少のノスタルジア 以上
二伸 立つ前に寫眞を難有う
八九〇 五月五日
上海から江口渙宛(繪葉書)
西湖から又上海へ歸つて來たもう上海も一月になる尤もその間二十日は病院にゐた今日は蒸暑い雨降り、隣の部屋には支那の藝者が二人來て胡弓を引いたり唱つたりしてゐる二三日中には蘇州から南京の方へ行くつもりだ
燕や食ひのこしたる東坡肉
五月五日 我鬼
八九一 五月五日
日本東京市外田端天然自笑軒前 下島勳樣
上海 我鬼 (繪葉書)
昨日杭州より歸來、西湖は明畫じみた景色です 夜はもう湖の上に螢が飛んでゐるのに驚きました 杭州は名高い老酒の産地ですが僕のやうな下戸では仕方がありません
燕や食ひ殘したる東坡肉
東坡肉と云ふ料理が脂つこい所を見ると東坡も今の支那人のやうに脂つこいものが好きだつたのでせう
五月五日
八九二 五月五日
上海から 芥川道章宛
拜啓その後無事消光いたし居候間御安心をねがひます昨日杭州からかへりました二三日中には蘇州南京から漢口の方へ行くつもりです今日五月五日につき比呂志の初の節句だなと思ひました皆々樣御丈夫の事と存じます御用の節は(御用がなくても)支那湖北漢口英租界武林洋行内宇都宮五郎氏氣附僕にて手紙を頂けば結構です梅雨前は日本も氣候不順と思ひます伯母樣なぞは特に御氣をおつけ下さいお父樣もあまり御酒をのむべからず支那にもお母樣のやうな鼻をしたお婆さんがゐます文子よりもつと肥つた女もゐますなほ別封は上海の新聞切拔です僕の事が三日續きで出るなぞは恐縮の外ありませんそれから上海から小包にて本を送りました南京蟲をよくしらべた上二階にでもお置き下さいずゐぶん澤山の本ですよ 以上
二伸この間家へかへつた夢を見ました本所の家でした義ちやんが來てゐました皆が幽靈だと云つて逃げました伯母さんは逃げませんでした眼がさめたら悲しくなりました夢の中では比呂志がチヨコチヨコ駈けてゐました上海の奧さん連が僕に銀のオモチヤをくれました(一つ二十圓位のを二つ)文子の御亭主上海では大持てです 以上
五月五日 龍之介
皆々樣
八九三 上海から(推定)
宛名不明 (下書き)
目下上海にぶら/\してゐる 上海語も一打ばかり覺えた この地の感じは支那と云ふより西洋だ しかも下品なる西洋だね 僕の今坐つてゐる料理屋にも日本人の客は僕一人あとは皆西洋人だ 壁上の英國の皇后陛下の寫眞がそれを愉快さうに見下してゐる
八九四 五月十日
蘇州から芥川宛(繪葉書)
その後ずつと丈夫です一昨日當地著明日は揚州へ參ります本はつきましたか明日は揚州明後日は南京へ行きます 以上
八九五 五月十日
蘇州から岡榮一郎宛(繪葉書)
一昨日蘇州着蘇州は杭州より遙に支那的なり水に臨める家家の気色は直に聯芳樓記を想起せしむは 今日蘇州發明日揚州にある可く候 以上
五月十日 芥川龍之介
八九六 五月十日
日本東京本郷區東片町百三十四 小穴隆一君
五月十日 蘇州 我鬼(繪葉書)
上海にずつと風の爲寢てゐたその爲無沙汰してすま亨なく思ひます昨今やつと旅行開始手始に杭州から蘇州へ來ましたこの孔子廟は宏大なものだが蝙蝠の巣になつてゐる 行くと廟内に雨のやうな音がするから何かと思ふと蝙蝠の羽音だと云ふから驚く 床は糞だらけ、恐る可く臭い明日は揚州へ參る筈 以上
二伸 碧童先生宛の手紙は皆よんでくれましたか
八九七 五月十日
日本東京市外田端天然自笑軒前 下島勳樣
五月十日 我鬼(繪葉書)
外はともかく蘇州だけは先生におめにかけたいと思ひました 寒山寺は俗惡無双ですが天平山の如きは一山南画中の山景です 以上
二伸 明日は揚州に入るつもりです
八九八 五月十四日
南京から 中戸川吉二宛(繪葉書)
蘇州では留園と西園とを見た西園は留園の規模宏壯なのに到底及ばぬしかしどちらも太湖石や芭蕉や巖桂が白壁の院落と映發してゐる所は中々見事だ願くばあんな邸宅に一日中支那博奕でも打ちくらして見たい
八九九 五月十六日
日本東京市本郷區片町百三十四 小穴隆一君(繪葉書)
明後日上海鳳陽丸にて漢口へ向ふ筈、どうも健康が確かでないから廬山に登る事は見合せすぐに漢口から北京へ行かうと思ふ支那へ來てもう河童の畫を二枚書いた
五月十六日 上海 龍之介
[やぶちゃん注:底本では空行なしで『〔裏に南京名所烏龍潭の寫眞あり。余白に〕』とある。次の一文が、この洋装の兵隊が写りこんだ烏龍潭の繪葉書の写真の余白に書き入れられているということである。]
支那ノ風景ハ全然西洋ノ文明ト調和シナイ コノ兵隊ノ無風流サヲ見給へ
九〇〇 五月十七日
上海から芥川道章宛
その後杭州、揚州、蘇州、南京等を經めぐりましたこの分で悠々支那旅行をしてゐると秋にでもならなければ歸られないかも知れませんそれでは閉口ですから廬山、三峽、洞庭等は悉ヌキにしてこれからまつすぐに漢口から北京へ行つてしまふつもりですいくら支那が好いと云つても宿屋住まひを二月もしてゐるのは樂なものぢやありません體は一昨日もここの醫 者に見て貰ひましたが、一切故障はないと云ふ事でした寫眞はとどきましたかもう少しすると揚州や蘇州で寫した寫眞がとどきます南京で比呂志の着物を買ひました支那の子供がお節句の時に着る虎のやうな着物ですあまり大きくないから此呂志の體ははひらないかも知れません尤もたつた一圓三十錢です僕は見つかり次第本や石刷を買ふ爲目下甚貧乏です北京へ行つたら大阪の社から旅費のつぎ足しを貰ふつもりです(病院費用も三百圓程かかりましたから)一日も早く北京へ行き一日も早く日本へ歸りたいと思つてゐます今晩船に乘り五日目に漢口着そこから北京は二晝夜ですからもう一週間すると北京のホテルに落着けます手紙は北京崇文門内八寶胡同波多野乾一氏氣附で出して下さい皆々樣御無事の事と思つてゐます叔母さんは注射を續けてゐますか、注射は靜脈注射よりも皮下注射の方がよろしいやつてゐなければこの手紙つき次第お始めなさい支那には草決明と云ふお茶代りの妙藥があります僕の實驗だけでも非常に效き目が顯著です歸つたら叔母さんにもお母さんにも飮ませますそれから文子へ、もし人參のエキスがなくなつてゐたら、早速買つてお置きなさいあれば誰でものむけれどないとついのまないから。ついのまないと云ふのが養生を怠る一歩です。
五月十六日 芥川龍之介
芥川皆々樣
二伸 唯今手紙落手しました呉服なぞは目下貧乏で買へません土産は安物ばかりと御思ひ下さい
九〇一 五月二十日
日本東京市本郷區片町一三四 小穴隆一君
蕪湖 龍 (丁悚油繪、高璞女士像の繪葉書)
これは現代支那の洋畫なり日本畫でも近頃上海の日本人倶樂部に展覧會を催した支那人ありこの先生は栖鳳なぞの四條末派の影響を受けてゐた要するに現代支那は藝術的にダメのダメのダメなり、
五月二十日
九〇二 五月二十二日
廬山から 石黑定一宛 (繪葉書)
上海を去る憾む所なし唯君と相見がたきを憾むのみ
留別
夏山に虹立ち消ゆる別れかな
大正十年五月二十二日 廬山 芥川龍之介
*
――以下、続く――
八八二 四月二十四日
上海から芥川道章宛
拜啓上海着後風邪の全快致し居らざりし爲乾性肋膜炎を起しただちに里見病院へ入院、治療し候所幸手當早かりし經過よろしく今日退院致す事と相成候されどこの爲約三週間あまり病院生活を致し侯爲豫定に大分狂ひを生じ候へば北京へ參るのも五月下旬に相成る事と存じ侯もし今後體の具合惡く候はば北京行きは見合せ、揚子江南岸のみを見物して歸朝致すべく候入院中手紙かんかと思ひ候も入らざる御心配をかけて詮なき事と存じ今日までさし控へ候されど一時は上海にて死ぬ事かと大に心細く相成候幸西村貞吉、ジヨオンズなど居り候爲何かと都合よろしくその外知らざる人もいろいろ見舞に來てくれ、病室なぞは花だらけになり候且又上海の新聞などは事件少き故小生の病氣の事を毎日のやうに掲載致し候井川君の兄さんには「まるで天皇陛下の御病氣のやうですな」と苦ひやかされ候今後は一週間程上海に滯留の上杭州南京蘇州等を見物しそれより漢口の方へ參るつもりに候 以上
四月二十四日 上海萬歳館内 芥川龍之介
芥川皆々樣
二伸 宿所録並に父上文子の手紙確に落手致候今後も北四川路村田孜郎氏方小生宛手紙を下さらばよろしく候その節はなる可く母上伯母上も御かき下され度日本を離れると家書を讀む事うれしきものに候
末筆ながら父上御酒をすごされぬやう願上候病氣以來小生も支那旅行中一切禁煙の誓を立て候兎に角病氣になると日本へ歸りたくなり候されど社命を帶びて來て見ればさうも行かずこの頃は支那人の顏を見ると病にさはり侯
八八三 四月二十四日
上海から 薄田淳介宛
拜啓その後御無音にうちすぎました度々御見舞を頂き難有く存じます小生の病氣はやはり大阪の風邪が十分癒つてゐなかつた爲乾性肋膜炎を起したのです醫者は一月程靜養しろと云ひましたが手當てが早かつたせゐか咽喉の加太兒を除き殆平癒しましたから早速見物旅行に出かけようと思ひますもしその途中又惡くなつたら見物は一まづ長江沿岸宜昌までに切り上げ一度歸京養生の上北京へは秋に行かうかとも思つてゐます勿論この儘體の具合がよければすぐに漢口から北京へ向ひます出直すとなると億劫ですから。この手紙はとうに書くつもりでしたが病中病後の懶さの爲今日まで延引しました不惡御ゆるし下さい昨日退院今日はこれから村田君と支那文人訪問に出かける所です。昨日は退院後すぐに城内を見物、乞食と小便臭いのとに少からず驚嘆しました 以上
四月廿四日 上海萬歳館 芥川龍之介
薄田淳介樣
八八四 四月二十五日
上海から 岡榮一郎宛(繪葉書)
この公園Public Gardenと云へど支那人の入るを許さずしかもシベリア邊から流れこんだ碧眼の立ん坊はぞろぞろ樹下を徘徊してゐる
四月二十五日 上海 芥川生
八八五 四月二十六日
日本東京市京橋區尾張町時事新報社内 佐々木茂索君
二十六日 (繪葉書)
鄭孝胥、章炳麟なぞの學者先生に會つた鄭先生要は書ではずつと前から知つてゐたから會つた時にはなつかしい氣がした 章先生も同樣。この先生はキタナ好きだものだから細君に離婚を申込まれたさうだが襟垢のついた着物を着て古書堆裡に泰然としてゐる所は如何にも學究らしかつた
上海 龍
二伸「その日次の日」新潮に載る由可賀稻田君にはがきを書きたいが住所不明につき書けない よろしく云つてくれ給へ
八八六 四月三十日
上海から澤村幸夫宛
拜啓先達は御手紙難有く存じますその後やつと病氣快復毎日人に會つたり町を歩いたりして居りますさうなつて見ると何處へ行つても必人が「澤村さんから手紙が來ましてetc.」と云ひます私の爲にあなたが方々へ紹介状を出して下さつた難有さが異國だけに身にしみますおかげで短い日數にしては可成よく上海を見ましたこれは村田君も保證してくれます人では章炳麟、鄭孝胥、李經(?)邁等の舊人及余穀民李人傑等の新人に會ひました李人傑と云ふ男は中々秀才です場所は徐家匯以外大抵一見をすませました徐家匯は領事館がまだ見物許可證をくれないのです御教示の書物はまだ見つかりません明後日は杭州へ出かけます 頓首
四月三十日 芥川龍之介
澤村先生 侍史
[やぶちゃん注:底本では「徐家匯」の「匯」は(くがまえ)の左に(へん)として「氵」が出る字体であるが、通用字体に改めた。]
*
――以下、続く――
右手不具合にして鬱鬱として職場に行く気力も失せたり――今朝よりこんなものを始めて憂いを忘れんとするなり――取り敢えず上陸まで――
*
芥川龍之介中国旅行関連書簡群(全50通)
[やぶちゃん注:以下は、芥川龍之介が大正十(1921)年に大阪毎日新聞社特派員として中国に派遣された際の、旅行前、中国派遣がはっきりと文面に現れる書簡から外地からの最後の発信迄、芥川龍之介の全50通を電子テクスト化したものである。底本は岩波版旧全集第十一巻の132頁から164頁を使用した。従って、書簡番号は岩波版旧全集のものである。字の配置は底本に従わずに総て同ポイントとし、見出しは、書簡番号(一字空け)見出し日付で改行、四字下げで宛先(一字空け)宛名等で改行、四字下げ封書記載発信日(一字空け)差出人住所(一字空け)署名等とした。本文の最後の署名等、下部にインデントされているものは、ブラウザの関係上、原則、上部から二十字又は上部の語句から十字下げで記し、且つ署名・宛名の字間は詰めた。追伸も全体が二字下げとなっているが、左に揃えた。「候」の草書体は正字に直した。]
八五七 二月二五日
牛込區矢來町三新潮社内 中村武羅夫樣
二月廿五日
拝啓
今度社命により急に支那見物に出かける事となりましたその爲五月号の小説及び四月号の随筆はさし上げられまいと存じます 誠に手前勝手で恐縮ですが右樣の次第故不惡御海恕を願誓す 右常用のみこの手紙を書きました 頓首
二月二十五日 芥川龍之介
中村武羅夫樣
八五八 三月二日
田端から 薄田淳介宛
拜啓 先達はいろ/\御世話になり且御馳走を受け難有く御禮申上げます 次の件御尋ねします
(一)旅費とは汽車、汽船、宿料 日當とはその外旅行中日割に貰ふお金と解釋してかまひせんかそれとも日當中に宿料もはひるのですか
(二)上海までの切符(門司より)はそちらで御買ひ下さいますかそれともこちらで買ひますか或男の説によれば上海から北京と又東京までぐるり一周りする四月通用の切符ある由もしそんな切符があればそれでもよろしい
(三)旅行の支度や小遣ひが僕の本の印税ではちと足りなさうなのですが月給を三月程前借する事は出來ませんか
又次の件御願ひします
(一)旅行並びに日當はまづ二月と御見積りの上御送り下さいませんか僕の方で見積るより社の方で見積つて戴いた方が間違ひないやうに思ひますから
(二)出發の日どりは十六日以後なら何時でも差支へありませんこれも社の方にて御きめ下さい自分できめると勝手にかまけて延びさうな氣もしますから
右併せて五件折返し御返事下されば幸甚に存じます
旅立たんとして
春に入る柳行李の青みかな
我鬼 拜
薄田樣 梧右
八五九 三月四日
田端から 宮本勢助宛 (寫)
[やぶちゃん注:「(寫)」はこの書簡文が原書簡から起こしたのではなく、写しをもとにしていることを示す。]
拜啓 先達は參堂失禮仕候。さて御手紙この度は確に落手致候間左樣御承知下され度候。再度御面倒をかけ候段申譯無之重重御禮申上候。小生本月中旬支那へ參る事と相成居候爲目下拜趨の機を得ずこれ亦不惑御容捨下され度願上候。右とりあヘず當用まで如斯に候
三月四日 芥川龍之介
宮本勢助樣
八六〇 三月四日
本郷區東片町百三十四 小穴隆一樣
消印五日 三月四日 市外田端四三五 芥川龍之介
今卷紙なしこの惡紙にて御免蒙る
國粹いろいろ御手數をかけ感佩します僕の小説は駄目、急がされた爲おしまびなぞは殊になつてゐなささうです
今日中根氏が見本を見せに來ました表紙の藍の色が薄くなつた爲見返しの色彩が一層派手になつたやうです表紙の色の薄くなつた事は僕も知らなかつた故少し驚きましたそれから扉と見返しとの續きが唐突すぎる故紙を入れたい旨並に紙の質は何にしたら好いかと云ふ旨御宅へ伺ひに上るやうに云つて置きましたよろしく御取計らひを願ひますそれから見返しは和紙へ刷つた方が手數はかかつても紙代は安かつた由入らぬ遠慮をした事をひどく後悔してゐますまだ本文の刷にも多少不備な點がありしみじみ本一册造る事の困難なのを知りましたしかし新潮社としてはまあ精一杯の仕事故勘所する外はありません 唯一つあきらめられぬのは見返しに和紙を使はなかつた事ですこれは折角の君の畫を傷けたやうな氣がして君にすまないで弱つてゐます
愈月半に立つ事になりましたその前に入谷の大哥と小宴を開きたいと思ひます 以上
三月四日 芥川龍之介
小穴隆一樣
八六一 消印三月五日
京橋區尾張町時事新報社内 佐佐木茂索君
田端四三五 芥川龍之介 (葉書)
拜啓迭別會の事昨夜又考へるとどうしても小人數の方が好いやうな氣がして來た 大人數は僕の神經にこたへるのだ その旨菊池へも手紙を出した なる可く内輪だけの會にしてくれ給へ 今日小田原へ參る以上
八六二 三月七日
京都市下鴨森本町六 恒藤恭樣
消印八日 三月七日 東京市外田端四三五 芥川龍之介
啓
今この紙しかない 粗紙だが勘弁してくれ給へ 僕は本月中旬出發三月程支那へ遊びに行つて來る 社命だから 貧乏旅行だ谷森君は死んだよ 余つ程前に死んだ 石田は頑健 あいつは罵殺笑殺しても死にさうもない 藤岡には僕が出無精の爲曾はない成瀨は洋行した 洋行さへすれば偉くなると思つてゐるのだ 厨川白村の論文なぞ仕方がないぢやないかこちらでは皆輕蔑してゐる 改造の山本實彦に會ふ度に君に書かせろと煽動してゐる君なぞがレクチュアばかりしてゐると云ふ法はない 何でも五月には頂く事になつてゐますとか云つてゐた 僕は通俗小説なぞ書けさうもないしかし新聞社にもつと定見が出來たら即 評判の可否に關らず作家と作品とを尊重するやうになつたら長篇は書きたいと思つてゐる この頃益東洋趣味にかぶれ印譜を見たり拓本を見たりする癖が出來て困る小説は藝術の中でも一番俗なものだね
同志社論叢拜受渡支の汽車の中でよむ心算だ 京都も好いが久保正夫なぞが蟠つてゐると思ふといやになる あいつの獨乙語なぞを教つてゐると云つたつて ヘルマン und ドロテアは誤譯ばかりぢやないか
奧さんによろしく 頓首
三月七日午後 龍之介
恭 樣
八六三 三月十一日
田端から 薄田淳介宛
拜啓 今度はいろ/\御世話になり難有く御禮申上げます紹介状も澤山に今日頂きました大阪へは目下寄らぬつもりですが御用がおありなら一日位は日をくり上げてもかまひません折返し御返事を願ひますそれから紀行は毎日書く訣にも行きますまいが上海を中心とした南の印象記と北京を中心にした北の印象記と二つに分けて御送りする心算ですどうせ祿なものは出來ぬものと御思ひ下さい一昨日精養軒の送別會席上にて里見弴講演して曰「支那人は昔偉かつたその偉い支那人が今急に偉くなくなるといふことはどうしても考へられぬ支那へ行つたら昔の支那の偉大ばかり見ずに今の支那の偉大もさがして來給へ」と私もその心算でゐるのですそれからお金は一昨々日松内さんに貰ひましたもし足りない事があつたら北京から頂きますそれまでは澤山ですやはり送別會の席上で菊池寛講演して曰「芥川は由來幸福な男だしかし今度の支那旅行ばかりは少しも自分は羨しくない報酬がなければ行くのは嫌である」その報酬は二千圓ださうです事によると支那旅行と「眞珠夫人」と間違へてゐるのかも知れません以上とりあへず御返事まで 頓首
三月十一日 芥川龍之介
薄田淳介樣
二伸 澤村さんの本はまだ屆きません屆き次第御禮は申上げますがどうかあなたからもよろしく御鳳聲を願ひます それから何時か御約束した時事新報の通俗小説原稿料は一囘十圓だと云ふ事です朝日も恐らくその位でせう但し朝日は谷崎潤一郎に通俗小説を書かせる爲一囘二十圓とかの申込みをしたさうです 以上
八六四 三月十一日
田端から 菅虎雄宛
拜啓 洋畫家有田四郎君を御紹介申します 同君は忠雄さんなぞも御存じの鎌倉の住人です同君の友人小山東助氏の全集を出版するにつき表紙の文字を先生に御願ひしたいとか云ふ事でした
右よろしく御取計らひ下さらば幸甚です 頓首
三月十一日 芥川龍之介
菅先生 梧右
[やぶちゃん注:本書簡は中国旅行についての言及もなく無関係であるが、これだけを省略するのもおかしいので、出立前の雰囲気を伝えるための一つとして置いておく。]
八六五 三月十一日
田端から 小杉未醒宛
拜啓 支那旅行につきいろいろ御配慮に預りありがたく存じそろ漢口に參り侯節は必水野先生を御訪ね仕る可くそろなほ肇を以て次手を以て拙著一册右に戲じそろ文章のまづい所は皆誤植と思召被下度又嫌味なる所は皆作者年少の故と御見なし下さる可く侯 頓首
三月十一日 夜來花庵主
未醒畫宗 侍史
八六六 三月十三日
本郷區東片町百三十四 小穴隆一樣
三月十三日 市外田端四三五 芥川龍之介
拜啓
いろいろ御手數をかけ難有く存じます十六日までに出來れば好いがと思つてゐます十五日頃入谷の兄貴や何かと人形町の天ぷらを食ひに行きませんか古原草先生も行けば好都合です兎に角僕は午後三時頃最仲庵へ行きます(これから小澤遠藤兩先生へも手紙を出します)田村松魚と云ふ人が未見なるにも不關新潮の隨筆を見て柿右ェ門の鉢を一つ僕にやらうと云つて來ましたその時までに貰つたらおめにかけます空谷老人入谷大哥の「夜來の花」を見て曰不折なぞとは比べものになりませんな」と 頓首
三月十三日 夜來花庵主
一遊亭主人 侍史
[やぶちゃん注:八六〇書簡参照。]
八六七 三月十三日
田端から中根駒十郎宛
拜啓お孃さんの御病氣如何ですかさて夜來の花の裝幀につき小澤小穴先生へなる可く早く御禮上げてくれませんか津田青楓には二十五圓とか云ふ事ですがなる可く御奮發下さい印税は菊池なぞ一割二分の由小生春陽堂では一割二分ですが「夜來の花」は一割でよろしいその代り兩先生の方へ御禮を少し餘計出して頂きたいと思ひます右とりあへず御願ひまで 頓首
三月十三日 芥川龍之介
中根駒十郎樣
八六八 三月十六日
田端から田村松魚宛
拜啓 うづ福の茶碗わざわざ御持參下され恐入りそろ仰せの如く形も色も模樣も見事と申す外無之そろ御祕藏の品を頂戴仕候事心苦しくも難有くそろ早速拜趨申上ぐ可きのところ新聞社より支那旅行を申しつかり居り出發の日どりも二三日中に迫り居る次第につき何かと忙しく候へば失禮ながら書面にて御免蒙り候その段不惡御海恕下されたくひとへに願上そろいづれ歸來の節は拜眉の上御禮申上ぐ可くまづはとりあヘず鳴謝まで如斯に御座そろ
渦福のうつはの前に阿彌陀ぐみ夜來花庵主は涙をおとす
手にとればうれしきものか唐草はこと國ぶれる渦福の鉢
渦福の鉢ながむればただに生きしいにしへ人の命し思ほゆ
この鉢のうづの青花たやすげに描きて死にけむすゑものつくり
惡歌一咲をたまはらば幸甚にそろ
三月十六日 芥川龍之介
田村先生 侍史
八六九 三月十六日
田端から 澤村幸夫宛
拜啓 角山樓類腋昨日落手致しました旅行中御言葉に甘へて拜借致します難有うございました又小生の支那旅行につきいろいろ御配慮下さつた事を厚く御禮申上ます十九日朝東京發廿一日門司出帆の豫定故次便は禹域の地から差上げる事になるだらうと存じます右とりあへず御禮の爲草毫を走せました
留別
海原や江戸の空なる花曇り
三月十六日 芥川龍之介
澤村先生 侍史
八七〇 三月十七日
本郷區湯島三組町三十九 瀧井折柴樣
十七日 芥川龍之介 (葉書)
秋海棠が簇つてゐる竹椽の傾き
昨日は失禮その節は結構なものを難有う 頓首
[やぶちゃん注:本書簡は中国旅行についての言及もなく無関係であるが、これだけを省略するのもおかしいので、出立前の雰囲気を伝えるための一つとして置いておく。]
八七一 三月十七日
本郷區湯島三組町三十九 瀧井孝作樣(速達印)
十七日 芥川龍之介
啓
十八日午後御光來下さるやう申候も風邪の爲當日御面會いたしかね候十九日午後五時半門司へ下る筈に候へば十九日午後にても御ひまの節は御來駕下され度候 頓首
八七二 消印三月十七日
京橋區尾張町時事新報社内 佐々木茂索君(速達印)
芥川龍之介 (葉書)
啓 十八日午後御光來の由申候へども小生風邪につき十九日午後に御くりのべ下され度候 十九日午後五時半發門司へ下る可く候 頓首
八七三 三月十七日
本郷區東片町百三十四 小穴隆一君 (速達印)(葉書)
出發は十九日午後五時半になりましたとりあへず御知らせします碧、古兩先生にも通知しました 頓首
十七日 芥川龍之介
八七四 三月十九日
田端から中根駒十郎宛
啓 立つ前に參上する筈の所何かと多用の爲その機を得ず今日に至り候就いては別紙の諸先生へ拙著一部づつ書きとめにて御贈り下され度願上候代金は勝手ながら歸京の日までお待ち下され度候書き留めの受取りは御面倒ながら上海日本領事館氣附にて小生宛御送り下され度願上侯とりあへず當用のみ如斯に御座候 頓首
三月十九日 芥川龍之介
中根駒十郎樣
菊地寛 久米正雄 久保田万太郎 小宮豐隆 齋藤茂吉 島木赤彦 藤森淳三 岡榮一郎 佐佐木茂索 中村武羅夫 岡本綺堂 薄田泣菫 瀧井折柴 與謝野晶子 豐島與志雄 宇野浩二 江口渙 南部修太郎 加藤武雄 室生犀星 谷崎潤一郎
[やぶちゃん注:『夜来の花』謹呈者の名簿は、底本では全体が二字下げ。]
八七五 三月二十六日
大阪から芥川道章宛
啓 その後皆々樣おかはりなき事と存候 私東京發以來汽車中にて熱高まり一方ならず苦しみ候その爲大阪に下車致し停車場へ參られし薄田氏と相談の上新聞社の側の北川旅館へ投宿仕りすぐに近所の醫者に見て貰ひ候その醫者至極舊弊家にて獸醫が牛の肛門へ插入するやうな大きな驗温器なぞを出し候へば一向信用する氣にならずやはり唯の風邪の由にて頓服二日分くれ侯へどその藥はのまず私自身オキシフルを求めて含漱劑を造りそれから下島先生より頂戴の風藥服用しなほその上に例のメンボウにて喉ヘオキシフルを塗りなぞ致し候へば三十九度に及びし熱も兎に角三日ばかりの内に平温まで降り候然れば船も熊野丸は間に合はず廿五日門司發の近江丸に乘らんかと存居候さて大阪まで來りて見れば鋏、萬創膏、驗温器、ノオトブックなぞいろいろ忘れ物にも氣がつきそれらを買ひ集め侯へば自然入れ物が足りなくなりやむを得ずバスケット一つ買ふ事に致し候なほ私病氣は最早全快につき(今朝卅六度四分)御心配下さるまじく候 次便は上船前門司より御手許へさし上ぐべく候 草々
三月廿三日 龍之介
芥川道章樣
二伸 中川康子、菅藤高德 武藤智雄 野口米次郎(動坂ノ住人)四氏の宿所並に「新文學」の新年號の卷末にある文士畫家の宿所録を支那上海四川路六十九號村田孜郎氏氣附芥川龍之介にて送られたし 宿所録は「新文學」から其處だけひつ剥して送られたし
三伸 留守中は何時なん時紀行が新聞に出るか知れぬ故始終新開に注意し切拔かれ置かれたし
四伸 唯今薄田氏來り愈廿八日の船ときまり候廿六日か七日大阪を立ち候 宿所録はやはり上海へ送られたしこちらへ送つたのでは間に合はず候
五伸 大阪滯在中大阪毎日に一日書き候(日曜附録)それをも切拔かれたく候
まだ煙草の味も出ず鼻は兩方ともつまり居り不愉快甚しく候
同封の新聞は上海の新聞に侯小生の寫眞あれば送り候
伯母さんの風如何に候や無理をすると私のやうにぶり返し候間御用心大切に侯
比呂志事はおじいさん、おばあさん もう一人のおばあさんが面倒を見て下さる故少しも心配致さず侯
兎に角旅中病氣になると云ふ事はいやなものに候
早速下島先生の藥の御厄介になつた事よく先生に御禮申し下され度願上候
二十五日
八七六 三月二十六日
大阪から澤村幸夫宛
拜啓 支那の本中楊貴妃の生殖器等の事を書いた本と云ふのは何と云ふ本ですか御教示下されば幸甚ですなほそんな本で面白いのがあつたら御教へ下さいませんか僕の知つてゐる誨淫の書は金瓶梅。肉蒲團。杏花天。牡丹奇縁。痴婆子。貪官報。歡喜奇觀。殺子報。野叟曝言。如意君傳。春風得意奇縁。隔簾花影等です以上
三月二十六日 芥川龍之介
澤村幸夫樣
八七七 三月二十九日
筑後丸から芥川宛(繪葉書)
啓 咋日玄海灘にてシケに遇ふ船搖れて卓上の皿ナイフ皆床に落つ小生亦舟醉の爲もう少しにてへドを吐かんとす今日は天氣晴朗波靜にして濟州島の島影を右舷に望む明日午頃上海入港の筈 頓首
叔母さん風如何にや小生はもう全快し用心の爲禁煙致居候 以上
八七八 三月二十九日(推定)
小澤忠兵衛 小穴隆一宛 (封筒缺)
小澤忠兵ェ衛樣
小 穴 隆 一 樣
啓 出發の際は御見送下され難有存じます その後汽車の中にて發熱甚しくなり とうとう大阪に下車 一週間程北濱のホテルにねてゐました それから廿七日に大阪を立ち 廿八日門司から筑後丸へ乘りました。所が玄海にてシケを食ひ船の食卓の上の皿、ナイフなぞ皆ころげ落ちる始末故小生もすつかり船に醉ひ少からず閉口しました 舟醉と云ふものは嫌なものですな 頭がふらふらして胸がむかむかしてとてもやり切れません 尤も醉つたのは僕のみならず船客は勿論船員の中にも醉つた先生があります 船客中醉はなかつたのは亞米利加人一人、この男は日本人の妾同伴ですがシケ最中携帶のタイプライタアなぞ打つて悠々たるものでした
今日は天氣晴朗、午前中は濟州島が右舷に見えました 淡路より少し大きい位ですが住んでゐるのが朝鮮人で 朝鮮風の掘立小屋しかないせゐか甚人煙稀薄の觀があります
上海へは明日午後三時か四時頃入港の豫定、今日は船醉はしませんが昨日のなごりでまだ頭がふらふらするやうです
この手紙御讀みずみの上は小穴氏におまはし下さい 以上
筑後丸サルーンにて 芥川龍之介
[やぶちゃん注:この八七八書簡は底本でも横書である。]
八七九 三月二十九日
日本東京市外田端自笑軒前 下島勳樣
二十九日 筑後丸船中 芥川龍之介(繪葉書)
啓二十八日門司發筑後丸へ乘りました門司を出て玄海へかかると忽ち風波に遇ひ小生も危くヘドを吐く所でした尤も舟醉をしたのは僕ばかりでなく船客は勿論船員さへ醉つてゐました 今日は天氣晴朗かうなると航海も愉快です
八八〇 四月二十日
日本東京下谷笹下谷町一ノ五 小島政二郎樣(上海、南京路の繪葉書)
南京路は上海の銀座通り、僕の行くカツフェ、本屋等皆此處にあり新しい支那の女學生は額の髮へ火鏝を入れ赤い毛布のシヨオルをする それがこの通りを潤歩する所は此處にのみ見らるべき奇觀ならん
二十日 我鬼
八八一 四月二十三日
上海から岡榮一郎宛(繪葉書)
これは上海城内の湖心亭なりこの中に支那人たち皆鳥籠携へ來りて雲雀、目白の聲なぞに耳を傾つつ悠然として茶を飮んでゐる但し亭外は尿臭甚し
上海西華德路萬歳館 我鬼
*
――以下、続く――
「鶴」は鶴であらう。だが、この「鶴」は××将軍××戦争ガイセンの帰途朝鮮よりもち来りて奉納せしもので、よく田舎の神社の裏庭などにゐる種の鶴の感じがするのである。
福士さんはこれの序に、室生君のこの頃の詩は深さを加へて行つてゐると言つてゐられるが、それは当然さうあるべきことであつて、如何に深さを加へたかゞ問題である。又老成といふことは読んで字の如くである。老して成らざるもあるのであるが、老して老成することはごくありふれたことでしかない。すくなくも珍らしいことでも難有いことでもない。詩集「鶴」に就て、詩壇はこれをよい詩集であると批判した。この批判はこの詩集に就て詩壇が全く無批判であることより数倍よいことであつた。しかし、何故よいのであるかを知らうとは気付かなかつたのだと私は思つてゐる。
私は詩集「鶴」が何故わるいかを、諸君がこの詩集をよいと言つたのと同じ意味で述べなければならない。
しぶ味のある着物を着たゝめに、その人がしぶ味のある人間になるのであつたら、その人は人といふより着物に近いものなのであるだらう。この著者がステツキをついてゐる場合は、そのステツキが彼にはよすぎるためにステツキと一緒に歩いてゐる感じがするのである。そして、この著者は頰の辺にその緊張を表すのであるが、それが見た眼には如何にも焦燥そのもののやうにうけとれる。どうすれば偉くなれるか――といふ焦燥、遅れまいとする焦燥なのであらう。この人が映画の時評などをするのは、その焦燥であるところの認識不足からくるのである。又、この人の焦燥はこの人をして袴にチヨコレート色の靴(黒でないところがハイカラの意)網の靴下といふ姿で街を歩かせることになるのである。
老成などといふことは第二に、この人はもつと勉強しなければいけない。前述の映画時評のことに就ても、多少好きであるのかも知れないが、たいしてわかつてはゐない。書けば金になるから、書いてあるから読む人がある――から書くといふだけのことであらう。(文章以前といふ詩の前半に彼の言つてゐるが如くに――多少はあたつてもゐるのである――)
そして又七十歳八十歳の老人には映画時評が出来ない――つまりは映画時評をやることが新しい仕事で、それをやる人も当然新しいといふことになるからであらう。
又、例へば、彼が自ら作つた庭をこはしたからといつて、その作ることもこはすことも更に価値のあることがらではなく、そのまゝを写生したところがよい作品にはなるまい。子供がツミ木をかさねてくづすのと同じでしかない。彼がもしそれだけですら自身のすることに価値を感じてポウツとするのだつたら、たしかにしよつてゐることになるであらう。
彼は今他の人々へ教へる(文語るべき)何ものをも持つてはゐない。彼は現在の状態では当然職を失くした失業者でなけれはならない。(表面に立つて仕事などをせずに居食をすべきである。)もし彼が、自身よりもなほわるい人達だつて立派にやつてゐる――といふやうなことを思ふのであつたら、もはやわれわれの路を歩いてゐる人ではない。
× ×
我は張り詰めたる氷を愛す。
斯る切なき思ひを愛す。
我はその虹のごとく輝けるを見たり。
斯る花にあらざる花を愛す。
我は氷の奥にあるものに同感す、
その剣のごときものの中にある熱情を感ず。
我はつねに狭小なる人生に住めり、
その人生の荒涼の中に呻吟せり、
さればこそ張り詰めたる氷を愛す、
斯る切なき思ひを愛す。
「切なき思ひぞ知る」――この作品は少しばかりの嘘と彼の言葉とで出来あがつてゐる。そのほかにふくまれてゐるのはこれで詩になると思つた彼の経験とでも言ふべきものである。
「老乙女」――思ひあがつたことである。詩を抛つなどといふことや、我がために最後の詩を与へよなどといふことは思ひあがつたことである。彼自身無言のうちにかう思つたのならば幾分同情せぬでもないが、これをそのまゝに一個の新詩篇として見せられるのであつてはかなはぬ。彼にかうした生活があるのならあるやうに他の作品の中に現るべきであるであらう。
「何者ぞ」「埃の中」――共に力のない詩篇である。共に半ばな表現である。「何者ぞ」には足がなく「埃の中」は胴だけしかない。
我は彼女を、蹴飛ばせり。
曾て彼女の前にうづくまりし我は
眉を上げて彼女を蹴飛ばせり、
彼女は蹴飛ばされながら微笑ひ
追ひ詰められ
山の上のごときものの上に坐せり、
彼女はなは自らを護りて坐して笑へり、
我はなほ彼女を蹴飛ばさんため、
その山に攀ぢ登らんとす、
我は足を上げて遂に山を蹴飛ばせり。
「彼女」言つてゐることが誠に古い。そしてかうした詩篇には昔ながらに耳くそほどの内容もないのである。かうしたものを「詩」と思ひ込んでゐた人々のゐた時代が昔にあつた。
「文章以前」――文章以前とは如何なる意味であるのか。この詩篇も少しばかりの嘘をもとでににして書いてゐる。前半に就てはこの一文の書き出しに利用した。後半も亦前半に同じいのである。会話として訪ねて行つた人にでも話せばよいのであつて、詩とするまでもないのである。
「彼と我」――これもつまらない。その者は長き髪を垂れ……暗夜とともに没し行けりなどとこけおどかしをしてゐる。こんなことはまねぬがよい。このことばかりではなく、まねることは青年をそのまゝ無能の老年にしてしまふことでゝもある。自分がある以上は自分のものがあるのである。
「星の断章」――夢にでもみたことなのであらうか。それとも星の断章とはかういふのなのだらうか。室生犀星といふサインがあれば如何なる作品でも救はれるであらうか――。
「情熱の射殺」――何んと形容の多いことであらう。そればかりではない。こゝを出発点として詩が書かれるべきなのである。
己は思ふ
冬の山々から走つて出る寒い流れが、
海を指して休む間もなく
我々の住む人家の岸べを洗つて過ぎるのを思ふ。
人家の岸べに沿うて瓦やブリキや紙屑が絶えず流れてゆく。
海はかれらを遙か遠くに搬ぶであらう、
波は知らぬ異境に瓦やブリキを打ちあげて行くだらう、
そこにも人は住んで岸べにむらがり、
瓦やブリキを拾ひ上げ打眺めるであらう。
我々の現世と生活は解かれ記されるであらう。
その波はまた我々の人家に捲き返し煙れる波を上げ
遙かに戻り来るものの新鮮さで
我々を呼びさますであらう。
我々は答へるであらう。
そして彼等の言葉であるところのものを、
朝日の耀く岸辺に佇み読むだらう。
「人家の岸辺」――どうも何のことなのだかまるでわからない。下手な童話を読まされてゐるやうなものである。
「垣なき道」――無難ではあるが、うはずつてゐるつまりおちつきがないのである。著者は佳作とでも思つてゐるのであらう。
「友情的なる」――友情的に見てクセのない作品である。何者かに、――この何者かにを作者はわかるだけわかつてゐない。便所に於けるダツプンの如くこゝに書かれてあるに過ぎない。
「我は」――つまらない。大勢のなかには感心する者もあらう。後その人々とこの作者は仲よく同人雑誌でもやるのであらうか。
「断層」大げさな材料である。言ひ表しが誇張されてゐるのは旧式な詩作術のしからしめるためなのであらう。
「彼女」――これとほとんど同じもので、同じやうなものを二十歳を越したばかりの少年が、三四年ほど以前に書いてゐたのを覚えてゐる、そのやうな意味でゝも、読むに堪えないやうな同人雑誌であると思つても、勉強になるのだからがまんをして読んでみるがよいのだ。言はぬことではない――。
「巨鱗」――巨麟とは何を言はふとしてゐるのか、老幹・城・鉄・大木・群・掻・厳・逆立などの字があるがいつかうに「巨」を感じないのである。これは作者が下手でも絵がかけるのだつたら間違つても詩にしてはならないところであつた。
愛すること少なかりし老も老いたり
老いてなほ愛さんとするものも空しくなりぬ、
我の汝らに問わんことは汝らの知れるところ、
我の再び思ひ惑へるところのものも
汝らの曾ての愛情の中に漂へり、
我の為すべきことは何か、
我の愛さんとするものは何ものか、
我は老いたる汝を突き墜してその記録を滅せんとす、
愛すること少なかりしものの道を展かんとす。
「斯く汝等に語る」――よい詩篇である。立派でもある。もし集中一筋の佳作をも見出し得なかつたら、筆者は自らの頭脳をあやしまなければならなかつたであらう。これで筆者も安心したといふものである。前記十六篇、そしてこの一篇とは、多すぎるは駄作である。本篇終りの一行は駄足なり。
「真実なる思想」――これはいかん。型ばかりで何も言はなかつたからいかんといふのではない。これがどういふわけで詩であるのかを先づ考へてもらひたい。詩作のときに、のぼせたり必要以上に冷静であつたり自身の言葉を神(?)の如く思つたりしてはこまる。
詩よ亡ぶるなかれ、
詩よ生涯の中に漂へ、
我が囈言も亡びることなかれ、
我が英気よ運命を折檻せよ、
行き難きを行け、
詩よ滅ぶるなかれ、
我が死にし後も詩よ生きてあれ。
汝の行ふべきものを行へ。
「行ふべきもの」――これもいけない。詩聖といふやうなものになつてはいけない。このやうなものはがまんをして書かない方がいい。白い髯があごに生えて来たらそるがよい。
「己の中に見ゆ」――百パアセント人生詩篇とでも言ふべきか誠に古めかしい詩篇である。そしてよいところがちつともないのである。
「十人の母親」――佳篇と言つてしまはふや。こんなものを読まされては可哀いさうに筆者はあきてしまつたのだ。
「メイ・マツカアボーイ」――わるい映画ではない。唯、本篇の題が必らずしもメイ・マツカアポーイでなくとも通用する。コーリンムアーでも又はクララ・ボーでもよいのである。松竹辺のでこでこスターを本篇をもつて飾りたい炭屋の小僧もあるであらう。
「凍えた頭」――これはこれだけの詩篇、よしあしはない。つまり第三者にとつてあつてもなくてもよいのである。唯、その頭があまりよくないといふことだけはわかるのです。
×
以上で「文章以前」を終る。この篇は集中最も新しい作品であると著者が言つてゐる。私はこれで筆を置く。詩集の約五分の一である。この他「大山脈の下」「朝日をよめる歌」「雲と雲との間」「鶴」「――」「――」――などの九篇二百頁の大さつである。
(附記)
春山行夫は『「鶴」を評す』の一文を「詩と詩論」は若い人のためになるための雑誌であるから掲載出来ないと言つてよこした。私はそれに感心出来ないと返事を書いた。「詩と詩論」及び春山行夫君の仕事に就て私は私自身の批判をもつてゐる。ニツケのピースでもなめるやうに、小々滑稽なことではあるが、彼に対する侮辱でない意味で私は彼の顔の前で舌を出してもいゝのである。
×
又、大変間のぬけた話であるが、私が「氾濫」の仲間の一人になることをあまり恰好でないといふやぅな意味のことを言つた友人がゐる。それが誰であったのか思ひ出せないのだが困つたことを言ふものだと私は思ふ。「氾濫」だからといつて何も一つ川の水だといふのではなからうに。そして佐藤のやう肥つたのや藤井といふ大きいのや赤松といふ瘠たのや福富など眼鏡をかけたのや神戸といふ色の白いのや鳥山だとかその他誰が同人なのか知らないのだがまだその他の色々なのがてんでに鼻唄を唄ふのだ。その中にまじつて私がやつぱり鼻唄かなんかやつてゐたところで何んでもないではないか。どうせあまり悧口でないのがそろつてゐる国なのだ。勿論、時折休刊したところで、真面目になつてそれに反対するとか、ふんがいするとかといふ人物もまあない筈だ。私が真面目になつて何か例へば自由詩の講座をやり出したところが同人の誰もが何んとも言はないのだからうれしい(何がうれしいのか少し変)のだし、規約があつたとしてもこの人達には役に立たないといふことも少しは面白いではないか。さよなら。
(氾濫再刊号 昭和4(1929)年10月発行)
[やぶちゃん注:本篇は室生犀星(明治22(1889)年~昭和37(1962)年)が昭和3(1928)年に素人社書屋から刊行した詩集『鶴』の詩評である。著作権は存続しているが、本詩集は国文学研究資料館の「近代書誌データベース」の詩集『鶴』の画像(高知市民図書館近森文庫蔵)でその全ページを閲覧出来る(以下の引用はそれを元にした)。本篇は底本とした1999年の増補改訂版「尾形亀之助全集」の増補された補遺に掲載されている。底本では引用詩部分はポイント落ちとなっている。
・「××将軍××戦争ガイセンよりもち来りて奉納せしもので、よく田舎の神社の裏庭などにゐる種の鶴の感じがする」は、「乃木将軍日露戦争凱旋」か。検閲によるものか、或いは筆者又は出版社による自主的伏字かは不明。後半部はまず、装丁者恩地孝四郎描く表紙及び背表紙にかかった如何にも図案化された化鳥(私にはそう見える)みたような鶴を指していよう。更には詩集題名となっている「鶴」の詩の持っている雰囲気――昔からよく出会う夢の中の自分を教えるような位置にいる婦人、梅の香と老木故の嗜好、それが自分の田舎女の母映像と重なるエスキース風の詩の雰囲気を揶揄しているものとも思われる。
・「福士さん」福士幸次郎(明治22(1889)~昭和21(1946)年)詩人。佐藤紅緑(こうろく)門下。大正3(1914)年に口語自由詩の処女詩集『太陽の子』を自費出版。文芸の地方主義・方言詩を提唱した。
・「室生君のこの頃の詩は深さを加へて行つてゐると言つてゐられるが、それは当然さうあるべきことであつて、如何に深さを加へたかゞ問題である。又老成といふことは読んで字の如くである。老して成らざるもあるのであるが、老して老成することはごくありふれたことでしかない。すくなくも珍らしいことでも難有いことでもない。」『鶴』の序文冒頭で福士幸次郎は『室生君のこの頃の詩は深さを加へて行つてゐる』と記し、以下、『けはしい』程、『人間世界の暗さに』貫入している、『あるものは險惡』、『あるものは森巖』、ともかくも『そのどれにせよ一流の行き方をしてゐる。』と結んでいるのを、皮肉に受けている。尾形の叙述はあたかも「老成」という語を福士が序文で用いているような錯覚を思わせる、不用意な書き方である。
・「文章以前といふ詩の前半に彼の言つてゐるが如くに」詩「文章以前」は二連からなる。
その第一連原典は以下の通り。
自分は行き詰つてゐるやうだが、
何時の間にか茫々たる何處かの道に出てゐる。
自分はもう書けないかと惑ひながら
やはり何物かを書いてゐる。
自分は書くごとに何かを發見けて行く
文章なぞ自分には既う要らないことに氣がつく。
「発見」には傍点があり、その傍点は「○」である。「發見けて」は「みつけて」、「既う」は「もう」と読む。
・「例へば、彼が自ら作つた庭をこはしたからといつて、……」これは恐らく室生がこの詩集の巻頭口絵に自分の家の庭の写真を掲載し、それに『過去の庭園』というタイトルを附していることを揶揄したものである。
・『「切なき思ひぞ知る」』尾形は全詩を引用している。文字に誤りはないが、6行目の末は句点ではなく読点である。
× その剣のごときものの中にある熱情を感ず。
○ その剣のごときものの中にある熱情を感ず、
逆に9行目の末は読点ではなく句点である(「剣」は原典では「劍」)。
× さればこそ張り詰めたる氷を愛す、
○ さればこそ張り詰めたる氷を愛す。
苟しくもこれほど完膚無き迄の酷評をするならば、引用はせめて正しくすべきである。それが読解した上での正しき反論の在り方である、と私は思う。その点で尾形亀之助は正しく低劣な礼儀知らずである、と私は思う。
・『「老乙女」』は「をいたるをとめ」と読む。その冒頭で犀星は『我は詩を抛たんとす。』と叫び、枯れ老いた森羅万象に接しながら詩想が湧き上がらないことを焦燥、その最後を
我の唯切に念ふは
我がために最後の詩を與へよ
滅びゆく美を與へよ
いま一度我を呼ぶものに會はしめよ、
寒流を泳がむことを辭せず、
いま一度會はしめよ
老いたる乙女のごとき詩よ立ち還れ。
という詩句で閉じたもの。「老乙女」は老いたる(枯渇した)ミューズの謂い。
・『「彼女」』全詩誤りなく引用している。この彼女もミューズ。
・「後半も亦前半に同じいのである。会話として訪ねて行つた人にでも話せばよいのであつて、詩とするまでもないのである。」全二連の「文章以前」第二連は、先に掲げた第一連のスランプの詩人が冬の道端で、鋭い枝が塀の上に突き出てゐるのを見つけて、
自分に要るのは此の鋭い枝だけだ、
枝と自分との對陣してゐる時が消えてしまへば、
もう自分の文章も詩も滅びた後だ。
と結んでいる。
・「その者は長き髪を垂れ……暗夜とともに没し行けり」は、間に「……」を挟むために誤解されるが、原詩では分離した詩句ではなく、冒頭の4行を示せば、
我は何者かと我が有てるものを交換せり。
その者は長き髮を垂れ
暗夜とともに没し行けり。
常に星のごとく明滅す。
と、おどおおどろしい何者かと『死のごとく苦しきものを交換』したと終わる。この詩、尾形ならずとも、なんじゃ、こりゃ? と言いたくなる代物である。
・「人家の岸辺」全詩が引用されている。
2行目の末尾には読点はない。
× 冬の山々から走つて出る寒い流れが、
○ 冬の山々から走つて出る寒い流れが
第二連の3行目も末尾に読点はない。
× そこにも人は住んで岸べにむらがり、
○ そこにも人は住んで岸べにむらがり
第二連6行目の「煙」は字が違う。
× その波はまた我々の人家に捲き返し煙れる波を上げ
○ その波はまた我々の人家に捲き返し烟れる波を上げ
・『「彼女」』たった4行の詩である。彼女は『ヤサシキ』建築を持ってい、この世の終末にあっても『そのヤサシサは亡びず』、『彼女は菫のごとく匂へり、』と終る(読点はママ)。
・『「斯く汝等に語る」』1行目の末尾の読点が脱落している。
× 愛すること少なかりし老も老いたり
○ 愛すること少なかりし老も老いたり、
3行目の「問わん」「問ねん」(たづねん)の衍字。
× 我の汝らに問わんことは汝らの知れるところ、
○ 我の汝らに問ねんことは汝らの知れるところ、
終わりから2行目の「て」は衍字。
× 我は老いたる汝を突き墜してその記録を滅せんとす、
○ 我は老いたる汝を突き墜しその記録を滅せんとす、
因みに前掲の「近代書誌データベース」の詩集『鶴』のコンテンツのリンクには不具合がある。該当詩は43コマ目で表示される。更に蛇足するならば、私はこの詩を佳篇とは思わない。
・『「メイ・マツカアボーイ」』はアメリカの女優の名前(映画の題名ではない)。May NcAvoy(1899~1984)。原詩から見て、ここで室生が詠っているのは彼女が出演した1925年公開のオスカー・ワイルド原作エルンスト・ルビッチ監督作品“Lady windermere's Fan”(ウインダミア夫人の扇)と思われる。本映画は“Comedy of Manners”(風俗喜劇)の傑作とされる作品である。
・『以上で「文章以前」を終る。この篇は集中最も新しい作品であると著者が言つてゐる』『鶴』自序に『卷頭の詩から頁を追うて製作の順位を示した。即ち卷頭の諸作品が最も新し』い、とある。
・「春山行夫」(明治35(1902)年~平成6(1994)年)詩人・評論家。本名市橋渉(わたる)。モダニズムからダダ・未来派・シュールレアリスム・フォルマリスムといったあらゆる近代詩の思潮を走り抜けた。『青騎士』『詩と詩論』(昭和3(1928)年創刊)『セルパン』などの著名な詩誌の創刊・編集でも活躍した。
・『「氾濫」』は岡山出身の僧職の詩人赤松月船(生田長江門下)が主宰した同人詩誌『朝』が改題した『氾濫』を指す。木山捷平・サトーハチロー・草野心平らもこの同人であった。
・「佐藤のやう肥つたのや」はママ。「佐藤のやう〔に〕肥つたのや」の脱字であろう。「佐藤」はサトウハチローか。
・「藤井」詩人藤井清士(生没年未詳)か。恐らく翻訳家でもある。
・「福富」詩人福富菁児(生没年未詳)か。大杉栄らとも関係があったアバンギャルド詩人である。
・「神戸」詩人神戸雄一(明治35(1902)年~昭和29(1954)年)であろう。偶然であるが、彼には晩年死を予感して詠んだ「鶴」という絶唱がある。
・「鳥山」不詳。『氾濫』についての識者の御教授を乞う。
・「ふんがい」はママ。]
机とは何であるか。「机」とは、時に古道具屋を呼んで売るものである。又、ちがつた意味で物の読み書きに丁度よい高さなのでもある。又、幾つの頃であつたか、机に腰をかけて灸といふことになつたこともあつた。「机」とは通例四本の足があり、その前には坐るべき座蒲団があつたりするのである。机の上にインク瓶と吸取紙があることもある。机の前には壁などがある。そして、机の下には足があり蚊がゐることもある。机はたいてい頭より大きい。
机の前に坐つてゐるのに南瓜を煮る匂ひがしてくる。もう夕暮なのである。
×
〔熊〕福田正夫
彼は熊――僕は本能の熊として言つてゐるが、これは熊などといふすばらしい動物ではなく、例へば狸といふやうな動物の名を熊の字と入れ換へた方がいゝのではなからうか。穴の底からとび出したら……僕はまつ黒になつてるかも知れないが――といふことに、狸の毛色ではぐあひがわるいのであるのだらうか。又、何んと言ひやうもないけだるさを表すためなのか言葉があいまいである。全篇を通じて大したおちどはないのであるが、わざわざ書いて人々に読ませるまでにもないことがらであらう。
〔底無沼〕同人
これはかなりによい詩篇である。かうは書けぬものである。よけいなこと(にもなること)を言ふことは常にさしひかへなければならぬのであるが、こゝに私はさかしくも私評を試みる。
何故、第一節の秋の下に!をつけたのだらう。同じやうに花の下の! 私は、底無沼のほとりが明るくなるさうだ――といふやうなやはらかさがこの詩の全部であつて欲しいと思ふ。私にはこの詩篇の第二節はいらない。そして、第三節の終り花だけがそつとはゝえむだらうよも不用。こゝの節の!も好ましくないくせである。第四節はいたづらに説明すぎる説明でしかない。
〔電車賃〕三石勝五郎
この詩篇をいゝものとも、又つまらぬものとも言ふことが出来る。そして、この詩篇をいゝと言ふ場合は、筆者はこの作をよく見知つてゐる場合でなければならない。
この詩篇に(電車賃)といふ題がついてゐるところから判断すれば、ぐう然こんなよささうなものを書いたものとみなすべきであらう。勿論筆者はこの作者に何の恩も恨みもない。わざわざわるく言つてゐるのではない。
〔支那水仙〕坂本哲郎
この詩篇は先づこれだけのものと言つて置くがよささうである。よくもわるくもないからである。よくもわるくもない詩篇を諸君は何んと言つてゐるのだらう。意味は、あつてもなくてもに――似てゐるのである。細評をする必要はないのである。
〔獄外撒水〕松元実
テーマそのものがすでに言ひふるされたものである。言ひふるされたゞけで古いとかわるいとかは言はぬ。私は、この作品及びこの種の作品にあまり抒情的でないことを希望する。
〔風待雲の下で〕竹内隆二
よい詩篇であるとされるべきであらう。三十数行ものものであるから、その一行右に就て言ふことは略す、詩篇中、幾度もくりかへされてゐることがらをもう少し作者自身で改良すべきことを希望し期待する。
〔歴史章〕千田光
コノ作品ノ近クニ欠字ガ一字アル。
石の上の真青な花や、花から■形するものの中にある厭ふべき色素の骸骨や、緑青を噴いた骸骨を私は大変珍らしく思つた。そして、こちらを向いた美しい首には、拭ふべからざる創痕がある――のところでなるほどなと思つた。つくりものの歴史なのであらう。
〔DOCUMENTS D’OISEAU〕滝口修造
この作者のものはよいとされてゐる故、私は先づ敬意を表する。そして辞書がないのでDOCUMENTS D’OISEAU――が何のことなのかわからない。ことをわびる。そして、月評子としてもう少し誰れにでもわかるやうに書いて欲しいことを希望するのである。誰れにもでもわかる必要はないのではあるが、又、私にだけわかつたとしても困らないのであるが、そして実に沢山の出来事(言葉)に驚くばかりであるが、私はこの形体を或る道程としてのみ肯定する。そしてこの努力に驚きと謝意を表するのである。唯、月評子としてかうした仕事は二三人の人達で十分であること、そして、そこに動きのない場合は言を待つまでもない。
〔夜の沐浴〕目次緋紗子
女性の作品として、又彼女のこの頃の妙に手紙のはしり書のやうな詩篇にくらぶれば中々に手のこんだ作品として別に難はない。しかし、この作者にこんな作品を見せてもらつたところで今更しかたのないことである。つまらなすぎることなのである。
〔再び 韃靼海峡と妹〕安西冬衛
私はこの作者を信じてゐる。そしてこれも亦よい作品なのである。
私は彼をまねた作品をしばしば見うける。が、それはやめてもらはねばならない。そんなことはむだでもあるし、彼以外にめつたに出来ないことは彼以外にはめつたに出来ない。彼の作品のわかる人はあまりないかも知れない。わかればまねも出来ないのである。私は彼の作品を若い人々へよりも、若くない人々の熟読重読を希望する。
〔夜の哀歌〕村田春海
この詩篇は、この美文的であることがわざわひしてゐる。そんなにもわるい作品ではない。
〔豆腐と貞操〕田中清一
彼「大根を如何に磨くとも石には変らない!」
私「大根を如何に磨くとも石には変らない」
―――――――――――――――
彼女は貞操を彼女の生命より愛してゐた。
貞操とは米飯と漬物である。
――この第二行が三つにも四つにも異つた意味に解しやく出来る。又、生命を愛するといふやうな作者の批判は私にははつきりしないばかりではなく、少しばかりあまい。
豆腐を別な言葉で言つては詩ではなくなるのではやはり豆腐よりしかたがない。月評子は豆腐に就てたいした智識をもつてゐない。「糞」といふものをあまり特種なものに思ひすぎてゐる。
第六節は第一節に同じ――。
第七節は、わざわざこんなことを言ふまでもない。つまり作者は正直すぎる。
第八節は第七節に同じ――。つまり、わざわざこんなことを言ふまでもない。つまり作者は正直すぎる。
第九節。彼とは?――。
〔新婚旅行〕同人
この詩篇はよい。つまりわるくはない。
たゞ、美しい雌の美しいは不用。もう一つ、巨大なる蜻蛉の巨大なるは不用。そして(新婚旅行)といふ題がよい題ではない。つまりこの詩篇の第一節第二節は不用なのである。私はこの詩篇を見て、作者が最近よいものを学んだことを知るのである。
〔強盗と優生学〕同人
〔生物学〕同人
共にこの作者のもつわるさであると思ふ。このわるさは罪がないといふ種類のものなのである。たいていのことはたいていの人が知つてゐる――ことに気がつかなければならないのである。
〔跌坐〕野口米次郎
西行や芭蕉やミルトンやブラウニングやに跌坐(あぐら)のかきやうを教へたい(教へるかも知れない――と言つてゐるがさうではあるまい)といふのである。二三行でいゝものを十六行も書いて、その中で言訳けをしたり自分にはそれが出来ることを広告したりしてゐる。その変なところが典型的な老東洋人で、これと全く同じ典型さを私の祖父ももつてゐる。
×
七月は暑い。ダアリヤは赤い。草野心平に子供が生れた。草野へ子供をむすびつけて考へることに私はなれてゐない。彼は子供を愛するであらう。銀座から買つて来た鈴虫が三日目にゐなくなつてしまつた。空のかごを縁側につるしてゐる。
(詩神第五巻第八号 昭和4(1929)年8月発行)
[やぶちゃん注:「詩神」第五巻第七号を見るに若くはなしと思われるが、私には現在その余裕がない。文学史的に著名な詩人以外は、名前も知らない人物が多い。従ってネット検索に頼らざるを得ず、不確かな注記記載が多いのはお許し頂きたい。合わせて識者の御教授を乞うものである。
・「福田正夫」(明治26(1893)年3~昭和27(1952)年)詩人・作詞家。民衆派詩人として知られる。
・「同じやうに花の下の! 」ここのみエクスクラメンション・マークの後に一字空けがある。
・「三石勝五郎」(明治21(1888)年~昭和51(1976)年)詩人・新聞記者。詩集に『散華楽』(大正12(1923)年新潮社刊)、『火山灰』(大正13(1924)年新潮社刊)等。
・「ぐう然」はママ。
・「坂本哲郎」詩人。生没年未詳。詩集に『壊滅の歌』(大正11(1922)年亞細亞公論社刊)等。
・「松元実」(明治36年(1903)年~昭和14(1939)年)詩人・プロレタリア作家。昭和9(1934)年に「平林彪吾」(ひらばやししょうご)というペン・ネームに改名。小説に「鶏飼ひのコムミュニスト」「砂山」等。病没。
・「竹内隆二」(?~昭和57(1982)年)詩人。大正12(1937)年10月発行の詩誌『青騎士』(第2巻6号)に春山行夫・尾崎喜八・山中散生らと並んで名が見える。
・「千田光」(明治41(1908)年~昭和10(1935)年)夭折14篇の詩・短文が残るのみ。この「歴史章」は正しくは「歴史(章)」で、アフガン・フリーク氏のブログ「フリークフリーク!日記(古本や!)」の「千田光の花」から1971年1月号「現代詩手帖」(フリーク氏の手で現代仮名遣いに改められている)に所載されたものを以下にコピー・ペーストして引用する。
歴史(章)
石の上の真青な花。花から滅形するものの中に、厭うべき色素の骸骨がある。緑青を噴いた骸骨がある。花に禁じ得ぬ火山灰。
それは荘厳な動機によって出発する首である。美しい首には、無論、血液の真珠がある。
こっちを向いた美しい首は、払うべからざる創痕がある。
そこには幾多の屍がある。白い曠しさ(ママ)が、巌丈な四壁を建てている。惰力を失って、傷?に堕ちた天象。音響の花。
(S4,7月<詩神>第5巻第7号)
因みに『傷?』は当該ブログの表記のママである。
・「■形する」底本ではこの「■」は完全な黒塗りつぶしではなく、右上から左下への斜線が細かに引かれた「□」である。前掲の「歴史(章)」の原型によって尾形が指摘している『コノ作品ノ近クニ欠字ガ一字アル』としているのが、やはり直後の『花から■形する』の「■」であり、これは「滅」がその欠字であると理解してよい。尾形はその欠字がこの『つくりものの』詩に皮肉に相応しいと思っており、『コノ作品ノ近クニ欠字ガ一字アル』は尾形風のこの詩への揶揄としてのレスポンスに見える。「曠しさ」は(あらあらしさ)と読むのか、(むなしさ)と読んでいるのか、アフガン・フリーク氏のブログの引用の「傷?」も「?」が如何にもいぶかしいのであるが、尾形亀之助風に言うなら、「なるほどな、読めず分からずでよいのだなと思つた。つくりものの歴史なのであらうから、といふことであらう」――。
・「〔DOCUMENTS D’OISEAU〕滝口修造」“DOCUMENTS D’OISEAU”は杓子定規に訳すならば「鳥の文書(複数形)」であるが謂いは「鳥について」であろう。後年の詩集では本詩の掉尾にある詩句そのままに「鳥たちの記録」という副題を持つ。全体が3段落からなる散文詩で、冒頭『鯉の星座に入った天子は梅の蕊の鏡を覗いて初めて私を知った。 私の頭髪に麦の花を飾って走って行った。 心臓の美しい魚が春になると天使の衣裳を盗むのである。 この実験は蕾がこぼれんばかりの私の指先で行われる。』で始まり、掉尾『ミューズは唯今化粧中であると、鳥たちの記録を見給え。』で締め括られるオートマチスムを意識した詩である(引用は1980年思潮社刊「現代詩読本――15 瀧口修造」の代表詩90選所収のものを用いた)。瀧口修造(明治36(1903)年~昭和54(1979)年)はシュールレアリスムの詩人・美術家。フランス語を解せない尾形が、かなりはっきりとしたコンプレクスを示しつつ、正面から瀧口に嚙み付くのをやや躊躇した感じで評しているのが極めて興味深い。私のHPトップに偶然、私が勝手に「扉に羽音」と題した瀧口修造の絵がある。ご覧あれ。
・「目次緋紗子」詩人。生没年未詳。「めじひさこ」と読む。詩集に『風貌』(昭和3(1928)年素人社書屋刊)。
・「安西冬衛」(明治31(1898)年~昭和40(1965)年)詩人。本名安西勝。大正13(1924)年大連で北川冬彦らと詩誌『亜』を創刊、昭和3(1928)年の詩誌『詩と詩論』創刊に加わり、本篇に先立つ昭和4(1929)年4月に東京厚生閣から詩集『軍艦茉莉』を刊行している。その「春」という短詩「てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた」は著名で「再び 韃靼海峡と妹」とはそれを受けたもの。ネット上の引用によれば、その一節には「妹の狭い胸に水銀が昂つてゐた。」という詩句がある。
・「村田春海」(むらたはるみ 明治36(1903)年~昭和12(1937)年)詩人・ロシア文学者。プーシキンを研究する傍ら、旺盛に詩作もした。昭和4(1929)年マルクス書房から刊行した本邦初訳ゴーリキーの『母』は、文学シーンに大きな影響力を持った。
・「田中清一」(明治33(1900)年~昭和50(1975)年)詩人。後に田中喜四郎と改名。本篇初出誌である詩誌『詩神』の出資者である(『詩神』の編集は福田正夫、実務は草野心平や尾形亀之助も馴染みである詩誌『銅鑼』の同人だった神谷暢が担当した)。
・「解しやく」はママ。
・「野口米次郎」(明治8(1875)年~昭和22(1947)年)。明治26(1893)年18歳で渡米、エドガー・アラン・ポーに傾倒する。明治29(1896)年処女詩集“Seen and Unseen”を刊行、明治37(1904)年に帰国し、明治39(1906)年より慶応大学英文学教授。帰国後は日本の伝統芸術に心酔した。]
私は「詩」を詩と言ひ得ない場合が多い。殊に言葉に言ひ表はす多くの場合は「詩といふもの」と言はなければ十分に言ひ表はせない。言葉を換へて言ふと、いはゆる「詩」とは私にとつて「詩といふもの」なのである。詩がわれわれの知るところの「詩型」によつて発達はしたが、そこから生れたものではないといふことを考へてゐるためであつて、三間も五間も離れて見て活字が判明しなくともその組が「詩型」であることだけで、それを詩であると言はなけれはならないのを遺憾に思ふからである。
「手をたゝくと音がする」それを詩だと思ふ野口氏は、それを詩であると思つたのだらう。それはそれで、全ての人々がさう思はなければならないのではないのだから、自分はさうしたことに抗議しやうとはちつとも思はない。手をたゝくと音がするのを詩だと言つた野口氏よりももつと変つたことを詩だと思つてゐる人があるかも知れない。又、手をたゝくと音がする云云と言つた野口氏は「詩とは何んであるか」と質問する人の鼻の先でポンと手をたゝいてこれが詩だと言つたとすれば、なるほどその時はそれでよいのではないかとも思へるではないか。それをふんがいする方がまけかも知れないではないか。なんだ馬鹿々々しいと笑ふべきであると思ふ。
次に、百田氏の「詩を散文に書け」は氏がさうした傾向の作品を発表してゐるから、百田氏はこのことを言つてゐるのだといふことがわかる。それだけでいゝのであるしそれだけのことでしかないのではなからうか。「詩を散文に書け」は散文に詩を入れろである。又、詩を散文で書けとも解せる。私にはそのどちらでもいゝのだが、「詩を散文では書けない」ことになる人もあらう。そんなことも私にはどうでもいゝことだ。私は詩型で詩はかけないから書かない。
もう一言かさねると、散文にも詩があり得る。小説、戯曲、音楽、建築にも詩はあり得る。そして、いはゆる詩型によつて書かれたものにも詩はあり得る。又、月にも花にも詩があり得る。だから散文にも詩がないこともあり、小説、戯曲、音楽、建築に詩がないこともあつた。そして、詩型によつて書かれたものにも同様である。だが、不幸なことにわれわれは「詩型」によつて書かれてゐるが故にそれを詩と言はなけれはならないことになつてゐる。もつと不幸なことには詩とはいはゆる詩型のことになつてしまつてゐる。
×
〔詩神――六月号〕
(詩形に依る感想)南江二郎
これらの感想がなぜ詩形に依つたものか。幸ひに、詩でなくともかうした型があるといふ意味であるのなら、この感想がたとへつまらないものであつたとしても私のために喜びに耐へない。
(野中の欅)岡本潤
彼は野中の欅と話をしてゐる。彼は詩作的の技巧を必要としない。だから、もつとさうであることをよしとする。
(マルクスと人糞)田中清一
私は彼の詩を批評する用意をもたない。だが今月のはいくぶんさうでもなささうに感じた。マルクスを人糞の偉大なる料理人であらう――と言つて間違ひでなければ、この詩は間違ひではないだらう。
(心臓と肛門)こゝの神とは誰のことであるか。
(春)自殺は雑草のごとく繁茂する。桃の花は生殖に多忙である。脳髄は高気圧に狂奔する。――何んのことだかわからない。だが、もつと親切に見る人は見てもいゝだらう。
(思考)彼等(?)
(地上楽園)地上楽園(?)
(Theatre Merveilleux)富士原清一
わからないと言へばそれですむ。何故わからないかといふと、わかるところにわからないところがまじつてゐるからである。何処がわかつて何処がわからないかといふと例へば――更にこの劇場の観客を驚かせたのはこのとき突然に猛獣使ひが見えなくなつたことでありました だがこんなことで驚いたといふのは観客が彼等の無智を暴露した以外の何物でもありませんでした 無論 左様 最初から縞の着物を着て絹帽子を被つてゐた天使が縞の着物を着こんだ猛獣使ひに化けこんでゐたといふありふれた簡単な天使の筋書に過ぎませんよ 天使が鮮明な縞の燕尾服をひろげてこの劇場から飛び去るのを鼻眼鏡をかけた腹の太つた劇場の主人私が見逃しこはありますまいからねえ――は、わかる。だが、勿論これは一節にすぎないが、これはたゞの話に過ぎない。――果して劇場の屋根に天使の絹帽子が伏せてありました。さうして天使の絹帽子の下に天使の液体がありました。勿論天使の小便に違ひありませんでした 謙譲な天使 これは謙譲な天使の感動と天使の謙譲な礼儀を現はしてゐるものでありました――と、つゞいてゐるが、何んのことだらうと思ふ。そして、このわからなさが前の部分を詩化してゐるのではなからうかと想像するのである。
(村の祭)木内打魚
何んとなく困つた。彼はこの他(田園所感)(田家朝)を書いてゐる。むりに批評することをさけて、宮中御歌初めの御進詠を思はせる(田家朝)を引用する。
桔桿(はねつるべ)がぎいぎい
静かな朝に
動いてゐるよ!
民のかまどの炊烟も
樹間がくれに見へてるよ!
あゝ静かな朝だ!
みはたす限り春の野に
それらしい光が動くよ
おゝそれには梅の一枝だ!
桔桿がぎいぎい
又静かな野に動いてる!
(さみしい情感)大谷忠一郎
多少月並ではあるが、よい感情をもつてゐる。がわるいことに種類の異つた言葉がまじつてゐる。むだもあり細かすぎるくどぐもある。
(大風)の方がいゝかも知れないが。が、どちらも同じ作者である。
(群衆を見た)高橋辰二
彼はかつて「水葬」といふ新鮮な詩集を出してゐる。よい詩であるが、(踊り)の最後の光を見たりと同様に、これの最後の節群衆を見たは突然すぎる。
(百姓は貧乏してゐる)はいゝ。ここの同志よ! はちつとも突然ではない。
(自覚)伊藤花子
はつきりして、くどくならないのをよしとする。
(霜夜)杉山市五郎
オミツ卜する。(竹林)は大袈裟すぎてあまり変。(●)オミツトする。彼は詩とは何んであるかをもう一度考へてみた方がいゝやうだ。こんな詩を三頁ものせてゐるのはどうしたことか。
(椿)井上誠
椿の(二)がいゝ。が、すばらしくではない。だが、作者が男なのか女なのか。
(花をもてる少女)村野四郎
わるくはない詩篇である。だがなんと形容の多いことだ。そして、たえず湧きこばれる……などの類は古い。
(実体を失つた人)(私と私)折戸彫夫
面白くないこともない。かなりしつかりしてゐないこともない。だが、明日もこれだけではなるまい。どつちかといふと、この種のこのていどのものは、バタをつけたパンを左手に右手に鉛筆をもつて書いてゐる遊び位のつもりでゐて欲しいものだ。
(言葉は神なりき)大沢重夫
やゝ月並の感がある。それだけで他に感じるものがないことを残念に思ふ。
(聖者燃ゆ)前にやゝ同じ。
(明日を生むもの)大埜勇次
よい。兎に角よい。たしかでもある。だが何んとなく月並の感じがするのは何故か。
(悪魔の歌)前と同じく、これも十分にたしかさをもつてゐる。そして、大変きちようめんであることは(明日を生むもの)と同じである。はつきりした批評は私には出来ない。あゝ額は裂け――といつた調子でなく、もつと静かなのでかうした詩もみたいと思ふ。
×
締切りが過ぎてゐるのに雑誌が出てゐない。不親切な批評ではあるが、こんなのも時にはいゝ筈であらう。又、私はこれを執筆するに不真面目ではなかつた。詩神六月号の詩評は私にはこれだけのことしか出来なかつた。
(詩神第五巻第七号 昭和4(1929)年7月発行)
[やぶちゃん注:「詩神」第五巻第六号を見るに若くはなしと思われるが、私には現在その余裕がない。文学史的に著名な詩人以外は、名前も知らない人物が多い。従ってネット検索に頼らざるを得ず、不確かな注記記載が多いのはお許し頂きたい。合わせて識者の御教授を乞うものである。
・「野口氏」姓だけで詩誌『詩神』の読者が認識出来、『詩神』に寄稿していた詩人、『「手をたゝくと音がする」それを詩だ』という禅味に富む詩論を鮮やかにポンと示せる当時の詩人は、野口米次郎か。尾形亀之助は後掲の「机」(これによって野口米次郎が『詩神』に寄稿していたことが知れる)で『西行や芭蕉やミルトンやブラウニングやに跌坐(あぐら)のかきやうを教へたい』と詩で公言し、『二三行でいゝものを十六行も書いて、その中で言訳けをしたり自分にはそれが出来ることを広告したりしてゐる』『変なところが典型的な老東洋人』として54歳の先輩詩人ヨネ・ノグチをこけおろしているが、『「手をたゝくと音がする」それを詩だ』という人物は正しく『西行や芭蕉やミルトンやブラウニングやに跌坐のかきやうを教へたい』『変なところが典型的な老東洋人』と揶揄するに相応しい人物のように私には感じられるが、如何? 野口米次郎(明治8(1875)年~昭和22(1947)年)。明治26(1893)年18歳で渡米、エドガー・アラン・ポーに傾倒する。明治29(1896)年処女詩集“Seen and Unseen”を刊行、明治37(1904)年に帰国し、明治39(1906)年より慶応大学英文学教授。帰国後は日本の伝統芸術に心酔した。
・「百田氏」詩人・児童文学者であった百田宗治(ももたそうじ、明治26(1893)年~昭和30(1955)年)であろうか。
・「南江二郎」(?~昭和57(1982)年)同姓同名名義で人形劇や仮面についての著作を多数見出せるが、生年は未詳。大日本図書の「日本児童文学大事典」に「南江治郎」なる人物が明治35(1902)年~昭和57(1982)年の生没年で詩人・人形劇研究家として掲載されているが、同一人物と考えてよいか。
・「岡本潤」(明治34(1901)年~昭和53(1978)年)はアナーキズム(後にコミュニズムに転向)詩人・脚本家。本名岡本保太郎。
・「田中清一」(明治33(1900)年~昭和50(1975)年)詩人。後に田中喜四郎と改名。本篇初出誌である詩誌『詩神』の出資者である(『詩神』の編集は福田正夫、実務は草野心平や尾形亀之助も馴染みである詩誌『銅鑼』の同人だった神谷暢が担当した)。
・「(Theatre Merveilleux)富士原清一」“Merveilleux”はフランス語で「不思議なこと」「驚異」「超自然現象」の意。富士原清一(明治41(1908)~昭和19(1944)年)は日本シュールレアリスムの先駆的詩人。上田敏雄・北園克衛らと雑誌『薔薇・魔術・学説』の創刊(昭和2(1927)年)及び編集に加わり、翌昭和3(1928)年には自らが発行人であった『馥郁タル火夫ヨ』と『薔薇・魔術・学説』が統合される形で成った超現実主義雑誌『衣裳の太陽』(全6冊)を発行したが、招集され南方にて戦死した。
・「木内打魚」詩人・翻訳家。生没年未詳。ネット検索ではミルトン「失楽園」・ワーズワース・ブラウニング等の訳者として名が見える。
・「大谷忠一郎」(明治35(1902)年~昭和38(1963)年)詩人。本名大谷忠吉。尾形亀之助も寄稿している昭和2(1927)年9月に発行された東北地方を代表する詩誌『北方詩人』の創刊者の一人で萩原朔太郎門下。
・「高橋辰二」(明治37(1904)年~昭和42(1967)年)『文芸戦線』を代表するプロレタリア詩人の一人。昭和7(1932)年8月の労農文学同盟の分裂後のプロレタリア作家クラブの名簿にその名を見出せる。
・『「水葬」』は昭和2(1927)年に横浜で出版されている。
・「伊藤花子」未詳。同姓同名者はいるが、確認出来ない。
・「杉山市五郎」詩人。生没年未詳。詩集『芋畑の詩』(昭和4(1928)年銅鑼社刊)や『飛魚の子』昭和9(1934)年とびうを社刊)等。
・「井上誠」詩人。生没年未詳。詩集『季節の風』(昭和2(1927)年詩洋社刊)。昭和44(1969)年に自治日報社から詩人井上誠なる人物がコーヒーの文化史「珈琲物語」という本を出しているが、同一人物か。
・「村野四郎」明治34(1901)年~昭和50(1975)年)第2詩集『体操詩集』(昭和14(1939)年アオイ書房刊)で文学史的にも著名な詩人。
・「折戸彫夫」(明治36(1903)年~平成2(1990)年)は詩人。詩集『虚無と白鳥POESIE 1926-1928』(昭3(1928)年ウルトラ編輯所刊)等。
・「大沢重夫」詩人。生没年未詳。詩集に『太陽を慕ひ大地を恋ふる者の歌』(大正15(1926)年刊)等。
・「大埜勇次」詩人。生没年未詳。『詩神』昭和2年1月号に載った萩原朔太郎の「大埜勇次君に」という一文がある。これは朔太郎の詩論に対する大埜勇次の疑問と抗議に対する簡単な答えで、『「詩神」十二月の質問はすべてもつともです。』とし、自分の論の説明不足を認め、近日出版予定の「自由詩の原理」(後の「詩の原理」のことであろう)で『自由詩の徹底的なる問題を證明します。』『ゼヒこの書物をよんでほしいです。』と、結んでいる。少なくともその詩論にあっては朔太郎をしても看過し得ぬ詩眼の持ち主であったように窺われる。詩誌『日本詩人』でも大正12(1923)年頃から活躍している。]
明らかに後ろにずれた。且つ今日は明らかに個体総数が有意に減少している。
1時間ペンを執って小論文の添削をしただけで右手は痛くなった。激鬱。
「田毎の月」「野生の科学」二人とも出来ているよ、いつでもおいで――
昨日の夕方――アリスと散歩――公園――一人の少女が蝉とりをしている――僕は「あそこ……」と蝉のとまっている木の幹の何箇所かをそっと指で指した――少女は首尾よく二匹ばかりを虫籠に入れた――立ち去る僕とアリス――後ろから――「ありがとう!」――と少女の澄んだ綺麗な声が高く空に舞い上がった――鬱鬱とした一日のほんの一瞬の心の晴れた空に――
私は「血の花が開くとき」を一回通読しましたがその人の詩の境地はそうたやすく第三者に解るものではないのです。しかし幸ひに私はこの詩集から私が曾て見た詩のうちで最もすぐれた詩にふくまるる詩篇を幾つか読むことが出来たことをうれしく思ひます。同時に私は今迄大江君の作品を多く読む機会がなかつたせいもありますが、大江君がさうした詩の作者であることを初めて知つたやうなわけです。
「涙汲む少女と林檎」この詩は大江君の詩境の面白さ(或はよさ)をしめしてゐると同時にはつきりしてゐない半面を十分に示してゐると思ひます。即ち前半(二頁)の不明瞭さと後半(三頁)の明瞭さ面白さであります。
「いのちを与へてゐる少女」第二行の言葉の音楽を聴かして云々がよい言ひあらはしでないと思ひます。紙人形の頰へ桜の花弁をべつたり貼つたその感じを生かして欲しいと思ひます「センダガヤの少女」私の好みで申しますとこのやうな詩は好きです。そして同じ好みから、ここの第四行のときほぐらしてときほぐらして――とダブつてゐる調子はここではない方がよいと思ひます。
「病んでゐた少女」解しやうによつてはこの病んでゐた少女のゐたといふその状態の意味がなんなのかがわからない。勿論この詩の第一行の一部分なのでせう。美しい青年云々といふインネンをつけてゐるので大変ロマンチツクになつてゐますが、このやうな詩はもつと技巧的でないと推奨しにくいのです。ただ別な意味で大江君がこのやうな感じをもつてゐることが友人たちをうれしがらせることと思ひます。
「おかみさんの髪」風の簪がいい。貌の赭くなるのもいいが油をつけなくても太陽で光る ――と理窟ぽくならないことを欲します。
自分がつての事を言つてしまふと、第一節の第三行がいらないし、第二節は第一行だけにしてあとは捨てたいと思ひます。
「おかみさんと赤ん坊」は最後の一行が駄足。この一行の為に甲の詩が乙になつてゐると思ひます。
「逃走者の宿」は何となく半ばな感じを受けます。題そのものも変つてゐて奇妙です。
「光風夢」はよい。この感情がうれしい。
「樹の下で休む貌」面白い感じ方の詩です。ただもつと平易に行の配置を直して欲しい。
「五月と乞食」しつかりした筆致を示してゐます。小供の落した林檎を乞食が手ぎはよくつかまいたので差し出たのにはキヨウタンします。最初の二行は不用。又、父さんがハハハと笑ふところもいらないと思ひます。
「モヒ中毒患者」もつとゆつくりした方法で、もつと技巧的でないと変なことになると思ひます。
「父親」でのローゴクのやうなカナ文字や「兵隊」のポリスは、やはり漢字の方がいいと思ひます。
「精神病者」「病人同志」好ましい作品です。最後の一行はもつとはつきりしてゐる必要があると思ひます。
「孤独な看護婦」「月経」は共に静かなよい詩です。詩といふより散文に近いやうに思はれます。
「影」得難いよい詩です。好きです。「悲劇」「無題」共に好きです。「不愉快な画」面白い詩です。
「悪い夢」の篇の多くは何となく格言に似てゐる感じを受けました。詩としては面白味が十分に感じられませんでした。
しかし、此の種に摂する世の多くの詩篇にくらべればすぐれてゐるばかりでなく大江君の進んでゐる路が他の人々と少々異つてゐることを示してゐるものと思ひます。
「血の花」では「本能のある母」がすてきにいいと思ひました。其他の詩篇は悪い夢の篇のものと同じやうな感じを受けました。
「雪」の篇は凡作。
「春」の篇で「朝の太陽」が大変いいと思ひました。
「不遠慮な春」も相当な作品でありますが、「朝の太陽」にくらべれは劣ります。
「季節の花」もいいと思ひます。
「漁夫の子」「農夫の子」もちょっと心を曳かれますが、感心する程でもないと思ひます。
細かく批評すれは未だ色々と注文する部分があります。全部を通じて大江君は不明な言葉を使ひ過ぎてゐる所があると思ひます。行の切りや配置にもつと注意する必要があると思ひます。
「センダガヤの少女」「孤独な看護婦」「月経」「無題」「季節の花」もよい詩篇でした。
「おかみさんの髪」「おかみさんと赤ん坊」「樹の下に休む貌」「五月と乞食」には多分の注文がありますが、すぐれた詩であると思ひます。
(詩神第五巻第五号 昭和4(1929)年5月発行)
[やぶちゃん注:大江満雄(明治39(1906)年~平成3(1991)年)の処女詩集『血の花が開くとき』(昭和3(1928)年誠志堂書店刊)の詩評。大江満雄は生田春月の『詩と人生』に拠り、プロレタリア詩運動にも参加。戦後はキリスト教徒としてハンセン病患者・元患者の詩雑誌『いのちの芽』の編集に心血を注いだ。「手ぎはよくつかまいた」はママ。]
草野はきつと詩を書くことが下手なのだらう。だが草野はそんなことに一向無関心であつていゝ立場をもつてゐる。全くのところ草野は所謂詩人でなくともいゝ筈だ。また、例へ詩が下手であつても草野の現在のそれらの作品は十分以上にわれわれの仲間に通用してゐる。また思想的変進は当然のことであつて、順調以外の何物でもないのだから、特に賞讃する必要はない。
×
草野が高橋新吉と話をしてゐても草野は高橋新吉ではない。又、高橋新吉が尾形亀之助の場合であつても、彼はやはり尾形亀之助ではなくて草野心平だ。だが、草野の靴下の中の足がよごれてゐるとしても風呂に入れば綺麗になることに就ては、彼は高橋新吉と同じであり尾形亀之助とも何の異りもない。
草野の笑ひ顔は何とも言へないほどいい。
×
草野は玄関に腰かけて靴をぬぐ。混沌君の梨畑の梨の枝を杖(ステツキ)にして来るときもある。困つたことだが、草野が痔がわるいのが如何にも彼らしくつて好ましい気がする。
×
草野心平は一人しかゐない。自分が一人しかゐないことを彼はあきらめてゐる。
このことは草野ばかりではない。自分が二人も一二人もゐるやうな気がしたら、諸君は十分注意しなければいけない。各自の作品に就ても同じことだ。自分の作品に似た作品があつたら、自分がそのまねをしてゐるのかその作品が自分をまねてゐるのかを考察しなければならない。
×
草野はよく唄を唄ふ。が、それをやめれば、彼はもつと沢山の詩を書く。
或る日、草野は自動車に少しばかり足をひかれた。又或る日、彼は何かの儀式のとき親父にむりにフロックコートを着せられた。
草野ほど帽子を変へる人を私は知らない。
×
詩集の中で、あまりりきんだ詩はその他の詩に劣る。
×
「蛙冬眠」に現れてゐるやうに、彼は詩を文字や字句の型からのものであるとはたしかに思つてはゐない。だが、「蛙冬眠」は黒丸でいゝにはいゝが、草野はもつとよい詩を書かなけれはいけないではないか。苦心した作品が、必ずよいわけではないが、あれだけで手をひいてしまつたことは断じていけない。
×
草野の詩は私の詩ではない。たゞ、それがわかるに過ぎない。それは決して彼と私との場合ばかりではない。
又、草野は沢山の「詩」を書いてゐる。が、それらの「詩」はみな一つ一つ異つてゐる。で、草野自身の詩ですら「詩」がみな異つている。詩人が似かよつたやうな詩を書くときは、それらの詩人は少しも貴重でない。或る場合は彼等を詩人でないとさへ言つていゝと思ふ。
×
時に、草野の顔を蛙の顔に似てゐるとか、手が蛙の手にそつくりだとか、又は足がさうだとか言ふ人がある。が、断じてそんなことはない。
草野は自身の顔や手や足が蛙に似てゐるからといふわけで「蛙」の詩を書き出したのではない。
以下のことは、草野自身詩集の終りに書いてゐるから、わざわざ書くのだ。が草野は蛙を愛してなどはゐない。若し愛してゐるといふ言葉を使用したければ、蛙を食ふ蛇と同じほどしか愛してはゐない。間違つてはいけない。蛇は宇宙大のニヒルと言つたところで、彼には一向さしつかへがないのだ。
×
「逆歯」などといふ言葉は、形容にすぎないと思つて、読み返してみる必要もある。
×
この詩集に就て一口に音楽的効果云々などと言つてはいけない。音楽そのものの中にも詩はある。詩を表現する場合に、如何なる形式をとらうと、それは誰れでもの勝手だ。「我」といふのを「われ」と書かうと、どつちでもいゝやうにいゝ筈だ。
×
秋の夜の会話
さむいね
ああ さむいね
虫がないてるね
ああ 虫がないてるね
もうすぐ土の中だね
土の中はいやだね
痩せたね
君もずいぶん痩せたね
どこがこんなに切ないんだらうね
腹だらうかね
腹とつたら死ぬだらうね
死にたくはないね
さむいね
ああ 虫がないてるね
×
「ヤマカガシの腹の中から仲間に告げるゲリゲの言葉」の終りの二行ばかりはあんまり意味がなさ過ぎる。みんな生理的なお話ぢやないか――と言つてゐる辺がこの詩の佳境であらう。
「えぼ」もいゝ。たゞ、無意味な批評をすれば、土の中から出て来たばかりにしては元気がありすぎる。
×
「殺虐の恐怖のない平凡なひと時の千組の中の一組」で――
そうか?
おれもそだ
だまつてると
どてつ腹むしりたくなる
このお天気はどうだい!
お天気はお天気にして出掛(んぐ)べや
あいらもうれしいんでやけに鳴いてるな
んぐべ
あんぐベ
どつたどつた音たててんぐベ
――と話しあつてゐる二匹の蛙のうちの一匹がこの時笑ひ出したので――
バカ! なに笑つてるだ
と一匹に言はれた。するとさうどなられた蛙は――
ゲツヘ おまへも笑つてるくせに
と言つてゐる。
読者よ、蛙の顔を思ひ出して呉れ。この二匹の蛙は笑ふのに声を出してゐない。話しあつてゐる二人の人間が笑ふのはいたつて珍らしくない。例へ、作者がこれを書きかけてゐてんぐべがお可笑しくなつてなに笑つるだ、といふことになつたとしても、それはどうでもいゝ。これはこれでいゝ。私はこの詩をこの詩集の中で一番よい詩だと言つてもいゝ。
×
「俺も眠らう」の一部にもあてはまることに就て前述した。これもこれでいゝ。だが、これに何かの背景があれば尚もいゝ筈だ。あまり上手な引例ではないが、たんぼの泥を一握り庭へ持つて来て置いても、庭がその為に幾分かたんぼらしくなつたとは言へない。だからだ。
×
「嵐と蟇」はこの詩集の中で特によい詩ではない。生意気に聞えなけれは、この詩に就てはもつと勉強(?)してもらひたいと言ひたい。
×
「子供に追ひかけられる蛙」はたゞ子供に追ひかけられる蛙 とだけでいゝ。かうした点で私の言ふことが幾分正しいとすれば、草野はその幾分についてもう少し注意しなければならないのだ。
×
草野の詩を読んでゐて笑はされてしまふことがある。笑はされてしまつては批評は出来ない。
「鰻と蛙」も私には笑はされるのゝ一つだ。が、笑はされずに読める時だつてある。この詩も実にいゝ。
×
「いいのか」は好ましくない。
「号外」はこの詩集の中でのつまらないありふれた詩だ。旧い言葉で感じが出てゐないの感があるではないか。
「青大将に突撃する頭の中の喚声」。れは試みとしてのみよいと言ふことが出来る。だが試みてよくなかつたと言はなければなるまい。
×
「だから石をなげれるのだ
だから石をうけれるのだ」
顕微鏡的一点を微笑するのだ――は、蛙があまり人間に対して皮肉すぎる。
「行進曲」はこの詩から詩を書いて欲しいと思つた。で、幾度も読みかへしてみた。これはこれでいゝのだとは思へる。
×
「第八月満月の夜の満潮時の歓喜の歌」に十四人以上人ぶつが同時に唱ふべき詩――と註がしてある。
珍らしい詩を彼は持つてゐる。
「蛇祭り行進」は「……歓喜の歌」によく似てゐる。よいともわるいとも、其他のことも書かぬでもよからう。
×
「月の出と蛙」――はいゝ。
「生殖」もいゝ。いゝと言つても、わるくないだけのことだ。
「古池や蛙とびこむ水の音」は最後の一行がわるい。この一行を加へなければならないことは、作者が――無限大虚無の中心の一点である――と言葉が好きであるからであらう。
×
「吉原の火事映る田や鳴く蛙」には感興をひかれない。
「●」はよく草野自身を出してゐる。
すかんぽをくつてゐると
蛙がわらつた
おれがだまつてゐるので
ひつくりかへつて
白い腹をみせた
×
「佝僂と蛙と風景」には一言あつていゝと思ふ。だが、この詩はいゝ詩だと言つて終つてもよいのかも知れない。言ふことは何によらずかなりめんどうなことだ。
草野は次第にかうした詩型に入つてゆくのだらう。私はそれをさうでないよりいゝと思つてゐる。細々した注文ではあるが、終りまで面白く読ませてゐるが、終りになつてくどくなつてゐる。
×
「水素のやうな話」もいゝ。
「ギケロ」もいゝ。が「ギケロ」の方が少しくどい。どつちにも難はない。
×
「亡霊」と「電柱の中で死んだ蛙」は同じ位に好きだ。この二つの詩は、詩集の中でない時の方がよりよく生命をもつ。
×
「ぴりぴの告白」
ぴりぴは蛙であらう。が、この詩の場合びりぴが蛙であることが似やはしくない。似やはしくないやうな気がする。この詩に「亡霊」といふやうな種類の題が欲しい。
×
「Spring Snata 第一印象」も略さう。
「Spring Snata 第一印象」を略したのだから「蛙と蛇と男」も略さう。たゞ、形容句を列べてそこに詩をもりあげることは、かなり困難な仕事であるが、草野は前者に於てよく成功してゐる。
×
「ゲル」はつまらない。
「病気」はいゝ。
「中性」もいゝ。
「五木足の蛙」もいゝ。
×
「ぐりまの死」このひからびた甘さがいゝではないか。
ぐりまは子供に釣られてたたきつけられて死んだ
取りのこされたるりだは
菫の花をとつて
ぐりまの口にさした
半日もそばにゐたので苦しくなつて水に這入つた
顔を泥にうずめてゐると
くわんらくの声々が腹にしびれる
泪が噴水のやうに喉にこたへる
萱をくわえたまんま菫もぐりまも
カンカン夏の陽にひからびていつた
×
書き疲れた。
「散歩」「●」は略さう。
「一匹を慕ふ二匹の会話」を読んでゐるとお可笑しくなる。つまらないと言へばつまらなく、いゝと言へばいゝのは草野の責任だ。
蛙になる
なまぬるい水も気持がいいし
どろどろの青藻もまずくはない
顔もすべつこくなつてきたし
こりこりいふ唄声が腋の下を汗ばませる
水の底で眼をあけると
ぶくぶくよりあつてゐるのもあるし
浮きあがつて四つ脚をぶらりとのばした
どこもかも大ぴらなまつ白い腹もある
電気飴のやうな陽の光りが入つてくる
黒い影のあるいてゐるのは
鳶でもとんでゐるのらしい
×
「晴天」もいゝ詩だ。最後の一節は不用だ。それが草野のもつてゐる欠点にならないやうに希望する。
×
草野は詩集の後記に次のやうなことを書いてゐる。
この批評だけをしか見ない人のために引例する――
×
[やぶちゃん注:以下、「 云々――。(略す)」の二字下げを除き、総てが一字下げで記されているが、ブラウザの関係上、総てを左揃えで統一した。以下、『第百階級』原典では各章の間は「×」ではなく、十六字下げの「◎」である。『第百階級』の掉尾の部分を「ゲリゲ」の遺言以外をすべて漏れなく引用している。但し、一部に誤表記がある。]
銀座街道に売物になつてゐるトタン箱にうづくまるガマの眼玉は僕から中学小学の修身教科書の全部を消滅させる大学的徳性は笑はれる。
蛙達の眼に映る人間の顔、その二つの肉体的力量の比較に立脚して魂のあ然は果してどつちにあるか。
×
蛾を食ふ蛙はそのことにのみよつて蛇に食はれる。人間は誰にも殺されないことによつて人間を殺す。この定義は悪まだ。蛙をみて人間に不信任状を出したい僕はその故にのみかえるを憎む。
×
殺りやく者「万物の霊長」は君達をたたきころしむしろ道ばたの遊びごととしそしてそれは自然だ。君達は君達の互助を讃えよ。高らかにうたへ。
×
人情的なあらゆるものをべつ視する宇宙大無口。
×
かえるの性慾は相手の腹に穴をあける
かえるの意地つ張りは石を笑ふ
かえるの夢は厖大無辺
眼玉は忍従と意志の縮図だ
×
そしてゲリゲといふかえるは蛇に食はれて死んで行くとき、人間の言葉にほん訳したら恐らく次のやうな言葉を仲間に送つた。
云々――。(略す)
×
そしてにんげん諸君 蛙とにんげんとマンモス 蛙とにんげんの声がマンモスの声より小さいだらうといつて 蛙のコーラスがにんげんのそれよりけちくさくしみつたれだと言ひ得るとでも言ふのか。
×
ばくは蛙なんぞ愛してゐない!
(詩と詩論第三冊 昭和4年3月発行)
[やぶちゃん注:これは盟友草野心平(明治36(1903)年~昭和63(1988)年)が昭和3(1928)年11月に銅鑼社より刊行された草野にとっては活版印刷によるものとしては処女詩集となった『第百階級』の詩評を中心とした草野心平論。表題だけが示される草野の詩が当然の如く多出し、その詩を読んで初めて意味の分かる部分もあるが、草野の詩は著作権保護がなされているため、引用は原典との差異を示すものだけに控えた。
・「混沌君」は、同郷の農民詩人であった三野混沌(明治27(1894)年~昭和45(1970)年)のこと。本名、吉野義也。福島県石城郡平窪村曲田生(草野も現・いわき市出身)。山村暮鳥・草野心平らとの交友があった。
・『「逆歯」などといふ言葉』は、『第百階級』中の「逆歯(ギヤクシ)に死ぬる同胞一匹」の題名に用いられた単語である。逆歯とは九鈎刀(きゅうこうとう)という刀の一種。通常の刀の背の部分が、氷を挽く鋸のように九つに抉られて小さな逆の刃を成しているものを言う。
・「殺虐の恐怖のない平凡なひと時の千組の中の一組」の引用はほぼ正しいが、最終行を何故か外している。原典を引くと(引用はほるぷ社昭和58(1983)年復刻になる『第百階級』を用いた。以下同じ)、
殺虐の恐怖のない平凡な
ひと時の千組の中の一組
そうか?
おれもそだ
だまつてると
どてつ腹むしりたくなる
このお天氣はどうだい!
お天氣はお天氣にして出掛(んく)べや
あいらもうれしいんでやけに鳴いてるな
んぐべ
あ んぐベ
どつたどつた音たててんぐベ
バカ!なに笑つてるだ
ゲツヘ おまへも笑つてるくせに
んぐべツ!
である。但し、この原典の「お天気はお天気にして出掛(んく)べや」の「んく」のルビは濁点の脱落の可能性もある。
・「たゞ子供に追ひかけられる蛙 とだけでいゝ」の一字空欄はママ。
・『「だから石をなげれるのだ/だから石をうけれるのだ」』の表記は段落冒頭であるから仕方がないのであるが、ややおかしい。これは詩の二行に渡る題で、原典では、
だから石をなげれるのだ
だから石をうけれるのだ
と並列されている。
・「十四人以上人ぶつ」の「ぶつ」はママ。
・「この一行を加へなければならないことは、作者が――無限大虚無の中心の一点である――と言葉が好きであるからであらう」の部分、「と言葉が」の「と」の脇に底本ではママ表記がある。「といふ言葉が好きであるからであらう」となるべき部分。
・『「●」』は以下の詩の題。直径1㎝3㎜の巨大な黒丸である。
・『「佝僂と蛙と風景」』の「佝僂」は本文中でもルビがないが、恐らく「くる」ではなく「せむし」と読ませているものと推定する。
・「ぐりまの死」の引用は杜撰である。正しくは以下の通り。
ぐりまの死
ぐりまは子供に釣られて叩きつけられて死んだ
取りのこされたるりだは
菫の花をとつて
ぐりまの口にさした
半日もそばにゐたので苦しくなつて水に這入つた
顔を泥にうづめてゐると
くわんらくの聲々が腹にしびれる
泪が噴上のやうに喉にこたへる
菫をくはへたまんま
菫もぐりまも
カンカン夏の陽にひからびていつた
草野は「噴上」を「ふきあげ」と読ませるつもりか。
蛙になる
なまぬるい水も氣持がいいし
どろどろの青藻もまずくはない
顔もすべつこくなつてきたし
こりこりいふ唄聲が腋の下を汗ばませる
水の底で眼をあけると
ぶくぶくよりあつてゐるのもあるし
浮きあがつて四つ脚をぶらりとのばした
どこもかも大ぴらなまつ白い腹もある
電気飴のやうな陽の光りが入つてくる
黒い影のあるいてゐるのは
鳶でもとんでゐるのらしい
原典では「腋の下」は「液の下」とあるが、誤植と判断して直した。「電気飴」とは綿菓子のこと。
・『「散歩」「●」は略さう』この「●」という題の詩は、先に掲げた同名の「●」という詩とは別物である。
・「銀座街道に売物になつてゐるトタン箱にうづくまるガマの眼玉は僕から中学小学の修身教科書の全部を消滅させる大学的徳性は笑はれる。
蛙達の眼に映る人間の顔、その二つの肉体的力量の比較に立脚して魂のあ然は果してどつちにあるか。」は正しくは以下の通り。「街頭」を「街道」と誤って引用している。
銀座街頭に賣物になつてゐるトタン箱にうづくまるガマの眼玉は僕から中學小學の修身教科書の全部を消滅させる大學的德性は笑はれる。
蛙達の眼に映る人間の顔、その二つの肉體的力量の比較に立脚して魂のあ然は果してどつちにあるか。
・「蛾を食ふ蛙はそのことにのみよつて蛇に食はれる。人間は誰にも殺されないことによつて人間を殺す。この定義は悪まだ。蛙をみて人間に不信任状を出したい僕はその故にのみかえるを憎む。」は正しくは以下の通り。「にのみよつて」は通常通り「のみによつて」である。また、「食はれる。」の後に一字空けが見られる。
蛾を食ふ蛙はそのことのみによつて蛇に食はれる。 人間は誰にも殺されないことによつて人間を殺す。この定義は悪まだ。蛙をみて人間に不信任状を出したい僕はその故にのみかえるを憎む。
・『殺りやく者「万物の霊長」は君達をたたきころしむしろ道ばたの遊びごととしそしてそれは自然だ。君達は君達の互助を讃えよ。高らかにうたへ。』は正しくは以下の通り。「万物の霊長」は二十鍵括弧。「殺りやく者」は原典でもママ。
殺りやく者『萬物の靈長』は君達をたたきころしむしろ道ばたの遊びごととしそしてそれは自然だ。君達は君達の互助を讃えよ。高らかにうたへ。
・「人情的なあらゆるものをべつ視する宇宙大無口。」引用に異同なし。「べつ視」は原典でもママ。
・「かえるの性慾は相手の腹に穴をあける/かえるの意地つ張りは石を笑ふ//かえるの夢は厖大無辺/眼玉は忍従と意志の縮図だ」は正しくは以下の通り。「慾」は通常の「欲」で、全体は二連ではなく、一連である。
かえるの性欲は相手の腹に穴をあける
かえるの意地つ張りは石を笑ふ
かえるの夢は厖大無邊
眼玉は忍從と意志の縮圖だ
・「そしてゲリゲといふかえるは蛇に食はれて死んで行くとき、人間の言葉にほん訳したら恐らく次のやうな言葉を仲間に送つた。/云々――。(略す)」最初の一文は引用に異同なし。「ほん訳」は原典でも「ほん譯」でママ。なお、「云々――。(略す)」は尾形亀之助の略表記で、ここには最初の一文より全体一字下げでその「ゲリゲ」の「です・ます」体の遺書が記されている。著作権を考慮して記すと、『お友達や仲間の諸君』に始まり、彼が殺されることを悲しんで逃げるように声をかけてくれたその人々に感謝の意を表し、彼を『殺す』のは蛇でも何でもなく、彼自身の意地であると表明し、自分の死は悲しくないとする。そうして本当に『悲しいことはなぜ殺しあひがあるかということ』であるが、しかし「それも仕方がないでせう」と諦観する。彼ら蛙も色々なものを食べる、『自然の暴威』は当然の摂理である。いや、だからこそ本当に悲しいことは『なぜおんなじ兄弟たちなかまたちが殺しあふの』かという大いなる疑問だという。『人間も人間同士で殺しあふ』――『ぼくたちは幸福で』ある。それは何故と言うに『誰彼の差別なく助け合ひ歌ひあ』うからである。これこそ至福である。僕は死んでゆく。『悲しくはありません、さようなら、萬歳して下さ』い。と終わる内容である。
・「そしてにんげん諸君 蛙とにんげんとマンモス 蛙とにんげんの声がマンモスの声より小さいだらうといつて 蛙のコーラスがにんげんのそれよりけちくさくしみつたれだと言ひ得るとでも言ふのか。」引用に異同なし(「声」は勿論、「聲」)。
・「ぼくは蛙なんぞ愛してゐない!」引用に異同なし。]
2009・8・15未明の夢
鏡の中の僕の顔には額から顎にかけて北斗七星の形に白い結節が出来ている
僕はつげ義春の「夢の散歩」のようなどろどろの荒蕪地に建っている病院に行く
その病院は教員の指定年齢診断のためにごった返しており、二人の医師が僕を診察するものの、病名も同定できずに困っている
そこにやけに痩せこけた暗い表情の青年医師が現れる
僕を診断して即座に
「少年性矮星症」
と病名だけを陰気に告げる
院長の女医が僕を見送りながら
「あの人(=「少年性矮星症」と診断した青年医師)は三人の患者を誤診して死なせてしまっているのでどうか自信を持たせてやって欲しい」
と言う
患者の長蛇の列が霞む程向うの方まで続いていた
ふと見ると
そこでトリアージをしている看護婦は
僕の昔の愛した教え子であった
彼女は僕を見るとあの頃と同じように淋しく笑った
女医はKの頭文字を持った女性を看護師として採用しているのですと説明した
僕はあの子はとても誠実な子ですからどうかよろしくと言いながら
顔の北斗七星の斑点を拘縮した右手で覆い隠すと
本郷台の駅へと下って行った――
先日風温泉に漬かりながら3年前オーストラリアの修学旅行の引率で買い求めたネックレスのBICOの翡翠色のスワロフスキイがとっくのとっくに外れているのに気がついた教訓サーファー向のBICOのスワロフスキイの接着剤は海水に強いが多様な温泉に漬かると弱いと見た抜けたそもそもがスワロフスキイは夜店の合成樹脂の子供騙しの宝石みたようなもんだったし感じがイルカにすっかり似てきてはたまたその抜け落ちた窩が燻し銀にくすんでマチュピチュで発掘人がこっそり見せてくれたインカの遺物みたようで気に入っているのだ附記:僕のネックレスは右腕の記念で装飾じゃない結婚指輪を抜かないと指のリハビリが出来なかった結婚指輪をぶら下げるために妻に買ってもらったイルカの尾のついたネックレスだBICOはそのお礼に妻にペアで買ったものだ今又指が拘縮を始めて成程それを思い出させてくれたのだ――まさに掌の「皮肉」の拘縮――では随分御機嫌よう
残暑御見舞申上候 我不相変右掌拘縮不改善鬱鬱 此於義母見舞儀随分御機嫌様
【2015年7月2日追記】夢野久作の「氷の涯」を読みたく思われてこの記事に来られた方へ――僕のこのブログのブログ・カテゴリ「夢野久作」ではもうじき、「氷の涯」(正字正仮名初出形)の全文電子化と注釈が終了します。どうぞ、そちらへ!【2015年7月6日追記】「氷の涯」ブログ版を終わりました。同時に夢野久作「氷の涯」PDF縦書版(2.34MB)――ルビ・オリジナル注・全挿絵五葉附――を公開しましたので、こちらでお読み戴きますように!
*
……
「お前と一緒に逃げたお陰で、とうとう結末がついちゃったね」
ニーナはプイッと拗(す)ねたような恰好でペーチカの方に向き直った。そうして思い出したように、梨の喰いさしとナイフを頭の上に高々とさし上げて、
「……あァあ、妾の仕事もおしまいになっちゃったァ。……アンタに惚れたのが運の尽きだったわよ」
といううちに又もガリガリと梨を嚙り始めるのであった。
僕はうまい葉巻の煙を天井に吹き上げていた。気のせいか又も二、三発、停車場の方向で銃声を聞いたように思いながら……。
病気のせいもあったろう。すべてを諦め切っていた僕の神経はこの時、水晶のように静かに澄み切っていた。そうしてこの時ぐらい煙草がうまいと思ったことはなかった。天井から吊した十燭の電燈が、ちょっと暗く……又明るくなった。
その時にニーナは又も、新しい小さい梨を一つポケットから出して、今度は丁寧に皮を剥いた。そうしてその白い、マン丸い、水分の多い肌合いを暫くの間ジッと眺めまわしていたが、やがてガブリと嚙みつくと、スウスウと汁を畷り上げながら無造作に言った。
「ねえアンタ」
「何だい」
「……妾と一緒に死んでみない……」
僕はだまっていた。ちょうど考えていたことを言われたので……。
「ねえ。……ドウセ駄目なら銃殺されるよりいいわ。ステキな死に方があるんだから……」
「フーン、どんな死に方だい」と僕は出来るだけ平気で言った。少しばかり胸を躍らせながら……ところが、それから梨を嚙み嚙み説明するニーナの言葉を聞いているうちに僕はスッカリ興奮してしまった。表面は知らん顔をして葉巻の煙を吹き上げ吹き上げしていたが、恐らくこの時ぐらい神経をドキドキさせられた事はなかったであろう……。
僕はニーナの話を聞いているうちに、今の今までドンナ音楽を聞いても感じ得なかった興奮を感じた。僕の生命の底の底を流れる僕のホントウの生命の流れを発見したのであった。……そうして全然生まれ変ったような僕自身の心臓の鼓動を、ガムボージ色に棚引く煙の下にいきいきと感じたのであった。
ニーナはその晩から部屋を飛び出して準備を始めた。そうして昨日の午前中に三階に住んでいる中国人崔の手を経て、馬つきの橇を一台手に入れる約束をした。それから宿の払いと買物をした残りのお金で、昨夜から今日一日じゅう、御馳走を食べ続けて無煙炭をドシドシペーチカに投げ込んだ。
僕は病気も何も忘れてこの遺書を書き始めた。発表していいか悪いかを君の判断に任せるために……もっとも書きかけの西比利亜漂浪記の中から抽き出して書いたのだから、大して骨は折れなかった。
ニーナはまだ編物を続けている。寄せ糸で編んだハンド・バッグみたようなものが出来上りかけている。
注文した馬と橇はモウ下の物置の中に、鋸屑を敷いて繋いで在る。張り切っている若馬だから一晩ぐらい走り続けても大丈夫だと、世話をしてくれた崔が保証した。
僕らは今夜十二時過にこの橇に乗って出かけるのだ。まず上等の朝鮮人参を一本、馬に嚙ませてから、ニーナが編んだハンド・バッグに、やはり上等のウイスキーの角瓶を四、五本詰め込む。それから海岸通りの荷馬車揚場の斜面に来て、そこから凍結した海の上に、辷り出すのだ。ちょうど満月で雲も何もないのだからトテモ素敵な眺めであろう。
ルスキー島をまわったら一直線に沖の方に向って馬を鞭打つのだ。そうしてウイスキーを飲み飲みどこまでも沖へ出るのだ。
そうすると、月のいい晩だったら氷がだんだんと真珠のような色から、虹のような色に変化して、眼がチクチクと痛くなって来る。それでも構わずグングン沖へ出て行くと、今度は氷がだんだん真黒く見えて来るが、それから先は、ドウなっているか誰も知らないのだそうだ。
この話はニーナが哈爾賓にいるうちにドバンチコから聞いていたそうで、そのドバンチコは又、ある老看守から伝え聞いていたものだそうだが、大抵の者は、途中で酔いが醒めて帰って来るそうである。又年寄りの馬はカンがいいから、橇の上の人間が眠ると、すぐに陸の方へ引返して来るそうで、そのために折角苦心して極楽往生を願った脱獄囚が、モトの牢屋のタタキの上で眼を醒ました事があるという。
「……しかしアンタと二人なら大丈夫よ」
と言って彼女が笑ったから、僕はこのペンを止めて睨みつけた。
「もし氷が日本まで続いていたらドウスル……」
と言ったら、彼女は編棒をゴジャゴジャにして笑いこけた。
(三一書房1969年刊「夢野久作全集3」より)
*
夢野久作「氷の涯」のエンディングである。
僕の好きな夢野久作の、その中でも格段に好きな、僕の拘縮した指が凍って痛みもなく切れんとするような慄っとする程美しく素敵なエンディングだ――
*やぶちゃん語注:「ガムボージ色」“Gamboge”:インドシナ半島に植生するオトギリソウ科の雌黄樹から採る透明感のある黄又は黄褐色のガム樹脂。有毒。
それは丁度――
バッハの「平均律クラヴィア曲集第1巻前奏曲第1番ハ長調」とともにが雪原の彼方に消えてゆくグレン・グールド――
「シテール島への船出」のラスト・シーン、桟橋に乗ったまま朝霧の海彼へと流れて去ってゆくスピロとカテリーナの老夫婦――
……僕らは今夜十二時過にこの橇に乗って出かける……
……上等の朝鮮人参を一本、馬に嚙ませてから、ニーナが編んだハンド・バッグに、やはり上等のウイスキーの角瓶を四、五本詰め込んで……
……海岸通りの荷馬車揚場の斜面に来て、そこから凍結した海の上に、辷り出す……
……ちょうど満月で雲も何もない……
……トテモ素敵な眺め……
……ルスキー島をまわって一直線に沖の方に向って馬を鞭打つ……
……そうしてウイスキーを飲み飲みどこまでも沖へ出る……
……月のいい晩……
……氷がだんだんと真珠のような色から、虹のような色に変化して、眼がチクチクと痛くなって来る。それでも構わずグングン沖へ出て行く……
……氷がだんだん真黒く見えて来る……
……それから先は、ドウなっているか……誰も知らない……氷の涯 だ――
感懐
鳥群飛天
愁殺蕭蕭
寒風孤舟
断斬沖浪
彷徨海月
吸引推螺
漂泊渦潮
願請極北
不問有無
同伴氷涯
芥川龍之介『支那游記』参考資料として、芥川龍之介中国旅行関連(『支那游記』関連)手帳(計2冊)を正字正仮名で「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」に公開した。
多分、もう一度、『支那游記』全篇を読み返したくなることを、請け合うね。
【2018年4月追記】私のブログ・カテゴリ「芥川龍之介 手帳」(全電子化注)を本年3月に完遂した。分割物であるが、上記のものよりも遙かに詳しい注を附してあるのでそちらを見られんことを、強くお勧めするものである。
ブログ記載2000記念として芥川龍之介「北京日記抄」やぶちゃん注釈附き完全版を正字正仮名で「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」に公開した。これを以って芥川龍之介『支那游記』の全篇を僕の注釈附きで完全にHPで公開したこととなった。僕の今年の元旦の目標の最も核心の部分はこれによって完璧に達成し得た。
僕は僕に孤独に乾杯する――
但し――まだおまけは――ある――ヒントは今日の「礼文利尻手帳」の書式に有り――
8月4日(火)
◎稚内。アイヌ語「ヤム(冷たき)ワッカ(水)ナイ(川)」。
○ノシャップ寒流水族館。拘縮しつつある右腕をドクター・フィッシュの餌食とす。其肌舐め触り、得も言はれぬ快感なること請け合ひ。ダンゴウオ。バイガイの隠者。零細なる経営・袋小路式順路、正しく寒流の名に相応し。されど我水族館訪問史にありては、思ひ出深し。
○ノシャップ(野寒布)岬。アイヌ語「ノッ(岬)サム(突き出でし)」。
○稚内港。北防波堤ドーム。極北のパルテノン神殿。
◎礼文。アイヌ語「レプン(沖なる)シリ(島)」。
○町は干物が臭ひに満てり。海岸線に張り付ける家々。各々の家屋は背後に山上へと向かふ道やら梯子やらを有するも、その先は悉く緑蕪に塞がれてゐたり。又雪崩防止が為、斜面各所に多数の突き出でたる柵有。恰も山への登攀を拒むに似たり。其が街の名を「香深」と言ふ。道標にローマ字有。“Kafuka”。――知れり。是、カフカの「城」也――
○Petie Hotel Korinsian(コリンシアン)泊。海近し。海上鏡面の如くにして潮騒の一転声無し、否、窓全開せるも開きたるを感ぜしめず。部屋の装飾、その無類の静謐、アイゼナッハのワルトブルグ城をちと思ひ出せし。昨年開鑿せるラドン温泉に入る。
8月5日(水)
○朝、散策。エゾタマキガイと思はるる多量の貝殻に埋め尽くされし海浜。屍骸の壮観。
○一日、Hotel Korinssian コンシェルジュ日沼景子女史の案内にて車にて礼文を回る。銭屋五兵衛碑。スコトン(須古頓)岬。「日本最北限の岬」「日本最北限のトイレ」のクレジット有。
○スカイ(澄海)岬。木彫師仁吉“nikichi”の店にてホオズキ他求む。ナマコ・ホヤの実物大彫刻有らば求めんに惜し。仁吉氏の飼ひし老犬「チャ」。スカイ(澄海)の字は余りにまんまなればこそ、アイヌ語にては他の意味ならん。
○高山植物培養センター(植物園)。レブンアツモリソウ見る。時期外れなれど客が為に冷蔵庫にて時期を錯誤させ園地に植ゑ込みて見せる也。可憐なる白色。今朝、一輪はカラス(推定)の悪戯せし故に散れるなりと。日高女史を知れる課長飯野氏の好意にて、奇形なればとて間引きせるレブンアツモリソウの剖検を特別に見学す。レブンアツモリソウの袋状をせる花中雄蕊雌蕊及び昆虫をば誘ひ込まんとする柔毛に至る迄具さに見る。総花序も撮影す。稀有の体験也。学校の子らに斯くなる試技を示し見せレブンアツモリソウへの本当の理解と保護の精神を促したしてふ飯野氏の言葉に心底打たれたり。
○漁協ウニ加工場。海洋生物を好む客也と日高女史言へば、漁労長、奥にウニの解剖図を取りに行かれ、厳かにウニを剖検す。綺麗に出だされし Aristotle's lantern を観察、生を食す(是は既に昨夜の夕食にて体験済)。親しく塩雲丹の製造法につきて質問するに、私的に昨日漬けた色悪きものの商品にならざるものの一夜漬けの塩雲丹、再び奥より出だし、下さる。一含み、我、生涯に於いて斯く美味なる雲丹を食ひたるは初めての事なり。又又稀有の体験。
○東海岸。岩礁に列臥しイナバウアーを演じたる天然の十数匹のワモンアザラシの群れ、目と鼻の先にて見る。飽きること無し。
○レブンウスユキソウ群生地に登る。見下ろす眼前に青き海とレブンウスユキソウ。其れ、稀有の取り合わせ(日高女史も曰、エーデルワイスを海と一緒に見らるるは世界中に此処のみとなり)。絶景。車中、礼文の地図北端に知床てふ地名を発見す。女史曰、アイヌ語でシレトコは地の果ての地てふ意なりと。合点せり。
○西海岸。桃台。地蔵岩。猫岩。桃台は桃の形をせる巨なる岩塊、地蔵岩は大いなる舟形光背の形せる海岸にそそり立つ岩。猫岩は耳を立てし猫の稍傾きて坐れる後姿なる海辺の岩也。香深のフェリー乗り場の旗振りで知られしユースホステル桃岩荘の近在也。飯野氏と言ひ漁労長と言ひ日沼女史と言ひ島人の誠意に触れし一日なり。礼文案内なれば日沼景子女史の右に出る者無し。
○Pesion Uniy(うーにー)泊。夜食事に出でし糠(ぬか)ホッケ佳。生ハムに匹敵せる味。夜、部屋から見下ろした植え込みに南洋の白きダチュラの花を見る。妻も認む。
8月6日(木)
○出しなに前栽見るも花無し。うーにーの女将にダチュラの花ならんと言ふも、あれはイタドリ、そんなお洒落な名前の花は聞いたことなしと言ふ。確かに昨夜の位置には大きなるイタドリの葉の黄ばみしがあるのみ。我と妻、幻のエンジェルズ・トランペットを見し乎。
○香深フェリータミナル前松岡支店にて、昨夜食せる糠ホッケ冷凍十本を配送依頼。
○香深港発。利尻鴛泊に近づきて遂に快晴。満を持して利尻富士の全容を拝す。ブロッケン山へ!
◎利尻。アイヌ語「リイ(高き)シリ(島)」。
○鴛泊港にて高山植物に詳しい元漁師富士ハイヤーの和島英樹氏の案内にて富士野園地から沓形へ。海岸線の隠れたる花園を見る。リシリヒナゲシ。昆布干場。養殖リシリコンブの柄部にヒドロ虫の付着せるを見る。今年は特にヒドロ虫付きて等級の下がる由、悩みの種也となり。
○Island Inn Rishiri(アイランド イン リシリ)泊。連泊。
○利尻島の駅「海藻の里・利尻」。世界で唯一の本格海藻押し花。バラやフキノトウの押し葉には驚愕せり。
○アイランド イン リシリの浴場、高濃度炭酸泉・海洋深層水とリシリコンブ(我も出汁となれる乎)・利尻山湧水の加熱水三種。夜、雲丹の土瓶蒸佳。レシピ聞くも企業秘密。同夜。快晴。満月美天。尖れる山並、さながらワルプルギュスの景。
8月7日(金)
○観光バスにて利尻一周。我等滞在中、鴛泊沓形間を都合5度通りしより、利尻島2回+1/4走破すに等し。
○ポンモシリ沼と見返園地にて利尻山頂を現はす。全く以て山頂を見ずして離島せる客もあるなるなれば、我等如何にも幸運の極み。アイヌ語「ポン(小さき)モシリ(島)」。
○利尻島郷土資料館。Ranald MacDonaldラナルド・マクドナルド。ペリーに先立つ5年前日本に憧れて来し24 歳のアメリカ人青年の物語。ヒグマの海を渡りて利尻に泳ぎ来たれる写真。彼の稚内北防波堤ドーム建設が為、消え去りし鴛泊がペシ岬の根の岩山の話。
○仙法師御崎公園。天然岩礁の生簀中にアザラシのワカメちゃんとコンブちゃん。昨日の和島氏の言を入れ、リシリコンブは漁協直売所にて買ふなり。
○同夕。快晴。オレンジの落日。同夜。快晴。昨夜に続き夜天美月。屋上にて、360度を望天、心無しか近き大きなるかな北斗、峨々たる利尻、見えぬ精霊、跳梁せるサバト。昼の浴場と同じく客無く貸切。
8月8日(土)
○島離れる船の汽笛にゐる(三十数年前の18の折の於小豆島旧句也)
随分、御機嫌よう。最北の島へ旅立つ。
因みにこの記事はブログ開始以来、1999回目となった。
五 名勝
萬壽山(まんじゆざん)。自動車を飛ばせて萬壽山に至る途中の風光は愛すべし。されど萬壽山の宮殿泉石は西太后(せいたいこう)の惡趣味を見るに足るのみ。柳の垂れたる池の邊(ほとり)に醜惡なる大理石の畫舫(ぐわぼう)あり。これも亦大評判なるよし。石の船にも感歎すべしとせば、鐵の船なる軍艦には卒倒せざるべからざらん乎(か)。
玉泉山。山上に廃塔あり。塔下に踞(きよ)して北京の郊外を俯瞰す。好景、萬壽山に勝ること數等。尤もこの山の泉より造れるサイダアは好景よりも更に好(かう)なるかも知れず。
白雲觀。洪(こう)大尉の石碣(せきけつ)を開いて一百八の魔君(まくん)を走らせしも恐らくはかう言ふ所ならん。靈官殿、玉皇殿、四御殿(しぎよでん)など、皆槐(えんじゆ)や合歡の中に金碧燦爛(きんぺきさんらん)としてゐたり。次手に葡萄架後(かご)の墓所を覗けば、これも世間並の墓所にあらず。「雲廚寶鼎」の額の左右に金字の聯(れん)をぶら下げて曰、「勺水共飮蓬萊客、粒米同餐羽士家」と。但し道士も時勢には勝たれず、せつせと石炭を運びゐたり。
天寧寺。この寺の塔は隋の文帝の建立のよし。尤も今あるのは乾隆二十年の重修なり。塔は綠瓦(りよくぐわ)を疊むこと十三層、屋緣(をくえん)は白く、塔壁は赤し、――と言へば綺麗らしけれど、實は荒廢見るに堪へず。寺は既に全然滅び、只(ただ)紫燕の亂飛(らんぴ)するを見るのみ。
松筠庵(しようゐんあん)。楊椒山(やうせうざん)の故宅なり。故宅と言へば風流なれど、今は郵便局の橫町にある上、入口に君子自重の小便壺あるは沒風流も亦甚し。瓦を敷き、岩を積みたる庭の前に諫草亭(かんさうてい)あり。庭に擬寶珠(ぎぼうしゆ)の鉢植ゑ多し。椒山の「鐵肩担道義、辣手著文章」の碑をラムプの臺に使ひたるも滑稽なり。後生(こうせい)、まことに恐るべし。椒山、この語の意を知れりや否や。
謝文節公祠(しやぶんせつこうし)。これも外右(がいいう)四區(く)警察署第一半日學校の門内にあり。尤もどちらが家主(いへぬし)かは知らず。薇香堂(びかうだう)なるものの中に疊山(でうざん)の木像あり。木像の前に紙錫(ししやく)、硝子張(ガラスばり)の燈籠など、他(た)は只(ただ)滿堂の塵埃(じんあい)のみ。
窑臺(えうだい)。三門閣下に晝寢する支那人多し。滿目の蘆萩(ろてき)。中野君の説明によれば、北京の苦力(クウリイ)は炎暑の候だけ皆他省へ出稼ぎに行き、苦力の細君はその間にこの蘆萩の中にて賣婬するよし。時價十五錢内外と言ふ。
陶然亭。古刹慈悲淨林の額なども仰ぎ見たれど、そんなものはどうでもよし。陶然亭は天井を竹にて組み、窓を緑紗(りよくしや)にて張りたる上、蔀(しとみ)めきたる卍字(まんじ)の障子を上げたる趣、簡素にして愛すべし。名物の精進料理を食ひをれば、鳥聲頻に天上より來る。ボイにあれは何だと聞けば、――實はちよつと聞いて貰へば、郭公(ほととぎす)の聲と答へたよし。
文天祥祠(ぶんてんしようし)。京師(けいし)府立第十八國民高等學校の隣にあり。堂内に木造並に宋丞相信國公文公之神位(そうじようしやうしんこくこうぶんこうのしんゐ)なるものを安置す。此處も亦塵埃の漠漠たるを見るのみ。堂前に大いなる楡(にれ)(?)の木あり。杜少陵ならば老楡行(らうゆかう)か何か作る所ならん。僕は勿論發句一つ出來ず。英雄の死も一度は可なり。二度目の死は氣の毒過ぎて、到底詩興などは起らぬものと知るべし。
永安寺。この寺の善因殿は消防隊展望臺に用ゐられつつあり。葉卷を啣へて殿上に立てば、紫禁城の黃瓦(くわうぐわ)、天寧寺の塔、アメリカの無線電信柱等(とう)、皆歷歷と指呼すべし。
北海。柳、燕、蓮池(はすいけ)、それ等に面せる黃瓦丹壁(たんぺき)の大淸皇帝用小住宅。
天壇。地壇。先農壇。皆大いなる大理石の壇に雜草の萋萋(せいせい)と茂れるのみ。天壇の外の廣場に出づるに忽(たちまち)一發の銃聲あり。何ぞと問へば、死刑なりと言ふ。
紫禁城。こは夢魔のみ。夜天(やてん)よりも庬大なる夢魔のみ。
[やぶちゃん注:これは最後の芥川龍之介の中国旅行ハイパー総括北京てんこ盛り、彼にしては、やや安易な印象を与えるアフォリズム風の筆致である。
・「萬壽山」北京の西北西郊外にある山。標高約60m。麓の昆明池の湖畔に沿って、1750年に乾隆帝が母の万寿を祝って築造した離宮があったが、アロー戦争末の1860年に英仏連合軍によって焼き払われた。後に西太后が改修、頤和園(いわえん)と名付けた。
・「西太后」(1835~1908)清の第9代皇帝文宗(1831~1861 咸豊(かんぽう)帝)の妃・第10代穆宗(ぼくそう 1856~1875 同治帝)の母。穆宗及び第11代徳宗(1871~1908 光緒帝)の摂政となって彼らを実質的な傀儡にし、政治権力を独占した。洋務派による行政近代化改革であった変法自強運動を弾圧、1900年の義和団の乱では、ヨーロッパ列強に宣戦布告する等、一貫して守旧派の中心にあった。
・「畫舫」は装飾や絵・彩色を施した中国の屋形船。遊覧船。但し、この場合は、本物の「船」ではない。
・「玉泉山」北京市西郊にある丘。前掲の頤和園の西。麓に湧水地があり、玉河と呼称し昆明池に注ぐ。古くは紫禁城の太液池に引かれ、北京市民の飲料水でもあった。名称はこの泉による。市民の行楽地となっており、清の第4代皇帝聖祖(1654~1722 康煕帝)が離宮静明園を造立、第6代高宗(1711~1799 乾隆帝)の天下第一泉碑があり、後には毛沢東が葬られ、その墓所がある。
・「廃塔」乾隆元年である1736年建立された玉泉山玉峰塔のことであろう。北京の磚塔(せんとう:煉瓦造りの塔。)としては貴重なものであるが、現在は軍事施設内にあり、登頂はおろか、立ち入ることも出来ない。
・「白雲觀」現在の北京西城区白雲路にある道教の総本山。739年の創建で原名は天長観と言ったが、1203年に大極宮と改名。1220年代に元の太祖チンギス・ハンが道士丘処机(1148~1227)に全土の道教の総括を命じ、彼は大極宮住持に任命され、長春子と号した。1227年、死去した丘を記念して長春宮と改名されている。以後、戦火によって損壊するが、15世紀初頭、明によって重修され、現在の規模となって名も白雲観と改められた。総面積は10,000m²を越える(以上は真下亨氏の「白雲観」のページを参照した)。
・「洪大尉の石碣を開いて一百八の魔君を走らせし」「水滸伝」の巻頭の重要なエピソード。以下、ウィキの「水滸伝」から該当箇所「百八の魔星、再び世に放たれる」を引用する。『北宋は第四代皇帝仁宗の時代、国の全土に疫病が蔓延し、打てる手を尽くした朝廷は最後の手段として、竜虎山に住む仙人張天師に祈祷を依頼するため、太尉の洪信(こうしん)を使者として派遣する。竜虎山に着いた洪信は様々な霊威に遭うが、童子に化身した張天師と会い、図らずも都へと向かわせることが出来た。翌日、道観内を見学する洪信は「伏魔殿」と額のかかった、厳重に封印された扉を目にする。聞けば、唐の時代に、天界を追放された百八の魔星を代々封印している場所で、絶対に開けてはならないという。しかし、これに興味を持った洪信は道士らの制止も聞かず、権力を振りかざして無理矢理扉を開けさせる。中には「遇洪而開(こうにあいてひらく)」という四文字を記した石碑があり、これを退けると、突如目も眩まんばかりの閃光が走り、三十六の天罡星(てんこうせい)と七十二の地煞星(ちさつせい)が天空へと飛び去った。恐れをなした洪信は、皆にこの事を固く口止めして山を降り、都へ戻った。』。この星の生まれ変わりである百八人が後に梁山泊に結集することとなる。
・「靈官殿」道教で最もポピュラーな守護神王霊官を祀る祭殿。通常、中国の道観では山門を入ってすぐにこの霊官殿がある。王霊官は棒状の鞭を振り上げた三眼有髯の威圧感のある神である。
・「玉皇殿」玉皇上帝・天公等と呼ばれる道教の事実上の最高神である玉皇を祭る祭殿。白雲観の中央に位置する。
・「四御殿」白雲観の一番奥に主殿三清殿と共に本殿を構成する祭殿。「経堂易学教室」の「易占トピックス」の「白雲観を訪ねて」によると、本尊は元始天尊を中央に、左に霊宝天尊、右に道徳天尊の三体を配し、三清と呼ぶ。これは老子の「道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず」という思想に基づくとされる。『元始天尊は無極、霊宝天尊は太極、道徳天尊は陰陽(天地)と老子を象徴し』、『神像の構成は、仏教の釈迦三尊に似』て『仏教の影響が大きい』。『四御は三清を補助する4体の神々で、北極星や自然を神格化したものが多い。このほか、薬王殿、財神殿、非苦殿のような庶民の福禄寿の願いに応える宮殿もある。』とある。
・「金碧燦爛」鮮やかな緑の中に眩しいばかりに金色・紅色の見物が光を放って輝いているという意味であるが、実はこの「金碧」金碧山水で、中国の絵画用語である。山水画の描法の一つを言う。跡見学園女子大学の嶋田英誠氏の「中国絵画史辞典」の「金碧山水」によると、山石や烟霞等を輪郭線で描き、その中を群青・緑青等を用いて塗り込め、その輪郭線の内側に金泥の線或いはぼかしを加える手法である。唐代に完成、宋代に復興した。復興当時はただ着色山水と呼ばれていたが、北宋末から「金碧」の語が用いられ始めた、とある。
・「葡萄架後」葡萄棚の後ろ、の意。
・「雲廚寶鼎」「うんちゆうはうてい」と読む。
・「聯」これは正に対聯で、書画や彫り物を柱や壁などに左右に相い対して掛け、飾りとした細長い縦長の板状のものを合わせて言う語。佐々木芳邦氏の「コラム・中国雑談」の『その18 中国の「対聯」』によれば、本来は春節を祝うものとして飾られ、「春聯」とも言うが、実は対聯と言った場合はもう一枚、その左右の上に貼るものをも含める。向かって右側のものを上聯、左側を下聯、上に張るものを横批と言う。この場合、「雲廚寶鼎」は正に横批相当ということになろう。
・『「勺水共飮蓬莱客、粒米同餐羽士家」』書き下すと「勺水(しやくすゐ)共に飮む蓬莱の客(かく) 粒米同じく餐羽士(さんうし)の家(いへ)」で、意は、「ここで、柄杓ひと掬いの霊水を、仙人の住む東方海上に浮かぶ蓬莱からやってきた客と、分かち合って飲もう。その後のディナーは、その羽化登仙の仙人の彼方の家でいただこうじゃないか」といった意味か。
・「石炭を運びゐたり」ここは勿論、道士の厨房なのであろうが、芥川のこの描写は、もしかすると、ここで一般客相手に食事を供して、営業をしているという事実を受けての表現ではなかろうか。一柄杓(ひとびしゃく)の水と霞なんぞではとっても食っては行けない道士は、せっせと稼ぐために営業用の燃料として石炭を運んでいるというのではなかろうか? 識者の御意見を乞う。
・「天寧寺」北京広安門外にある北魏(386~534)の孝文帝の時代に建てられた寺院。元末の戦火によって塔を残して亡失した。明代に復興して天寧寺と呼ばれたが、芥川の描写からはその後にやはり寺院は衰退したか。8角13層で高さ57.8m。北京で現存する最も高い塔として知られる。
・「隋の文帝」隋の初代皇帝。本名楊堅(541~604 在位581~604)。前注参照。
・「乾隆二十年」西暦1755年。ネット上の情報では乾隆21(1756)年の改修とある。
・「紫燕」通常のスズメ目ツバメ科ツバメHirundo rusticaのこと。現代中国語では「家燕」、この「紫燕」恐らく本邦での燕の異名であろう。黒いことから「玄鳥」とも呼ぶが、ただ黒いのはお洒落じゃないと考えたか。
・「松筠庵」(しょういんあん)は現在の北京市宣武区達智橋胡同にある楊椒山の旧居。楊椒山(1516~1555)は本名楊継盛、椒山は号。明代の忠臣。現地の解説プレートには『権臣の厳嵩が人民を苦しめていたことに対し、「請誅賊臣書」を上書し厳嵩の「五奸十大罪」を指摘したため嘉靖34年に厳嵩により処刑された。年わずか40歳。その後1787年にここは楊椒山祠と改められる。1895年清政府が屈辱的な下関条約を締結した時、康有為ら200人余りが松筠庵に集まり、国土割譲と賠償に反対し変法維新を求めた。すなわち中国近代史上有名な「公車上書」である。』という記載があると、個人ブログ「北京で勇気十足」氏の「北京 散歩 長椿街、宣武門外大街 后孫公園胡同の安徽会館」にある。
・「君子自重の小便壺」「君子自重」は「紳士ならば遠慮するべし」という意味であるが、こうした但し書きが貼られた上に小便壺が置かれていたとも思えないから、これは芥川の評言ととるべき。
・「諫草亭」楊椒山がここで奸臣厳嵩を弾劾する諌言「請誅賊臣書」を起草上書したとされる四阿。
・「擬寶珠」ユリ目ユリ科ギボウシ属Hostaの総称。多年草、山間の湿地等に自生。白又は青色の花の開花はやはり夏であるから、咲いてはいない。
・『椒山の「鐵肩担道義、辣手著文章」』書き下すと「鐵肩道義を担ひ、辣手(らつしゆ)文章を著す」で、「鐵の如く堅固な肩に正義の意気を荷い込み、歯に物着せぬ辛辣な筆で諫言弾劾の書を草す」の意。
・「後生、まことに恐るべし。椒山、この語の意を知れりや否や」ここで芥川はかなりねじれた言い方をしている点に注意しなくてはならない。この孔子の「論語」の「子罕 第九」を出典とする故事成句は、よく誤った用事・用法を問う問題として出題される。即ち、孔子の謂うところの意味は、「後世」(後の世の者)ではなく、「後生」(後進の若い者)であり、その若者というのは未知数で、努力次第で驚くべき力量・才能を身につけるかも知れない、だから重々侮ることなく、寧ろ恐るべき存在である、の意である。ところが、この芥川の謂いはこれに全く当て嵌まらない。寧ろ、誤用例であるところの「後世」(後の世の者)は、古人の意気や刻苦勉励を全く理解せず、憂国の士として命を散らした楊椒山の血潮に満ちた魂を記した碑を、日常のランプ台に用いて屁とも思わない庶民(私には若者の映像さえ見えない。このランプを置くのは、高い確率で、孔子がこの話で諭した孔門十哲より遙かに年上の中年のオジサンオバサンである)は、正に恐るべき無知蒙昧の徒である、という意味でしっくりくるのである。芥川はここで確信犯的に誤用こそ真理であったという換喩の暗喩によって逆説を示しているのである。
・「謝文節公祠」「謝文節」(1226~1289)は本名謝枋得(しゃぼうとく)、南宋の文人政治家。元との戦いに敗れて捕らえられ、南宋滅亡後は山中に隠棲していたが、捕らえられ北京に護送された。その才能を惜しんだフビライ・ハンから慫慂を受けるも節を屈せず、遂に絶食して餓死し果てた。「文章軌範」全7巻の撰者として知られる。「文章軌範」は科挙試の受験生のために韓愈・柳宗元・欧陽修・蘇軾といった唐宋の作家を中心に69編の名文を集成したもの。彼を祀った謝文節公祠なるものは現在のネットでは邦文では掛かってこない。次の「外右四區」がその所在地を示す住所であるが、この地名表示そのものが現在は用いられていないのか、所在不明である。一体、今はどうなっているのであろうか。北京在住の方、御教授を乞う。
・「薇香堂」「薇」はシダ綱ゼンマイ科ゼンマイOsmunda japonica又は同属の仲間を指す。「史記」列伝の冒頭を飾る「伯夷叔斉 第一」によれば、周の武王は父を亡くした直後、暴虐無比な圧政を続ける殷の紂王を伐つために挙兵したが、伯夷(はくい)と叔斉(しゅくせい)の兄弟がそれを止めて、父の葬儀もせず喪の明けぬうちに戦をする者は不孝者であり、暴虐の君主とは言え、臣下の身でそれを弑する者は不忠者であると諫めた。武王は攻略を敢行、美事、殷を滅ぼすが、兄弟の言の全きことに心打たれ、招聘するも、伯夷と叔齊は、不義不忠の王の粟(=禄)を食(は)むを潔しとせず、として拒否し、首陽山に隠れ住んで「薇」――ゼンマイやワラビの類――を採って食い、「采薇歌」(以下示す)を作って、遂には餓死して死んだ。この堂の名は、謝文節の自死の志を伯夷叔斉に擬えたものである。
采薇歌
登彼西山兮
采其薇矣
以暴易暴兮
不知其非矣
神農虞夏
忽焉沒兮
吾適安歸矣
吁嗟徂兮
命之衰矣
○やぶちゃんの書き下し文
采薇の歌
彼の西山に登りて
其の薇を采る
暴を以て暴に易へ
其の非を知らず
神農(しんのう) 虞(ぐ) 夏(か)
忽焉として沒しぬ
吾れ 適(まさ)に安くにか歸せん
吁嗟(ああ) 徂(ゆ)かん
命の衰へたるかな
○やぶちゃんの現代語訳
ぜんまい採り
あの西の方 首陽山に登って
そこのぜんまいを採って暮らす
暴力を暴力でねじ伏せて
それが人の道を踏み外していることを知らぬ者よ
あらたかな天地開闢の炎帝神農氏――聖王堯から位を譲られた尊王虞――尊王虞改め舜から禅譲を受けた夏改め賢王禹――
みんな あっというまに はい さようなら
私は 一体 何処(いづこ)へ行けばいいのか? 一体 何処へ去ればよい? いや それはもうあそこしか ない……
ああ さあ 行こう 私の運命も遂に窮まったのだ……
・「疊山」謝文節の号。
・「紙錫」飾りとして貼る錫(Sn)の薄い箔を紙に貼付したもの。
・「窑臺」筑摩全集類聚版脚注は一言『未詳。』とし、岩波版新全集の細川正義氏の注解には一言『遊廓。』とある。そうだろうか? そもそもこれは明白な固有名詞として芥川は示してるのである。従って細川氏の言うような一般名詞であろうはずがない。また、不思議なのは細川氏は次の「三門閣下」に注して『悟りを開くには空門、無相門、無作門の三つの解脱門を経るのになぞらえて、寺院の門のことを言う。一門でも三門という。』と記されている。意味が通じない。遊廓の門は亡八の門とでも言う洒落ならまだしも、そもそもこの三門は確かな実在する山門であろう(勿論、細川氏の意図は実際の寺院の門として注しておられるのであるが、それだけに分からない注になっているということである)。この「窑」は「窯」と同じである。ということはこれは窯台ではないのか? ここに焼物の窯があったことから付いた地名ではないと私は推理した。そこでネット検索を続けると簡体字中文サイトの王代昌氏という筆者の「窑台茶館憶当年」という『北京日報』の摘録記事の中に『三十年代、陶然亭還没有公園、窑台可能是唐代燒窑留下的遺址、當然也許是一般瓦窑、漸漸變成了土崗子。』(簡体字の一部を正字に直した)という文字列を発見した。「陶然亭」は以下に示した現在の公園である。私は再三申し上げる通り、中国語は読めない。機械翻訳でも意味不明。これは私の推測がもしかすると当たっているのかしら? 私の力ではココマデダ――誰か手を貸して下されい!
・「三門閣下」前注参照。この窑台に寺院があった、若しくはあることをご存知の方は、御一報下されたい。それがこの「山門」の寺に間違いない。
・「蘆萩」本邦と同種ならばイネ目イネ科ヨシPhragmites australisヨシ(アシ)とイネ科ススキ属オギMiscanthus sacchariflorus。
・「苦力(クウリイ)」“ kǔlì”で肉体労働者。
・「陶然亭」外城の南(現・北京市宣武区陶然亭路)にある人工池を持つ広大な庭園。菊の名所。この園名は白居易の詩「共君一醉一陶然」に基づく。ここは実は1919年の五四運動の記念の地でもある。芥川は秘かにその地として訪れたのではあるまいか? これはただの憶測である。
・「古刹慈悲淨林」古えから法灯を守る寺と仏の奥深い慈悲に満ちた清らかな修行の地の意。
・「綠紗」緑色に染めた薄絹・紗織り。「紗」(さ/しゃ)は生糸を用いたからみ織りの一種で、二本の縦糸が横糸一本毎に絡み合う織物。織り目が粗く、薄くて軽く、通気性が良いため夏の高級服地等に用いた。
・「蔀」本邦で平安期から住宅や社寺建築に用いられた格子を取り付けた板戸。上部に蝶番があり、上に水平に釣り上げて開ける。
・「郭公」余り理解されているとは思われないが、ホトトギスはカッコウと同族である。カッコウ目カッコウ科カッコウ属ホトトギス Cuculus poliocephalus。現代中文では「小杜鵑」で同一種であるが、芥川がその声を聴いてまるで分からなかったということは、別種か亜種が疑われるようにも思う。一応、以下に中文ウィキの「杜鵑科」に示された属を示す。
鳥鵑 Sturniculus lugubris
噪鵑 Eudynamys scolopacea
鷹鵑 Cuculus sparverioides
筒鵑 Cuculus saturatus
小杜鵑 Cuculus poliocephalus
中杜鵑 Cuculus saturatus
大杜鵑 Cuculus canorus
栗斑杜鵑 Cuculus sonneratii
四声杜鵑 Cuculus micropterus
八声杜鵑 Cuculus merulinus
棕腹杜鵑 Cuculus fugax
布谷 Cuculus canorus
冠郭公 Clamator coromandus
番鵑 Centropus bengalensis
私は何となく日本にも夏鳥としてやってくる、♂が独特の筒を叩くように「ポポ、ポポ」と鳴く筒鵑Cuculus saturatus、和名ツツドリ(筒鳥)ではないか、と思うのだが、鳥類のエキスパートの御教授を乞う。
・「文天祥祠」現在の北京市東城区府学胡同にある文天祥を祀った社。以下に示すように元代の刑場であった。文天祥(1236~1283)は南宋末期の文官。弱冠にして科挙に首席で登第して後に丞相となったが、元(モンゴル)の侵攻に対して激しく抵抗した。以下、ウィキの「文天祥」から引用する。『各地でゲリラ活動を行い2年以上抵抗を続けたが、1278年に遂に捕らえられ、大都(北京)へと連行され』た。獄中にあって『宋の残党軍への降伏文書を書くことを求められるが『過零丁洋』の詩を送って断った。この詩は「死なない人間はいない。忠誠を尽くして歴史を光照らしているのだ。」と言うような内容である。宋が完全に滅んだ後もその才能を惜しんでクビライより何度も勧誘を受け』たが、そこで彼は有名な「正気の歌(せいきのうた)」(リンクはウィキソースの現代語訳附きの「正気の歌」)を詠んで、宋への断固たる忠節を示した。『何度も断られたクビライだが、文天祥を殺すことには踏み切れなかった。朝廷でも文天祥の人気は高く、隠遁することを条件に釈放してはとの意見も出され、クビライもその気になりかけた。しかし文天祥が生きていることで各地の元に対する反乱が活発化していることが判り、やむなく文天祥の死刑を決めた。文天祥は捕らえられた直後から一貫して死を望んでおり、1282年、南(南宋の方角)に向かって拝して刑を受けた。享年47。クビライは文天祥のことを「真の男子なり」と評したという。刑場跡には後に「文丞相祠」と言う祠が建てられた。』『文天祥は忠臣の鑑として後世に称えられ』、本邦でも『幕末の志士たちに愛謡され、藤田東湖・吉田松陰、日露戦争時の広瀬武夫などはそれぞれ自作の『正気の歌』を作っている。』。
・「京師」都。ここでは北京の謂い。
・「宋丞相信國公文公之神位」「信國公」は文天祥の諡(おくりな)。「宋の宰相であった『信国公』(と諡された)文(天祥)閣下の御霊」の意。
・「楡(?)の木」バラ目ニレ科ニレ属Ulmusの一種。北半球の広範囲に分布し、多数の種が認められる。但し、その数は研究者によって20から45と一定しない。芥川の「?」は美事に科学的である。中文ウィキの楡の該当項を見ても、分類群のところに多様な種記載が示されている。芥川が見たものはこの中の何れかではあろうと思われる。
・「杜少陵」杜甫の後世の別号。杜甫は以前、漢の宣帝の許后の陵墓(現在の陜西省西安市の東南に所在)の傍に住んでいたため、自身を「杜陵の布衣」「少陵の野老」と称した。杜甫には「貧交行」「兵車行」等の楽府題に似せた諷喩詩があるので、芥川はもし杜甫がこの忠節の士文天祥が祀られた社の荒廃を見たら「老楡行」という詩でも作って現代中国の非礼暗愚を諷喩するであろうと言っているのである。
・「二度目の死は氣の毒過ぎて」既に直前、文天祥と極めて似た憂国の悲劇の人謝文節の公祠を訪れているため、という意。内実は、似たような事蹟には飽きたという意と、ここもまた、荒廃していて後世の人々へのダメ押しの失望感から、とても詩想は浮かばぬという皮肉も込めていよう。
・「永安寺」筑摩全集類聚版脚注は『未詳。』とし岩波版新全集は注を挙げない。直後に北海を挙げているので、これは北海に浮かぶ瓊華島にあるチベット仏教寺院永安寺であろう。山上にラマ塔(白塔)が立つ(はずだが芥川は描写していない)。
・「善因殿」白塔の脇に立つ祭殿。上部は円形で下部は方形をしており、四方の壁には445体の菩薩像がレリーフされている。
・「歷歷と指呼すべし」一目で総てはっきりと見渡せ、それらがまた、指差して呼べば応えるように、極めて近くにある、という意。
・「北海」清代に作られた北海公園にある湖。現在は北海・西海に先の十刹海(前海)と積水潭(後海)を加えて北海公園と呼称している。総面積約400,000㎡(水面面積340,000㎡)。北京の有数の景勝地で、有名人の故宅等の旧跡が多い。
・「大淸皇帝用小住宅」誰もここに注を附していないが、芥川訪問時は、未だ中華民国臨時政府が居住権の許可を与えていた溥儀一族が内廷内に住んでいた(後、奉直戦争の中で起こった1924年の馮玉祥(ふうぎょくしょう)の内乱(北京政変)により強制退去させられた)が、これはまさにそれを言っているのではないかと私は思う。
・「天壇」現在の北京市崇文区にある史跡。明・清代の皇帝が、冬至の時に豊穣を天帝に祈念した祭壇。敷地面積約2,730,000m²。祭祀を行った圜丘壇(かんきゅうだん)は大理石で出来た円檀で、天安門や紫禁城とともに北京のシンボル的存在であるここの祈年殿は、1889年に落雷より一度消失したが、1906年に再建されている(以上はウィキの「天壇」を参照した)。以下の「地壇」「先農壇」も参照。これらは三つとも北京にある祭壇である九壇(社稷壇・祈穀壇・天壇・地壇・日壇・月壇・先農壇・太歳壇・先蚕壇)の一つである。
・「地壇」現在の北京市東城区の安定門外にある史跡。ウイキの「地壇」によれば、『明清代の皇帝が地の神に対して祭祀を行った宗教的な場所(祭壇)で』、その位置は『天壇が紫禁城の南東に築かれたのに対して、地壇は紫禁城の北東に築かれており、これは古代中国の天南地北説に符合する。』建築様式としては『天壇の主な建築が円形であるのに対して、地壇は方形である。これは『大清会典』の述べる「方(四角)は地を表す」に従っており、中国の天円地方の宇宙観を体現して』おり、『「天は陽、地は陰とみなす」という陰陽思想に従い、天壇の石塊や、階段、柱などはこぞって奇数(陽数)で構成されている』のに対し、『地壇は偶数(陰数)で構成されている。例えば方澤壇の階段は8段であり、壇は6方丈である。使用した石版の数も偶数であり、中華文化を反映している。』とある。
・「先農壇」現在の北京市宣武区にある史跡。明の1420年に造営され、明・清の歴代皇帝が三皇五帝の三皇の一人神農氏(百草を自ら嘗めて効能を試したとされる医術と農事を司る神。後に炎帝と習合)を祀った場所。
・「萋萋と」草が青々と生い茂っているさま。
・「紫禁城」明及び清朝の宮殿。明初の1373年に元の宮殿を改築して初代皇帝太祖(洪武帝)が南京に造営したものが最初。後、明の第3代皇帝太宗・成祖(1360~1424 永楽帝)が1406年に改築、1421年には南京から北京への遷都に伴い、移築した。1644年の李自成の乱により焼失したが、清により再建されて1912年の清滅亡までやはり皇宮として用いられた。
・「夢魔」夢の中に現れて人を苦しませる悪魔。転じて、不安や恐怖を感じさせる夢、の意。私は夢魔というと真っ先にスイス・イギリス・ロマン派の Johann Heinrich Fuseli(ヨハン・ハインリヒ・フュースリ 1741~1825)の“The Nightmare”(1781)を思い出す(リンクは英文ウィキの精密画像)。あれは♂の夢魔 Incubus インクブス(ラテン語の“incubo”「あるものの上に寝る」の意)だが、紫禁城というと私には何だか中世の魔女も比せられた♀の夢魔 Succubus スクブス(サキュバス)(同じくラテン語の“sub”「下へ」+“cubo”(横たわる))の巣窟のように感じられた。紫禁城を歩く芥川龍之介には――秀 Succubus しげ子――の幻影が扉を掠めたのではなかったか――]
先週、名古屋大学の山本義治「盗葉緑体により光合成する嚢舌目ウミウシ」(光合成研究 18 (2) 2008)を読み、大変、興味深く思ったことがある(私は同僚の生物教師が抜刷にしてくれた現物で読んだが、今日見たらネット上でもPDFファイルで読める)。
ここにはまず、緑色をしている囊舌目のウミウシ、クロミドリガイの近縁種であるElysia atroviridisを餌である緑藻ミルの一種Codium fragileと共に電子顕微鏡観察を行ったところ、本種のウミウシの細胞内に存在する共生体はラン藻ではなくミルの葉緑体と推定されたという記事が引用される。
これを「盗葉緑体」と呼称することとなった。
いや「盗む」のは葉緑体ばかりではない。
繊毛虫Mesodinium rubrum(又はMyrionecta rubraとも)の場合には核(及びその情報)も餌であるクリプト藻から盗むという現象が2006年に報告されている、というのである。
驚くべきことに前記のウミウシでは最長14ヶ月も盗んだ葉緑体を自身の体の中で維持し続け、そこから栄養を供給させているというのである。
その「3.どうやって葉緑体を取り込むのか?」で山本氏は、歯舌を用いて藻類の細胞に穴を穿ち、その細胞質を吸引するが、その際、『吸い取られた葉緑体は胃では消化されずに胃から繋がる中腸腺と呼ばれる消化吸収及び栄養輸送を担う網状組織に運ばれ、中腸腺の細胞内に取り込まれると言われている』とし、『取込みの過程については不明な点が多い。ちなみに、ウミウシの中には葉緑体とは別の物を「盗む」ものもいる。ミノウミウシ類(裸鰓目)の多くの種はイソギンチャクやヒドロ虫などが持つ刺胞(防御用の毒を蓄える膜構造物)を破裂させずそのままの形で中腸腺から刺胞囊細胞に運び、ウミウシの防御に役立てるという。』と記されている。
僕が以前「アオミノウミウシと僕は愛し逢っていたのだ」で書いた「盗刺胞」の問題だ。
私はここで、遅まきながら始めて「盗核」という現象を知った。
氏はこれらのウミウシが『藻類の核は取り込まれていないことはE. chroloticaを用いたサザン解析により確認されてはいるが、種によっては盗核が行われている可能性や、また何らかの形で藻類の核の情報がウミウシの細胞へ伝わっている可能性はあるかも知れない。』と述べておられる。
――そうか!? 盗核か!?
摂餌から中腸線から自己の背側部に至るまで、何ゆえにあの刺胞が射出されずにまんまとミノウミウシの武器となり得るのか――「僕はね、君を食べたウミウシじゃあ、ないんだ、僕は「君」だよ……という情報を盗み出した核情報を用いて、騙しているのではなかったか?
……面白いな……真夏の夜の夢は見果てない……
実字数本文3,192字に対し、注は19,884字で、約6倍強となった。恐らく今までの『支那紀行』の注の中では最長不倒距離をマークしたものと思われる。旧来の注を流用した部分もあるが(「梅蘭芳」等)、結局、この一篇の注に丸々3日間をかけた。相応に面白い(而して自身のある)注に仕上がったとは思っている。
残すところ、遂に1章となった。明後日には礼文・利尻への旅に出る予定である。最後の「北京日記抄 五 名勝」、拘縮で曲がりにくくなった右指を叱咤して、何とか明日には最後の公開をして、芥川龍之介『支那游記』全篇の公開を終え、すっきりと旅立ちたいとは考えている。
四 胡蝶夢
波多野君や松本君と共に辻聽花(つじちやうくわ)先生に誘はれ、昆曲(こんきよく)の芝居を一見す。京調の芝居は上海以來、度たび覗いても見しものなれど、昆曲はまだ始めてなり。例の如く人力車の御厄介になり、狹い町を幾つも通り拔けし後(のち)、やつと同樂茶園(どうらくちやゑん)と言ふ劇場に至る。紅(べに)に金文字のびらを貼れる、古き、煉瓦造りの玄關をはいれば、――但し「玄關をはいれば」と言ふも、切符などを買ひし次第にあらず、元來支那の芝居なるものは唯ぶらりと玄關をはいり、戲を聽くこと幾分の後、金を集めに來る支那の出方(でかた)に定額の入場料を拂つてやるを常とす。これは波多野君の説明によれば、つまるかつまらぬかわからぬ芝居に前以て金など出せるものかと言ふ支那的論理によれるもののよし。まことに我等看客(かんかく)には都合好き制度と言はざるべからず。扨(さて)煉瓦造りの玄關をはひれば、土間に並べたる腰掛に雜然と看客の坐れることはこの劇場も他(た)と同樣なり。否、昨日(きのふ)梅蘭芳(メイランフアン)や楊小樓(やうせうろう)を見たる東安市場(とうあんしぢやう)の吉祥茶園(きつしやうちやえん)は勿論、一昨日(をととひ)余叔岩(よしゆくがん)や尚小雲(しやうせううん)を見たる前門外の三慶園よりも一層ぢぢむさき位ならん。この人ごみの後(うしろ)を通り二階棧敷(さじき)に上(のぼ)らんとすれば、醉顏酡(だ)たる老人あり。鼈甲の簪(かんざし)に辮髮を卷き芭蕉扇を手にして徘徊するを見る。波多野君、僕に耳語(じご)して曰、「あの老爺(おやぢ)が樊半山(はんはんざん)ですよ。」と。僕は忽ち敬意を生じ、梯子段の中途に佇みたるまま、この老詩人を見守ること多時。恐らくは當年の醉(すゐ)李白も――などと考へし所を見れば、文學青年的感情は少くとも未だ國際的には幾分か僕にも殘りをるなるべし。
二階棧敷には僕等よりも先に、疎髯(そぜん)を蓄へ、詰め襟の洋服を着たる辻聽花先生あり。先生が劇通中の劇通たるは支那の役者にも先生を押して父と倣(な)するもの多きを見て知るべし。揚州の鹽務官高洲太吉(たかすたきち)氏は外國人にして揚州に官たるもの、前にマルコ・ポオロあり、後に高洲大吉ありと大いに氣焰を吐きゐたれど、外國人にして北京に劇通たるものは前にも後にも聽花散人一人に止めを刺さざるべからず。僕は先生を左にし、波多野君を右にして坐りたれば、(波多野君も「支那劇五百番」の著者なり。)「綴白裘(てつぱくきう)」の兩帙(りやうちつ)を手にせざるも、今日だけは兎に角半可通の資格位(ぐらい)は具へたりと言ふべし。(後記。辻聽花先生に漢文「中國劇」の著述あり。順天時報社の出版に係る。僕は北京を去らんとするに當り、先生になほ「支那芝居」の著述あるを仄聞したれば、先生に請うて原稿を預かり、朝鮮を經て東京に歸れる後、二三の書肆に出版を勸めたれど、書肆皆愚にして僕の言を容れず。然るに天公その愚を懲らし、この書今は支那風物研究會の出版する所となる。次手を以て廣告すること爾(しか)り。)
乃(すなは)ち葉卷に火を點じて俯瞰すれば、舞台の正面に紅(くれない)の緞帳を垂れ、前に欄干をめぐらせることもやはり他の劇場と異る所なし。其處に猿に扮したる役者あり。何か歌をうたひながら、くるくる棒を振りまはすを見る。番附に「火焰山」とあるを見れば、勿論この猿は唯の猿にあらず。僕の幼少より尊敬せる斉天大聖(せいてんたいせい)孫悟空ならん。悟空の側には又衣裳を着けず、粉黛を裝はざる大男あり。三尺餘りの大團扇(おほうちは)を揮つて、絶えず悟空に風を送るを見る。羅刹女(らせつぢよ)とはさすがに思はれざれば、或は牛魔王(ぎうまわう)か何かと思ひ、そつと波多野君に尋ねて見れば、これは唯(ただ)煽風機代りに役者を煽いでやる後見なるよし。牛魔王は既に戰(たたかひ)負けて、舞台裏へ逃げこみし後(のち)なりしならん。悟空も亦數分の後には一打十萬八千路、――と言つても實際は大股に悠悠と鬼門道(きもんだう)へ退却したり。憾むらくは樊半山に感服したる餘り、火焰山下の大殺(たいさつ)を見損ひしことを。
「火焰山」の次は「胡蝶夢」なり。道服を着たる先生の舞臺をぶらぶら散歩するは「胡蝶夢」の主人公莊子ならん。それから目ばかり大いなる美人の莊子と喋喋喃喃(てふてふなんなん)するはこの哲學者の細君なるべし。其處までは一目瞭然なれど、時々舞臺へ現るる二人の童子に至つては何の象徴なるかを明かにせず。「あれは莊子の子供ですか?」と又ぞろ波多野君を惱ますれば、波多野君、聊か啞然として、「あれはつまり、その、蝶蝶ですよ。」と言ふ。しかし如何に贔屓眼に見るも、蝶蝶なぞと言ふしろものにあらず。或は六月の天なれば、火取蟲に名代(みやうだい)を賴みしならん。唯この芝居の筋だけは僕も先刻承知なりし爲、登場人物を知りし上はまんざら盲人の垣覗きにもあらず。今までに僕の見たる六十有餘の支那芝居中、一番面白かりしは事實なり。抑(そもそも)「胡蝶夢」の筋と言へば、莊子も有らゆる賢人の如く、女のまごころを疑ふ爲、道術によりて死を裝ひ、細君の貞操を試みんと欲す。細君、莊子の死を嘆き、喪服を着たり何かすれど、楚の公子の來り弔するや、…………
「好(ハオ)!」
この大聲を發せるものは辻聽花先生なり。僕は勿論「好!」の聲に慣れざる次第でも何でもなけれど、未だ曾て特色あること、先生の「好!」の如くなるものを聞かず。まづ匹(ひつ)を古今(ここん)に求むれば、長坂橋頭(ちやうはんけうとう)蛇矛(だぼう)を横へたる張飛の一喝に近かるべし。僕、惘(あき)れて先生を見れば、先生、向うを指して曰、「あすこに不准怪聲叫好と言ふ札が下つてゐるでせう。怪聲はいかん。わたしのやうに「好!」と言ふのは好いのです。」と。大いなるアナトオル・フランスよ。君の印象批評論は眞理なり。怪聲と怪聲たらざるとは客觀的標準を以て律すべからず。僕等の認めて怪聲と倣(な)すものは、――しかしその議論は他日に讓り、もう一度「胡蝶夢」に立ち戻れば、楚の公子の來り弔するや、細君、忽(たちまち)公子に惚れて莊子のことを忘るるに至る。忘るるに至るのみならず、公子の急に病を發し、人間の腦味噌を嘗めるより外に死を免(まぬか)るる策なしと知るや、斧を揮つて棺を破り、莊子の腦味噌をとらんとするに至る。然るに公子と見しものは元來胡蝶に外ならざれば、忽(たちまち)飛んで天外に去り細君は再婚するどころならず、却つて惡辣なる莊子の爲にさんざん油をとらるるに終る。まことに天下の女の爲には氣の毒千萬なる諷刺劇と言ふべし。――と言へば劇評位書けさうなれど、實は僕には昆曲の昆曲たる所以さへ判然せず。唯どこか京調劇よりも派手ならざる如く感ぜしのみ。波多野君は僕の爲に「梆子(ばうし)は秦腔(しんかう)と言ふやつでね。」などと深切に説明してくるれど、畢竟馬の耳に念佛なりしは我ながら哀れなりと言はざるべからず。なほ次手に僕の見たる「胡蝶夢」の役割を略記すれば、莊子の細君――韓世昌(かんせいしやう)、莊子――陶顕亭、楚の公子――馬夙彩(ばしゅくさい)、老胡蝶――陳榮會(ちんえいくわい)等なるべし。
「胡蝶夢」を見終りたる後、辻聽花先生にお禮を言ひ、再び波多野君や松本君と人力車上の客となれば、新月北京の天に懸り、ごみごみしたる往來に背廣の紳士と腕を組みたる新時代の女子の通るを見る。ああ言ふ連中も必要さへあれば、忽――斧は揮はざるにもせよ、斧よりも鋭利なる一笑を用ゐ、御亭主の腦味噌をとらんとするなるべし。「胡蝶夢」を作れる士人を想ひ、古人の厭世的貞操觀を想ふ。同樂園の二階棧敷に何時間かを費したるも必しも無駄ではなかつたやうなり。
[やぶちゃん注:「上海游記」で花旦「緑牡丹」が「白牡丹」の誤りであったという真相解明でお世話になった「2008年上海外国語大学日本学研究国際フォーラム」(PDFファイルでダウンロード可能)の北京日本学研究センターの秦剛氏の論文「一九二一年・芥川龍之介の上海観劇」(p.134-135)の最後に『1921年6月30日「順天時報」 辻聴花「中国劇と日本人(五)」――「先日、波多野乾一君(大阪毎日新聞社特派員)が主人として瑞記飯店で席を設け、余に託して郝寿臣、尚小雲、貫大元の三俳優を招待させて、目下来遊中の著名小説家芥川文学士及び日本人数名に紹介させ、以って風雅の縁を結ぶという。誠に斯界稀な盛会で、大いに特筆大書すべきなり。」(注:「先日」とは6月19日)』という引用記載がある。本篇の経験はその6月19日前後(後か)に絞り込むことが可能かと思われる。
・「波多野君」筑摩全集類聚版脚注は不詳とし、岩波版新全集の細川正義氏は注を附さないが(以下に示す同新全集書簡部分の人名索引に譲ったのか。にしても注を附さないのは極めて不親切と言わざるを得ない)が、これは間違いなく波多野乾一である。岩波版新全集書簡に附録する関口安義らによる人名解説索引によれば、『波多野乾一(1890-1963) 新聞記者。大分県生まれ。東亜同文書院政治学科卒。1913年大阪毎日新聞社に入社。その後、大阪毎日新聞社北京特派員、北京新聞主幹、時事新報特派員など一貫して中国専門記者として活躍した』(句読点を変更した)とある人物である。戦後は「産業経済新聞」の論説委員として中国共産党を研究、本家の中国共産党からも高く評価された(以下の江橋崇氏の記事を参照)という「中国共産党史」等の著作がある。彼はまた、本文にも記される通り、中国人も吃驚りの京劇通で、芥川の挙げる「支那劇五百番」の他にも「支那劇と其名優」「支那劇大観」等の著作がある。また、榛原茂樹(はいばらしげき)のペン・ネームで麻雀研究家としても著名であった。その京劇とその麻雀が結んだ梅蘭芳と由縁(えにし)を記した「日本健康麻雀協会」のHPの江橋崇氏の「波多野乾一(榛原茂樹)と梅蘭芳」は必読である!
・「松本君」大阪毎日新聞社北京支局員であった松本鎗吉と思われる。岩波版新全集の人名索引に載る人物であるが、芥川書簡に2回出現するのみで詳細データは未詳である。
・「辻聽花先生」中国文学者の辻武雄(慶応4・明治元(1868)年~昭和6(1931)年)。上海や南京師範学校で教鞭を採り、京劇通として知られ、現地の俳優達の指導も行なった。ネット検索でも中文サイトでの記載の方がすこぶる多い。芥川は既に「上海游記 十 戲臺(下)」で彼について言及している。
・「昆曲」本注冒頭で示した秦剛氏の別な記事(「人民中国」)「芥川龍之介が観た 1921年・郷愁の北京」(ここでは肩書きが細かく北京日本学研究センター准教授となっておられる)に、『500年の歴史を持つ崑曲は中国に現存する最も古い戯曲であり、長い間、貴族や文人の間で愛好されていたが、清末以降急激に衰退し始めた』と、記されている。
・「京調」現在、この語は京劇と同義で用いられるが、秦剛氏の「芥川龍之介が観た 1921年・郷愁の北京」によれば、実は芥川が渡中したこの頃、「京劇」という語は未だ定着していなかった。所謂、当時、主流になりつつあった新劇としての「原」京劇は「皮黄戯」と呼ばれ、劇の曲想に主に二つの節があった。それを「西皮」調・「二黄」調と言う。西皮調は快濶で激しく、二黄調は落ち着いた静かな曲想を言った。
・「上海以來、度たび覗いても見し」「上海游記」の「上海游記 九 戲臺(上)」及び「上海游記 十 戲臺(下)」参照。
・「同樂茶園と言ふ劇場」「茶園」は中国語で劇場の意。前掲の秦剛氏の「芥川龍之介が観た 1921年・郷愁の北京」に『前門外の大柵欄の胡同の中にある同楽園は、当時崑曲を上演する唯一の劇場であった』とある。
・「戲を聽く」日本語の「観劇」は中国語では「聴劇」「看劇」と言う。
・「出方」芝居茶屋・相撲茶屋・劇場に所属して、客を座席に案内したり、飲食の世話や雑用をする人を言う。
・「梅蘭芳(メイランフアン)」(Méi Lánfāng メイ・ランファン 本名梅瀾 méi lán 1894~1961)は清末から中華民国・中華人民共和国を生きた著名な京劇の女形。名女形を言う「四大名旦」の一人(他は程硯秋・尚小雲・荀慧生)。ウィキの「梅蘭芳」によれば、『日本の歌舞伎に近代演劇の技法が導入されていることに触発され、京劇の近代化を推進。「梅派」を創始した。20世紀前半、京劇の海外公演(公演地は日本、アメリカ、ソ連)を相次いで成功させ、世界的な名声を博した(彼の名は日本人のあいだでも大正時代から「メイランファン」という中国語の原音で知られていた。大正・昭和期の中国の人名としては希有の例外である)。日中戦争の間は、一貫して抗日の立場を貫いたと言われ、日本軍の占領下では女形を演じない意思表示としてヒゲを生やしていた。戦後、舞台に復帰。東西冷戦時代の1956年、周恩来の指示により訪日京劇団の団長となり、まだ国交のなかった日本で京劇公演を成功させた。1959年、中国共産党に入党。1961年、心臓病で死去。』とある。最初の訪日は大正7(1918)年。芥川の「侏儒の言葉」には、
「虹霓關」を見て
男の女を獵するのではない。女の男を獵するのである。――シヨウは「人と超人と」の中にこの事實を戲曲化した。しかしこれを戲曲化したものは必しもシヨウにはじまるのではない。わたくしは梅蘭芳の「虹霓關」を見、支那にも既にこの事實に注目した戲曲家のあるのを知つた。のみならず「戲考」は「虹霓關」の外にも、女の男を捉へるのに孫呉の兵機と劍戟とを用ゐた幾多の物語を傳へてゐる。
「董家山」の女主人公金蓮、「轅門斬子」の女主人公桂英、「雙鎖山」の女主人公金定等は悉かう言ふ女傑である。更に「馬上縁」の女主人公梨花を見れば彼女の愛する少年將軍を馬上に俘にするばかりではない。彼の妻にすまぬと言ふのを無理に結婚してしまふのである。胡適氏はわたしにかう言つた。――「わたしは『四進士』を除きさへすれば、全京劇の價値を否定したい。」しかし是等の京劇は少くとも甚だ哲學的である。哲學者胡適氏はこの價値の前に多少氏の雷霆の怒を和げる訣には行かないであらうか?
とある。ここで芥川が言う京劇の女傑は、一般には武旦若しくは刀馬旦と呼ばれる。これら二つは同じという記載もあるが、武旦の方が立ち回りが激しく、刀馬旦は馬上に刀を振るって戦う女性を演じるもので歌唱と踊りを主とするという中国国際放送局の「旦」の記載(邦文)を採る。そこでは以下に登場する穆桂英(ぼくけいえい)や樊梨花(はんりか)は刀馬旦の代表的な役としている。以下に簡単な語注を附す(なお京劇の梗概については思いの外、ネット上での記載が少なく、私の守備範囲外であるため、岩波版新全集の山田俊治氏の注解に多くを依った。その都度、明示はしたが、ここに謝す)。
○「人と超人と」は“Man and superman”「人と超人」で、バーナード・ショー(George Bernard Shaw 1856~ 1950)が1903年に書いた四幕の喜劇。モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」をモチーフとする。市川又彦訳の岩波書店目録に附されたコピーには『宇宙の生の力に駆られる女性アンは、許婚の詩人ロビンスンを捨て、『革命家必携』を書いた精力的な男タナーを追いつめ、ついに結婚することになる』と記す。岩波版新全集の山田俊治氏の注解では、『女を猟師、男を獲物として能動的な女を描いた』ともある。
○「虹霓關」「こうげいかん」と読む。隨末のこと、虹霓関の守備大将であった東方氏が反乱軍に殺される。東方夫人が夫の仇きとして探し当てた相手は、自分の幼馴染みで腕の立つ美男子王伯党であった。東方夫人は戦いながらも「私の夫になれば、あなたを殺さない」と誘惑する。伯党は断り続けるが、夫人は色仕掛けで無理矢理、自分の山荘の寝室に連れ込み、伯党と契りを結ぼうとする。観客にはうまくいったかに思わせておいて、最後に東方夫人は王伯党に殺されるというストーリーらしい(私は管見したことがないので、複数のネット記載を参考に纏めた)。岩波版新全集の山田俊治氏の注解によると、『一九二四年一〇月、梅蘭芳の第二回公演で演じられた。』とし、芥川が観劇したのが梅蘭芳の大正8(1919)年の初来日の折でないことは、『久米正雄「麗人梅蘭芳」(「東京日日」一九年五月一五日)によってわかる』とある。しかし、この注、久米正雄「麗人梅蘭芳」によって初来日では「虹霓関」が演目になかったから、という意味なのか、それともその記載の中に芥川が初来日を見損なったことが友人久米の手で書かれてでもいるという意味なのか、どうも私が馬鹿なのか、意味が分らない。
○「孫呉」孫武と呉起の併称。孫武は兵法書「孫子」の著者で、春秋時代の兵家、孫子のこと。呉起(?~B.C.381)は兵法書「呉子」の著者で、戦国時代の軍人・政治家。孫武とその子孫である孫臏と並んで兵家の祖とされ、兵法は別名孫呉の術とも呼ばれる。
○『「戲考」』「上海游記」の「十 戲臺(下)」にも現れるこれは、王大錯の編になる全40冊からなる膨大な脚本集(1915~1925刊)で、梗概と論評を附して京劇を中心に凡そ六百本を収載する。
○「兵機」は戦略・戦術の意。
○「董家山」岩波版新全集の山田俊治氏の注解によると、『金蓮は、容姿、武勇ともに傑れた女傑。領主である父の死後、家臣と山に籠り山賊となり、一少年を捕虜とする。彼を愛して結婚を強要、その後旧知の間柄とわかり結ばれる』というストーリー。
○「轅門斬子」は「えんもんざんし」と読む。別名「白虎帳」。野村伸一氏の論文「四平戯――福建省政和県の張姓宗族と祭祀芸能――」(PDFファイルでダウンロード可能)によると、『宋と遼の争いのなか、楊延昭は息子の楊六郎(宗保)を出陣させる。ところが、敵の女将軍穆桂英により敗戦を強いられ、楊宗保は宋の陣営に戻る。しかし、父の楊延昭は息子六郎が敵将と通じるという軍律違反を犯したことを理由に、轅門(役所の門)において、息子を斬罪に処するように指示する。/そこに穆桂英が現れる。そして楊延昭の部下を力でねじ伏せ、楊六郎を救出する。こののち女将軍穆桂英と武将孟良の立ち回りが舞台一杯に演じられる。』(改行は「/」で示し、写真図版への注記を省略、読点を変更した)とあり、岩波版新全集の山田俊治氏の注解では、宋代の物語で、穆桂英は楊宗保を夫とし、楊延昭を『説得して、その軍勢に入って活躍する話』とする。題名からは、前段の轅門での息子楊宗保斬罪の場がないとおかしいので、野村氏の平戯の荒筋と京劇は同内容と思われる。
○「雙鎖山」岩波版新全集の山田俊治氏の注解によると、『宋代の物語。女賊劉金定は若い武将高俊保へ詩をもって求婚、拒絶されて彼と戦い、巫術を使って虜にし、山中で結婚する』とある。
○「馬上縁」加藤徹氏のHPの「芥川龍之介が見た京劇」によれば、唐の太宗の側近であった武将薛仁貴(せつじんき)の息子薛丁山が父とともに戦さに赴くも、敵将の娘の女傑樊梨花に一目惚れされてしまい、無理矢理夫にされてしまう、とある。岩波版新全集の山田俊治氏の注解によると、二人は前世の因縁で結ばれており、梨花はやはり仙術を以って丁山と結婚を遂げるとある。
○「胡適」は「こせき」(又は「こてき」とも)(Hú Shì ホゥ シ 1891~1962)。中華民国の学者・思想家・外交官。自ら改めた名は「適者生存」に由来するという。清末の1910年、アメリカのコーネル大学で農学を修め、次いでコロンビア大学で哲学者デューイに師事した。「六 域内(上)」の「白話詩の流行」の注でも記したが、1917年には民主主義革命をリードしていた陳独秀の依頼により、雑誌『新青年』に「文学改良芻議」をアメリカから寄稿、難解な文語文を廃し口語文にもとづく白話文学を提唱し、文学革命の口火を切った。その後、北京大学教授となるが、1919年に『新青年』の左傾化に伴い、社会主義を空論として批判、グループを離れた後は歴史・思想・文学の伝統に回帰した研究生活に入った。昭和6(1931)年の満州事変では翌年に日本の侵略を非難、蒋介石政権下の1938年には駐米大使となった。1942年に帰国して1946年には北京大学学長に就任したが、1949年の中国共産党国共内戦の勝利と共にアメリカに亡命した。後、1958年以降は台湾に移り住み、中華民国外交部顧問や最高学術機関である中央研究院院長を歴任した(以上の事蹟はウィキの「胡適」を参照した)。芥川龍之介はこの中国旅行の途次、北京滞在中に胡適と会談している(芥川龍之介「新芸術家の眼に映じた支那の印象」にその旨の記載がある)。
○「四進士」恐らく4人の登場人物の数奇な運命を描く京劇。岩波版新全集の山田俊治氏の注解によると、『明代の物語で、楊素貞が夫の死後身売りされ、商人と結ばれ、彼女を陥れた悪人を懲す話』で、外題にある四人の同期に科挙に登第した進士は、一人を除いて悪の道に入ってしまうといった『複雑な筋に比して、正邪が明確で、情節共に面白く、旧劇中の白眉と胡適が推称した』と記す。
――最後に。この「彼女」は誰(たれ)よりも美しい!
・「楊小樓」(Yáng Xiáolóu ヤン・シィアオロウ 1877~1937)、本名楊嘉訓は京劇武生(立ち回りを主とする武将・侠客の男性役で地声を使用)の名優。梅蘭芳・余叔岩とともに当時の京劇界の「三賢」の一人とされ、また「武生宗師」として京劇の正統的武生としての『楊派』を創始した。芥川が辻の掛け声の段で後掲する「三国志演義」の「長坂坡」の趙雲や、梅蘭芳と共演した名演「覇王別姫」の項羽が当り役であった。因みに岩波版新全集の細川正義氏の注解では『花旦(なまめかしい女性にふんする女形)の名優』と注するが、これは行者が大立ち回りの末に嬌声を上げて絶命する、楊小樓にとってとんでもない誤注となっている。
・「東安市場」北京最大の繁華街、東城王府井大街路の東長安門に面した大市場。現在は地下で繋がるランドマーク新東安市場に拡張され、2008年にはお洒落に「北京apm」(amからpmまでの意で夜の方に重点を置いた新しいスタイルのデパート・プロジェクトの名)と改名している。
・「吉祥茶園」王府井金魚胡同にあった老舗の劇場。1990年代後半に取り壊されたが、2001年に再建が始まり、現在、再び「吉祥戯院」として営業している。
・「余叔岩」(Yú Shūyán ユィ シゥイェン 1890~1943)本名余第祺は中華民国初期の老生(髭を付けた中高年の男性役で地声を使用)の名優「四大須生」(余叔岩・馬連良・言菊朋・高慶奎)の一人(「須生」は京劇で顔に隈取をせず髭をつけている役を言う)。
・「尚小雲」(Shàng Xiáoyún シァン シィアオユィン 1899~1976)本名尚徳泉は名花旦。若い頃は武生を学んだが、後に花旦となった。後に自身の劇団も結成したが、その芸風は武生経験を生かし、武功に優れた列女や貞操を堅固する節婦役を得意とした。後年は後進京劇俳優の指導育成にも力を注いだ。
・「前門外の三慶園」「前門外」は北京正陽門の大柵欄を言う。ここは古くから芝居小屋の並ぶ地域であったが、その中でもここにあった三慶園は老舗であった。
・「醉顏酡たる」「酡」は酒に酔って顔が赤らむさまを言う語。
・「芭蕉扇」唐扇の一種。単子葉植物綱ショウガ亜綱ショウガ目バショウ科バショウMusa basjooの葉鞘で作った円形のもの。
・「樊半山」(Fán Bànshān ファン パンシァン 1846~1931)本名樊増祥。樊山は号。清末から中華民国初期の著名な文人。秦剛氏の「芥川龍之介が観た 1921年・郷愁の北京」では、『生涯にわたって日常茶飯事的に詩を作り、詩作3万首、駢文百万言を残した当代きっての詩宗であった。民国時代には遺老として閑居し、詩酒と観劇を嗜む晩年を送った。』と事蹟が綴られ、『劇場というもっとも市井的な空間において、昔ながらの旧派文人の悠々と観劇する一瞬の横顔から、芥川は中国の伝統的な詩文精神の一端を垣間見たのである。』と結ばれている。
・「當年の醉李白」天馬空を翔ぶが如き飄々とした文士樊半山(当時75歳)を見て、酒好きであった酔った詩仙李白の面影を見た語。もし半山に囁いたら、きっと呵呵大笑、この痩身の有為の日本人青年作家と酒を交わしたに違いない。芥川よ、惜しかったね!
・「疎髯」まばらに生えたひげ。
・「揚州の鹽務官高洲太吉氏」の「鹽務官」は鹽務署の署長。中国では製塩は漢の武帝以来(当時は匈奴との戦乱による財政再建のため)、中華民国に至るまで官営であり、その産塩や品質の管理・個人製塩や盗難の防止・販売流通・塩に関わる徴税その他塩に関わる一切の行政権を掌る役所を塩務署と称した。「高洲大吉」は高洲太助の誤り。中文個人ブログ「三風堂」の「日本人高洲太助在揚州」(元は簡体字表記)に本篇の記載も含めて詳細な記事が載り、そこに「高洲太助」と明記、現在、揚州にある「萃園」という庭園がこの「高洲太助」なる人物の旧居であるらしい。更に、国立公文書館アジア歴史資料センターの検索をかけると52件がヒットし、明治39(1906)年に「清国杭州駐在領事高洲太助」宛委任状、明治40(1907)年に「清国長沙駐在領事高洲太助」宛委任状、ここや京都大学東南アジア研究センター『東南アジア研究』18巻3号(Dec-1980)中村孝志『「台湾籍民」をめぐる諸問題』(リンク先はHTMLバージョン)という論文の中にも、明治43(1910)年1月・12月・翌1911年1月附で日本の台湾領有によって生じた台湾籍民についての外務省機密文書が福建省の『福州領事高洲太助』なる人物に示されたことが記されている。この人物は同姓同名で同一人物である可能性が極めて高い。「江南游記」の「二十三 古揚州(上)」を参照。地名の「揚州」についてもそちらを参照されたい。
・「聽花散人」「散人」は一般名詞としては俗世間に捉われず、暢気に暮らす人。また、官に就かない在野の人を言うが、そこから文人墨客が通常は自分の雅号に添えて風狂を自称するのに用いる。ここは恐らく、芥川が辻武雄の号である聽花に添えて、京劇の通人として敬意を表したものであろう。
・『「支那劇五百番」』波多野乾一著、大正11(1922)年支那問題社刊。
・『「綴白裘」』清代(1823)に成された昆曲集成(旧劇の台詞断片を含む)。玩花主人(かんかしゅじん)及び銭徳増編、共賞斎蔵版刊。12冊48巻。
・「兩帙」「帙」は和綴本の損傷を防ぐために包む厚紙に布を貼った覆いのことで、和本を数える際の単位。但し、「綴白裘」12冊48巻と大著であり、芥川が近代の2巻活字本を持っていたと合理的に考えるより、恐らく「綴白裘」全巻で、暗にそれを所持している(かとうかは確認していないが)自身の劇通を誇示しているのである。
・『「中國劇」』辻聴花著、大正9(1920)年順天時報社刊。
・『「支那芝居」』辻聴花著、大正12~13(1923~1924)年支那風物研究会刊。全2巻。同車の『支那風物叢書』第4編及び6編。
・「順天時報社」北京で発刊された日刊中国語新聞『順天時報』(1901~1930)の日本人中島真雄なる人物の経営した新聞社。通常のニュース以外に京劇の劇評や俳優関連の記事等が載っていたものらしい。赤字経営で後に日本外務省に売却しているが、彼中島真雄は大陸にあって、ある種の政治的な役割をも担っていた人物と思われる。後の奉天の『満州日報』の創刊者でもあり、私には謂わば、芥川の『支那游記』に見え隠れする無数の、「怪しい中国人」ならぬ「怪しい日本人」の一団の一人に見える。因みに、芥川龍之介の「馬の脚」には実名の新聞名で出る。
・「天公」中国での世界の創造主(神)の意。
・「支那風物研究會」「一 雍和宮」に登場した中野好漢が主催した民俗学的な在野研究組織。月刊の『支那風物叢書』を出版する予定であったが、13編まで出して終わっている(筑摩全集類聚版脚注には6編とあるが、誤り)。
・『「火焰山」』現在の京劇「孫悟空三借芭蕉扇」の古形か。「西遊記」の中でも人気の一場。孫悟空が火焔山の火を消すため、牛魔王の家に芭蕉扇を借りに行くも、牛魔王は不在。懇請する妻の鉄扇姫は、自分の息子が孫悟空との戦いで負けた遺恨から、逆に悟空に対決を挑む。二人の丁々発止の乱闘が見せ場。因みに、私は敦煌へ行き、実際の火焔山を見たが、それは灼熱の実際の熱さ故より、急斜面を穿った水脈の跡がまこと火炎の燃え上がる形に確かに見えた。
・「斉天大聖」孫悟空が作中で名乗った称号。天にも斉(ひと)しい大聖者の意。暴れん坊の悟空を懐柔するために天に召された彼は、最初、与えられた地位が低いことに不満で脱走、仕方なく彼の望むこの不遜な称号を貰って、天の百薬である桃の園の番人になるが、その霊薬たる桃をありったけ食って手の付けられない万能の猿になって、御存知のように自由自在に暴れ回ることとなる。私はこの京劇をテレビで見たことがあるが、悟空役が上手ければ面白い芝居である。私はそれを見ながら、エノケンの孫悟空はやっぱり絶品だったな、などと何処かで思っていた。
・「羅刹女」通常この語は女性の羅刹天(鬼神)を指す普通名詞であるため、専ら「鉄扇公主」(てっせんこうしゅ)または「鉄扇仙」の名で呼ばれる。以下、ウィキの「羅刹女」の「あらすじ」が格好のここの注になるので、そのまま引用する(段落は/で示した)。『第59回「唐三蔵、火焔山に路を阻まれ孫行者ひとたび芭蕉扇を調しとる」から第61回に登場。火焔山より西南に千四五百里もの先にある翠雲山芭蕉洞に住み、火焔山の燃え盛る炎を消すことが出来る秘宝・芭蕉扇を持つ。牛魔王の妻であるが、牛魔王が愛人の玉面公主(正体は玉面狸)を作って芭蕉洞へ帰って来ないため不機嫌を募らせていたところに孫悟空が芭蕉洞を訪ね、火焔山の炎を消すために芭蕉扇を借りたいと頼み込む。ところが鉄扇公主にとって孫悟空は息子である紅孩児の仇であるため、彼女は烈火の如く怒り狂って、追い返そうと二振りの青峰の宝剣をもって襲い掛かる。2人は夕刻まで一騎打ちを続けるも、形勢不利と見た鉄扇公主が芭蕉扇で悟空をあおぎ吹き飛ばしてしまう。/悟空が一晩かかって吹き飛ばされた先は、かつて黄風大王の件で世話になった霊吉菩薩の住む小須弥山であった。悟空から事情を聞いた霊吉菩薩は風鎮めの秘薬「定風丹」を彼に与える。再び芭蕉洞に取って返した悟空は昨日と同じように鉄扇公主を呼び出し、両者は再び一騎打ちを始める。やがてひるんだ彼女は芭蕉扇で悟空をあおぐが、少しも飛ばされる気配が無い。せせら笑う悟空を気味悪がった公主は芭蕉洞に逃げ帰り、堅く扉を閉めてしまった。疲れて喉に渇きを覚えた彼女は、侍女に命じて茶を持ってこさせる。ところが、孫悟空が1匹の虫に化けてお茶に飛び込み、そうとは知らずにお茶を飲んだ鉄扇公主の胃の中で暴れ回ったため鉄扇公主は腹痛に苦しみ、遂にたまりかねて孫悟空に芭蕉扇を渡すと約束するが、その芭蕉扇は偽物であった。/さっそく悟空はそれを持って火焔山に向かうが、偽物であったため逆に火の勢いは強まり、全身に炎を浴び両股の毛まで焦げてしまう。ほうほうの態で引き返してきた彼の前に火焔山の土地神が現れ、公主の夫の牛魔王に頼むよう勧める。しかし悟空が牛魔王を訪ねる途中、玉面公主と偶然いざこざを起こしてしまった為、「俺の妻や妾に無礼を働くとは」と牛魔王とも交渉決裂となってしまった。この後、彼らの間で芭蕉扇をめぐって化けくらべや騙しあいなど、数々の戦いや駆け引きが繰り広げられる。/やがて哪※太子たち天将の加勢もあって牛魔王が捕らえられたので、鉄扇公主も観念して悟空に本物の芭蕉扇を渡し、自らも正しい道に入るべく修行を積むために地上を去った。』[やぶちゃん字注:「※」=[口]+(「託」-「言」)。]。
・「牛魔王」悟空とは以前に義兄弟として天界に反逆した仲であったが、後に悟空が三蔵法師の弟子となった際、息子の紅孩児を観音菩薩の弟子にされてしまう等、その恨みから悟空と仇同士となる。
・「一打十萬八千路」悟空が自在に駆使する乗用出来る筋斗雲(きんとうん)のスピードである。ウィキの「觔斗雲」はウィキならではの頗る級に面白い記載となっている。飲用させて頂く(筆者は俗字の「觔」を用いている)『「觔斗」とは「宙返り」の意であり、孫悟空がより基礎的な雲に乗る術を披露した際にとんぼを切って雲に乗ったのを見た仙術の師である須菩提が、適性を判断して特に授けた術。「觔斗雲の術」は10万8000里/1跳び(=宙返り1回)の速さで空を自在に飛ぶ。つまり、この術の使用中は術者は雲の上でとんぼ返りを切り続けることになり、猿の妖仙である孫悟空に実に相応しく、逆に、他の誰にも似つかわしくない術である。当然ながら、西遊記の演劇、ドラマ、映画、漫画、アニメなどのビジュアル化作品において、この設定が忠実に再現された事はほとんどない。京劇においては、斉天大聖が雲に乗る際に宙返りを披露することはこの役での見せ場の一つとされている。西遊記の孫悟空の行動や仕草には、このように実在の猿の行動を観察して取材されたと思われる描写が多い。』『中国の古い「里」は約560mなので、10万8000里はおよそ6万500㎞、宙返り1回を1秒とすると、觔斗雲の速度はおよそマッハ17万6000、光速のほぼ20%(秒速6万㎞)となる。また、この10万8000里という距離は、西遊記において唐から天竺への取経の旅の行程距離ともされているが、これは地球一周半の距離であり、中国文学らしい途轍もない誇張である。』世の注なるもの、こんな記載を心掛けたいもの。学校の授業もこうなれば、みんな聴いてくれるはず。因みに「一打」の「打」は、この説明にある、雲の上でとんぼ返りを「打つ」ことの数詞、若しくは「トンボを切る」という動作の代動詞的数詞である。
・「鬼門道」中国の舞台の登退場口の元曲等に於ける古称。役者の退場(死ぬ)の意を掛ける。加藤徹氏の論文「宗教から初期演劇へ」の中の「初期演劇の気鳴楽器中心主義は、招魂儀礼のなごり」に、これがただの洒落でないことが説明されている。該当部分を引用させて頂く。
[引用開始]
初期演劇の劇音楽以外でみると、祭礼音楽(特にその送葬音楽)、軍楽なども、世界的に気鳴楽器中心主義である。筆者は、ここに問題を解く鍵があると考える。これら弦鳴楽器を排除する傾向の強い音楽には、みな、宗教の影がさしているのである。
初期演劇の本質は「疑似再出生体験」であった。中国劇では、役者が舞台に登場するときの出入口は、その名もずばり「鬼門道」と呼ばれていたが、その「幽霊の出入口」から死者を現世に一時的に復活させるために、劇音楽による「疑似再出生体験」の演出作業が行われたのである。
打楽器は、心臓の鼓動の象徴だった。単旋律による声楽は、産声の再現である。気鳴楽器の音色は、古代人が生命そのものとしてとらえていた呼吸を連想させる。そんな音楽演出において、生命の表象と直接の関係を持たない弦鳴楽器は、邪魔になるだけである。
一言でいえば、初期演劇が弦鳴楽器を排除する傾向を持つのは、古代の招魂儀礼の技術を継承した結果なのである。死者を冥界から舞台上に迎えるという非日常的体験を、観衆に自然に受け入れさせるためには、それなりの心理的演出が必要だった。
[引用終了]
大変、説得力のある説である。そこで、はたと思った。辜鴻銘先生にならって言うと――死の門たる鬼門は生の門たる陰門なり――という訳だ。
・「大殺」大立ち回り。殺陣(たて)の見せ場。
・『「胡蝶夢」』関漢卿(かんかんけい)作の清代の戯曲。「荘子」の「胡蝶の夢」をパロディ化した雜劇。私は本篇を読んで、この話、どこかで読んだという気がしていた。思い出した。これは明代に成立した白話小説「今古奇観」に所収する「荘子休鼓盆成大道」を元としている。「荘子休鼓盆成大道」の梗概を記すと、荘子は妻の田氏を誠意を試さんとして、仙術で仮死状態になってその荘子の魄を棺に横たえる。別に荘子の魂は分身の術によって美少年に変じて楚の王の子孫と称して田氏を弔問する。彼を見た田氏は忽ち少年に恋情を起こす。青年が不治の病と聞くや、荘子の柩を破壊して、荘子の遺骸からその妙薬たる人の脳を取り出して青年に与えようとした途端、そ荘子が柩から立ち上がって一喝、田氏は恥ずかしさのあまり縊死する、というストーリーで全くと言ってよい程、同じなのである。
この、荘子が仮死して、妻が嘆くという設定自体は、「荘子」の「至楽第十八」、荘子が妻を失った際の有名なエピソードの逆パロディでもある。
莊子妻死、惠子弔之、莊子則方箕踞鼓盆而歌。惠子曰、「與人居、長子老身、死不哭亦足矣。又鼓盆而歌、不亦甚乎。」莊子曰、「不然。是其始死也、我獨何能無概然。察其始而本無生、非徒無生也、而本無形。非徙無形也、而本無氣。雜乎芒芴之間、變而有氣、氣變而有形、形變而有生。今又變而之死。是相與爲春秋冬夏四時行也。人且偃然寢於巨室、而我噭噭然隨而哭之、自以爲不通乎命、故止也。」
○やぶちゃんの書き下し文
荘子の妻死す。惠子之を弔す。荘子は則ち方に箕踞(ききよ)し盆を鼓(こ)し、而して歌へり。惠子曰く、
「人と與(とも)に居りて、子を長(そだ)て身を老いしむるに、死して哭せざるは亦足れり。又、盆を鼓して歌ふは、亦甚だしからずや。」
と。荘子曰く、
「然らず。是れ其の始めて死するや、我獨り何ぞ能く概然たること無からんや。其の始めを察するに、而(すなは)ち本(もと)、生、無し。徒(ただ)生無きのみに非ず、而ち本、形、無し。徒(ただ)形無きのみに非ず、而ち本、氣無し。芒芴(ばうこつ)の間に雜(まじは)りて、変じて氣有り。氣、變じて形有り。形、變じて生有り。今、又、變じて死に之(ゆ)くのみ。是れ相與に春夏秋冬の四時の行(かう)を爲すなり。人且に偃然(えんぜん)として巨室(きよしつ)に寢ねんとするに、而も我、噭噭然(けうけうぜん)として、随ひて之を哭するは、自ら以て命(めい)に通ぜずと爲す。故に止(や)めたるなり。」と。
○やぶちゃんの現代語訳
荘子の妻が死んだ。友人の恵子が弔問に訪れてみると、荘子はだらしなく足を崩して胡坐をかき、土の瓶(かめ)をほんほん叩いて拍子をとりながら、楽しそうに歌なんぞを歌っている。恵子は憤慨して、
「夫婦として共に暮らし、二人して子も立派に育て上げ、偕老同穴の睦まじい仲であったのに、その妻がこのように急死しながら慟哭しないというのは、それだけでも不人情と言うに十分である! 加えて、あろうことか、瓶をのほほんと叩いて楽しく歌を歌うとは! 余りに酷(ひど)いと言わざるを得ん!」
すると、荘子は徐ろに答えた。
「そうではないのだよ。妻が亡くなったその折、どうして深い嘆きが私を襲わなかったなどということがあろう! 私は泣かずにはおられなかったよ。――しかし君、考えてみるがよい。総ての始まりというものを考察してみれば、本来、「生」というものは存在しなかった。否、「生」がなかったばかりではない、「形」もなかったのだ。否、元来、「形」もなかったばかりではない、「形」になるべき元素(エレメント)としての「気」さえもなかったのだ。混沌(カオス)の渾然一体の原初の玄妙な状態から、物化という下らぬ変化が起こって「気」が生じ、「気」が変じて「形」となり、「形」が変じて「生」となっただけのことである。そうして――妻の死――それは今、また、たわいのない変化をして「死」へと帰って行ったに過ぎないのだよ。――それこそ正に春夏秋冬の四季が繰り返し巡ってくる「自然」の自然な流れと同じことを繰り返しているということだ。――その「自然」という壮大な悠久のこの大自然という「部屋」の中にあって、人が安らかな眠りにつこうとしている――それだのに、大声を張り上げて泣き叫ぶというのは、どう考えても「自然」の摂理に反している――私はそれを知ったのだ。だから私は泣き叫ぶのをやめたのだ。」
と。
更に、加藤徹氏のHPの「芥川龍之介が見た京劇」によれば、『新中国成立後は淫戯として上演禁止になったが、外国人の間では評価が高く、例えばアメリカの舞台芸術高級研究所(Institute for Advanced Studies in Theater Arts)では、A・C・スコット教授の指導のもと、京劇版『胡蝶夢』をアメリカ人俳優を使って公演して好評を博した(一九六一)。』とある。
・「それから目ばかり大いなる美人の莊子と喋喋喃喃するはこの哲學者の細君なるべし」言わずもがなであるが、ここは「それから、目ばかりが大きい美人で」(「の」は同格の格助詞)、「莊子と楽しげに会話を交わしている美人は、この哲學者の細君であるに違いない」の意。荘子が眼が大きい才人な訳ではない。
・「六月の天」芥川龍之介の北京滞在は6月11日(又は14日)~7月10日であるが、本篇冒頭の注で推測したように、本篇の経験はその6月19日前後と考えられ、正しく6月の季節というに相応しい。
・「火取蟲」灯火に集まってくる夜行性の昆虫の総称。子役の演技のなさ、可愛げのなさに胡蝶ならぬ、おぞましい大きさのおぞましい蛾であると言いたいのであろう。
・「楚の公子」荘子は宋の出身であるが、楚の威王に宰相を懇請され、けんもほろろに拒絶するという「秋水第十七」の以下の著名なエピソードに基づくか。
莊子釣於濮水。楚王使大夫二人往先焉曰、「願以竟内累矣。」莊子持竿不顧曰、「吾聞楚有神龜、死已三千歳矣。王巾笥而藏之廟堂之上。此龜者、寧其死爲留骨而貴乎。寧其生而曳尾於塗中乎。」二大夫曰、「寧生而曳尾塗中。」莊子曰、「往矣。吾將曳尾於塗中。」
○やぶちゃんの書き下し文
莊子、濮水(ぼくすい)に釣す。楚王、大夫(たいふ)二人をして往かしめ、先(みちび)かしめて曰く、
「願はくは竟内(けいだい)を以て累(わづら)はさんことを。」
と。莊子、竿を持ちながらにして顧みずして曰く、
「吾れ聞く、楚に神龜有り、死して已に三千歳、王、巾笥(きんし)して之を廟堂の上に藏すと。此の龜は、寧ろ其の死して骨を留めて貴(たふと)ばるることを爲さんとするか、寧ろ其の生きて尾を塗中(とちゆう)に曳かんとするか。」
と。二大夫曰く、
「寧ろ生きて尾を塗中に曳かん。」
と。莊子曰く、
「往け。吾れ將に尾を塗中に曳かんとす。」
と。
○やぶちゃんの現代語訳
荘子は濮水の畔りで釣りをしていた。丁度その時、楚の威王は二人の重臣を遣わして、招聘させようとした。
「どうか、国内(くにうち)のすべてのことを、貴方に委ねたい――宰相としてお呼びしたい――との王のお言葉です。」
と。しかし、荘子は釣竿を執ったまま、振り返りもせずに、こう訊ねた。
「――聞くところによると、楚の国には神霊の宿った亀がおり、かれこれ死んでから、とうに三千年、王はそれを絹の袱紗(ふくさ)に包んで厳かな箱(ケース)に収め、祖霊を祭る最も神聖な霊廟殿上に大事にお守りになられているらしいのう。――さても、お主ら、この亀の身になって考えて見よ――亀は自ら、殺された上にただ甲羅のみを残して、尊崇されることを望むであろうか? それとも――ほれ、見るがよい、この水辺に亀がおる――生き永らえて、このように自由気儘、泥の中に気持ちよく尾を引きずって、遊ぶことを望むであろうか?」
と。二人の重臣は口を揃えて答えた。
「それは、やはり、生き永らえて泥の中に尾を引きずって遊ぶことを望むものと存知ます。」
すると荘子はきっぱりと答えた。
「帰られい。儂もまた、正に泥の中に尾を引きずって生きて行こうとする者じゃて、の。」
と。
「公子」は本来は貴族の師弟の意であるから、威王の名代でやってきた貴族、王家の血筋を引く貴族という設定か。後述される脳味噌の話も、私には、芥川が「江南游記」の「二 車中(承前)」で『腦味噌の焦げたのは肺病の薬だ』と語る人肉食や人血饅頭(マントウ)の話よりも、実は魯迅も「起死」でインスパイアした「至楽第十八」の有名な以下の話と何故かイメージがダブるのである。
莊子之楚、見空髑髏。髐然有形。撽以馬捶、因而問之曰、「夫子貪生失理、而爲此乎。將子有亡國之事・斧鉞之誅、而爲此乎。將子有不善之行、愧遺父母妻子之醜、而爲此乎。將子有凍餒之患、而爲此乎。將子之春秋故及此乎。」於是語卒、援髑髏、枕而臥。夜半、髑髏見夢曰、「子之談者似辯士、視子所言、皆生人之累也。死則無此矣。子欲聞死之説乎。」莊子曰、「然。」髑髏曰、「死、無君於上、無臣於下。亦無四時之事、從然以天地爲春秋。雖南面王樂、不能過也。」莊子不信曰、「吾使司命復生子形、爲子骨肉肌膚、反子父母・妻子・閭里知識、子欲之乎。」髑髏深矉蹙曰、「吾安能棄南面王樂而復爲人間之勞乎。」
○やぶちゃんの書き下し文
莊子楚に之(ゆ)くに、空髑髏(くうどくろ)を見る。髐然(けうぜん)として形有り。撽(う)つに馬捶(ばすい)を以てし、因りて之に問ふて曰く、
「夫れ、子は生を貪りて理を失ひ、而して此れと爲れるか。將(あるひ)は、子に亡國の事(こと)・斧鉞(ふえつ)の誅有りて、而して此れと爲れるか。將は、子に不善の行ひ有りて、父母妻子の醜を遺さんことを愧(は)ぢて。而して此れと爲れるか。將は子に凍餒(とうだい)の患(うれ)ひ有りて、而して此れと爲れるか。將は子の春秋、故より此れに及べるか。」
と。是に於いて語り卒(をは)り、髑髏を援(ひ)きて、枕して臥す。
夜半、髑髏、夢に見(あら)はれて曰く、
「子の談は辯士に似るも、子の言ふ所を視れば、皆生人の累(わづら)ひなり。死すれば則ち此れ無し。子、死の説を聞かんと欲するか。」
と。莊子曰く、
「然り。」
と。髑髏曰く、
「死、上(かみ)に君無く、下(しも)に臣無し。亦四時の事無く、從然(しやうぜん)として天地を以て春秋と爲す。南面の王の樂しみと雖も、過ぐる能はざるなり。」
と。莊子信ぜずして曰く、
「吾れ、司命をして、復た子の形を生じ、子の骨肉肌膚を爲(つく)り、子の父母・妻子・閭里(りより)の知識に反(かへ)せしめんとす、子は之を欲するか。」
と。髑髏、深く矉蹙(ひんしゆく)して曰く、
「吾れ安くんぞ能く南面の王の樂しみを棄てて、復た人間(じんかん)の勞を爲さんや。」
と。
○やぶちゃんの現代語訳
ある時、荘子は楚の国への旅の途中、道端に野ざらしになった空ろな髑髏(しゃれこうべ)を見つけた。カサついて光沢もないが、曲がりなりにも人ひとり分の欠けのない髑髏である。手にした馬の鞭でそれを軽く叩きながら、荘子は髑髏に語りかけた。
「御仁、――一体、貴方は、生を貪って道理を踏み外し、かくなり果てたのか――はたまた、貴方は、己が国の滅亡を目の当たりにし、戦場で切り刻まれて、かくなり果てたのか――はたまた、貴方は、悪事を働いてしまったがため、それで父母や妻子にまで恥を残すことになるのを羞じて、かくなり果てたのか――はたまた、貴方は、私のような旅の途次、餓凍の災難に遭遇し、かくなり果てたのか――はたまた、貴方の寿命は、もとよりここまでのものでしかなかったから、かく成ったのか――」
――語り終わった荘子は、この髑髏を引き寄せると、それを枕にして横になった。――
その夜半のことである。――
荘子の夢にその髑髏が現れると、こう語りかけてきた。
「――お主(おぬし)の語りは、美事な弁士のようじゃった。――しかし、お主の言うこと、よおく考えて見るがよい、それはのう、皆、生きている人間、この俗世というものの患いに過ぎぬのじゃ。――死んでしまえばそんなものは、総てなくなる。――お主、死の世界の話を聞きたいかね?――」
荘子は
「如何にも。」
と応えた。髑髏は語る。
「――さても、死の世界には、上に君主も下に臣下もない、四季の区別もない、ただただ心が遙か無限の彼方に広がって悠久の天地と一体となり、その永遠の時間を以て四季としている。――この楽しさは、人の世の南面する王者の楽しみと雖も、なかなか、この至福には及びもつかぬものじゃわい――」
荘子は、しかし、聴きながら、なお信じかねて口を挟んだ。
「――御仁よ、――私は仙術を心得ておる、――だから私は、寿命を司る地獄の司命に乞うて、御仁の魄たる生身の肉体を蘇生させ、御仁を元の父母や妻子、故里の友どちのもとへとお帰ししようと思うておるのだが、――御仁は、それを望まれるか?」
すると、髑髏は激しく顔を歪め、
「――愚かな!――何故に、儂が南面の王者に過ぐる愉楽を捨て、疲勞と倦怠とそうして又不可解な、下等な、退屈な人生という馬鹿げた苦痛を、もう一度繰り返すことを選ぶはずが、どうしてあろう!――」
と、答えた――かと思うた、その時――荘子は、先ほどと同じ野中に、夜露にしとど濡れて髑髏を枕にしているたった一人の自分を見出したのであった。――
因みに私は荘子が大好きなのである。
・「好(ハオ)!」“hǎo!”は「いいぞ!」「上手い!」「千両役者!」という掛け声。
・「匹」対等のもの。並ぶもの。
・「長坂橋頭蛇矛を横へたる張飛の一喝」「三国志」の中でも有名な場面で、京劇でも人気のシーン。ウィキの「張飛」の該当箇所から引用する。『208年、荊州牧・劉表が死ぬと、曹操が荊州に南下する。曹操を恐れた劉備が妻子も棄てて、わずか数十騎をしたがえて逃げ出すという有様の中、張飛は殿軍を任され、当陽の長坂において敵軍を迎えた(長坂の戦い)。張飛は二十騎の部下とともに川を背にして橋を切り落とし、「我こそは張飛。いざ、ここにどちらが死するかを決しよう」と大声でよばわると、曹操軍の数千の軍兵はあえて先に進もうとはせず、このために劉備は無事に落ち延びることが出来た』。「当陽の長坂」とは、荊州(現・湖北省)南郡当陽県の長坂坡(ちょうはんは)。「蛇矛」は蛇のように長い矛のこと。
・「惘れて」「惘」(音ボウ・モウ)は本来は、ぼーっとする、うっとりする、ぼんやりするの意であるが、国字として、あきれる、ことの意外なさまに驚くの意が生まれた。
・「不准怪聲叫好」訓読すれば「怪聲(くわいせい)好(かう)と叫(よ)ぶことを准(ゆる)さず」で、「奇矯な発声で『好(ハオ)!」』と掛け声を掛けてはならない」の意。
・「アナトオル・フランス」Anatole Franceアナトール・フランス(1844~1924)はフランスの小説家・批評家。本名Jacques Anatole François Thibaultジャック・アナトール・フランソワ・ティボー。1921年ノーベル文学賞受賞。芥川が敬愛した作家で、若き日には彼の“Balthazar”(1889)を『新思潮』(大正3(1914)年)に翻訳しており(題名「バルタザアル」)、「侏儒の言葉」ははっきりと“Le Jardin d'Épicure”「エピクロスの園」(1895)を意識して書かれている。
・「印象批評論」既成の一般的普遍的に定まっている評価規準を排して、読者個人が読んだ際の主観的好悪や感懐を中心にして行われる芸術批評の一方法。以下、「日本大百科全書」の船戸英夫氏の「印象批評impressionistic criticism」記載を全文引用しておく。
芸術作品が個々の批評家の感性や知性に与えた印象または感動によって評価する批評。これは19世紀後半から20世紀にかけて行われた批評方法であり、アリストテレスの『詩学』、ホラティウスの『詩論』としてその系譜に属する18世紀の批評があまりにも方則を厳守する態度であったのに対して、個性的な想像力や感性を重視した批評である。とはいっても軽薄な恣意(しい)的、思い付き的な批評ではなく、哲学的、審美的思考を長く続けたうえでの、また多くの作品に触れたうえでの自己裁断であって、フランスではサント・ブーブ、アナトール・フランス、イギリスではコールリッジ、ハズリット、マシュー・アーノルドなどによる批評がそれであり、とりわけ世紀末における唯美主義、絵画の印象主義などによってウォルター・ペイターやオスカー・ワイルドに完成をみた。20世紀の「新批評」はこれに対する科学主義だが、批評家の主観的印象を重視するこの立場は依然有力であり、日本では小林秀雄の批評にその優れた例をみる。』
因みに、私は小林秀雄が大嫌いである。
・「梆子」中国劇で用いられる舞台楽器で、竹製の拍子木の一種。
・「秦腔」は現在の陝西省・甘粛省・青海省・寧夏回族自治区・新疆ウイグル族自治区等の西北地区で行われている最大最古の伝統劇の名。京劇を中心としたあらゆる戯形態に影響を与えたことから「百種劇曲の祖」と呼ばれる。前掲のナツメの木で作った梆子を用いることから「梆子腔」という呼び方もある。その歌曲は喜怒哀楽の激しい強調表現を特徴とする(以上は「東来宝信息諮詢(西安)有限公司」の公式HPの「西安・陝西情報」→「民間藝術」にある「秦腔」の記載を参照した)。]
以下、4名の昆曲の俳優の記載があるが、その多くを加藤徹氏のHPの「芥川龍之介が見た京劇」の記載を参照し、各人のほぼ全文を引用したことを断っておく(『 』(加藤徹氏)が直接引用部)。それには実は私なりの意味がある(安易にコピー・ペーストしている訳ではないということである)。それは注の最後に記す。
・「韓世昌」(Hán Shìchāng ハン シチァン 1897 or 1898~1977)。崑曲の名花旦。『「北崑」すなわち北中国の崑曲の名優で、河北省高陽県河西村の人。『胡蝶夢』で荘子の妻の役を演じた。彼は貧農の家に生まれ、幼時から科班で崑曲を、陳徳霖に京劇を習った。芥川が自殺した翌年の二八年十月に日本公演を果たす。日中戦争中は舞台を自粛し、京劇女優の言慧珠や朝鮮舞踏家の崔承喜など若手の教育に専念。新中国成立後は、北方崑曲劇院院長を勤め、六〇年に中国共産党に入党。政治協商会議委員や中国戯劇家協会理事など、要職を歴任した』(加藤徹氏)。この昭和3年の彼の日本公演は満鉄肝いりの情宣活動の一環で、韓世昌はそれに利用されたのであった。
・「陶顕亭」陶顕庭(Táo Xiăntíngタオ シィエンティン 1870~1939)の芥川の誤記。『北崑の俳優、河北省安新県の人。『胡蝶夢』で荘子を演じた。孫悟空ものなどで人気を保ち続けたが、三七年に日中戦争が始まると、髭を伸ばし、日本人のために舞台に立つことを拒否した。三九年秋、天津で水害にあって困窮。その直後、故郷の家が日本軍の侵攻によって消滅したことを聞き、にわかに病を発して倒れ、その翌日に急死。』(加藤徹氏)。
・「馬夙彩」馬鳳彩(Mă Fèngcăi マ フェンツァイ 1888~1939)の芥川の誤記。『北崑の俳優で、韓世昌と同じ村の出身。『胡蝶夢』で楚の公子を演じた。二八年には韓世昌とともに日本公演に参加。三七年、天津で崑曲の科班の教師となるが、ほどなく日中戦争が勃発して科班は解散。彼は生徒が故郷に帰るのを護送し、そのまま郷里で病没。』(加藤徹氏)。文中の「科班」は昔の京劇俳優養成所のこと。
・「老胡蝶」私はこの「胡蝶夢」を見たことがないのでこの配役が如何なるものか、不詳。ご存知の方、どうかお教えあれ。
・「陳榮會」(Chén Rónghuì チエン ルンホェイ 1873~1925)『北崑の俳優、河北省三河県の人。『胡蝶夢』で老胡蝶を演じた。芥川が舞台を見た四年後に病死。』(加藤徹氏)。
附記:加藤徹氏は、「芥川龍之介が見た京劇」のこれらの記載の前に、私には正に甚だ共感出来る感懐を述べておられる。それを引用してこの極めて長大となった本注の結びとする。
[引用開始]
『『胡蝶夢』に関心を持った芥川の深層心理では、もしかすると、このときすでに、六年後の自殺にむけての時限スイッチが入っていたのかもしれない。
芥川が『支那游記』で名前をあげている『胡蝶夢』の出演者四人のうち、二五年に死んだ一人をのぞく三人が、三七年からの日中戦争で被害を受けた。』
[引用終了]
補足すれば、本「北京日記抄」冒頭注で述べた通り、本作自体はもっと後、恐らく大正14(1925)年5月中の執筆になる。だとすれば、或る意味、ここは――2年後の自殺にむけての時限スイッチはもう僅かに秒針を動かすばかりであった――と言い換えてさえよいように、私は思うのである――]
芥川龍之介「北京日記抄」の「四 胡蝶夢」がほぼ完成に近づいてきた。試みに文字数(実字数)をカウントしてみると芥川の本文3,180字に対して、現時点で注が1,9154字。注だけで原稿用紙50枚になんなんとしている。もう少し、お時間を頂きたい。明日の午前中には公開予定である。