北京日記抄 四 胡蝶夢
四 胡蝶夢
波多野君や松本君と共に辻聽花(つじちやうくわ)先生に誘はれ、昆曲(こんきよく)の芝居を一見す。京調の芝居は上海以來、度たび覗いても見しものなれど、昆曲はまだ始めてなり。例の如く人力車の御厄介になり、狹い町を幾つも通り拔けし後(のち)、やつと同樂茶園(どうらくちやゑん)と言ふ劇場に至る。紅(べに)に金文字のびらを貼れる、古き、煉瓦造りの玄關をはいれば、――但し「玄關をはいれば」と言ふも、切符などを買ひし次第にあらず、元來支那の芝居なるものは唯ぶらりと玄關をはいり、戲を聽くこと幾分の後、金を集めに來る支那の出方(でかた)に定額の入場料を拂つてやるを常とす。これは波多野君の説明によれば、つまるかつまらぬかわからぬ芝居に前以て金など出せるものかと言ふ支那的論理によれるもののよし。まことに我等看客(かんかく)には都合好き制度と言はざるべからず。扨(さて)煉瓦造りの玄關をはひれば、土間に並べたる腰掛に雜然と看客の坐れることはこの劇場も他(た)と同樣なり。否、昨日(きのふ)梅蘭芳(メイランフアン)や楊小樓(やうせうろう)を見たる東安市場(とうあんしぢやう)の吉祥茶園(きつしやうちやえん)は勿論、一昨日(をととひ)余叔岩(よしゆくがん)や尚小雲(しやうせううん)を見たる前門外の三慶園よりも一層ぢぢむさき位ならん。この人ごみの後(うしろ)を通り二階棧敷(さじき)に上(のぼ)らんとすれば、醉顏酡(だ)たる老人あり。鼈甲の簪(かんざし)に辮髮を卷き芭蕉扇を手にして徘徊するを見る。波多野君、僕に耳語(じご)して曰、「あの老爺(おやぢ)が樊半山(はんはんざん)ですよ。」と。僕は忽ち敬意を生じ、梯子段の中途に佇みたるまま、この老詩人を見守ること多時。恐らくは當年の醉(すゐ)李白も――などと考へし所を見れば、文學青年的感情は少くとも未だ國際的には幾分か僕にも殘りをるなるべし。
二階棧敷には僕等よりも先に、疎髯(そぜん)を蓄へ、詰め襟の洋服を着たる辻聽花先生あり。先生が劇通中の劇通たるは支那の役者にも先生を押して父と倣(な)するもの多きを見て知るべし。揚州の鹽務官高洲太吉(たかすたきち)氏は外國人にして揚州に官たるもの、前にマルコ・ポオロあり、後に高洲大吉ありと大いに氣焰を吐きゐたれど、外國人にして北京に劇通たるものは前にも後にも聽花散人一人に止めを刺さざるべからず。僕は先生を左にし、波多野君を右にして坐りたれば、(波多野君も「支那劇五百番」の著者なり。)「綴白裘(てつぱくきう)」の兩帙(りやうちつ)を手にせざるも、今日だけは兎に角半可通の資格位(ぐらい)は具へたりと言ふべし。(後記。辻聽花先生に漢文「中國劇」の著述あり。順天時報社の出版に係る。僕は北京を去らんとするに當り、先生になほ「支那芝居」の著述あるを仄聞したれば、先生に請うて原稿を預かり、朝鮮を經て東京に歸れる後、二三の書肆に出版を勸めたれど、書肆皆愚にして僕の言を容れず。然るに天公その愚を懲らし、この書今は支那風物研究會の出版する所となる。次手を以て廣告すること爾(しか)り。)
乃(すなは)ち葉卷に火を點じて俯瞰すれば、舞台の正面に紅(くれない)の緞帳を垂れ、前に欄干をめぐらせることもやはり他の劇場と異る所なし。其處に猿に扮したる役者あり。何か歌をうたひながら、くるくる棒を振りまはすを見る。番附に「火焰山」とあるを見れば、勿論この猿は唯の猿にあらず。僕の幼少より尊敬せる斉天大聖(せいてんたいせい)孫悟空ならん。悟空の側には又衣裳を着けず、粉黛を裝はざる大男あり。三尺餘りの大團扇(おほうちは)を揮つて、絶えず悟空に風を送るを見る。羅刹女(らせつぢよ)とはさすがに思はれざれば、或は牛魔王(ぎうまわう)か何かと思ひ、そつと波多野君に尋ねて見れば、これは唯(ただ)煽風機代りに役者を煽いでやる後見なるよし。牛魔王は既に戰(たたかひ)負けて、舞台裏へ逃げこみし後(のち)なりしならん。悟空も亦數分の後には一打十萬八千路、――と言つても實際は大股に悠悠と鬼門道(きもんだう)へ退却したり。憾むらくは樊半山に感服したる餘り、火焰山下の大殺(たいさつ)を見損ひしことを。
「火焰山」の次は「胡蝶夢」なり。道服を着たる先生の舞臺をぶらぶら散歩するは「胡蝶夢」の主人公莊子ならん。それから目ばかり大いなる美人の莊子と喋喋喃喃(てふてふなんなん)するはこの哲學者の細君なるべし。其處までは一目瞭然なれど、時々舞臺へ現るる二人の童子に至つては何の象徴なるかを明かにせず。「あれは莊子の子供ですか?」と又ぞろ波多野君を惱ますれば、波多野君、聊か啞然として、「あれはつまり、その、蝶蝶ですよ。」と言ふ。しかし如何に贔屓眼に見るも、蝶蝶なぞと言ふしろものにあらず。或は六月の天なれば、火取蟲に名代(みやうだい)を賴みしならん。唯この芝居の筋だけは僕も先刻承知なりし爲、登場人物を知りし上はまんざら盲人の垣覗きにもあらず。今までに僕の見たる六十有餘の支那芝居中、一番面白かりしは事實なり。抑(そもそも)「胡蝶夢」の筋と言へば、莊子も有らゆる賢人の如く、女のまごころを疑ふ爲、道術によりて死を裝ひ、細君の貞操を試みんと欲す。細君、莊子の死を嘆き、喪服を着たり何かすれど、楚の公子の來り弔するや、…………
「好(ハオ)!」
この大聲を發せるものは辻聽花先生なり。僕は勿論「好!」の聲に慣れざる次第でも何でもなけれど、未だ曾て特色あること、先生の「好!」の如くなるものを聞かず。まづ匹(ひつ)を古今(ここん)に求むれば、長坂橋頭(ちやうはんけうとう)蛇矛(だぼう)を横へたる張飛の一喝に近かるべし。僕、惘(あき)れて先生を見れば、先生、向うを指して曰、「あすこに不准怪聲叫好と言ふ札が下つてゐるでせう。怪聲はいかん。わたしのやうに「好!」と言ふのは好いのです。」と。大いなるアナトオル・フランスよ。君の印象批評論は眞理なり。怪聲と怪聲たらざるとは客觀的標準を以て律すべからず。僕等の認めて怪聲と倣(な)すものは、――しかしその議論は他日に讓り、もう一度「胡蝶夢」に立ち戻れば、楚の公子の來り弔するや、細君、忽(たちまち)公子に惚れて莊子のことを忘るるに至る。忘るるに至るのみならず、公子の急に病を發し、人間の腦味噌を嘗めるより外に死を免(まぬか)るる策なしと知るや、斧を揮つて棺を破り、莊子の腦味噌をとらんとするに至る。然るに公子と見しものは元來胡蝶に外ならざれば、忽(たちまち)飛んで天外に去り細君は再婚するどころならず、却つて惡辣なる莊子の爲にさんざん油をとらるるに終る。まことに天下の女の爲には氣の毒千萬なる諷刺劇と言ふべし。――と言へば劇評位書けさうなれど、實は僕には昆曲の昆曲たる所以さへ判然せず。唯どこか京調劇よりも派手ならざる如く感ぜしのみ。波多野君は僕の爲に「梆子(ばうし)は秦腔(しんかう)と言ふやつでね。」などと深切に説明してくるれど、畢竟馬の耳に念佛なりしは我ながら哀れなりと言はざるべからず。なほ次手に僕の見たる「胡蝶夢」の役割を略記すれば、莊子の細君――韓世昌(かんせいしやう)、莊子――陶顕亭、楚の公子――馬夙彩(ばしゅくさい)、老胡蝶――陳榮會(ちんえいくわい)等なるべし。
「胡蝶夢」を見終りたる後、辻聽花先生にお禮を言ひ、再び波多野君や松本君と人力車上の客となれば、新月北京の天に懸り、ごみごみしたる往來に背廣の紳士と腕を組みたる新時代の女子の通るを見る。ああ言ふ連中も必要さへあれば、忽――斧は揮はざるにもせよ、斧よりも鋭利なる一笑を用ゐ、御亭主の腦味噌をとらんとするなるべし。「胡蝶夢」を作れる士人を想ひ、古人の厭世的貞操觀を想ふ。同樂園の二階棧敷に何時間かを費したるも必しも無駄ではなかつたやうなり。
[やぶちゃん注:「上海游記」で花旦「緑牡丹」が「白牡丹」の誤りであったという真相解明でお世話になった「2008年上海外国語大学日本学研究国際フォーラム」(PDFファイルでダウンロード可能)の北京日本学研究センターの秦剛氏の論文「一九二一年・芥川龍之介の上海観劇」(p.134-135)の最後に『1921年6月30日「順天時報」 辻聴花「中国劇と日本人(五)」――「先日、波多野乾一君(大阪毎日新聞社特派員)が主人として瑞記飯店で席を設け、余に託して郝寿臣、尚小雲、貫大元の三俳優を招待させて、目下来遊中の著名小説家芥川文学士及び日本人数名に紹介させ、以って風雅の縁を結ぶという。誠に斯界稀な盛会で、大いに特筆大書すべきなり。」(注:「先日」とは6月19日)』という引用記載がある。本篇の経験はその6月19日前後(後か)に絞り込むことが可能かと思われる。
・「波多野君」筑摩全集類聚版脚注は不詳とし、岩波版新全集の細川正義氏は注を附さないが(以下に示す同新全集書簡部分の人名索引に譲ったのか。にしても注を附さないのは極めて不親切と言わざるを得ない)が、これは間違いなく波多野乾一である。岩波版新全集書簡に附録する関口安義らによる人名解説索引によれば、『波多野乾一(1890-1963) 新聞記者。大分県生まれ。東亜同文書院政治学科卒。1913年大阪毎日新聞社に入社。その後、大阪毎日新聞社北京特派員、北京新聞主幹、時事新報特派員など一貫して中国専門記者として活躍した』(句読点を変更した)とある人物である。戦後は「産業経済新聞」の論説委員として中国共産党を研究、本家の中国共産党からも高く評価された(以下の江橋崇氏の記事を参照)という「中国共産党史」等の著作がある。彼はまた、本文にも記される通り、中国人も吃驚りの京劇通で、芥川の挙げる「支那劇五百番」の他にも「支那劇と其名優」「支那劇大観」等の著作がある。また、榛原茂樹(はいばらしげき)のペン・ネームで麻雀研究家としても著名であった。その京劇とその麻雀が結んだ梅蘭芳と由縁(えにし)を記した「日本健康麻雀協会」のHPの江橋崇氏の「波多野乾一(榛原茂樹)と梅蘭芳」は必読である!
・「松本君」大阪毎日新聞社北京支局員であった松本鎗吉と思われる。岩波版新全集の人名索引に載る人物であるが、芥川書簡に2回出現するのみで詳細データは未詳である。
・「辻聽花先生」中国文学者の辻武雄(慶応4・明治元(1868)年~昭和6(1931)年)。上海や南京師範学校で教鞭を採り、京劇通として知られ、現地の俳優達の指導も行なった。ネット検索でも中文サイトでの記載の方がすこぶる多い。芥川は既に「上海游記 十 戲臺(下)」で彼について言及している。
・「昆曲」本注冒頭で示した秦剛氏の別な記事(「人民中国」)「芥川龍之介が観た 1921年・郷愁の北京」(ここでは肩書きが細かく北京日本学研究センター准教授となっておられる)に、『500年の歴史を持つ崑曲は中国に現存する最も古い戯曲であり、長い間、貴族や文人の間で愛好されていたが、清末以降急激に衰退し始めた』と、記されている。
・「京調」現在、この語は京劇と同義で用いられるが、秦剛氏の「芥川龍之介が観た 1921年・郷愁の北京」によれば、実は芥川が渡中したこの頃、「京劇」という語は未だ定着していなかった。所謂、当時、主流になりつつあった新劇としての「原」京劇は「皮黄戯」と呼ばれ、劇の曲想に主に二つの節があった。それを「西皮」調・「二黄」調と言う。西皮調は快濶で激しく、二黄調は落ち着いた静かな曲想を言った。
・「上海以來、度たび覗いても見し」「上海游記」の「上海游記 九 戲臺(上)」及び「上海游記 十 戲臺(下)」参照。
・「同樂茶園と言ふ劇場」「茶園」は中国語で劇場の意。前掲の秦剛氏の「芥川龍之介が観た 1921年・郷愁の北京」に『前門外の大柵欄の胡同の中にある同楽園は、当時崑曲を上演する唯一の劇場であった』とある。
・「戲を聽く」日本語の「観劇」は中国語では「聴劇」「看劇」と言う。
・「出方」芝居茶屋・相撲茶屋・劇場に所属して、客を座席に案内したり、飲食の世話や雑用をする人を言う。
・「梅蘭芳(メイランフアン)」(Méi Lánfāng メイ・ランファン 本名梅瀾 méi lán 1894~1961)は清末から中華民国・中華人民共和国を生きた著名な京劇の女形。名女形を言う「四大名旦」の一人(他は程硯秋・尚小雲・荀慧生)。ウィキの「梅蘭芳」によれば、『日本の歌舞伎に近代演劇の技法が導入されていることに触発され、京劇の近代化を推進。「梅派」を創始した。20世紀前半、京劇の海外公演(公演地は日本、アメリカ、ソ連)を相次いで成功させ、世界的な名声を博した(彼の名は日本人のあいだでも大正時代から「メイランファン」という中国語の原音で知られていた。大正・昭和期の中国の人名としては希有の例外である)。日中戦争の間は、一貫して抗日の立場を貫いたと言われ、日本軍の占領下では女形を演じない意思表示としてヒゲを生やしていた。戦後、舞台に復帰。東西冷戦時代の1956年、周恩来の指示により訪日京劇団の団長となり、まだ国交のなかった日本で京劇公演を成功させた。1959年、中国共産党に入党。1961年、心臓病で死去。』とある。最初の訪日は大正7(1918)年。芥川の「侏儒の言葉」には、
「虹霓關」を見て
男の女を獵するのではない。女の男を獵するのである。――シヨウは「人と超人と」の中にこの事實を戲曲化した。しかしこれを戲曲化したものは必しもシヨウにはじまるのではない。わたくしは梅蘭芳の「虹霓關」を見、支那にも既にこの事實に注目した戲曲家のあるのを知つた。のみならず「戲考」は「虹霓關」の外にも、女の男を捉へるのに孫呉の兵機と劍戟とを用ゐた幾多の物語を傳へてゐる。
「董家山」の女主人公金蓮、「轅門斬子」の女主人公桂英、「雙鎖山」の女主人公金定等は悉かう言ふ女傑である。更に「馬上縁」の女主人公梨花を見れば彼女の愛する少年將軍を馬上に俘にするばかりではない。彼の妻にすまぬと言ふのを無理に結婚してしまふのである。胡適氏はわたしにかう言つた。――「わたしは『四進士』を除きさへすれば、全京劇の價値を否定したい。」しかし是等の京劇は少くとも甚だ哲學的である。哲學者胡適氏はこの價値の前に多少氏の雷霆の怒を和げる訣には行かないであらうか?
とある。ここで芥川が言う京劇の女傑は、一般には武旦若しくは刀馬旦と呼ばれる。これら二つは同じという記載もあるが、武旦の方が立ち回りが激しく、刀馬旦は馬上に刀を振るって戦う女性を演じるもので歌唱と踊りを主とするという中国国際放送局の「旦」の記載(邦文)を採る。そこでは以下に登場する穆桂英(ぼくけいえい)や樊梨花(はんりか)は刀馬旦の代表的な役としている。以下に簡単な語注を附す(なお京劇の梗概については思いの外、ネット上での記載が少なく、私の守備範囲外であるため、岩波版新全集の山田俊治氏の注解に多くを依った。その都度、明示はしたが、ここに謝す)。
○「人と超人と」は“Man and superman”「人と超人」で、バーナード・ショー(George Bernard Shaw 1856~ 1950)が1903年に書いた四幕の喜劇。モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」をモチーフとする。市川又彦訳の岩波書店目録に附されたコピーには『宇宙の生の力に駆られる女性アンは、許婚の詩人ロビンスンを捨て、『革命家必携』を書いた精力的な男タナーを追いつめ、ついに結婚することになる』と記す。岩波版新全集の山田俊治氏の注解では、『女を猟師、男を獲物として能動的な女を描いた』ともある。
○「虹霓關」「こうげいかん」と読む。隨末のこと、虹霓関の守備大将であった東方氏が反乱軍に殺される。東方夫人が夫の仇きとして探し当てた相手は、自分の幼馴染みで腕の立つ美男子王伯党であった。東方夫人は戦いながらも「私の夫になれば、あなたを殺さない」と誘惑する。伯党は断り続けるが、夫人は色仕掛けで無理矢理、自分の山荘の寝室に連れ込み、伯党と契りを結ぼうとする。観客にはうまくいったかに思わせておいて、最後に東方夫人は王伯党に殺されるというストーリーらしい(私は管見したことがないので、複数のネット記載を参考に纏めた)。岩波版新全集の山田俊治氏の注解によると、『一九二四年一〇月、梅蘭芳の第二回公演で演じられた。』とし、芥川が観劇したのが梅蘭芳の大正8(1919)年の初来日の折でないことは、『久米正雄「麗人梅蘭芳」(「東京日日」一九年五月一五日)によってわかる』とある。しかし、この注、久米正雄「麗人梅蘭芳」によって初来日では「虹霓関」が演目になかったから、という意味なのか、それともその記載の中に芥川が初来日を見損なったことが友人久米の手で書かれてでもいるという意味なのか、どうも私が馬鹿なのか、意味が分らない。
○「孫呉」孫武と呉起の併称。孫武は兵法書「孫子」の著者で、春秋時代の兵家、孫子のこと。呉起(?~B.C.381)は兵法書「呉子」の著者で、戦国時代の軍人・政治家。孫武とその子孫である孫臏と並んで兵家の祖とされ、兵法は別名孫呉の術とも呼ばれる。
○『「戲考」』「上海游記」の「十 戲臺(下)」にも現れるこれは、王大錯の編になる全40冊からなる膨大な脚本集(1915~1925刊)で、梗概と論評を附して京劇を中心に凡そ六百本を収載する。
○「兵機」は戦略・戦術の意。
○「董家山」岩波版新全集の山田俊治氏の注解によると、『金蓮は、容姿、武勇ともに傑れた女傑。領主である父の死後、家臣と山に籠り山賊となり、一少年を捕虜とする。彼を愛して結婚を強要、その後旧知の間柄とわかり結ばれる』というストーリー。
○「轅門斬子」は「えんもんざんし」と読む。別名「白虎帳」。野村伸一氏の論文「四平戯――福建省政和県の張姓宗族と祭祀芸能――」(PDFファイルでダウンロード可能)によると、『宋と遼の争いのなか、楊延昭は息子の楊六郎(宗保)を出陣させる。ところが、敵の女将軍穆桂英により敗戦を強いられ、楊宗保は宋の陣営に戻る。しかし、父の楊延昭は息子六郎が敵将と通じるという軍律違反を犯したことを理由に、轅門(役所の門)において、息子を斬罪に処するように指示する。/そこに穆桂英が現れる。そして楊延昭の部下を力でねじ伏せ、楊六郎を救出する。こののち女将軍穆桂英と武将孟良の立ち回りが舞台一杯に演じられる。』(改行は「/」で示し、写真図版への注記を省略、読点を変更した)とあり、岩波版新全集の山田俊治氏の注解では、宋代の物語で、穆桂英は楊宗保を夫とし、楊延昭を『説得して、その軍勢に入って活躍する話』とする。題名からは、前段の轅門での息子楊宗保斬罪の場がないとおかしいので、野村氏の平戯の荒筋と京劇は同内容と思われる。
○「雙鎖山」岩波版新全集の山田俊治氏の注解によると、『宋代の物語。女賊劉金定は若い武将高俊保へ詩をもって求婚、拒絶されて彼と戦い、巫術を使って虜にし、山中で結婚する』とある。
○「馬上縁」加藤徹氏のHPの「芥川龍之介が見た京劇」によれば、唐の太宗の側近であった武将薛仁貴(せつじんき)の息子薛丁山が父とともに戦さに赴くも、敵将の娘の女傑樊梨花に一目惚れされてしまい、無理矢理夫にされてしまう、とある。岩波版新全集の山田俊治氏の注解によると、二人は前世の因縁で結ばれており、梨花はやはり仙術を以って丁山と結婚を遂げるとある。
○「胡適」は「こせき」(又は「こてき」とも)(Hú Shì ホゥ シ 1891~1962)。中華民国の学者・思想家・外交官。自ら改めた名は「適者生存」に由来するという。清末の1910年、アメリカのコーネル大学で農学を修め、次いでコロンビア大学で哲学者デューイに師事した。「六 域内(上)」の「白話詩の流行」の注でも記したが、1917年には民主主義革命をリードしていた陳独秀の依頼により、雑誌『新青年』に「文学改良芻議」をアメリカから寄稿、難解な文語文を廃し口語文にもとづく白話文学を提唱し、文学革命の口火を切った。その後、北京大学教授となるが、1919年に『新青年』の左傾化に伴い、社会主義を空論として批判、グループを離れた後は歴史・思想・文学の伝統に回帰した研究生活に入った。昭和6(1931)年の満州事変では翌年に日本の侵略を非難、蒋介石政権下の1938年には駐米大使となった。1942年に帰国して1946年には北京大学学長に就任したが、1949年の中国共産党国共内戦の勝利と共にアメリカに亡命した。後、1958年以降は台湾に移り住み、中華民国外交部顧問や最高学術機関である中央研究院院長を歴任した(以上の事蹟はウィキの「胡適」を参照した)。芥川龍之介はこの中国旅行の途次、北京滞在中に胡適と会談している(芥川龍之介「新芸術家の眼に映じた支那の印象」にその旨の記載がある)。
○「四進士」恐らく4人の登場人物の数奇な運命を描く京劇。岩波版新全集の山田俊治氏の注解によると、『明代の物語で、楊素貞が夫の死後身売りされ、商人と結ばれ、彼女を陥れた悪人を懲す話』で、外題にある四人の同期に科挙に登第した進士は、一人を除いて悪の道に入ってしまうといった『複雑な筋に比して、正邪が明確で、情節共に面白く、旧劇中の白眉と胡適が推称した』と記す。
――最後に。この「彼女」は誰(たれ)よりも美しい!
・「楊小樓」(Yáng Xiáolóu ヤン・シィアオロウ 1877~1937)、本名楊嘉訓は京劇武生(立ち回りを主とする武将・侠客の男性役で地声を使用)の名優。梅蘭芳・余叔岩とともに当時の京劇界の「三賢」の一人とされ、また「武生宗師」として京劇の正統的武生としての『楊派』を創始した。芥川が辻の掛け声の段で後掲する「三国志演義」の「長坂坡」の趙雲や、梅蘭芳と共演した名演「覇王別姫」の項羽が当り役であった。因みに岩波版新全集の細川正義氏の注解では『花旦(なまめかしい女性にふんする女形)の名優』と注するが、これは行者が大立ち回りの末に嬌声を上げて絶命する、楊小樓にとってとんでもない誤注となっている。
・「東安市場」北京最大の繁華街、東城王府井大街路の東長安門に面した大市場。現在は地下で繋がるランドマーク新東安市場に拡張され、2008年にはお洒落に「北京apm」(amからpmまでの意で夜の方に重点を置いた新しいスタイルのデパート・プロジェクトの名)と改名している。
・「吉祥茶園」王府井金魚胡同にあった老舗の劇場。1990年代後半に取り壊されたが、2001年に再建が始まり、現在、再び「吉祥戯院」として営業している。
・「余叔岩」(Yú Shūyán ユィ シゥイェン 1890~1943)本名余第祺は中華民国初期の老生(髭を付けた中高年の男性役で地声を使用)の名優「四大須生」(余叔岩・馬連良・言菊朋・高慶奎)の一人(「須生」は京劇で顔に隈取をせず髭をつけている役を言う)。
・「尚小雲」(Shàng Xiáoyún シァン シィアオユィン 1899~1976)本名尚徳泉は名花旦。若い頃は武生を学んだが、後に花旦となった。後に自身の劇団も結成したが、その芸風は武生経験を生かし、武功に優れた列女や貞操を堅固する節婦役を得意とした。後年は後進京劇俳優の指導育成にも力を注いだ。
・「前門外の三慶園」「前門外」は北京正陽門の大柵欄を言う。ここは古くから芝居小屋の並ぶ地域であったが、その中でもここにあった三慶園は老舗であった。
・「醉顏酡たる」「酡」は酒に酔って顔が赤らむさまを言う語。
・「芭蕉扇」唐扇の一種。単子葉植物綱ショウガ亜綱ショウガ目バショウ科バショウMusa basjooの葉鞘で作った円形のもの。
・「樊半山」(Fán Bànshān ファン パンシァン 1846~1931)本名樊増祥。樊山は号。清末から中華民国初期の著名な文人。秦剛氏の「芥川龍之介が観た 1921年・郷愁の北京」では、『生涯にわたって日常茶飯事的に詩を作り、詩作3万首、駢文百万言を残した当代きっての詩宗であった。民国時代には遺老として閑居し、詩酒と観劇を嗜む晩年を送った。』と事蹟が綴られ、『劇場というもっとも市井的な空間において、昔ながらの旧派文人の悠々と観劇する一瞬の横顔から、芥川は中国の伝統的な詩文精神の一端を垣間見たのである。』と結ばれている。
・「當年の醉李白」天馬空を翔ぶが如き飄々とした文士樊半山(当時75歳)を見て、酒好きであった酔った詩仙李白の面影を見た語。もし半山に囁いたら、きっと呵呵大笑、この痩身の有為の日本人青年作家と酒を交わしたに違いない。芥川よ、惜しかったね!
・「疎髯」まばらに生えたひげ。
・「揚州の鹽務官高洲太吉氏」の「鹽務官」は鹽務署の署長。中国では製塩は漢の武帝以来(当時は匈奴との戦乱による財政再建のため)、中華民国に至るまで官営であり、その産塩や品質の管理・個人製塩や盗難の防止・販売流通・塩に関わる徴税その他塩に関わる一切の行政権を掌る役所を塩務署と称した。「高洲大吉」は高洲太助の誤り。中文個人ブログ「三風堂」の「日本人高洲太助在揚州」(元は簡体字表記)に本篇の記載も含めて詳細な記事が載り、そこに「高洲太助」と明記、現在、揚州にある「萃園」という庭園がこの「高洲太助」なる人物の旧居であるらしい。更に、国立公文書館アジア歴史資料センターの検索をかけると52件がヒットし、明治39(1906)年に「清国杭州駐在領事高洲太助」宛委任状、明治40(1907)年に「清国長沙駐在領事高洲太助」宛委任状、ここや京都大学東南アジア研究センター『東南アジア研究』18巻3号(Dec-1980)中村孝志『「台湾籍民」をめぐる諸問題』(リンク先はHTMLバージョン)という論文の中にも、明治43(1910)年1月・12月・翌1911年1月附で日本の台湾領有によって生じた台湾籍民についての外務省機密文書が福建省の『福州領事高洲太助』なる人物に示されたことが記されている。この人物は同姓同名で同一人物である可能性が極めて高い。「江南游記」の「二十三 古揚州(上)」を参照。地名の「揚州」についてもそちらを参照されたい。
・「聽花散人」「散人」は一般名詞としては俗世間に捉われず、暢気に暮らす人。また、官に就かない在野の人を言うが、そこから文人墨客が通常は自分の雅号に添えて風狂を自称するのに用いる。ここは恐らく、芥川が辻武雄の号である聽花に添えて、京劇の通人として敬意を表したものであろう。
・『「支那劇五百番」』波多野乾一著、大正11(1922)年支那問題社刊。
・『「綴白裘」』清代(1823)に成された昆曲集成(旧劇の台詞断片を含む)。玩花主人(かんかしゅじん)及び銭徳増編、共賞斎蔵版刊。12冊48巻。
・「兩帙」「帙」は和綴本の損傷を防ぐために包む厚紙に布を貼った覆いのことで、和本を数える際の単位。但し、「綴白裘」12冊48巻と大著であり、芥川が近代の2巻活字本を持っていたと合理的に考えるより、恐らく「綴白裘」全巻で、暗にそれを所持している(かとうかは確認していないが)自身の劇通を誇示しているのである。
・『「中國劇」』辻聴花著、大正9(1920)年順天時報社刊。
・『「支那芝居」』辻聴花著、大正12~13(1923~1924)年支那風物研究会刊。全2巻。同車の『支那風物叢書』第4編及び6編。
・「順天時報社」北京で発刊された日刊中国語新聞『順天時報』(1901~1930)の日本人中島真雄なる人物の経営した新聞社。通常のニュース以外に京劇の劇評や俳優関連の記事等が載っていたものらしい。赤字経営で後に日本外務省に売却しているが、彼中島真雄は大陸にあって、ある種の政治的な役割をも担っていた人物と思われる。後の奉天の『満州日報』の創刊者でもあり、私には謂わば、芥川の『支那游記』に見え隠れする無数の、「怪しい中国人」ならぬ「怪しい日本人」の一団の一人に見える。因みに、芥川龍之介の「馬の脚」には実名の新聞名で出る。
・「天公」中国での世界の創造主(神)の意。
・「支那風物研究會」「一 雍和宮」に登場した中野好漢が主催した民俗学的な在野研究組織。月刊の『支那風物叢書』を出版する予定であったが、13編まで出して終わっている(筑摩全集類聚版脚注には6編とあるが、誤り)。
・『「火焰山」』現在の京劇「孫悟空三借芭蕉扇」の古形か。「西遊記」の中でも人気の一場。孫悟空が火焔山の火を消すため、牛魔王の家に芭蕉扇を借りに行くも、牛魔王は不在。懇請する妻の鉄扇姫は、自分の息子が孫悟空との戦いで負けた遺恨から、逆に悟空に対決を挑む。二人の丁々発止の乱闘が見せ場。因みに、私は敦煌へ行き、実際の火焔山を見たが、それは灼熱の実際の熱さ故より、急斜面を穿った水脈の跡がまこと火炎の燃え上がる形に確かに見えた。
・「斉天大聖」孫悟空が作中で名乗った称号。天にも斉(ひと)しい大聖者の意。暴れん坊の悟空を懐柔するために天に召された彼は、最初、与えられた地位が低いことに不満で脱走、仕方なく彼の望むこの不遜な称号を貰って、天の百薬である桃の園の番人になるが、その霊薬たる桃をありったけ食って手の付けられない万能の猿になって、御存知のように自由自在に暴れ回ることとなる。私はこの京劇をテレビで見たことがあるが、悟空役が上手ければ面白い芝居である。私はそれを見ながら、エノケンの孫悟空はやっぱり絶品だったな、などと何処かで思っていた。
・「羅刹女」通常この語は女性の羅刹天(鬼神)を指す普通名詞であるため、専ら「鉄扇公主」(てっせんこうしゅ)または「鉄扇仙」の名で呼ばれる。以下、ウィキの「羅刹女」の「あらすじ」が格好のここの注になるので、そのまま引用する(段落は/で示した)。『第59回「唐三蔵、火焔山に路を阻まれ孫行者ひとたび芭蕉扇を調しとる」から第61回に登場。火焔山より西南に千四五百里もの先にある翠雲山芭蕉洞に住み、火焔山の燃え盛る炎を消すことが出来る秘宝・芭蕉扇を持つ。牛魔王の妻であるが、牛魔王が愛人の玉面公主(正体は玉面狸)を作って芭蕉洞へ帰って来ないため不機嫌を募らせていたところに孫悟空が芭蕉洞を訪ね、火焔山の炎を消すために芭蕉扇を借りたいと頼み込む。ところが鉄扇公主にとって孫悟空は息子である紅孩児の仇であるため、彼女は烈火の如く怒り狂って、追い返そうと二振りの青峰の宝剣をもって襲い掛かる。2人は夕刻まで一騎打ちを続けるも、形勢不利と見た鉄扇公主が芭蕉扇で悟空をあおぎ吹き飛ばしてしまう。/悟空が一晩かかって吹き飛ばされた先は、かつて黄風大王の件で世話になった霊吉菩薩の住む小須弥山であった。悟空から事情を聞いた霊吉菩薩は風鎮めの秘薬「定風丹」を彼に与える。再び芭蕉洞に取って返した悟空は昨日と同じように鉄扇公主を呼び出し、両者は再び一騎打ちを始める。やがてひるんだ彼女は芭蕉扇で悟空をあおぐが、少しも飛ばされる気配が無い。せせら笑う悟空を気味悪がった公主は芭蕉洞に逃げ帰り、堅く扉を閉めてしまった。疲れて喉に渇きを覚えた彼女は、侍女に命じて茶を持ってこさせる。ところが、孫悟空が1匹の虫に化けてお茶に飛び込み、そうとは知らずにお茶を飲んだ鉄扇公主の胃の中で暴れ回ったため鉄扇公主は腹痛に苦しみ、遂にたまりかねて孫悟空に芭蕉扇を渡すと約束するが、その芭蕉扇は偽物であった。/さっそく悟空はそれを持って火焔山に向かうが、偽物であったため逆に火の勢いは強まり、全身に炎を浴び両股の毛まで焦げてしまう。ほうほうの態で引き返してきた彼の前に火焔山の土地神が現れ、公主の夫の牛魔王に頼むよう勧める。しかし悟空が牛魔王を訪ねる途中、玉面公主と偶然いざこざを起こしてしまった為、「俺の妻や妾に無礼を働くとは」と牛魔王とも交渉決裂となってしまった。この後、彼らの間で芭蕉扇をめぐって化けくらべや騙しあいなど、数々の戦いや駆け引きが繰り広げられる。/やがて哪※太子たち天将の加勢もあって牛魔王が捕らえられたので、鉄扇公主も観念して悟空に本物の芭蕉扇を渡し、自らも正しい道に入るべく修行を積むために地上を去った。』[やぶちゃん字注:「※」=[口]+(「託」-「言」)。]。
・「牛魔王」悟空とは以前に義兄弟として天界に反逆した仲であったが、後に悟空が三蔵法師の弟子となった際、息子の紅孩児を観音菩薩の弟子にされてしまう等、その恨みから悟空と仇同士となる。
・「一打十萬八千路」悟空が自在に駆使する乗用出来る筋斗雲(きんとうん)のスピードである。ウィキの「觔斗雲」はウィキならではの頗る級に面白い記載となっている。飲用させて頂く(筆者は俗字の「觔」を用いている)『「觔斗」とは「宙返り」の意であり、孫悟空がより基礎的な雲に乗る術を披露した際にとんぼを切って雲に乗ったのを見た仙術の師である須菩提が、適性を判断して特に授けた術。「觔斗雲の術」は10万8000里/1跳び(=宙返り1回)の速さで空を自在に飛ぶ。つまり、この術の使用中は術者は雲の上でとんぼ返りを切り続けることになり、猿の妖仙である孫悟空に実に相応しく、逆に、他の誰にも似つかわしくない術である。当然ながら、西遊記の演劇、ドラマ、映画、漫画、アニメなどのビジュアル化作品において、この設定が忠実に再現された事はほとんどない。京劇においては、斉天大聖が雲に乗る際に宙返りを披露することはこの役での見せ場の一つとされている。西遊記の孫悟空の行動や仕草には、このように実在の猿の行動を観察して取材されたと思われる描写が多い。』『中国の古い「里」は約560mなので、10万8000里はおよそ6万500㎞、宙返り1回を1秒とすると、觔斗雲の速度はおよそマッハ17万6000、光速のほぼ20%(秒速6万㎞)となる。また、この10万8000里という距離は、西遊記において唐から天竺への取経の旅の行程距離ともされているが、これは地球一周半の距離であり、中国文学らしい途轍もない誇張である。』世の注なるもの、こんな記載を心掛けたいもの。学校の授業もこうなれば、みんな聴いてくれるはず。因みに「一打」の「打」は、この説明にある、雲の上でとんぼ返りを「打つ」ことの数詞、若しくは「トンボを切る」という動作の代動詞的数詞である。
・「鬼門道」中国の舞台の登退場口の元曲等に於ける古称。役者の退場(死ぬ)の意を掛ける。加藤徹氏の論文「宗教から初期演劇へ」の中の「初期演劇の気鳴楽器中心主義は、招魂儀礼のなごり」に、これがただの洒落でないことが説明されている。該当部分を引用させて頂く。
[引用開始]
初期演劇の劇音楽以外でみると、祭礼音楽(特にその送葬音楽)、軍楽なども、世界的に気鳴楽器中心主義である。筆者は、ここに問題を解く鍵があると考える。これら弦鳴楽器を排除する傾向の強い音楽には、みな、宗教の影がさしているのである。
初期演劇の本質は「疑似再出生体験」であった。中国劇では、役者が舞台に登場するときの出入口は、その名もずばり「鬼門道」と呼ばれていたが、その「幽霊の出入口」から死者を現世に一時的に復活させるために、劇音楽による「疑似再出生体験」の演出作業が行われたのである。
打楽器は、心臓の鼓動の象徴だった。単旋律による声楽は、産声の再現である。気鳴楽器の音色は、古代人が生命そのものとしてとらえていた呼吸を連想させる。そんな音楽演出において、生命の表象と直接の関係を持たない弦鳴楽器は、邪魔になるだけである。
一言でいえば、初期演劇が弦鳴楽器を排除する傾向を持つのは、古代の招魂儀礼の技術を継承した結果なのである。死者を冥界から舞台上に迎えるという非日常的体験を、観衆に自然に受け入れさせるためには、それなりの心理的演出が必要だった。
[引用終了]
大変、説得力のある説である。そこで、はたと思った。辜鴻銘先生にならって言うと――死の門たる鬼門は生の門たる陰門なり――という訳だ。
・「大殺」大立ち回り。殺陣(たて)の見せ場。
・『「胡蝶夢」』関漢卿(かんかんけい)作の清代の戯曲。「荘子」の「胡蝶の夢」をパロディ化した雜劇。私は本篇を読んで、この話、どこかで読んだという気がしていた。思い出した。これは明代に成立した白話小説「今古奇観」に所収する「荘子休鼓盆成大道」を元としている。「荘子休鼓盆成大道」の梗概を記すと、荘子は妻の田氏を誠意を試さんとして、仙術で仮死状態になってその荘子の魄を棺に横たえる。別に荘子の魂は分身の術によって美少年に変じて楚の王の子孫と称して田氏を弔問する。彼を見た田氏は忽ち少年に恋情を起こす。青年が不治の病と聞くや、荘子の柩を破壊して、荘子の遺骸からその妙薬たる人の脳を取り出して青年に与えようとした途端、そ荘子が柩から立ち上がって一喝、田氏は恥ずかしさのあまり縊死する、というストーリーで全くと言ってよい程、同じなのである。
この、荘子が仮死して、妻が嘆くという設定自体は、「荘子」の「至楽第十八」、荘子が妻を失った際の有名なエピソードの逆パロディでもある。
莊子妻死、惠子弔之、莊子則方箕踞鼓盆而歌。惠子曰、「與人居、長子老身、死不哭亦足矣。又鼓盆而歌、不亦甚乎。」莊子曰、「不然。是其始死也、我獨何能無概然。察其始而本無生、非徒無生也、而本無形。非徙無形也、而本無氣。雜乎芒芴之間、變而有氣、氣變而有形、形變而有生。今又變而之死。是相與爲春秋冬夏四時行也。人且偃然寢於巨室、而我噭噭然隨而哭之、自以爲不通乎命、故止也。」
○やぶちゃんの書き下し文
荘子の妻死す。惠子之を弔す。荘子は則ち方に箕踞(ききよ)し盆を鼓(こ)し、而して歌へり。惠子曰く、
「人と與(とも)に居りて、子を長(そだ)て身を老いしむるに、死して哭せざるは亦足れり。又、盆を鼓して歌ふは、亦甚だしからずや。」
と。荘子曰く、
「然らず。是れ其の始めて死するや、我獨り何ぞ能く概然たること無からんや。其の始めを察するに、而(すなは)ち本(もと)、生、無し。徒(ただ)生無きのみに非ず、而ち本、形、無し。徒(ただ)形無きのみに非ず、而ち本、氣無し。芒芴(ばうこつ)の間に雜(まじは)りて、変じて氣有り。氣、變じて形有り。形、變じて生有り。今、又、變じて死に之(ゆ)くのみ。是れ相與に春夏秋冬の四時の行(かう)を爲すなり。人且に偃然(えんぜん)として巨室(きよしつ)に寢ねんとするに、而も我、噭噭然(けうけうぜん)として、随ひて之を哭するは、自ら以て命(めい)に通ぜずと爲す。故に止(や)めたるなり。」と。
○やぶちゃんの現代語訳
荘子の妻が死んだ。友人の恵子が弔問に訪れてみると、荘子はだらしなく足を崩して胡坐をかき、土の瓶(かめ)をほんほん叩いて拍子をとりながら、楽しそうに歌なんぞを歌っている。恵子は憤慨して、
「夫婦として共に暮らし、二人して子も立派に育て上げ、偕老同穴の睦まじい仲であったのに、その妻がこのように急死しながら慟哭しないというのは、それだけでも不人情と言うに十分である! 加えて、あろうことか、瓶をのほほんと叩いて楽しく歌を歌うとは! 余りに酷(ひど)いと言わざるを得ん!」
すると、荘子は徐ろに答えた。
「そうではないのだよ。妻が亡くなったその折、どうして深い嘆きが私を襲わなかったなどということがあろう! 私は泣かずにはおられなかったよ。――しかし君、考えてみるがよい。総ての始まりというものを考察してみれば、本来、「生」というものは存在しなかった。否、「生」がなかったばかりではない、「形」もなかったのだ。否、元来、「形」もなかったばかりではない、「形」になるべき元素(エレメント)としての「気」さえもなかったのだ。混沌(カオス)の渾然一体の原初の玄妙な状態から、物化という下らぬ変化が起こって「気」が生じ、「気」が変じて「形」となり、「形」が変じて「生」となっただけのことである。そうして――妻の死――それは今、また、たわいのない変化をして「死」へと帰って行ったに過ぎないのだよ。――それこそ正に春夏秋冬の四季が繰り返し巡ってくる「自然」の自然な流れと同じことを繰り返しているということだ。――その「自然」という壮大な悠久のこの大自然という「部屋」の中にあって、人が安らかな眠りにつこうとしている――それだのに、大声を張り上げて泣き叫ぶというのは、どう考えても「自然」の摂理に反している――私はそれを知ったのだ。だから私は泣き叫ぶのをやめたのだ。」
と。
更に、加藤徹氏のHPの「芥川龍之介が見た京劇」によれば、『新中国成立後は淫戯として上演禁止になったが、外国人の間では評価が高く、例えばアメリカの舞台芸術高級研究所(Institute for Advanced Studies in Theater Arts)では、A・C・スコット教授の指導のもと、京劇版『胡蝶夢』をアメリカ人俳優を使って公演して好評を博した(一九六一)。』とある。
・「それから目ばかり大いなる美人の莊子と喋喋喃喃するはこの哲學者の細君なるべし」言わずもがなであるが、ここは「それから、目ばかりが大きい美人で」(「の」は同格の格助詞)、「莊子と楽しげに会話を交わしている美人は、この哲學者の細君であるに違いない」の意。荘子が眼が大きい才人な訳ではない。
・「六月の天」芥川龍之介の北京滞在は6月11日(又は14日)~7月10日であるが、本篇冒頭の注で推測したように、本篇の経験はその6月19日前後と考えられ、正しく6月の季節というに相応しい。
・「火取蟲」灯火に集まってくる夜行性の昆虫の総称。子役の演技のなさ、可愛げのなさに胡蝶ならぬ、おぞましい大きさのおぞましい蛾であると言いたいのであろう。
・「楚の公子」荘子は宋の出身であるが、楚の威王に宰相を懇請され、けんもほろろに拒絶するという「秋水第十七」の以下の著名なエピソードに基づくか。
莊子釣於濮水。楚王使大夫二人往先焉曰、「願以竟内累矣。」莊子持竿不顧曰、「吾聞楚有神龜、死已三千歳矣。王巾笥而藏之廟堂之上。此龜者、寧其死爲留骨而貴乎。寧其生而曳尾於塗中乎。」二大夫曰、「寧生而曳尾塗中。」莊子曰、「往矣。吾將曳尾於塗中。」
○やぶちゃんの書き下し文
莊子、濮水(ぼくすい)に釣す。楚王、大夫(たいふ)二人をして往かしめ、先(みちび)かしめて曰く、
「願はくは竟内(けいだい)を以て累(わづら)はさんことを。」
と。莊子、竿を持ちながらにして顧みずして曰く、
「吾れ聞く、楚に神龜有り、死して已に三千歳、王、巾笥(きんし)して之を廟堂の上に藏すと。此の龜は、寧ろ其の死して骨を留めて貴(たふと)ばるることを爲さんとするか、寧ろ其の生きて尾を塗中(とちゆう)に曳かんとするか。」
と。二大夫曰く、
「寧ろ生きて尾を塗中に曳かん。」
と。莊子曰く、
「往け。吾れ將に尾を塗中に曳かんとす。」
と。
○やぶちゃんの現代語訳
荘子は濮水の畔りで釣りをしていた。丁度その時、楚の威王は二人の重臣を遣わして、招聘させようとした。
「どうか、国内(くにうち)のすべてのことを、貴方に委ねたい――宰相としてお呼びしたい――との王のお言葉です。」
と。しかし、荘子は釣竿を執ったまま、振り返りもせずに、こう訊ねた。
「――聞くところによると、楚の国には神霊の宿った亀がおり、かれこれ死んでから、とうに三千年、王はそれを絹の袱紗(ふくさ)に包んで厳かな箱(ケース)に収め、祖霊を祭る最も神聖な霊廟殿上に大事にお守りになられているらしいのう。――さても、お主ら、この亀の身になって考えて見よ――亀は自ら、殺された上にただ甲羅のみを残して、尊崇されることを望むであろうか? それとも――ほれ、見るがよい、この水辺に亀がおる――生き永らえて、このように自由気儘、泥の中に気持ちよく尾を引きずって、遊ぶことを望むであろうか?」
と。二人の重臣は口を揃えて答えた。
「それは、やはり、生き永らえて泥の中に尾を引きずって遊ぶことを望むものと存知ます。」
すると荘子はきっぱりと答えた。
「帰られい。儂もまた、正に泥の中に尾を引きずって生きて行こうとする者じゃて、の。」
と。
「公子」は本来は貴族の師弟の意であるから、威王の名代でやってきた貴族、王家の血筋を引く貴族という設定か。後述される脳味噌の話も、私には、芥川が「江南游記」の「二 車中(承前)」で『腦味噌の焦げたのは肺病の薬だ』と語る人肉食や人血饅頭(マントウ)の話よりも、実は魯迅も「起死」でインスパイアした「至楽第十八」の有名な以下の話と何故かイメージがダブるのである。
莊子之楚、見空髑髏。髐然有形。撽以馬捶、因而問之曰、「夫子貪生失理、而爲此乎。將子有亡國之事・斧鉞之誅、而爲此乎。將子有不善之行、愧遺父母妻子之醜、而爲此乎。將子有凍餒之患、而爲此乎。將子之春秋故及此乎。」於是語卒、援髑髏、枕而臥。夜半、髑髏見夢曰、「子之談者似辯士、視子所言、皆生人之累也。死則無此矣。子欲聞死之説乎。」莊子曰、「然。」髑髏曰、「死、無君於上、無臣於下。亦無四時之事、從然以天地爲春秋。雖南面王樂、不能過也。」莊子不信曰、「吾使司命復生子形、爲子骨肉肌膚、反子父母・妻子・閭里知識、子欲之乎。」髑髏深矉蹙曰、「吾安能棄南面王樂而復爲人間之勞乎。」
○やぶちゃんの書き下し文
莊子楚に之(ゆ)くに、空髑髏(くうどくろ)を見る。髐然(けうぜん)として形有り。撽(う)つに馬捶(ばすい)を以てし、因りて之に問ふて曰く、
「夫れ、子は生を貪りて理を失ひ、而して此れと爲れるか。將(あるひ)は、子に亡國の事(こと)・斧鉞(ふえつ)の誅有りて、而して此れと爲れるか。將は、子に不善の行ひ有りて、父母妻子の醜を遺さんことを愧(は)ぢて。而して此れと爲れるか。將は子に凍餒(とうだい)の患(うれ)ひ有りて、而して此れと爲れるか。將は子の春秋、故より此れに及べるか。」
と。是に於いて語り卒(をは)り、髑髏を援(ひ)きて、枕して臥す。
夜半、髑髏、夢に見(あら)はれて曰く、
「子の談は辯士に似るも、子の言ふ所を視れば、皆生人の累(わづら)ひなり。死すれば則ち此れ無し。子、死の説を聞かんと欲するか。」
と。莊子曰く、
「然り。」
と。髑髏曰く、
「死、上(かみ)に君無く、下(しも)に臣無し。亦四時の事無く、從然(しやうぜん)として天地を以て春秋と爲す。南面の王の樂しみと雖も、過ぐる能はざるなり。」
と。莊子信ぜずして曰く、
「吾れ、司命をして、復た子の形を生じ、子の骨肉肌膚を爲(つく)り、子の父母・妻子・閭里(りより)の知識に反(かへ)せしめんとす、子は之を欲するか。」
と。髑髏、深く矉蹙(ひんしゆく)して曰く、
「吾れ安くんぞ能く南面の王の樂しみを棄てて、復た人間(じんかん)の勞を爲さんや。」
と。
○やぶちゃんの現代語訳
ある時、荘子は楚の国への旅の途中、道端に野ざらしになった空ろな髑髏(しゃれこうべ)を見つけた。カサついて光沢もないが、曲がりなりにも人ひとり分の欠けのない髑髏である。手にした馬の鞭でそれを軽く叩きながら、荘子は髑髏に語りかけた。
「御仁、――一体、貴方は、生を貪って道理を踏み外し、かくなり果てたのか――はたまた、貴方は、己が国の滅亡を目の当たりにし、戦場で切り刻まれて、かくなり果てたのか――はたまた、貴方は、悪事を働いてしまったがため、それで父母や妻子にまで恥を残すことになるのを羞じて、かくなり果てたのか――はたまた、貴方は、私のような旅の途次、餓凍の災難に遭遇し、かくなり果てたのか――はたまた、貴方の寿命は、もとよりここまでのものでしかなかったから、かく成ったのか――」
――語り終わった荘子は、この髑髏を引き寄せると、それを枕にして横になった。――
その夜半のことである。――
荘子の夢にその髑髏が現れると、こう語りかけてきた。
「――お主(おぬし)の語りは、美事な弁士のようじゃった。――しかし、お主の言うこと、よおく考えて見るがよい、それはのう、皆、生きている人間、この俗世というものの患いに過ぎぬのじゃ。――死んでしまえばそんなものは、総てなくなる。――お主、死の世界の話を聞きたいかね?――」
荘子は
「如何にも。」
と応えた。髑髏は語る。
「――さても、死の世界には、上に君主も下に臣下もない、四季の区別もない、ただただ心が遙か無限の彼方に広がって悠久の天地と一体となり、その永遠の時間を以て四季としている。――この楽しさは、人の世の南面する王者の楽しみと雖も、なかなか、この至福には及びもつかぬものじゃわい――」
荘子は、しかし、聴きながら、なお信じかねて口を挟んだ。
「――御仁よ、――私は仙術を心得ておる、――だから私は、寿命を司る地獄の司命に乞うて、御仁の魄たる生身の肉体を蘇生させ、御仁を元の父母や妻子、故里の友どちのもとへとお帰ししようと思うておるのだが、――御仁は、それを望まれるか?」
すると、髑髏は激しく顔を歪め、
「――愚かな!――何故に、儂が南面の王者に過ぐる愉楽を捨て、疲勞と倦怠とそうして又不可解な、下等な、退屈な人生という馬鹿げた苦痛を、もう一度繰り返すことを選ぶはずが、どうしてあろう!――」
と、答えた――かと思うた、その時――荘子は、先ほどと同じ野中に、夜露にしとど濡れて髑髏を枕にしているたった一人の自分を見出したのであった。――
因みに私は荘子が大好きなのである。
・「好(ハオ)!」“hǎo!”は「いいぞ!」「上手い!」「千両役者!」という掛け声。
・「匹」対等のもの。並ぶもの。
・「長坂橋頭蛇矛を横へたる張飛の一喝」「三国志」の中でも有名な場面で、京劇でも人気のシーン。ウィキの「張飛」の該当箇所から引用する。『208年、荊州牧・劉表が死ぬと、曹操が荊州に南下する。曹操を恐れた劉備が妻子も棄てて、わずか数十騎をしたがえて逃げ出すという有様の中、張飛は殿軍を任され、当陽の長坂において敵軍を迎えた(長坂の戦い)。張飛は二十騎の部下とともに川を背にして橋を切り落とし、「我こそは張飛。いざ、ここにどちらが死するかを決しよう」と大声でよばわると、曹操軍の数千の軍兵はあえて先に進もうとはせず、このために劉備は無事に落ち延びることが出来た』。「当陽の長坂」とは、荊州(現・湖北省)南郡当陽県の長坂坡(ちょうはんは)。「蛇矛」は蛇のように長い矛のこと。
・「惘れて」「惘」(音ボウ・モウ)は本来は、ぼーっとする、うっとりする、ぼんやりするの意であるが、国字として、あきれる、ことの意外なさまに驚くの意が生まれた。
・「不准怪聲叫好」訓読すれば「怪聲(くわいせい)好(かう)と叫(よ)ぶことを准(ゆる)さず」で、「奇矯な発声で『好(ハオ)!」』と掛け声を掛けてはならない」の意。
・「アナトオル・フランス」Anatole Franceアナトール・フランス(1844~1924)はフランスの小説家・批評家。本名Jacques Anatole François Thibaultジャック・アナトール・フランソワ・ティボー。1921年ノーベル文学賞受賞。芥川が敬愛した作家で、若き日には彼の“Balthazar”(1889)を『新思潮』(大正3(1914)年)に翻訳しており(題名「バルタザアル」)、「侏儒の言葉」ははっきりと“Le Jardin d'Épicure”「エピクロスの園」(1895)を意識して書かれている。
・「印象批評論」既成の一般的普遍的に定まっている評価規準を排して、読者個人が読んだ際の主観的好悪や感懐を中心にして行われる芸術批評の一方法。以下、「日本大百科全書」の船戸英夫氏の「印象批評impressionistic criticism」記載を全文引用しておく。
芸術作品が個々の批評家の感性や知性に与えた印象または感動によって評価する批評。これは19世紀後半から20世紀にかけて行われた批評方法であり、アリストテレスの『詩学』、ホラティウスの『詩論』としてその系譜に属する18世紀の批評があまりにも方則を厳守する態度であったのに対して、個性的な想像力や感性を重視した批評である。とはいっても軽薄な恣意(しい)的、思い付き的な批評ではなく、哲学的、審美的思考を長く続けたうえでの、また多くの作品に触れたうえでの自己裁断であって、フランスではサント・ブーブ、アナトール・フランス、イギリスではコールリッジ、ハズリット、マシュー・アーノルドなどによる批評がそれであり、とりわけ世紀末における唯美主義、絵画の印象主義などによってウォルター・ペイターやオスカー・ワイルドに完成をみた。20世紀の「新批評」はこれに対する科学主義だが、批評家の主観的印象を重視するこの立場は依然有力であり、日本では小林秀雄の批評にその優れた例をみる。』
因みに、私は小林秀雄が大嫌いである。
・「梆子」中国劇で用いられる舞台楽器で、竹製の拍子木の一種。
・「秦腔」は現在の陝西省・甘粛省・青海省・寧夏回族自治区・新疆ウイグル族自治区等の西北地区で行われている最大最古の伝統劇の名。京劇を中心としたあらゆる戯形態に影響を与えたことから「百種劇曲の祖」と呼ばれる。前掲のナツメの木で作った梆子を用いることから「梆子腔」という呼び方もある。その歌曲は喜怒哀楽の激しい強調表現を特徴とする(以上は「東来宝信息諮詢(西安)有限公司」の公式HPの「西安・陝西情報」→「民間藝術」にある「秦腔」の記載を参照した)。]
以下、4名の昆曲の俳優の記載があるが、その多くを加藤徹氏のHPの「芥川龍之介が見た京劇」の記載を参照し、各人のほぼ全文を引用したことを断っておく(『 』(加藤徹氏)が直接引用部)。それには実は私なりの意味がある(安易にコピー・ペーストしている訳ではないということである)。それは注の最後に記す。
・「韓世昌」(Hán Shìchāng ハン シチァン 1897 or 1898~1977)。崑曲の名花旦。『「北崑」すなわち北中国の崑曲の名優で、河北省高陽県河西村の人。『胡蝶夢』で荘子の妻の役を演じた。彼は貧農の家に生まれ、幼時から科班で崑曲を、陳徳霖に京劇を習った。芥川が自殺した翌年の二八年十月に日本公演を果たす。日中戦争中は舞台を自粛し、京劇女優の言慧珠や朝鮮舞踏家の崔承喜など若手の教育に専念。新中国成立後は、北方崑曲劇院院長を勤め、六〇年に中国共産党に入党。政治協商会議委員や中国戯劇家協会理事など、要職を歴任した』(加藤徹氏)。この昭和3年の彼の日本公演は満鉄肝いりの情宣活動の一環で、韓世昌はそれに利用されたのであった。
・「陶顕亭」陶顕庭(Táo Xiăntíngタオ シィエンティン 1870~1939)の芥川の誤記。『北崑の俳優、河北省安新県の人。『胡蝶夢』で荘子を演じた。孫悟空ものなどで人気を保ち続けたが、三七年に日中戦争が始まると、髭を伸ばし、日本人のために舞台に立つことを拒否した。三九年秋、天津で水害にあって困窮。その直後、故郷の家が日本軍の侵攻によって消滅したことを聞き、にわかに病を発して倒れ、その翌日に急死。』(加藤徹氏)。
・「馬夙彩」馬鳳彩(Mă Fèngcăi マ フェンツァイ 1888~1939)の芥川の誤記。『北崑の俳優で、韓世昌と同じ村の出身。『胡蝶夢』で楚の公子を演じた。二八年には韓世昌とともに日本公演に参加。三七年、天津で崑曲の科班の教師となるが、ほどなく日中戦争が勃発して科班は解散。彼は生徒が故郷に帰るのを護送し、そのまま郷里で病没。』(加藤徹氏)。文中の「科班」は昔の京劇俳優養成所のこと。
・「老胡蝶」私はこの「胡蝶夢」を見たことがないのでこの配役が如何なるものか、不詳。ご存知の方、どうかお教えあれ。
・「陳榮會」(Chén Rónghuì チエン ルンホェイ 1873~1925)『北崑の俳優、河北省三河県の人。『胡蝶夢』で老胡蝶を演じた。芥川が舞台を見た四年後に病死。』(加藤徹氏)。
附記:加藤徹氏は、「芥川龍之介が見た京劇」のこれらの記載の前に、私には正に甚だ共感出来る感懐を述べておられる。それを引用してこの極めて長大となった本注の結びとする。
[引用開始]
『『胡蝶夢』に関心を持った芥川の深層心理では、もしかすると、このときすでに、六年後の自殺にむけての時限スイッチが入っていたのかもしれない。
芥川が『支那游記』で名前をあげている『胡蝶夢』の出演者四人のうち、二五年に死んだ一人をのぞく三人が、三七年からの日中戦争で被害を受けた。』
[引用終了]
補足すれば、本「北京日記抄」冒頭注で述べた通り、本作自体はもっと後、恐らく大正14(1925)年5月中の執筆になる。だとすれば、或る意味、ここは――2年後の自殺にむけての時限スイッチはもう僅かに秒針を動かすばかりであった――と言い換えてさえよいように、私は思うのである――]