結局こんなことでは鬱は消えずに終わった――芥川龍之介中国旅行関連書簡群 打留
さてもこれに僕の注を附して、近日公開予定――
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九一四 六月十四日
北京から 芥川道章宛
北京着山本にあひました唯今支那各地動亂の兆あり餘り愚圖々々してゐると、歸れなくなる惧あれば北京見物すませ次第(大同府の石佛寺まで行き)直に山東へ出で濟南、泰山、曲阜、見物の上、青島より海路歸京の筈、滿洲朝鮮方面は一切今度は立ち寄らぬ事としましたその爲旅程は豫期の三分の二位にしかなりませぬが、やむを得ぬ事とあきらめます今度の旅(漢口より北京まで)は至つて運よく、宜昌行きを見合せると宜昌に掠奪起り、漢口を立てば武昌(漢口の川向う)に大暴動起り(その爲に王占元は部下千二百名を銃殺したと云ふ一件)すべて騷動が僕の後へ後へとまはつてゐますこれが前へ前へまはつたら、どんな目にあつたかわかりません體はその後ひき續き壯健この頃は支那の夏服を着て歩いてゐます支那の夏服はすつかり揃つて二十八圓故、安上りで便利ですしかも洋服より餘程涼しい北京は晝暑くても夜は涼しい所です六月末か遲くも七月初には歸れますからそれが樂しみです。山東は殆日本故、濟南へ行けばもう歸つたやうなものです。漢口よりの本屆きましたかあれは運賃荷造り費共先拂ひ故よろしく願ひますまだ北京でも本を買ひます叔母さんにさう云つて下さい袋はとうとう使はずじまひです。南京蟲に食はるのなぞは當り前の事になつてしまひました。僕が東京へ歸る日は前以て電報を打つ故皆うちにゐられたし伯母さんもその日は芝へ行かずにゐられたし芝と云へば弟は眞面目に商賣をやつてゐますか 以上
六月十四日 芥川龍之介
芥川皆々樣
二伸 文子雜誌に何か書いた由諸所の日本人より聞き及びたれどまだ僕自身は讀まず惡い事ならねば叱りはせねど餘り獎勵もせぬ事とは存ぜられたし山本瑤子よりは芥川比呂志の方利巧さうなりもう立てるやうになりしや否や
九一五 六月十四日
北京から 岡榮一郎宛 (絵葉書)
北京着北京はさすがに王城の地だ此處なら二三年住んでも好い
夕月や槐にまじる合歡の花
六月十四日 東單牌樓 我鬼生
九一六 六月二十一日
北京から 室生犀星宛 (繪葉書)
拜啓北京にある事三日既に北京に惚れこみ侯、僕東京に住む能はざるも北京に住まば本望なり昨夜三慶園に戲を聽き歸途前門を過ぐれば門上弦月ありその景色何とも云へず北京の壯大に比ぶれば上海の如きは蠻市のみ
九一七 六月二十四日
北京から芥川宛(繪葉書)
ボク大同へ行かんとする所にストライキ起り汽車不通となる。やむを得ず北京に滯在、漢口より送りし本とどき候や香やこちらはもう眞夏なり、この手紙に返事出す事勿れ返事が來るには十日かかる十日たてばもう北京にゐない故に御座候 以上
下島先生より度々手紙頂き候お禮を申上下され度候
上海より村田君章氏の書を送つた由これ又とどき候事と存じ候
九-八 六月二十四日
日本東京市外田端五七一 瀧井折柴君(繪葉書)
北京は王城の地なり壯觀云ふべからず御府の畫の如き他に見難き神品多し 目下大同の石佛寺に至らむとすれどストライキの爲汽車通ぜず北京の本屋をうろついてゐる 以上
二十四日 龍之介
九一九 六月二十四日
日本東京市外田端自笑軒前 下島勳樣 (繪葉書)
度々御手紙ありがたう存じます 僕目下支那服にて毎日東奔西走してゐます 此處の御府の畫はすばらしいものです(文華殿の陳列品は貧弱)北京なら一二年留學しても好いと云ふ氣がします 又本を買ひこみました
二十四日 我鬼
九二〇 六月二十四日
北京から 中原虎雄宛 (繪葉書)
僕は今北京にゐます北京はさすがに王城の地です、僕は毎日支那服を着ては芝居まはりをしてゐます 以上
六月二十四日 北京東單牌樓 芥川龍之介
九二一 六月二十七日(推定)
日本東京市本郷區東片町百三十四 小穴隆一樣
二十七日 (繪葉書)
花合歡に風吹くところ支那服を着つつわが行く姿を思へ
二科の小山と云ふ人に遇つた君と同郷だと云つてゐた文華殿の畫は大した事なし、御府の畫にはすばらしいものがある畫のみならず支那を是非一度君に見せたい
九二二 七月十一日
北京崇文門内八寶胡同大阪毎日通信部内 鈴木鎗吉樣
七月十一日朝 蠻市瘴煙深處 芥川龍之介
天津貶謫行
たそがれはかなしきものかはろばろと夷(えびす)の市にわれは來にけり
夷ばら見たり北京の駱駝より少しみにくし駿馬よりもまた
ここにしてこころはかなし町行けどかの花合歡は見えがてぬかも
支那服を着つつねりにし花合歡の下かげ大路思ふにたへめや
我鬼戲吟
二伸 波多野さんによろしく
三伸 福田氏(上海)への三弗こちらから送ります 御送に及びません 唯扶桑舘の茶代及女中の心づけを多からず少からず願ひます 多すぎる心配は無用だらうと思ひますが、
それから立つ前中山君に會ひながら扇の御禮を云はずにしまつた よろしく御禮を云つてくれ給へ
索漠たる蠻市我をして覊愁萬斛ならしむ一日も早く歸國の豫定
九二三 七月十二日
天津から南部修太郎宛(繪葉書)
昨日君の令妹の御訪問をうけて恐縮したその時君の手紙も受取つた偉さうな事など云はずに勉強しろよ僕は近頃文壇とか小説とか云ふものと全然沒交渉に生活してゐる、さうして幸福に感じてゐる寫眞中書齋に於ける僕は美男に寫つてゐるから貸してやつても好い窓の所で寫たのは唐犬權兵衞の子分じみてゐるから貸すべからず 以上
九二四 七月十二日
日本東京市本郷區東片町百三十四 小穴隆一君
七月十二日 (繪葉書)
天津へ來た此處は上海同樣蠻市だ北京が戀しくてたまらぬ
たそがれはかなしきものかはろばろと夷(エビス)の市にわれは來にけり
此處にして心はかなし町行けどかの花合歡は見えがてぬかも
天津 我鬼
二伸 一週間後はもう東京にゐる
九二五 七月十二日
天津から 芥川宛 (繪葉書)
今夜半發の汽車にて歸京す暑氣甚しければ泰山、曲阜皆やめにしたり一週間後には必東京にあるべし右とりあへず御報まで
七月十二日 天津 芥川龍之介
九二六 七月
天津から
安徽省蕪湖唐家花園齋藤貞吉樣 (繪葉書)
お前の手紙は英語のイデイオムを使ひたがる特色ありこは無きに若かざる特色なりされど亦お前を愛せしむる特色なり僕はお前の手紙を讀んでお前が一層可愛くなつたお前を可愛がらぬ五郎は莫迦なり僕お前の所へChinese Profilesと云ふ本を忘れたりあの本紀行を書くには入用故東京市外田端四三五僕まで送つてくれ兎に角蕪湖でお前の世話になつた事は愉快に恩に着たき氣がする僕北京で腹下しの爲め又醫者にかかつた今夜歸國の程に上る一週間後はもう東京にゐるべしお前の健康を祈る北京で蝉の聲をききお前を思ひ出した蕪湖には今もブタが横行してゐるだらうな何だかゴタゴタ書いたもう一度お前の健康を祈る僕のやうに腹下しをするなよ さやうなら
天津 我鬼
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芥川龍之介中国旅行関連書簡群 完
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