詩集「血の花が開くとき」 尾形亀之助
私は「血の花が開くとき」を一回通読しましたがその人の詩の境地はそうたやすく第三者に解るものではないのです。しかし幸ひに私はこの詩集から私が曾て見た詩のうちで最もすぐれた詩にふくまるる詩篇を幾つか読むことが出来たことをうれしく思ひます。同時に私は今迄大江君の作品を多く読む機会がなかつたせいもありますが、大江君がさうした詩の作者であることを初めて知つたやうなわけです。
「涙汲む少女と林檎」この詩は大江君の詩境の面白さ(或はよさ)をしめしてゐると同時にはつきりしてゐない半面を十分に示してゐると思ひます。即ち前半(二頁)の不明瞭さと後半(三頁)の明瞭さ面白さであります。
「いのちを与へてゐる少女」第二行の言葉の音楽を聴かして云々がよい言ひあらはしでないと思ひます。紙人形の頰へ桜の花弁をべつたり貼つたその感じを生かして欲しいと思ひます「センダガヤの少女」私の好みで申しますとこのやうな詩は好きです。そして同じ好みから、ここの第四行のときほぐらしてときほぐらして――とダブつてゐる調子はここではない方がよいと思ひます。
「病んでゐた少女」解しやうによつてはこの病んでゐた少女のゐたといふその状態の意味がなんなのかがわからない。勿論この詩の第一行の一部分なのでせう。美しい青年云々といふインネンをつけてゐるので大変ロマンチツクになつてゐますが、このやうな詩はもつと技巧的でないと推奨しにくいのです。ただ別な意味で大江君がこのやうな感じをもつてゐることが友人たちをうれしがらせることと思ひます。
「おかみさんの髪」風の簪がいい。貌の赭くなるのもいいが油をつけなくても太陽で光る ――と理窟ぽくならないことを欲します。
自分がつての事を言つてしまふと、第一節の第三行がいらないし、第二節は第一行だけにしてあとは捨てたいと思ひます。
「おかみさんと赤ん坊」は最後の一行が駄足。この一行の為に甲の詩が乙になつてゐると思ひます。
「逃走者の宿」は何となく半ばな感じを受けます。題そのものも変つてゐて奇妙です。
「光風夢」はよい。この感情がうれしい。
「樹の下で休む貌」面白い感じ方の詩です。ただもつと平易に行の配置を直して欲しい。
「五月と乞食」しつかりした筆致を示してゐます。小供の落した林檎を乞食が手ぎはよくつかまいたので差し出たのにはキヨウタンします。最初の二行は不用。又、父さんがハハハと笑ふところもいらないと思ひます。
「モヒ中毒患者」もつとゆつくりした方法で、もつと技巧的でないと変なことになると思ひます。
「父親」でのローゴクのやうなカナ文字や「兵隊」のポリスは、やはり漢字の方がいいと思ひます。
「精神病者」「病人同志」好ましい作品です。最後の一行はもつとはつきりしてゐる必要があると思ひます。
「孤独な看護婦」「月経」は共に静かなよい詩です。詩といふより散文に近いやうに思はれます。
「影」得難いよい詩です。好きです。「悲劇」「無題」共に好きです。「不愉快な画」面白い詩です。
「悪い夢」の篇の多くは何となく格言に似てゐる感じを受けました。詩としては面白味が十分に感じられませんでした。
しかし、此の種に摂する世の多くの詩篇にくらべればすぐれてゐるばかりでなく大江君の進んでゐる路が他の人々と少々異つてゐることを示してゐるものと思ひます。
「血の花」では「本能のある母」がすてきにいいと思ひました。其他の詩篇は悪い夢の篇のものと同じやうな感じを受けました。
「雪」の篇は凡作。
「春」の篇で「朝の太陽」が大変いいと思ひました。
「不遠慮な春」も相当な作品でありますが、「朝の太陽」にくらべれは劣ります。
「季節の花」もいいと思ひます。
「漁夫の子」「農夫の子」もちょっと心を曳かれますが、感心する程でもないと思ひます。
細かく批評すれは未だ色々と注文する部分があります。全部を通じて大江君は不明な言葉を使ひ過ぎてゐる所があると思ひます。行の切りや配置にもつと注意する必要があると思ひます。
「センダガヤの少女」「孤独な看護婦」「月経」「無題」「季節の花」もよい詩篇でした。
「おかみさんの髪」「おかみさんと赤ん坊」「樹の下に休む貌」「五月と乞食」には多分の注文がありますが、すぐれた詩であると思ひます。
(詩神第五巻第五号 昭和4(1929)年5月発行)
[やぶちゃん注:大江満雄(明治39(1906)年~平成3(1991)年)の処女詩集『血の花が開くとき』(昭和3(1928)年誠志堂書店刊)の詩評。大江満雄は生田春月の『詩と人生』に拠り、プロレタリア詩運動にも参加。戦後はキリスト教徒としてハンセン病患者・元患者の詩雑誌『いのちの芽』の編集に心血を注いだ。「手ぎはよくつかまいた」はママ。]

