北京日記抄 五 名勝 ―― 「北京日記抄」全篇公開終了
五 名勝
萬壽山(まんじゆざん)。自動車を飛ばせて萬壽山に至る途中の風光は愛すべし。されど萬壽山の宮殿泉石は西太后(せいたいこう)の惡趣味を見るに足るのみ。柳の垂れたる池の邊(ほとり)に醜惡なる大理石の畫舫(ぐわぼう)あり。これも亦大評判なるよし。石の船にも感歎すべしとせば、鐵の船なる軍艦には卒倒せざるべからざらん乎(か)。
玉泉山。山上に廃塔あり。塔下に踞(きよ)して北京の郊外を俯瞰す。好景、萬壽山に勝ること數等。尤もこの山の泉より造れるサイダアは好景よりも更に好(かう)なるかも知れず。
白雲觀。洪(こう)大尉の石碣(せきけつ)を開いて一百八の魔君(まくん)を走らせしも恐らくはかう言ふ所ならん。靈官殿、玉皇殿、四御殿(しぎよでん)など、皆槐(えんじゆ)や合歡の中に金碧燦爛(きんぺきさんらん)としてゐたり。次手に葡萄架後(かご)の墓所を覗けば、これも世間並の墓所にあらず。「雲廚寶鼎」の額の左右に金字の聯(れん)をぶら下げて曰、「勺水共飮蓬萊客、粒米同餐羽士家」と。但し道士も時勢には勝たれず、せつせと石炭を運びゐたり。
天寧寺。この寺の塔は隋の文帝の建立のよし。尤も今あるのは乾隆二十年の重修なり。塔は綠瓦(りよくぐわ)を疊むこと十三層、屋緣(をくえん)は白く、塔壁は赤し、――と言へば綺麗らしけれど、實は荒廢見るに堪へず。寺は既に全然滅び、只(ただ)紫燕の亂飛(らんぴ)するを見るのみ。
松筠庵(しようゐんあん)。楊椒山(やうせうざん)の故宅なり。故宅と言へば風流なれど、今は郵便局の橫町にある上、入口に君子自重の小便壺あるは沒風流も亦甚し。瓦を敷き、岩を積みたる庭の前に諫草亭(かんさうてい)あり。庭に擬寶珠(ぎぼうしゆ)の鉢植ゑ多し。椒山の「鐵肩担道義、辣手著文章」の碑をラムプの臺に使ひたるも滑稽なり。後生(こうせい)、まことに恐るべし。椒山、この語の意を知れりや否や。
謝文節公祠(しやぶんせつこうし)。これも外右(がいいう)四區(く)警察署第一半日學校の門内にあり。尤もどちらが家主(いへぬし)かは知らず。薇香堂(びかうだう)なるものの中に疊山(でうざん)の木像あり。木像の前に紙錫(ししやく)、硝子張(ガラスばり)の燈籠など、他(た)は只(ただ)滿堂の塵埃(じんあい)のみ。
窑臺(えうだい)。三門閣下に晝寢する支那人多し。滿目の蘆萩(ろてき)。中野君の説明によれば、北京の苦力(クウリイ)は炎暑の候だけ皆他省へ出稼ぎに行き、苦力の細君はその間にこの蘆萩の中にて賣婬するよし。時價十五錢内外と言ふ。
陶然亭。古刹慈悲淨林の額なども仰ぎ見たれど、そんなものはどうでもよし。陶然亭は天井を竹にて組み、窓を緑紗(りよくしや)にて張りたる上、蔀(しとみ)めきたる卍字(まんじ)の障子を上げたる趣、簡素にして愛すべし。名物の精進料理を食ひをれば、鳥聲頻に天上より來る。ボイにあれは何だと聞けば、――實はちよつと聞いて貰へば、郭公(ほととぎす)の聲と答へたよし。
文天祥祠(ぶんてんしようし)。京師(けいし)府立第十八國民高等學校の隣にあり。堂内に木造並に宋丞相信國公文公之神位(そうじようしやうしんこくこうぶんこうのしんゐ)なるものを安置す。此處も亦塵埃の漠漠たるを見るのみ。堂前に大いなる楡(にれ)(?)の木あり。杜少陵ならば老楡行(らうゆかう)か何か作る所ならん。僕は勿論發句一つ出來ず。英雄の死も一度は可なり。二度目の死は氣の毒過ぎて、到底詩興などは起らぬものと知るべし。
永安寺。この寺の善因殿は消防隊展望臺に用ゐられつつあり。葉卷を啣へて殿上に立てば、紫禁城の黃瓦(くわうぐわ)、天寧寺の塔、アメリカの無線電信柱等(とう)、皆歷歷と指呼すべし。
北海。柳、燕、蓮池(はすいけ)、それ等に面せる黃瓦丹壁(たんぺき)の大淸皇帝用小住宅。
天壇。地壇。先農壇。皆大いなる大理石の壇に雜草の萋萋(せいせい)と茂れるのみ。天壇の外の廣場に出づるに忽(たちまち)一發の銃聲あり。何ぞと問へば、死刑なりと言ふ。
紫禁城。こは夢魔のみ。夜天(やてん)よりも庬大なる夢魔のみ。
[やぶちゃん注:これは最後の芥川龍之介の中国旅行ハイパー総括北京てんこ盛り、彼にしては、やや安易な印象を与えるアフォリズム風の筆致である。
・「萬壽山」北京の西北西郊外にある山。標高約60m。麓の昆明池の湖畔に沿って、1750年に乾隆帝が母の万寿を祝って築造した離宮があったが、アロー戦争末の1860年に英仏連合軍によって焼き払われた。後に西太后が改修、頤和園(いわえん)と名付けた。
・「西太后」(1835~1908)清の第9代皇帝文宗(1831~1861 咸豊(かんぽう)帝)の妃・第10代穆宗(ぼくそう 1856~1875 同治帝)の母。穆宗及び第11代徳宗(1871~1908 光緒帝)の摂政となって彼らを実質的な傀儡にし、政治権力を独占した。洋務派による行政近代化改革であった変法自強運動を弾圧、1900年の義和団の乱では、ヨーロッパ列強に宣戦布告する等、一貫して守旧派の中心にあった。
・「畫舫」は装飾や絵・彩色を施した中国の屋形船。遊覧船。但し、この場合は、本物の「船」ではない。
・「玉泉山」北京市西郊にある丘。前掲の頤和園の西。麓に湧水地があり、玉河と呼称し昆明池に注ぐ。古くは紫禁城の太液池に引かれ、北京市民の飲料水でもあった。名称はこの泉による。市民の行楽地となっており、清の第4代皇帝聖祖(1654~1722 康煕帝)が離宮静明園を造立、第6代高宗(1711~1799 乾隆帝)の天下第一泉碑があり、後には毛沢東が葬られ、その墓所がある。
・「廃塔」乾隆元年である1736年建立された玉泉山玉峰塔のことであろう。北京の磚塔(せんとう:煉瓦造りの塔。)としては貴重なものであるが、現在は軍事施設内にあり、登頂はおろか、立ち入ることも出来ない。
・「白雲觀」現在の北京西城区白雲路にある道教の総本山。739年の創建で原名は天長観と言ったが、1203年に大極宮と改名。1220年代に元の太祖チンギス・ハンが道士丘処机(1148~1227)に全土の道教の総括を命じ、彼は大極宮住持に任命され、長春子と号した。1227年、死去した丘を記念して長春宮と改名されている。以後、戦火によって損壊するが、15世紀初頭、明によって重修され、現在の規模となって名も白雲観と改められた。総面積は10,000m²を越える(以上は真下亨氏の「白雲観」のページを参照した)。
・「洪大尉の石碣を開いて一百八の魔君を走らせし」「水滸伝」の巻頭の重要なエピソード。以下、ウィキの「水滸伝」から該当箇所「百八の魔星、再び世に放たれる」を引用する。『北宋は第四代皇帝仁宗の時代、国の全土に疫病が蔓延し、打てる手を尽くした朝廷は最後の手段として、竜虎山に住む仙人張天師に祈祷を依頼するため、太尉の洪信(こうしん)を使者として派遣する。竜虎山に着いた洪信は様々な霊威に遭うが、童子に化身した張天師と会い、図らずも都へと向かわせることが出来た。翌日、道観内を見学する洪信は「伏魔殿」と額のかかった、厳重に封印された扉を目にする。聞けば、唐の時代に、天界を追放された百八の魔星を代々封印している場所で、絶対に開けてはならないという。しかし、これに興味を持った洪信は道士らの制止も聞かず、権力を振りかざして無理矢理扉を開けさせる。中には「遇洪而開(こうにあいてひらく)」という四文字を記した石碑があり、これを退けると、突如目も眩まんばかりの閃光が走り、三十六の天罡星(てんこうせい)と七十二の地煞星(ちさつせい)が天空へと飛び去った。恐れをなした洪信は、皆にこの事を固く口止めして山を降り、都へ戻った。』。この星の生まれ変わりである百八人が後に梁山泊に結集することとなる。
・「靈官殿」道教で最もポピュラーな守護神王霊官を祀る祭殿。通常、中国の道観では山門を入ってすぐにこの霊官殿がある。王霊官は棒状の鞭を振り上げた三眼有髯の威圧感のある神である。
・「玉皇殿」玉皇上帝・天公等と呼ばれる道教の事実上の最高神である玉皇を祭る祭殿。白雲観の中央に位置する。
・「四御殿」白雲観の一番奥に主殿三清殿と共に本殿を構成する祭殿。「経堂易学教室」の「易占トピックス」の「白雲観を訪ねて」によると、本尊は元始天尊を中央に、左に霊宝天尊、右に道徳天尊の三体を配し、三清と呼ぶ。これは老子の「道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず」という思想に基づくとされる。『元始天尊は無極、霊宝天尊は太極、道徳天尊は陰陽(天地)と老子を象徴し』、『神像の構成は、仏教の釈迦三尊に似』て『仏教の影響が大きい』。『四御は三清を補助する4体の神々で、北極星や自然を神格化したものが多い。このほか、薬王殿、財神殿、非苦殿のような庶民の福禄寿の願いに応える宮殿もある。』とある。
・「金碧燦爛」鮮やかな緑の中に眩しいばかりに金色・紅色の見物が光を放って輝いているという意味であるが、実はこの「金碧」金碧山水で、中国の絵画用語である。山水画の描法の一つを言う。跡見学園女子大学の嶋田英誠氏の「中国絵画史辞典」の「金碧山水」によると、山石や烟霞等を輪郭線で描き、その中を群青・緑青等を用いて塗り込め、その輪郭線の内側に金泥の線或いはぼかしを加える手法である。唐代に完成、宋代に復興した。復興当時はただ着色山水と呼ばれていたが、北宋末から「金碧」の語が用いられ始めた、とある。
・「葡萄架後」葡萄棚の後ろ、の意。
・「雲廚寶鼎」「うんちゆうはうてい」と読む。
・「聯」これは正に対聯で、書画や彫り物を柱や壁などに左右に相い対して掛け、飾りとした細長い縦長の板状のものを合わせて言う語。佐々木芳邦氏の「コラム・中国雑談」の『その18 中国の「対聯」』によれば、本来は春節を祝うものとして飾られ、「春聯」とも言うが、実は対聯と言った場合はもう一枚、その左右の上に貼るものをも含める。向かって右側のものを上聯、左側を下聯、上に張るものを横批と言う。この場合、「雲廚寶鼎」は正に横批相当ということになろう。
・『「勺水共飮蓬莱客、粒米同餐羽士家」』書き下すと「勺水(しやくすゐ)共に飮む蓬莱の客(かく) 粒米同じく餐羽士(さんうし)の家(いへ)」で、意は、「ここで、柄杓ひと掬いの霊水を、仙人の住む東方海上に浮かぶ蓬莱からやってきた客と、分かち合って飲もう。その後のディナーは、その羽化登仙の仙人の彼方の家でいただこうじゃないか」といった意味か。
・「石炭を運びゐたり」ここは勿論、道士の厨房なのであろうが、芥川のこの描写は、もしかすると、ここで一般客相手に食事を供して、営業をしているという事実を受けての表現ではなかろうか。一柄杓(ひとびしゃく)の水と霞なんぞではとっても食っては行けない道士は、せっせと稼ぐために営業用の燃料として石炭を運んでいるというのではなかろうか? 識者の御意見を乞う。
・「天寧寺」北京広安門外にある北魏(386~534)の孝文帝の時代に建てられた寺院。元末の戦火によって塔を残して亡失した。明代に復興して天寧寺と呼ばれたが、芥川の描写からはその後にやはり寺院は衰退したか。8角13層で高さ57.8m。北京で現存する最も高い塔として知られる。
・「隋の文帝」隋の初代皇帝。本名楊堅(541~604 在位581~604)。前注参照。
・「乾隆二十年」西暦1755年。ネット上の情報では乾隆21(1756)年の改修とある。
・「紫燕」通常のスズメ目ツバメ科ツバメHirundo rusticaのこと。現代中国語では「家燕」、この「紫燕」恐らく本邦での燕の異名であろう。黒いことから「玄鳥」とも呼ぶが、ただ黒いのはお洒落じゃないと考えたか。
・「松筠庵」(しょういんあん)は現在の北京市宣武区達智橋胡同にある楊椒山の旧居。楊椒山(1516~1555)は本名楊継盛、椒山は号。明代の忠臣。現地の解説プレートには『権臣の厳嵩が人民を苦しめていたことに対し、「請誅賊臣書」を上書し厳嵩の「五奸十大罪」を指摘したため嘉靖34年に厳嵩により処刑された。年わずか40歳。その後1787年にここは楊椒山祠と改められる。1895年清政府が屈辱的な下関条約を締結した時、康有為ら200人余りが松筠庵に集まり、国土割譲と賠償に反対し変法維新を求めた。すなわち中国近代史上有名な「公車上書」である。』という記載があると、個人ブログ「北京で勇気十足」氏の「北京 散歩 長椿街、宣武門外大街 后孫公園胡同の安徽会館」にある。
・「君子自重の小便壺」「君子自重」は「紳士ならば遠慮するべし」という意味であるが、こうした但し書きが貼られた上に小便壺が置かれていたとも思えないから、これは芥川の評言ととるべき。
・「諫草亭」楊椒山がここで奸臣厳嵩を弾劾する諌言「請誅賊臣書」を起草上書したとされる四阿。
・「擬寶珠」ユリ目ユリ科ギボウシ属Hostaの総称。多年草、山間の湿地等に自生。白又は青色の花の開花はやはり夏であるから、咲いてはいない。
・『椒山の「鐵肩担道義、辣手著文章」』書き下すと「鐵肩道義を担ひ、辣手(らつしゆ)文章を著す」で、「鐵の如く堅固な肩に正義の意気を荷い込み、歯に物着せぬ辛辣な筆で諫言弾劾の書を草す」の意。
・「後生、まことに恐るべし。椒山、この語の意を知れりや否や」ここで芥川はかなりねじれた言い方をしている点に注意しなくてはならない。この孔子の「論語」の「子罕 第九」を出典とする故事成句は、よく誤った用事・用法を問う問題として出題される。即ち、孔子の謂うところの意味は、「後世」(後の世の者)ではなく、「後生」(後進の若い者)であり、その若者というのは未知数で、努力次第で驚くべき力量・才能を身につけるかも知れない、だから重々侮ることなく、寧ろ恐るべき存在である、の意である。ところが、この芥川の謂いはこれに全く当て嵌まらない。寧ろ、誤用例であるところの「後世」(後の世の者)は、古人の意気や刻苦勉励を全く理解せず、憂国の士として命を散らした楊椒山の血潮に満ちた魂を記した碑を、日常のランプ台に用いて屁とも思わない庶民(私には若者の映像さえ見えない。このランプを置くのは、高い確率で、孔子がこの話で諭した孔門十哲より遙かに年上の中年のオジサンオバサンである)は、正に恐るべき無知蒙昧の徒である、という意味でしっくりくるのである。芥川はここで確信犯的に誤用こそ真理であったという換喩の暗喩によって逆説を示しているのである。
・「謝文節公祠」「謝文節」(1226~1289)は本名謝枋得(しゃぼうとく)、南宋の文人政治家。元との戦いに敗れて捕らえられ、南宋滅亡後は山中に隠棲していたが、捕らえられ北京に護送された。その才能を惜しんだフビライ・ハンから慫慂を受けるも節を屈せず、遂に絶食して餓死し果てた。「文章軌範」全7巻の撰者として知られる。「文章軌範」は科挙試の受験生のために韓愈・柳宗元・欧陽修・蘇軾といった唐宋の作家を中心に69編の名文を集成したもの。彼を祀った謝文節公祠なるものは現在のネットでは邦文では掛かってこない。次の「外右四區」がその所在地を示す住所であるが、この地名表示そのものが現在は用いられていないのか、所在不明である。一体、今はどうなっているのであろうか。北京在住の方、御教授を乞う。
・「薇香堂」「薇」はシダ綱ゼンマイ科ゼンマイOsmunda japonica又は同属の仲間を指す。「史記」列伝の冒頭を飾る「伯夷叔斉 第一」によれば、周の武王は父を亡くした直後、暴虐無比な圧政を続ける殷の紂王を伐つために挙兵したが、伯夷(はくい)と叔斉(しゅくせい)の兄弟がそれを止めて、父の葬儀もせず喪の明けぬうちに戦をする者は不孝者であり、暴虐の君主とは言え、臣下の身でそれを弑する者は不忠者であると諫めた。武王は攻略を敢行、美事、殷を滅ぼすが、兄弟の言の全きことに心打たれ、招聘するも、伯夷と叔齊は、不義不忠の王の粟(=禄)を食(は)むを潔しとせず、として拒否し、首陽山に隠れ住んで「薇」――ゼンマイやワラビの類――を採って食い、「采薇歌」(以下示す)を作って、遂には餓死して死んだ。この堂の名は、謝文節の自死の志を伯夷叔斉に擬えたものである。
采薇歌
登彼西山兮
采其薇矣
以暴易暴兮
不知其非矣
神農虞夏
忽焉沒兮
吾適安歸矣
吁嗟徂兮
命之衰矣
○やぶちゃんの書き下し文
采薇の歌
彼の西山に登りて
其の薇を采る
暴を以て暴に易へ
其の非を知らず
神農(しんのう) 虞(ぐ) 夏(か)
忽焉として沒しぬ
吾れ 適(まさ)に安くにか歸せん
吁嗟(ああ) 徂(ゆ)かん
命の衰へたるかな
○やぶちゃんの現代語訳
ぜんまい採り
あの西の方 首陽山に登って
そこのぜんまいを採って暮らす
暴力を暴力でねじ伏せて
それが人の道を踏み外していることを知らぬ者よ
あらたかな天地開闢の炎帝神農氏――聖王堯から位を譲られた尊王虞――尊王虞改め舜から禅譲を受けた夏改め賢王禹――
みんな あっというまに はい さようなら
私は 一体 何処(いづこ)へ行けばいいのか? 一体 何処へ去ればよい? いや それはもうあそこしか ない……
ああ さあ 行こう 私の運命も遂に窮まったのだ……
・「疊山」謝文節の号。
・「紙錫」飾りとして貼る錫(Sn)の薄い箔を紙に貼付したもの。
・「窑臺」筑摩全集類聚版脚注は一言『未詳。』とし、岩波版新全集の細川正義氏の注解には一言『遊廓。』とある。そうだろうか? そもそもこれは明白な固有名詞として芥川は示してるのである。従って細川氏の言うような一般名詞であろうはずがない。また、不思議なのは細川氏は次の「三門閣下」に注して『悟りを開くには空門、無相門、無作門の三つの解脱門を経るのになぞらえて、寺院の門のことを言う。一門でも三門という。』と記されている。意味が通じない。遊廓の門は亡八の門とでも言う洒落ならまだしも、そもそもこの三門は確かな実在する山門であろう(勿論、細川氏の意図は実際の寺院の門として注しておられるのであるが、それだけに分からない注になっているということである)。この「窑」は「窯」と同じである。ということはこれは窯台ではないのか? ここに焼物の窯があったことから付いた地名ではないと私は推理した。そこでネット検索を続けると簡体字中文サイトの王代昌氏という筆者の「窑台茶館憶当年」という『北京日報』の摘録記事の中に『三十年代、陶然亭還没有公園、窑台可能是唐代燒窑留下的遺址、當然也許是一般瓦窑、漸漸變成了土崗子。』(簡体字の一部を正字に直した)という文字列を発見した。「陶然亭」は以下に示した現在の公園である。私は再三申し上げる通り、中国語は読めない。機械翻訳でも意味不明。これは私の推測がもしかすると当たっているのかしら? 私の力ではココマデダ――誰か手を貸して下されい!
・「三門閣下」前注参照。この窑台に寺院があった、若しくはあることをご存知の方は、御一報下されたい。それがこの「山門」の寺に間違いない。
・「蘆萩」本邦と同種ならばイネ目イネ科ヨシPhragmites australisヨシ(アシ)とイネ科ススキ属オギMiscanthus sacchariflorus。
・「苦力(クウリイ)」“ kǔlì”で肉体労働者。
・「陶然亭」外城の南(現・北京市宣武区陶然亭路)にある人工池を持つ広大な庭園。菊の名所。この園名は白居易の詩「共君一醉一陶然」に基づく。ここは実は1919年の五四運動の記念の地でもある。芥川は秘かにその地として訪れたのではあるまいか? これはただの憶測である。
・「古刹慈悲淨林」古えから法灯を守る寺と仏の奥深い慈悲に満ちた清らかな修行の地の意。
・「綠紗」緑色に染めた薄絹・紗織り。「紗」(さ/しゃ)は生糸を用いたからみ織りの一種で、二本の縦糸が横糸一本毎に絡み合う織物。織り目が粗く、薄くて軽く、通気性が良いため夏の高級服地等に用いた。
・「蔀」本邦で平安期から住宅や社寺建築に用いられた格子を取り付けた板戸。上部に蝶番があり、上に水平に釣り上げて開ける。
・「郭公」余り理解されているとは思われないが、ホトトギスはカッコウと同族である。カッコウ目カッコウ科カッコウ属ホトトギス Cuculus poliocephalus。現代中文では「小杜鵑」で同一種であるが、芥川がその声を聴いてまるで分からなかったということは、別種か亜種が疑われるようにも思う。一応、以下に中文ウィキの「杜鵑科」に示された属を示す。
鳥鵑 Sturniculus lugubris
噪鵑 Eudynamys scolopacea
鷹鵑 Cuculus sparverioides
筒鵑 Cuculus saturatus
小杜鵑 Cuculus poliocephalus
中杜鵑 Cuculus saturatus
大杜鵑 Cuculus canorus
栗斑杜鵑 Cuculus sonneratii
四声杜鵑 Cuculus micropterus
八声杜鵑 Cuculus merulinus
棕腹杜鵑 Cuculus fugax
布谷 Cuculus canorus
冠郭公 Clamator coromandus
番鵑 Centropus bengalensis
私は何となく日本にも夏鳥としてやってくる、♂が独特の筒を叩くように「ポポ、ポポ」と鳴く筒鵑Cuculus saturatus、和名ツツドリ(筒鳥)ではないか、と思うのだが、鳥類のエキスパートの御教授を乞う。
・「文天祥祠」現在の北京市東城区府学胡同にある文天祥を祀った社。以下に示すように元代の刑場であった。文天祥(1236~1283)は南宋末期の文官。弱冠にして科挙に首席で登第して後に丞相となったが、元(モンゴル)の侵攻に対して激しく抵抗した。以下、ウィキの「文天祥」から引用する。『各地でゲリラ活動を行い2年以上抵抗を続けたが、1278年に遂に捕らえられ、大都(北京)へと連行され』た。獄中にあって『宋の残党軍への降伏文書を書くことを求められるが『過零丁洋』の詩を送って断った。この詩は「死なない人間はいない。忠誠を尽くして歴史を光照らしているのだ。」と言うような内容である。宋が完全に滅んだ後もその才能を惜しんでクビライより何度も勧誘を受け』たが、そこで彼は有名な「正気の歌(せいきのうた)」(リンクはウィキソースの現代語訳附きの「正気の歌」)を詠んで、宋への断固たる忠節を示した。『何度も断られたクビライだが、文天祥を殺すことには踏み切れなかった。朝廷でも文天祥の人気は高く、隠遁することを条件に釈放してはとの意見も出され、クビライもその気になりかけた。しかし文天祥が生きていることで各地の元に対する反乱が活発化していることが判り、やむなく文天祥の死刑を決めた。文天祥は捕らえられた直後から一貫して死を望んでおり、1282年、南(南宋の方角)に向かって拝して刑を受けた。享年47。クビライは文天祥のことを「真の男子なり」と評したという。刑場跡には後に「文丞相祠」と言う祠が建てられた。』『文天祥は忠臣の鑑として後世に称えられ』、本邦でも『幕末の志士たちに愛謡され、藤田東湖・吉田松陰、日露戦争時の広瀬武夫などはそれぞれ自作の『正気の歌』を作っている。』。
・「京師」都。ここでは北京の謂い。
・「宋丞相信國公文公之神位」「信國公」は文天祥の諡(おくりな)。「宋の宰相であった『信国公』(と諡された)文(天祥)閣下の御霊」の意。
・「楡(?)の木」バラ目ニレ科ニレ属Ulmusの一種。北半球の広範囲に分布し、多数の種が認められる。但し、その数は研究者によって20から45と一定しない。芥川の「?」は美事に科学的である。中文ウィキの楡の該当項を見ても、分類群のところに多様な種記載が示されている。芥川が見たものはこの中の何れかではあろうと思われる。
・「杜少陵」杜甫の後世の別号。杜甫は以前、漢の宣帝の許后の陵墓(現在の陜西省西安市の東南に所在)の傍に住んでいたため、自身を「杜陵の布衣」「少陵の野老」と称した。杜甫には「貧交行」「兵車行」等の楽府題に似せた諷喩詩があるので、芥川はもし杜甫がこの忠節の士文天祥が祀られた社の荒廃を見たら「老楡行」という詩でも作って現代中国の非礼暗愚を諷喩するであろうと言っているのである。
・「二度目の死は氣の毒過ぎて」既に直前、文天祥と極めて似た憂国の悲劇の人謝文節の公祠を訪れているため、という意。内実は、似たような事蹟には飽きたという意と、ここもまた、荒廃していて後世の人々へのダメ押しの失望感から、とても詩想は浮かばぬという皮肉も込めていよう。
・「永安寺」筑摩全集類聚版脚注は『未詳。』とし岩波版新全集は注を挙げない。直後に北海を挙げているので、これは北海に浮かぶ瓊華島にあるチベット仏教寺院永安寺であろう。山上にラマ塔(白塔)が立つ(はずだが芥川は描写していない)。
・「善因殿」白塔の脇に立つ祭殿。上部は円形で下部は方形をしており、四方の壁には445体の菩薩像がレリーフされている。
・「歷歷と指呼すべし」一目で総てはっきりと見渡せ、それらがまた、指差して呼べば応えるように、極めて近くにある、という意。
・「北海」清代に作られた北海公園にある湖。現在は北海・西海に先の十刹海(前海)と積水潭(後海)を加えて北海公園と呼称している。総面積約400,000㎡(水面面積340,000㎡)。北京の有数の景勝地で、有名人の故宅等の旧跡が多い。
・「大淸皇帝用小住宅」誰もここに注を附していないが、芥川訪問時は、未だ中華民国臨時政府が居住権の許可を与えていた溥儀一族が内廷内に住んでいた(後、奉直戦争の中で起こった1924年の馮玉祥(ふうぎょくしょう)の内乱(北京政変)により強制退去させられた)が、これはまさにそれを言っているのではないかと私は思う。
・「天壇」現在の北京市崇文区にある史跡。明・清代の皇帝が、冬至の時に豊穣を天帝に祈念した祭壇。敷地面積約2,730,000m²。祭祀を行った圜丘壇(かんきゅうだん)は大理石で出来た円檀で、天安門や紫禁城とともに北京のシンボル的存在であるここの祈年殿は、1889年に落雷より一度消失したが、1906年に再建されている(以上はウィキの「天壇」を参照した)。以下の「地壇」「先農壇」も参照。これらは三つとも北京にある祭壇である九壇(社稷壇・祈穀壇・天壇・地壇・日壇・月壇・先農壇・太歳壇・先蚕壇)の一つである。
・「地壇」現在の北京市東城区の安定門外にある史跡。ウイキの「地壇」によれば、『明清代の皇帝が地の神に対して祭祀を行った宗教的な場所(祭壇)で』、その位置は『天壇が紫禁城の南東に築かれたのに対して、地壇は紫禁城の北東に築かれており、これは古代中国の天南地北説に符合する。』建築様式としては『天壇の主な建築が円形であるのに対して、地壇は方形である。これは『大清会典』の述べる「方(四角)は地を表す」に従っており、中国の天円地方の宇宙観を体現して』おり、『「天は陽、地は陰とみなす」という陰陽思想に従い、天壇の石塊や、階段、柱などはこぞって奇数(陽数)で構成されている』のに対し、『地壇は偶数(陰数)で構成されている。例えば方澤壇の階段は8段であり、壇は6方丈である。使用した石版の数も偶数であり、中華文化を反映している。』とある。
・「先農壇」現在の北京市宣武区にある史跡。明の1420年に造営され、明・清の歴代皇帝が三皇五帝の三皇の一人神農氏(百草を自ら嘗めて効能を試したとされる医術と農事を司る神。後に炎帝と習合)を祀った場所。
・「萋萋と」草が青々と生い茂っているさま。
・「紫禁城」明及び清朝の宮殿。明初の1373年に元の宮殿を改築して初代皇帝太祖(洪武帝)が南京に造営したものが最初。後、明の第3代皇帝太宗・成祖(1360~1424 永楽帝)が1406年に改築、1421年には南京から北京への遷都に伴い、移築した。1644年の李自成の乱により焼失したが、清により再建されて1912年の清滅亡までやはり皇宮として用いられた。
・「夢魔」夢の中に現れて人を苦しませる悪魔。転じて、不安や恐怖を感じさせる夢、の意。私は夢魔というと真っ先にスイス・イギリス・ロマン派の Johann Heinrich Fuseli(ヨハン・ハインリヒ・フュースリ 1741~1825)の“The Nightmare”(1781)を思い出す(リンクは英文ウィキの精密画像)。あれは♂の夢魔 Incubus インクブス(ラテン語の“incubo”「あるものの上に寝る」の意)だが、紫禁城というと私には何だか中世の魔女も比せられた♀の夢魔 Succubus スクブス(サキュバス)(同じくラテン語の“sub”「下へ」+“cubo”(横たわる))の巣窟のように感じられた。紫禁城を歩く芥川龍之介には――秀 Succubus しげ子――の幻影が扉を掠めたのではなかったか――]