先生からの手紙
冠省原稿用紙で失禮します詩二篇拜見しましたあなたの藝術的心境はよくわかります或はあなたと合つただけではわからぬもの迄わかつたかも知れませんあなたの捉へ得たものをはなさずに、そのまゝずんずんお進みなさい(但しわたしは詩人ぢやありません。又詩のわからぬ人間たることを公言してゐるものであります。ですからわたしの言を信用しろとは云ひません信用するしないはあなたの自由です)あなたの詩は殊に街角はあなたの捉へ得たものの或確實さを示してゐるかと思ひますその爲にわたしは安心してあなたと藝術の話の出来る氣がしましたつまり詩をお送りになつたことはあなたの爲よりもわたしの爲に非常に都合がよかつたのです實はあなたの外にもう一人、室生君の所へ來る人がこの間わたしを訪問しましたしかしわたしはその人の爲に何もして上げられぬ事を發見しただけでしたあなたのその人と選を異にしてゐたのはわたしの爲に愉快ですあなたの爲にも愉快であれば更に結構だと思ひます以上とりあへず御返事までにしたためましたしかしわたしへ手紙をよこせば必ず返事をよこすものと思つちやいけません寧ろ大抵よこさぬものと思つて下さいわたしは自ら呆れるほど筆無精に生れついてゐるのですからどうか今後返事を出さぬことがあつても怒らないやうにして下さい
十月十八日 芥川龍之介
堀辰雄樣
二伸なほわたしの書架にある本で讀みたい本があれば御使なさいその外遠慮しちやいけません又わたしに遠慮を要求してもいけません
*
これは岩波版旧全集書簡番号一一四三の大正12(1923)年10月18日附堀辰雄宛田端発信の芥川龍之介が初めて堀辰雄に送ったと思われる書簡である(同書を底本とした)。第一高等学校理科乙類独語の学生であった堀は、同年5月に出身であった東京府立第3中学校(現・両国高等学校)校長広瀬雄に伴われて田端の室生犀星を初めて訪れて親しくなった。関東大震災を挟んだ同年10月上旬、震災後の東京に見切りをつけた室生が故郷金沢に引き上げる際、芥川に別れの挨拶に訪れたたが、その時、堀を同伴して芥川に紹介したのであった。本書簡はその直後の芥川龍之介堀辰雄宛書簡なのである。書簡中の「街角」とは、恐らく堀がその訪問の際に芥川に見てもらうために示した詩の一篇の題名であろうと思われるが、筑摩全集類聚版脚注によれば『堀辰雄全集になし。のちすてた草稿か。』とある。芥川をしてここまで言わしめた幻の堀辰雄19歳の詩「街角」――読んでみたいものではある……
……しかし僕の言いたいのは、もっと違うことだ……僕は今日、通勤の車内で、とある興味――書簡上に現れたる震災前後の芥川の心境変化という興味――から、芥川龍之介書簡をめくっていたのであったが、その中のこの一消息文を読んだ時、私は思わず「先生だ!」と呟いてしまったのであった。それは、この書簡を声に出して読んでみると分かることだ(僕は東海道線上りの車内でその誘惑を断ち難く、遂に横浜駅に入構する直前、小声で全文を朗読していた。傍にいたОLが如何にも怪訝そうな顔をして見ているのも「え憚らず」である)――そう――この書簡は最初から最後まで――その言葉遣いといい思想といい命令といい禁止といい――「こゝろ」の「先生」が書いたような手紙、いや「先生」が書きながら漱石が反故にした「こゝろ」の「上」の中に投げ込んでも全く違和感がない「先生からの手紙そのもの」ではないか!――そうして――そうして僕は――僕がこうした「先生」に出逢うすべが最早永遠になく、またこうした手紙を出すべき一人の「私」の「先生」にさえもなり得なかった僕自身のことを僅かに残念に思ったのであった――