鬱を忘れるためにこんなことを始めた――芥川龍之介中国旅行関連書簡群 2
八八二 四月二十四日
上海から芥川道章宛
拜啓上海着後風邪の全快致し居らざりし爲乾性肋膜炎を起しただちに里見病院へ入院、治療し候所幸手當早かりし經過よろしく今日退院致す事と相成候されどこの爲約三週間あまり病院生活を致し侯爲豫定に大分狂ひを生じ候へば北京へ參るのも五月下旬に相成る事と存じ侯もし今後體の具合惡く候はば北京行きは見合せ、揚子江南岸のみを見物して歸朝致すべく候入院中手紙かんかと思ひ候も入らざる御心配をかけて詮なき事と存じ今日までさし控へ候されど一時は上海にて死ぬ事かと大に心細く相成候幸西村貞吉、ジヨオンズなど居り候爲何かと都合よろしくその外知らざる人もいろいろ見舞に來てくれ、病室なぞは花だらけになり候且又上海の新聞などは事件少き故小生の病氣の事を毎日のやうに掲載致し候井川君の兄さんには「まるで天皇陛下の御病氣のやうですな」と苦ひやかされ候今後は一週間程上海に滯留の上杭州南京蘇州等を見物しそれより漢口の方へ參るつもりに候 以上
四月二十四日 上海萬歳館内 芥川龍之介
芥川皆々樣
二伸 宿所録並に父上文子の手紙確に落手致候今後も北四川路村田孜郎氏方小生宛手紙を下さらばよろしく候その節はなる可く母上伯母上も御かき下され度日本を離れると家書を讀む事うれしきものに候
末筆ながら父上御酒をすごされぬやう願上候病氣以來小生も支那旅行中一切禁煙の誓を立て候兎に角病氣になると日本へ歸りたくなり候されど社命を帶びて來て見ればさうも行かずこの頃は支那人の顏を見ると病にさはり侯
八八三 四月二十四日
上海から 薄田淳介宛
拜啓その後御無音にうちすぎました度々御見舞を頂き難有く存じます小生の病氣はやはり大阪の風邪が十分癒つてゐなかつた爲乾性肋膜炎を起したのです醫者は一月程靜養しろと云ひましたが手當てが早かつたせゐか咽喉の加太兒を除き殆平癒しましたから早速見物旅行に出かけようと思ひますもしその途中又惡くなつたら見物は一まづ長江沿岸宜昌までに切り上げ一度歸京養生の上北京へは秋に行かうかとも思つてゐます勿論この儘體の具合がよければすぐに漢口から北京へ向ひます出直すとなると億劫ですから。この手紙はとうに書くつもりでしたが病中病後の懶さの爲今日まで延引しました不惡御ゆるし下さい昨日退院今日はこれから村田君と支那文人訪問に出かける所です。昨日は退院後すぐに城内を見物、乞食と小便臭いのとに少からず驚嘆しました 以上
四月廿四日 上海萬歳館 芥川龍之介
薄田淳介樣
八八四 四月二十五日
上海から 岡榮一郎宛(繪葉書)
この公園Public Gardenと云へど支那人の入るを許さずしかもシベリア邊から流れこんだ碧眼の立ん坊はぞろぞろ樹下を徘徊してゐる
四月二十五日 上海 芥川生
八八五 四月二十六日
日本東京市京橋區尾張町時事新報社内 佐々木茂索君
二十六日 (繪葉書)
鄭孝胥、章炳麟なぞの學者先生に會つた鄭先生要は書ではずつと前から知つてゐたから會つた時にはなつかしい氣がした 章先生も同樣。この先生はキタナ好きだものだから細君に離婚を申込まれたさうだが襟垢のついた着物を着て古書堆裡に泰然としてゐる所は如何にも學究らしかつた
上海 龍
二伸「その日次の日」新潮に載る由可賀稻田君にはがきを書きたいが住所不明につき書けない よろしく云つてくれ給へ
八八六 四月三十日
上海から澤村幸夫宛
拜啓先達は御手紙難有く存じますその後やつと病氣快復毎日人に會つたり町を歩いたりして居りますさうなつて見ると何處へ行つても必人が「澤村さんから手紙が來ましてetc.」と云ひます私の爲にあなたが方々へ紹介状を出して下さつた難有さが異國だけに身にしみますおかげで短い日數にしては可成よく上海を見ましたこれは村田君も保證してくれます人では章炳麟、鄭孝胥、李經(?)邁等の舊人及余穀民李人傑等の新人に會ひました李人傑と云ふ男は中々秀才です場所は徐家匯以外大抵一見をすませました徐家匯は領事館がまだ見物許可證をくれないのです御教示の書物はまだ見つかりません明後日は杭州へ出かけます 頓首
四月三十日 芥川龍之介
澤村先生 侍史
[やぶちゃん注:底本では「徐家匯」の「匯」は(くがまえ)の左に(へん)として「氵」が出る字体であるが、通用字体に改めた。]
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――以下、続く――
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