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2009/08/20

鬱を忘れるためにこんなことを始めた――芥川龍之介中国旅行関連書簡群 3

八八七 五月二日
    日本東京市牛込區早稻田南町七夏目樣方 松岡讓樣 (繪葉書)

杭州より一筆啓上、西湖は小規模ながら美しい所なりこの地の名産は老酒と美人、
   春の夜や蘇小にとらす耳の垢
    五月二日         芥川龍之介

八八八 五月二日
    日本東京京橋區尾張町時事新報社内 佐々木茂索君 (繪葉書)

西湖は余り纖巧な美しさが多すぎて自由な想像を起させない(雷峰塔だけは例外だが)今日西湖見物の序に秋瑾女史の墓に詣でた墓には「鑑湖秋女俠之墓」と題してある女史の絶命の句に曰「秋風秋雨愁殺人」この頃の僕には蘇小々より女史の方が興味がある
    五月二日          龍之介
二伸 僕の通信は時事には發表しないでくれ給へ社の方がやかましいから 以上

八八九 五月四日
 杭州から 南部修太郎宛(繪葉書)

杭州に來た今新々旅館の一室に名物の老酒をひつかけてゐる窓の外には月のない西湖、もうの螢の飛ぶのが見える多少のノスタルジア 以上
二伸 立つ前に寫眞を難有う

八九〇 五月五日
    上海から江口渙宛(繪葉書)

西湖から又上海へ歸つて來たもう上海も一月になる尤もその間二十日は病院にゐた今日は蒸暑い雨降り、隣の部屋には支那の藝者が二人來て胡弓を引いたり唱つたりしてゐる二三日中には蘇州から南京の方へ行くつもりだ
   燕や食ひのこしたる東坡肉
    五月五日          我鬼

八九一 五月五日
    日本東京市外田端天然自笑軒前 下島勳樣
    上海 我鬼 (繪葉書)

昨日杭州より歸來、西湖は明畫じみた景色です 夜はもう湖の上に螢が飛んでゐるのに驚きました 杭州は名高い老酒の産地ですが僕のやうな下戸では仕方がありません
   燕や食ひ殘したる東坡肉
東坡肉と云ふ料理が脂つこい所を見ると東坡も今の支那人のやうに脂つこいものが好きだつたのでせう
    五月五日

八九二 五月五日
    上海から 芥川道章宛

拜啓その後無事消光いたし居候間御安心をねがひます昨日杭州からかへりました二三日中には蘇州南京から漢口の方へ行くつもりです今日五月五日につき比呂志の初の節句だなと思ひました皆々樣御丈夫の事と存じます御用の節は(御用がなくても)支那湖北漢口英租界武林洋行内宇都宮五郎氏氣附僕にて手紙を頂けば結構です梅雨前は日本も氣候不順と思ひます伯母樣なぞは特に御氣をおつけ下さいお父樣もあまり御酒をのむべからず支那にもお母樣のやうな鼻をしたお婆さんがゐます文子よりもつと肥つた女もゐますなほ別封は上海の新聞切拔です僕の事が三日續きで出るなぞは恐縮の外ありませんそれから上海から小包にて本を送りました南京蟲をよくしらべた上二階にでもお置き下さいずゐぶん澤山の本ですよ 以上
二伸この間家へかへつた夢を見ました本所の家でした義ちやんが來てゐました皆が幽靈だと云つて逃げました伯母さんは逃げませんでした眼がさめたら悲しくなりました夢の中では比呂志がチヨコチヨコ駈けてゐました上海の奧さん連が僕に銀のオモチヤをくれました(一つ二十圓位のを二つ)文子の御亭主上海では大持てです 以上
    五月五日          龍之介
   皆々樣

八九三 上海から(推定)
    宛名不明 (下書き)

目下上海にぶら/\してゐる 上海語も一打ばかり覺えた この地の感じは支那と云ふより西洋だ しかも下品なる西洋だね 僕の今坐つてゐる料理屋にも日本人の客は僕一人あとは皆西洋人だ 壁上の英國の皇后陛下の寫眞がそれを愉快さうに見下してゐる

八九四 五月十日
    蘇州から芥川宛(繪葉書)

その後ずつと丈夫です一昨日當地著明日は揚州へ參ります本はつきましたか明日は揚州明後日は南京へ行きます 以上

八九五 五月十日
    蘇州から岡榮一郎宛(繪葉書)

一昨日蘇州着蘇州は杭州より遙に支那的なり水に臨める家家の気色は直に聯芳樓記を想起せしむは 今日蘇州發明日揚州にある可く候 以上
    五月十日          芥川龍之介

八九六 五月十日
    日本東京本郷區東片町百三十四 小穴隆一君
    五月十日 蘇州 我鬼(繪葉書)

上海にずつと風の爲寢てゐたその爲無沙汰してすま亨なく思ひます昨今やつと旅行開始手始に杭州から蘇州へ來ましたこの孔子廟は宏大なものだが蝙蝠の巣になつてゐる 行くと廟内に雨のやうな音がするから何かと思ふと蝙蝠の羽音だと云ふから驚く 床は糞だらけ、恐る可く臭い明日は揚州へ參る筈 以上
二伸 碧童先生宛の手紙は皆よんでくれましたか

八九七 五月十日
    日本東京市外田端天然自笑軒前 下島勳樣
    五月十日 我鬼(繪葉書)

外はともかく蘇州だけは先生におめにかけたいと思ひました 寒山寺は俗惡無双ですが天平山の如きは一山南画中の山景です 以上
二伸 明日は揚州に入るつもりです

八九八 五月十四日
    南京から 中戸川吉二宛(繪葉書)

蘇州では留園と西園とを見た西園は留園の規模宏壯なのに到底及ばぬしかしどちらも太湖石や芭蕉や巖桂が白壁の院落と映發してゐる所は中々見事だ願くばあんな邸宅に一日中支那博奕でも打ちくらして見たい

八九九 五月十六日
    日本東京市本郷區片町百三十四 小穴隆一君(繪葉書)

明後日上海鳳陽丸にて漢口へ向ふ筈、どうも健康が確かでないから廬山に登る事は見合せすぐに漢口から北京へ行かうと思ふ支那へ來てもう河童の畫を二枚書いた
    五月十六日          上海   龍之介

[やぶちゃん注:底本では空行なしで『〔裏に南京名所烏龍潭の寫眞あり。余白に〕』とある。次の一文が、この洋装の兵隊が写りこんだ烏龍潭の繪葉書の写真の余白に書き入れられているということである。]

支那ノ風景ハ全然西洋ノ文明ト調和シナイ コノ兵隊ノ無風流サヲ見給へ

九〇〇 五月十七日
    上海から芥川道章宛

その後杭州、揚州、蘇州、南京等を經めぐりましたこの分で悠々支那旅行をしてゐると秋にでもならなければ歸られないかも知れませんそれでは閉口ですから廬山、三峽、洞庭等は悉ヌキにしてこれからまつすぐに漢口から北京へ行つてしまふつもりですいくら支那が好いと云つても宿屋住まひを二月もしてゐるのは樂なものぢやありません體は一昨日もここの醫 者に見て貰ひましたが、一切故障はないと云ふ事でした寫眞はとどきましたかもう少しすると揚州や蘇州で寫した寫眞がとどきます南京で比呂志の着物を買ひました支那の子供がお節句の時に着る虎のやうな着物ですあまり大きくないから此呂志の體ははひらないかも知れません尤もたつた一圓三十錢です僕は見つかり次第本や石刷を買ふ爲目下甚貧乏です北京へ行つたら大阪の社から旅費のつぎ足しを貰ふつもりです(病院費用も三百圓程かかりましたから)一日も早く北京へ行き一日も早く日本へ歸りたいと思つてゐます今晩船に乘り五日目に漢口着そこから北京は二晝夜ですからもう一週間すると北京のホテルに落着けます手紙は北京崇文門内八寶胡同波多野乾一氏氣附で出して下さい皆々樣御無事の事と思つてゐます叔母さんは注射を續けてゐますか、注射は靜脈注射よりも皮下注射の方がよろしいやつてゐなければこの手紙つき次第お始めなさい支那には草決明と云ふお茶代りの妙藥があります僕の實驗だけでも非常に效き目が顯著です歸つたら叔母さんにもお母さんにも飮ませますそれから文子へ、もし人參のエキスがなくなつてゐたら、早速買つてお置きなさいあれば誰でものむけれどないとついのまないから。ついのまないと云ふのが養生を怠る一歩です。
    五月十六日          芥川龍之介
   芥川皆々樣
二伸 唯今手紙落手しました呉服なぞは目下貧乏で買へません土産は安物ばかりと御思ひ下さい

九〇一 五月二十日
    日本東京市本郷區片町一三四 小穴隆一君
    蕪湖 龍 (丁悚油繪、高璞女士像の繪葉書)
これは現代支那の洋畫なり日本畫でも近頃上海の日本人倶樂部に展覧會を催した支那人ありこの先生は栖鳳なぞの四條末派の影響を受けてゐた要するに現代支那は藝術的にダメのダメのダメなり、
    五月二十日

九〇二 五月二十二日
    廬山から 石黑定一宛 (繪葉書)

上海を去る憾む所なし唯君と相見がたきを憾むのみ
     留別
   夏山に虹立ち消ゆる別れかな
    大正十年五月二十二日          廬山   芥川龍之介

――以下、続く――

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