「耳嚢」に「惡敷戲れ致間敷事 附惡事に頓智の事」を収載した。
お読みあれ。僕の好きな「あの」話である。
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惡敷戲れ致間敷事 附惡事に頓智の事
是も同じ比(ころ)の事とや。神田邊の頓作(とんさく)滑稽をなして人の笑ひを催し家業とする者あり。獨り者にて常々酒を好、飽事なし。同所に相應に暮ける鳶の者友どち申合、伊勢へ參宮するとて路次(ろし)の慰に右獨者を召連んとて誘引(さそひ)ければ、路銀無之由を答ふ。路銀は兩人にて如何にも賄わんと誘ひければ、さらばとて三人打連、品川より神奈川まで、急がぬ旅なれば、爰にては一盃傾けかしこにては一樽を空しくして、神奈川宿に泊ける。翌夜明前に、何れも神奈川を立んと起出けるに、彼獨者は酒の過けるにや草臥(くたぶれ)伏して色々起せ共目不覺。兩人の連、風與(ふと)思ひ付、彼者醉中に出家にせば能(よこ)慰ならんと、密に髮剃(かみそり)を取出し、髮を剃り青同心として、日の出る頃猶又起しければ、漸起出、天窓(あたま)をなでゝ大に驚き、兩人の戲れになしぬらんと恨けれ共、曾て不知よしを答ふ。猶疑ひて品々申けれ共、聊覺なしと陳じける故、今は詮方なし、出家にては箱根御關所も通り難し、伊勢にても出家は禁じ給ふ事なれば、遙々詣ふで益なし。是より江戸へ歸り候半(さふらはん)と暇乞ければ、兩人も詮方なき事と悔けれど、明白(あからさま)に言んやうもなく、路銀抔與へて江戸へ歸しける。彼獨者つらく思ひけるは、斯(かく)我を慰(なぐさみ)、情なくも剃髮させぬる事恨し、此遺恨面白返さんと色々工夫して、芝の邊にて古袈裟衣を調へ誠の出家姿と成り、四五日も過て彼連二人の方へ至りければ、妻子驚き如何なれば斯る姿と成りて早くも歸りけるやと尋ねければ、彼者涙を流し、かくなるうへは推量なし給へ、道中船渡しにて岩へ乘かけけるや破船いたし、三人共浮ぬ沈ぬ流れけるに、我等は運強く岩に流懸りしを、皆々打寄り助(たすけ)船にて引あげられ、貳人の者を尋(たづねけ)れ共死生もしらず、其外の乘合行衞(ゆくへ)なき故、無常を觀じ出家して廻國に出候心得なれ共、友達の家内へ知せざるも便なしと立歸りしと、涙交りに語りければ、妻子どもの歎き、見るも中々痛しき有樣也。兩人妻餘り絶がたさに髮おし切、廻國せんと言けれ共、廻國の事は親類衆と相談し給へ、出家の事は兩人菩提のため可然(しかるべし)と申述、我等は廻國に出(いづる)よし申置、行方なく成りしとや。兩人妻菩提寺を賴、出家染衣(ぜんえ)の身と成、念比(ねんごろ)に菩提を吊(とむらひ)ければ、心有親類は餘りの思ひとり過するならん、まづ彼破船の様子をも聞飛脚をいたし候へかしと、彼是相談の内、二人の男伊勢参宮無滞(とどこほりなく)仕廻(しまひ)歸ければ、両人の女房は新尼と成て夫々(おつとおつと)を見て大に驚、いかなる事とおつと/\も尋ければ、始よりの事共申ける故、よしなきいたづら事なして彼者に謀られける事の浅間しさよと、後悔すれ共甲斐なく、右新尼還俗して、此頃は三四寸も髪の延びたりといひし比、其邊の者來りて語り笑ひぬ。
□やぶちゃん注
・「頓作滑稽をなして人の笑ひを催し家業とする者」ウィキの「落語」によれば、現在のような落語の明白な出現は17世紀後半で、『江戸の町では大坂出身の鹿野武左衛門が芝居小屋や風呂屋で「座敷仕方咄」を始めた。同時期に京都では露の五郎兵衛が四条河原で活躍し、後水尾天皇の皇女の御前で演じることもあった。大坂には米沢彦八が現れて人気を博し、名古屋でも公演をした。また、『寿限無』の元になる話を作ったのが初代の彦八であると言われて』おり、『18世紀後半になると、上方では雑俳や仮名草子に関わる人々が「咄(はなし)」を集め始めた。これが白鯉館卯雲という狂歌師によって江戸に伝えられて江戸小咄が生まれた。上方では1770年代に、江戸では1786年に烏亭焉馬らによって咄の会が始められた。やがて1798年に岡本万作と初代三笑亭可楽がそれぞれ江戸で2軒の寄席を開くと、その後寄席の数は急激に増えた』とある。本件は前記事と同じ頃、安永9(1780)年前後であるから、すでに江戸小咄の形が完成、既に噺家(はなしか)という職業が成立していた、この主人公の「獨り者」も噺家である、と考えてよい。そして、読み進めればお分かりの通り、この話自体、この男が熊五郎となり、二人の鳶も長屋の講中吉兵衛や次郎吉その他大勢となって、御存知、落語の「大山詣(まいり)」へとインスパイアされてゆくのである。但し、このルーツを訪ねれば能狂言の「六人僧」に辿り着く。その梗概を記すと、ある男が後世(ごぜ)の安楽のため、二人の同行を誘って諸国参詣を思い立つが、道々話をしているうちに、仏の本願に従い、決して腹を立てるまいという誓いを立て合う。さる辻堂で一休みした際、同行の二人は寝付けぬままに、悪戯(いたずら)を思いつき、寝入っている同行の頭を剃ってしまう。目覚めた男は、大層腹を立てるも、先の誓いの手前、二人を責めるわけにも行かない。仏参を続けるという二人と別れて帰った男は、他の二人の妻に、二人の夫は高野参りの途中、紀ノ川にて溺れ死んだと言葉巧みに信じ込ませ、妻たちは剃髪して尼になってしまう。さらに今度は戻って来る二人の夫を迎えると、お主らが馴染みの女と上方へ逐電したという噂をお主らの妻が聞き、蛇身となって復讐せんものと、妻同士刺し違えて死んだ、という法螺話を拵え、遺髪を見せてまんまと信じ込ませると、二人の夫をも出家させてしまう。最後は、それが総てばれたところで、なんと尼となった男の妻も現れ、これらも仏の方便と方々悟って、西日を仰ぎつつ、六人打ち揃って行脚に旅立つというストーリーである。しかし、鎮衛の本話を読むと何よりも、この話が当時、『噂話』=『都市伝説(アーバン・レジェンド)』として信じられていたという事実が浮かび上がってきて誠に興味深い。因みに、私は落語の「大山詣」が殊の外お気に入りである。それは熊の一世一代の大芝居の妙味もさることながら、普段は亭主を口汚く罵っている長屋の妻たちがこぞって、あっという間に剃髪するという、その江戸の市井の女たちの誠心と貞節に心から打たれるからである。
・「賄わん」はママ。
・「風與(ふと)」は底本ルビ。
・「明白(あからさま)」は底本ルビ。
・「吊」これは誤植ではなく、「弔」の俗字である。「とむらふ」と読むのである。
・「出家にては箱根御關所も通り難し、伊勢にても出家は禁じ給ふ」既にこの頃、行脚僧の格好をして不逞を働く輩が横行しており、恐らく僧形であることが関所通行に五月蠅かったに違いなく、おまけに僧侶の参詣を許さなかった伊勢神宮への参拝というのでは、関所もお伊勢さんも難しいことになるというのは道理ではある――ではあるものの、これは彼の頓作滑稽復讐システムを発動させるための、方便ととった方がよかろう。
・「いひし比、」の「比」は、「ころ」か「ころおひ」と読むのであろうが、文脈上おかしい。岩波版にはなく、衍字か。岩波版のように「いひし。」とここで文は終始していると判断して訳した。
■やぶちゃん現代語訳
悪い戯れは致すさぬがよい事 附悪事にも頓智のある事
これも「盲人が詐欺を仕組んだ事」と同じ頃の話でったか。
神田辺りで滑稽な話を創作したり、それを演じたりして、人の笑いを取って何がしかの日銭を得ることを生業(なりわい)としている者がおった。独り者で常々酒を好み、これがまた、酒あらばとことん飲んで飲み飽きるということを知らない男でもあった。
さて、ある時、同じ町内に相応に暮らしておった鳶職の者二人、相談し合って、伊勢へ参宮しようということになり、ついては道中徒然の慰みに、この独り者の男を連れて行こうじゃねえかということで誘ったのだが、男は、
「儂にゃ金がねえ――」
と言う。鳶の二人は、即座に、
「路銀なら俺たちが何とでもしてやらあな!」
となおも誘ったので、それならば、ということで仲良く三人うち連れ、途中、早速、未だ品川から神奈川までの間で――急がぬ旅ではあれば――否、急がぬ旅とは言いながら――酒好きが昂じて、ここで一杯傾けては、あそこで一樽空にして、その日はやっと神奈川の宿に泊まった。――
翌朝のこと、流石に鳶の二人は、昨日の分の足を稼ごうと夜明け前に出立しようと起き出したところが、例の独り者は、飲み過ぎたのか、すっかり疲れ果てて死んだように横たわったまま、幾ら起こしても目覚めない。その体たらくに、二人の鳶は、ちょいとした悪戯らを思い付き、この男が前後不覚で酔って寝ている内に、知らぬ間に自分が出家僧になっておったら、さぞかし吃驚り仰天、これまた、面白い見ものと、ひそかに取り出だした剃刀で、男が目覚めぬようにこっそり髪を剃り、美事なつるんつるんの青道心に仕上げたのであった。――
日が昇る頃になっていま一度起こしてみると、男は漸く起き出して来て、ふと頭を撫でてみて大いに驚き、
「お主ら! 悪戯(いたずら)にことかいて、何をした!」
と恨み骨髄、なれど両人は、
「何(なん)も。俺たちゃ知らんぜ。」
と白を切る。勿論、男は納得出来ずに、あれやこれやと詰め寄ったものの、二人とも、
「全く以って知らん、な。」
と美事、口裏合わせ、知らぬ存ぜぬの一点張り。故に、すっかり切れてしまった男は、
「何も、知らんか……そうか……お主らの仕儀ではない……では……最早、是非もない。非僧の僧形にては箱根関所も通るに難く、そもそも伊勢神宮にては古えより出家の参詣を禁じておられることなれば、遙々訪ねみんも無益じゃ……されば、今から儂は、もう江戸へ帰ると致さん……」
とむっとしつつもきっぱりと訣別を告げるので、二人の鳶は、ここに到って、こりゃ馬鹿なことをしたわいと後悔したものの、これだけ白を切ってしまったからには、今更、本当のことを語り、謝って済こととも最早、思えず、とりあえず帰りの路銀を与えて江戸へ帰したのであった。――
しかし、この男、帰りの独りの道中にも、よくよく考えるとまたぞろさっきの憤激がいとど昂じて来るのであった。
「これほどまでに俺を虚仮(こけ)にしやがって! あさましくもかく坊主にさせおったこと、恨んでも恨み切れぬわ! この遺恨、屹度、面白く返報せずにおくべきか!」
と、帰り道すがら、あれやこれやと日頃の頓作滑稽を発動してとんでもない創意工夫を巡らした。――
男は江戸に着くと、まずは芝の辺りで古い袈裟衣など僧侶の姿に必要なものを買い揃えて、本物の出家の姿になると、日を測って、江戸帰着後四、五日ほど過ぎて後(のち)、徐ろに鳶の両人の留守宅へと向かった。屋前に佇む男を見ると、どちらの妻子も吃驚り仰天、
「どうして――まあ、このような姿になって――早くも帰って来なすった?」
と尋ねたので、かの男はしおらしく涙を流しながら、
「……かくなる上は、ご推察なされたい……伊勢への道中、さる川の舟渡しにて、我らの乗り合わせたる舟、俄かに流されて岩に乗りかかりて大破致し、三人共、激流に投げ出され、浮き沈み、浮き沈みしつつ、流れ流され……我は運良く下流の岩に流れ懸かり、咄嗟にしがみ付いたところを、助け船にて引き上げられ申したが……二人は……いや、その後も我は二人をあちらこちら、さんざんに尋ね求め致いたので御座ったのじゃが……それきり……生死も知れず仕舞……いや、それだけではない、その他の乗り合わせた数多の客も尽く行方知れずと相成ったが故……それを目の当たりにした我は……正に、正にこの浮世の無常を痛いほどに観じたれば……かくの如、出家致いて、さても万霊回向の諸国行脚の旅に出で立たんとの決心、なれど……何も知らず、空しく帰りを待つこととなる友どちの家内(いえうち)へ、この事、知らせずにおるも、よからずと思い……かく立ち帰ったので御座る――」
と、堰き合えぬ涙ながらに語ったので、両家の妻子ら歎き、一方ならず、見るも中々に痛ましい限りの有様であった。特に両人の妻は、男の謂いと、その姿も相俟って、夫を失った余りの悲痛の耐え難さに、我らも髪をすっぱりと切り、共に廻国行脚に同道せんと言い出す始末であったが、
「廻国行脚につきては、まずは落ち着いて、親類縁者の方々と相談なされよ。されど勿論、出家の儀は、亡き御二人の御亭主の菩提を弔うに然るべきことで御座れば――」
と申し述べて、
「されば――目的はすっかり果たし申したれば――我はこれより廻国行脚旅に出づればこそ、永の、おさらば――」
と言い残して、何処ともなく立ち去って行った、ということである。――
ほどなく妻二人はそれぞれの菩提寺を頼って出家、墨染めの衣の尼の身となって、懇ろに亡き夫の菩提を弔うことと相成る。分別ある親族の中には、
「余りに思い込み過ぎようというものではあるまいか? まずは、その船渡し難破の儀につき、仔細を尋ねんがための飛脚を飛ばしてみるというのは如何なもので御座ろうか?」
なんどと、あれこれ相談していた、その矢先、二人の夫が滞りなく伊勢参詣を済ませて帰って来た。
二人の鳶の女房は初々しい尼となっていて――それぞれの夫はぴんぴんして血色もいい――夫婦それぞれがそれぞれを互いに見て大いに驚き、
「……一体、これはどういうこと!?」
と夫婦それぞれがそれぞれに問い質す――さればいずれもが始めよりの事の次第を語り出すうち、
「馬鹿げた悪戯をしたばっかりに、あの野郎に謀られたたぁ、情けねえ!」
と後悔すれども、最早致し方なし。
――「勿論、この二人の尼は即座に還俗してね、近頃じゃ、三、四寸も髪が伸びた、と言っておった。」
と、当時、その元尼夫婦の近所に住んでおった者が、私の許に来て、笑いながら話していったのであった。