無知も甚だしいエッセイ池内紀「作家の生きかた」への義憤が芥川龍之介の真理を導くというパラドクス
昨日、両親の敬老に藤沢の中華料理を昼食に予約した。バスの徒然にと手にとったのは、妻の文庫本で、池内紀「作家の生きかた」(2007年3月集英社文庫)。出掛けに本棚に見つけて、ぱらぱらめくって見たら「妬み 芥川龍之介」という一章、「澄江堂遺珠」を引用したのが目に入ったので持って出た。
大型連休で藤沢~渡内線はひどく混んでいる。…………
…………「徒然に」読む積りが、ものの十数分後にはそこを読み終わって見て、まずは激しい憤りを発したのである。
――池内紀よ! とんでもない間違いだ!
――片山廣子の夫は医者なんかじゃない! 日本銀行理事だ!
――10000歩譲ってあんたの間違いに目をつぶっても、その後の「いとしい」廣子「は、夜ごと、この馬づら」の夫と「とともに寝て」、なんかいないのだ!
――何故かって? あんたの言う通り、「大正十三年(一九二四)七月、芥川龍之介は軽井沢へ出かけ、ひと月あまり滞在した」が、「そのとき」「知り合った」片山廣子(やぶちゃん補注:厳密にはこの時が全くの「初めて」ではない。芥川は大学生の時に彼女の歌集「翡翠」の書評をものしており、その礼の遣り取りを示す手紙も残っている。この事実は芥川研究家の間でも問題にされないことが多いから、池内氏に文句言わぬ。しかしこの問題にされないという事実は実は問題であると僕は思っている。)は、「夫ともども家族で避暑に来て」なんかいないんだ! 片山貞次郎は大正9(1920)年3月にとっくに死んどるんだよ!
――そんな初歩的な愚劣なミス(やぶちゃん補注:彼は文庫本のあとがきで、この本にとりあげた二十人は、わが偏愛の作家たちである」と断言している。僕も芥川を偏愛しているが、こんな間違いをして平然と芥川についての著作をものしている輩と同列に「偏愛している」などとは死んでも思いたくない。)をしたことに気づかずに(やぶちゃん補注:これは2004年に雑誌に連載され、単行本化され、文庫本化されている。その間、芥川研究者でも編集者でも池内ファンで同時に芥川ファンの読者でも誰でも何で教えてやれないのだろう? それがこの国の文芸なるもののレベルなのか?)池内は「澄江堂遺珠」を自分勝手に読み進めるのである!
――ところが、である。
――ところが、こうなると噴飯どころかパラレル・ワールドの芥川龍之介論を読んでいるような気になってギャグに、いやいや、逆に面白いのである!
――いや、皮肉じゃない……皮肉の積りでいたが……それが、真面目に近いのだ……
――「澄江堂遺珠」の歌群の芥川が焦がれる恋人は……
――誰でもない……
――「月光の女」なのだ……
――佐藤春夫が途方に暮れた乱れた文字や抹消に次ぐ抹消の意味は……
……その女の映像が眼前の廣子であり、そうではなくあの花子であり、そうではなく、あの豊子であり、そうではなく、しげ子であり、そうではなく千代であって弥生であるように……(やぶちゃん補注:以上の名は、実際に芥川が愛した女性の名である。但し、勿論、これっぽちでは、ない。)
――芥川の意識の中で目くるめく変化(へんげ)を起していたからではなかったのか……
……恐らく勿論、実際の断ち切るべき対象は片山廣子であった。しかし、その断腸の断絶のために、彼は過去の総ての「煩悩即菩提」の無数の恋慕対象であった女性を悉く想起させた。それこそがあの……
――あの、芥川の言うところの謎の「月光の女」の正体……
――ではなかったのか…………
…………なんどと独りごちているうちに、バスはやっと藤沢の賑やかな駅前に辿り着いていた……言っとくがね、池内さん、僕はあんたの名声に妬みを感じている、わけじゃ、ないゼ……
* * *
【2010年10月3日追記】
この「馬づら」の医者をつきとめた。以下に示すのは私の電子テクスト「やぶちゃん版編年体芥川龍之介歌集 附やぶちゃん注」の追加注である。
腹立たし身と語れる醫者の笑顏(ゑがほ)は。
馬じもの嘶(いば)ひわらへる醫者の齒ぐきは。
[やぶちゃん注:「馬じもの」の「じもの」は接尾語で名詞に付いて「~のようなもの」という意を表す。「あたかも馬のように」の意。この人物は恐らく岩波版旧全集書簡番号一三六二の大正14(1915)年8月29日附塚本八洲(妻文の弟。結核で長い闘病生活を送った)宛書簡に登場する後者の歯科医であろう。以下にその軽井沢からの書簡の一部を示す。
目下同宿中の醫學博士が一人ゐますが、この人も胸を惡くしてゐたさうです。勿論いまはぴんぴんしてゐます。この人、この間「馬をさへながむる雪のあしたかな」と云ふ芭蕉の句碑を見て(この句碑は輕井澤の宿(シユク)のはづれに立つてゐます)「馬をさへ」とは「馬を抑へることですか?」と言つてゐました。氣樂ですね。しかし中々品の好い紳士です。それからここに別荘を持つてゐる人に赤坂邊の齒醫者がゐます。この人も惡人ではありませんが、精力過剰らしい顏をした、ブルドツクに近い豪傑です。これが大の輕井澤通(ツウ)で、頻りに僕に秋までゐて月を見て行けと勧誘します。その揚句に曰、「どうでせう、芥川さん、山の月は陰氣で海の月は陽氣ぢやないでせうか?」僕曰、「さあ、陰氣な山の月は陰氣で陽氣な山の月は陽氣でせう。」齒醫者曰「海もさうですか?」僕曰「さう思ひますがね。」かう言ふ話ばかりしてゐれば長生をすること受合ひです。この人の堂々たる體格はその賜物かも知れません。僕はこの間この人に「あなたは煙草をやめて何をしても到底肥られる體ぢやありませんな。まあ精々お吸ひなさい」とつまらん煽動を受けました。
「惡人ではありませんが」と断っているが、如何にも生理的に不快な相手であることが髣髴としてくる音信で、本歌の「腹立たし」「馬じもの嘶ひわらへる醫者の齒ぐき」が美事にダブって来るように思われるのである。]