「こゝろ」 上 三十四 冒頭の謎
私は其夜十時過に先生の家を辭した。二三日うちに歸國する筈になつてゐたので、座を立つ前に私は一寸暇乞の言葉を述べた。
『又當分御目にかゝれませんから』
『九月には出て入らつしやるんでせうね』
私はもう卒業したのだから、必ず九月に出て來る必要もなかつた。然し暑い盛りの八月を東京迄來て送らうとも考へてゐなかつた。私には位置を求めるための貴重な時間といふものがなかつた。
『まあ九月頃になるでせう』
『ぢや隨分御機嫌よう。私達も此夏はことによると何處かへ行くかも知れないのよ。隨分暑さうだから。行つたら又繪端書でも送つて上げませう』
『何ちらの見當です。若し入らつしやるとすれば』
先生は此問答をにや/\笑つて聞いてゐた。
『何まだ行くとも行かないとも極めてゐやしないんです』
*
今日の今まで、気づかなかった――
これは極めて意味深長な会話ではないか!
「先生」は叔母の病気の看病が落ち着いて家に戻った靜と旅に出たのではなかったか?
そうして――そうして、そこで「先生」は自死を決行したのではなかったか?
その楽しい旅の中の、不意の蒸発=失踪こそ、正に「頓死」したかのような、「氣が狂つたと思はれ」るようなシチュエーションを導きは、せぬか?
いや、何より「必ず九月に出て來る必要もなかつた」九月に、彼は正にやってくる――しかし、先生も靜も、実は、そこには、居ないのではなかったか?
僕はもう大分以前から、真剣に――「こゝろ」の「中 十九」以下の続きの詳細なシークエンスを描いてみたい悪魔的誘惑にかられているのである――