「コレ」ハ――『こゝろ』ノ引用――デハ「ない」
――「私は淋しい人間です。……私は淋しい人間ですが、ことによると貴方も淋しい人間ぢやないですか、私は淋しくつても年を取つてゐるから、動かずにゐられるが、若いあなたは左右は行かないのでせう。動ける丈動きたいのでせう。動いて何かに打つかりたいのでせう。……あなたは私に會つても恐らくまだ淋しい氣が何處かでしてゐるでせう。私にはあなたの爲に其淋しさを根本から引き拔いて上げる丈の力がないんだから。貴方は外の方を向いて今に手を廣げなければならなくなります。……」――
――私の胸の内には數年前から時々此昔の先生の謎めいた言葉が閃めくやうになりました。初めそれは何の關係もなく偶然外から襲つて來るのでした。私は驚ろきました。私はぞつとしました。然ししばらくしてゐる中に、私の心は其物凄い閃めきの影に應ずるやうになりました。しまひには外から來ないでも、自分の胸の底にとうに生れた時から潛んでゐるものゝ如くに思はれ出して來たのです。――
――さうして私はまた何うかすると、もう一度あゝいふ若き日の己れの姿に立ち歸つて生きて見たいといふ心持も起るのです。記憶して下さい、あなたの知つてゐる私は塵に汚れた後の私です。きたなくなつた年數の多いものを先輩と呼ぶならば、私はたしかに貴方より先輩でせう。――
――私に私自身の暗い情調の譯が能く解らないやうに、あなたにも私がいふ憂鬱の完成なるものの意味が明らかに吞み込めないかも知れませんが、もし左右だとすると、それは時勢の推移から來る人間の相違だから仕方がありません。或は箇人の有つて生れた性格の相違と云つた方が確かも知れません。――
……何うも君の顏には見覺がありませんね。人違ぢやないですか……
……丁度好い、遣つて吳れ……
……隱さず云つて頂戴!……
……結婚は何時ですか――何か御祝ひを上げたいが、私は金がないから上げる事が出來ません……
……記憶して下さい。私は斯んな風にして生きて來たのです……