耳嚢 小野次郎右衛門遠流の事 附御免にて被召歸事
「耳嚢」に「小野次郎右衛門遠流の事 附御免にて被召歸事」を収載した。
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小野次郎右衛門遠流の事 附御免にて被召歸事
世に烏滸(をこ)の者ありて兩國の處に看板を出し、劍術無雙の者なり、誰にても眞劍を以て立向ひ可申、縱令(たとひ)切殺さるゝとも不厭(いとはざる)由を記。都鄙(とひ)の見物夥し。右の者を切得ずして彼が木刀にて仕付られし者は門弟と成て、專ら評判有しを次郎右衞門聞及て、斯るゑせ者を天下の御膝下に置ん事言甲斐なし迚(とて)、門弟を引連見物に行、棧敷にて右ゑせ者のなせる業を見て門弟一同微笑しけるを、彼者聞て大に怒り、何條(なんでう)笑ひ給ふや、既に看板を出し誰にてもあれ眞劍を以試合可致上(いたすべきうへ)は、笑ひ給ふ心あらば是非立合申されよとのゝしりければ、傍輩の者申は、あの棧敷なるは、將軍家の御師範次郎右衞門也と押留けれ共、聊不相用。縱令御師範たり共と申止らざれば、次郎右衞門も右の通嘲られては武備の恥辱、無據(よんどころなく)下へおりて、然る上は立合可遣(つかはすべし)とて鐵扇を以(もつて)被立向(たちむかはるる)時、ゑせ者は淸眼にかまへ唯一討と切付し故、あはやと思ふ内ゑせものが眉間(みけん)は鐵扇を以被打碎、二言となく相果けると也。此趣大猷院樣御聞に入、師範たる行状にあらずとて、遠流被仰付けるとかや。其後、嶋にて畑(はた)ものゝ瓜西瓜を盜喰ふ曲者ありて、右を捕んと嶋中の者集りけれ共、大勢に手を負せ、瓜小屋に籠り右小屋廻りには西瓜瓜の皮を並べ、捕手の者込入る時は、右瓜の皮上に上り身體自由ならざるを以、多人數死傷に及びける故、次郎右衞門方へ嶋の者共罷越、何分捕へ給候樣相歎ければ、次郎右衞門麁忽(そこつ)にも輕々敷(しく)脇差追取(おつとり)駈行しを、瓜の皮にて足場不宜(よろしからざる)由傍より申けれど、耳にも不懸駈行、果して瓜の皮に上り仰向に倒ければ、待設けたる曲者拜み打に打懸しを、小野派にて神妙となせる太刀の通ひ、辷りながら拔拂ひ上へ拂ひけるに、曲者の兩腕ははたと落ちける故、直(ぢき)に付入召捕りけるとかや。此趣江戸表へ入御聽(おききにいり)、被召歸、即時に元の禄を被下けると也。扨も次郎右衞門被召出ける時、大猷院樣思召にも、彼は遠流(をんる)にて暫く劍術の修行可怠、上(うへ)には日々夜々御修行の儀故、次郎右衞門と御立合御覧有べき思召にて、毛氈を敷、木刀を組合せ、いざ次郎右衛門可立合との上意也。次郎右衞門は謹て毛氈の端に手を付居たりけるを、上には唯一打と御振上げ御聲を懸られける時、毛氈の端を取、跡へ引ける故、上には後ろへ御ころび被遊ける。仍て、大猷院樣御信仰、一刀流御修行被爲在(あらせられ)けると也。
□やぶちゃん注
・「小野次郎右衛門」前項「小野次郎右衛門出世の事」本文及び注参照されたいが、この記事は、少なくとも遠島以降の話は事実に反する。
・「見物に行、棧敷にて」という描写から、これは道場ではなく、露天の見世物風のものででもあったか。道場を構えていたならば、もう少しそのような描写がなされようという気がする。私は一貫してそのようなシークエンスとして訳してみた。
・「武備」底本には右に「(武家カ)」の注を記す。
・「淸眼」底本には「淸」の右に「正」の注を記す。
・「大猷院樣」:三大将軍徳川家光(慶長9(1604)年~慶安4(1651)年)の諡(おく)り名。
・「瓜小屋」:瓜畑の農機具を置き、収穫した瓜を保存する小屋であろう。余りに小さいとシーンとして生きてこない。瓜の皮を敷き並べられる程に、内部に瓜や西瓜を保管出来るスペースの小屋と考えるべきであろう。
・「脇差追取」この「追取」は「押つ取り」で「押つ取り刀」=「おっとり刀」の意であろう。危急の際、刀を腰に差さずに手で持って行くことを言う。
・「西瓜瓜」底本には右に「(ママ)」の注を記す。「瓜西瓜」の衍字。
・「小野派」狭義には、小野忠明の子の小野忠常が継承した系統の一刀流剣術の一派を言う。一般的には小野派一刀流と呼称されるが、忠明自身、小野派一刀流なる呼称を用いておらず、後に小野派一刀流又はその傍系と目される流派群の開祖も忠明の師である伊東一刀斎である。
・「大猷院樣思召にも、彼は遠流にて暫く劍術の修行可怠、上には日々夜々御修行の儀故、次郎右衞門と御立合御覧有べき思召にて」は、「大猷院樣思し召しにも、『彼は遠流にて暫く劍術の修行怠るべし、上には日々夜々御修行の儀故、次郎右衞門と御立合御覧有べき。』てふ思し召しにて」の意で、心内語には自敬表現が多用されている。訳では自敬部分は廃した。また、この心内語の前後に「思召にも……思召にて」と重複するのは、口碑伝承に特徴的なものではあるが、逆に「家光の思いの中には……といった思いようがあったようで」という婉曲表現の現われともとれる。私はそのように訳してみた。
■やぶちゃん現代語訳
小野次郎右衛門遠流の事 附御赦免にて召し帰された事
世間にはとんでもない虚(うつ)け者があるものである。両国辺りで、
――剣術無双の者これに在り。誰なりと真剣にて立ち合ひ申し、たとえ我斬り殺されんとも厭わず――
と記した看板を掲げて他流試合をしていた。江戸はもとより近隣の田舎からも毎日夥しい数の見物人がやってくる。飛び入りで立ち合いをし、この男を斬り得ず、逆に男の持った木刀で打ちのめされた者はその門弟となる、その数もみるみる増えておると、専らの評判となっておった。
さて、将軍家剣術指南役小野次郎右衛門がその噂を聞くに及び、
「かかる似非(えせ)者を天下の御膝元にのさばらせておくこと、言い様もなく忌々(ゆゆ)しきことじゃ。」
と、門弟を引き連れて見物に行き、見物人の多さに設えられた桟敷から、この似非者のなす駄技を見て、門弟一同せせら笑いを浮かべておったところ、かの虚けがそれを聞き知ってひどく憤り、
「なにを以って笑うか! あの通り看板を出(いだ)し、誰(たれ)にてもあれ真剣を以って試合致さんと言うておる上は、お笑いになる心あらば、是非、我と立ち合いせられい!」
と大声を挙げて騒いだ。ところが、周囲にいた彼の門弟の一人が、桟敷を見て、慌てて申し上げる。
「先生、あの桟敷にいるのは、将軍家の御師範、次郎右衛門でげす。」
と押し留めたが、全く以って言うことをきかない。
「たとえ御師範であろうが!」
と、「勝負! 勝負!」の一点張り、罵詈雑言も飛び出(いだ)いて止む気配もない。次郎右衛門も流石に、
「かくの如く嘲られては武門の恥――」
致し方なしとて、桟敷を下りて、
「かくなる上は立ち合い仕ろう――」
と、懐より出いた鉄扇を手に立ち向かうその時、虚けは正眼に構え、ただ一振りにばっと斬りつけた故、会衆、皆、あわや! と思うたその瞬間、既に虚けの眉間は小野が先に突き出いた鉄扇にて美事打ち砕かれており、虚けは、うっ、と言うたままに二言もなく、生き絶えておったということである。
この出来事が大猷院家光様のお耳に入り、
「師範たる者の行いにもあらず。」
とのご勘気を被って遠島仰せ付けられたということであった。
さて、その後(のち)、次郎右衛門が流された島での出来事である。
ある時、畑に植えていた瓜や西瓜を盗む曲者がおって、右の者を捕らえんと島中の百姓どもが集ったが、曲者は大勢の者に手傷を負わせた上、瓜小屋に立て籠もって、更に小屋の周囲には生の西瓜や瓜の皮を多量に並べた。捕り手の者が押し込まんとする時は、この敷き並べた皮で足が滑り、ずるずるぬらぬらとして、体が思うように動かせない中、曲者に襲われて、またしても多数の死傷者が出るというていたらく故に、次郎右衛門方に百姓どもがやって来て、
「何とか曲者をお捕え下さいませ。」
とひどく困窮致し嘆きおるので、次郎右衛門は、己が軽はずみな行いからここに流されたことも忘れ、軽率にも気軽に脇差をひっ摑んでおっとり刀で百姓どもを尻目に真っ先に駆けて行く、百姓の一人が、
「瓜の皮で足場が悪うございますよ!」
の由、お側に駆け寄って言ったものの、次郎右衛門は何を言うやら気にもかけず、逸散に瓜小屋まで駆け行く、と、いや、果たして瓜の皮に滑って仰向けに倒れたところ、小屋内で待ちに待ってしびれをきらしておった曲者は、文字通り、待ってましたとばかり、大上段に振りかぶって余裕の一太刀を振り下ろす――と、ところが、現在も小野派一刀流にあって「神妙」と名付ける伝説的な太刀筋の通り、滑りながら手にした脇差を抜き払うたかと見るや、同時に上へと払う――と、曲者の両腕は、はたりと落ちた――故に、じきに曲者はめし捕えられた、ということであった。
今度は、この出来事が江戸表へ伝わり、再び大猷院様のお耳に入るや、即座に御赦免にてお召し帰しになられ、次郎右衛門帰るや即刻、元のままの禄を下賜された、とかいうことである。
さても、その次郎右衛門が帰参後、初めて大猷院様の御前に召され、まかり出でた折のこと、大猷院様は、
『彼は遠流となり、久しく剣術の修行を怠っておったに違いない。我に於いては日夜修行に励んでおった故に、一つ次郎右衛門と立ち合い、目に物を見せてやるに若くはなし。』
とお思いにでもなられたのであろう、お庭先に毛氈を敷き、その中央には二本の木太刀を組み合わせて配し、
「いざ、次郎右衛門、我に立ち合うべし!」
との御沙汰を下された。
次郎右衛門は登城すると、そのお庭先の毛氈の敷物の、その端に手をついて、毛氈の外に座っていた――のだが、すっと現れた上様は、木刀をお取りになると、ものも言わず、ずずいと次郎右衛門方へと近寄り、ただ一打ちにせんと木刀を振り上げ、気合一声!――その瞬間、次郎右衛門は敷物の端を手に取ると、ぐいと後ろへ引いた――上様は美事、ずでんと後ろへお転び遊ばされたのじゃった――。
これより、大猷院様はいよいよ小野次郎右衛門を尊崇され、一刀流御修行に専心されるようになられた、とのことである。