耳嚢 觀世新九部修行自然の事
「耳嚢」に「觀世新九部修行自然の事」を収載した。
*
觀世新九部修行自然の事
近き頃名人と稱し、公(おほやけ)より紫調(むらさきのらべ)賜はりし新九郎事、權九郎といひし頃、日々鼓を出精(しゆつせい)しけれ共未心に落ざる折から、年久敷召仕ひし老姥(ろうぼ)朝々茶持來りて權九郎へ給仕しけるが、或時申けるは、主人の鼓も甚上達の由申ければ、樺九郎もおかしき事に思ひて、女の事常に鼓は聞けど手馴し事にも非ず、我職分の上達をしる譯を尋笑ければ、老女答て、我亂舞の樣知るべきやうなし。しかし親(したしく)新九郎鼓を數年聞けるに、朝々煎(せんじ)ける茶釜ヘ音(ね)毎(つね)に響き聞へ侍る。是迄權九郎鼓は其事なく、此四五日は鼓の音毎に茶釜へひゞきける故、扨こそ上達を知り侍ると答へけると也。年久敷耳なれば自然と微妙に善惡も分る物と、權九郎も感けると也。
□やぶちゃん注
・「觀世新九部」底本で鈴木氏は、観世流小鼓方六世新九郎『豊重。新九郎豊勝(鉄叟宗治)の第四子。十四歳から観世の頭取をした名人。』とする。岩波版で長谷川氏はそれを引用しながらも『ただし豊重と決める根拠を知らぬ』と記す。私はこの豊重であったと考えてよいと思う。勿論、100年前を「近き頃」とは言うかと言われれば、それまでであるが、ウィキの「観世流」の「大鼓方」(注意! 「小鼓方」の項ではない)に天和3(1683)年に『宝生流を好んだ徳川綱吉に小鼓方観世流六世・新九郎豊重が宝生大夫相手の道成寺を断り、追放される事件が起こった。翌年、宝生座付として復帰したが、その際、姓も宝生と改めさせられた』という記載があり、この気骨ある人物こそ、本話に相応しいと考えるからである。また、次の注も参照されたい。
・「自然」仏教、特に禅宗で言うところの、他の力に依拠せず、自身と宇宙が直結した生成・流転・消滅の根本原理に自ずから従うこと。
・「紫調賜はりし」「調」は鼓の両面の革と胴とを固定するための麻紐のこと。鼓を打つときに、締めたり緩めたりして調子を整える。今の人間国宝のように、名人の明かしとして、禁色である紫色の調を特に将軍家から賜ったということである。ズバリ、新九郎豊重のそれが法政大学能楽研究所観世新九郎家文庫所に現存する。そしてそこには『これは観世新九郎豊重が1678年[延宝6年]の江戸城の催しに際して許されたもの』というキャプションがついているのである。
・「姥」は、付き添って世話をする女。
・「亂舞」は、能の一節を謡い舞うことを言う。転じて、謡曲能楽の意。
■やぶちゃん現代語訳
観世新九郎修行上達を自ずから知る老女の事
近き頃まで名人と称えられ、将軍家より紫の調べを賜った小鼓方観世六世新九郎が、未だ権九郎と名乗っておった若き頃のこと、日々鼓の修練に精進怠らずあったけれども、いっかな、未だに己れの満足出来る音色を打ち出すことが出来ずにいた、そんな折りのことであった。
観世の家には長年召し使っている老女がおり、毎朝欠かさず煎茶を入れては権九郎に給仕しておったのだが、その老女が、ある朝のこと、権九郎に茶を捧げながら、
「ご主人様の鼓も大層上達なさいました。」
と、しみじみ申し上げる。――権九郎は内心、下賤の老婆の笑止な、と思いつつも、すこし妙に感じた。老女は長年当家に奉公し、確かに日頃鼓の音(ね)は聞き慣れてはおるが、自ら小鼓を手に取ること等、ない。如何なれば、私の小鼓の上達を知ったというのか?――そこで権九郎は軽く笑いながら、その訳を訊ねてみた。
「さても、何故に?」
老女答えて、
「勿論、私めには能楽の良し悪しなど、分かろうはずは御座いません――されど、私めはお父上新九郎様のお鼓の音(ね)を数年の間親しゅう聞いておりましたが――毎朝毎朝、煎じておる茶釜へ、そのお鼓の音が、一打ちごとに美しゅう響いて聞こえまして御座いました――されど、これまで権九郎様のお鼓の音は――悲しいかな、そのようなことが御座いませなんだ――ところが、この四、五日内は、お父様のお鼓の如く、美しゅう茶釜に響きまする――さればこそ、上達なされましたこと、お釜の響きに聴き知ったので御座いまする――」
と答えたのであった。
下賤の者なれども、年久しく鼓を聞いてきた耳なれば、自然、その音(ね)の微妙な違いに良し悪しを聞き分けることが出来るようになるもの、と権九郎も感じ入ったということである。

